「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
激闘の本戦二回戦第二試合が終わり、余韻冷めやらぬ中、医務室の診察を受けた久我雫は自身の控室に戻っていた。僅かにツンとした消炎剤の匂いが鼻腔を刺す中、ダサいあずき色のジャージに身を包んだ彼女は、目の前の人物たちに深く、深く頭を下げる。その首裏には痛々しい腫れを押さえるための湿布が貼り付けられ、肘には包帯が巻かれていた。疲労のため手足はいまだ小刻みに震え、ジャージの下には各所にべたべたと湿布や絆創膏、テーピングが施されている。だが、その表情からは先程までの昏い情念も、悲痛なまでの気負いも消え失せ、憑き物が落ちたような清々しさがあった。
「有難うございました。おかげであの人に……自分自身を焼きつけるという、最大の目的を達成することができました」
深々と頭を下げる彼女に対し、困ったような表情を浮かべているのは、「オトギプロレスリング」の団体社長にして現役トップレスラー、エディ・ダンテスだ。試合中はツインテールにまとめている銀髪をストレートに流し、スーツ姿でパイプ椅子に腰かけた彼女は、何と言って良いか迷うように、曖昧に頷いて見せる。彼女が藪をつつくのを躊躇っている心境を察してか、背後に控えていた私服姿の腹心、キャプテン・フックが代わって口を開いた。
「本命のターゲットに全力でぶつかって、砕け散るも本懐は遂げた。で、今このタイミングでその台詞たぁ……そりゃあ、つまるところ、『もう悪役の看板は必要なくなった』ってハナシか?」
「……はい。このEQT(アース・クェイク・トーナメント)の日程を最後に、オディール久我を終え、ライジング雫に戻りたいと思います」
はっきりと認め、雫はさらに深く頭を下げた。
「出向の中でヒールターンの面倒を見ていただき、悪役(ヒール)としての闘い方も教えてもらい、本当に感謝しています。……ただのわがままで、多大なご迷惑をおかけすることは承知の上です」
かつて心折れて引退寸前だった自分を救うため、御子柴の骨折りで方々に根回しをして実現したオトギプロへの出向とヒールターン。鍛え直して貰い、コスチュームを新調手配し、試合も組んでもらった。だというのに当のオトギプロの興行にさしたる貢献もせぬままギミックを返上するなど、あまりにも不義理だと雫自身も痛感している。だが、今の彼女にはもう、黒鳥オディールの仮面は必要ない。三郎太に、ベスに、そして御子柴に、ただの『ライジング雫』として真っ直ぐ再戦を挑めるだけの心の強さを、あの激闘の中で確かに取り戻したのだ。目的もなくただ惰性で悪役を続けることこそが、逆に最大の不誠実になると彼女は信じていた。
エディは天井を見上げると暫し黙考し、ふぅ、とひとつ長めの溜息をついた。
(……正直に言えば、世界大会後の合同興行で組もうと思っていたプランに影響はある。オディールを使おうと思っていたカードが全部白紙になる)
経営者としての頭痛の種を瞬時に計算しつつも、エディの口元には微かな笑みが浮かんでいた。そもそも彼女を預かった目的は「迷える若手を鍛え直し、救うこと」。その対価としてのビジネス的な借りは、発起人のガータ御子柴と太平プロ代表の松平林吾から、とうに支払いの話がついている。ならば当事者の久我雫が、自らの足で立つと言う以上は、ここから先はただの、オトギプロの団体都合の話でしかないのも事実。
「……もう、心配は要らないんだね?」
「はい、大丈夫です。たとえ10連敗しても、きっちり必要な相手には必要なものを焼きつけてやります。折れません」
久我雫はまっすぐエディの目を見返してそう言った。フックがニヤリと笑うのを横目で見つつ、エディはこれも成り行きかと心に整理をつける。
「わかった。EQT終了後、太平プロに戻れるよう、林吾には話をつけておく。……良い試合だったよ」
苦笑して肩をすくめるエディに、雫はもう一度、深く大きなお辞儀をした。
「まぁ、そう堅苦しく考えんなや。別にオディールが嫌いになったわけでもねぇんだろ? コスチュームはとっときな。そのうち、お祭り的にわざとそいつの姿で興行を盛り上げるなんて手札も、捨てずに残しとけ」
フックはそう言って缶コーヒーを呷る。
「いっぺんくらいお前さんとタッグするのも楽しそうだしよ。遊び心は大事だぜ」
「あ、はい」
神妙に頷く雫に、ガハハと笑うフック。その後、出向解除に向けた書類などの確認事項をいくつか済ませる──や否や、雫はそそくさと荷物をまとめ、ジャージ姿のまま弾かれたように控室のドアノブに手をかけた。
「大会規定が縛ってるのは勝ち残ってる選手だけ。試合に敗退した以上、もう他選手の控室に突撃しても怒られませんので! それでは、失礼しますっ!」
満面の笑みで言い残し、雫は嵐のような足取りで控室を飛び出していった。あとに残されたエディは、閉まったドアを見つめたままフックへ顔を向ける。
「……フック。お前、さては察してたな?」
ジト目を向けるエディに、フックはニヤニヤと笑う。
「まァな。おそらく長続きはせんだろうと思ってたぜ。あの嬢ちゃんは生涯、悪役し続けるタイプじゃあねえ。根っこのところが真面目すぎんだ。……まぁ、さすがにこんなに早いとは思わなかったけどな」
パイプ椅子の向きを変え、エディに向き直るように座り直すと、フックは腕を組む。
「しかし、失恋したツラには見えねェな?」
エディもその意見には同感だった。
「むしろタガが外れた感じに見える。私に復讐された後の、私に執着し出した頃のダングラール……あいつにそっくりな気配を感じた」
その例えに、フックの顔が明らかに引きつる。
「そらぁ……三郎太の奴も災難なこったな……」
頭を掻きながらフックの口から零れた言葉には、心の底からの同情がにじみ出ていた。
「まぁ、苦労するのは林吾と三郎太だ。もう私はどうにもできん♪」
パイプ椅子の背もたれに体重を預け、両腕を頭上に伸ばして大きく背伸びをしながら、エディは上機嫌に吐き出した。そうだ、責任はもう自分にはないのだ。後はそっちで勝手にすればいい。エディが先日読んだラノベに登場する神も言っていたではないか。汝の為したいように為すが良い、と。
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EQT本戦二回戦。ドーム内のグラウンド中央のリング上ではまもなく第三試合が始まろうとしていた。直前に行われたドラマチックな愛の激闘の余韻か、超満員のドームを埋め尽くす観客たちの熱気は、いまや沸騰寸前に達している。降り注ぐカクテルライトを照り返して輝くようなキャンバス。そこに立つのは、英国代表選手にして筆頭優勝候補。予選ブロックを1対5の変則サバイバルマッチで蹴散らし、本戦一回戦で赤ずきんを叩き潰した「若き女王」、ローラ・ザ・チャージだ。凛とした佇まいで、白、赤、黄の鮮やかなグラデーションが目を引くワンピース型のコスチュームに身を包んだ彼女は、小柄に見えるその姿と裏腹の圧倒的な覇気を全身から放っていた。
コーナーに寄りかかって腕組みしたまま女王が睥睨する先、対角線のコーナーを背に立つ対戦相手は日本代表選手の一人。金色の模様の入った白でデザインが統一されたショートタイツとニーパッド、ロングタイプのリングシューズに身を包んだ男、ボーティス神宮寺である。彼はそのレスラーとしては細身の肉体に纏ったしなやかな筋肉を軽くほぐし、茶色の癖っ毛を揺らしながら、ローラから叩きつけられている闘気など気にした素振りも見せずに、観客席に向けて不敵かつ軟派な笑みを振りまいていた。
「見た所、大した事なさそうだけど……そうね、さっきの赤ずきんの事もあるし一応期待してあげる」
ローラは不遜に言い放ち、神宮寺を小馬鹿にするように鼻で笑った。対する神宮寺は、そのローラの発言内容にほんの僅かにピクリと眉を揺らす。予選までの彼女のデータから考えれば「時間の無駄」「雑魚」「くだらない」といったネガティブな反応が出るはず。それが彼女は「期待する」と口にしたのだ。
(どうやら、赤ずきんクンの奮闘はよほど彼女のお気に召したらしいな。少し難易度が上がったか……)
脳裏に感嘆と愚痴の入り混じった感想を浮かべつつ、神宮寺はローラの挑発をさらりと受け流す。
「大したことがない、か……そうだね。君にかかれば道理。だが、そう思っていてくれるなら、僕としても助かる」
肩をすくめる神宮寺の仕草に、ローラは僅かに表情に滲ませる機嫌を下降させる。強気な反応や敵意をぶつけられる方が彼女の好みなのだろう。神宮寺の示した柳に風の態度はどうやら女王にとっては面白くなかったらしい。まぁ、些細な問題だ。どうせ試合が始まればこんなもの比較にならない程に嫌われるであろうから。
神宮寺にとって、対戦した女子レスラーに嫌悪されるのはいつもの事であり、それを楽しんでいる悪癖が自らにあることすら今更の事だった。神宮寺はちらりと背後のリング下へ視線を向ける。そこにいた彼のセコンド係を務める大柄な練習生がハンドカメラ片手に頷くのが見えた。EQTの大会規定は「現役選手はセコンドにつくことを禁止する。二名をセコンド係としてリングサイドにつけることを認める」というもの。だが、ローラ側と異なり、彼の背後には練習生一人しか姿が見えない。
スピーカーから響き渡る実況アナウンサーのハイテンションな声が、ドームの熱気をさらに煽る。
『さぁ、EQT本戦二回戦もこれより後半! 第三試合は最強無敵の優勝候補、英国のローラ・ザ・チャージが出陣です! 対するは日本代表選手の一人、黒き門に潜む邪悪なる悪魔、「ボーティス神宮寺」! 一回戦で赤ずきんを下した若き女王に果たしてこの悪魔はどう対抗するのか!? 解説には一回戦で白鬼を雌牛と侮り、いなしきれずにマットに沈んで敗北したフェルナンド・デ・レオンさんにお越し頂いております!』
目の前のモニターを鋭い目で見つめる実況アナは、一息でそこまでまくしたてると、隣の席へと水を向けた。
『紹介に悪意があるように感じていささか思う所はあるが……どうも、スペイン代表のフェルナンド・デ・レオンです。よろしく』
解説など慣れていないのだろう。ヘッドセットのマイク位置を調整しつつ、フェルナンドは戸惑いながら応じた。彼は端正な顔立ちに少しだけプライドを覗かせつつも、紳士的な大人の対応を守る。
『おっと、これは失礼いたしました! そのカウンターや捌きで高い技術をお持ちのフェルナンドさんから見て、この試合……いかがでしょうか?』
フェルナンドの反応から不慣れを感じ取った実況アナは、素直に頭を下げつつ、プロの顔に戻って話を続ける。フェルナンドは腕を組み、モニターに映るリング上の両者を厳しい目で見つめている。
『ふむ、そうだね。女王ローラの武威はもはや語るまでもない。格下とは言え正直5人まとめて一度に蹂躙するその圧倒的なパワーと高いテクニックは、およそ若手とは思えないものだ。ベテランの世界チャンプ相手でも挑戦できるのではないか、と思わせる稀代の選手──そう言っても過言ではないでしょう』
フェルナンドはそこで一度、息をついた。
『対する日本の神宮寺氏だが、テクニック偏重のインテリジェンスファイターだ。試合は拝見したが、予選では的確に相手の弱点を突き、得手を封じることで試合の主導権を握っていた。だが、女子レスラー相手の際は少々下品な戦い方をするのが難点だな。敬意を示し難い。……端的に言ってしまうが、ローラ相手では勝ち目が無いように思えます』
改めて確認するように手元の資料に目を落とし、フッと息を漏らすフェルナンド。リングで戦うプロとしての冷徹な分析眼が、その言葉には宿っていた。
『なんと! 小手先の技術や智謀でどうにかなる覇者ではない。そういうことですか。ところで、フェルナンドさんも一回戦でシロオニ・ベスの突進をいなしてDDTを放った際に、尻を叩いて下品な挑発をなさっていたように思うのですが?』
他人のことを言えた義理なのですか? 実況アナが真顔で、しかし容赦のない弾丸を放つ。
『……その点については私も反省していた。あれはビソンテ(野牛)ではなく、モントゥルオ(怪物)だったのでね』
フェルナンドは咳払いをひとつ挟み、極めて大真面目な、そしてどこか遠い目をして、母国語を交えながら静かに言い訳をのたまった。
『なるほど……女性扱いすらしていませんでしたか……』
想定よりさらに下だった。他者を侮辱すると言う行為にあまりに無頓着なフェルナンドに対し、溜息をつく実況アナの視線は冷たい。
レフェリーの合図とともに、甲高い金属音をたてて試合のゴングが鳴り響いた。
「フン……では始めましょうか」
悠然と構えるローラに対し、神宮寺も油断なく構える。しかし、その口から出る言葉は真剣な態度に比してどこか挑発的な色を帯びていた。
「……そうだな、有名漫画に倣ってみようか。いいだろう、あふれる知性でお相手しよう」
生憎、同誌の先輩超人プロレス漫画のネタは通じなかったらしく、僅かに首を傾げるローラ。些細なノイズだが、これも余計な事を考えさせると言う点では無駄ではない。神宮寺はまず、基本に忠実な、しかし平凡な威力のエルボーを放った。踏み込みも正確で、狙いもフォームも教科書通り。だが、そこにはトップレスラーが放つような破壊的な重みは感じられない。ローラはその凡庸な一撃を避けることすらせず、豊かな胸を張って正面から受け止める。
ただ、彼女を一歩後退させるだけ。
それが神宮寺のエルボーが与えた影響の全てだった。
「……ヘイ! これで本気なの? もっと全力で来なさいな!」
ローラは眉一つ動かさず、呆れたように言い捨てた。彼女にとって、神宮寺の打撃はそれなりというだけで響かない。ダメージと感じられない。
格の違いを見せつけるべく、彼女は即座に右腕をしならせ、お返しのエルボーを叩き込んだ。踏み込みの足音だけでキャンバスが震えるような、抉り込むような肘の一撃。軽く込められたであろうその闘気は淡い光を帯び、まるで可視化されたオーラのように揺らめいている。
「ぐっ……!」
神宮寺の顔が歪む。ローラの細い腕から放たれたとは思えない重い一撃が、彼の喉元を正確に捉えた。ただの一発でロープ際まで後退を強いられ、神宮寺の膝ががくりと折れ、キャンバスに突き立つ。胸に広がる衝撃に耐えながら、神宮寺は内心で冷徹に計算を続けていた。
(威力、速度、踏み込みの深さ……データ通り、いやそれ以上か。まともにやり合えば、数分持たずにスクラップだね)
かつて「ノワール・ゲート」の団体興行の招待選手試合においてジェニーがローラに惨敗した際、神宮寺が持っていたローラのデータは1年以上のギャップがあった。それは彼女が英国マットの覇者となって後、ナンバー2の座に収まった邪竜が挑戦しようとする者たちを執拗に叩き潰して回り、彼女のまともな試合が長らくなかったが故のことだ。しかし、EQTの予選と本戦一回戦の試合を経て、今神宮寺の元には最新のデータがある。そのデータによって算出する限り、神宮寺がガチで彼女相手に勝利を狙ったとしてその勝率はわずか5%にも満たない。それほどの開きがある事を彼は理解していた。
だから、神宮寺はこの試合、最初から「勝利」を優先順位のトップに置いていなかった。彼が今試合に対し敷いた軍策は「化血陣」……その身を血と化して後の反攻の刃と為す目論見。圧倒的な実力差があるローラに対し、いかに長くリングに留まり、彼女の「癖」や「反応」のデータを引き出せるか。
神宮寺はその一点に全てを費やしていたのだ。
一方、ローラは手ごたえに違和感を覚えていた。今のエルボー、神宮寺は「命中する前からマットを蹴ってバックステップを始めていた」のだ。威力がなかば推進力に代わってしまい、完全な形で破壊力が発揮されていない。それを彼女はヒットの感触から感じ取っていたのだ。
「フッ……ならばこうだ!」
神宮寺はふらつきながらも立ち上がり、なおも無防備に、余裕たっぷりに構えるローラの懐へ潜り込んだ。狙うは首。彼はローラの背後に回り込み、その細い首を腕で捕らえた。神宮寺の得意技、人呼んで「セクハラ・ドラゴンスリーパー」。密着する二人の肉体。神宮寺は絞め技としての体裁を保ちつつ、指先でローラの体表面をなぞるように、時折押し込むようにして、腹筋から胸筋にかけての筋肉の反応を探る。指先が彼女の脇腹や胸元を這いまわり、まさぐる。絞めへの抵抗の際の反応、強さ。ロックを外しに来る腕にかかる力と角度のクセ。重心移動と脚力の無意識の連動。それらを調べるためのこの技は、観客や対戦相手の女子レスラーからはセクハラと断定され、すこぶる評判がよろしくない。だが、そんなことは織り込み済みだ。自身のレスラーとしての人気などより必要なものが、重視するものが神宮寺にはある。そこに見解の相違があるだけと、彼は外から浴びる罵声を気にもしない。
気高い女王にとって、この技と体勢は屈辱以外の何物でもなかった。相手を追い詰める攻撃にしては技術があまりに未熟であり、それ以上に、肌をまさぐるその不潔な下心が透けて見える。そうローラが断定した神宮寺の不埒な挙動は、彼女のプライドを激しく逆撫でした。しかし、まだローラは余裕をもっていた。彼女は自身の肉体に絶大な自信をもっているのだ。多少の色気程度のことは観客へのサービスとして受け入れられる。
「これがドイツ代表のシュタールを一回戦で破った手管……? ハン、ヘタクソ♡ 感じないわ!」
ローラは嘲笑交じりに強引に体を捻ると、たやすく力ずくで神宮寺の腕のロックをこじ開けて、鋭いバックエルボーを神宮寺の脇腹へ突き刺した。
「がっ……!」
体勢悪く十分に芯の入っていない一撃にも関わらず、想像以上の威力を受けた神宮寺が、たまらず拘束を解いて後退する。
「半端ね、ジャップ。底の浅い技術にヘタクソな愛撫……やるならどちらにせよ、もっと上手になさい!」
ローラは追撃に入った。後退する神宮寺に追いすがり、アイアンクローばりに顔面を掴んで逃がさない。そして、掴んだ頭部を押し下げながら、胴をクラッチして力任せに抱え上げた。抵抗する隙すら与えない、圧倒的なまでの膂力。そのまま頭上高くへとリフトアップし、そこから高角度で、情け容赦なくパワーボムでキャンバスへと叩きつける。
叩きつけられる瞬間、咄嗟に身を捻ってローラの右肩を掴み、片腕で最大限受け身を取った神宮寺。しかし、衝撃でリングが大きく揺れ、彼の背中と肺はダメージに悲鳴を上げていた。
「はぁ、はぁ……。これは……キツイな。角度も速度もずらしてなお、コレか……」
ローラはフォールに行くことすらしない。ただ見下すように、すぐ立ち上がって反撃してくるでもなく、マットにはいつくばって苦悶する神宮寺を見つめる。
僅かに動きが止まったリング上の光景を映し出すモニターを前に、放送席では実況アナがアナウンスを続けていた。
『パワーボム炸裂! ボーティス神宮寺のセクハラ・ドラゴンスリーパーを力づくで破ってからの、格の違いを見せつけるかのような、若き女王の戦慄の一撃! 神宮寺、完全に動きが止まりました! フェルナンドさん、今のは……!』
ドーム全体の興奮を代弁するようにオーバーな声音で強調する実況アナに対し、フェルナンドは机上モニターの映像をじっと凝視していた。
『……言葉もないね。神宮寺氏も空中でわずかに体勢を入れ替えて衝撃を逃がそうとしてはいたが、ローラのパワーがそれを完全に上回っている。やはり実力差がありすぎる。ローラからすれば、焦ってフォールを取る価値すら見ていないのだろう』
ふう、と重苦しい息を漏らしながら、フェルナンドが顎に手をあてる。
『実況席からもはっきりと聞こえるほどの重低音がドームに響き渡りました! 日本の悪魔、早くも打つ手なし、絶体絶命か!?』
戦況を結論付けようとする実況を遮るように、発せられたフェルナンドの声は、冷水を浴びせるように一段と低いものだった。
『だが、妙だ』
手元の資料を指先でトントンと叩きながら、プロのレスラーとしての鋭い視線を画面に注ぐ。
『神宮寺氏から見えるテクニックの片鱗からすれば戦い方が不自然に思える。インテリジェンスレスラーなればこそ、勝ち目が薄いなら一手ずつ布石を敷きそうなものだが……これでは試合を引き延ばすのが関の山ではないか?』
『持久戦が狙いということですか?』
安直にそう問いかける実況アナに対し、フェルナンドは首を横に振ってみせる。
『いや、それで勝てるような相手ではない……何だ。彼は何を企んでいる?』
神宮寺の意図が読めず、フェルナンドは本気で眉根を寄せ、思考の海に沈みかける。その難解な数式を解くようなシリアスな横顔へ、実況アナが極めてカジュアルなトーンで言葉を投げかける。
『セクハラとか?』
二人の空気が一瞬だけ奇妙に静まり返った。
『ない……と思うが……ないよな?』
一回戦のハイジ戦での神宮寺の前科が脳裏をよぎったのだろう。フェルナンドは一瞬だけ言葉を詰まらせ、最後はすっかり自信をなくしたように、隣の実況アナへ向けた言葉を彷徨わせながら、視線を逸らすのだった。
「こんなもの? ……攻めも受けも惰弱。大したことない雑魚」
冷酷な言葉が降り注ぐ。神宮寺は背中の痛みに耐え、必死に呼吸を整えようとするが、ローラの猛攻は終わらない。
「一回戦で戦った赤ずきんの方が、ずっとマシだったわ。……本当につまらないわね」
彼女は倒れ伏す神宮寺を引き起こし、今度は逃がさぬと言わんばかりに蛇のようにその全身で絡みついた。
「もういいわ、本戦まで残った奴だからと期待した私が愚かだったようね。おしまいにしましょう。骨の軋む音を聞きながらギブアップなさい!」
ローラが仕掛けたのは、彼女の得意技。予選でも猛威を振るって対戦相手を泡を吹いてギブアップに追い込んだ完璧なフォームのアブドミナルストレッチ……いわゆるコブラツイストだ。脇腹をねじ切らん勢いで、腰を強引に捻る地獄の拷問技。ローラの卓越した技術によって、神宮寺の抵抗などものともせず、容易くその体は限界まで引き絞られた。
「あ、が……っ……あぁ……!」
神宮寺の絶叫が会場に響く。だが、その苦境の中で、神宮寺の目はまだ死んではいなかった。ローラが勝利を確信し、さらに力を込める。
(今だ……。彼女が右足に体重を乗せ、さらに絞りを強くするこの瞬間……。体勢が、姿勢が……呼吸するようにわずかに開く)
繰り返し控室でコマ送りで観察し続けたローラのアブドミナルストレッチ。団体「ノワール・ゲート」における後輩、結城蓮が彼女に予選サバイバルマッチで仕留められたあの映像で見た彼女の癖。ローラがさらに力を込める瞬間に生じる、ほんの数ミリの重心のズレ。
人は物理法則には逆らえない。だからこそ生じる無意識の間隙。神宮寺はその綻びを見逃さなかった。彼はあえて抗うことを止め、完全に脱力した。ローラの力の流れに身を任せるように、するりと体を滑らせ、彼女の脇の下から腕を抜いてマットに流れ落ちるように見事に脱出を果たした。
「What……!? 何? どうやって抜けた!?」
完璧に極まっていたはずの感触が、突然霧散した。ローラは自身の感覚に疑念を抱き、呆然と立ち尽くした。あり得ない脱出劇、魔法でも使われたかのような感覚に、女王の冷静な仮面がわずかにズレる。その隙を、神宮寺は見逃さない。
「たまには地を這ってみるといい!」
神宮寺は低く、マットに沈み込むような姿勢から、立ち尽くすローラの軸足を狙って水面蹴りを放った。ローラの華奢な足首を捉え、その姿勢を崩させる。尻もちをつくようにしてマットにぺたんとローラの腰が落ちる。彼女の頬が屈辱と羞恥に赤く染まった。ダメージ自体は軽微なものに過ぎない。しかし、一瞬でも女王の足を止め、転倒させたという事実は、観客を驚かせ沸かせるに十分だった。
神宮寺はよろよろと立ち上がり、ローラだけに聞こえるように調節した小声で、血の混じった唾を吐き捨てながら呟いた。
「……成程。わずかだがつけ入る隙はある」
(けどそれも、僕の実力では届かない。勝ち残っている中で、僕の話を聞きそうな。そして、搦め手が使える奴……そうだな、あの『変態猫』ならあるいは……)
その独り言は、不敵な笑みを伴っていた。本来は所属を同じくする団体「ノワール・ゲート」のエース、ジェニー・葛葉に託す予定だったが、彼女は二回戦でシロオニ・ベスとの激闘の末に、敗退してしまっている。残る候補は少ないが、その中に一人、神宮寺にとっての天敵のような存在が居た。色々感情的には抵抗があるが、神宮寺の脳内のデータは彼女が最適だと無情に告げていた。
実況アナの絶叫とともに、ドーム全体から割れんばかりのどよめきが湧き起こる。実況アナは手元のモニターを食い入るように見つめ、信じられないといった様子で声を上ずらせた。
『な、何が起こったのでしょうか!? 極められていたはずのコブラツイストを煙のようにすり抜け、不意を突く水面蹴り! あの最強の女王ローラが、マットにぺたんと尻もちをつかされましたーッ!?』
フェルナンドが、思わずヘッドセットのマイクが拾う音量を忘れて素の声を荒らげる。
『ば、馬鹿な……!? 今のは……何が起きたんだ? ローラのクラッチは完璧だった。力ずくで外せるはずがない!?』
プロの眼から見ても、今の脱出劇は怪奇現象に等しかった。
『フェルナンドさん、動揺が隠しきれていません!』
『……おっと、失礼した』
実況アナのツッコミにハッと我に返り、咳払いをひとつ挟んで平静を装うフェルナンド。しかし、その視線はなおも鋭くリング上の神宮寺を捉えて離さない。
『しかし、あの水面蹴りにダメージはほぼ無い。ローラのプライドに傷をつけたのは間違いないが、ここから神宮寺氏はどう攻めるつもりなのか……』
シリアスな声色の解説を、能天気な声があっさりとへし折った。
『頬を染めたローラ・ザ・チャージ。なんか幼く見えて可愛いですね』
プロとして真面目に次の戦術展開を予測しようとしたフェルナンドの思考が強制停止させられる。ドーム全体を包む緊迫した熱狂のさなか、放送席のブースの中にだけ数秒の奇妙な空白が落ちた。
『ちょっと待って?』
フェルナンドは真顔で隣を向き、いま何と言った、と目で問いかけるのだった。
だが、その神宮寺の余裕の一言はローラの逆鱗に触れた。立ち上がった彼女の瞳には、先ほどまでの侮蔑ではなく、底冷えするような怒りと、獲物を確実に仕留めようとする肉食獣の光が宿っていた。
「私の得意技に隙……? やってくれたわね、ジャップ!?」
ローラは神宮寺の喉元を強引に掴んで引き起こすと、容赦のないラリアットを叩き込んだ。神宮寺の体が空中を泳ぎ、一回転してマットに沈む。掴まれていて、衝撃を逃がす事ができなかったのだ。
「……まだだ……まだ終わるわけにはいかなくてね……」
猛烈に咳き込み、朦朧とする意識の中で、神宮寺はそれでも立ち上がろうとする。
「僕は嘘つきだが……僕のデータは嘘をつかないのさ……」
その言葉は、もはや目の前の勝敗ではなく、その先にある「誰か」へ託すための遺言のように響いた。しかし、ローラはその意図を汲むつもりなど欠片もない。再び神宮寺を抱え上げる。今度は、先ほど以上の高角度、終わらせるためのパワーボム。空中での悪あがきもできない電撃的な二度目のパワーボムは、神宮寺の背骨をキャンバスにめり込ませるほどの勢いだった。受け身を殺し、魂を削るような一撃。ローラの苛立ちがそのまま破壊力へと変換されたかのような威力。叩きつけられた衝撃で、神宮寺の意識が飛びかける。ローラはそのまま覆いかぶさり、フォールを奪いに行った。
レフェリーの手がキャンバスを叩く。
「ワン! ツー! ス……!?」
「……っ」
だが、神宮寺の肩が、カウント2.9でわずかに浮いた。
マットに叩きつけられた神宮寺の視界は、激しく明滅していた。肺から空気がすべて絞り出され、指一本動かすのさえ億劫になるほどの衝撃。だが、その朦朧とした意識の層を突き破るように、ローラの怒気に満ちた叫びが響き渡る。
「……決まらない!? しかも貴方、今カウントギリギリまで休んでから肩を上げたわね?」
ローラの声には、ただ、純粋な怒りだけがあった。
「オーケイ、なるほど。……つまらない雑魚は『フリ』なのね? このローラ・ザ・チャージを相手に演技しながら、なにやら探ろうって?」
目の前の男が「無能」を演じ、自分の技術を値踏みするための実験場としてリングを利用していたこと。気高き女王にとって、それはどんな罵詈雑言よりも耐え難い侮辱だった。
「……舐めるなァ!!」
神宮寺は本能的に、この場に留まることの危険性を察知した。本気になったローラの「猛威」は、もはやデータで測りきれる範疇を超えようとしている。
「くっ……露骨すぎたか……!」
彼は焼けるような肺で呼吸を繋ぎながら、這うようにしてロープへと手を伸ばした。キャンバスを転がり、場外へ逃れることで一呼吸置く――いや、さらに時間を稼ぎ、彼女の激昂した状態のデータを少しでも多く脳に刻むためのエスケープを試みる。
はずだった。
しかし、逃げ道はすでに断たれていた。
「どこへ行くつもり!?」
背後から伸びてきた力強い手。ローラは場外へ逃れようとする神宮寺の脚を、万力のような力で掴み取った。逃がさない。この男が用意した「つまらない試合」という幕を、彼女自身の暴力で強引に引き裂くために。
ローラは神宮寺の脚を引き寄せると、さらにその茶色の癖っ毛を無造作に掴み、力任せに引きずり起こした。
「……貴方の薄汚い企みごと、マットに沈めてあげるわ!」
ローラの金髪が激しい動きで乱れ、その瞳には王者の峻烈な光が宿る。彼女は神宮寺の背後に回り込み、その細身ながらも鍛えられた胴体をがっしりと両腕でロックした。
(これはダメだ)
神宮寺は確信したが……バックを取られた彼に、もはや抗う術は残されていなかった。ローラの小柄な体躯からは想像もつかない爆発的な瞬発力が解放される。
一発目、ジャーマン・スープレックス。ローラの体が美しい弧を描いて後方へ反る。神宮寺の体は重力から解き放たれ、後頭部からキャンバスへと突き刺さった。脳を揺らす衝撃。だが、ローラはホールドにいかない。
二発目、ドラゴン・スープレックス。間髪入れずに、再び強靭な背筋が神宮寺を宙へと放り投げようとするほんの直前に、神宮寺は残された力を振り絞ってマットを蹴って全力で跳躍した。投げられる刹那、自発的な跳躍でタイミングをずらし、必殺の威力を減じようという最後の策。
「ダメよ」
「……ッ!?」
だが、ローラは投げをパワー任せに止めた。跳躍空しくフルネルソンでクラッチされた姿勢のまま宙からマットに引き戻される。そして、無慈悲な再起動。改めて放たれるドラゴン・スープレックスが完全に決まった。観客の歓声が地鳴りのように響く中、神宮寺の意識は急速に遠のいていく。骨が軋み、内臓が悲鳴を上げる。
三発目、タイガー・スープレックス。これが最後だと言わんばかりに、ダブルチキンウイングに神宮寺を捕らえて、ローラは渾身の力を込めてブリッジを効かせた。ローラの必殺技(フェイバリット)である「トリコロール・スープレックス」という三連発の衝撃が、神宮寺の命を刈り取るように炸裂する。
ローラはその完璧なアーチを描いたまま、神宮寺の体をマットにホールドで固めた。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
レフェリーの声が、神宮寺の耳に届くことはなかった。完全に白目を剥き、失神した神宮寺の体からは一切の力が抜け、ただの肉の塊と化していた。勝者、ローラ・ザ・チャージ。会場を揺らす女王への喝采を背に、ローラは勝ち誇ることもなく、ただ不機嫌そうに肩で息をしながら、キャンバスに沈む神宮寺を見下ろした。
リングを中心に観客の声援が織りなす熱狂の渦を切り裂いて、実況アナがマイクに向かって絶叫する。
『決まったぁ~ッ! 最後は伝家の宝刀、トリコロール・スープレックスホールド! 英国の若き女王、ローラ・ザ・チャージが神宮寺を圧倒し、本戦準決勝へと駒を進めました!』
カメラは完璧なブリッジからゆっくりと立ち上がり、乱れた金髪を払うローラの姿を大画面に映し出していた。
『……凄まじいものを見せてもらった。最後、神宮寺氏もドラゴン・スープレックスから崩そうと試みてはいたようだが……完全にローラのプライドと暴力が、神宮寺氏の小細工を力ずくで圧殺した形だ。貫禄の勝利だな』
フェルナンドは深く息を吐き出し、画面の中の女王へ惜しみない称賛を送る。だが、実況アナの視線は、勝利したはずのローラの「ある異変」に釘付けになっていた。
『確かに仰る通り、女王の威光を見せつけられました。しかしフェルナンドさん、最後に見せたあのローラの『剥き出しの怒り』……あんな表情をする彼女を私は今まで見たことがありません』
画面にアップで映し出されたローラは、勝ち名乗りを上げられてもなお、不快感を隠そうともせず激しく眉を寄せていた。その様子を険しい目で見つめ直し、フェルナンドは静かに口を開く。
『……どうやら、神宮寺氏は勝利以外に戦略目標を定めていたようだね。それが女王の怒りを買ったように見えた』
その推測は、トーナメントという勝負の世界の前提を根底から覆すものだ。実況アナは言葉の真意をすぐには咀嚼できず、怪訝な顔でオウム返しに問う。
『勝利以外の目標……ですか?』
フェルナンドは目を閉じて腕を組む。
『……誰が為の策なのかは私にもわからないが、どうやらこのトーナメント、まだ一波乱ありそうだ』
フェルナンドが残したその言葉は、冷たい予言のように放送席の空気を震わせた。
神宮寺の敗北に、リングサイドのセコンド係の大柄な練習生はスタッフに担架を願い出ながら、ヘッドセットごしに控室のもう一人のセコンド係の練習生へと声をかける。
「カメラの映像は届いてるな? あとは神宮寺さんの指示通りに。……ああ、俺たちが『化血陣』の最後のピースだ……!」
二回戦第三試合は決着し、終了したが、彼らの闘いはまだ終わってはいない。
練習生は既に電源を落とされたハンドカメラを握りしめながら、勝ち誇る英国の若き女王を見据えていた。