「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第22話 城塞攻略! 軍策・落魂陣!? の巻【本戦1回戦第6試合「ボーティス神宮寺VSアーデルハイト・フォン・シュタール」】

 ビッグエッグの天井照明が白く輝き、超満員の観衆が地鳴りのような歓声を放っていた。熱気はすでに最高潮。リングを囲む空気は、次に起こる激突を待ちきれない興奮で震えている。観客席の最前列、鉄柵前にしつらえられた放送席では、実況アナがマイクに身を乗り出し、唾を飛ばしながら叫んでいた。机の上にはリング上を映し出す小モニターが置かれ、解説席に座る大男がその縫い跡の走る腕で資料の束をぺらぺらとめくっている。

『EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦一回戦、続いてのマッチは第六試合! 予選Kブロックを3勝2引き分けの勝ち点8で一位突破した日本代表選手の「ボーティス神宮寺」と、威風堂々と全勝で蹂躙して本戦進出を決めたドイツ代表選手、白亜の不落城塞「アーデルハイト・フォン・シュタール」が対戦します!』

 アナウンサーの声に合わせて、観客席がどよめく。二人の名前が呼ばれるだけで、会場の注視が集まり、空気が一段階引き締まったように感じられた。

『情報戦で強豪を討ち取りつつ、弱小レスラーとは引き分けで勝ち点を分配するという底意地の悪……失礼、恐るべき知略によって予選ブロックを攪乱し、心理駆け引きの地獄絵図と化した悪魔と、無敵の防御力であらゆる抵抗を踏みつぶした傲慢なる鉄壁の貴人の激突です! 本試合の解説にはかつてECT(アース・クラッシュ・トーナメント)で優勝した事もあり、今は後進の指導に戦いの舞台を移したドクター・フランケンさんにお越し頂きました』

 解説席に座る黒ジャケット姿の巨漢――ドクター・フランケンは、椅子の背もたれにどっしりと体重を預けていた。その存在感だけで机が軋むように思える。紹介を受けて彼は資料の束を机の上に放ると、腕を組んで鼻を鳴らした。

『まぁ、会場には来ていたからな。素体にとって良いデータも取れたし、義理くらいは果たしてやろう』

『素体とはまた随分な仰りようですね。ドクターの教え子、「怪物で花嫁」の異名で大暴れした「エミリ・ディ・ヴァイスブラウド」選手は、Iブロックを突破した赤ずきん選手に敗れ、最終的に勝ち点5で敗退ということですが?』

 目先の事象しか見ておらず、長期的な視野を感じない実況アナの言葉に、ドクターは不満げに眉をひそめる。しかし、凡人には説明が必要かとため息をついて、彼は語り出した。

『アレはデビューしたてのひよっこだからな。だが、オレが選び抜いた最高の素質を持つ素体だ。今年は育成強化のためのデータ収集が目的。見ていろ、数年以内に世界最強となり、このオレがレスラーを引退してなお、育成者としても天才だと言う事を証明してやろう!』

 周囲のスタッフが「また始まった」と肩をすくめる。ドクター・フランケンは確かに外科手術や身体パーツを見る目において天才と名高い男だが、その大言壮語のあまり、いささか滑稽さが拭えないのが玉に瑕だ。

『成程、彼女の成長が楽しみですね。そこでドクター、その天才的な目をもってこの試合を分析していただけるとありがたいのですが』

 フランケンの語りをなんとか望む方向に持っていきたいと、実況アナは下手に出て誘導を試みる。

『フン。そうだな……。肉体的にはアーデルハイトの圧勝だろう。このオレの目から見てもあの強固な筋肉とそれを覆う柔らかな脂肪による複合装甲とそれを有効に機能させる技術は世界屈指のレベルの防御力と言って良い逸材だ。それを動かすための基礎パワーも十分、防御面に比べると攻撃の技量はだいぶ荒いが……そのあたりは経験と時間が解決するだろう。それに引き換え……』

『それに引き換え?』

 素直に誘導に乗ってくれたフランケンの解説に安堵しつつ、相槌を打つ実況アナに、ドクターはつまらなそうに吐き捨てて応じた。

『ボーティスの方は平凡で面白みのない肉体だな。身体能力的にはさして光るものがない。技量でそれを補ってはいるようだが、世界の頂点を争うような戦いに混じるには力不足だ』

 その瞬間、背後から甲高い声が割り込んだ。

『辛辣じゃねェか! 儂にはドクターが自分を重ねて苛立ってるように見えましてよ? ギャハハハ!』

 スラングじみた言い回しと、丁寧な物言いが入り混じる独特の口調でまくしたてる少女の声。

『そうそう……自身の肉体を改造する前のオレを見ているようで苛立たしい。……ってエミリ、てめえ!? こら、放せ!? 解説は俺の仕事で……痛てて、噛むなバカ!?』

 背後からおぶさるように白いスポーツウェアの上に黒ジャケットを羽織った少女がフランケンにしがみついていた。セミロングのブロンドが揺れ、笑顔の口元にはギザギザの歯が覗く。

『硬ェこと言うなよ! 儂は暇をもてあましているのですから』

 どたんばたんと暴れるフランケンのせいで放送席のテーブルが揺れ、実況アナが咄嗟に押さえつけて機材を守る。慌てふためいて、ざわつく放送スタッフたちを目にした観客席からも笑いが漏れた。

『成程、アーデルハイト・フォン・シュタールが圧倒優勢、ボーティス神宮寺が勝利するためには作戦や情報を生かす他ないと言う事ですね! エミリ選手が乱入してアナウンスに支障が出そうですが、ここでゴングです!』

 鳴り響く甲高いゴングの音と共に、エミリは楽しそうに奪ったマイクに向かって叫んだ。

『デュエル開始ィィィィ!』

『エミリ、てめー、いい加減にしろ!?』

 フランケンが慌ててエミリの手からマイクを奪うが、彼女は既に満足したらしくドクターの背に張り付いたままヘラヘラと屈託ない笑みを浮かべていた。実況アナはどうしたものかと後方のプロデューサーの顔色を窺うが、視聴率的に判断してエミリの存在を許容したらしいプロデューサーの満面の笑みを見て、力なく首を振って視線をリング上へ戻した。

 

 ゴングが鳴り響き、場内のざわめきが一瞬だけ静まる。強烈なスポットライトがリングを白く照らし出し、そこだけが闘いの舞台として切り取られたように浮かび上がった。リング上に立つ二人のレスラーの体格差は、男女対決にも関わらず、数値上では身長差3センチとごく僅かなものだった。

 ドイツの名門貴族の末裔、アーデルハイト・フォン・シュタール。通称ハイジは、首のラインで切り揃えられた見事な金髪を揺らして余裕の笑みを浮かべている。僅かに身長で上回る対戦相手を前に、鋭く高慢な眼差しで見下ろすかのように侮りをにじませた視線を向ける。長身にして鍛え抜かれたその豊満な肉体は、豪華な装飾に彩られた白を基調とするリングコスチュームに包まれ、まさに「白亜の不落城塞」と称されるに相応しい威圧感を放っていた。

 対するボーティス神宮寺は、金模様の入った白いショートタイツに身を包み、癖っ毛の茶髪をかき上げながら、静かに不敵な笑みを浮かべている。男子選手としては細めのその身体はしなやかな筋肉に包まれ、その軽薄そうな佇まいには余裕が感じられる。

 高貴なるハイジからすれば、怯えも緊張も見せない、どこかチャラついてすら見えるその態度は不快以外の何物でもなかった。試合開始のゴングが響いてもハイジは悠然と構えて動かない。軽く指をたてて招くような仕草を神宮寺に向けて挑発して見せる。

「下賤な島国の蛮族が相手とは、つまらぬ試合よ……ハン、さっさと片付けてやる故、かかってくるがいい」

 ハイジが吐き捨てるように言い放つ。その声はマイクを通さずとも、最前列の観客にまで届くほど凛としていた。

「そうかい。でも、そう簡単にいくものかな?」

 神宮寺は余裕たっぷりに肩をすくめると、その誘いに応えて、地を滑るように滑らかな歩法で距離を詰めた。そして、挨拶代わりと言わんばかりに、ハイジの首筋めがけて水平チョップを放ち──それをフェイントとして中断し、腰を落として低い弾道で水面蹴りを放つ。それはガードを上げれば足元を刈られるという小細工だったが、これに対してなんとハイジは水平チョップの直撃を許すとばかりに看過した。結果、フェイントは意味をなさず、どっしりと構えられた重心ゆえにハイジの白い脚を捉えた水面蹴りの乾いた打撃音が響いても、彼女の足元は微動だにしない。その上、ハイジは眉をわずかに顰める程度で痛みを感じたようには見えず、ただ、羽虫が触れたかのような、不快そうな表情を浮かべるだけだった。

「効かんな。フェイントも、蹴りも手ぬるい」

 蹴り抜けず動きが止まった神宮寺めがけて、ハイジの右腕が、鞭のようにしなった。

「そのような攻撃、この鍛え抜かれた『白亜の不落城塞』には、無駄! 無効! ……無力!」

 神宮寺の肩を掴んで力任せに引き起こし、その胸板を打ち抜くエルボー・バットが唸る。質量と速度が同居した肘打ちが二撃、三撃と重ねられ、神宮寺の体重が浮きあがるほどの衝撃だ。肩を離して四発目を振り抜いたハイジの打撃に神宮寺の身体は抗せず、敢え無く吹っ飛ばされてマットにダウンする。

「ぐっ……成程。だが、データは嘘をつかない」

 赤くなった胸板を手のひらで押さえ、神宮寺は苦悶の表情を浮かべながらも、すぐに体勢を立て直す。

「フン!」

立ち上がった彼に悠然と歩み寄ったハイジが、追撃の水平チョップを唸らせる。だが、その瞬間、神宮寺の目が鋭く光った。

「……!」

 彼は振り下ろされた腕を、まるで吸い付くような動きで捕らえた。脇固めだ。全体重を預け、ハイジの右腕を極めにかかる。しかし、それでもハイジの笑みは崩れない。

「……無知とは哀れなものよ、予選でこの私に挑み、粉砕されていった有象無象どもと同じだな!」

 彼女は脇固めで極められているはずの右腕を、筋肉の咆哮とともに力任せに振り回した。神宮寺の身体が軽々と浮き上がり、そのままロープ際近くまで投げ捨てられる。転がった反動を利用して立ち上がろうとする神宮寺のリカバリーを、ハイジは許さない。無慈悲なストンピングが神宮寺の背中を襲い、彼は再びマットにうつぶせに押しつぶされた。

「ハハハ! これでは勝負にならんな!」

 神宮寺の無様な背面に、何度も何度もストンピングによってブーツの底が食い込む。

「痛ぅっ……! フフ……、EQTの予選試合を放送した世界のTV局は5つ。その内の有料放送ふたつと地上波放送ひとつがちょうど貴女の試合を3方向から映す形になっていた」

 執拗に踏みつけられながらも不敵に笑い、そして、突然脈絡のない話を口にし始めたように見える神宮寺を、ハイジが足を止めて訝し気に見下ろす。

「? ……何を言っている? 有料放送だと? リングサイドチケットすら望めばカネとコネで容易く用意できる貴族相手に、そんな平民同士のみみっちいマウントなど、意味がないと分からないの?」

 嘲るような言葉に、しかし神宮寺は飄々となんでもないように返した。

「研究済みだということさ」

 苛立つハイジに蹴り飛ばされ、マットを転がりながらも、神宮寺はどこか愉悦を含んだ声で続ける。

「ぐっ……。予選でさんざ対戦相手を踏みにじって来た、貴女の傲慢な振る舞いも、対戦相手への敬意を欠く言動も、試合の内容も確認済みだ。……そして、事前データと実際の情報のズレについても、今のでおよそ修正が済んだよ」

「何を……!? 何をわけのわからないことを……言っている!」

 ハイジの苛立ちが頂点に達した。彼女は神宮寺の髪を掴んで無理やり引き起こし、その腰を掴んで強引に引き抜くと、そのまま空中へと放り出すようなボディスラムで叩きつけた。マットが激しく波打ち、キャンバスを叩いて神宮寺がバウンドする。

 さらに、ハイジは間髪入れずに宙を舞い、膝を突き立てるニードロップを神宮寺の腹部に落とすことで追撃とした。

「ぐはっ……! そ、想定より少し重いか」

「無礼な! 重いと言うならそれは体重のせいではない……貴族としての誇りと栄光の重さと知れ!」

 勝ち誇るハイジ。彼女の戦いは常に蹂躙だった。攻撃はすべて耐え抜き、相手をひれ伏させ、自らの絶対的な正義を証明する。そしてこの試合もそうなるに決まっているのだ。その「完璧な勝利」へのプロセスとして、彼女は神宮寺の頭を掴んで再び引き起こし、背後を奪って腰を深く落としてクラッチを組んだ。

 必殺のジャーマン・スープレックスで神宮寺の身体が美しい弧を描き、脳天からマットへ突き刺さる──はずだった。

 だが、頂点に達する直前、神宮寺がハイジの指を掴み、クラッチを崩した。完全な形を崩されたハイジは、意図せず投げっぱなしのような形で神宮寺を放り出すことになった。神宮寺は空中で身を翻し、マットを転がるようにして激突のダメージを和らげる。

「……完璧な角度で決まらないよう、ほんの少し誘導すれば……凡夫のボクでもなんとか耐えられる」

 一方的に痛めつけられながらも、不気味な余裕を見せる神宮寺の姿に観客席がざわついた。リング上の空気がわずかに揺らぐ。その変化を、放送席も見逃さない。実況アナが思わずマイクに身を乗り出した。

『い、今のは……!? ボーティス神宮寺、アーデルハイト・フォン・シュタールのジャーマンを崩して脱出しました!?』

 フランケンが鼻を鳴らす。椅子が軋むほどの巨体が前のめりになる。

『開始前にオレは言ったぞ。「防御に比べると攻撃の技量は荒い」とな。ボーティスはそこをついてアーデルハイトの癖を読み取り、ダメージを軽減し続けてるんだよ』

『軽減……ですか?』

 横からエミリが身を乗り出し、マイクに割り込むように声を上げた。

『ドクター、儂にもわかるように説明してくださいまし』

『あー……。データを集め、解析し、癖を見抜き、角度をずらす。要するにだな、あれは偶然じゃねえ。最初から「ハイジ攻略」のつもりで動いてんだ、アイツは』

 面倒そうに頭を掻きつつも、フランケンは噛み砕いて言葉にしていく。エミリがインテリジェンス系のレスラーと交戦経験がないことを思い出し、教示する必要性を認めたのだ。ついでに実況アナへの解説にもなるので一石二鳥だった。

『成程、対策済みということですか!? 先ほどの放送局のカメラ角度の話はデータ収集のためのものだったと!?』

 実況アナの声が一段高くなる。放送席のスタッフも思わず顔を見合わせた。観客たちからも感嘆の声がまばらに上がる。

『すげえ!? 相手が何やってくるか事前にわかるってことかよ!? ……でもよ、ドクター。分かってたからってガチ防御を崩せるもんなのか?』

 フランケンは腕を組み、リングを睨むように見据えた。

『……そいつは俺にもわからんが、策がない奴のツラにも見えん』

 天才を自称するフランケンをもってしても、生半可な策で崩せる戦力差には見えない。やる気もなく義理で引き受けた解説だったが、いつしか彼は興味深く試合を見守っていた。

 

 ふらつきながらも立ち上がる神宮寺の姿に、ハイジのプライドが激しく逆撫でされる。さして強くもない癖に、小細工ばかりで手間を取らせるこの男は一体何なのだ。理解できない。理解したくもない。

「どこまでも口の減らない……! 無駄と知りつつ、まだ足掻くか? 貴族の時間を奪うのは大罪と知るがいいわ! もうこれで仕留めてくれる、受けよ騎士の一撃!」

 ハイジは神宮寺をキャッチし、頭を低く押し込み、膝裏から回した左腕で神宮寺の左手を掴んで、その体を逆さに高く担ぎ上げた。変形パワーボム――「アドリゲン・ブリッツ」の始動体勢だ。シットダウンせず、のしかかるようにフォールへ移行する、まさに「蹂躙と征服」を体現した彼女の必殺技(フェイバリット)。

 轟音と共に神宮寺がマットに沈む。ハイジは勝利を確信し、その豊かな胸元から覆いかぶさるようにフォールへ入った。

「ワン! ツー! ……スッ!?」

 レフェリーが慌ててカウントを止めた。会場が沸く。カウント2.9――神宮寺の右肩が、わずかにマットから離れていた。ハイジの目が驚愕に見開かれる。

「ば、バカな……!? ワタクシの、ワタクシのアドリゲン・ブリッツの直撃を喰らって、返すだと……!?」

 神宮寺は息も絶え絶えになりながらも、その瞳には妖しい光を宿していた。荒い息をつき、口の端から覗く血の混じった唾液を腕で拭いながら、よろよろと起き上がる。ソロモン72柱の悪魔ボーティスの名を冠する男。その姿に、ハイジの背筋を冷たいものが走る。思わず後じさりし、距離を取って慎重に構えた。

 しかし、立ち上がった神宮寺はふらふらと駆け出し、まったくの小細工なしに正面から跳躍した。フライング・ボディアタック。関節技と締め技を得意とする神宮寺らしからぬ、あまりにも直線的な技。

 ハイジはその無防備な飛び込みを鼻で笑い、内心の怯えを唾棄するように正面から受け止めた。

「自分から捕まりに来るとは、正気か!? その身を以て、我が『白亜の不落城塞』の強固さを知るがいいわ!」

 腰をクラッチし、押し付けた頭頂部で顎下を圧迫する――得意技「リッター・シルト」。変形ベアハッグの締め上げ。逃げ場のない密着状態。

 

 だが、これこそが神宮寺の描いた軍策――「落魂陣」の入り口だった。

 

 密着した状態。ハイジの両腕は神宮寺を拘束するために腰に回され、塞がっている。神宮寺はそのハイジの両腕を閂に極めるように外側から巻き込み、二人の身体の間へと差し込む。

「! ……我が腕を極めるような力の入る体勢か! クッションに挟んでも時間稼ぎにしかならんぞ?」

 意図を読んでハイジが嘲笑する。だが、神宮寺の意図はハイジの読みの範疇の遥か外にあった。

「あっ……えっ……?」

 ハイジと神宮寺の身体の間に押し込まれた彼の手先が不可解な挙動を行う。プロレスの技術とは到底思えない、しかし解剖学的に過敏な箇所を、執拗に、そして按摩するように刺激し始めたのだ。

「やっ、あん!? な、なにを……!? バカな!? 我が城壁の内側に……て、手勢が……!?」

 ハイジの凛とした声が、一瞬にして苦痛以外の理由による悲鳴へと変貌した。鉄壁を誇った彼女の筋力が、一瞬にして揺らぎ始める。観客たちの声援に困惑の声が混じり始めた。

「はァ~ン♡ こ、こんなっ!? ワタクシの技に的確に……ワタクシがこの技を出すと、読んでいたとでも言うの!?」

 神宮寺は答えず、ただ侵入した手先に工作を指示する。ハイジの城壁内で暗躍する工作班が静かに、だが確実に要所を押さえていく。リッター・シルトで締め上げられてのものか、神宮寺の吐息が、ハイジの耳元を熱く撫でた。ハイジの腕からわずかずつ力が抜け、技のかかりが甘くなっていく。

 不落を誇ったドイツの高貴なる城塞が、今、まさに内側から崩されようとしていた。

「神宮寺、その……何だ。あれだ、いい加減にしないと……反則をとるぞ!?」

 リング上に困惑と怒りの混じったレフェリーの鋭い声が響く。プロレスの試合において、相手の身体に触れてはならないというルールは存在しない。しかし、マナーやスポーツマンシップ、暗黙の了解においては好ましくない状況というものもあることは確かだ。しかし、当の神宮寺は、ハイジの豊かな肉体に密着されたまま、その耳元で悪戯っぽく笑った。

「だ、そうだよ、フロイライン(お嬢さん)? どうする? 下賤に苦境を訴え、慈悲を乞うチャンスだが?」

 挑発的な言葉。通常、ハイジのような誇り高い女性であれば、これ以上ない侮辱として激昂するはずだった。だが、今の彼女は、城壁の内部を縦横無尽に駆け巡る神宮寺の手勢の着火工作に、抗いがたい火の手を各所に生じさせられてしまっていたが故に、その勢いはぎごちない。だが、それでもプライドは刺激された。悪魔(ボーティス)の企み通りに。

「……ッ!? バカにするな、この『白亜の不落城塞』がこのような詰まらぬ手で陥落するはずがないわ!」

 彼女は震える声で吠えた。それは対戦相手への宣言というよりも、自分自身の奥底から湧き上がる不安をかき消そうとする、逃避にも近い反応だった。

「レフェリーの出る幕はない! ひっこんでいなさい!」

「えっ!? ……アッハイ……」

 あまりの剣幕、あるいは彼女から漏れ出る尋常ならざる気迫に圧倒されたのか、レフェリーは困惑の表情を浮かべたまま、促されるように距離を取った。

 

 ──距離を取ってしまった。

 

 看過されてしまい、対戦相手であるハイジが認めている以上、この試合においてもうレフェリーの方から咎める事はできなくなってしまったのだ。

 

 それは神宮寺の狡猾で悪辣で邪悪極まる罠に他ならなかった。もはやハイジは完全に術中にある。 もう締め上げるどころか、なかばすがりつくような力しか入っていないハイジの変形ベアハッグ「リッター・シルト」をたやすく脱した神宮寺は動きの鈍いハイジをうつぶせに転がし、その背後から絡みつく。その長い脚を絡め、腕を深く差し込んで上体を捩じり上げた。うつぶせでのグラウンド・コブラツイストだ。

 身体とマットの間、観客やレフェリー、カメラから見えない陰で、通常のコブラツイストとは異なり、彼の手先は、ハイジが誇る肉体のもっとも外敵の目を奪う場所、そしてその最も警戒の強い部位を捉え、執拗に攻め立て始めた。

「ああっ、我が城塞の塔が……既に敵の手に落ち……ひぅッ♡」

 コブラツイストなど普段なら力づくで振りほどく女傑がたおやかな悲鳴をあげて身もだえる。そして神宮寺はそんなことお構いなしに手先に下方への移動を指示し、城壁内部に侵入させ、計算された誰にも見えない角度で、その先頭部隊をこれまで敵の侵入を許した事のない「城内」へついに突入させた。

「そんなっ、既に城内に敵が!? ……ハァッ…♡ ハァッ……♡」

 ハイジの口から漏れるのは、もはやダメージに苦しむ叫びではなかった。不落の城壁を自称した彼女のプライドが、魂が、神宮寺の手勢が描く「軍略」によって、一枚ずつ、剥がれ落とされていく。 ハイジは朦朧とする意識の中で、必死に反撃の機会を伺った。彼女の右腕が、自らを拘束する神宮寺の顔面目掛けて、力なく、しかし重い一撃を振り下ろす。エルボー・スタンプを受け、側頭部に鈍い衝撃が走るが、神宮寺はその痛みすらも計算の内と言わんばかりに、さらに深く心理攻撃で彼女を飲み込んでいく。

「ぐっ……、もう一息という所か」

 神宮寺はコブラツイストからスリーパーホールドへと技を移行する。エルボーを放つだけで息が上がっているハイジの顎を締め上げながら、彼女のうなじ、耳元にその顔を寄せた。ハイジの体温が上昇し、彼女の肌から立ち上る高貴な香りが、汗の飛沫と共に神宮寺の鼻腔をくすぐる。 彼の膝がハイジの太腿の間を押し開き、太腿が彼女の脚の付け根をロックして抵抗を押さえ込んでいく。

「いやぁぁぁぁあんっ♡ わ、我が不落の城壁が……攻略されちゃう……!? いけない、こいつは……ただの下賤な平民ではなく……まさか、軍師!?」

 何を言っているのか。ハイジの瞳はもはや焦点を結んでいなかった。自分を攻略せんと押し寄せる「筋力」にはついぞ屈しなかった彼女の身体が、神宮寺が用意した「破壊工作」と「心理攻撃」の前に、ついに白旗を上げようとしていた。

「本丸は、目前だね」

 

 観客席と同じく、放送席もまた異様な静寂に包まれていた。先ほどまで野次を飛ばし、ドクターに絡みついていたエミリでさえ、今は言葉を失って食い入るようにモニターを凝視している。

『……えーと、これは……その』

 実況アナが震える声で呟く。プロの喋り手としての本能が言葉を探すが、網膜が捉えている光景を公共の電波に乗せていい表現に変換できず、マイクはただ彼の困惑した吐息だけを拾っていた。

『……成程なぁ。防御力無視だわこりゃ。物理的な装甲をいくら厚くしたところで、内側に浸透する振動と刺激までは殺せねえ……』

 フランケンは眉をひそめ、腕を組んだまま、忌々しげに、それでいて興味を隠しきれない眼差しで神宮寺を睨みつける。世界一の按摩師の死体から自らに指を移植し、対戦相手の筋組織をズタズタにする技をレスラー時代にもっていた彼だからこその視点であり、意見と言えた。

『ドクター! 角度が! あいつ、わざとうつぶせにしてやがるから、肝心なトコが儂から見えないのですけど!?』

 エミリがごくりと唾を呑み込みながら、物理的にモニターの上下左右から覗き込み、カメラの死角に隠された「軍事工作」の細部を暴こうと必死に身をよじる。

『見えねーようにやってんだろ、つか、見んな。オメーにゃまだ早い』

 フランケンは机に肘をつき、欠伸を噛み殺しながら毒づいた。その態度は、放送事故一歩手前の空気を無理やり「教育的な指導」という体裁で塗り替えようとする、彼なりの苦肉の策でもあった。

『スラムのストリートで同じこと言えんのかよ、ドクター!?』

『しらねーよ。しっかし、よくこの衆人環視の中、数万の視線を欺いてあんな策を実行に移せるもんだ。……つか、実況くん、仕事しろ。オレたちゃ一体、何を見せられてんだ?』

 エミリの野良犬じみた経歴を雑に受け流しながら、フランケンは呆然自失としている実況アナを肘で突き、益体もないトークを繋がせることで、辛うじて放送席の体を保とうとする。

『見せて貰えてないんですが!? 後でドクター儂に実地で詳しく教えて……』

『うっせーよ、10年早いわ! ばーかーばーか!』

 知的好奇心か、あるいは単なる興味か、暴走するエミリを雑に押し退けるフランケン。その無下に扱う態度に、エミリの導火線が焼き切れた。彼女の口が大きく裂けるように開き、鋭利なギザギザの歯がライトを反射して凶悪に煌めく。

『がぶー!』

『ウギャー!? てめぇ、よりによって頭を……!』

 ドクター・フランケンの断末魔のような悲鳴がビッグエッグに響き渡り、その阿鼻叫喚の騒ぎによって、実況アナはようやく現実の世界へと引き戻されることになった。

 

 神宮寺の腕が、スリーパーからさらに深く、ハイジの肩口を巻き込むドラゴンスリーパーへと変形した。ごろりと転がり、うつぶせにすることで、ハイジは観客の視線の前に顔を上げさせられ、神宮寺の手先は見えない陰で、城壁の内柄から白亜の城塞の急所へと工作を進め、本丸を制圧せんとする。

「ふぅぅぅぅぅン……ッ♡ あ……あぁ……そ、そんな!? このワタクシがリングの上で……み、見られているのにこのような顔を……はぁ……はぁ……ッ!?」

 観衆の視線、テレビカメラ、そして何より目の前の男。それらすべてが、今のハイジにとっては耐え難い羞恥であり、同時にかつて感じた事のない興奮へと変換されていく。彼女の豊満な肉体は、神宮寺の腕の中で最後の抵抗をせんと激しく波打ち、悲鳴ともそれ以外ともつかぬ声を上げ続けた。

「心配は要らない、角度は完璧に計算している。誰にも見られてはいないよ……まだ、ね?」

「!?」

 神宮寺の不敵な囁きが、絶望的な予感をハイジに与えた。「まだ」という事は今後は違うと言う事か? 彼は気合を入れてハイジの身体を抱え上げると、自らの膝の上に「シュミット式バックブリーカー」でその背腰を叩きつけた。

「あぐっ……!?」

 膝の上で反り返った彼女の身体は、艶めかしいボディラインを惜しげもなく観客たちの視線に晒させられ、逃げ場のない注目という牢獄へと幽閉される。

 

 そして、仕上げの時が来た。

 

 神宮寺は倒れ込む彼女の足を掴み、その四肢を複雑に絡め取ると、向かい合い、自身の眼前に掲げ上げるようにして持ち上げた。リバース・ロメロスペシャルで極限まで反り返らされたハイジの肉体。それは、不落を誇った城塞が、最も恥ずべき最深部を、数万の観衆の面前に、そして無数のカメラのレンズに向かって晒け出すという、完全なる敗北の構図だった。

「だめっ……らめぇ! 本丸が……もう守りが……あっあっ……!?」

 彼女の脳裏に、自らがこれまで踏みにじってきた下賤な敗者たち、唾棄してきた有象無象の顔がよぎる。だが、今の彼女に彼らを嘲笑う資格はなかった。

(これじゃもう、制圧されて……)

「か、陥落しちゃうぅぅぅっ!!」

 恥辱による心理的限界。濁流に飲み込まれた哀れな犠牲者のごとく、ハイジの右手が、激しく神宮寺の腕を叩いた。何度も、何度も、救いを求めるように。縋りつくように。

 

 ギブアップの意思表示だ。

 

 カン、カン、カン! レフェリーが、ガチでドン引きしながらも、やっと終わるという安堵を滲ませた表情でゴングを要請した。勝者、ボーティス神宮寺。

 しかし、試合終了の合図が響いても、ハイジはしばらくの間、マットに這いつくばったまま、汗だくで荒い息を吐き続けていた。

「負け……た……? このワタクシが……あ、ありえない……!?」

 彼女は信じられないものを見るかのように身を震わせ、自分の手を見つめる。だが、その身体には、先ほどまでの工作部隊による着火工作で燃え広がる「炎」が、消えぬ刻印のように残っていた。うずくまったまま動くことができない。。彼女が吐き出す息は、敗北の悔しさよりも、城からもうもうと煙をあげる残された炎を必死に鎮火せんとして、たおやかな震えを帯びている。

 神宮寺は、倒れ伏すハイジに視線すら向けない。ただ乱れた息を整え、何事もなかったかのようにチャラついた手つきで髪をかき上げる。そのままリングを去ろうとするその無関心な背中こそが、ハイジにとっては最大の屈辱であり、同時に「この男をもっと知りたい」という猛烈な渇望の種火となった。

「あ、貴方……ッ」

 このまま去らせてはいけないと、ハイジの声が飛んだ。

「……君の知る歴史上の城塞は、慢心した城主でも難攻不落であり続けるものかな?」

 神宮寺が軽く振り返り、皮肉たっぷりに問いかける。

「……!? そ……そうか、鉄壁のはずの城塞の隙はワタクシの心に……」

 ハイジはその言葉を噛み締め、カッと頬を赤らめた。行き過ぎた自信、肥大したプライド、それこそが白亜の不落城塞の唯一の弱点と化していたのか。

「しかし、これほどの軍略。……そうだ! 貴方、ワタクシを攻略した責任を取りなさい!」

 彼女は、今しがたまで受けていた辱めさえも「攻略されたという既成事実」という勲章にすり替えた。城の価値が暴落したのではない、攻め落とした指揮官を讃えるべきなのだ。そうすることでプライドを守ろうとしたのである。

 ガバリと立ち上がったその顔には、先ほどまでの高慢な貴族の仮面はなく、獲物を定めた狩人のような、あるいは恋に狂った少女のような、異様な輝きを宿した瞳があった。

「ワタクシの『軍師』として召し抱えてやろう!」

「悪いが作戦中でね、途中の引き抜きには応じられないよ」

 神宮寺は苦笑しながら手を振り、リングを降りて、控室へ続く花道を歩き出す。

「作戦行動中に陣営を変える不誠実な軍師など、君だってお断りだろ?」

 振り返りもせずにそう言葉を残して悠然と去っていく神宮寺を、観客は言葉少なに文字通り「悪魔」を見るような目で見つめていた。

「あぁん♡ つれない……ッ! だが、出来る軍師はそうでなくてはな!」

 ウキウキ気分で去った神宮寺の後を追うハイジ。

「ワタクシは……ワタクシは諦めんぞ!」

 その姿は、高潔な貴族の令嬢というよりも、初恋の相手を追い回す熱狂的なストーカーのようでもあった。

 

────────────────────

 

 その様子を、控室のモニターで眺めている一人の女性がいた。

 

 シロオニ・ベス。

 

 かつて三郎太に敗北して以来、彼を追い回し続けている彼女は、画面の中で滑稽なまでにハイジが神宮寺に執着する姿を見て、戦慄した。画面のハイジが「責任を取りなさい!」と叫び、顔を赤らめる姿。それは、かつてリング上で三郎太を指差し、「貴方は今日この時から私の旦那様候補よ」と宣言した自分自身の姿と、あまりに残酷なまでに重なって見えた。

「……客観視すると、もしかして私もあれと同じに見えているんじゃ……?」

 モニター越しの実況アナウンサーが、ようやくペースを取り戻したのか、ハイジの豹変ぶりを面白おかしく弄り倒している。その一言一言が、かつての自分に向けられた刃のように、あるいは現在の自分の醜態を暴く公開処刑の告発状のように、ベスの胸に深く深く突き刺さる。

「いや、そんなバカな! 私は強きを求める鬼として……違う、あれと私は違うわ! そうでしょう、美樹!?」

 ベスは額に嫌な汗を浮かべ、すがるような思いで隣の美樹を振り返った。しかし、美樹はモニターのハイジと、目の前の親友を交互に見比べながら、どこか遠い目をして、慈愛に満ちた微笑を浮かべた。

「ええ、まぁ……」

 言葉の上では曖昧にぼかしつつも、美樹の表情は雄弁に物語っていた。大差ないかもしれないね、と。

 

 ──ベスは絶句した。

 

 その後のベスの顔は、ほんの少しの反省と、多大な狼狽に彩られていたと言う。

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