「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第26話 黒鳥散華! の巻【本戦2回戦第2試合「宮川三郎太VSオディール久我」】

 EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦2回戦、第二試合。会場のボルテージは第一試合の熱を受け、最高潮に達していた。色とりどりの照明がリングを乱舞し、熱狂的な歓声がドームの天井を震わせているかのようだ。

 赤のプロレスパンツとリングシューズに身を包んだ宮川三郎太が、実直な足取りでロープの間を潜り、リングに立つ。兄貴分であるモモタロウの失踪後、太平プロレスの若手エースとして荒波に揉まれてきたその体躯は、以前よりも一回り逞しく、鋼のような質感を帯びている。まさに正統派を絵に描いたような、眩しいほどの佇まいだった。

 対角線上のコーナー。そこに、かつての優等生だった「三郎太の後輩」ライジング雫の面影はない。善玉(ベビーフェイス)としての歩みを自ら断ち切り、悪役(ヒール)の闇へと身を浸した女、オディール久我が佇んでいた。黒と紫を基調としたハイレグワンピース、手首を飾る黒い羽のファー、そして素足を艶かしく覆う網タイツ。照明の光をうけた黒い羽根の艶。かつての白を象徴とした清廉なリングコスチュームの面影は微塵もない。だが、その鋭い眼光の奥には、過日の合同興行での襲撃試合で三郎太に心配された「中二病的なロールプレイ」などという言葉では到底説明のつかない、熱く、昏く、そして悲痛なまでの決意が宿っていた。

「雫ちゃ……」

 言葉を遮ったのは掲げられた手のひら。試合前に声をかけようとした三郎太を制してオディール久我はじっと彼を見据えるその目を僅かに伏せ、ゆっくりと頭を振る。かつての二人の関係を知り、その変化に戸惑っているのか。リング上の二人を見る太平プロレスのファンを中心に、客席の一角からどよめきが広がった。

「先輩、わたしはあくまで試合の中での……闘い、ぶつかりあう中での語らいを望みます」

 ――正直に白状する。あの時のように、彼の言葉で調子を狂わせられたくないというのもある。中二病やカルト宗教、はたまた詐欺に引っかかったのではと本気で疑われ、せっかくのロールプレイを真正面からのマジレスで見事に打ち砕かれたのは、思い出すだけでも顔から火が出るほど恥ずかしい。だが、それだけではない。黒鳥オディールというペルソナの助けを得て、久我雫が真に望むこと。今の彼女は、それをはっきりと見定めていた。その目的を果たすために必要なのは、薄っぺらいマイクパフォーマンスの舌戦などではない。己の全存在を懸けた、肉体の対話だけなのだ。

「そうか……わかった。試合の中で、今の君を理解させてもらう」

 どこまでも真面目に頷く三郎太。その不器用な誠実さに、ほんの少しの苛立ちと安堵、そしてどす黒い邪な愉悦を心中に混ぜ合わせながら、オディール久我は唇を歪めて悪い笑みを浮かべた。御子柴の誘いに乗り、オトギプロへ出向し、そこでヒールターンを果たして……新たに技を、戦い方を、そして自分自身を仕立て直した彼女にとっての、ここは最大の舞台。目の前に立つのは、最強の敵であり、そして――最高の獲物。

 その微笑みに孕んだ余裕と、かつての雫にはなかった底知れなさを肌で感じ取り、三郎太はグッと口元を引き締めた。今や目の前の彼女は、油断や手加減など到底許されない、本物の「敵」なのだと悟りながら。

 

 リング上の二人が静かに火花を散らす中、ゴングを待つ会場のスピーカーから、実況アナウンサーの張りのある声が響き渡った。

『EQT本戦二回戦、続いては第二試合! 組み合わせはなんと日本代表選手同士の潰し合いとなりました! 長らく世界認定チャンピオンベルトを守っているチャンプ松平林吾が代表を務める老舗団体「太平プロレス」で若手エースの呼び声も高い「宮川三郎太」、そして、その太平プロから出向し、友好団体「オトギプロレスリング」で華麗なヒールターンを遂げた黒鳥「オディール久我」の一戦です!』

 よどみないプロの口上。しかし、次に続く言葉で、実況アナの声には微かな(しかし確かな)疲労の色が混じった。

『……なお、今試合の解説は、ボーティス神宮寺の控室から「つまみ出されたアーデルハイト・フォン・シュタール」さんでお送りします』

『なんだその紹介は!?』

 放送席の隣で、豪奢なドレスコードに身を包んだアーデルハイト──ハイジが、バンッと机を叩いて身を乗り出した。その顔には明確に不満が表明されている。

『……スカウトのためとはいえ、試合前の彼の集中を乱し過ぎるのも良くはないと、ワタクシが自ら身を引いた、と言って貰おうか』

 フッ……と麗人らしい笑みを浮かべて腕を組むハイジ。しかし、実況アナの視線は冷たい。

『そうですか……? ストーカーまがいのごり押しで、危うく警備員まで呼ばれかけたと聞きましたが?」

『失敬な。あくまで「警備員が呼ばれる騒ぎになっては、シュタール家のメンツにかかわるのでは?」とやんわり彼に諭されただけだ』

 ふんぞり返りながら得意げに言い放つハイジに、実況アナは即座に突っ込む。

『おなじじゃないですか!?』

『違うのだ! これだから平民はダメだ! ニュアンスをもっとよく見ろ! 呼ばれかけたのと可能性を示唆されたのでは大違いよ』

 くわっと目を見開いてハイジが一喝する。あまりの自信にあふれた物言いにさしもの実況アナも気勢を削がれるが、周囲の観客席からは「こち亀で見たノリだ」「そこに何の違いもありゃしねえだろうが!」「ブロッケンJr.乙」などという野次交じりの笑いの声が漏れ出していた。

『むむむ……』

 これ以上この貴族と問答しても放送事故にしかならないと悟り、実況アナは強引に進行の軌道修正を図る。

『面倒くさい貴族の体面はさておいて、話を戻しましょう。宮川三郎太はオディール久我のかつての指導担当、いわば師弟とも兄妹分とも言える関係であったそうですが、やはりここは、体格とキャリアに勝る宮川三郎太の有利は揺らがないと見るべきでしょうか?』

『なにがむむむだ。……フン。予選の試合映像は一応見せてもらったわ』

 不満げに鼻を鳴らしたハイジだったが、そこは腐っても一級品のプロレスラーである。手元のモニターへ視線を落とすと、瞬時に解説者としての鋭い顔つきに切り替わった。

『確かに宮川とやらの方は、体格を活かしたバランス型でなかなか出来るようだが、対するオディールは関節技を得意とする言わば特化型だ。スタイルチェンジをしたオディールの方は、相手の「かつての手の内」を知り尽くし、その上で新たな切札を隠し持てるという点で強みがある。宮川有利は否定しきれんが……ワタクシは、あの「ブラックアウト・フェザードロップ」からの脱出の至難さを思えば、彼女にも十分に勝機はあると見る』

 流れるような、そして的確な分析。ただの色ボケストーカー女騎士ではない、実力者としての説得力に、実況アナも深く頷く。

『なるほど。確かに、絶対に有利が揺るがないと目されていた「不落城塞」が、あっさりと落城させられた例もありましたし、説得力がありますね』

その瞬間、放送席の空気がピシリと凍りついた。

『…………おいやめろ』

 実況アナによる、えぐり込むようなカウンターの前に、先程までの威勢はどこへやら。一回戦で神宮寺の奇策を前に「いやぁ~ん♡」と叫んで落城負けしたばかりのハイジの声は、羞恥で震えていた。

 

 試合開始に備えてレフェリーが中央で両者を向かい合わせる。観客の注目が集まり、わずかに静寂が会場を支配した。

 そっと、三郎太は右手を差し出した。それは、同じ志を持つレスラーへの、そして今日まで戦い抜いてきたかつての仲間への敬意だった。だが、久我はその手を見つめたまま動かない。一秒、二秒と時間が流れ――彼女がその手を握り返した、次の瞬間。会場がどよめきに包まれた。

「相変わらずですね、先輩……いいえ、宮川三郎太!」

 久我は握った手を離さず、自らの体を後方へ投げ出し、倒れ込むようにしてマットへ沈み込んだ。三郎太が驚きに目を見開き、上体を引かれてバランスを崩す。彼の右腕を巻き込み、久我は己の全体重を乗せて鋭く肩関節を捕らえた。電光石火の引き込み式脇固め。極められた三郎太の顔が苦痛に歪む。かつての師弟関係という間柄でありながら、ゴング前に仕掛けた久我のラフプレイを観客たちはどう判断すべきか分からず、どよめきには困惑とブーイング、声援が複雑に入り混じっている。

 レフェリーが慌ててゴングを要請し、遅ればせながら試合開始の鐘の音が鳴り響いた。

「ぐっ……!?」

 三郎太は強く歯噛みした。かつて後輩だと無意識に侮っていた折に貰った、開幕のハイキックの記憶がよぎる。だが、今度は正真正銘のゴング前だ。これまで幾度か対峙してきた彼女だが、この試合にかける気迫が、根本から異なっている。三郎太は即座に思考を「真剣勝負」へと切り替えた。彼女のグラウンド技術はヒール転向前から太平プロでもトップクラス。小手先の技術で抜け出そうと駆け引きをすべき相手ではない。

 関節が軋む痛みを覚悟の上で、三郎太は無理やり捕らわれた腕を力づくで引き抜き、拘束を破る。そして即座に、張り付く雫の体を突き放すように渾身のエルボーバットを叩き込んだ。

「……ッ」

 鈍い衝撃音が響き、久我の体がわずかに浮き上がる。三郎太はその隙を逃さず、すぐさま腰を浮かせて、低い体勢から突進する勢いでショルダータックルを見舞った。

「うらあああっ!」

 体勢を崩していた所に衝突を受けた久我の体が、容易く吹き飛び、マットを転がる。実力の差、そして男子レスラーとしての圧倒的な体格差が残酷なまでに示された瞬間だった。

「フ……フフフ……!」

 しかし、久我は苦痛に目を細めながらも笑った。吹き飛ばされた勢いに抗って踏みとどまるのではなく、あえてそのまま勢いを殺さずロープへと駆け、反動を利用して跳躍する。

「はあああぁっ!」

 迷いのない、極限まで研ぎ澄まされたドロップキック。三郎太の分厚い胸板に両足が深々と突き刺さる。三郎太の体躯がたまらず数歩後退し、膝を突いた。久我は着地と同時に翻り、しなやかに足を振り上げる。

「シッ……!」

 そのまま、膝立ちから立ち上がろうとする三郎太の頭部目がけて、容赦のないかかと落としを振り下ろした。執念の踵が食い込み、三郎太の目の奥で火花が散る。今の彼女を突き動かしているのは、ただの勝利への渇望ではない。己のすべてをこの試合の中で、宮川三郎太という存在に刻みつけようとする、純然にして強大な欲望だった。

「……っ、調子はいいようだね、雫ちゃん!」

 三郎太は立ち上がりかけの頭部を打たれて脳を揺らされ、前のめりにマットへ突っ伏すようにダウンを強いられながらも、唸り声を上げてマットに両手をついた。低い姿勢から起き上がりざまに突進し、久我が放った追撃のローキックを、敢えて鍛え上げられた筋肉で受けるに任せ、文字通り「無視」した。そして、彼女の細い腰を強引に抱え上げる。

 体格差とタフネスを盾にしてパワーで押し込む。自身の強みを押し付ける、理不尽ながら正しい戦術に、久我は内心舌を巻く。効果的であると認めるが故にこれ以上も無く苛立たしい。しかしそれと同時に、「自分という敵が、彼にそうさせるだけの本気を強いている」という事実への、甘い悦びが胸を満たしていた。

 二人の視線が至近距離で絡み合う。直後、力任せにマットへ叩きつける豪快なボディスラムが決まった。

 

 激しい衝撃を受けて、久我の肺から一気に空気が押し出された。打ち付けられた背を庇うように身を反らし、悶え転がる久我。ローキックを受けた痛みに僅かに顔をしかめながらも、三郎太は冷徹に追撃へ移る。容赦なく彼女の足を掴み、両脇に抱え込んでステップオーバー。もがく久我を肉体ごと制圧するように、じわじわと腰を落として逆エビ固めへと移行した。

「あ、あああああぁぁっ!」

 プロレスにおける最も古典的であり、それ故に最も苛烈な王道の関節技。支点となった腰を極限まで反らされ、久我の背筋が悲鳴を上げる。その端正な顔が激痛で無様に歪んだ。しかし、三郎太は一切の手加減をしない。それが、今目の前にいる「敵」に対する最大の礼儀だと知っているからだ。深く、深く極まっていく地獄の責め苦に、会場からは両者を応援する声援がせめぎ合う。ギブアップの意志を確認するレフェリーに対し、涙目で頭を激しく振って拒絶を伝える久我。彼女の戦意は、未だ1ミリも挫けていない。

「……先輩、後輩でも……レスラーとしてでもなく!」

 マットを這い、必死に指先を伸ばしてロープを掴もうともがきながら、久我が悲鳴のような声を絞り出す。血を吐くような気迫のこもったその言葉に、技を維持したまま、三郎太が思わず視線を落として耳をそばだてた。彼のその微かな反応を、肉体の触れ合いから敏感に察知して、久我が叩きつけるように叫ぶ。

「わたしは女と男として……っ、宮川三郎太が好きなんです!」

 それは実況席の喧騒も、数千人の観衆の怒号をも一瞬で掻き消すほどに純粋で、あまりにも剥き出しの告白。あまりに予想外のタイミングで魂をぶつけられ、さしもの三郎太も硬直し、その頬を染めた。

 

 激しい声援に包まれていた会場は、一瞬にして水を打ったような静寂に包まれた。観客だけでなく、放送席の人間にとっても、それは完全に想定の枠を飛び越えた事態だった。

『……なッ!?』

 ヘッドセットの向こうで、実況アナウンサーが息を呑む音がダイレクトに配信にのる。プロとして数々の修羅場をくぐってきた彼が、次の言葉を完全に失っていた。

『ほう? まさか衆人環視のリング上で愛の告白とは……!』

 ハイジは驚きに目を見張りながらも、その声音には奇妙なまでの真剣さと、覚悟を認めた者としての敬意が混じっていた。

『……えー……っと』

 喉の奥で言葉が空回りし、かすれた息だけが漏れる。未だに脳の処理が追いつかず、モニターとリングを交互に見つめて言葉を詰まらせる実況アナ。そんな彼の不甲斐なさに、ハイジは鋭い視線を向け、冷徹に、しかし強く言い放つ。

『絶句している場合か、実況せよ。見事な宣言ではないか。茶化す気はないが、無視するのも失礼だろう』

 ハイジの言葉が、実況アナの横面を張り飛ばした。その叱咤にハッと我に返り、実況アナは震える声にプロの魂を吹き込み直してマイクを握りしめる。

『そ、そうですね。オディール久我、ここでまさかの愛の告白! 師弟関係、あるいは兄妹分という枠で終わるつもりなどないという、魂の叫びが、いままさに観客席に凄まじい動揺を呼んでおります!』

 ドームの空気が、困惑から一転して爆発的な熱を帯び始める。

そんな中、ハイジは腕を組み、冷徹な解説者としての視線を再びリング上の二人――未だ硬直している三郎太と、背を反り返らせられながらも彼を射抜くように横目で見つめる久我へと戻した。

『動揺を誘って技から抜ける策……というわけでもなさそうだな。だが、敢えて今というのは何か意図があるはず……』

 ハイジの呟きは、単なる恋愛ゴシップへの興味ではない。この一見すると無謀で歪な告白が、心理攻撃として試合の勝敗にどう作用するのかを冷徹に見定めようとする、レスラーの目だった。

 

 わずかな硬直。だが、三郎太はすぐに赤面しかけたその表情をレスラーとしての真摯さという鋼の仮面で覆った。さらにマットを這い、ついにロープへと手をかけた久我に、レフェリーによってブレイクが宣告される。三郎太は素直に逆エビ固めを解き、距離を取って黙って彼女が立ち上がるのを待った。その愚直なまでの正統派の佇まいを見て、久我は邪悪な笑みに口の端を歪める。

「はぁ……はぁ……ッ! そこで黙る。知っています。貴方はそう言う人だと」

 ダメージの残る腰をさすりながら、ロープを掴んでよろよろと起き上がりつつも、久我は昏く熱のこもった視線を真っ直ぐ三郎太へ注いだ。なおも無言を貫く三郎太に、久我は言葉を重ねる。

「では反応しやすい言葉にしましょう。予言します。宮川三郎太、あなたのフェイバリット『サザンライト・スープレックス』では私を倒せません。あの技には欠陥がある」

 その瞬間、挑発を受けて三郎太の肩が分かりやすく跳ねた。まるで急所を突かれたかのように、瞳の奥が鋭く揺れる。驚き、そして食い入るように己の瞳を見つめてくる彼の姿に、久我の唇からポロリと自嘲の笑みが漏れる。

 ――とんだプロレス脳だ。一人の女の一大決意の愛の告白よりも、己のプロレス技の弱点の指摘の方が、彼にとっては重大事なのだろう。期待通りの効果を上げた事が嬉しい反面、心底妬ける。

 だが、これで三郎太はサザンライト・スープレックスを出さざるを得なくなった。出して弱点を露呈すれば、その記憶は彼の人生に焼き付く。出さずに逃げれば猶更だ。オディール久我は、この挑発によって宮川三郎太の戦術を制限することに成功し、同時に彼の記憶に自らの存在をひとつ焼き付ける事が確定したのである。

「試させてあげましょうか……?」

 久我は息を整えると、ロープから手を離して妖艶に笑い、指先をゆっくりと曲げる手招きのジェスチャーで、さらに挑発を重ねる。甘い誘惑だ。自ら黒鳥の罠の中へ飛び込んでくるように。その逞しい腕で、己の肉体を強く抱きしめに来るようにと、彼女は底知れぬ笑みで誘っていた。

「……見せてもらう!」

 三郎太は僅かな逡巡の末、その挑発に乗った。雫がすぐにばれるような嘘で策を弄するとは思わない。である以上、自らが編み出した新たな必殺技(フェイバリット)「サザンライト・スープレックス」には三郎太自身も知らぬ欠陥があるのだろう。それを知りたいという欲求には勝てない。それを知らずに呑気に使い続ける程、彼は楽観的にはなれなかったのだ。踏み込んで掴みかかってくる三郎太の腕を愛おしそうに受け入れる久我は、確実に迫りくる甘美な瞬間に、陶然とした笑みを浮かべる。

 サザンライト・スープレックスは、三郎太が自らの得意技であるノーザンライト・スープレックスを強敵ジェニー・葛葉から受ける際に咄嗟に閃き、そこから仕上げた技だ。相手の頭部を脇の下に抱え込んでフロントネックロックに捕らえ、さらに腕で肩をショルダーロックに極め、身動きが取れなくなった相手を引っこ抜くように背後に反り投げる。堪えようとその場で踏ん張れば首が締まり、肩が脱臼しかねない、仕掛けられればそのまま投げられる他にない必中の技。だが、そこに落とし穴があった。

 三郎太のフロントネックロックとショルダーロックががっちりと極まり、いよいよ投げに転じようとした、その瞬間。

 

 ──オディール久我は、首と肩を三郎太に密着させたまま、両脚でマットを蹴って彼に伸し掛かるように跳び上がった。

 

「なっ……!?」

(……『投げさせ』られた!?)

 三郎太の驚愕の声を心地よく感じながら、密着した肩と首を支点に、逆立ちするように背を反らして下半身を彼の頭上へと越えさせる。三郎太が固めたはずのショルダーロックが、逆にテコの原理となって三郎太自身の上半身を背後へ反り曲げさせた。上体を強引に後ろへと引っ張られ、彼は体勢を維持できない。このままでは久我の全体重に押され、無防備な後頭部をマットに叩きつけられてしまう。三郎太はとっさにロックを解き、両腕で受け身をとりに行く。そうするしかなかった。

 久我の両脚が真っ先にキャンバスに到達する。ダァン! と激しい音を立ててシューズの靴裏をマットに叩きつけ、着地の衝撃を吸収。背や腰を打ち付けられるのを完璧に回避しながら、彼女はその着地の反動を利用して、斜め上へと後方跳躍した。

「そら、どぉーん♪」

 久我は、為す術もなく後ろ受け身を打ち、仰向けに大の字で倒れた三郎太の喉仏めがけて、自らの体重を乗せた無慈悲な背面エルボードロップを叩き落とした。

「がは……ッ!?」

 喉元への激痛。呼吸を妨げられた三郎太は、反射的に手を当てようと肩を浮かせてしまう。

そのわずかな隙を突いて、久我は彼の身体をうつぶせに転がした。身体に染みついた滑らかなセットアップで三郎太の脚を折り曲げ、自らの脚でロックすると、彼の背中にしなだれかかるように被さる。意図に気付いた三郎太が身をよじって逃れようとするが、呼吸を阻害されたことで初動が遅れ、既に間に合わない。黒い羽のファーで飾られた久我の細くしなやかな腕が彼の頭部に巻き付き、ロックする。そのまま、変形STFであるライジング雫時代の必殺技(フェイバリット)――「ティアドロップ・ボディロック」が完璧な形で完成した。

「こ、こんな……がぁぁ……ッ!?」

 顎と膝をロックされ、背後に回って密着した久我に上体を反り返らされて、堪らず苦痛の呻きを漏らす三郎太。一方で、彼を捕らえる久我は至福の表情を浮かべていた。

「驚きました? みんな抵抗する事ばっかり考えて、自分から受け入れる発想を見落としてたんです。『サザンライト・スープレックスは自ら跳ばれると止められない』……ふふ、これも先輩の『投げ技を崩すために自分で跳んでダメージを軽減する防御法』を見て……『貴方』をじっくり見て見つけたんですよ?」

 衝撃と苦痛に翻弄されながらも、三郎太の中に明確な納得があった。確かに盲点だった。久我の指摘するサザンライト・スープレックスの欠陥に間違いがないことを、他の誰でもない三郎太自身が、今の攻防からはっきりと理解してしまった。今、南斗の光は黒鳥の羽の闇の中に呑まれ、消え去ったのだ。

「三郎太、ギブアップか!?」

「ま……まだ……ッ!」

 ギブアップを問うレフェリーに対し、呻くように叫んで拒否する三郎太。彼は複合関節技の激痛に囚われながらも、両膝と空いた腕を使って少しずつ、少しずつロープへ向かって這い進んでいた。そして、そうなるだろうことを久我も分かっていた。三郎太に、あるいはベスに、この技は過去に幾度かそうやって力ずくで脱出されている。だから、今回もこれで完全に仕留めきる事はできないだろうと。だが、それでも久我は背後から三郎太に強く抱きつき、渾身の力で締め上げる。密着し、相手の体温を直接感じるようなあまりに近すぎる距離で胸を押し付け、頬をうなじにすりつけるようにして、彼の苦痛を、彼の喘ぎ声を感じる。

 そして、絞り出すように願いを……いや、呪詛を口にした。

「先輩……いいえ、三郎太。答えて……。私のこと、どう思ってるんですか!? 言って! ギブって……ギブアップ(受諾)と言え……ッ!」

 三郎太は己の顎を捉える彼女の腕を掴み、引き剥がそうと力を込める。彼女の激しい鼓動が、背中越しに直に伝わってくる。その切実な重みに、三郎太は胸が締め付けられるような思いがした。真面目で、純情で、そして誰よりもプロレスを愛する三郎太には、彼女の想いがどれほど真剣なものか、痛いほど理解できてしまった。誤魔化してはいけない。上っ面の言葉で気持ちに嘘をつけば、彼女の魂への致命的な侮辱となり、絶対に取り返しがつかない。

 だから、三郎太はこう答えるしかなかった。

「……ぼ、僕は、プロレスラーとして……ゼェ……ゼェ……ッ! 久我雫を尊敬している! だから、全力で応える!」

 叫んだ言葉、それは「男」としての受諾ではない。一人の「プロレスラー」として、対等な敵手として彼女の技と魂を正面から受け止めるのだという、不器用な彼にできる最大級の誠実な拒絶だった。

 久我は僅かに目を伏せ、分かっていたとでも言うかのようにその瞳から一筋の涙を流し、三郎太の背にその雫(しずく)を落とした。

 

 白熱するリング上の情念に当てられ、観客たちは圧倒されていた。同時に実況アナのボルテージも最高潮に達する。

『凄絶! あまりに凄絶な関節技! まさにティアドロップ! 宮川三郎太の背に涙を落としながらオディール久我、「ティアドロップ・ボディロック」で強烈に絞め上げていく!? だが、宮川三郎太も息を切らせながらマットを必死に這っております! アーデルハイトさんからみてこの攻防、いかがですか!?』

 マイクを握りしめ、解説席へと投げかけられたその問いに対し、ハイジは静かに、ただ一言だけ呟いた。

『愛だな』

『何故そこで愛ッ!?』

 脊髄反射のような実況アナのツッコミがドームに響き渡る。だが、ハイジはそれに笑って応えるようなことはしなかった。彼女はモニターからリング上へと視線を移し、その凄惨で美しい光景に目を細めながら、厳かに告げる。

『野暮な事を言うな。他に表現のしようがあるまい。悲痛で……切ない、愛の闘いだ』

 その声音には、リングの上で想いをぶつけ合う二人への深い敬意と……僅かな嫉妬が込められていた。あれほどの愛を叫ぶ相手が居て戦いの場で想いをぶつけ合える事への憧れと妬ましさがそうさせるのだ。

 

「おおおぉぉーっ!!」

 三郎太は、絡みつく久我を背負ったまま、気力で這い進む。自身の疲労と、彼女の締め上げによる酸欠に耐えながら、その告白を振り払うように、力強くサードロープをその手で掴んだ。エスケープ成立。レフェリーがブレイクを命じるが、久我は名残惜しそうに張り付いたまま離れようとしない。焦ったレフェリーが肩を激しく揺するに至って、ようやく渋々と技から三郎太を解放し、身を離す。

(……ああ、やっぱり。あなたは、そういう人ですよね)

 絶望が胸を焼く。だが、その念は彼女の中で黒い炎となって燃え上がり始めていた。

 

 改めてリング上で対峙した二人。久我は悲しげな笑みを浮かべていたが、三郎太の瞳にはもはや躊躇も余裕も存在しない。彼女が全てを懸けてくるというならば、真っ向から打ち砕くのみ。両者は同時に動き出した。三郎太はその右腕にありったけの闘気を込め、得意技の体勢に入る。淡く輝く青いオーラを纏った肘を、脳天へ向けて振り下ろすように打ちかかった。

 だが、その瞬間、三郎太は驚愕のあまり息を呑んだ。なぜなら、迎え撃つ久我もまた全く同じ構えをとり、右肘を淡く輝く黒いオーラで包み込んで、カチ上げるように踏み込んできたからだ。

「「ファイナル・エルボー!!」」

 青と黒。二つの肘が激突し、凄まじい衝撃と共に相反するオーラが混じり合って弾け飛ぶ。あまりに衝撃的な光景を目にし、観客たちは思わず席から立ち上がって見入っていた。

衝突の余波で両者とも弾き飛ばされる。放たれた威力の総量は互角。久我の込めた闘気量は、決して三郎太に劣るものではなかった。しかし、残酷なまでの体格差がここで勝敗を分ける。三郎太は数歩分後退して膝をつくに留まったが、より強く吹き飛ばされたのは久我の方だった。もんどり打つようにマットを転がり、ロープ際で尻もちをついてしまう。

威力の多くは相殺されたものの、互いに右腕の肘から先は激しく痺れ、感覚を失っていた。

 この物理的なアドバンテージを活かそうと、三郎太が瞬時に立ち上がって駆け出す。身を起こそうとふらつく久我を逃さぬよう、弾丸のようなタックルで突進した。しかし、久我の口元は、三郎太が踏み込んだ瞬間に邪悪な笑みで彩られていた。

「かかった!」

 突進してくる三郎太の勢いを利用するように、久我は素早くロープを掴んで身を躱し、エプロンサイドへとエスケープする。急激に目標を見失い、踏みとどまれずにロープへと激突した三郎太。その無防備な背中を見下ろすや否や、久我はすかさずトップロープへ飛び乗り、全体重を乗せた強烈なダブルフットスタンプを叩き落とした。

「うぐっ……!?」

 肩甲骨のあたりをしたたかに踏みつけられ、押しつぶされるようにマットに突っ伏す三郎太。久我はロープを巧みに使って着地の姿勢を制御すると、そのまま流れるような動作で彼の首に両脚を絡みつかせた。

「なら……ねじ伏せてモノにするまでです!」

 邪な執念を魂の叫びに変え、久我はがっちりと首四の字固めを極めた。細くしなやかな脚に渾身の力を込め、三郎太の頸動脈を容赦なく圧迫する。三郎太の顔がたちまち赤黒く充血し、苦悶の声が漏れた。久我は、今にも泣き出しそうに揺れる己の瞳を、黒鳥オディールの酷薄な笑みという仮面の奥でギラつかせ、脚の締め付けをさらに強めていく。愛し欲する感情という果てしなく純粋な力が、今、相手を破壊せんとする暴力的なまでの絞め技へと昇華されていた。

 

 三郎太は必死にマットを叩き、逃げ場を求める。首を絞められ、意識が遠のきかける中、彼は本能的にロープへと手を伸ばした。だが僅かに届かない。絡みつく久我を振り払うようにして、なんとか脚のロックを外そうともがき、同時に身をよじって四つん這いになって逃れようとする。だが、久我は逃がさない。彼女は首四の字固めの継続を即座に断念して彼が四つん這いになるのを許し、だが、同時にその背へと飛び乗って、己の重みで三郎太をマットに這いつくばらせた。そのまま彼の顎に手をかけ、強引に上体を引き上げる。キャメルクラッチだ。

「逃がしません……! 私を見て! 私を感じて! 私を焼きつけて! そして……私に屈しろ、三郎太ぁぁぁ!」

 弓なりに反らされる三郎太の背骨が悲鳴を上げる。久我は全体重を浴びせ、三郎太の顎と喉元を自身の腕で締め上げた。三郎太の視界が歪み、指先が力なくマットを掻く。しかし、太平プロレスの次期エースとしての意地が、屈辱の泥に塗れて平伏させることを拒んだ。

「お……おおおっ!」

 三郎太は地を這うような呻き声を上げると、背中に久我を乗せたまま、驚異的な脚力で立ち上がった。そのまま後方のコーナーへと突進し、自らごと久我の背中をターンバックルに激しく叩きつける。

「あぐ……ッ!」

 衝撃で久我の拘束が緩み、三郎太が自由になる。その隙を見逃さず、三郎太は反転しながら跳躍した。よろめく久我をコーナーに串刺しにするドロップキック。しかし、久我は痛みに苦しみながらも、その軌道を完全に読んでいた。沈み込むような姿勢でドロップキックの下を潜り抜けると、電光石火の速さで着地した彼の背後へと回り込む。

「ハァッ……ハァッ……! 今度こそ……暗闇へようこそ」

 久我の手が三郎太の両腕をチキンウィングに捕らえた。膝立ちの三郎太の両腿へ艶めかしく足を絡めてがっちりとロックし、そのまま自らの体重を預けて前方に押し込む。必殺の「ブラックアウト・フェザードロップ」についに三郎太を捕らえたのだ。久我の心中がいまだかつてない高揚に満ちる。あまりに体勢が悪く、一瞬たりとも堪えることなど叶わない。三郎太の顔面は無情にもマットに押し付けられ、逃げ場のない状態で両肩の関節と頸椎が激しく極められる。

 既に三郎太の肉体は限界に近い。久我は必死に、なりふり構わずその体を絞め上げた。

「さぁ、闇の中で私のモノになって……!」

 その時、三郎太の背中に、温かく濡れた感触が伝わった。再び久我の目から溢れた涙が、雫となって彼の背中に落ちたのだ。

(心から愛し合えないのだとしても、それでも……)

 言葉にならない彼女の悲哀と愛執が、締め上げる腕の力となって三郎太に伝わっていく。

 

 クライマックスの気配を感じとり、放送席では、マイクを握りしめた実況アナウンサーが酸欠になりそうなほどの絶叫を響かせていた。

『決まったぁーッ! 完璧な角度でブラックアウト・フェザードロップが極まりました! 宮川三郎太、身動きが取れない! 屈強な男子若手エースが、漆黒の闇に完全に呑み込まれている!!』

『むぅ……』

 だが、隣に座るハイジの反応は思いのほか重い。腕を組み、モニターを鋭く睨みつける彼女に対し、アナウンサーが前のめりに問いかける。

『アーデルハイトさんの仰るようにこれはオディール久我が微かな勝機をつかみ取ったと見ていいんでしょうか!? これは決まりでしょう!?』

 最早脱出不能、最早勝ったも同然。不利を覆しての執念の勝利の予感に逸る実況アナだが、ハイジは顎に手をやって浮かない顔だ。

『いや……これは難しいところだぞ』

『ど、どういうことですか?』

 ハイジは画面に大写しになった久我の姿を指差した。

『彼女を見ろ。全身に汗を浮かべて腕が震えている。これは……宮川がギブアップするまで彼女のスタミナが持つかどうか……』

 久我がチキンウイングに捕らえた腕が抵抗する三郎太の力と拮抗し、震えている。そして、その笑みこそ崩れていないが、彼女のこめかみには汗が伝っていた。

『なんと!? 宮川三郎太の心が折れるか、オディール久我の残り僅かのスタミナが尽きるか、圧倒的優勢に見えてリング上は最後の勝負が繰り広げられていた!? 果たして最後の勝利を掴むのはどちらなのでしょうか!?』

 実況アナウンサーがごくりと唾を呑み込み、ドーム全体に響き渡る声で試合の佳境を煽り立てる。その横で、ハイジは机に両肘をついて口元を隠すように掌を重ねて、リング上のせめぎ合いの様を、熱っぽく真剣に見つめていた。

『あの技、全身で密着しててエッ……じゃなくて、その、なんだ。ちょっといいな、勝手に使ったら彼女は怒るだろうか?』

 机の上の資料をめくってオディール久我の連絡先とか載ってないか探し始めるハイジ。

『……まともな流れだったのに、オチつけるのやめていただけますか?』

 極限のシリアスを一瞬にして台無しにするハイジのあんまりな呟きに、実況アナウンサーはスッと真顔に戻り、マイクを離して冷ややかなツッコミを入れるのだった。

 

 一分近く、絶望的な責め苦は続いていた。既に何度かレフェリーにギブアップの意志を確認されながらも、呻くように拒絶を返し続けていた三郎太だったが、その意識はいよいよ完全な闇に呑み込まれようとしていた。

 観客の歓声すら遠のく静寂……いや、耳鳴りだろうか。脳の酸素が枯渇していく。だが、薄れゆく三郎太の心の中に、ふと師であるモモタロウの言葉が響いた。

 

 ──誰かが悲しむような戦いはゴメンだ。

 

 かつて彼は姿を消す前の最後の試合の対戦相手にこう言った。その本当の意味を、自分は分かっていなかったのかもしれない。

(こういう「誰かが悲しむ戦い」もあるのか……)

 三郎太は痛感していた。ひたすらにプロレスを愛し、ただ真っ直ぐに打ち込んできただけでも、悲しませてしまう誰かがいる。自分の誠実さが、彼女を傷つけたように。ならば、誰かが悲しむ闘いは決して避けられないものなのか?

 しかし、暗闇に沈みかける彼の意識を引き戻したのは、モモタロウがいなくなり、かつての盛況を失いつつある太平プロレスのリングにあって、なお自分に期待を寄せてくれるファンたちの声だった。

 

 ──俺たちはあんちゃんを応援してんだぜ、モモタロウじゃなくてな。

 

 三郎太は指先に残るすべての神経を集中させ、ミリ単位で体を這わせた。

(そうだ。君を悲しませたとしても……僕はまだ、止まれないんだ……!)

 顔面をマットに擦りつけ、いつの間にか溢れ出していた鼻血でキャンバスを汚しながらも、必死に脚を伸ばしてロープの在処を探る。そして、そのつま先が最下段のサードロープに、僅かに触れた。

「ブレイク! ブレイク!」

 レフェリーの鋭い声が響き渡る。久我は絶望に顔を歪めながらも、ついにロックを解かざるを得なかった。三郎太は解放された瞬間、むせ返るように荒い息を吐き出しながらマットに這いつくばる。もはや限界を越えているのは明らかだった。

 だが、それは久我も同じこと。いや……むしろ久我の方が深刻な状況だった。もともと彼女はスタミナ不足を最大の弱点としている。巧妙な心理戦と緻密な戦術で肉体的なハンデを覆し、勝機を手繰り寄せるべく全霊を傾けてきたものの、三郎太の意地をねじ伏せるために払った代償はあまりにも大きかった。彼女の体力はもう、ほとんど底を突いていたのだ。

 

 久我はふらつく足取りで立ち上がると、同じくよろめきながら立っている三郎太へ、最後の力を振り絞ってソバットを放つ。それは執念の為せる技であった。だが、三郎太はその蹴り足を、こちらも執念でキャッチする。

「久我雫……初めて披露する僕の新技、受けてもらう!」

 久我の瞳が大きく見開かれる。まだ、あるのか。サザンライト・スープレックスの奥に隠された切り札が。

三郎太はキャッチした右脚を離さず、そのまま強引に彼女の懐へ踏み込んだ。彼女の右脇下へ頭を突っ込む。咄嗟にネックロックで首を捕らえようと巻き付いてきた久我の右手首を、三郎太は自身の左手で彼女の背後へと回し、彼女の左腕を巻き込んで腰ごとがっちりとホールドした。

「だめ……ぇ!?」

 両腕がロックされた。右脚も膝裏の辺りで深く抱え込まれている。久我はいやいやと首を振るようにもがくが、逃げられない。三郎太は己の膝の震えを気力で止め、そのまま後方へと力強く反り投げた。それは「ノーザンライト・スープレックス」によく似た──しかし、かつてジェニー・葛葉にされたように脚を巻き付けてブリッジを妨害するような返し技を一切許さない、完璧なる改良技であった。

「うおおおおおおおぉぉっ!」

 美しい放物線を描くスープレックス。完璧なブリッジが描かれ、久我の体はキャンバスに叩きつけられた。黒鳥の羽が激しく散るような、苛烈で、それでいてどこか慈悲深い一撃。久我の体がマットで跳ね、力なく横たわる。滑り込んできたレフェリーがマットを叩く。

「ワン! ツー!」

「……『M'sライトニング・スープレックス』と、名付けた」

 静かに、三郎太は技の名を告げた。久我の耳には確かに届いていた。だが、フォールを跳ね返すだけの体力は、最早彼女には残されていない。

 

「……スリー!!」

 

 三つ目のカウントが叩かれ、試合終了のゴングが鳴り響く。会場は、勝者と敗者の両方に惜しみない拍手を送り続けていた。そんな大歓声の中、放送席では実況アナウンサーが身を乗り出し、興奮冷めやらぬ声でマイクに向かって絶叫していた。

『まさかの新技が飛び出したぁ~ッ!? 宮川三郎太の「M'sライトニング・スープレックス」によってオディール久我、マットに沈んで動けない! そしてそのままスリーカウントが入った! 勝者は宮川三郎太! 準決勝進出です!!』

 熱狂する実況の横で、ハイジはリング上の勝者と敗者が織りなす美しき結末に深く頷きながら、感嘆の吐息を漏らした。

『ウム、たとえ敗北しようとも相手の記憶に自らの愛を、一生消えない焼き印として残す。黒鳥オディール、見事な散りざまであった』

『詩的な表現ですね。まさに試合に……恋に破れてなお、遺し焼き付けたものがある闘いだったと言えましょう!』

 アナウンサーも額の汗を拭いながら、感動的な試合の総括に同調する。これで綺麗に放送がまとまる――誰もがそう思った矢先だった。ハイジはふいに机に身を乗り出すと、極めて真面目な顔つきのまま口を開いた。

『だが、私はどっちかというと焼きつけられたい』

『誰も聞いてませんが?』

 流れるような実況アナウンサーの冷ややかな遮り。しかし、己の煩悩のエンジンがかかってしまったハイジは止まらない。実況マイクを奪い取る勢いで立ち上がると、カメラの向こう、控室にいるであろう意中の相手に向かって熱烈な電波を飛ばし始めた。

『私はどっちかというと焼きつけられたい! 聞こえているか、我が軍師!!』

『……ただのMなのでは?』

 もはや先ほどまでの感動的な空気はどこへやら、アナウンサーは半目になり、隣の解説者をジトッと睨みつけた。

『失礼な。純愛だよ』

 ハイジはどこ吹く風で胸を張り、「くもりなきまなこ」で堂々と言い放つ。

『なんでも愛って言えば通ると思ってませんか?』

 完全に呆れ果てた実況アナウンサーの深いため息が、熱戦の余韻が漂うドームの放送席に、虚しく響き渡るのだった。

 

 三郎太は肩で息をしながら、仰向けに倒れたまま動かない久我の傍らに膝をついた。久我は焦点の定まらない瞳で天井を見つめていたが、やがて、震える右手を三郎太の方へとゆっくりと差し出した。三郎太はその手を、両手でしっかりと握り返す。

「……優勝、してくださいね」

 久我の唇が動いた。ただ、それだけ。余計な事は何も語らない。それは彼女の、プロレスラーとしての最後の矜持。そこには、失恋の悲痛さと、己のすべてをぶつけ切った清々しさが同居していた。

 力強く頷く宮川三郎太の顔を見て、彼女は、かつての「ライジング雫」でも、虚飾の「オディール久我」でもない、一人の少女、久我雫として、最高の笑顔を見せた。

 

 担架が運び込まれ、久我雫は静かにリングを降りる。運び出される振動の中、彼女は静かに目を閉じ、込み上げる失恋の痛みと、肌に残る三郎太の体温の余韻を、愛おしむように噛み締め続けていた。いつまでも──いつまでも。

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