「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
熱狂の渦に包まれたEQT(アース・クェイク・トーナメント)の開催会場、東京ドーム。世界各国から集った若き才能たちがしのぎを削るこの舞台で、今、一際異彩を放つ対峙が実現しようとしていた。
白から赤、そして黄色へと燃え上がるグラデーションが施されたワンピースタイプのリングコスチュームを身に纏い、潔く切り揃えられたシャギーショートのブロンドの毛先を揺らし、リング上に立つのは、英国代表選手の筆頭「ローラ・ザ・チャージ」である。英国マットの若き女王と称される彼女は、その華奢な体躯からは想像もつかないパワーを秘め、冷徹なまでの実力主義を基準とした覇気を全身から発散させている。対するは、日本のオトギプロレスリング所属、安倍川ぼたん――リングネーム「赤ずきん」だ。入場時に羽織っていた赤いフード付きマントを脱ぎ捨て、漆黒のレオタードボトムに深紅のファーをあしらった編み上げのコルセットという、愛らしくもセクシーな衣装を露わにする。無造作に跳ねた柔らかな栗色の髪を揺らす彼女は、そばかすの浮いた頬を緩め、どこか場違いなほどにおっとりとした笑みを浮かべていた。
「さてさて……今日の狼さんは、とっても獰猛そう♪」
赤ずきんは観客席に向かって手を振り、童話にちなんだロールプレイに基づいたお決まりの台詞を口にする。しかし、その内面には、かつてないほどの緊張が走っていた。対峙するローラは今大会の優勝候補。予選ブロックにおいては5名の選手をまとめてサバイバルマッチ一回で片付けたという理外の存在だ。今も彼女の瞳には、明確な蔑みと、格下を早々に掃除しようとする冷酷な意志が宿っているように見える。予選で彼女とあたった者たちほどではないが、自分もあまり運の良い方ではないのではないか、とか。あるいは予選で運を使い果たしたのかな、とか。現実逃避のようにくだらない思索が脳裏をよぎる。
ドームの各所に設置されたスピーカーが、盛り上がる観客たちに届けと、割れんばかりの実況を吐き出す。
『EQT本戦、ここから一回戦の後半に入ります! 第五試合の対戦カードは、予選Iブロックを4勝1引き分けの勝ち点9で一位突破した日本代表選手の「赤ずきん」と、異例のサバイバルマッチの求めをEQT運営本部に認めさせ、5人の選手をまとめて蹂躙した英国の若き女王「ローラ・ザ・チャージ」の一戦です! 果たしてオトギの国のレッドキャップは女王をトーナメントから引きずり降ろせるのか!?』
実況アナの興奮した声がドームの空気を震わせる。
『解説には世界公認男子チャンピオンベルト保持者である太平プロの代表、松平林吾さんをお呼びしております。さて、松平さん。この対戦カード、どうご覧になりますか?』
実況アナに水を向けられたのは、日本マット界のベテラン名レスラーであり、太平プロレスの社長でもある松平林吾だ。
『どーもヨロシク、松平林吾です』
軽妙な挨拶とは裏腹に、その双眸は冷徹にリングを見据えている。
『さて、赤ずきんクンは団体「オトギプロレスリング」の若手エース格、苛烈な攻めとタフネスを併せ持つ良い選手だが……さすがに相手が悪すぎるな。ローラ君ははっきり言って人外の領域に踏み込んでいる存在だ。強引にサバイバルマッチにしてしまった予選での各個撃破の戦術眼と圧倒的実力。「合理の暴力」とでも言うべきかな』
松平の冷静な、しかし確信に満ちた分析が、両者を応援する観客の熱を補強し、あるいは削いでいく。
『たしかにあの僅か158センチの小柄さで2メートル近い巨漢、トルコのデミル選手を軽々持ち上げて、デスバレーボム一発で仕留めるあの超パワーは同じ種族のものとは思えませんね。鬼や天狗、河童のように、彼女もなにか英国の超存在の血を引いているのかもしれません』
実況もまた、その「暴力」の具体例を思い返すように声を上ずらせた。
『……ウム、同じ世代でなくて良かった』
『松平さん……?』
ぽろっと小声で漏らした松平のきわめて後ろ向きな感想の片鱗に、実況アナは耳を疑って二度見した。
『ン? 何か言ったかな? それよりもうゴングの時間だがいいのかね?』
『松平さん!?』
まるで何事もなかったかのようにとぼける松平と、困惑する実況アナ。
そのちぐはぐなやり取りと、ドームを包む熱狂の渦を真っ断ち切るように――試合開始のゴングが、甲高く鳴り響いた。
――カーン!!
その瞬間、観客の多くが息を呑んだ。赤ずきんが「狼さん」への挨拶代わりに仕掛けるよりも早く、ローラが弾丸のような踏み込みを見せたからだ。
「ジャップ相手じゃ、挨拶の時間も無駄でしょう!」
一気に間合いを詰めて、鋭い叫びと共に放たれたのは、容赦のないフロントハイキックだった。重厚なリングシューズの底が、赤ずきんの整った顔面を真っ向から捉える。鼻腔を突く革の匂いと、脳を揺らす衝撃。赤ずきんの身体は木の葉のように舞い、背中からマットへ叩きつけられた。
「……ぅ……あ……っ!?」
開幕の一撃で、赤ずきんの「おっとりとした童話の主人公」というロールプレイは、文字通り粉砕された。鼻を赤くし、生理的な涙を浮かべながら、彼女は朦朧とする意識の中で必死にマットに手を突いて身を起こし、四つん這いになる。
「予選の連中よりはマシそうだけど、貴女も大したことは無さそうね……。可哀想だし、とっとと片付けてあげるわ」
すぐに起き上がって反撃に来れない赤ずきんを見下ろして、冷たく言い放ったローラは、漸く立ち上がろうとする赤ずきんの首筋を掴み、強引に引き起こす。間髪入れずに叩き込まれたのは、重いエルボー・バットだ。骨に響くような硬い衝撃が首筋に走り、赤ずきんの視界が白く点滅する。イギリスで培われた伝統的なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術と、それを支える圧倒的な筋力差。ローラはまさに、可愛い赤ずきんを食い殺そうとする本物の肉食獣そのものだった。
「ぐ……ぅ……っ。赤ずきんちゃんには、ちょっと強すぎる狼さん……かも……っ」
涙目になりながらも、ぼたんは声を絞り出す。しかし、その声は震え、余裕は完全に消失していた。
ローラの追撃が迫る。ぐらつくぼたんに掴みかかるローラの懐へ、ぼたんは半ば自暴自棄に、しかし本能的に飛び込んだ。
「こ、このぉ……ッ!」
放ったのは、技術も何もない、ただのヘッドバットだった。石頭には自信のあるぼたんの額がローラの額をガツンと叩く。鈍い音が響き、ローラの顔がわずかに上を向いた。
「……痛いじゃない。いいわね」
ローラの声に、わずかに喜びの色が混じる。絶対強者としてのプライドか、彼女は怯むどころか不敵に笑い、そのオーラにより攻撃的な鋭さを深めた。距離を取って仕切り直そうとするぼたんの動きを許さず、その頭部を捕まえて、ローラは力任せに脇に抱え込む。逃げ場はない。彼女はそのまま自身の身体を後方へ投げ出し、ぼたんの脳天を垂直にマットへ突き刺した。完璧な角度のDDT。首を刈り取るような衝撃がぼたんを襲い、彼女の体躯が不自然にバウンドする。
追い打ちをかけるように、ローラはぼたんを引き起こし、絡みついてその身体を捻じ曲げ、アブドミナルストレッチ――コブラツイストの体勢へ持ち込んだ。
「ヘイヘェイ! 簡単にギブアップしないでよ!?」
脇腹を引き裂くような激痛。
「あ、が……っ、あああぁぁぁ!」
ローラの細い腕は、まるで鋼鉄の鎖のようにぼたんの肉体に食い込んでいく。その顔は苦悶に歪み、もはや「赤ずきん」としての余裕などどこにもなかった。
(……痛い、苦しい……もう、無理……)
折れそうな心の中で、ふと、所属団体の社長兼レスラーであるエディ・ダンテスの顔が浮かんだ。
──本戦一回戦の試合前、赤ずきんの控室で耳に飛び込んできたのは信じがたい伝言だった。
「無理だと思ったら諦めてもいいぞ……だとさ」
オトギプロレスリングに所属するベテラン悪役レスラー、キャプテン・フックは控室に置かれたパイプ椅子にどっかと腰かけて、赤ずきんを眺めやる。
「えっ?」
耳を疑った赤ずきんは思わず聞き返した。いつもなら「死ぬまでやれ」「最後の最後まで諦めるな」「全力を尽くさなければ成長はできない」とか言うはずのエディが諦めてもいいぞとはどういうことなのか。隣でジト目を向けているマネージャーの視線を感じてか、フックは何とも言えない表情を浮かべて頭を掻きながら、説明のために言葉を重ねる。
「まぁ、何だ。いつもお前さん一人に若手のエースだのなんだの無理をさせてる自覚はあるってこったろ」
困り顔で言うフックにすかさずマネージャーが追撃する。
「全くですよ。他にメンツが居ないからとか、若手の有望株だからとか、なんだかんだ理由をつけてエディさんだのダングラールさんだの、超人みたいなベテラン相手の格差試合ばっか組んで! フックさんがもっとしっかりしてくれれば、うちのぼたんにこんな負担かけなくてもいいのに!」
いつもの事と言えばいつもの事なのだが、腰に手をあてて怒るマネージャーは完全にぼたんの親目線である。
「待て待て! うへ、藪蛇かよ。……まぁ、今はその話はおいといてくれや」
フックは両手を──生身の左手と義手の右手を完全に同期させて胸の前で推し出すように掌を広げてマネージャーの口撃を遮る。
「ともかくだ。EQTなんて言う世界大会の大一番、本選突破しただけでも大健闘だ。こっから先はお前さんの好きにしていいっつーことだな」
言ってフックは義手の右手で机の上の缶コーヒーを取って一気に煽った。空いた缶を無造作に握りつぶす乾いた音が、静かな控室にやけに大きく響く。握りつぶされたのがスチール缶だと気づいたマネージャーがドン引きして一歩下がった。
オトギプロからEQTに挑んだ若手はキャリア3年強の赤ずきんと1年そこそこのアサルの2名だ。そのどちらもが運と巡り合わせに恵まれ予選を突破に成功したのは事実。ならば団体のメンツは十分として後は自由に判断して構わないと言うのは分からない話ではない。しかし。
「私の……自由に」
うまく説明できないモヤモヤを胸の奥に感じてぼたんはうつむいて考え込んでしまう。
「ぼたんちゃん、一回戦の相手は優勝候補らしいし、本当に気負う必要はないからね。世界を感じるっていうか……経験は糧になるんだから」
マネージャーの手が、ぼたんの肩に触れる。その指先の熱が、まるで「敗者の慰め」のように感じられる。優しいマネージャーの微笑みが苛立たしく感じるなんてことは初めての経験だった。
(苛立たしい? 私は今苛立っているの?)
ぼたんはそこで初めて自分のの中で渦巻いているモヤモヤの本質が「怒り」である事に気が付いた。
ギリリとぼたんは歯を食いしばった。
(ムカつく……! 私、今はあっさり諦めたくないな……!)
腕の中で苦しむだけだったぼたんの纏う気配が変わったのに気付いてローラの眉がびくりと動く。赤ずきんの唯一自由な右手がローラの腕を掴んで握り締め、引きはがそうと力を込める。全身が抵抗し、ローラの怪力相手に抗いを強め始める。
(あの、鬼社長との格差試合に比べたら……っ!)
理不尽なまでの実力差。挑戦試合という名の蹂躙。何度も何度もマットに沈められ、それでも期待を捨てず声援を送ってくれるファンのみんな。優しいマネージャーの温かさ。赤ずきんの瞳に、泥臭い執念の火が宿った。彼女は絡みつくローラごと歩く覚悟で、苦痛に耐えながらじりじりとマットの上を進む。
「へぇ……?」
面白がるようなローラの声が耳に入り、赤ずきんの中のモヤモヤが一気に紅蓮の炎へと変わった。偉そうに何様のつもりなのか。限界まで引き絞られた身体を必死に動かし、爪が剥がれんばかりの勢いでトップロープに指をかけた。
「……ロープ……っ!」
レフェリーのブレイクが入り、ローラはヒュウと口笛を吹いて技を解く。その瞳には驚きと期待が混じっていた。今の一撃と絞め技で、並のレスラーなら心が折れていてもおかしくないはずだ。
「ハァ……ハァ……っ! まだ……まだです……!」
赤ずきんはロープを背に、脇腹をぺちぺち叩いて痛みの残滓を振り払いながらローラを睨む。息は荒く、普段の愛らしさは影を潜めていたが、代わりに野生的な闘志が表に引きずり出されていた。予選でエミリと噛みつき合戦に応じ、サミュエルの凶器を奪って哄笑と共に滅多打ちにしてファン達から「赤ずきん=レッドキャップ」と愛のある揶揄をされているのは伊達ではない。赤ずきんは密かにかなりの負けず嫌いであったのだ。
「そろそろ行くわよ!」
チャージの名の通り、突っ込んでくるローラ。赤ずきんはその勢いを利用し、掴みかかる腕を捌きながら、自身の膝を突き出した。キッチンシンクの膝蹴りがローラの「おなか」に鋭く突き刺さる。
「……ガハッ!?」
初めてローラが苦悶の声を上げた。赤ずきんはチャンスを逃さない。物語の狼が腹を裂かれたように、彼女もまた徹底してお腹への攻撃を信条としているが、それはオトギプロレスリングで顕著なショー的なギミックというだけではない。ボディへの攻撃はじわじわと確実な成果を積み上げる、そのある意味地道な歩みが彼女の性に合っているからでもあるのだ。
「おなかドスドスだぁぁぁ!!」
ローラの頭を両手で抱え込むようにして捕らえると、赤ずきんはムエタイのチャランボのごとく、左右に振り回してローラの重心を揺さぶりながら膝を二度三度とボディに叩き込んでいく。
「ぐっ……!? おごっ……!?」
嗚咽するようなローラの苦悶の声に観客席の英国女王のファン達が驚愕の声を上げ、赤ずきんを応援していたファン達が絶叫を上げて腕を振り上げた!
実況アナの絶叫が、どよめきに揺れるドームをさらに煽り立てる。
『おおっと、予選で結城蓮に泡を吹かせてKOしたローラ・ザ・チャージのアブドミラル・ストレッチをロープ・ブレイクで脱した赤ずきん、ここで逆襲のキッチンシンクからの膝地獄だぁ! ムエタイのような動きで膝を連続で叩き込んでいきます! これは効いている、効いているぞ!』
画面には、至近距離で絡み合い、逃げ場を塞いで膝を突き入れる赤ずきんの執念と、それを受け止めきれず微かに体躯を震わせるローラの姿が映し出されていた。
『松平さん! 英国の若き女王が完全に捕まっていますね!?』
松平は、モニターに映る赤ずきんの「揺るがない瞳」を見据え、その技量を分析する。
『……驚いたな。赤ずきんクンはがむしゃらに反撃しているわけではない。重心を乱して反撃や脱出の初動を潰し、確かに技術でローラ君のスタミナを奪いつつ芯に残るダメージを蓄積しようとしているんだ』
場内に巻き起こる地鳴りのような「日本コール」と、信じがたいものを見たローラファンたちのどよめきが入り混じる。
『観客席のボルテージも最高潮! このまま、このまま女王の牙城を崩せるか、赤ずきん!?』
ひとしきり膝蹴りを乱打した結果、ローラの呼吸が乱れて荒い息をつき始めたのを感じ、赤ずきんは、彼女の身体を、力強く抱え上げた。
「むぅぅぅぅ……こ、根性ぉ……っ!」
エディ他との格差試合で実戦形式で培ってきた、格上の重圧を跳ね返すための全身のバネ。
「せいやぁぁぁっ!」
渾身の力で、逆さに抱え上げたローラの身体をマットめがけてまっすぐにその頭から叩き落していく。垂直落下式ブレーンバスターの大きな衝撃音が会場に響き渡った。優勝候補への大技が決まった事に観客たちは息を呑む。しかし、赤ずきんはまだ止まらない。大技だろうが必殺技だろうが、強きものは一発では沈まないと身に染みて分かっているのだ。状況が許すならば徹底的に追撃をかけるべき、そう彼女は確信していた。
「……っ、ハァ、ハァ……! これでもか! これでもかぁ……っ!」
ダウンしたローラに対し、赤ずきんはなりふり構わずその腹部へとストンピングを連打していく。軽い踏みつけではない、一発一発に体重をしっかり乗せた蹴り込みだ。ドスッ、ドスッ、と、肉を焼くような重い音が連続してドームに響き、一撃ごとに、ローラから「ウッ」と苦悶が漏れ、その端正な顔が痙攣するように歪んだ。優雅な女王を泥沼に引きずり込むような、執拗な腹責めの猛攻。狂乱するレッドキャップが暴れ回るようなモンスターじみたラッシュを前に観客席からは、いつしか大きな声援が沸き起こり始めていた。
その頃、会場の喧騒から隔絶された赤ずきん用の選手控室では、キャプテン・フックとマネージャーがモニターを凝視していた。
「……うまく行ったと見るべきか?」
「いや……ちょっと薬が効き過ぎたんじゃないですか?」
顎に手をやって首を捻るフックにマネージャーが不安げに声をかける。モニターに映る赤ずきんはいつもと違って勝機への執念じみた感情の発露が感じられる。
「社長が言うには、実力はあるのに三郎太やら御子柴やらに勝ちきれないのは絶対に勝ってやるという感情の芯がないからだ、と。だからいっぺん優しくしまくって煽ってみよう──だとさ」
「まぁ、何か手を打たないとローラに蹂躙されて終わってしまいそうって言うのは私も分かりますけど……」
そう、試合前の控室のフックとマネージャーの態度は敢えての芝居だったのだ。騙すような真似をした罪悪感にマネージャーの表情は優れない。
「ぶっちゃければ、多分これでもダメだろ」
「フックさん!?」
突き放すようなフックの言葉にマネジャーが食ってかかる。しかし、フックは動じない。
「実力差があり過ぎんだよ。俺の目が腐ってなけりゃ、あの英国女王サマとやら相手じゃ全盛期の松平の旦那やダングラールでも星を取られるぞ。うちの社長でも初戦は勝てるだろうが、何度もやったらそのうち負けるかもしれん程に強いと見た。あの若さとキャリアじゃ異常なことだがな」
ちと悲観的に見すぎかもしれんがな、と補足しつつもフックは言い切る。ただ、一方でフックは彼女を哀れにも思っていた。
(モモタロウが暴れ回っていた時期なら同格以上の相手がゴロゴロ居たろうに、出てくるのが遅かったな……。強さがあっても競える相手が居ねえのはさぞつまらんだろうよ)
逆さに腰かけたパイプ椅子の背もたれに寄りかかりながらフックはモニターを見つめていた。
「ちなみにフック船長が闘ったら?」
「屈辱の限りを味合わせて置いて、俺が反則負けかな」
しれっと尋ねたマネージャーに平然と答えるフック。
「サイテーですね?」
「ギャハハ! あんま褒めんなよォ!」
どこまでも悪役らしく振舞って憚らないフックに、マネージャーは苦笑交じりに溜息をついた。
リング上では、赤ずきんの執拗な攻撃に、ついにローラの表情から余裕が完全に消え失せていた。
「……フフフ……いいわ、とてもいい……ッ!」
激しいストンピングの余韻が残るマットの上、転がって逃れたローラの瞳に明確な敵意と、それとは裏腹な歓喜の色が灯る。「敵」と認定された赤ずきんは、荒い息を吐きながらも、勝機を見出そうと前に出る。その刹那、ローラの身体が弾かれたように動いた。
突っ込んできた赤ずきんに対し、起き上がりざま、ローラは逆に体勢を低く沈めてマットを蹴る。まるで対空砲火と謳われるの迎撃の体勢ではなく、自ら地を這うようなタックルをぶつけ合うようなカウンター。衝突から組み合った瞬間、赤ずきんが反応するよりも早く、ローラはその華奢な腕で赤ずきんの胴を抱え上げた。
「今度は此方の番よ!」
重力に逆らい、赤ずきんの身体が宙に浮く。次の瞬間、背中からマットへ叩きつけられる強烈なパワースラムが炸裂した。
「ぐっ……!」
肺の中の空気が強制的に排出され、赤ずきんの視界が揺れる。だが、ローラは手を休めない。バウンドする赤ずきんの身体を逃がさず、完璧なクラッチで再び担ぎ上げにかかる。 観客席からどよめきが起きる。小柄なローラが、豊満な肉体を持つ赤ずきんを軽々と頭上高く振り上げたのだ。
「ハァーン♪ いくわよ、これでマットに沈みなさい!」
頂点で一瞬の静止、そして急降下。本気の威力で叩きつけるローラのパワーボムが、リングを揺るがした。
ドォォォン!
凄まじい衝撃音が会場を突き抜ける。赤ずきんの両肩と後頭部がマットにめり込む。肺が潰れ、心臓が一度止まったかのような錯覚。背中から脳天へ突き抜ける衝撃に、全身の神経が悲鳴を上げた。レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー!」
(あ、くそ……もう動けな……)
薄れゆく意識の底で、赤ずきん――安倍川ぼたんの脳裏に、走馬灯のようにエディとのやりとりが浮かぶ。
『なんだ、もう終わりか?』
記憶の中の彼女は、いつも理不尽で、圧倒的で……そして英雄的だった。彼女との試合はいかに瞬殺されないか、どれだけ立ち上がれるかをファンのみんなは見てくれていた。KOされることすら日常茶飯事だ。それに比べれば、今の痛みはまだ「意識がある」だけマシではないか?
「ふ、ふふ……あはっ!」
反射的に、本当に身体が勝手に反応して、赤ずきんは肩を上げた。
スリーカウントが入る直前、奇跡のキックアウト。会場が爆発したような歓声に包まれる。もはや「赤ずきん」としてのロールプレイは完全に剥がれ落ちて、そこにいるのは、ただ勝利に執着する一人のレスラー、安倍川ぼたんであるはずなのに、満身創痍で血の混じった唾を吐き捨てながら立ち上がり、いまだ口を三日月のようにして笑うその姿はどうしようもなく「赤ずきん(レッドキャップ)」だった。
ローラは目を見開いた。今のパワーボムは完璧だったはずだ。並の相手なら二度と起き上がれないほどの一撃を食らってなお、目の前の少女は笑ってフォールを返し、ファイティングポーズを取ろうとしている。ローラの唇が歪み、獰猛な笑みを形作る。
「オゥ……! グレートぉ……♡」
恍惚とした表情で、彼女は歓喜する。
(全力で……試合ができるのか? 本当に?)
ローラが吠え、トドメを刺すべく……いや、全力をぶつけ合うべく猛然とダッシュする。その迫力は先ほどまでとは段違いだ。対する赤ずきんも、朦朧としながらも笑みを浮かべて迎え撃つ。 両者が激突する。ローラの勢いが勝るかに見えたが、赤ずきんはその突進力を利用した。エディという壁に挑み続け、投げられ続けたことで身につけた「受け」と「切り返し」の感覚。
「んんんっ! よいしょおっ!」
接触の瞬間、赤ずきんはローラの重心の下に潜り込み、垂直に引き抜いた。エディの放つそれを想起させる、渾身の力を込めたフロント・スープレックス。 美しい弧を描いて、ローラの身体がマットに叩きつけられる。だが、赤ずきんはフォールにはいかない。いや、いけない。今ここで手を離せば、すぐに体勢を立て直したローラに反撃されるという本能的な恐怖…いや、確信があった。
「はぁっ、はぁっ、捕まえたぁっ!」
投げた勢いを殺さず、赤ずきんはそのまま倒れ込んだローラの上にのしかかり、自身の左腕を彼女の首に回して頭部を固定する。そのままローラの左肘を折り曲げさせ、その手先を彼女自身の首の後ろへ回すと、待ち構えていた自身の左手でがっちりと掴み取った。右手を添えてクラッチを完成させ、テコの原理を効かせてアナコンダ・バイスでローラの肘関節を引き絞る。
――至近距離で、視線が混ざり合う。のしかかるぼたんの横顔は、苦悶に歪むローラの顔のすぐ目の前にあった。肺を押し潰すような重圧。肘を割らんばかりの激痛。グラウンドの攻防へ持ち込み、全体重をかけて締め上げる赤ずきん。彼女の戦術である「お腹へのダメージ」の蓄積により、呼吸が苦しくなっているローラのスタミナをさらに削り取る狙いだ。
「ギブっ!? ギブアップしてくださいっ!」
鬼気迫る笑顔で絞め上げる赤ずきんはその腕に渾身の力を込める。だが、相手は英国の若き女王だ。
「ガッ……なめん、じゃないわよッ!」
ローラは腕を極められながらも、強引に赤ずきんの顔面をわしづかみにして引き離し、上体を起こす。だが頭蓋に響くアイアンクローの握力を浴びながらも赤ずきんは肘関節を責め続けていた。
「なめてません……ッ! 舐めてるのは徹頭徹尾そっちです!」
顔面を掴まれた指の間から見開かれた赤ずきんの瞳が覗く。ローラはその返しに内心で納得してしまった。成程、たしかにそうだ。ジャップと罵り、格下と侮り、反撃の予兆を面白がった自分は確かに彼女を舐めていた。だが、その舐めていた相手は今こうして全力で食らいついてきている。
食らいついてきてくれている。
ローラはどこか陶然とした色を笑みに混ぜながら熱い吐息をついた。
「気に入ったわ」
ローラはすさまじいパワーで、技を掛けたままの赤ずきんごと自らの身体を持ち上げ、立ち上がる。痛くないのかと慄きながらも赤ずきんはその極めた肘関節を離さない。だが……。
「離れろォ……ッ!」
振りほどく動作そのものが凶器だった。ローラは力任せに赤ずきんを引き剥がすと、遠心力を乗せた右腕をラリアットでその首元へ叩き込んだ。首を刈り取られるような衝撃に、赤ずきんの身体が吹き飛ばされる。空中に舞い上がり、無様にマットを転がる。だが、それでもなお、赤ずきんの目は死んでいなかった。吹き飛ばされた方向にはロープがある。
(まだっ、まだ動けるっ!)
足りない一歩分の距離をマットを蹴って届かせ、背中にロープの感触。その反動を殺さず、逆に利用して、赤ずきんは弾丸のように飛び出した。
「これでぇぇぇっ!」
捨て身のスピアー。狙うは一点、執拗に攻撃し続けたローラのみぞおちだ。しかし、赤ずきんの体当たりが届く直前、ローラはわずかに身をずらして直撃を避けた。肩口が脇腹を抉った。浅い。ダメージはあるが、決定打ではない。 衝撃に体勢を崩しながらもローラは、勢いの止まらない赤ずきんの背後を取る。
「終わりよ、赤ずきん!」
ローラは赤ずきんの名をはっきりと口にした。だが、その宣告は、刑執行の合図だった。ローラの腕が赤ずきんの胴をクラッチする。
一発目、ジャーマン・スープレックスで後方へ投げ捨てる。受身を取る赤ずきんが起き上がる隙を与えず、クラッチしたまま引き起こして、すぐさま二発目のドラゴン・スープレックスが放たれる。
「ワンッ! ツーッ!」
観客のコールが重なる。そして三発目のタイガー・スープレックス。ブリッジの美しさと破壊力を兼ね備えた、3連続の投げで構成されるローラの必殺技「トリコロール・スープレックス」が完璧な形で決まった。
三発目はホールドとして機能する。赤ずきんの身体は完全にマットに固定され、肩がついている。動けない。意識はあるが、身体が言うことを聞かない。天井の照明が滲んで見える。僅かに漏れるうめき声に、赤ずきんが必殺技を受けてなお意識を飛ばしていないと気付いたローラの顔が歓喜に満ちる。
レフェリーの手が叩かれる。
「ワン! ツー! ……スリー!」
ゴングの音が、熱狂する会場に響き渡った。赤ずきんは動けず、返す事は叶わなかった。ローラの歓喜は静かに絶望へと変わっていく。
「勝者、ローラ・ザ・チャージ!!」
レフェリーに手を挙げられたローラは、荒い息を整えながら、足元に倒れ伏す赤ずきんを見下ろした。その視線には、試合開始時の侮蔑の色はなく、敵手を屠った満足感と、わずかながらの敬意。そして、もっと戦っていたかったという寂寥が含まれていた。
『スリー! スリーカウント! 決まったぁぁ!! 三連続のスープレックス、必殺のトリコロールが赤ずきんをマットに沈めました!』
実況アナの絶叫が、耳を劈くような歓声と拍手に溶けていく。勝者が名乗りを上げているというのに、ドームを支配しているのは女王への称賛だけではない。全力を出させた赤ずきんへの、畏敬の念を含んだ熱狂だ。
『ウム……。赤ずきんクンも頑張ったが……王者の壁はあまりに高かったな。徹底的に腹責めを受けてなお、三連続のスープレックスの体幹に乱れがないのは恐れ入るとしか言いようがない』
腕組みして溜息をもらす松平に実況が頷く。
『しかし、赤ずきんも怒涛の猛攻撃で確かに一時試合の主導権を握りました! オトギプロの恐ろしさを見せつけたと言っていいでしょう! 観客席からは惜しみない称賛の拍手が送られています!』
赤ずきんは天井を見上げたまま、悔しさに唇を噛み締める。狼退治は失敗に終わった。相手は森の狼ではなく、終焉の魔狼に等しい存在だった。その瞳から本気の悔しさが生む涙が零れる。だが、その涙の奥に、確かな次を見据える強い光が宿り始めていた。
会場の興奮は冷めやらず、この激闘がEQTの熱をさらに一段階引き上げたことを証明していた。