「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
様々な感情が渦巻くEQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦二回戦。その会場内のボルテージは上がり、第四試合開始を前に溢れかえるような熱気に包まれていた。これからリングに上がる二人は、かつてメキシコのルチャ界で名を馳せた悪役同士。かつて同じ団体、同じ陣営に身を置きながらも、彼らには互いの獲物――鎖と縄――という、似て非なる拘束具へのこだわりゆえに、一度も交わることのなかった不気味な因縁があった。それが、この世界大会を舞台として、日本の地でついに爆発しようとしていた。
地を這うような重苦しい足音と共に、重厚な入場曲が鳴り響く。現れたのは、メキシコ代表選手「エル・アオルカド」である。口元を太い糸で縫い留めたような不気味なマスクの額に、タロットの『吊られた男』を象ったシルエットを彩ったその風貌は、まさに「荒縄の処刑人」の名に相応しい。威圧感を放ちながらリングにあがった彼は、コーナーロープに片脚をかけて、手にした太い荒縄を観客席に見せつけるように、鞭のごとく空中で鳴らした。パァン! という乾いた破裂音が会場に響き渡り、観客たちの背筋を凍らせる。アオルカドはマスク越しに、不気味な哄笑を漏らしながら、これから対角線のコーナーから現れるはずの対戦相手へギラギラとした視線を送り、待ち構える。
続いて、不吉な猫の声のSEから始まる鋭いビートのヘビィメタルの入場曲と共に現れ、花道を歩くのは日本代表選手の女子レスラー、「ガータ御子柴」だ。黒髪のショートボブを揺らし、猫耳を模したカチューシャと、黒と赤の網目付きワンピースコスチュームを纏った彼女は、いつもなら衣装に紛れて隠し持つ一筋の鉄鎖を、今回は最初からその右手に携えていた。ジャラリ、ジャラリと冷たい金属音を響かせながら進むその姿は、可憐な容姿とは裏腹に、獲物をいたぶる機会を狙う邪悪な地獄猫そのものである。御子柴は身軽にトップロープを飛び越え、リングへ着地すると不敵な笑みを浮かべながら、対角線コーナーに構えるアオルカドを、強く睨み据えた。
ただならぬリング上の気配を感じ取ってか、どこか落ち着かないトーンの声で実況アナがマイクに叫び、観客たちを盛り上げていく。
『続きましてはEQT本戦二回戦……そして本日最後の試合です! 第四試合の対戦カードはなんと悪役同士の激突! メキシコ代表の最後の生き残り、一回戦で砂漠の戦士を無残に処刑場と化したリングで仕留めた荒縄の処刑人「エル・アオルカド」! そして、日本代表選手の一人、一回戦でブラジルの餓えた黒豹を深淵に引きずり込んだメキシコ修行帰りの太平プロレスにおけるカオスの権化、「ガータ御子柴」!』
両選手の紹介をした所で実況は一息ついて、場内のどよめきが収まり、観客たちが情報を咀嚼するのを待ち、語りを再開する。
『聞けば二人はメキシコにおいては同門同陣営の仲だとか! 解説は一回戦で黒鳥オディールの羽が作りし暗闇の中で危うく新たな扉を開きかけたメキシコの天才少年、リカルドさんでお送りします!』
実況アナの横で、ヘッドセットをつけた褐色肌の小柄な少年が、カメラに向かって無邪気に手を振った。
『イエ~イ、ヨロシク! アオルカドもミコシバもがんばってネ~!』
あまりにもマイペースな挨拶に、実況アナは苦笑混じりの頷きを返し、すかさず手元の資料に目を落とす。
『さて、リカルドさんもまたメキシコではリング上の二人と同じ団体という事ですが?』
『ウン、そうだヨ! エ~ト……AFC-LLM(Asociación del Fomento a la Civilización de Lucha Libre Mexicana)って団体! アオルカドもミコシバも同じくらいのタイミングで悪役(ルードス)に転向デビューしたんダ! ボクやマヤが二人にボコられた事は何度もあるケド、アオルカドとミコシバが試合するのは初めてだから、この試合はボクも楽しみだヨ!』
自身と団体の同僚であるエル・マヤの過酷な実体験をあっけらかんと語る少年に、実況アナウンサーのテンションがさらに一段跳ね上がった。
『成程! ガータ御子柴が日本に帰った事で初めて叶った直接対決という構図なわけですね! 実に興味深い展開であります!』
『ウンウン、たぶん血ミドロだヨ、苦手なお客サンは気を付けてネ!』
あまりにも平然と続けられた言葉に、面喰った実況アナが一瞬だけ凍りついた。
『えっ』
『えっ』
リカルドは悪びれもせず首を傾げ、実況アナウンサーは引きつった笑みを浮かべながら、必死にプロの顔を取り戻そうとマイクを握り直す。
『あ、いえ、失礼。開始前から恐ろしい予言をさらっと頂いてしまいました! どうぞ皆さん覚悟してご覧ください!』
困惑と動揺がわずかに入り混じる観客たちのざわつきをよそに、カメラは視線を絡め合うリング上の二人を映し出していた。
試合開始前に言葉を交わす事は無かった。二人はただ、その腕に凶器を堂々と巻き付けたまま、黙って互いを睨みつけるのみだ。鎖と縄。金属の冷たさと繊維の荒々しさ。二人の間に火花が散る中、試合開始を告げるゴングが鳴り響く。
真っ先に動いたのは御子柴だった。彼女は猫のような瞬発力でキャンバスを蹴ると、低空ドロップキックをアオルカドへと放つ。太腿を打たれて巨体がわずかに揺らいだ隙を見逃さず、彼女は右腕にジャラジャラと鎖を幾重にも巻き付けたまま、見せつけるように振り上げる。
「ほぉーら、まずはご挨拶だニャン!」
鎖を纏った鉄腕が、ラリアットとなってアオルカドの喉を直撃した。金属が肉を叩く鈍い音が周囲に響き渡る。重心を崩されたタイミングへの硬質な衝撃に、さしものアオルカドも背中からキャンバスに叩きつけられた。
しかし、アオルカドはただ倒れるままの男ではなかった。彼は倒れ際の勢いを殺さず、マットを転がるようにして、御子柴の軸足を払うカウンターの低空ドロップキックを繰り出した。大柄な体格からは想像しにくい軽快な動き。予期せぬ足元への一撃に、御子柴の華奢な体は容易に平衡を奪われ、こちらも転倒を余儀なくされてマットにその身を打ち付ける。アオルカドは立ち上がろうとする御子柴の髪を掴んで引きずると、そのまま掴んだ頭部をトップロープへと押し付けた。
「ロープの味、たっぷりと味わうがいい」
アオルカドが行ったのは、彼の真骨頂とも言える「ロープサミング」だ。弾力のあるプロレス用ロープの、そのざらついた表面に御子柴の白い顔面、それも眉や瞼あたりを押し当て、力任せに横へと擦りつける。皮膚が焼け、摩擦熱が神経を逆なでする激痛。
「ア゛ァ゛……ッ!」
御子柴は顔を歪め、苦悶の声を漏らした。さらに追撃の手を緩めないアオルカドは、顔を押さえて悶える御子柴の背中に向けて、渾身のエルボーバットを叩き込んだ。ドスッ! という重低音が響き、御子柴の細い身体が折れ曲がる。肺から空気が搾り出され、彼女はキャンバスに這いつくばった。
「フッ……」
覆面の下でアオルカドの顔に笑みが刻まれる。マットにダウンした御子柴を見下ろす彼から漏れる笑い声には、ただ優勢を喜ぶだけではない情動が滲んでいた。
いよいよアオルカドの「処刑」はここからだ。彼は身を起こそうとマットに手をついて四つん這いになっていた御子柴の腰を強引にクラッチして抱え上げると、彼女の股間をトップロープに打ち付けるようにして跨らせた。
「お前も知っている『地獄の吊縄橋』だ……受けるのは初めてだろう? ……存分に苦しめ」
不安定なロープの上で咄嗟に手をついて食い込むロープを押さえる御子柴に対し、アオルカドはその脇でロープを掴んで無慈悲に揺らし始める。股間を襲う鈍痛と、逃げ場のない羞恥。覆面の処刑人の非道なる振る舞いに観客席からは悲鳴にも似た歓声が上がる。
──が、そこで誰もが予想だにしない反応が起きた。
「あっ……あ♡ ……ふぅ……ふぅ……」
御子柴の口から漏れたのは、苦悶の叫びではなく、明らかに甘く蕩けた悦楽の声だった。凍り付く観客席。思わず二度見するアオルカド。
「あっ……いいニャ……ひぅ! もっと……もっとゆさゆさしてェ……♡」
紅色の瞳に狂気的な光を宿し、恍惚とした表情──アオルカドがこれまで見た事もないような嫣然とした顔で自分を見下ろす御子柴。アオルカドは一瞬、思考停止した後に心底から噴き出す本能的な戦慄を覚えた。メキシコマットでは対戦する機会がなく、日本帰国後の彼女の試合映像も目にしていなかったが故に、彼は御子柴の「底知れないマゾヒズム」を目にするのは初めてだったのだ。
このあまりにも異様な光景に、混乱しているのは放送席も同じだった。
『エル・アオルカドの「地獄の吊縄橋」がガッチリと決まっている……はずなんですが、ガータ御子柴の声が……これは苦悶の声なのか!? え、ええと……申し訳ありません! どう反応していいか分かりません!』
詳細なアナウンスをしてしまうことが今は最大に罪深い行いになるのではないか。そう考えた実況アナがプロにあるまじき言葉を放ってしまう。一方で隣の少年はゲラゲラと笑い転げていた。
『アハハハ! ヤバい! ヤバいよミコシバ! それはちょっとエッチすぎでショ!? ボクもムラムラしちゃうヨ! アハハ!』
不穏な言葉とは裏腹に、腹を抱えてただ陽気に笑っているジャケット姿の褐色少年。
『いや、ムラムラしないでくださいね! 試合中なので!』
『見てヨ! アオルカドの綺麗な二度見だヨ! こ、こんなの笑う……アハハハハ!』
実況アナの叱責などどこ吹く風、リカルドは机をバンバン叩いて大笑いしていた。
『えー、エル・アオルカド戸惑っております! これがガータ御子柴流の防御術? ……耐久術なのか!?』
――放送席の困惑を余所に、リング上の処刑人は完全に調子を狂わされていた。あまりの醜態を目の当たりにしたアオルカドは困惑し、ロープを揺らす動きを止めてしまう。その隙を、御子柴は見逃さなかった。
「……油断しすぎだニャ、バカ野郎」
彼女はロープの上から倒れ込むようにして、蛇のような動きでアオルカドの肩に顔を近づけると、その白い歯で剥き出しの肩口に深く食らいついた。
「ぐわあああぁっ!?」
アオルカドの絶叫が響く。肉を食いちぎらんばかりの勢いで噛みつかれた激痛に、彼はたまらず御子柴を掴んで引きはがすと、リング内へ放り出した。空中で身を捻り、猫のように鮮やかに着地した御子柴は、すぐさま肩を押さえて呻くアオルカドの足元に滑り込む。
彼女が繰り出したのは、複雑な脚のロックを見せる関節技「アグラツイスト」だ。絡みつく脚がインディアンデスロックの形にアオルカドの脚をロックして自由を奪い、脇の下から差し込まれた腕が彼の上体をコブラツイストの如く捩じり上げ、背筋を限界まで捻り反らせる。
「ぐぅぅぅぅ!?」
「ほら、さっきまでの勢いはどうした? その調子でもっと啼けよ、最高の悲鳴を聞かせてくれニャ!」
御子柴は先ほどのロープ上での恍惚とした表情から一転、攻撃的なサディストの顔へと戻っていた。関節が軋む音を楽しみながら、彼女はさらなる凶行に及ぶ。
アオルカドはアグラツイストから逃れようともがくが、仮にもかつてモモタロウが得意技に数えた名技――モモ・スペシャルその2である。外れない、破れない。完全無比の極め技に対し、やむなく強引に御子柴の技ごと引きずるように、力任せにロープ際へ逃れようとするアオルカド。だがその瞬間、御子柴は自ら技からアオルカドを解放すると同時に、腕に巻いていた鎖を一気に解き放った。まるで獲物を捕らえる蛇のように放たれた銀色の光が、アオルカドの首に吸い込まれるように巻き付く。
「チェーン・チョークだニャ! オラオラ、アオルカドちゃん、散歩の時間だぜ!」
御子柴は鎖の端を肩に担ぎ、力任せに歩き出した。
「ぐ……ぎぃぃ……ッ」
首を絞めつける鎖を掴んで抵抗するも、果たせずそのまま後方へと引かれて、マットをずるずると引きずり回されるアオルカド。容赦なく締め上げてくる金属の冷たい感触が喉仏を圧迫し、彼は言葉にならない呻き声を上げながらキャンバスを転げ回った。観客席の目の前で、処刑人が逆に鎖で引き回される凄惨な光景が展開される。
だが、「メキシコの暗黒街の処刑人」を自称する男の執念は、それしきでは潰えなかった。
「……調子に、乗るな……!」
鎖で引き回される勢いを利用し、アオルカドは自ら御子柴の元へ飛び込むように跳躍した。鎖を引き寄せた御子柴の懐へ、弾丸のようなスピードでスピアーによる体当たりが撃ち込まれる。
「おごっ……!?」
突進を受けた御子柴は、自らが引いた鎖の勢いも相まって、アオルカドの分厚い肩に鳩尾を痛打され無様な声を漏らして悶絶。アオルカドはその鋼のように鍛え上げられた両腕で、御子柴の華奢な胴体をガッチリとクラッチし、軽々と抱え上げた。
「……墜ちろ」
渾身のパワースラム。強烈に重力と遠心力を味方につけた一撃が、御子柴の体をキャンバスへと叩きつけた。鎖がキャンバスに当たって跳ね、高い金属音が響く。
「……ッ」
御子柴が衝撃で呼吸を詰まらせた瞬間、アオルカドは既に次の動作に入っていた。彼は御子柴をロープ際へ──セカンドロープにもたれかけるようにセットすると、対角線のロープへと全力で疾走する。そしてロープの反動を受けて跳ね返り、戻ってきた勢いそのまま、セカンドロープとサードロープを掴んで自身の体を旋回させた。必殺の「619」。回転の遠心力が乗った両足の蹴りが、ロープにもたれていた御子柴の顔面を正確に捉えた。
「あがぁっ……!?」
御子柴の視界が火花を散らす。鼻骨を砕かんばかりの衝撃と、脳を揺らす苛烈な一撃。飛び散った真紅の飛沫がキャンバスを彩る。
勝機と見たアオルカドが、死神のような雰囲気を纏い、重々しい足取りで追撃に歩み寄る。しかし、御子柴の意識はまだ途切れてはいなかった。彼女は朦朧とする意識の中で、右手に残っていたチェーンの端を強く握りしめた。
「ぐぶっ……こ、これで、終わりだと思ったら……大間違いだニャ……!」
ふらつきながらも膝をついて身を起こした御子柴は、接近してきたアオルカドの顔面めがけて、手首の返しだけで鎖を振り抜いた。ジャッ! という鋭い音が響き、アオルカドの顔の中心に鎖の先端の錘が叩きつけられる。
「ぬぐ……ッ!?」
マスクの隙間から零れた紅い雫がマットにぱたたっと落下した。怯んで顔を押さえたアオルカドの襟首を掴み、御子柴は彼を強引にコーナーのトップへと押し上げる。
「……地獄の底まで、一緒に連れてってやるよ……!」
雪崩式のスパインバスター。御子柴の必殺技(フェイバリット)である「アビスキャット・ドライバー」を叩き込もうと力を込める。だが、修羅場を潜り抜けてきた「処刑人」は、その絶望的な体勢にあっても牙を剥き続けていた。
「グ……フゥフゥ……! 日本で腑抜けたか? 俺がお前の代名詞のようなその技を知らんはずがなかろう!」
アオルカドは自らに組み付く御子柴の頭部を強引に掴むと、自らの頭頂部を顎下に差し込んで体勢を捻り、同体でマットに落下した。
「ぎゃうッ!?」
雪崩式スタナーである。落下速度が加わった衝撃。アオルカドの頭頂部に顎を打ち付けられた御子柴の意識が、真っ白な火花を散らして弾けた。脳を揺さぶる劇烈な振動に、彼女の身体から力が抜け、キャンバスへダウン、力なく転がされる。
アオルカドは荒い息を吐きながら、血に染まった不気味なマスクの奥で残忍な光を増幅させた。
「あの時のメキシコとは違う。俺は……本物の処刑人になったのだ」
その声は凍てつくような宣告となって会場に響く。観客たちはこの壮絶な攻防を目にして言葉を失っていた。彼は朦朧とする御子柴の脚を掴み、そのまま鉄柱の立つコーナーポストへと強引に引きずっていった。朦朧としたまま抵抗もできない御子柴の両膝。それを膝裏でコーナーの左右のトップロープに引っ掛け、そこに荒縄を巻き付けて身動きを封じる。逆さ吊りになった御子柴は、両腕をマットにだらんと垂らした姿勢のまま、頭に血が上る。彼女の瞳は焦点が定まらず、その視線は宙を彷徨っていた。
アオルカドはとどめの処刑を執行するために、対角線のコーナーまで後退し、距離を取って構える。
「刑……執行だ」
荒縄の処刑人が、全力の助走をつけて疾走する。マット上で跳躍し、前転しながら渾身の力を込めた浴びせ蹴り――必殺(フェイバリット)の「ジャッジメント・ガロウズ」を、無防備な御子柴の胴体目がけて放つ。
だが、激突の寸前、御子柴の紅い瞳に鋭い光が戻った。彼女は自由な右手に端を絡めていたが故に、まだ手元に繋がっていたスチール製の細い鎖を、反射的に蹴りの軌道上へと両手の間で防壁に張って待ち構える。
激突。
金属と生身の肉体が衝突する鈍い音が響いた。アオルカドの蹴り足は、鋼の鎖の護りを突破して御子柴の胴に届いていたが、その威力はかなり殺されていた。むしろ、鉄の鎖の鋭いエッジが、その技の凄まじい威力のせいでアオルカドのふくらはぎを無惨に切り裂いていたのだ。
「ぐ……ぅ……! ……あ、やべ」
予想を超える事態に御子柴が痛みの中、思わず素に戻って呟く。鮮やかな真っ赤な血がキャンバスに飛び散り、アオルカドは苦悶の声を上げながら転がって身悶える。凄惨なリング上の光景に観客たちからどよめきがあがり、両陣営のセコンドが焦りにうろたえる。
凄絶なアクシデントの瞬間、実況アナは思わずヘッドセットを押さえ、腰を浮かせた。
『ああっと! 「ジャッジメント・ガロウズ」と鉄鎖の防御壁が激突! エル・アオルカドの足から鮮血が噴き出した! これはチェーンのエッジで、ふくらはぎが完全に切り裂かれてしまったか!?』
『ウワぁ……痛そ……』
派手な出血量に言葉を失う観客席の動揺を代弁するように、実況の絶叫が響き渡る。
『リング上は真っ赤な血の海です! 既に両者は互いに鼻血を流していましたが、ここで完全にリカルドさんの予言が成就してしまった!』
リカルドは陽気さを引っ込めて、鋭い視線でリング上を見つめていた。柄にもなく真面目な声色だ。
『血の色キレイだし、あれ、ひょっとして動脈切れてない?』
凄惨な光景を分析するリカルドの言葉に、事態の深刻さを強調されたように思い、実況アナの顔が引きつる。
『洒落になってませんね! セコンドも動揺しているようです。これはスタッフも動き出したか!?』
実況アナの視界の端には、慌ただしく動き出した一部の人間たちが映っていた。
御子柴は浴びせ蹴りに打ち据えられた胸部を押さえて荒い息をつきながら、自らの手でコーナーのロープによる拘束を冷静にほどき、どさりとマットに崩れ落ちた。そして、ふらつきながらも起き上がる。まだ頭の芯は痺れているが、目の前で止まらぬ自らの血に焦っている男の姿を見れば、サディスティックな歓喜が沸く。それと同時に、早く試合を終えて処置が必要だとプロ意識が脳内で囁いていた。
「い……いい威力だったぜ、アオルカド。けど、オレ流の処刑ってのも、魅せてやるニャ!」
御子柴は、膝をついて出血部を掴むように押さえるアオルカドの首を、その華奢な腕で力強く抱え込んだ。そのまま勢いよく後方へ跳躍する、スイングDDTだ。垂直に近い角度でキャンバスへ脳天から突き刺されたアオルカドの視界は、瞬時に深い霧の中に迷い込んだ。完全にダウンしたアオルカドを、御子柴は逃がさない。彼女は自らの武器である鉄鎖を、今度は相手を処刑するための道具として用いようとしていた。
アオルカドを引きずって逆さにすると、その両足をコーナーの鉄柱に押し当て、あろうことか自身のチェーンを何重にも巻き付け、固定したのだ。それは先ほどアオルカドが見せた「ジャッジメント・ガロウズ」の、さらに悪辣な逆用であった。
「おねーさんの手で、テメェを立派な『吊られた男』にしてやるニャ……!」
逆さ吊りになったアオルカド。彼女は対角線のコーナーへ飛び退くと、獲物を見据えてニヤリと笑う。アオルカドは朦朧としながらもマスクの下の目を見開き、緩慢に腕を動かそうとするが間に合わない。
御子柴は猫のような瞬発力で助走をつけ、リングを対角線に横断。跳躍と同時にその華奢な体躯を翻し、全体重を乗せた浴びせ蹴りが、逆さ吊りになったアオルカドの胸板を、まるで日本刀で袈裟斬りにするように、無慈悲に撃ち抜いた。
「……ッ!?」
衝撃でアオルカドの身体が大きく揺れる。
御子柴は着地すると、拘束を解いてチェーンを回収し、崩れ落ちたまま動かないアオルカドをリング中央へと蹴り転がした。もはや虫の息の処刑人を、彼女はさらに辱める。御子柴は仰向けに倒れたアオルカドの顔面に、あろうことか露出度の高い腰回りを押し当てるようにして跨って押さえ込んだ。
「これでおしまい……♡ いい子にしてニャ♡」
前代未聞の顔面騎乗フォール。観客が騒然とする屈辱的な体勢だが、彼女の真の狙いは別にあった。御子柴は自らの太ももの間にアオルカドの頭を挟み込みながら、同時に先ほど切り裂いた彼の下腿部を持ち上げて固定し、そこへ鎖をキリキリと巻き付けて引き絞ったのだ。
「──ッ!? ──ッ!!!!」
それは、出血箇所を鎖の面で押し潰す、拷問に近い「圧迫止血」だった。傷口を金属で直接抉られる信じがたい激痛と、顔面を押し付けられる窒息、そしてプライドを完膚なきまでに叩き潰される屈辱。アオルカドの巨体が、キャンバスの上でガクガクと魚のように跳ね、そしてゆっくりと脱力していった。
レフェリーが慌てて駆け寄り、カウントを叩く。
「ワン! ツー! ……スリー!」
無機質なゴングの音が会場に響き渡り、狂気とバイオレンスとエロティシズムに満ちた死闘はついに終止符が打たれた。
鳴り響くゴングの音を追いかけるように、実況アナが堰を切ったようにマイクへ声を叩きつける。
『決まったぁ! 「掟破りのジャッジメント・ガロウズ」からの鎖式片エビ固めでフォール! そのままスリーカウントが入りました! 準決勝に進出を決めたのはガータ御子柴!』
『凄いヨ! 顔面騎乗だヨ! ドキドキするネ! ボクもいっぺん受けてみたいヨ!』
興奮して身を乗り出すリカルドに、実況アナは額の汗を拭いながら必死に声を張った。
『敢えて触れないようにしてんですから、やめてください!?』
しかし、リカルドの鋭い視線は、モニターに映し出されたリング上の微細な違和感をすでにとらえていた。
『でもアレ、鎖で傷口を圧迫止血してるんじゃないかナ? 痛みで暴れるのを押さえ込むためだから理に適ってるカモ?』
指摘を受けてモニターを確認し、凄惨に血で染まる鎖に巻かれた脚を直視してしまった実況アナが口元をひきつらせて視線を反らした。
『鎖で圧迫止血という時点で既に理に適ってないと思います。……というかあの暴れよう、メチャクチャ痛いのでは……?』
緊迫する実況席の空気。だが、リカルドは再び肩をすくめてあっさりとそれを引っ繰り返す。
『でもエロいよネ!』
真顔で確認するリカルドに苛立った実況アナは机を叩いた。
『だからやめて下さい!?』
どこまでも不謹慎なリカルドの言葉に頭を抱える実況アナだったが、リング上の熱気はそんな放送席の喧騒すら呑み込んでいく。
試合終了後、リング上には惨憺たる光景が広がっていた。勝利した御子柴は、レフェリーに片腕を上げられつつ、肩を上下させながら勝ち誇るようにアオルカドを見下ろしている。敗れたアオルカドは、担架で運ばれようとする中、敗れてなお、そのマスクの奥の瞳で執念深く彼女を睨みつけた。
「グゥゥ……! 最高に憎たらしいのに……最高に輝いている貴様が、心底腹に据えかねる……! 覚えておけ!」
苦鳴交じりに絞り出すようなアオルカドの恨み言に、御子柴は薄く笑い、指先で血まみれになった鎖を弄びながら吐き捨てた。
「素直に、『また会いましょう、格上の御子柴さん♡』って言えニャ、バカ野郎」
睨み合う二人。だが、その口元には、かつてのメキシコ時代には決して見せ合うことのなかった、奇妙な共鳴を含んだ笑みがわずかに浮かんでいた。
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EQTの日程、三日目のプログラムである一回戦と二回戦の全試合が終了しても、会場の熱狂は依然として続いていた。準決勝以降が行われる明日に備えて撤収する者、目撃した試合の興奮を語り合うために会場内の喫茶スペースや観客席でいまだ語らう者、そして売店で飲料や土産やその他グッズを買い求める者。東京ドーム内の喧騒が収まるまで、まだ今しばらくの時を必要としていた。
そんな中、アオルカドとの激戦を終えたばかりの御子柴は、医務室での診察を終え、自らに割り当てられた控え室に戻り、パイプ椅子に深く腰掛けていた。アイシングしながら、片づけを行っているセコンド係の練習生をぼやっと眺めていた御子柴は、コスチュームの上にジャージを羽織った姿でタオルを首にかけ、モニターに映し出される試合後の放送番組による実況映像に視線を移す。
そこには、本日の試合において圧倒的な力で対戦相手、赤ずきんや神宮寺を蹂躙したローラの姿がハイライトでまとめられていた。
「ケッ……マジで強いでやんの。……あれが世界レベルの天才ってわけ?」
御子柴が猫のキャラ付けも忘れて、素で忌々しげに吐き捨てたその時、軽いノックの音が控え室のドアから響いた。
「あの、お邪魔してもよろしいでしょうか。結城です。ノワール・ゲートの」
予想外の声にさしもの御子柴も練習生たちと顔を見合わせる。しかし、黙っていても仕方がない。着替え中というわけでもないし構うまいと、目線で練習生を促し、扉を開けさせる。
「失礼します」
入ってきたのは、先の声で名乗っていた通り、新興団体「ノワール・ゲート」に所属する若手選手、結城蓮だった。だが、彼は昨日の予選で既にローラにブロック内5名まとめて千切られて敗退済みのはずである。
「おや、意外な来客ニャン? どうしたボウヤ、団体対抗戦の試合が忘れられなくてオレにリング上では見せられないようなコト……してほしくなったかニャ?」
彼はかつて第一次対抗戦で御子柴と対戦し、試合こそレフェリーを突き飛ばした御子柴が反則負けになったことで勝ち星を得たが、さんざんに嬲りつくされて失神するというあまりにも悲しい過去のある男子だ。かつての凄惨な記憶を呼び起こすように、御子柴は皮肉たっぷりに口角を上げたが、結城の表情は真剣そのものだった。
「か、揶揄わないで下さい!? ちがいます! ウチの神宮寺さんから頼まれて届け物に来たんですよ!」
御子柴が不審そうに眉をひそめる。ボーティス神宮寺。一言で言えば嫌味なデータ屋レスラーだ。彼は彼で御子柴と因縁がある。第二次団体対抗戦で御子柴と対戦し、手段を選ばぬ御子柴によってショートタイツに手を入れられ、放送中止かギブアップかを選ばされて恥辱の敗北に追い込まれた男。恨まれこそすれど、贈り物を受けるような覚えはない。
「……届け物? オレに? あのナンパ野郎から?」
結城は手に持っていた小さなデータメモリを差し出した。
「ええと……『女王に挑むためのデータだ。ジェニーは敗退、僕では足りず届かない。正攻法が過ぎるベスでは使えない。だが、君ならあるいは届くかもしれない。勝利に』……だそうです。あの人、負け覚悟で今日の試合中データを集めていたみたいで……」
結城が読み上げた神宮寺の伝言に、御子柴は一瞬だけ言葉を失った。あの神宮寺が、ボロボロになってKO負けを喫しながらも、最後まで拾い集めた「勝利の欠片」。それは、理屈では到底太刀打ちできない「無敵の女王」を汚し、引きずり下ろすための、呪いのような希望だった。
だが、御子柴にもプライドがある。
「……ハッ、いらねーよ!」
御子柴は吐き捨てるように言い、顔を背けた。ローラは気に食わないが、神宮寺だって嫌いなのだ。なにが悲しくて助けを受けねばならないのか。
だが、結城も引かない。
「絶対に置いて来いって言われたんですよ! ほら、練習生に渡しますからね! それじゃ!」
結城は半ば押し付けるように近くの練習生へメモリを託すと、逃げるように部屋を去っていった。
舌打ちする御子柴。困った表情の練習生。静まり返った室内。
御子柴は、練習生が差し出してきたその小さなチップをじっと見つめた。モニターの中では、ローラが不敵な笑みを浮かべてインタビューに答えている。
『できれば苦戦くらいはしたいものね?』
聞こえてきたのは、あまりにも傲慢なコメントだった。
(……あの野郎、自分が勝てねえからってオレに押し付けやがって……)
準決勝で御子柴が対戦する相手は優勝候補、英国代表のローラ・ザ・チャージだ。神宮寺が命懸けで暴いた「ほんのわずかな隙」。彼が「理屈の変態」として、地獄の苦しみの中で計測し続けた反応の癖。それが、今の御子柴には必要不可欠な武器であることを、当の御子柴本人が一番理解していた。
自分が「三郎太のライバル」になって、決勝であの男と相まみえるためには、準決勝でこの完璧な女王を「本能の狂気」で食い破らなければならない。その先にしか夢見た未来の欠片は無い。
「……チッ! どいつもこいつも気に入らないニャ……!」
毒づきながらも、御子柴の手はそのデータメモリを力強く掴み取っていた。
神宮寺が繋いだ意志が、狂気の獣の爪をさらに鋭く研ぎ澄ましていく。
準決勝。完璧な女王と、本能の狂獣。神宮寺が残した「理屈」が、御子柴の「本能」と混ざり合い、予測不能な結末へと物語を加速させていく。
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一方、医務室では、EQTの大会主任医師を務める永久寸(とわすん)があきれ顔で溜息をついていた。試合終了と共に担架で運ばれてきたエル・アオルカドが診察台に寝かされ、その血まみれの下肢の傷痕を流水ですすぎながら、彼はゴツい針を手に取る。アオルカドの表情が緊張に染まった。
「余計な遠慮は無しではっきり言うよ。エル・アオルカド君」
「う、うむ……」
「鎖なんぞで圧迫止血したせいで、傷口がズタズタだ。これでは縫うしかないが……派手な縫い跡が一生残るぞ。覚悟したまえ」
本当に一切の遠慮が無かった。永久寸は研修医に補助を指示し、麻酔の注射器を手に取る。アオルカドは天井を仰ぎ、屈辱に震えながらも、どこか満足げに声を絞り出した。
「……構わん、縫い目は箔になる」
結構、そう言わんばかりに永久寸は処置を開始し、アオルカドはその針の太さと、麻酔の効きを突き抜けてくる鈍痛の範囲が思ったより広そうなことを見て取って内心で唸った。
(あの女、絶対にゆるさん……ぜったいにだ!?)
覆面の下の彼は涙を浮かべていた。
……いや、前言を撤回しよう。彼はそれほど満足というわけでもないかもしれなかった。