「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦一回戦の第八試合を迎え、「餓えた黒豹」の異名を持つ女子プロレスラー、ディアナ・ライアルは開催会場である東京ドームの中央に設営されたリングの上に立っていた。故国で彼女が普段踏みしめて日々戦い抜いて来た、薄汚れてところどころが傷んだ安っぽいリングとは違う。まるでこの日のために真新しいキャンバスを下ろしたかのような、上質で張り詰めた美しさがそこにはあった。
環境の違い。前日の予選リーグでも感じた事だが、所違えば人も文化も違うもの。この日本という国における興行は、そしてそこで戦う戦士たちもきっとブラジルのそれとはまったく違うのだ。いや、ひょっとしたらブラジルの中でも団体が違えば異なるのかもしれない。裏で後ろ暗い組織と繋がっているとも噂される彼女の団体だけが異常なのではないか。大舞台の光を浴びながら、これまで考えもしなかった疑念が彼女の胸をよぎる。
予選の対戦相手から試合後の雑談交じりに聞いたファイトマネーの額は、ディアナに自分たちが搾取されているのではないかという現実を突きつけた。だが、それを知ったからと言ってディアナにはどうすることもできない。幼くして両親を亡くして途方に暮れる中、11の頃に勧められてプロレスのリングに上がるようになってから10年近くも妹たちを養うために戦い続けてきた彼女には、そこを飛び出したからと言って、どうやって生きて行けばいいかなど分からない。……いや、自分を世界大会に押し上げ、妹たちに日本への渡航費と観戦チケットを用意してくれたのだ。底辺の掃き溜めの中では、まだマシな部類なのかもしれない。
彼女は今大会においてブラジル代表選手で唯一の本戦突破者だ。同時に、本来は「若手と軽量級」を対象としたこのEQTにおいて、「ベテランの軽量級」という特例枠──実質的に、世界最高峰の大会であるECT(アース・クラッシュ・トーナメント)から弾かれた女子選手への救済枠──から勝ち上がった唯一の存在でもある。一身に受ける注目と、背負わされた期待。この結果次第で、少しは待遇も良くなるかもしれない。迷いを振り払うように、彼女は内心でそう自分に言い聞かせる。
未成熟な頃から身体を酷使し続けた代償で、彼女の肉体はすでに満身創痍だ。だが、妹たちには自分と同じ道を歩ませない。学び、望む未来を選べる明日を与えるために、ここで無様な闘いはできない。褐色の肌に豹柄のコスチュームを纏い、歴戦の品格と不屈の闘志を漂わせて「黒豹」は静かに佇む。ドームを包む熱気とは裏腹に、意図せず自らの肩を抱きしめるようにして、ディアナは対戦相手の入場を待ち受けていた。
天井照明が一瞬にして落とされ、どす黒い闇が会場を包み込んだ。重低音のデジタルロックが爆音で鳴り響き、入場ゲートからスモークの演出と共に火花が対の柱のように噴き上がる。その光は禍々しいほどに鮮烈な血の色だった。声援の中に僅かに混じるブーイングを受けて、集まる視線の中心──赤と黒のレーザー光線が交差する花道に彼女は姿を現した。
ガータ御子柴。日本代表選手の一人であり、メキシコでの武者修行から帰還した太平プロレス所属の悪役(ヒール)レスラーだ。彼女は艶やかな黒髪のショートボブを揺らし、不敵な笑みを浮かべてゆっくりと歩を進める。ライトを浴びて発光するような色白の肌。それを包むのは、ネコミミをつけて、極端に露出度の高い網目付きのワンピースコスチュームだ。数々のデスマッチを潜り抜けてきた証なのだろう。四肢に刻まれた無数の細かな傷跡すら、彼女にとっては極上のドレスのようだった。
「オレへの歓迎の声が足りないじゃないかニャ? ……もっとやべー試合が見たくて期待してんだろ? ケケ!」
色気と愛嬌を振りまいて観客を挑発しながら、御子柴はルチャ仕込みの軽やかな身のこなしでトップロープを飛び越える。太平プロレスの混沌(カオス)を体現し、「深淵の地獄猫」の異名で呼ばれる女子プロレスラーが、リングインを果たした。
熱気に包まれた会場のリング上に、対照的な二人の女が対峙していた。片や、日に焼けた褐色肌のベテラン、ブラジルの黒豹。片や、色白の肌のメキシコ帰りの日本の地獄猫。真剣な眼差しで正面から見据えるディアナ・ライアルに対し、ガータ御子柴はニヤニヤと嘲るような笑みを浮かべて見下ろしている。二人の間でレフェリーが試合前の形式的なルール確認を行う中、その光景を見下ろす放送席では実況アナウンサーが声を張り上げていた。
『さぁ、EQT本戦一回戦の最後の試合、リング上で第八試合が間もなく始まります! 対戦カードはブラジル代表のルタドーラ「ディアナ・ライアル」と、日本代表のルチャドーラ「ガータ御子柴」の一戦です! そしてこの異色の「自由の闘争」対決、解説にはメキシコの文明仮面、エル・オルメカさんにお越し頂いております!』
実況の紹介を受けてカメラに会釈したのは、スーツ姿に歯車の意匠をあしらった覆面を被る男子プロレスラーだった。
『どうも。エル・オルメカだ、よろしく。御子柴の事は良く知っている。ウチの団体で修行していたんでな、弟子とまでは言わないが可愛げのない後輩だ』
フンと腕を組んで鼻を鳴らすオルメカに実況アナが苦笑で返す。
『あはは、そこは可愛い後輩ではないんですか?』
『当人が嫌がるだろ。そもそも家族同然にルチャの魂と絆の伝承を受けて立派なルーダ(悪役)に育ったというのに日本に帰った途端、連絡もなし、手紙のひとつも寄越しやしない水臭い娘だしな。聞いてるか、御子柴!』
放送席から立ち上がり、リングを指さして叫ぶオルメカの声に、御子柴はニヤニヤ笑いを崩し、バツが悪そうに渋い顔で頭を掻いた。観客席からも「手紙くらい書けー!」と野次交じりの笑いが起こる。
『さて、一方のディアナ・ライアルはブラジルのルチャ使いとも言うべきルタドーラ、資料によれば11歳からリングに上がり、既にキャリアは10年に及ぶとのことですが』
手元の資料に目を落としながら話題を振る実況アナに、オルメカは渋々御子柴への糾弾を切り上げて席に座り直す。
『メキシコのルチャ・リブレとブラジルのルタ・リヴレは源流が違うのでルチャ対決というのは語弊があるが……たしかに彼女の予選の試合での動きは見事だった。御子柴にとっても油断ならぬ強敵だろう。試合が楽しみだな。だがオレはひとつ大きな不満がある』
『不満……ですか?』
予想外のクレームの気配に実況アナは警戒の色を示すが、続く言葉はルチャの文化的には大問題でも、実況的にはどうでもいい話だった。
『この試合にはマスクが足りない! 御子柴ァ! お前のその「ネコミミは実質マスク」宣言、オレは認めたわけではないからな!』
『オ、オルメカさん! 落ち着いて! 時間! ゴングの時間ですから! ね!?』
放送席ののどかなやり取りが、会場にどこか緩んだ空気を生み出した──ちょうどその時。空気を切り裂くように、試合開始を告げる冷徹なゴングの音が鳴り響いた。
カーン!
放送席のやり取りを聞いて緊張がほぐれたのは、ディアナも同じだった。対戦相手である御子柴の得体の知れない笑みにどこか不気味さを感じていた彼女にとって、あの緩い空気は正直有難い。
「ゴングと同時に……全力でス!」
片言ながらも真摯な口調で宣言し、ディアナが駆け出す。試合が始まった以上、余計な事は考えない。考えられるほど器用でもない。これは優勝目指してただ実力を競う世界大会だ。普段の興行とは違い、時間を持たせつつ、受けの華も彩り、客を盛り上げる配慮の必要がない以上、速攻あるのみ。彼女の瞳には一点の曇りもなかった。対して御子柴は、自身の黒髪ショートボブを指先で軽く弄りながら、挑発的に応じる。
「あぁ? いいぜ、全力で来いニャ。オレがたっぷり可愛がってやるからニャ!」
次の瞬間、御子柴の視界からディアナの姿が消えた。マットを這うように低い姿勢で駆けるその動きは、まさに獲物を狩る豹の如し。御子柴の懐へ鋭く踏み込んだディアナは、助走の勢いを乗せたままスライディングのようにマットすれすれを跳び、容赦のない低空ドロップキックを御子柴の膝元へと叩き込んだ。
「ぐっ……!」
なまじ相手の技を受けて立とうと構えていたことが仇となった。見事に軸足を撃ち抜かれ、御子柴がたまらず片膝をつく。その直後、ディアナは弾かれたように身を起こしていた。俯いた姿勢になった御子柴の頭押し下げ、素早く腰をクラッチする。そして、野性のバネを思わせる強靭な足腰を活かし、重心が崩れて踏ん張りの利かない御子柴の身体を一気に逆さまに抱え上げた。身長で勝る御子柴を、淀みなく流れるような動作で担ぎ上げたディアナの妙技に、ドームを埋める観客たちから大きなどよめきと感嘆の声が上がる。
ディアナはそのままマットを蹴って跳躍し、抱え上げた身体を前方へ容赦なく叩き落とす。まさかの試合開始早々の大技、ライガーボムだ。
「がっ……!?」
ベテランの技術が凝縮された一撃がキャンバスを大きく揺らす。叩きつけられた御子柴の背中から、強烈なダメージが全身へと突き抜けた。ディアナはフォールには行かず、バウンドした御子柴の身体を突き放すようにして立ち上がる。
「悪いでスけど、これで終わりでスッ!」
勝機と見れば一切の躊躇はない。流れるような動作でコーナーポストへ駆け上がると、その頂点から「ダブルムーンサルトプレス」を放つ。空中で二回転する、高く華麗な軌道。
「……へー?」
転がって回避することも、膝を立てて迎撃することも十分に可能なタイミングだった。だが、御子柴はあえて動かない。大の字に寝転がったまま、感心するような声を漏らし、ただ落下してくるディアナの全体重を正面から受け止めた。
「ぐ……ぅ……ッ!?」
凄まじい衝撃が御子柴の肺から空気を絞り出す。無防備に技を受け切った相手に僅かに訝しげな表情を浮かべつつも、ディアナはそのまま体固めでカバーに入った。レフェリーが滑り込むようにマットへ伏せ、カウントを叩く。。
「ワン! ツー!」
放送席のオルメカが渋い表情を浮かべる中、観客の誰もが瞬殺による早期決着を予感した。だが決着の寸前、御子柴の右手が跳ね上がり、肩がわずかにキャンバスから浮く。カウント2.9。
「……あぁ♡ いい……いいよぉ♡ もっと……もっとオレを壊してみろニャ……!」
苦痛に顔を歪めながらも、御子柴の唇からは快楽に震える熱い吐息が漏れていた。その脳裏には、かつて同期として競い合い、今や遥か遠い背中となってしまった男──三郎太の面影が浮かんでいる。彼に対する屈折した執着心を自ら呼び起こすことで、負ったはずの致命的なダメージすら無理やり「快感」へと変換させていたのだ。実況席のオルメカが見せた渋い表情は、早期決着を心配したからではない。この「面倒くさいルーダ」の常軌を逸した挙動を、あらかじめ予測していたが故だったのだ。
「信じられナイ……今のを受けて、笑うのですカ?」
驚愕に目を見開くディアナ。理解できなかった。必要もないのにわざと受ける理由も、無用のダメージを受けて悦ぶ気持ちも彼女の想像の埒外にあった。試合開始前に感じた不気味さは気のせいなどではなかったのだ。夜道で得体の知れない怪異に出くわしたかのような悪寒が、ディアナの背筋を走り抜ける。
その一瞬の戦慄による隙を、御子柴が見逃すはずがなかった。フォールを諦め、身を離そうとするディアナ。レフェリーがカウントの必要なしと判断して立ち上がり、ほんのわずかに視線を外したその瞬間──御子柴の腕が蛇のように伸び、ディアナの髪を力任せに鷲掴みにした。
「容赦なく瞬殺狙いとは良い性格してるニャ、感心したぜ!」
レフェリーの死角を完璧に突き、掴んだ髪を己の顔面へと引き寄せる。同時に、下から突き上げるような強烈なヘッドバットをディアナの顎先へカチ上げた。
「アァッ!?」
脳を揺らされ、反射的に目を閉じたディアナの頬をすかさず硬い拳で打ち据える。そのままマットへ転がすと、覆い被さるようにしてマウント体勢を奪った。そして、ディアナの細い喉元へ自身の前腕を容赦なく押し当てていく。気道を圧迫されて、ディアナの表情が歪み、苦悶の声が漏れた。異変を察知したレフェリーが反則の有無や、ディアナに抗議の意思があるか、声を出していないかを確認しようと覗き込む。だが、御子柴は巧みに自身の重心を移動させ、常にレフェリーとディアナの顔の間に自分の背中が割り込むように位置取った。プロの悪役(ルーダ)が持つインサイドワークが極めて悪意に満ちた形で十全に行使されていた。
レフェリーの目を欺いたまま、御子柴の攻撃はさらに陰湿にエスカレートしていく。マウントで組み敷いたまま、空いた指先でディアナの腋の下や股間など、急所となる神経の集まる部位を執拗に突き、嫌らしく抉る。
「アッ!? や、やめなさイッ! これは試合でスよッ!?」
競技としてのプロレスから逸脱した、卑劣なセクハラ交じりの心理攻撃。未知の辱めに、ディアナの表情に露骨な嫌悪感と動揺が浮かぶ。客席からも、困惑のどよめきと下品な口笛、野次と歓声が入り混じる。
「あはは! 嫌がってる顔、最高だニャン♡」
狼狽するブラジルの黒豹を見下ろし、日本の地獄猫は蠱惑的な笑みを深めると、獲物を味わうようにねっとりと舌なめずりをして見せた。
リング上の凄惨かつ、どこか艶めかしい光景に、ドームの観客席がどよめきと奇妙な興奮に包まれる。
『あーあ、やっぱりな』
リング上の様子をモニター越しに見据えながら、エル・オルメカは深く、重いため息をついた。
『おおっと、速攻大技の連発で勝負をきめにかかったディアナ・ライアルでしたが、ガータ御子柴の言葉に動揺を誘われ、マウントをとられてしまったぁ!?』
呆れ果てたような解説者の呟きを拾いながら、実況アナウンサーが慌ててマイクに声を張り上げる。
『……御子柴は相変わらず、というかますます悪辣になったな』
オルメカは腕を組んだまま、苦々しげに画面を睨む。その口から漏れたのは、ファン垂涎ものの、だがしかしあまりにも不穏な「メキシコ修行時代」の裏話だった。
『さすが指導役の先輩ルーダに「こいつヤバイぞ、このまま仕込んでしまっていいのか?」と上に相談させただけのことはある。メキシコの興行でもお子様の目の毒と悪い意味で評判だった……』
『えぇ……』
ドン引きした実況アナの短い引きつり声が、公共の電波に乗って全国へ流れる。しかしオルメカの暴露は止まらない。
『ウチの団体に来たばかりの頃は、素直で可愛い娘だったのになぁ……』
オルメカは覆面の奥にある目を伏せて、大仰に頭を振ってみせた。日本代表のルーダが抱える、あまりに早すぎた「黒歴史」の開陳。だが、その声はしっかりと、リング上でディアナの喉元を押さえて攻め立てていた当人の耳にも届いていた。
「おいコラ、解説ゥ! 余計な事喋るんじゃねーニャ!?」
御子柴が顔を跳ね上げてリング下に怒号を飛ばす。さっきまでのサディスティックな笑みはどこへやら、その顔はまるで熟しきったトマトのように真っ赤だ。うも昔の話はNGであるらしい。
いまだ頬を赤く染めつつも、相手のペースを完全に乱したと判断した御子柴は、不意に真剣な表情を見せた。喉元に押し付けていた腕を離して立ち上がると、激しく咳き込むディアナの両脚を容赦なく掴み取る。インディアンデスロックの形に両脚をガッチリと固め、さらに彼女はディアナの身体に絡みつくようにして、その上体をコブラツイストの要領で鋭く搾り上げた。
「オラオラァ、こいつで決めてやるニャ!」
それはかつて日本のトップレスラー、ザ・モモタロウが得意とし、最近では御子柴の愛憎のターゲットである三郎太も使うようになった技──モモ・スペシャルその2「アグラツイスト」の模倣だった。
「ガ……アァッ……!?」
脇腹が引き攣れ、膝関節にかかる激痛がディアナを襲う。必死に身悶えて暴れるが、蛇のように絡みついた御子柴のロックは容易には外れない。しかし、どれほど形を真似ようとも、三郎太のそれと比べれば根底にある練度が決定的に足りていなかった。無意識のうちにかつての三郎太戦を思い出し、「今、彼と同じ技を自分が使いこなしている」という歪んだ感傷に浸った御子柴。その一瞬の心の隙を、百戦錬磨の「黒豹」は見逃さない。
「あ、甘いでス!」
ディアナは渾身の力で上半身の拘束を跳ね除けると、自由になった右腕をしならせ、強烈なエルボースマッシュを御子柴の顎へと叩き込んだ。脳を揺らされた御子柴がたまらずよろめく。その隙にディアナは強引に脚を引き抜き、転がるようにして地獄の関節地獄から脱出した。
「チッ……あいつみたいにはやれねーかニャ……」
忌々しげに吐き捨てる御子柴。だが、その背後をディアナが瞬時に捉え、完全に羽交い締め(フルネルソン)に捕らえていた。ディアナは腰を深く落として御子柴の巨体を強引に抱え上げると、ブリッジして反り投げる。完璧なフォームから繰り出された、投げっぱなしのドラゴン・スープレックス。御子柴の身体は美しい弧を描き、凄まじい勢いで頭部からマットへと叩きつけられた。
「ぐは……ッ!?」
キャンバスの反動で弾むようにして転がった御子柴の身体が、ロープ際で力なくダウンする。
「ハァ……ハァ……ッ! チッ……!」
荒い息を吐きながらマットを叩き、悔しさを露わにする御子柴。だが、のたうち回りながらも、その瞳の奥にはまだ消えない狂気の火がギラギラと灯っている。よろめきながらも執念深く立ち上がる御子柴へ、ディアナは追撃の突進を仕掛ける。だがそれに対し、御子柴はまたしてもレフェリーの身体を盾にした。
「なっ……!?」
御子柴は近くにいたレフェリーの腕を掴んで自分の前へと引き寄せ、ディアナとの間に肉の壁を作ったのだ。突進の勢いを急には殺しきれず、ディアナはレフェリーと激しく衝突してしまう。弾き飛ばされたレフェリーは、低い体勢で背後にいた御子柴に躓くようにして、ロープの間をすり抜けて場外へと転落していった。
「だ、大丈夫ですカ!? すいませン、わざとじゃ……!?」
ディアナは慌ててトップロープを掴んで身を乗り出し、リング下で腰をさするレフェリーへ必死に声をかけた。故国ではレフェリーに疎まれることは選手生命の危機に直結する。彼女にとっては、何よりも最優先でフォローすべき対象だったのだ。それが彼女にとっての「リングの常識」だった。幸い、レフェリーもディアナに非がないことは理解しているらしく、顔をしかめながらも「気にするな」とばかりに手を振って見せた。
だが、ディアナがほっと安堵の息を漏らしたその瞬間、背後から御子柴の非情なローブローが放たれた。
「よそ見すると危ないニャン♡」
彼女の前腕がディアナの股の間をしたたかに打ち据えた。
「ウ、グゥ……ッ」
激痛にその場に悶絶し、膝をつくディアナ。そんな彼女を冷酷に見下ろしながら、御子柴は自らのコスチュームの隙間に仕込んでいた、細く鈍い光を放つ鎖を取り出した。
「『処刑』なんてダサいよなぁ? 断罪とか執行とか中二臭くて笑っちゃうニャ。オレは……もっと『近い』のが好きなんだけど、ディアナはどう?」
御子柴は笑いながら、自身の左足首とディアナの右足首を、そのスチール製のチェーンで固く結びつけ、連結した。
ガチャリ、という硬質な金属音が、レフェリーの消えたリングに冷たく響き渡る。それは、どちらかが完全に斃れるまで決して離れることのできない、「密着した檻」の完成を意味していた。
『何という事でしょう!? 高度な技の応酬から一転、レフェリーを盾にしての卑劣な攻撃! ガータ御子柴の悪行は留まるところを知りません!』
絶叫する実況の隣で、オルメカは腕組みをしたまま、どこか遠い目をして呆れたように呟く。
『やれやれ、アオルカドの奴を煽ってんのか……』
その意外な名前に、実況アナが手元のモニターから一瞬だけ目を離し、すかさず食いつく。
『「処刑がダサい」とかいう発言ですね? エル・アオルカドと言えば先の試合で勝利し二回戦進出を決めたメキシコ代表選手ですが……やはりガータ御子柴とは?』
『ああ、同じ団体……っていうか、ほとんど同門だな。二人を指導したのは同じ人物だし、悪役としてのお披露目デビューしたのもほぼ同時期だった。タッグも組んでたぞ』
オルメカは覆面の奥でふっと懐かしむような気配を見せ、それから「ふむ」と顎をさする。
『……そういや同門同陣営のせいで、直接対決の試合は組まれた事なかったな』
解説が明かす驚きの裏話に納得したのも束の間、リング上の「決定的な異変」に気づいた実況アナが、再び悲鳴のような声を上げる。
『なるほど、二回戦で待ち受けるエル・アオルカドを強烈に意識した発言ということですね。……って、何ィ!? ガータ御子柴、ここでディアナ・ライアルと自身の脚をチェーンで連結したァ!?』
リング上に響いた冷酷な金属音と同時に、ドームの空気が完全に凍りつく。
『おお、チェーンデスマッチだな!』
おぞましい凶器の登場に、オルメカはむしろ感心したような声を漏らした。
『「おお」じゃありませんよ、あまりにも堂々としてて突っ込みづらいですが、コレ、完全に反則ですから!?』
レフェリー不在のリング上で、白昼堂々と執行された狂気の足枷。実況アナの必死のツッコミが響き渡る中、ドームを埋め尽くす観客席からは、困惑──そして、それを遥かに凌駕する凄惨な死闘への期待に満ちたどよめきが、地鳴りのように湧き上がりつつあった。
逃げ場のない、そして自分自身の最大の武器である「機動力」を根底から否定する、冷たく重い鎖の感触。距離を取っての立て直しも、縦横無尽のステップも、そして十八番であるはずの美しい飛び技も──そのすべてが、たった一本の鉄の鎖によって無慈悲に断たれたことを悟り、ディアナの表情に、これまでにない戦慄が走り抜ける。
御子柴は血走った眼で、ディアナの顔を至近距離から覗き込んだ。
「逃がさねーよ……最後までオレと繋がったままニャ!」
鎖の冷たい感触が、ディアナの足首を締め付ける。自由を奪われた恐怖が、ブラジルの熱き黒豹の理性をわずかに削り取った。
「フゥ……! フゥ……! 外しなさイ、こんなノ…ッ!」
ディアナは叫び、至近距離から渾身の掌底を突き出した。放たれた一撃が御子柴の顎を激しく撃ち抜き、その脳を揺らす。だが、御子柴は逃げない。いや、逃げられないのだ。鎖で動きを制限されているのは彼女も同じなのだから。しかし、致命的な危機にあるはずの御子柴の瞳には、狂おしいほどの歓喜がギラギラと宿っていた。その狂気に満ちた目を正面から見てしまい、打ち据えた側であるはずのディアナの方が怯んでしまう。
「あはは! 痛ぇニャア! いいぜ、もっとくれよ! でも……鎖は嘘つかねーんだニャ!」
御子柴は掌底の衝撃を肉体で耐えながら、ディアナの胸倉を掴んで強引にその重心を崩した。同時に、自身の脚を引いて、連結された鎖を力任せに手繰り寄せる。ディアナの体勢が大きく崩れた。すかさず御子柴は獲物の足首を片腕で捕らえると、その場に泥臭く座り込み、深く、鋭くアンクルロックを極めた。
「ア、アアアァァッ!」
逃げようにも、鎖の張力がディアナの足を御子柴の懐へと固定している。逃がれられぬ関節技が、普段に倍する激痛となったかのようにディアナの神経を逆撫でした。御子柴は自身の足首にも食い込む鎖の痛みを「愛の証」であるかのように享受し、さらに脇を締めて絞り上げる。ミチミチと筋が軋む嫌な音がリングに響く。
ディアナは必死にロープへ手を伸ばすが、突っ張った鎖がそれを阻み、あと数センチがどうしても届かない。だが、この絶望的な状況下で、彼女はベテランの意地を見せた。自由な方の足でマットを強く蹴り、無理やり身体を反転させてアンクルロックのクラッチを切る。そのまま鎖のわずかな遊びを利用して御子柴の背後へ回り込むと、その腰をガッチリとクラッチして無理やり引き起こした。
(このまま、投げて……!)
ディアナは渾身の力を込め、ジャーマン・スープレックスの体勢に入る。美しいブリッジで御子柴をマットに沈めようと、背中を大きく反らせた──その瞬間だった。ガチリ、と鎖が不吉な音を立てて限界まで伸びきった。
「アグッ……!?」
ブリッジを完成させるために絶対に必要な「後方への可動域」が、足首の連結によって完全に封殺されていたのだ。頭では無理だと分かっていたはずなのに、10年近く闘い続けた身体が、染み付いた勝利への最適解(動き)に無意識に従ってしまっていた。ディアナの顔から、一気に血の気が引いていく。
投げを打とうとした力は行き場を失い、ディアナは御子柴を抱えたまま、無様に背中からマットへ転倒した。
「こ、こんな……嘘でス……ッ!?」
技術と経験を無数の古傷と共に刻みつけてきた肉体を、たった一本のチェーンによって物理的に全否定された絶望感が、ディアナを支配する。今度こそ本当に思い知る。投げられない、飛べない、走れない。四角いジャングルを縦横無尽に駆けるはずの「黒豹」は、今や冷たい檻の中で足掻くしかない無力な獣へと成り下がっていた。こんなはずはない。ディアナは鬼気迫る表情で現実を拒絶するかのように身を動かす。足が使えないならば、手がある。
彼女は転倒したまま、絡み合う御子柴の腕を瞬時に捕らえると、ハンマーロックへと移行した。
「これ……なラ……! ギブアップしなさイッ!」
上半身の筋力を総動員し、御子柴の肩関節をへし折らんばかりに極めにかかる。
「ぐっ、あぁ……ッ! ケケ、やるじゃんか」
御子柴は苦悶に顔を歪めながらも、自由な方の手を伸ばしてディアナの髪を乱暴に掴み取った。
「けどよぉ、オレを止めるには……まだ温いんだニャ!」
次の瞬間、御子柴は自身の関節が外れる恐怖など微塵もないかのように、強引に上体を反らせ、己の後頭部をディアナの顔面へと激しく叩きつけた。
「アァッ!?」
鈍い衝撃音と共に、火花が散る。一度、二度、三度。狂気的なヘッドバッド。ディアナの鼻が打たれ、溢れ出した鼻血がディアナの顔面を汚していく。激しい頭突きに怯んだディアナの腕が、わずかに緩んだ。
その刹那、御子柴は脚で器用に鎖を巻きとると力一杯、引っぱり、ディアナの体を脚側へ寄せた。腕のロックが角度を変えたせいで意味をなさなくなり、御子柴は体勢を入れ替えて技から脱出する。
すぐさま膝立ちに身を起こした御子柴は、体重を乗せた鋭いエルボードロップを投下した。それはディアナの顎をかすめ、無防備な喉元へと容赦なく突き刺さる。強烈な衝撃に脳を揺らされ、完全に呼吸を阻害されたディアナの意識は、深い、深い霧の彼方へと追い込まれていった。
レフェリーはリング上に戻っている。ディアナが反則に抗議さえすれば即座に反則カウントをとられる状態だ。いや、カウントどころか鎖を外せず、先ほどのレフェリーを盾にする行為も合わせれば、御子柴は反則負けとなってもおかしくない。だが、EQTの大会規定は非情である。被害者が抗議をおこなった場合のみ、レフェリーは反則への対処を開始できるのだ。だが、肝心の彼女の意識は朦朧として言葉を発せない。
ガシャン、ガシャン、と鎖を引きずる不吉な音が、不気味に静まり返ったリングに響いた。御子柴はダウンしたディアナの身体を無理やり引き起こすと、肩を貸すようにして、引きずりながらコーナーポストへと向かっていく。一歩進むごとに、互いの足首に食い込む金属が肉を削り、鮮血の跡を残していく。だが御子柴は、それすらも愛しい人に責め立てられている痛みであるかのように、恍惚の表情を浮かべていた。
御子柴は意識の混濁したディアナを強引に担ぎ上げ、セカンドロープ、そしてトップロープの頂点へと登りつめていく。足首を繋ぐ鎖が、二人を逃れられぬ一つの塊として固定していた。
「一緒に堕ちようぜ、月の女神(ディアナ)様よ。深淵(アビス)の底まで、さあ……♡」
狂気を孕んだ気合と共に、御子柴が吠える。放たれたのは、彼女の最大にして最凶の必殺技──「アビスキャット・ドライバー」。雪崩式の変形スパインバスターが、重力と鎖の拘束による絶大な威力を伴って、キャンバスへと炸裂した。通常の落下の衝撃に加え、連結された足首へ容赦なく鎖が食い込み、凄惨な激痛が二人を同時に襲う。
「……ッ!!」
マットに叩きつけられたディアナの身体は、声なき悲鳴を上げ、もはやピクリとも動かない。御子柴は鎖に繋がれたまま、心中でも遂げたかのような、虚ろで、どこか満たされた瞳をしてディアナの肉体へと覆い被さっていた。
レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
乾いたゴングの音が、会場を切り裂いた。
スリーカウントによる決着を告げるべくレフェリーがマットを叩き終えた瞬間、東京ドームの観客席は一瞬の静寂ののち、爆発的な大歓声と、それ以上に巨大な悲鳴と困惑の渦に包まれた。あまりにも惨烈な心中劇。ディアナがマットの深淵へと叩き落とされた光景に、観客たちは総立ちとなり、ある者は頭を抱え、ある者は異様な興奮に顔を上気させてリングを凝視していた。
狂気と混沌の余韻が冷めやらぬ放送席で、実況アナウンサーが震える声を極限まで張り上げる。
『決まったぁ! ガータ御子柴の代名詞とも言えるフェイバリット! アビスキャット・ドライバーによってブラジルの黒豹は四角いジャングルから奈落へと引きずり込まれてしまったぁ!』
その絶叫を遮るように、オルメカが解説席の椅子を蹴立てんばかりの勢いで立ち上がった。その声音には、これまでの軽妙な楽屋裏トークは一切消え失せ、本物の危機感が満ちていた。
『あれはヤバいぞ。医療スタッフを急がせた方がいい! 二人の足首は大丈夫そうだが……ディアナの意識は完全にオチている! 担架だ、急げセコンド!』
『コーナー上から二人分の体重を一身に浴びせる恐ろしい技です。いかにベテランとは言え、軽量のディアナには厳しい一撃でした』
顔を青ざめさせる実況の横で、オルメカはリング上でぐったりと横たわるディアナを凝視し、覆面の奥で苦渋に満ちた歯噛みをした。
『ああ、あの嬢ちゃんは脂肪が足らん、ちと身体を絞り過ぎている……いや、満足に食えていないのか……? とにかく、しっかり身体ができているかどうかはタフネスを大きく左右する要素だ』
そして、そのプロの目は、いま担架へと乗せられようとしている哀しきルタドーラの「真実」をも見抜いていた。
『それに隠しちゃいたが、全身あちこちに歪みと怪我の形跡がある……ブラジルの団体は何を考えてるんだ』
妹たちのために泥水をすすり、満身創痍の身体で戦い続けてきたベテランの哀しき背景。オルメカの怒り混じりの指摘が、ドームの観客席へ、そして画面の向こうのファンへと重く突き刺さる。
『今、ディアナ・ライアルが鎖から解放され、担架で運び出されます。いや、どうやらガータ御子柴も意識を飛ばしているようです! 太平プロのセコンドも担架をリングに入れました!』
『平気なカオしちゃいたがアイツも限界だったか……』
オルメカの呟き通り、ディアナの身体の上に覆いかぶさったままの御子柴もまた、ピクリとも動かなかった。狂気に脳を麻痺させていようとも、肉体の限界はとうに超えていたのだろう。凄惨な激闘を繰り広げた二人の若きレスラーが、奇しくも並んで担架で運ばれていく。
異様すぎる光景を見送る観客席からは、もはや勝者と敗者の区別すら失われた、割れんばかりの惜しみない拍手が注がれていた。
こうして本戦一回戦の最後の試合の勝者はガータ御子柴となり、彼女の二回戦進出が決定した。しかし、二人の意識は勝敗など届かぬ深い奈落の底で、いまだ静かに眠ったままであった。