「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
「これが貴女の次の試合カード、次回興行のセミファイナルです。出てもらえるかな?」
太平プロレスの事務所内。社長令嬢であり、自身もレスラーとして活動する松平美樹が、一枚の書類をデスクに置いた。対面に座るのは、アッシュブロンドのショートボブが鮮やかな米国人レスラー、シロオニ・ベスである。グレイッシュブルーの瞳を細め、彼女はその紙面を覗き込んだ。
「ふむ、格下に見えますけど……まぁ、いいでしょう。太平プロの宿舎に部屋を用意してもらって、上兄様――アカオニ・トムに連絡して私の滞在中の日本の学校への留学手続きまでしてもらったのだし、少しは義理を果たすべきでしょう。お受けします」
ベスの言葉遣いは丁寧だが、その奥には隠しきれない自信が漲っている。兄たちを倒したという「ザ・モモタロウ」を追って来日した彼女にとって、日本のプロレス界は未だ開拓すべきフロンティアであり、同時に通過点に過ぎない。
傍らで腰をさすりながら座っていた社長、松平林吾が重々しく頷いた。
「そうしてくれたまえ。好き勝手させすぎていると周囲に見られると我々としてもやりにくくなる」
「……ところでセミファイナルと仰いましたね? 私を前座に置いて試合をするのは、一体どなたです?」
ベスの問いに、美樹は少し言い淀むような間を置いてから答えた。
「……その日のメインイベントは、三郎太クンの紅子ちゃん……じゃなかった、ガータ御子柴へのリベンジマッチの予定よ」
その名前が出た瞬間、ベスの涼やかな顔立ちに動揺が走った。宮川三郎太。かつて来日早々の自分を破り、そして先日のタッグ戦では自分をKOした男。その時の、自分の必殺技を完璧に模倣して見せた彼の精緻さと習熟、底知れぬ無慈悲な表情。それを思い出すだけで、彼女の胸の奥は説明のつかない熱を帯びる。
「三郎太さんの……! ……フフン、結構です。そういうことなら文句はありません。私が……ッ、いえ、私を二度も仕留めた男ですから」
言い直したベスの頬が、心なしか赤らんでいる。彼女は逃げるように立ち上がり、一礼して部屋を後にした。去り際の横顔には、動揺を隠しきれない微かな熱が残っていた。その背中を見送りながら、林吾がはらはらと涙を流し始めた。
「……なぁ、美樹。あれもしかして……」
「おとーさん、もしかしなくてもベスさん、三郎太クンに本気になり始めてると思うわ……」
「三郎太クン、不憫な……」
「意外……。てっきりおとーさん、羨ましいとか妬ましいとか言うのかと……」
「おとーさんをどう思っているのかなッ!? 美樹はっ!?」
親子のコミカルなやり取りが続く事務所の廊下を、ベスは凛とした足取りで歩く。だが、その内心は荒れていた。彼を「旦那様候補」に定めたのはベスだ。しかし、それはあくまで自分を退ける実力と、その気構えを備えていたからこそ候補としただけのはずだった。なのに、今のこの鼓動の速さは何だ。先のタッグマッチで彼の技の前に斃れ、意識を刈り取られた瞬間の、あの甘美なまでの恐怖と高揚。それを思い出すだけで、クールな彼女の澄ました表情が崩れそうになる。
「……落ち着きなさい、ベス。格下などとっとと片付けてみせねば、彼に再戦を挑めない」
自らに言い聞かせ、彼女は試合の日を待った。
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試合当日。会場は熱気に包まれていた。 実況のボルテージは最高潮に達している。
『さあ、続いてセミファイナルが始まろうとしています! リング上には米国からの刺客、麗しき白鬼シロオニ・ベス! まさに戦う姫君といった佇まいです!』
対角線のコーナーには、対照的な男が立っていた。肩まである黒髪を後ろで束ね、筋肉の張りはあるものの、その上をだらしない脂肪の層が覆う中年レスラー。
『そして対するは……この男が動けばリングの空気が酒場に変わる! 太平プロレスの生ける酒蔵、バッカス木桜です! 解説は、先の第2試合でライジング雫選手の締め技にあっさりギブアップしたグレート・イカサマさんにおいでいただいています!』
実況アナウンサーが声を張り上げ、隣のゲスト解説者へ水を向ける。
『辛辣な紹介有難う。貴方の心の優しい嘘、グレート・イカサマです。よろしく』
イカサマは自身の整えられた髭を指先でなぞり、不遜な笑みを浮かべてモニターに視線を移した。解説席の冷ややかなやり取りをよそに、リング上のバッカスは、あろうことか試合直前だというのに懐からスキットルを取り出した。
「くぅーっ! やっぱこれがないと始まらねえぜ」
喉を鳴らして酒を煽るその姿に、観客からは「酒臭いぞ!」「仕事中だろーっ!」と罵声が飛ぶ。特に、ベスの美しさに惹かれて来場した女性ファンからは「ベス様に触らないでよ!」と悲鳴に近い拒絶が上がっていた。
『バッカス木桜はゴング前だというのに――案の定、まだ酒を呷っております! イカサマさん、この試合カードはやはり太平プロ上層部的にはそういうつもりと言う事ですかね?』
アナウンサーは顔をしかめ、放送席にまで漂ってくるアルコールの臭いを追い払うように手元の原稿を扇いだ。
『それだけではないだろうが……まぁ、そう言う意図はあるのだろうね。最近ファンになった方には分からないやりとりだろうが……試合が始まれば分かる事だな』
イカサマは興味なさげに背もたれに深く寄りかかった。ベスは実況席の掛け合いなど聞き流し、蔑むような視線をバッカスに向け、呟く。
「……お酒を飲んでリングに上がるなど、プロとしての自覚が足りないのでは?」
その静かな宣戦布告と共に、試合開始のゴングが鳴り響いた。バッカスは嫌味など一顧だにせず、酒の勢いに任せるように、その巨体を揺らして突っ込む。
「オラオラどーしたあーっ!」
ショルダータックル。だらしない腹の肉とは裏腹に、その突進には長年のキャリアで培われた芯のある重みが乗っている。誰もが、細身のベスが吹き飛ばされると予想した。
だが、現実は違った。
「……重い、けど重いだけね」
ベスは一歩も引かず、その突進を正面から受け止めていた。細い腕がバッカスの太い胴体をがっちりと固める。観客から驚愕のどよめきが上がった。女子レスラーの範疇を遥かに超えた、文字通りの怪力。ベスはそのまま、100キロ近いバッカスの体を軽々と宙に持ち上げた。美しい弧を描いてバッカスの巨体がエクスプロイダーでマットに叩きつけられ、凄まじい衝撃音が会場に響き渡る。ベスは、とるに足らないとでも言うかのように勝ち誇った目で倒れたバッカスを見下ろした。瞳には、まだ三郎太への想いによる困惑の色が残っているものの、純粋な戦力としての「鬼」の片鱗が見え隠れしている。
「へへ……流石は三郎太を追い回してるだけはある。パワーだけは一級品だなぁ。だがよぉ、お嬢ちゃん。プロレスってのは力だけじゃねえんだよ」
バッカスは立ち上がるやいなや、突如として奇妙な動きを始めた。
「観客の皆さんも期待してるだろうしなぁ、試合開始早々だがいくぜ必殺バッカスシェイク! ダンシンダンシン♪」
激しく腰を振り、手足をバタつかせる。それはおよそ格闘技とは呼べない、酔っ払いの醜態にしか見えなかった。だが、その瞬間、異変が起きた。バッカスの全身から吹き出す汗が、激しい動きによって一気に気化し、リング上に白い霧となって立ち込めたのだ。それは熱気ではない。皮膚から噴き出したアルコールそのものが照明に照らされ、虹色の粒子となってベスを包み込んだ。
「……っ!? なにを……」
不審に思うベスだったが、呼吸と共にその霧を取り込んだ瞬間――鼻を突く強烈なアルコール臭。そして、急激に視界が歪み始めた。息を吸うたび、肺の奥まで安酒の刺激が侵入し、脳の髄を直接麻痺させていく。
「頭がフワフワする……!? ヒック!?」
生まれてこの方、一度も酒を口にしたことのない清純な女学生レスラーの体に、リング全体を満たす“酒霧”が襲いかかる。皮膚から、肺から、濃厚なアルコール成分が彼女の血流へと流れ込み、全身の感覚を支配していく。ベスは自らの頬を叩こうとしたが、その手さえ思うように動かない。足元はまるで雲の上を歩いているかのように覚束ず、世界がぐるぐると回り始めた。
「……っ、ふ、ふざけないで……っ!」
ベスは朦朧とする意識を叱咤し、おぼつかない足取りでロープへと走った。いつもの彼女なら、その強靭な脚力でマットを蹴り、弾丸のような速度で相手を射抜くはずだ。しかし、今の彼女の平衡感覚は無残に崩壊している。放たれたドロップキックは踏み込みが甘く、空中で姿勢を崩した。バッカスはその腹の出た体をひらりと翻し、攻撃を難なく回避する。
「あらら、おっとっとだぁ」
自爆する形で無様にマットへ落下したベスの背中に、間髪入れずバッカスの巨体が降ってきた。
「そーら、おっさんのボディを堪能しなっ!」
ドスンという重苦しい衝撃と共に、バッカスのジャンピングボディプレスが炸裂する。だらしない脂肪の層に隠された、長年のキャリアと確かな筋肉に裏打ちされた芯のある重みが、ベスの肺から空気を力ずくで押し出した。
「がはっ……!? ぁ……」
押し潰された苦痛と、鼻腔を突く濃厚な酒と汗の臭いに、ベスの頭はさらに混濁していく。這うようにして立ち上がろうとするが、視界が二重、三重に重なって見える。
「く、食らえぇ!!」
酔いを振り切ろうと渾身のラリアットを放つ。しかし軸足が滑り、狙いは大きく外れた。体は虚空を切り、勢い余ってコーナーの鉄柱へと激突する。
「なんだか……気持ちいい……。くっ、私何を言ってるの!?」
自らの口から漏れた、艶を帯びた声にベス自身が戦慄した。だが、脳内に分泌されるエンドルフィンとアルコールの相乗効果が、彼女の冷静な思考を奪い去っていく。会場からは、あまりに無様なベスの姿に困惑と嘲笑の声が漏れ始めた。彼女の強さと美しさに憧れて詰めかけた女性ファンたちは、悲鳴を上げてその光景を直視できずにいる。
実況席でも、驚愕と困惑が入り混じっていた。
『ああーっと自爆! シロオニ・ベス、自分を制御できていない! 完全に足元が覚束ない状態だ! 一体彼女の身に何が起きているというのか!?』
『……うむ、あの「バッカスシェイク」……あれはただのダンスではない』
解説のイカサマが、道化たフェイスペイントの奥の目を光らせる。
『激しく振られた彼のだらしなボディから、汗を介して微細なアルコールの霧がリング上に撒き散らされる。言わばリング全体が巨大な酒瓶の中も同然ということだな。しかもこの技が女性相手に披露されるのは実に久々だから皆も知らないだろうが……実は密かに媚薬成分が含まれている!!』
『ちょっ……!? 待ってください! そんなの放送コードが許しませんよ!?』
実況アナウンサーは、身を乗り出して隣のイカサマを二度見した。ヘッドセットを片手で押さえ、顔を真っ赤にしてマイクに食らいつく。
『安心したまえ、媚薬成分は嘘だ。あれはただの酒だよ』
イカサマのあまりに平然とした前言撤回に、実況席には一瞬、放送事故のような沈黙が流れた。
『騙された!? 洒落にならない嘘はおやめください、イカサマさん!? しかし、飲酒ではないとはいえアルコール成分による酩酊など女学生レスラー相手に許されるのでしょうか!? 試合後バッカス木桜が逮捕されないか心配であります!』
実況アナウンサーが額の汗を拭いながら、コンプライアンス上の懸念をまくし立てる。対するイカサマは、どこ吹く風といった様子で手元の資料を指先で弾いた。
『まぁ、大丈夫だろう。ベス嬢は女学生だが留年しているようで既に飲酒は法的に問題ない。アルハラの方は……彼女が問題にしなければまぁ…』
さらりと投下されたあまりに不名誉な個人情報に、実況アナウンサーの思考が一瞬フリーズし、直後、裏返った声を上げた。
『またまた、イカサマさん……。留年とかテキトーな嘘を言って後でシロオニ・ベスに怒られても知りませんよ?』
手元の資料を一枚、ひらひらと実況の目の前に突きつけるイカサマ。
『留年は嘘ではないぞ、資料に書いてある。ホレ』
実況アナは差し出された紙面をひったくるように受け取り、眼鏡の位置を直して文字を追った。
『ホントだ!? また騙された!?』
『騙してないが!?』
実況席がくだらないコントを展開する中、リング上の蹂躙は続いていた。コーナーにもたれかかり、呼吸を整えることさえままならないベスの後頭部を、バッカスが無造作に掴み取る。
「おいおい、呑んでる俺より気持ちよさそうなのはズルイだろ、そらよ!」
引きずり出されるようにして放たれたDDTが、ベスの脳天をマットへ突き刺した。衝撃でアッシュブロンドの髪が乱れ、彼女の意識は一瞬、白い光の中に消えかける。
「……ん……ぁ……」
抗うこともできず、おっさん相手に翻弄される。その事実が、ベスの高いプライドを鋭く切り刻んだ。彼女は残された理性を振り絞り、這い寄ってきたバッカスの顔面に力任せのビンタを見舞う。ひるんでマットに転がったバッカスを尻目に、よろめきながらもすぐ横のリングロープへと足をかけた。
「……ナメないで……っ!」
ロープを蹴って宙を舞い、自らの体重を預けたフライングボディアタックを敢行する。しかし、バッカスは冷静だった。落下してくるベスの腹部を狙い、両膝を突き立てる膝剣山で迎撃したのだ。
「がぁっ!?」
鋭い硬質な痛みが腹部に走り、ベスの体はくの字に折れ曲がってマットに転がった。そこへ、バッカスが覆いかぶさるようにして彼女を引き起こす。細い腰を掴むと、強引にロープへ押し付け、腕をロープに絡ませて脱出できないように固定する。まさにロープ磔の状態だ。
「おしおきが必要なようだなぁ、悪い子にはお尻ペンペンだ!」
バッカスは大きな掌を振り上げ、無防備に晒されたベスの尻へと叩きつけた。幼子を叱るかのような平手打ちが、会場中に肉厚な音を響かせる。ロープに磔にされ、逃げ場を失ったベスの体は、叩かれるたびに弓なりに反った。
「あんっ! ひんっ! こんな屈辱っ!? あぁんっ!?」
彼女の口から漏れるのは、いつもの凛とした拒絶ではなく、アルコールに中てられた者が吐露する、甘く、それでいて悲痛な嬌声だった。アッシュブロンドの髪は乱れ、頬は熟した果実のように赤らんでいる。潤んだグレイッシュブルーの瞳は、焦点を結ぶことさえ困難なほどに揺れていた。観客のブーイングと悲鳴、一部の歓声と口笛が入り乱れる。だが、その酩酊の海に沈みかけた意識の底で、ある種の「怒り」が火を噴いた。 誇り高き鬼の末裔が、よりにもよって、酒臭い中年レスラーに尻を叩かれ、観客の前で醜態を晒している。この事実が、彼女のプライドという名の導火線に火をつけたのだ。
「……ッ、ふ、ざ、け、る、なあああッ!!」
ベスは火事場の馬鹿力と呼ぶべき筋力を爆発させた。ロープに絡め取られていた腕を、力任せに引き抜く。その勢いのままバッカスの胸ぐらを掴むと、ふらつく足元を怒りの重圧で無理やり固定した。
「はぁ……はぁ……ちょ、調子に乗るなァ!!」
ベスはバッカスの巨体を、まさに「引っこ抜く」ようにして肩に担ぎ上げた。驚愕に目を見開くバッカスのおっさんボディなど、今の彼女の怒りの前では羽毛に等しい。咆哮と共に、そのままボディスラムでマットへと叩き捨てた。
ズシンッ! とリングが悲鳴を上げる。しかし、あまりにも無理な力の使い方をした代償はすぐに訪れた。投げきった直後、ベスは膝から崩れ落ち、四つん這いでマットに突っ伏す。
「はぁっ、はぁっ、……ひっ、く……」
荒い呼吸を繰り返す彼女の背中に、冷ややかな、しかしどこか諭すようなバッカスの声が飛ぶ。
「屈辱とか言ってたな。まぁ、こんなおっさんにいいようにされちゃ、それも仕方ねえ。だがよ、お嬢ちゃん――お前も誰かをいいようにしちゃいないか?」
バッカスはダメージを負いながらも、獲物を狙う猟犬のような早さで起き上がった。そして、膝をついて喘ぐベスの両脚を、その太い腕でがっちりと抱え込んだ。
「な……なにを!?」
「心当たりあんだろ? そもそも屈辱って言うがお嬢ちゃんはこの事態を前もって予想できたはずなんだぜ?」
バッカスはベスの体をひっくり返し、自らの腰を深く落としていく。逆エビ固めの体勢だ。ベスの背骨が、ギチギチと嫌な音を立てて撓んでいく。
「バッカスシェイクは三郎太のデビュー戦で、あいつを追い詰めた技だ。好き好き大好きが本当なら、あいつの経歴や試合履歴くらい調べてもおかしかねえし、そうすりゃこの技のことだって知れた。だが――今、お嬢ちゃんはこの状況にある」
「そ……れは……ッ!?」
図星を刺され、ベスの顔が苦痛以外の理由で歪んだ。来日してすぐ三郎太に阻まれた。彼を自分のものにしたいと公言した。だが、自分は彼の何を、どこまで知っていたというのか。彼の戦ってきた軌跡を、その苦悩を、彼女は「強者の傲慢」で見落としてはいなかったか。
「あいつは再戦に備えて研究と練習をきちっとやってるってのに、お嬢ちゃんはどうした? 本当はトロフィー的なナニカが欲しいだけであいつのことなんかどうでもいいから、いいように好き勝手やってるんじゃねえのか? お節介な酒臭いおぢさんにゃそんな風に見えてしょうがねえんだが?」
ベスの肩越しに見える、バッカスのだらしない笑顔。その奥に潜む、戦いの中でしか宿らない昏い眼光に、ベスは息をのむ。
「……ッ!!」
バッカスの言葉は、逆エビ固めの痛み以上にベスの心を抉った。そうだ。先のタッグマッチで、自分の技を精緻なフォームで繰り出した三郎太に胸を撃ち抜かれ、戸惑っていた矢先ではないか。彼は自分を研究していた。自分の動きを、癖を、技の軌道を、全部見ていた。では――自分は?
「逆エビ固めは三郎太のデビュー戦であいつが俺からギブを奪った技だ。お嬢ちゃんにたっぷりごちそうしてやるから、ギブアップしちまっても構わんぜ? オラァ!!」
バッカスがさらに体重をかける。ベスの腰にかかる圧力は限界に達し、指先がマットを虚しく掻く。実況席のボルテージも一気に跳ね上がった。
『ああーっと! バッカス、痛烈な精神攻撃と共に逆エビ固め! シロオニ・ベス、絶体絶命か!? 彼女のプライドは完全に粉砕されてしまうのか!』
『……厳しいな。だが、これこそがプロレスだ』
イカサマが珍しく真剣なトーンで呟く。
『ただ強いだけでは勝てない。相手を、そして自分をどれだけ知っているか。バッカスはそれを彼女に叩き込んでいる』
「……ぁ、ぁあああああッ!!」
ベスの叫びは、もはや悲鳴ではなかった。自らの甘さを突きつけられた恥じ入る心。それを上回る、「彼に相応しい好敵手でありたい」という執念。全身を流れる汗も、背骨を焼く痛みも、酩酊で揺れる視界も関係ない。ベスは抗い、藻掻き、逆エビ固めの地獄の中でなお前へ進もうとする。
「あぁぁぁぁっ!!」
ベスは全身の筋力を一点に集中させた。限界まで反らされた脚を、筋肉の咆哮と共に無理やり引き戻す。バッカスの強固なロックを、純粋な出力の差で強引に引き剥がしたのだ。驚きで体勢を崩したバッカスに対し、ベスは立ち上がるよりも早く、その顔面を鷲掴みにした。
「……正直、痛い所を突かれたわ。でもご生憎様」
アイアンクローにかかる万力のような握力がバッカスの頭蓋を締め上げる。ベスの瞳からは酩酊の濁りが消え、獲物を屠る「白鬼」の冷徹な輝きが戻っていた。
「ふぉぉぉ!? いだだだ!? なんつー握力だ……!?」
「ついこの間までの私なら指摘の通りでした。けど今は違う……これからは違うのよっ!」
ベスはアイアンクローでバッカスをコントロールしたまま、その巨体をアルゼンチンバックブリーカーの形で担ぎ上げた。そして、空中で持ち替え、相手の頭部を垂直にマットへ突き刺す変形バーニングハンマー――白鬼金棒落としを炸裂させた。
「何っ、ぐわああああ!?」
轟音と共にマットが揺れた。 ベスの必殺技、脳天から垂直に落とす「白鬼金棒落とし」の威力は絶大だった。バッカスの巨体はピクリとも動かず、大の字になってリングに沈んでいる。
「はぁ……はぁ……ッ!」
ベスは乱れた呼吸を整える暇もなく、相手の体の上に覆いかぶさった。胸の鼓動が早鐘を打っているのは、直前の激しい運動のせいか、それとも依然として体内を駆け巡るアルコールのせいか。レフェリーがマットを叩く。
「ワン! ツー!」
観客席から悲鳴のような歓声が上がる。ベスの勝利が決まる――そう誰もが確信した、その刹那。カウント2.5で、バッカスの肩が僅かに、しかし力強くマットから離れた。
「返された……!?」
ベスが驚愕に目を見開く。女学生レスラーの可憐な顔立ちが、信じられないものを見るように歪んだ。 バッカスは虚ろな目で天井を見上げながらも、ニヤリと口元を歪めた。
「あ、あぶねえ! 酔いと逆エビの腰の痛みで威力が落ちてなけりゃ、KOされるとこだ……」
ベスの一撃は確かに強烈だった。だが、酩酊による足元のふらつきと、先刻までの執拗な腰攻めが、その踏ん張りをコンマ数秒遅らせていた。さらに、バッカス自身の「肉の鎧」と、酒による痛覚の鈍麻と弛緩が衝撃を逃がし、致命的なダメージをギリギリで回避させていた。
「くっ……まだ、まだです!」
ベスは焦燥に駆られ、すぐに追撃へ移ろうと立ち上がる。だが、全力を込めた大技の直後だ。極度の疲労と酔いが、再び彼女の平衡感覚を狂わせる。よろめいたその隙を、老獪な酒豪は見逃さなかった。
「さては汗でアルコールが抜けてきてやがるな? だが、酔いが醒める前に決めてやるぜ!」
バッカスは死に体から一転、バネ仕掛けのように半身を起こすと、よろめくベスの背後へと回り込んだ。彼女の首を背後から脇に抱え込む。
「しまっ……!?」
「寝てな!」
バッカスが背中から倒れ込む勢いを利用し、リバースDDTでベスの後頭部をマットへ叩きつける。受け身の取れない角度。鈍い音が響き、ベスの意識が白く弾けた。
「うぅ……ッ」
苦悶の声を漏らして倒れるベス。その喉元へ、バッカスは容赦なく追撃を見舞った。自ら飛び上がり、全体重をかけた太い脚を落下させる。レッグドロップで喉を潰し、呼吸を封じると同時に、そのまま相手の脚を抱え込んでフォールに入る。
「汚いアル中のおっさんに負ける屈辱をサービスだ! そのまま夢の中へ行っちまいな!」
レフェリーの手が再びマットを叩く。
「ワン! ツー!」
観客の誰もが、今度こそ終わりだと思った。ベスの体からは力が抜け、その瞳は焦点を失っているように見えたからだ。だが、彼女の「鬼」としての本能は死んではいなかった。
「ツー・ポイント・ナイン!」
ベスの長い脚が、無意識のうちに伸び、ロープに触れていた。ロープブレイクで命拾いしたベスは、激しく咳き込みながらロープを掴んで体を起こす。喉の痛みと頭のふらつき。しかし、その瞳に宿る光は、先ほどまでの混乱したそれとは明らかに異なっていた。
彼女は乱れた髪をかき上げ、目の前の男を見据えた。ただの飲んだくれではない。自分の未熟さを、そして心の迷いを、あえて泥臭いやり方で暴き立てた古強者。
「……うす汚い酒臭い中年と見下したのは詫びておくわ」
ベスは静かに、しかし凛とした声で告げた。
「それと、三郎太さんを心配する良き先輩として敬意を」
「何っ!?」
バッカスが意表を突かれた顔をする。ベスの纏う空気が変わった。アルコールによる紅潮はそのままに、その立ち姿からは迷いが消え失せ、代わりに王者のごとき風格が漂い始めていた。
実況席が色めき立つ。
『カウント2.9! 2.9でロープに脚が届いたぁぁ! シロオニ・ベス、うす汚いおっさんと罵った己を恥じ、なんとバッカスに敬意を表しました! そして、超パワーで難なくバッカス木桜をアルゼンチンバックブリーカーに担ぎ上げるぅ! アルコールの影響をまったく感じさせない力強い立ち姿だ!?』
リング上では、信じがたい光景が展開されていた。ベスがバッカスの巨体を、まるで軽い荷物のように再び担ぎ上げたのだ。しかも今度は、足元のふらつきが一切ない。
『……むぅぅ、聞いた事がある!』
解説席のグレート・イカサマが、芝居がかった重々しい口調で唸った。
『なにィ、何か知っているのですか、イカサマさん!?』
身を乗り出す実況を余所に、イカサマは組んだ手で口元を隠しながら、秘密の暴露でもするかのように声を潜めた。
『酒呑童子退治の絵巻物に登場する「神便鬼毒酒」というものがある。人には薬だが鬼には毒となるその酒をもって、かつて酒呑童子は退治されたと言う』
にわかに始まった歴史解説に、実況アナウンサーは思わず固唾を呑む。
『それを反省し、鬼の末裔たちは人の血を取り込みながら代を重ねる中で、酒に酔いやすいながらもその酔いの中で真の力を覚醒する術を開発したという。……ベス嬢も目覚めたのかもしれんぞ!』
イカサマの話に、会場の空気は一気にベスへの期待感へと塗り替えられ、実況アナウンサーもまた、その「歴史的発見」に打ち震えた。
『成程、ではアレは酔いが抜けてきたのではなく、彼女の真の底力の一端だと言う事ですか!?』
実況アナウンサーが感心した声を上げる。しかし、その直後――。
『まぁ、嘘なのだがね』
放送席の熱狂が、一瞬で絶対零度まで凍りついた。
『イカサマさん!?』
実況のツッコミを置き去りにして、リング上の戦いはクライマックスを迎えていた。ベスはバッカスをアルゼンチンバックブリーカーの体勢に捕らえたまま、強烈に背骨を絞り上げる。
「ぐ、おおおおおッ!?」
バッカスのうめき声が漏れるが、ベスは攻撃の手を緩めない。頬は相変わらず酔いで赤く染まっているのに、その口元には艶然とした笑みが浮かんでいた。そして、担ぎ上げたバッカスに対し、観客にも、そして自分自身にも言い聞かせるように高らかに宣言した。
「自己紹介が遅れましたね、私はシロオニ・ベス。つい最近、三郎太さんへの恋心の芽生えに気付いた麗しい鬼の姫です!」
「な、なんだと……あががががががっ!?」
バッカスは背骨の激痛と、突拍子もない恋の告白による精神的衝撃で目を白黒させた。
迷いは吹っ切れた。彼が好きだという事実、彼に勝ちたいという欲求、そしてそのためにまず目の前の「先輩」を超えねばならないという使命感。それらすべてが、アルコールの熱と共に彼女の力となった。
「食らいなさい、バッカス木桜さん! 斃れるまで何度でも披露してあげるわ!!」
ベスは担ぎ上げた体勢から、バッカスの体を空中で回転させ、その頭部を自身の両脚の間へとセットする。今度こそ、完全無欠のフィニッシュ・ホールド――白鬼金棒落としが繰り出された。シットダウンの勢いと、彼女の全体重、そして鬼の怪力が一点に集中する。先ほどとは比べ物にならない轟音が会場を震わせた。バッカスの脳天がマットに突き刺さり、その衝撃波がリングの埃を舞い上がらせる。もはや、返す力は残されていなかった。 ベスはそのままバッカスの両脚を抱え込み、完璧なエビ固めで押さえ込む。
レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
カンカンカンカン!
試合終了のゴングが鳴り響く。会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。強烈な個性と実力を持つベテランを、真正面からの力技でねじ伏せた若き鬼姫。その姿は、太平プロレスに新たな伝説が生まれたことを予感させるに十分だった。
ベスは荒い息を吐きながら立ち上がると、大の字になったまま動かないバッカスを見下ろした。その表情は晴れやかで、汗と上気した肌がスポットライトに美しく輝いていた。