「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第23話 非情なる処刑人!? の巻【本戦1回戦第7試合「アサル・ザ・ジニーVSエル・アオルカド」】

 控室の姿見の前で、アサルは白いターバンをきつく巻き直していた。エキゾチックな衣装に身を包むその背中には、隠しきれない緊張による微かな震えがある。オトギプロ所属者では既にオディール久我が二回戦進出を決めていたものの、オトギプロの若手エース格、赤ずきんは優勝候補のローラとぶつかり無念の一回戦敗退となってしまった。その事実は世界大会という厚く高い壁として、アサルに重くのしかかる。デビューして一年そこそこ。たなぼたで予選リーグを突破しただけの自分が、本戦という激戦をまともに闘えるのだろうか。

 その時、アサルの細い肩に、温かい手が置かれた。

「考えすぎるな、アサル」

 振り返るとそこには、オトギプロの団体社長であり、現在の女子プロレス界の頂点に君臨する世界ベルトホルダー、エディ・ダンテスが立っていた。

「運も実力の内だ。悲観することはない。本戦に進出した以上、お前は若手の中で世界ベスト16に数えられた。それに値するレスラーだと言う事だ。そう自惚れて良い」

 絶対的な強者だけが持つ静かな佇まいは、側にいるだけで安心感を与えてくれる。アサルの心に渦巻く嵐が鎮まっていくのを感じた。

「はい、でも赤ずきんさんが……」

「あいつはあいつだ。むしろあの試合を見て私は彼女を見直したよ」

 エディはふっと口角を上げた。

「負けてもヘラヘラして、ここ一番で踏ん張り切れない所のあったあいつが、最後の最後まで激情を燃やして挑んでいった。格差マッチを組み過ぎたかと責任を感じていたが……彼女は芯のある所もちゃんと見せてくれた」

 結果は負けだが、あいつの血肉になる。そう語ったエディの力強い眼差しが、今度は真っ直ぐにアサルへと向けられた。

「真面目で戦いに真摯なお前に、そう言う心配はしていないが……お前はお前で逆に少し硬すぎる。言われなくても全力で挑むだろうから、頑張れとかそういう今更な事は言わない」

 アサルは発言の意図がみえず訝しむ。エディは困ったような表情を一瞬浮かべ、言葉を選ぶようにして言った。

「だけど、時に経験は経験と割り切る事も必要だ。なんなら無理そうと感じたら、ギブアップしてしまっても構わないよ。別にこれが最初で最後の機会というわけでもないんだからね」

 嘘のつけないアサルが、あからさまにむっとした表情を浮かべたのを見て、エディは苦笑する。

「まぁ、そうなるよな。言い方を変えよう。彼我の戦力差を見極め、戦士として必要なら撤退も選択肢に入れろ。死守すべき場面か、勝機は別の所にあるのかをよく考えろ」

 今度は難しい表情になるアサル。その顔は無言でも「判断がつきません、自分は真っ直ぐぶつかるだけです」と雄弁に語っている。

 結局、エディは納得のいくように戦ってこいと送り出し、アサルの背にひらめく清廉な白いマントを見送る事しか出来なかった。砂漠の戦士は出陣する。ただ誇り高く戦うために。

「……どうだった、社長?」

 アサルと入れ替わるように扉の影から姿を現したのは、団体のベテラン悪役レスラーにしてエディの腹心、キャプテン・フックだった。

「どうもうまくいかない……」

 振り返りもせず、エディは先ほどの威厳など欠片もない、英雄らしからぬふにゃふにゃした声で零した。そのままどっと疲れたように近くのパイプ椅子に腰を下ろす。

「しゃーねぇだろ。あいつは融通利かねえからな。とことんやらせるしかねえよ。それともセコンドの練習生にタオルでも持ってかせるか?」

 オレの指図ってことにしてもいいぞ? と暗に仄めかすフックの気遣いを察しつつも、エディは首を横に振った。

「……いや、それやると多分アサルはめちゃくちゃ機嫌悪くなるだろ」

「だろうな。あとはアサルの心身の頑丈さを信じるか、恨まれてでも安全策をとるか、どっちかだ」

 フックの突き放すような、けれど的を射た言葉を背に受けながら、スーツ姿のエディ・ダンテスはパイプ椅子に深く身を沈め、重苦しい唸り声をあげていた。ただ眼前の敵を倒し、勝利の凱歌をあげればいいというわけにはいかない。

 後進の指導は、英雄たるエディにとってプロレス以上に難題であった。

 

────────────────────

 

 EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦一回戦、第七試合。会場を包む熱気は、これまでの試合とは明らかに異なる緊張感を孕んでいた。

 リングアナによるコールを受け、おどろおどろしい重低音のロックミュージックを背負って現れたのは、メキシコからの刺客、エル・アオルカドだ。口元を太い糸で縫い留めたかのような、不気味極まりないマスク。その額には不吉な『吊られた男(ハングドマン)』の意匠が妖しく彩られている。黒いタイツに包まれた肉体は、鋼のように強靭に仕上がっており、その手にはトレードマークである「荒縄」が握られていた。リングインした彼は、観客たちのどよめきと罵声を浴びながら、両手に掲げた荒縄を強く引き鳴らしてみせる。パァン、と乾いた音が響いた後は、コーナーに寄りかかり、ただ俯いて微動だにしない。

 続いて一転して、優しい旋律が会場に流れ出す。日本の国民的アニメ――あの青い猫型ロボットが活躍する、アラビアンナイトをモチーフにした長編映画の主題歌だ。そのBGMに導かれ、入場ゲートからアサルが姿を現した。頭には白いターバン、肩には清廉な白いマントを羽織り、その下には白いビキニトップと、金と青の装飾が施されたエキゾチックなボトムに腰布飾りが躍る。褐色肌のしなやかな肢体は、極限まで鍛え上げられたアスリートそのものであり、ショートボブの黒髪から覗く瞳には、真摯な闘志が宿っていた。リングに上がると、彼女は深々と客席へ、そして対戦相手のアオルカドへと一礼する。団体から与えられた「ランプの魔人」という興行的なギミックをまったく気にする様子もなく、その姿はどこまでもストイックな正統派プロレスラーのそれであった。

「いざ、世界大会本戦、どうぞよろしくお願いします。……さぁ、全力でお相手しましょう」

 凛とした声で告げるアサルだが、対するアオルカドは不気味な沈黙を保ったまま、応えない。じろりと蛇のような視線を彼女に這わせるのみで、静かに佇んでいた。

 

 リング上の張り詰めた空気を切り裂くように、場内スピーカーから実況アナウンサーの威勢の良い声が響き渡った。カメラが切り替わり、熱気に沸く放送席を映し出す。

『さぁ、EQT本戦一回戦も残すところあと二試合。リング上では第七試合が始まろうとしております。対戦カードはメキシコ代表選手の処刑人「エル・アオルカド」と、日本代表選手のエジプト人レスラー「アサル・ザ・ジニー」の一戦です!』

 実況アナは手元の資料へ素早く目を落とすと、隣に座る大柄なスーツ姿のマスクマンへと滑らかにマイクを向けた。

『解説は千の凶器を持つ男、かつてあのモモタロウやキンタロウとも激戦を繰り広げたベテラン悪役(ヒール)のマスクド・ヤブカラボーさんです。4勝1引き分けの勝ち点9で堂々とMブロックを突破したエル・アオルカドに対し、時差ボケの零時の鐘の音と共に忽然と姿を消し、大会を棄権・リタイアしてしまった「ワン・ナイト・シンデレラ」からもらった不戦勝によって3勝1敗1引き分けとなり、まさかの勝ち点7でNブロック1位通過となったアサル・ザ・ジニー。ヤブカラボーさんから見てこの戦い、いかがでしょうか?』

 話を振られたヤブカラボーは、マスクの側頭部から飛び出す自慢のサイドテールにヘッドセットが引っかかるのを鬱陶しそうに気にしながら、位置を微調整した。そして、ベテランらしい落ち着きと、どこか飄々とした声音で応じる。

『唐突仮面、ヤブカラボーだ。よろしく。……そうだな、荒縄という凶器をあからさまに構えてるアオルカド君に対して、アサルちゃんはちょいと素直な正統派すぎるように見える。ただでさえ体格差がある上に、キャリアの差もあるようだし、アオルカド君の有利は揺らがんだろう』

 清楚なベビーフェイスでは、初手から凶器攻撃を辞さない悪漢の相手は厳しい。ベテランヒールらしいシビアな見立てだった。それを跳ね除ける地力や経験、そして覚悟がアサルにあるかどうかが、この試合のカギとなるにちがいない。

『成程、たしかに身長で20センチ近い差がある男女対決、アサル・ザ・ジニーには厳しい闘いになりそうですね』

 実況アナが深く頷き、モニターに映るリング上の圧倒的な体格差をカメラが捉える。しかしその時、ヤブカラボーはふと何かに気づいたように、マスクの奥の目を細めて実況アナの横顔をジロリと睨みつけた。

『……ところで今試合の解説にオレを招いた理由って、アオルカド君のヒール性を見越してだよな? マスクのポケットから凶器をだすのとアサルちゃんの入場BGMを絡めて──とかそういう理由だったりしないよな?』

 さっきまで立て板に水で言葉を紡いでいた実況アナの口が、ピタリと止まる。

『…………』

 ヘッドセットの向こうから、不自然なほど静かな場内の喧騒だけが流れ込んできた。

『そこで黙るんじゃねーよ!?』

 完全に視線を泳がせ、絶対にヤブカラボーと目を合わせようとしない実況アナに対し、覆面の額にあるポケットから──どうやって収納しているのかは作者も(おそらくにわの先生ですらも)知らない──ピコピコハンマーを取り出すと、ベテランヒールは身を乗り出してピコン! と机を叩いた。そういうとこだぞ。

 

 レフェリーの合図を受けて、試合開始のゴングが鳴り響いた瞬間、会場の静寂は観客の興奮とリング上の動きによって一気に打ち破られた。先手を打ったのはアサルだ。マットを蹴って飛び出した彼女は「砂漠の風」の異名に相応しい速さでアオルカドとの距離を詰めると、迷うことなく跳躍する。

「はあぁッ!」

 放たれたドロップキックが、アオルカドの分厚い胸板を真っ向から捉えた。衝撃でアオルカドの巨体がたたらを踏み、数歩の後退を余儀なくされる。観客席から「おおっ!」と歓声が上がる中、アサルは持ち前の機敏さを活かし、すぐさまエルボー・バットの連打を叩き込む。右、左、そして力強い震脚からのかちあげるような一撃。正攻法の打撃が、アオルカドをじりじりとコーナーへと追い詰め、釘付けにする。

 しかし、アサルが更なる追撃のために一歩踏み込んだ瞬間だった。アオルカドの腕が、まるで獲物を待っていた蜘蛛のように、突っ込んできたアサルの首を正面から掴み、捕らえた。

「……威勢の良いことだ……!」

 アオルカドの低い声がマスク越しに漏れる。彼は喉を塞がれて動きの止まったアサルの身体を体重差でいともたやすくコントロールし、その細い腰を強引に抱え上げた。アサルの脚がマットを離れ、宙に浮く。次の瞬間、アオルカドは自身の膝を突き出し、アサルの股間を剥き出しの膝へと叩きつけた。「マンハッタン・ドロップ」だ。

「……ッ!?」

 アサルの顔が苦悶に歪み、言葉にならない悲鳴が漏れる。衝撃で腰から砕けそうになるアサルだが、地獄はここからが本番だった。アオルカドは悶絶するアサルの後頭部を掴み、そのままコーナー横へ押し込む。

「処刑場の荒縄の味、たっぷりと味わうがいい」

 冷酷な宣言と共に、彼はアサルの顔面を最上段のロープに押し付けた。ただ押し付けるのではない。アサルのまぶたのあたりを、ざらついたロープの摩擦で力任せに擦りつけたのだ。ロープサミング。ルール無用の残虐行為に、アサルは両手で顔を覆い、激痛に身悶えする。

「あぐ……! ああぁ……ッ!?」

 アオルカドは視界を奪われ悲鳴をあげるアサルを嘲笑うように、背後に回り込む。彼の腕に巻き付けられていた「荒縄」を解いて手に握り、獲物を狙う蛇のようにアサルの細い喉元に巻き付ける。観客席から怒号と悲鳴が入り混じるが、アオルカドは動じない。彼は凶器である縄を喉に食い込ませ、アサルの呼吸を奪う。

「が……あぁ……ッ!?」

 アサルの顔が赤く染まり、必死に縄を解こうと指をかけるが、アオルカドは力加減を絶妙にコントロールしていた。一息に絞め落とすのではなく、意識が遠のきそうになると緩め、酸素を求めて喘ぐ瞬間に再び力一杯絞り上げる。彼はアサルを拘束し、首にかけた縄を引いたまま、まるで散歩でもするかのようにリング内を周遊し、悶え苦しむ彼女の姿を四方の観客に見せつけていく。

 

 リング上で行われている非道な見せしめに、場内からは激しいブーイングが吹き荒れる。

『あ~っと、エル・アオルカド、凶器の荒縄でアサル・ザ・ジニーを絞め上げながら、さながら罪人を引き回すかのように観客席に見せつけております!』

 ヤブカラボーは腕を組み、マスクの奥の目でアオルカドの戦いぶりを沈着に見定めながら、低く重い声で分析を口にする。

『ありゃ、わざと苦しめてるな。絞め落として終わりにする気のないムーブだ。抗議するまでレフェリーが動かないルールなのを承知でノドを狙ってる側面もあるか。だが、体格差があるとは言え、ドロップキックやエルボーラッシュを受けても平然としている。タフさも結構なモンだぞ』

 レフェリーへ抗議の声を上げることもできず、アサルはただ膝から崩れ落ちて突っ伏す。その言葉を裏付けるように、アオルカドは意に介さず、強引に荒縄を引いて彼女の身体を引きずった。

『アサル・ザ・ジニー、崩れ落ちたぁ! しかし、エル・アオルカドはそのまま力づくで引きずっていく! 縄を両手で掴んで必死に隙間をつくっていますがかなり苦しそうだ!』

 モニターに映し出されたアサルの首元のアップを見た瞬間、ヤブカラボーが唸り声を漏らし、解説席の画面を指差した。

『あの縄、わざと痛ませて毛羽立たせてあるんだろう。擦過した部分が痛々しいね』

 実況アナウンサーも思わず手元のモニターを覗き込み、カメラが捉えた痛烈なダメージに顔を歪めて声を震わせる。

『ヤブカラボーさんの言う通り、首筋が真っ赤になっていますね、うわ痛そう……』

 

 必死に抵抗を続けつつも、酸素を奪われたアサルの意識が徐々に朦朧とし始めた。それを見て取ったのか、アオルカドは荒縄を解き、アサルを解放する。

「フン……」

 解放され、マットに崩れ落ちて荒い息をつくアサル。だが、これは決して慈悲などではない。アオルカドによる、新たな刑罰への移行でしかなかった。彼はアサルの腕をとって無彼はアサルの腕をとって無理やり引き起こすと、背後へ回り腰をクラッチして高く抱え上げる。一見すればジャーマン・スープレックス、あるいはアトミック・ドロップの始動体勢だ。しかし、彼が狙った落下地点はマットではなかった。

 アオルカドは、アサルの身体をトップロープの真上へと放り投げたのである。

「あぐっ……!? んぅぅっ……」

 鈍い衝撃がアサルの全身を貫く。彼女はトップロープを股間に挟み込む形で、無防備に跨るように落下したのだ。分厚いゴムチューブの下に鋼のワイヤーを内包したロープが、女性の最もデリケートな部分を容赦なく打ち据え、さらに彼女自身の体重によって深く食い込んでいく。

「地獄の吊縄橋だ。じっくり味わうがいい」

 アサルの頬は苦痛と激しい屈辱で真っ赤に染まり、口からは苦し気な、そしてどこか「背徳的」な悲鳴が漏れ出す。

「うぅっ……は…ぁっ……あっ…あっ…!?」

 アオルカドは、その様子をマスクの奥の瞳を愉悦に細めて見つめながら、自らロープに手をかけ、激しく揺さぶり始めた。上下に大きく波打つロープが、跨っているアサルの身体を無慈悲に跳ねさせ、そのたびに鋭い痛みとじわりとした熱さが彼女の急所を襲う。

「ああぁッ! 嫌っ、ひぅ……っ!」

 普段は清楚でストイックなアサルから漏れる、聞くに堪えないような悲鳴。それは、会場全体に絶望感を植え付けるのに十分すぎる破壊力を持っていた。目を背けたくなるような残酷な光景。どこかコミカルな熱気に包まれていた前試合の余韻は消し飛び、観客席の空気は、アオルカドの冷酷な蹂躙によって完全に凍りついていた。

 だが、屈辱に満ちた責めを受けてなお、砂漠の戦士の魂はまだ死んではいなかった。激しく揺れるロープの上から、もんどり打つようにマットへ転落したアサル。身悶え、苦鳴を漏らしながらも、彼女は震える膝をついて立ち上がろうとする。焦点の定まらない瞳のまま、それでも残った気力をすべて振り絞っていた。

「ほう?」

 気概への関心か。獲物のイキの良さへの感嘆か。声を漏らしたアオルカドが、健気な戦士をさらなる暴虐に晒そうと近づいた、その瞬間だった。アサルは死に物狂いでマットを蹴り、鋭く上半身を捻った。

「くっ……うわあああっ!」

 旋回する遠心力を乗せた拳――「サンドストーム」と名付けられたアサルの腰の入ったバックスピンナックルが、油断していたアオルカドの顎を正確に撃ち抜いた。

 鈍い衝撃音が響き、ガクリと膝から崩れ落ちるようにアオルカドの巨体が沈む。その一瞬の隙を見逃さず、アサルは四足獣のようにマットへ手をついて素早く飛びかかり、アオルカドの喉元へ両手の指を組んだダブルアックスハンドルを叩きつけた。

「……辱めてくれましたね。ですが、……それで砂漠の戦士が泣いて降参するような事はありません!」

 アサルはアオルカドのマスクを掴んで無理やり引き起こすと、素早くバックに回る。怒りの咆哮と共にその巨体の腰を深く抱え込み、渾身のバックドロップで後方へ投げ捨てた。巨漢が綺麗な弧を描き、後頭部からマットに叩きつけられる。轟音と共に、会場のボルテージが一気に跳ね上がった。

 

 絶望的な蹂躙から一転、リング上で炸裂した見事なアーチに、放送席の実況アナウンサーはヘッドセットがズレるのも構わず机に手をついて腰を浮かせ、興奮の色をマイクに乗せる。

『なんとアサル・ザ・ジニー! ここで「サンドストーム」! バックスピンナックルから、怒涛の反転攻勢だぁ!』

 これには解説のヤブカラボーも、組んでいた腕をほどいて身を乗り出し、マスクの奥の目を丸くする。

『綺麗に顎に入ったな、狙って決めたならなかなかの技量だ。って、マジか、あの身長差でバックドロップで投げやがったぞアサルちゃん!?』

 実況アナは驚愕を興奮へと変え、手元の公式パンフレットのページを激しくめくりながら、その技術の正体をまくし立てた。

『へそで投げる綺麗なフォームのバックドロップでしたね! 彼女は日本の地方団体「オトギプロレスリング」でデビュー1年そこそこと聞きますが、それ以前はエジプトでレスリングのジムで修練を積んでいたとか。確かな下積みに支えられた見事なブリッジでした!』

『へぇー』

 感心したように頷くヤブカラボーだが、その視線は手元の資料ではなく、未だにリング上の褐色少女へと注がれたままだ。

『ヤブカラボーさん、手元の資料もちゃんと見てください』

 実況アナウンサーは興奮の冷めないトーンのまま、小声で隣のベテランにツッコミを入れる。だが、ヤブカラボーの低い声がそれを遮った。

『それはそうと、見ろよ。アサルちゃん、アオルカドの腕をとって担ぎ上げたぞ』

 彼の鋭い視線は、すでに執念で次の行動へ移っているアサルの姿を捉えていた。

 

 アサルは止まらない。これが最後の一撃と言わんばかりに、倒れたアオルカドを強引に引き起こし、肩を押さえつけて頭を下げさせる。股下から通した彼の右腕を右手で固くクラッチし、その巨体の重みに歯を食いしばった。逃がしてなるものかと、アオルカドの身体を反転させながら自らの右肩へと一気に担ぎ上げる。

「……ここまでです! デザートボム!」

 執念が、スレンダーな肢体に眠る爆発力を呼び覚ました。重力に従い、斜めに旋回するような鋭い角度でマットへ叩きつけられるアオルカド。凄まじい衝撃がリングを揺らす中、アサルはかすかに見える勝利の光を逃がさぬよう、そのまま自らの全体重を預けて必死に抑え込んだ。

「ワン! ツー!」

 レフェリーのカウントが会場に響き渡る。観客は総立ちになり、逆転の「奇跡」を予感して絶叫した。しかし。

「ス……ッ!」

 レフェリーの手が三度目のマットを叩く寸前、沈黙していたはずのアオルカドの巨躯が、内側から爆発したように跳ねた。クラッチされていた腕を力任せに引き剥がし、獣のような咆哮とともに全身のバネでアサルを突き上げる。

「──2.9! キックアウト!」

 非情なコールが響く。アサルの執念の必殺技をもってしても、処刑人の肉体とプライドを完全に圧殺するには至らなかった。圧倒的な体重差ゆえに、アサルはただ跳ね除けられただけで、たやすくマットを転がってしまう。彼女のスタミナとパワーは、先ほどの反撃からフェイバリット・ホールドに至る流れで、すでに限界に達していたのだ。

 

 それでもよろよろと身を起こし、マットに手を突いて起き上がろうとするアサル。しかし、そこにはすでに、冷酷な光を宿した「処刑人」が立ち上がっていた。

「そんな……あれが決まっても、まだ……!」

 アサルの瞳に絶望の色が混じる。全エネルギーを注ぎ込んだ一撃を返された精神的ダメージは、肉体的な疲労を何倍にも膨れ上がらせていた。膝をつき、震える腕でマットを押して立ち向かおうとするが、重力に逆らうことすら今の彼女には容易ではない。

 一方、ダメージを負ったはずのアオルカドは、ゆらりと、まるで死神が鎌を構えるかのような不気味な動作でアサルに歩み寄る。マスクの奥の冷酷な狂気を宿した瞳が、獲物を仕留めるタイミングを冷徹に見定めている。

「お前は一つ、勘違いをしている。……俺は勝負をしているのではない、お前の処刑を行っているのだ」

 宣告と共に、アオルカドの太く強靭な指先が、アサルの短い黒髪を乱暴に掴み上げた。悲鳴を上げる間もなくロープ際へと引きずっていき、彼女の後頭部を掴むと、喉元を最上段のトップロープに力任せに押し付けた。

「がはっ、……う……っ!」

 喉を硬いロープで圧迫され、アサルの表情が瞬く間に苦痛と呼吸困難に歪んでいく。アオルカドはわざと客席によく見えるよう彼女の顎を跳ね上げさせ、苦悶の表情を晒し者にした。清楚な砂漠の戦士が白目を剥きかけるほどに追い詰められる姿に、会場からは怒号と悲鳴が入り混じる。だが、アオルカドは一切容赦しなかった。涙を浮かべて喘ぐアサルの無防備な脇腹を狙い、容赦のないパンチを重く叩き込む。ドスッ、ドスッという鈍い音が、静まり返ったリング上に響いた。

「おぐ……あ、が……っ!」

 内臓を直接揺さぶられる衝撃に、アサルの身体から最後の力が抜け落ちる。アオルカドが手を離すと、彼女はもはや自力で立つことすらできず、セカンドロープにぐったりと身を預けた。荒い息をつくたびに、その細い肩が痛々しく上下する。

 アオルカドは一度距離を取った。獲物を確実に仕留めるための助走。彼は反対側のロープへ向かって一気に駆け出す。そのスピードが頂点に達した瞬間、トップロープとセカンドロープの隙間に滑り込み、両腕を軸にしてその重厚な肉体を鮮やかに、そして恐るべき加速で一回転させた。

 

 ――パンッ!! と、乾いた、しかし重い破裂音が響く。

 

 「619(シックス・ワン・ナイン)」と呼ばれる技だ。遠心力を極限まで乗せた両足が、ロープにもたれかかっていたアサルの顎を正確、かつ凄惨に撃ち抜いた。

「あああああぁぁぁぁっ!」

 アサルの頭部が激しくのけ反り、彼女の身体はマットに崩れ落ちる。意識はすでに混濁し、光を失った瞳はただ虚空を彷徨っていた。完全なグロッキー状態である。だが、アオルカドはこの哀れな受刑者に、さらなる地獄を用意していた。

「……あの時のメキシコとは違う。俺は……本物の処刑人になったのだ」

 ここに居ない誰かに語りかけるようにそう呟くと、アオルカドはピクリとも動けなくなったアサルの両脚を掴み、無慈悲に引きずるようにしてコーナーへと運んだ。そして、ぐったりとしたアサルの両膝を、コーナーのトップロープの左右へそれぞれ引っ掛ける。重力に従い、アサルの上半身が逆さまに垂れ下がった。鬱血していく視界の向こう、対角線のコーナーで冷酷に牙を剥くアオルカドの姿が映る。そこから逃れる術は、もはやない。無防備に晒された腹部、そして力なく垂れる腕。その光景は、まさに処刑台に吊るされた囚人そのものだった。

「……終わりだ」

 マスク越しに漏れるアオルカドの声は、凍り付くような冷徹さに満ちていた。対角線のコーナーから、全速力で突進を開始する。

「『ジャッジメント・ガロウズ』!……処刑執行だ」

 アオルカドが跳躍した。空中でその巨大な身体を鋭く捻り、助走の乗った重厚な浴びせ蹴りが、逆さ吊りにされたアサルの胴体を無慈悲に捉える。

 

 ドォォォォォンッ!!

 

 アサルの身体が、アオルカドの太い脚と硬いコーナーポストの間に挟み込まれ、まるで胴体を粉砕されたかのような凄まじい衝撃が走る。逃げ場のない一撃は彼女の肺から残った酸素をすべて叩き出し、背骨を、内臓を、駆け抜ける衝撃が容赦なく蹂躙していった。

「……ッ」

 アサルの口から、悲鳴にすらならない、ただ空気が漏れるような音がこぼれる。

 

 逆さ吊りにされていた身体が、ずるずると重力に引かれるままマットに滑り落ちた。アサルは、もはや指先一つ動かせない。白いビキニトップは汚れ、褐色の首筋や肢体は無数の打撃と摩擦の跡で痛々しく変色している。瞳は白く濁り、焦点はどこにも合っていない。力なく仰向けに横たわるその姿は、あまりにも無残で、残酷な「処刑の完成」を告げていた。

 レフェリーが大慌てでアサルの元へ駆け寄る。顔の横で手を振り、腕を取って反応を確かめるが、完全に意識を断絶させた彼女は脱力しきったまま何の反応も返さない。命に危険が及んでいると判断したレフェリーは、血相を変えて本部席に向かって両手を激しく交差させた。

「ストップ! ストップだ!」

 試合終了のゴングが乱打される。だが、それは勝利を称える祝福の音ではなく、凄惨な処刑の終わりを告げる弔鐘のようだった。

 

 ゴングが鳴り響いてもなお、観客席は水を打ったように静まり返っていた。場内に響くのは、大慌てで担架を呼ぶスタッフたちの切羽詰まった怒号だけだ。異様な空気に包まれたリングを見下ろしながら、実況アナウンサーは震える声を必死に振り絞り、マイクを握りしめた。

『な、なんということでしょう! 惨劇! あまりにも残酷な光景が展開されております! 「ジャッジメント・ガロウズ」による処刑執行で、アサル・ザ・ジニーは完全に失神KO! レフェリー・ストップにより、試合終了のゴングが鳴り響いてしまった! 一回戦、第七試合を制した勝者は、エル・アオルカドです!』

 隣に座るヤブカラボーは、放送席の机に頬杖をつきながら、マスクから覗く口元をあからさまに歪め、への字口をつくっていた。

『エッグいなぁ。可愛い女の子相手にあそこまでやるかね、フツー? いやまぁオレは女子と試合したことないけども。もう少しこう、なんというか、手心と言うか……』

 実況アナは額の汗をハンカチで拭い、ようやく手元の資料へと視線を落としながら、アオルカドというレスラーの異質さに戦慄する。

『凶器のエキスパートと呼ばれるヤブカラボーさんにそこまで言わしめる、メキシコの処刑人の恐ろしさを見せつけられました……。若手限定とは言え世界大会の本戦、生半可な覚悟で見ていないか? と問いかけられた気分であります』

『悪役の方向性の違いは分かるが、キンタロウの頭頂部に油性ペンで落書きする凶器攻撃で客を笑わせたオレの余裕と優雅さを少しは見習ってほしいもんだね』

 ヤブカラボーはやれやれと大げさに肩をすくめたが、実況アナは半眼になり、事務的なトーンで冷たく切り捨てた。

『放送時にモザイクかけなきゃいけないような落書きした数年前の試合の件を誇られてもカッコつきませんよ、ヤブカラボーさん』

 張り詰めていた放送席の空気が、一瞬だけ毒気を抜かれたように和らぐ。

 

 だが、試合終了を受けてのアナウンスが響く中、会場の反応は未だ異様なままだった。一部の観客はあまりの凄惨さに顔を覆って泣き出し、恐怖のあまりブーイングを飛ばすことすら躊躇われ、重苦しい沈黙とザワつきが場内を支配している。そんな中、アオルカドは勝ち名乗りを受けることもなく、マットに沈んだアサルをゴミでも見るかのように冷ややかに見下ろしていた。満足げに喉の奥で嗤うと、自らの得物である「荒縄」を回収し、静かにリングを降りる。

「次はお前の番だ。二回戦のリングで待っているぞ……ミコシバ……」

 怯えと非難の視線が突き刺さる花道を悠然と歩きながら、アオルカドは誰に宛てるともなく静かに呟いた。二度とリングを振り返ることなく、処刑人は闇の中へと姿を消していく。

 

 前試合までの華やかなトーナメントの熱気は、完全に消失していた。後に残されたのは、意識を失い担架で運ばれていく「哀れな受刑者」の姿と、メキシコから来た処刑人が残した、凍り付くような狂気の余韻だけだった。

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