「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
熱狂が渦巻く東京ドーム。リングへと続く──しかし、その喧騒から遮断された試合前の控室。ジェニー・葛葉はパイプ椅子に腰掛け、セコンド係の練習生に頼んで左膝のテーピングを巻き直させていた。ガッチリと固められていく患部をどこか他人事のように眺めていると、控室の扉が遠慮がちにノックされた。
「結城です。今、大丈夫ですかね?」
「へーきだよ。別にマッパじゃない」
扉越しに掛けられた言葉にあっけらかんと返すジェニー。
「ジェニー先輩!? 言い方を考えてくださいよ!?」
慌てた様子で抗議を交えつつ顔を出したのは、「ノワール・ゲート」の後輩である結城蓮だった。その眉根は心なしか八の字に垂れている。
「どしたん、レンレン?」
首を傾げるジェニーに対し、結城はどこか落ち着かない様子でちらりと背後を振り返った。
「……いえ、神宮寺さんの控室なんですけど。ハイジ……じゃなかった、シュタールさんが押しかけてて……神宮寺さんに文字通りへばりついて『我が軍師になれ~』とかしつこくスカウトし続けてて……なんていうか空気的に居づらいんですよね。なので、応援がてらこっちに挨拶を、と」
頭を掻いて言う結城に、ジェニーが笑う。
「あはは! なにそれ! 神宮寺クンのこと好きになっちゃったのかな?」
「えぇ……あんな恥ずかしい……その、一連の技で負けて、それはないでしょ……。あ、そうだ。伝言があったんでした」
「伝言?」
ジェニーが片眉を上げると、結城は少し真面目なトーンに声を落とした。
「ええ、神宮寺さんから。『テーピングは入念にしたようだが、膝のこと忘れてぽんぽん跳ぶなよ』……だそうです」
ジェニーは一瞬だけ丸く目を見開き、それからすぐに、いつものように「にへら」と締まりのない笑みを浮かべた。
「うん、わかった! ありがと、レンレン!」
その笑顔は、どう見ても「わかってない」人間のそれだった。結城は深い不安を宿した目で眉を寄せ、ジェニーの脚を固めていたセコンド係の練習生たちと顔を見合わせる。そして、視線だけで無言の高速会話を交わした。
『ダメカナ?』『ダメダヨ』『タブンネー』
悲しいことに、そこにいる三名の見解は寸分の狂いもなく一致しているようだった。だが、ジェニーは周囲のそんな危惧などどこ吹く風。もうテーピングの処置も済んだとばかりに勢いよく立ち上がると、その上に愛用のニーパッドを装着し、眩しいリングへ向かうための準備を着々と整えていくのだった。
一方その頃、シロオニ・ベスの控室では、重苦しい静寂が満ちていた。鏡の前に座るベスの髪を、同僚であり友でもある松平美樹が、赤いバンダナを用いて丁寧に巻き直している。
「……三郎太クンのこと、気にしすぎないでね、ベス。目の前の相手のことだけを考えて」
「心配性ですね、美樹は。私が何か一つ注意したら、他を忘れるとでも思ってるんですか?」
ベスは自嘲気味に軽く笑ってみせたが、美樹の手は止まり、鏡越しにベスの瞳をじっと見つめ返した。その目は完全に据わっている。
「だってベスって、集中すると極端に視野が狭くなるし。前のタッグ戦の時だって、敵陣の動きを完全に見落としたり、相棒のサインを見落としたり……」
「うぐっ……」
ジト目の美樹から放たれた、あまりにも的確すぎる痛撃。それは過日、三郎太と組んで戦ったタッグマッチにおいて、アイサインを盛大に勘違いし、決定的なハンドサインすら見落としていたことを試合後に指摘されて歯噛みしたベスにとって、最も抉られたくない急所であった。
「……だ、大丈夫です。今、美樹の注意を有難く脳裏に刻み込みましたから。それに、その……あれです。私は私の戦いをします。鬼には鬼の生き方がある、という所です」
その言葉を聞いた瞬間、美樹の身体が硬直した。「人には人の生き方が。鬼には鬼の生き方がある」──それはかつて、鬼の頭領であるイワン・シュテンドルフが、モモタロウを庇って壮絶な最期を遂げた戦いで叫んだ言葉。美樹はそれをモモタロウを抱き起し、まさに庇われながら間近で見ていたのだ。
アカオニ・トムからは、「ベスにはまだシュテンドルフの死にまつわる詳細は話していない」と聞いていたはずだった。だが、知るはずのないその呪縛のような言葉を、ベスは今、あまりにも自然に口にした。やはり彼女の血肉には、脈々と鬼の末裔としての宿命が流れているのだと、美樹は肌で感じざるを得なかった。
急に神妙な顔つきになり、黙り込んでしまった美樹の様子を、ベスは訝しげに見やる。しかしすぐに気を取り直したように立ち上がると、頭部に巻かれた赤いバンダナの結び目にぽんと触れた。
「まぁ、見ていなさい美樹。このシロオニ・ベスの戦いぶりを」
不敵に微笑むその仕草には、気遣う友への確かな信頼と、これから向かう戦場を己の力で切り拓くという、揺るぎない覚悟が宿っていた。
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EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦、第二回戦の幕が上がる。割れんばかりの歓声で最高潮に達した会場の熱気が、眩い照明の下に立つ二人の若き才能を鮮烈に浮かび上がらせていた。
まるでダンスを踊るような足取りでトップロープを軽々と飛び越えリングインしたのは、新興団体「ノワール・ゲート」の若きエース、ジェニー・葛葉だ。彼女は、ブロンドの癖毛を揺らし、頭の上に両手で狐の耳を作る愛嬌たっぷりのポーズを決め、四方の客席へ天真爛漫な笑顔を振りまく。その薄紫色の瞳は好奇心でキラキラと輝き、ピンクとスカイブルーのセパレート衣装にフリル付きのミニスカート風パンツという出で立ちは、彼女の底抜けの陽気さを体現していた。
対して、日本有数の老舗団体「太平プロレス」に居候する米国からの刺客、シロオニ・ベスは、羽織っていた白装束を思わせる白い着物を無造作に投げ捨て、ロープの間を潜って厳かにリングインしていた。彼女は静かにアッシュブロンドのショートボブを微かに揺らし、グレイッシュブルーの瞳で冷徹にジェニーを見据える。黒と赤を基調とした金のアラベスク模様のビスチェが、凄絶な「鬼」の威厳を放っている。
動と静。陽と陰。まったく対照的な二人だが、ただ一つだけ共通しているものがあった。それは、過酷な連戦をくぐり抜けてきた生々しい痕跡だ。ジェニーの膝には、前日の予選と本日の一回戦で狙われてきたダメージを庇うよう、厳重なテーピングが施され、稀にしか付けないニーパッドが装着されている。そしてベスの額にも、生え際から流血した傷跡を保護するように真っ赤なバンダナが巻かれていた。
その緊迫したリングの様子が、会場の巨大スクリーンと中継モニターに大写しになる。放送席の実況アナウンサーは、手元の資料を叩くようにしてマイクに声を張った。
『さぁ、EQT本戦ベスト8が出そろい、これより二回戦に入ります! その幕開けとなる第一試合は日本代表選手同士ながら米国人とハーフというプロレス大国の一角らしい国際色豊かな一戦! 対戦カードはオニガシマブラザーズの末妹である「シロオニ・ベス」と、黒き門から出ずる太陽の天狐「ジェニー・葛葉」の一戦です! そして、解説には一回戦で英国代表選手、ローラに惜しくも敗れた赤ずきんさんにお越し頂いております!』
赤ずきんはオトギプロのロゴ入りのあずき色のダサいジャージに身を包み、ヘッドセットをつけて解説席に座っていた。額とこめかみ辺りに絆創膏を貼った顔を傾け、小さくお辞儀をしてモニターへと視線を戻す。
『どうも、よろしくお願いします。……凄いですね~。二人が、リングに立っただけで会場の空気が変わった気がします』
まだ一回戦の激闘の余韻が残るその瞳が、じっとリングを凝視する。
『赤ずきんさんは日本の地方団体「オトギ・プロレスリング」の若手エースという事で、「太平プロ」のエース、三郎太のライバルであるシロオニ・ベスや、「ノワール・ゲート」のエースであるジェニー・葛葉とはポジションも近いと聞きますが?』
実況から鋭い問いを投げかけられ、赤ずきんは一瞬、マイクの前で拳を小さく握りしめた。同世代のトップを走る二人への意識が、彼女の口調をわずかに揺らす。
『ええ、でも私、ジェニーさんともベスさんとも直接試合したことはないんです。だからこそ、この試合は興味深いって言うか……自分が同じところまで進めなかったのが悔しいって言うか……』
赤ずきんの言葉には、敗者として解説席についている自身の現実への悔しさと、それと同時に二回戦の舞台に立つ勝者へ向ける純粋な敬意が入り混じっていた。プロレスラーとしての本音を隠さないその言葉に、実況アナウンサーも深く頷き、再びリングへと視線を向けた。
『成程。複雑なご心境ですね。さぁ、まもなくゴングの時間です。この決戦、見守ってまいりましょう!』
レフェリーが両者を手招きし、決戦の火蓋が切られようとする東京ドームの喧騒に実況の声が溶けていく。リング中央で対峙する二人の距離が狭まった。
「あは! ベスちゃんとは初対戦だね。今日はよろしく! 最高の試合にしよう!」
ジェニーが屈託のない笑顔で右手を差し出す。しかし、ベスはその手を取ることはなかった。
「生憎、私はあなたと『遊ぶ』つもりはありません。ここで勝てば準決勝で三郎太さんとの直接試合……譲る気はないわ」
言われて気が付いたかのように、ジェニーの表情に驚きが浮かび──直後、凄絶な笑みに変わる。ベスにとっては来日直後に敗れてからの満を持してのリベンジの機会。だが、ジェニーにとっても一勝一敗の関係である三郎太との雌雄を決する機会だ。
「そっかー。なるほど、真剣勝負ってわけだね、ワクワクしてきたよ」
ジェニーの天真爛漫な笑顔の裏から、肌を刺すような闘気が立ち昇る。それを正面から感じ取り、ベスもまた笑みを深めた。
「……容赦しませんよ」
冷ややかなベスの宣言と同時に、試合開始のゴングが鳴り響いた。
歓声を引き裂くような鋭い踏み込み。ジェニーはトップロープの高さをも凌駕する驚異的な跳躍力で宙を舞うと、助走の勢いをすべて乗せた弾丸のようなドロップキックを放つ。コーナーから駆け出し、初撃のショルダータックルを狙っていたベスは、その一瞬のスピードに完全に裏をかかれた。咄嗟のガードが間に合わず、ジェニーの足裏が、ベスの顔面を真正面から射抜き、重い衝撃音がドームに響き渡った。
「……っ!」
ベスの体が大きくのけぞる。早々の有効打。主導権を握ったジェニーは、しかし着地の衝撃を殺しきれず、テーピングがミリミリときしむ左膝を庇い、わずかに踏み込みが遅れる。のけぞり、後退を余儀なくされながらも驚異的な体幹でダウンを拒否し、踏み留まったベスは、その隙を逃さなかった。岩のような質量を宿したショルダータックルを、構わず再始動。突っ込んでくるジェニーを、正面から肉体の壁で弾き飛ばす。
「うわわっ!?」
まるで大型トラックに衝突したかのような衝撃の前に、ジェニーの華奢な体が文字通り宙に浮き、激しくマットへ叩きつけられる。
「遊ぶつもりはないと言ったはずです」
ベスは倒れたジェニーの首根っこを掴んで強引に引き起こすと、至近距離から、容赦のないエルボー・スマッシュを炸裂させた。突き上げるような一撃がジェニーの顎をカチ上げ、頭部が激しくのけぞる。
「あは……効く……っ! でも、こうじゃなきゃ!」
脳をかき回されるような衝撃に視界が明滅する。しかし、ジェニーの唇は凄絶に吊り上がったままだ。瞳の奥の熱が、さらに跳ね上がる。ベスがその頭部を完全に圧殺せんと、太い指先を広げてアイアンクローの手を伸ばした瞬間だった。ジェニーはその腕を絡め取るようにして、一瞬で懐へと潜り込む。
「つかま、えた……!」
変形ファイヤーマンズキャリー──『狐火キャリー』の体勢。ベスの重い肉体を肩に担ぎ上げた瞬間、ジェニーの左膝がギシリと軋む。痛みに顔を歪めながらも、彼女はアドレナリンと筋肉のフォローでそれを黙らせ、勢いよく背後のマットへベスを叩きつける。背中を強打し、一瞬呼吸が止まるベス。そこへ、ジェニーは間髪入れずに追撃の低空ドロップキックを叩き込んだ。起き上がろうとしたベスの足元を正確に撃ち抜き、再びマットへ這いつくばらせる。
「チッ……! 鬼をそう簡単に揺さぶれると思うな!」
打ち抜かれた下肢の激痛を、ベスは奥歯を噛み締めて強引に噛み殺した。鬼気迫る表情で立ち上がる。「身軽なだけではない」と狐娘の脅威を認めつつも、その眼光は、まだ微塵も衰えていなかった。
試合開始早々、ハイスピードな立ち上がりを見せるリング上の激しい攻防に、興奮した様子で実況アナウンサーがマイクを握りしめる。
『さぁ、ここまでは一進一退の攻防! どちらも一歩も譲らぬぶつかり合いです! 赤ずきんさん、ここまでの展開、いかがですか!?』
実力で同格と目される現役選手ならではの、鋭くテクニカルな分析。それを期待してマイクを向けた実況アナだったが、返ってきたのは予想の斜め上をいく回答だった。
『そうですね~。ジェニーさんはぴょんぴょんズガァーン!って感じで、ベスさんはドカン! ズガン! ずどん! って感じでしょうか。どっちも侮れません』
のほほんと落ち着いたトーンで返された言語跳躍に、実況アナは我が耳を疑った。
『えっ?』
『えっ?』
何かおかしいことでもありましたか、とでも言いたげな自然体の赤ずきん。その曇りなき眼(まなこ)を見つめ、実況アナは絶望的な現実に直面する。
──この解説者、言語系がアカンやつだ。
一方、彼女のオトギプロ興行における実況担当時の有様を知る国内のファンたちは、配信のコメント欄で「知ってた」「可哀想な実況アナ、あなた知らされてなかったのね!」「ぼたんちゃんはさぁ……」などと呟きながら、どこまでも生暖かい視線を画面に送っていた。
『あ……いえ、その……非常に独創的かつ、直感的な表現、ありがとうございます! えーと、つまり、舞うようなステップの中に鋭い一撃を覗かせるジェニー・葛葉に対して、重厚な一撃を確実に見舞っていくシロオニ・ベス! まさに天と地のせめぎあいのようであります!』
咄嗟にプロの語彙力をフル回転させて挽回を試みる実況アナ。しかし、その見事なフォローの裏側で、思わぬ不意打ちのオノマトペ・ラッシュを喰らい、大ピンチに陥っている存在があった。世界同時配信の多言語翻訳を担当する、最新鋭の音声認識AIである。
『Jenie is Pyon-Pyon Zuga-n, and Beth is Dokan Zugan Zudon』
こんな前代未聞の怪電波コードのごとき文面を叩きつけられたAIは、これが日本の伝統的なプロレス用語なのか、学習外の異文化言語なのか、はたまた、ただの語彙崩壊なのか判断がつかずセルフチェックループに突入。このまま世界中に謎の呪文を出力しては不味いことだけはなんとか察し、オペレーターに向けて涙目の緊急SOSを発信していた。
そんな放送席や裏方のカオスなど、リング上の二人には関係ない。至近距離での泥臭い掴み合いは危険と判断したか、ジェニーが自らバックステップで距離を取り、ロープへと飛んだ。その猛烈な反動を利用し、ベスの首を狙って空中を切り裂くようなスリングブレイドを放つ。だが、待ち構えていたのは、ベスの屈強な両腕だった。
「……ハァッ!」
ベスはロープから戻ってきたジェニーの身体を、鋭い眼光で捉えていた。伸ばされた腕を空中で強引にキャッチすると、そのまま胸倉を鷲掴みにする。柔道の下地を感じさせる、相手の突進力をそのまま巻き込むような腰のキレ。そこにベスの圧倒的なパワーが加わった一本背負いが炸裂し、ジェニーの背骨を無慈悲にキャンバスへ叩きつけた。
「……ッ!?」
マットを波打たせるほどの衝撃に、ジェニーの口から苦悶の吐息が漏れる。勝機と見たベスは、すぐさま彼女の腕を掴んでダウンから引き起こすと、ジェニーの身体を強引に抱え上げた。
「これで……沈めてあげます!」
狙うは「白鬼金棒落とし」だ。アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から、バーニングハンマー気味にシットダウン式で垂直に脳天から落とす、必殺の構えである。
ジェニーの身体が高く担ぎ上げられた瞬間、東京ドームに悲鳴に近い歓声が響き渡る。だが、ベスは猛り狂う熱気の中で、ひとつ失念していた。このキツネ娘は、かつてベスの必殺技を冷徹に解体してみせた嫌味なデータ屋──ボーティス神宮寺と所属を同じくする、「ノワール・ゲート」のレスラーだということを。
ジェニーの脳内、神宮寺が残したデータと、自身の卓越した天才的センスが瞬時に火花を散らした。ベスの肩の上で、反転のクラッチを起動する。投げられる勢いに抗うのではなく、逆にベスのホールドを強固な支点にして、自らの肉体を前方へと激しく回転させた。
「しまっ……!?」
自身のフェイバリットの制御を内側から奪われたことに気づき、ベスが驚愕の声をあげる。失態。かつての第二次対抗戦で雨宮月と戦った時はその可能性を想定し、警戒していたにも関わらず、此度なぜ自分はそれを忘れていたのか。だが、すべては遅い。空中でジェニーの身体が美しい円を描く。ベスが放とうとした破壊のエネルギーは、すべて回転運動へと変換され、ジェニーの自重を乗せて倍加した。
「──『鬼切金棒返し』ィ!」
落下のエネルギーをそのまま押し付けられる形で、ベスの後頭部と背中が爆音と共にマットへと叩きつけられた。ベスは、自分が放ったはずの必殺の威力を、そのまま自身で浴びることになったのだ。
「ハァ……ッ! ハァ……ッ! あは、前に神宮寺クンが、ベスちゃんの技をバラバラに解体したの……忘れちゃってた?」
歯噛みしてマットで頭を抱え、身悶えるベスを見下ろし、ジェニーは荒い息をつきながら、よろよろと身を起こした。うつぶせ状態でマットに手をついているベスの両膝の裏を踏みつける。さらにそこから自らの両足を絡め、ガッチリとロックしていった。
「く……ッ!?」
思わず声を漏らすベスの両腕をとって、ジェニーは腰を落としてマットに背をつき、ぐいと彼女の身体を掲げ上げながら、その背中を反らせていく。重量差をものともしない圧倒的な体幹と技術。ロメロ・スペシャルによる完璧な『吊り天井』の形が完成した。
「あは! 良い眺めだね、ベス! でも、ここからキツいよ? ……うらぁ!」
四肢をロックされて引き絞られ、宙に掲げ上げられたベスの顔が苦痛に歪む。逃げ場の無い空間で、両肩と膝の関節、そして背筋にかかる容赦のない激痛に、彼女のスタミナが確実に削り取られていく。ベスは必死に歯を食いしばり、身を揺すって重心を崩し、この屈辱的な体勢からの脱出を試みた。
「ぐぎ……あぁぁッ……!?」
だが、抜けられない、抜けさせない。
凄惨な関節技地獄が展開されているリング上に対し、放送席からは熱を帯びた実況アナウンサーの声が響き渡る。
『あぁ~っと! ここでジェニー・葛葉、シロオニ・ベスをロメロ・スペシャルに捕らえたぁ! 彼女はこの技によって予選リーグで英国のナンバー2、「邪竜」エルザ・ファフニールからギブアップを奪っています! はたして東京ドームのリング上で祭壇となった天狐に捧げられた白鬼は、この拷問技に耐えられるのか!?』
詩的な語彙とハイテンションで、劇的な死闘を演出する実況アナ。しかし、隣に座る解説の赤ずきんは、緊張感の欠片もない様子でモニターを覗き込んでいた。
『ベスさん唸りながら暴れまくってますね~。なのに全然崩れません。え? これ動くたびに重心ブレないように細かくバランスとってるんですか? すごくないですか?』
解説者として呼ばれているはずの同業トップ選手から、あろうことか実況アナへと向けられた純粋な疑問。予想外すぎるパスに、実況アナは引きつった笑いを浮かべる。
『赤ずきんさんの方が私にお尋ねになるんですか……? えぇ、まぁ、その……すごいですね。ジェニー・葛葉は空中殺法を得意としています。バランス感覚もかなりのものと思われますね』
なんとか門前の小僧ばりの知識とアドリブで必死に解説の穴を埋める実況アナ。だが、赤ずきんのマイペースな探求心は止まらない。
『両手両足捕まってますよね? どうやって抜けたらいいんです?』
『いや……私に聞かれても……。赤ずきんさんはロメロ・スペシャルって受けた事とかないんですか?』
もはやどちらが解説なのか分からない逆転現象の中、実況アナが疲労の滲む声で問い返す。すると赤ずきんは、あっけらかんとした様子で首を横に振った。
『それがないんですよ~。近くに使い手の人居なくて機会に恵まれず……あ、観客席に船長がいる。フックさ~ん! フックさんってロメロ使えます? え? バカ? 仕事に集中しろ? ひど~い!』
頬を膨らます赤ずきんと、観客席で注目を集めて羞恥に頬を染め、必死に仕事に戻れと促す中年男性。彼は今はオフでただの客のはずのオトギプロのベテラン悪役レスラーのキャプテン・フック、赤ずきんの同僚であった。間の抜けたやりとりにつられて観客席から苦笑のような笑いが零れる。
『あの……。赤ずきんさん、観客席に呼びかけるのは自重していただけると……』
世界配信のカメラが回る中、完全に身内ノリの雑談空間と化した放送席。胃痛に耐えながら進行を試みる実況アナの哀愁漂う声が、虚しくドームの空を滑っていった。
放送席での実況アナの苦戦をよそに、リング上では「釣り天井固め」による責め苦が続いていた。数分にも感じられるほどの間、逃れられないベスは関節を軋ませ、苦しめられ続けている。だが、彼女は幾度となく問うギブアップの確認を、頑として拒絶し続けていた。
「ふぅ……ふぅ……い、いい加減、ギブしなよっ……!」
「がぁぁ……ッ! わ、私の辞書にそんな文字は載ってない……! 四肢をへし折られても、降参などするものか……ッ!」
互いの身体から汗がマットに滴り落ちる。業を煮やしたジェニーはついに自らロックを解いた。弾かれたように投げ出され、マットに突っ伏して苦鳴を漏らすベス。
だが、ジェニーは情けで解放したのではない。さらなる高み、勝負を決める一撃へと移行するための行動だった。ベスがマットに崩れ落ちて荒い息をつくのを見届けもせず、ジェニーは立ち上がって迷わずコーナーへと駆け出す。
「いっくぞ~!」
観客へ向けてアピールの声を上げながら、彼女はコーナーを最上段までよじ登り、リングを振り返る。白鬼はいまだマットに伏したままだ。ジェニーは意を決して、跳んだ。
放たれたのは、夜空を駆ける流星のごときシューティングスター・プレス。美しい放物線を描き、勝利へ向かってジェニーの身体が宙を舞う。
だが、ここで不幸な「必然」が二つ起きていた。
一つ、ベスの心はまだ折れていなかった。
「……くぁぁぁっ!」
落下地点から逃れようと、ベスは必死に痛む四肢を叱咤し、マットをごろりと転がっていた。
二つ、ジェニーの膝のダメージは彼女の想定以上に響いていた。左脚を庇いながらの跳躍であるが故に、ジェニーの左脚は右脚よりやや低い位置にあった。わずかに跳躍についていけていなかったと言うべきかもしれない。結果、空中でのフォームは完璧ではなく、少し──ほんの少しだけ左足が下方へ落ちていた。
それが凄惨な事故を生んだ。
「――っ……!?」
ジェニーのシューティングスター・プレスは狙い過たず、回転途中で側臥状態のベスを引き潰し、マットに沈めた。衝突音がリング上を支配し、逃げ遅れたベスがジェニーの身体とマットの間に挟まれて、逃げ場のない衝撃に蹂躙される。
そこまではいい。だがその際に、もはや空中で姿勢の変更など利かないジェニーの垂れ下がった左足先が、ベスの硬い踵(かかと)に激突し、不自然な方向へと捩じれ込んだのだ。
──ぐにゃり、と。
「……っ……ぁ……がぁ……!!?」
ジェニーは自身の左足首を押さえ、激痛に顔を歪めた。これまでの天真爛漫な笑みは完全に消失し、顔面を蒼白にさせるほどの鋭い痛みが全身を駆け抜ける。自重と落下の勢いが乗った最悪の捻挫。正常な接地を拒む左足首は、早くも赤黒く腫れ始めていた。ジェニーの額に脂汗がびっしりと浮かび、彼女は脚を抱えてマットの上をのたうち回る。
それを見逃すベスではない。彼女もまた、圧し潰されたダメージは深刻だった。だが、全身の痛みと揺れる意識を、無理やり歯を食いしばって支配下にねじ伏せる。荒い息も整わず、幾度となく膝から崩れそうになりながらも、ふらつきつつ立ち上がる。そしてベスは、マットに倒れて悶え苦しむジェニーを見下ろした。
その瞳には、かつてない冷徹な光、鬼の――いや修羅の如き鋭さが宿っていた。
「ハァッ……! ハァッ……! チャンスを……無駄にはしません!」
ベスは、ジェニーが庇っている左足首を容赦なく狙い、全体重を乗せたストンピング──踏みつけの蹴り足を叩き込んだ。
「がっ……! ……ぁああああっ!」
ジェニーの悲鳴がリングに響き渡る。ベスは無慈悲に、折れた翼を毟り取るようにジェニーの機動力を奪いにかかったのだ。
「ぐっ! ……ぎぃぃッ!?」
(……こ、これがベスの真剣勝負…! あは、そっかぁ…ちょっと頭に来る……けど、この熱さも、ボクのプロレスには今までなかったかな…っ!)
激痛に耐えながら、ジェニーは心底からの悔しさ故に、敢えて強気な笑みを浮かべてベスを睨みつけた。
「ハァ……ハァ……! 三郎太さんの……隣に立つのは私です。あなたとってには代えがたい『好敵手』かもしれないけど、私は『人生』を賭けているのよ」
ベスの冷たい言葉が、試合の終焉が近いことを告げていた。
観客席から悲鳴の混じった困惑の声と切ない声援が入り混じる中、放送席もまた突然の展開に揺れていた。
『な、なんという事でしょう! 事故です、事故が起こってしまいました! ジェニー・葛葉の「シューティングスター・プレス」の一撃が見事に決まったかに見えたその瞬間、どうやら足首を凄絶に捻ってしまった模様です! ジェニー・葛葉、左脚を抱えてマットをのたうちまわっている!』
立ち上がってマイクを握りしめ、叫ぶ実況アナ。その隣で、モニターに映る痛々しいリプレイ映像を見た赤ずきんが、口に手を当てて身を引きながらぽつりとドン引きの声を漏らした。
『うわ……痛そう』
実況アナはもはや、このゲスト解説に頼るのを完全に諦めていた。予想通りの小学生並みの感想が世界中へ配信されたのを気にする余裕もなく、プロの矜持でそのままアナウンスを続行する。
『セコンドはタオルを投げない! どうやらジェニー・葛葉が睨みつけて止めたようです! 事故があってもまだ彼女の闘志は潰えていないのか!? ああ~!? 立ち上がったシロオニ・ベス、なんと痛めた脚へのストンピング!! 鬼です! 容赦しないという試合開始のコメント通り、文字通り降って湧いたウィークポイントを責めている!』
リング上の惨劇に実況アナが悲鳴のような声を張り上げる中、赤ずきんはふと花が咲くような笑顔を浮かべ、ドヤ顔でコメントした。
『鬼だけに』
張り詰めた空気を台無しにする、あまりにも無邪気で場違いなダジャレ。数秒の沈黙の後、実況アナが資料から顔を上げ、すっと冷ややかな目をして言い放つ。
『……すいませんが、ちょっと黙って頂けますか?』
『辛辣!?』
世界戦の最中とは思えない放送席のコントのようなやり取りが、リング上の凄惨な潰し合いとあまりにも異様なコントラストを描き出していた。
「はあああっ!」
ベスの怒号が、掴まれたジェニーの細い体を揺さぶる。左足首の激痛で膝をつくジェニーを、ベスは力任せに捕えて抱え上げる。腰の入ったエクスプロイダーによる反り投げは、逃がれようのない速度でジェニーを宙へと放り出した。綺麗な弧を描き、ジェニーの体は後方のマットへと叩きつけられる。片脚で満足に受身を取れず背中を強打してしまい、肺の機能が一時的に阻害されて呼吸がままならない。
「かはっ……! ……はぁッ! はぁッ……」
ジェニーの口から、酸素を求める喘ぎが漏れる。その表情は苦痛に歪み、ブロンドの癖毛が汗で額に張り付いている。既に限界を超えたジェニーの肉体はトランス状態によるブーストを欲し、彼女の瞳にはライラック色の闘気の光が灯されている。そんなギリギリの状態ながら、彼女には消えることのない純粋な闘志がいまだ折れずに残されていた。
最後まで油断はできない、する気も無い。勝負を完全に終わらせるべく、ベスは倒れたジェニーを引き起こし、頭を下げさせて、その腹部で己の腕を交差させるように掴んでロックしようとした 。必殺の変形ダブルアーム・パワーボム、「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)」の始動態勢である。この一撃が決まれば、いかな天才のジェニーとて沈むのは確実だ。
だが、ジェニーは死に物狂いで抵抗した。彼女の本能がそうさせた。交差状態でクラッチしようとするベスの腕を、折れんばかりの力で掴み、暴れてロックを許さない。
「はぁ……! はぁ……! ダメッ! ボクだって……三郎太にも、ローラにも……挑みたいんだ! そこに見たい景色があるんだ!」
ジェニーの叫びが響く。ベスもまた、これまでの激戦でのダメージは重く、そのスタミナを限界まで削られていた。強引に持ち上げようとしたものの、ジェニーの必死の抵抗に均衡が崩れ、必殺技の形を維持できずに、両者はもつれ合ったまま崩れるようにして組み合いが解けた 。
「はぁ、はぁ……なら、力でねじ伏せるだけ……!」
ベスは必殺技に頼ることを捨てた。ここからは互いの魂を削り合う、執念の殴り合いだった。ベスの闘気の籠った重いエルボーがジェニーの頬を捉えれば、ジェニーは激痛に耐え、左足を浮かせて片足立ちのまま、鋭い掌底でベスの頬を打ち抜き、返す。意地と意地が真正面からぶつかり合い、乾いた打撃音が幾度もリング上にこだまする。
観客たちはその泥臭いまでの意地のぶつかり合いに、ただ息を呑むしかなかった。
「……最後は、ボクが勝つんだぁ!」
ジェニーが最後の力を振り絞り、ダブルアックスハンドルでベスの頭を打ち据える。堪らず頭が下がったベスに対し、すかさずリバース・フルネルソンに捕らえるジェニー。狙うは彼女が予選リーグで強敵ホライズンとの戦いの中で掴み、「そのブリッジに星の輝きを見た」という彼の言葉にあやかって名付けた、超高速の投げ技。「シャインスター・スープレックス」。
しかし、投げの起点となるべき左脚が悲鳴を上げた。足首の激痛、膝の痺れ。右脚だけでは踏ん張りが効かず、ベスの体躯を支えきれない。だが、ジェニーはトランス状態のブーストをこの一瞬で使い切る覚悟で底力を燃やした。
「ああああぁぁ!」
不完全な角度ながら、ベスの体が吹き飛ぶようにして引き抜かれ、そのまま背からマットに叩きつけられる。
「……ッ!?」
衝撃で揺れるキャンバスに跳ねるようにバウンドしてダウンするベス。
だが、沈まない。
執念がベスを繋ぎ止めていた。スープレックスによってマットに叩きつけられてなお、ベスはジェニーの腕を離さない。
「……逃が……さない……ッ!」
ベスはジェニーの腕を強く掴んだまま、鬼気迫る表情で身を起こす。掴まれたジェニーの細い腕が握りしめられてミシミシと軋む。
「あはっ! なら……これならどう!?」
ジェニーはライラックアイの輝きが瞬き、失われかけている半ば朦朧とした意識の中、健在な右脚でマットを蹴って高く跳躍した。起死回生の真空跳び膝蹴り。爆弾をかかえた左膝を叩きつける危険を承知の上での、諸刃の剣をもって斬りかかる。
だが、やはり足首の激痛は致命的だった。集中が乱され、鋭さを欠いた蹴りはベスの顔面を捉えることができず、僅かに角度を外して額へ向かう。だが、構うものか。たとえ額でもこの消耗しきった状態で脳を揺らせるなら──
膝蹴りはベスの額に巻かれた「赤」を捉えた。それは、前日の流血試合によって髪の生え際に刻まれた傷を保護するための柔らかい生地のバンダナ。ベスを友と呼んだ松平美樹が巻いてくれたものだ。バンダナは膝蹴りを受けて、その摩擦で容易くズレ、外れた。結果、滑るように膝蹴りがベスの頭部を掠めて流れてしまう。
ジェニーの目が驚愕に見開かれる。先ほど、彼女を「白鬼金棒落とし」から同輩・神宮寺から倣った返し技「鬼切り金棒返し」が救ったように、美樹のバンダナが今、「真空跳び膝蹴り」からベスを救ったのだ。
「……勝つのは、私だぁ……ッ!」
ベスが雄叫びを上げる。空中で膝蹴りを外したジェニーの喉を、カギヅメのように開いた右手で鷲掴みにすると、彼女の右脚を背後へ刈り飛ばすようにして、喉輪式の大外刈りを放つ。ベスは自らの体重と残ったパワーすべてをジェニーに乗せ、リングのマットへと押し込んだ。
咄嗟に出したものだ。腕もまともに捉えていない。技の形は崩れ、もはやどちらが投げているのか判別できないほどにもつれ合いながら、二人の体は激しくキャンバスを叩いた。
ドォォォン……!!
マットが激しく波打ち、二人の体が重なり合うようにして沈んだ。ベスはこの投げに精魂を使い果たし、もはや動けなくなっていたが、本能だけでジェニーの体の上に覆いかぶさる。かかる重圧が、ジェニーの細い肩をマットに押し付けた。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
レフェリーの手が三度、マットを叩いた。ゴングの音が、静まり返った会場に響く。
爆発的な歓声と拍手がドームを震わせる中、実況アナウンサーの絶叫がスピーカーを引き裂かんばかりに響き渡る。
『入ったァァァァ!! カウント3! 死闘を制したのはシロオニ・ベス! ジェニー・葛葉、やはりあの事故が痛かった! 僅か! ほんの僅かな差が勝負を決定づけてしまいました!』
表情を引き締めた赤ずきんが、決着のついたリング上を鋭い視線でモニターごしに凝視しながら、静かに語り始めた。
『踏ん張りが利かないからこそ跳んだわけですけど、跳んでしまったからこそ反応ができなくなってしまったんですね。私も「クリムゾン・ニールキック」という跳び技がフェイバリットなのでよくわかります。本来イチかバチかではなく、絶対に当たる状況をつくって打たなきゃいけない技ですが、ジェニーさんには後がなかった。……それでも防御を固めるのではなく、最後まで攻撃を選んだんです』
最後の最後まで戦ったジェニーの闘志への敬意を示すように最後に一言締める赤ずきん。しかし、実況はコメントに反応せず赤ずきんを見つめていた。
『…………』
『あれ? 私なんかまた不味いこと言いました?』
あまりの沈黙に不安になった赤ずきんが首を傾げる。数秒のタメの後、実況アナはせき止めていた感情を爆発させるように、ヘッドセットがズレるのも構わず詰め寄った。
『なんで最初からそう言う風にコメントしてくれないんですか? やればできるのにわざとやってました? もしかして喧嘩売ってます?』
鼻と鼻が触れ合いそうなほどに顔を寄せて、ガチの表情でなじる実況アナに、赤ずきんは仰け反って両手をぱたぱたと振る。
『え、ええぇ!? ちちちち違いますよぉ!?』
最後の最後までドタバタと揉める放送席の音声をフェードアウトさせながら、カメラは再び、激闘の余韻が燻るリングの上へと迫っていく。
準決勝に進むべき勝者はシロオニ・ベスに決した。3カウントから試合終了のゴングが鳴り響き、ジェニーの体からは力が完全に抜けていた。左脚をはじめとするあちこちの痛み、全身を満たすこれ以上ない疲労、そして敗北の事実。しかし、彼女の口元には、この日一番の晴れやかな笑みが浮かんでいた。
(あは……くっそー! 負けちゃった。もっと、もっと遊んでいたかったけど……)
悔しさがないわけではない。ローラへの雪辱を果たす道は、ここで一度閉ざされた。けれど、それを上回るほどの充実感が、彼女の心を満たしていた。
「……楽しい真剣勝負だった……かな」
ジェニーの声は小さかったが、そこには一切の濁りがなかった。ベスはジェニーの上から転がり落ちるようにして退くと、荒い息をつきながら彼女を見つめた。
「……貴女、本当に……不可解な人ね。……結局また美樹に助けられてしまったわ」
溜息をつきながら天井照明を見上げるベスの言葉に、ジェニーもまた眩しいライトを見つめながら微笑んだ。ジェニーのプロレス人生は別にこの世界大会、EQTだけではない。またいつか、どこかでチャンスは巡ってくるはずだ。ジェニー・葛葉は、腫れ上がった足首の痛みすらも、この最高の試合の「お土産」であるかのように慈しみながら、静かに目を閉じた。
一方のベスは、勝利の余韻に浸ることなく気持ちを切り替えていた。ただ、三郎太が準決勝に勝ち上がってくると信じて、次なる戦場を見据えていたのだ。彼女にとってのプロレスは、もとより遊びではない。まして最高のターゲットを定めた今は、愛する男の隣に立つための、聖戦なのだ。
こうして、若き二人の「本懐」を巡る激突は、鬼の執念が、天狐の純粋さを、僅かに上回る形で幕を閉じた。