「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
静まり返った会場に、鋭く、そしてどこか哀愁を帯びた和笛のソロが響き渡る。異質なイントロに観客が息を呑んだ瞬間、地鳴りのような重厚なヘビィメタルの爆音がすべてを圧殺するように炸裂した。サビへと向かうにつれ、咆哮するギターに地響きのような和太鼓の連打が混ざり合う。和洋を混沌と融合させたその旋律の中、ゲートから白き鬼が姿を現した。
シロオニ・ベス。アッシュブロンドのショートボブに、冷徹なグレイッシュブルーの瞳。黒と赤を基調とし、豪華なアラベスク模様が施されたレギンスと、金色の編み上げロングブーツが彼女の引き締まった長身を妖しく際立たせている。その戦闘服の上に翻るのは、死装束を連想させる無地の白い着物だ。ベスは肩に羽織った白き衣を風になびかせ、悠然と花道を歩む。昨日つけていた赤いバンダナは巻いていない。美樹に返し、この男との決戦ばかりは身一つで挑ませてくれと出陣したのだ。時に観客席へ向け、自信と冷ややかさが入り混じった視線を送る事もあるベスだが、今回ばかりはわき目もふらずにリングを見据えていた。
リングサイドに到達すると、ベスはしなやかな動きでエプロンサイドへと飛び乗る。一瞬、会場を見渡すように動きを止めると、肩の着物を豪快にはためかせ、片手で荒々しく掴みとって場外へと放り捨てた。そのまま鋭くロープをくぐってリングインを果たす。アピールに応じて湧き上がる観客の熱狂と畏怖を一身に浴びながら、ベスはコーナーに背を預けた。静かに対戦相手を待ち受け、深く息を吐き出す。
この試合こそが念願の時。来日し、モモマスクを奪うために襲撃同然に太平プロレスの興行試合のリングに上がったのがもうずいぶんと昔のように思える。その始まりの闘いの続き、最大の敵、最愛の人へのリベンジマッチをEQT(アース・クェイク・トーナメント)の準決勝という大舞台で行う事ができるのだ。僥倖、と。ベスは口元に不敵な笑みを浮かべていた。
続いて、会場のスピーカーから、イントロの抑えめなドラムが鳴り響く。観客が次々と立ち上がり、手拍子を合わせ始めた。徐々にテンポが跳ね上がり、サビを迎えた瞬間に弾けるような明るいサックスの音色が響き渡る。太平プロレスの若手エース、宮川三郎太の入場曲だ。ゲートから眩い光を背負って、黒い短髪の引き締まった肉体の青年──宮川三郎太が姿を現した。レスラーとしてはやや細身の、その無駄のない筋肉の上に、装飾でカスタマイズされた太平プロレスのシルバーの公式ジャンパーの前を大胆に開いて纏っている。その背には力強い「太平」の筆文字、胸には金糸で刺繍された稲妻の意匠を背景に『M』の文字がライトを反射して躍動していた。
三郎太は自身の両頬をパン、と叩いて気合を入れると、一歩一歩を踏みしめるように花道を歩き出した。ファンからの熱い声援を受けてなお堂々とした足取りのまま、しっかりと目線を返して応える。媚びるのではなく、応援してくれる者たちの熱量をそのまま自分の気力へと変換していくような、実直で前向きな行進だ。
リングサイドに到達すると、三郎太はエプロンに飛び乗り、ジャンパーを荒々しく脱いでセコンド係の練習生へ手渡す。裏地の深い赤が鮮やかに翻り、露わになったのは赤のプロレスパンツとリングシューズ、そして限界まで鍛え上げられた肉体だ。ロープをくぐってリングイン。背負ってきた看板、そして託された想いの重さを噛み締めるように一呼吸置くと、気合の咆哮と共に力強く拳を突き上げた。
アピールに応じて湧き上がる観客の声援を一身に浴びて、三郎太もまたコーナーに背を預ける。正面の、相対するコーナーに陣取る麗しい鬼の姫を見据え、小さく深呼吸をする。その瞳には、この一戦にただ全力を尽くすのだという強い意志だけが宿っていた。
会場を包み込むのは、嵐の前の静けさにも似た、張り詰めた熱気だった。EQT本戦準決勝、第一試合。リングの中央、眩い照明の下で対峙するのは、赤いショートタイツに身を包んだ太平プロレスの若きエース、宮川三郎太。そして、彼を最大の敵と標的に定め「旦那様候補」と呼んで憚らない鬼姫、シロオニ・ベス。
かつて道場破りとして現れた彼女に対し、三郎太は未熟ながらも死力を尽くして勝利をもぎ取った。だが今の二人の間に流れる空気は、あの時のような一方的な敵意ではない。レフェリーが呼び寄せるまでもなく二人は吸い寄せられるようにリング中央へ歩み寄り、ガッチリと握手を交わした。
視線が交錯する。ベスの瞳には、愛しい獲物を前にした狩人のような、妖しくも強烈な光が宿っている。対する三郎太の黒瞳にも迷いはない。そこにあるのは、一人のレスラーとして強敵を迎え撃つ、澄み切った闘志のみ。レフェリーはルールに関する注意を口にしながらも、「多分こいつら二人の世界に入ってて聞いてないよな」と内心で諦観と羨望の入り混じった奇妙な感慨を抱いていた。
「クリーンに戦うように」
簡単な両者へのボディチェックを終え、レフェリーが定型句を口にして、両者が一度自陣コーナーへと戻ると、会場のボルテージは最高潮に達する。リングアナウンサーの声が、静まり返った館内に響き渡った。
『赤コーナー、日本代表! 太平プロレス・レギュラー参戦! シロオニ──ベス──っ!!』
コールを受けながら、ベスは腰に手をあてて悠然と構えたまま、巻き起こる声援を受け流す。
『──青コーナー、日本代表! 太平プロレス所属! 宮川──三郎太──っ!!』
割れんばかりの大歓声の中、三郎太は力強く右拳を突き上げてファンの声援に応えた。
「いけーっ! お姉さまーッ!!」「ベスーッ! 俺たちゃ、アンタの恋路を応援してっぞーッ!」「Scare the hell out of `em, Ogre!(鬼の恐ろしさをみせてやれーッ!)」
白い鉢巻きを巻いた女性の応援団を中心に、日米両方からなるベスのファンたちが声の限りを尽くすかのようにエールを送る。
「負けるな三郎太!」「オレ達はお前のタフ&根性を信じてるぜーッ!」「リベンジなんか返り討ちにしたれーッ!」
負けじと三郎太のファンたちも声を張り上げた。太平プロレスの公式ジャケットやトレーナーを着た古くからのファンたちも多いが、三郎太はベスト4に残った唯一の男子選手という事もあり、会場内の人気は見目麗しいベスを応援する者たちとまっぷたつに分かれていた。
それら無数の声を背に受けながら、両者の表情には、戦いを目前に純粋な高揚感が満ち満ちている。
会場の巨大なオーロラビジョンを、リング上で無言のまま対峙する二人の光景が大きく占拠する中、画面の右下をスワイプする形で、特設放送席に陣取る三人組の姿が小窓のように映し出された。
『場内の応援もまっぷたつの中、お互いリング中央で相手を見据えたまま、微動だにせず~ッ! さあ、いよいよEQT本戦準決勝、運命の第一試合が始まります!』
EQTの大会も大詰めの四日目を迎え、準決勝の幕開けに高鳴る熱狂とテンションを乗せた実況アナウンスが、場内のスピーカーから力強く響き渡った。
『そして何より、この両雄はかつての白鬼襲来戦以来、二度目の対決になるワケです! 道場破り同然にモモマスクを出せと太平プロレスを襲撃したシロオニ・ベス、そしてそれを退けた宮川三郎太。あの始まりの闘いの続きが、今この大舞台を彩ります!』
両者の因縁を改めて語り上げる声にあわせて、ビジョンの一部には太平プロレスから特別提供された当時の激闘のハイライトが浮かび上がる。未熟ながらも泥臭く食い下がる三郎太と、圧倒的なパワーで暴れ回るベスの映像が、観客の記憶を鮮烈に呼び覚ました。
『この大一番の解説にはEQT大会公式アドバイザーのサカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウさんと、シロオニ・ベスの実兄にしてオニガシマ・ブラザーズの長兄、アカオニ・トムさんにお越し頂いております!』
『どうも』
紹介を受け、カメラに向けてキラリと輝く擬音が浮かびそうなノリで、白い歯を覗かせた爽やかなスマイルを作るキンタロウ。しかし挨拶を返し終える間もなく、その隣に座る大柄なトムが、巨体をごそりと動かして無遠慮にキンタロウの頭を手のひらでペチペチと叩き始めた。
『久しぶりだなキン! 相変わらず恥ずかしいてっぺんハゲじゃねーか、キン! 悪いが勝つのはベスに決まってるぜ、キン!』
『キンキンゆーなっ! ハゲじゃなくて剃ってるんだ! それと実の妹を想う気持ちはわかるが多少は公平性という建前を考えろっ!』
ばしっと頭部を叩く大きな手を必死に振り払い、苛立たしげにキンタロウが怒声を上げる。せっかく公式アドバイザーらしくハンサムに決めていたのに台無しである。マイクにガサゴソと雑音が混ざるコミカルなやり取りに、館内からはどっと笑いが起きた。
『確かにかつての対戦では「白鬼金棒落とし」をギリギリ凌いだ宮川三郎太が起死回生の「ノーザンライト・スープレックス」で辛勝を掴んだ形で、終始シロオニ・ベスが優勢でしたね。トムさんは、再戦も彼女の有利は揺らがないとお考えですか?』
旧知の間柄らしく遠慮のない小突き合いを繰り広げる解説二人に苦笑しながら、実況アナがプロとしての見解を尋ねる。すると、それまで悪ふざけをしていたアカオニ・トムが急にピタリと手を止め、そのヘビー級の顔つきにふっと神妙な表情を覗かせた。
『いや……そう簡単じゃあねえ。ベスも新技を編み出して腕をあげちゃいるが、三郎太のヤツも心身磨かれて結構なタマに仕上がってやがる。実力的にはもう互角と言っていいレベルだろう。もしベスの奴が腑抜けちまってて隙を見せたら食われるぞ』
身内贔屓を抜きにしたその極めて冷静なスカウティングを耳にして、驚きの表情を浮かべた実況アナとキンタロウが思わずトムを見やる。
『ほう。兄バカ拗らせて、てっきり相手にならねえな! くらいは言うかと思ったが、存外慎重なコメントだな』
『……うるせーよ、フン!』
鼻息荒くニヤニヤとからかうキンタロウに、フイと顔を背けて毒づくトム。その態度にプロとしての高い緊張感を読み取りつつ、実況アナが話を向けた。
『キンタロウさんから見ていかがですか?』
『そうだね……「鬼」という言葉が伊達ではないレベルで彼女のパワーは凄まじい。その攻撃力は我々ベテランレスラーにも通じるだろう。だが彼女の弱点はまっすぐ故に視野が狭まりやすい点にある。三郎太クンに執着している彼女がどこまで冷静に試合を運べるかが試合のカギの一つになるのではないかな』
キンタロウは数年前に三郎太と無差別世界大会ECT(アース・クラッシュ・トーナメント)の予選で対戦経験があり、そして一月ほど前に太平プロの道場内で練習試合のタッグマッチでベスとも試合をしている。
『否定はできねーな。後は三郎太のヤツが最近習得しつつある危ねぇ技の数々も油断できねー』
そしてトムはそのベスの実の兄であり、三郎太に弟子をぶつけて実力を試した事がある。いずれも両雄をよく知るからこそ紡げる重厚な分析が、これから始まる戦いのハードルの高さを物語る。
『成程、この因縁の試合。興味が尽きません! さぁ、まもなくゴングの時間です! 運命の対決の結末やいかに!』
実況が叫び、カメラが再びリング中央へと切り替わる。
カーン!
ゴングが打ち鳴らされる刹那。示し合わせなどない。しかし二人は、まるで鏡写しのように同時に動き出した。
弾かれたように、反対側のロープへと全速力で疾走する両者。互いが自ら飛んだロープを背に受ける重低音が重なる。返ってくる反動を極限までスピードに乗せ、二つの影が交錯する。
速い。観客が瞬きをする暇も与えない超高速のロープワーク。レフェリーさえもが困惑し、巻き込まれまいと慌てて身を引く中、リング上には風が巻き起こっていた。
二人はトップスピードに乗ったまま跳躍、空中で交錯した。重力を無視したかのような高さから、ベスは全身を弾丸と化して三郎太に突っ込むフライングボディアタックを放つ。だが、三郎太もまたマットを蹴って舞い上がっていた。鋭い踏み切りから放たれたドロップキック。試合開幕直後の空中戦の激突、その軍配は三郎太に上がる。宙を舞う二人の肉体が最高高度で鈍い破裂音を響かせる。美しいフォームで揃えられたドロップキックの両の蹴り足が、高度に勝るベスの腰を突き上げるように迎撃、正確に撃ち抜いたのだ。
「ぐっ……!」
空中で蹴りを受けてバランスを崩されたベスが撃墜されてマットに叩きつけられる。しかし、その程度のダメージなど気にしていられない。すぐに戦闘態勢に戻ろうと、彼女が上体を起こしたその瞬間。三郎太はすでに立ち上がり、次なる一撃の予備動作に入っていた。立ち上がろうとするベスの顔面を狙い、渾身のエルボーが風切り音を伴って襲いかかる。
「はぁっ!」
だが、ベスは間一髪身を起こす勢いそのまま上体を反らし、掠めるようにギリギリで肘をかわすと、カウンターのフロントハイキックを突き出した。乾いた音が響き、三郎太の顔面が跳ね上げられる。強烈な衝撃にたたらを踏む三郎太。その隙を見逃すベスではない。しなやかな筋肉が躍動し、彼女は瞬時に加速する。
「甘いわっ!」
真正面からのショルダータックル。女子レスラーとは思えぬ、いや、男子重量級顔負けの暴風のような突進が三郎太の胴体を捉えた。ベスの白磁の肩がめり込むような重く乾いた音が響き、三郎太の身体は文字通り水平に吹き飛ばされ、激しくマットを転がった。かつての対戦で彼を圧倒した、あの理不尽なまでのパワーは健在だ。いや、洗練されている分、その脅威は増していると言えるだろう。
仰向けに倒れた三郎太を見下ろし、ベスはふわりと笑みを浮かべた。かつての試合では倒れ込んだ三郎太を「踏み台に過ぎない」と罵り、言葉通りに首元を靴底で踏みつけにした彼女。その表情には、恋する乙女のあどけなさと、獲物をいたぶる鬼の残虐さが同居している。
「まだ……終わりではありませんよね?」
ベスが優雅に右手を差し出す。まるでダンスのパートナーを誘うかのような仕草。しかし、その手は三郎太の腕か髪を掴み、無理やり引き起こす手だ。次なる攻撃への布石。
「もちろん」
だが、三郎太は迷わずその手を掴み返した。ベスが息を呑み、そのグレイッシュブルーの瞳にゾクりとした歓喜が走るよりも早く、三郎太が動く。引き起こそうというベスに対し、逆に自らが回転の軸となってベスの体勢を崩したのだ。「柔よく剛を制す」の言葉を体現するかのようなアームホイップ。流れるような動作で投げ飛ばされたベスだが、受け身を取りながらすぐに体勢を立て直す。
その顔の笑みがますます深まる。
「そう来なくては……!」
激情が、高揚が彼女の出力を跳ね上げる。立ち上がった三郎太に掴みかかると、その細身からは想像もつかない怪力で強引に彼を担ぎ上げた。天地が逆転する浮遊感。
「はぁッ!」
叩きつけられるボディスラム。背中全体に走る衝撃が、三郎太の肺から空気を強制的に吐き出させる。しかし、痛みは思考をクリアにする。
(強い……。やっぱり、ベスは凄いな)
マットの感触を背中で味わいながら、三郎太は歯を食いしばって立ち上がる。追撃にくるベスの気配。猛牛のような突進が再び迫る。真っ向勝負で力負けするなら、技術で上回るのみ。
三郎太は衝突の寸前、身を低く沈めた。低い姿勢のベスの懐に滑り込むように距離を詰めてその両肩を掴むと同時に、突き上げた膝でその腹部を突き刺すキッチンシンクが決まった。
「がっ……!?」
不意を突かれたカウンターの膝蹴りが、ベスの鳩尾あたりに深々と食い込んだ。呼吸を阻害された白き鬼の動きが止まる。その一瞬の静止こそが、三郎太が狙っていた好機だった。腹を押さえてよろめくベスの足を捕らえてマットへ押し転がし、三郎太は素早くその両脚を四の字にクロスさせるように両手両足をからめてロックに行く。兄貴分譲りのモモ・スペシャル・その4、拷問技「ロータリー・デスロック」の始動体勢。
だが、その瞬間、ベスの全身に戦慄が走った。かつて「本物のモモタロウ」からタッグ戦の最中に洗礼のように受けた、あの逃げ場なき回転の記憶が蘇る。膝を破壊寸前へ追い込まれ、愛する三郎太の窮地を救い損ね、ここぞという必殺技(フェイバリット)で膝から崩れ落ちて失敗、勝機を失ったトラウマが彼女の過去から牙を剥く。
「それ……ッ!? 絶対にダメぇッ!!」
悲鳴に近い叫びと共に、ベスはなりふり構わぬ必死さで身をよじり、拳を叩きつけ、完成寸前のロックを強引に跳ね除けて逃れんと暴れ出した。三郎太の技術が、ついに彼の師の領域――「ベスが恐れる技」――にまで届き始めているという事実が、彼女の余裕を完全に奪い去っていた。
いっそ無様にも見える必死さでベスは身をよじり、足を掴ませまい、交差させまいと我武者羅に完成を阻み、抵抗する。三郎太もさすがにこれは無理だと悟った。だがその瞬間、彼の脳裏に天啓が降りてきた。三郎太は仰向けで脚をとられまいと抵抗しているベスを、逆にマットへとうつ伏せに転がす。彼女の右脚だけを両足で挟み込み、そのまま背に伸し掛かるようにして体重をかける。
ロータリーデスロックではない。三郎太はベスの首元に腕を回すと、体重をかけて強烈に締め上げながら、同時に腰を反らせて膝と足首を極める。三郎太の逞しい腕と背後から押し付けられる胸板に頭部と首の後ろを挟まれ呼吸がままならない。フェイスロックと足関節の複合技。逃げ場のない苦痛に、ベスの喉から声にならない悲鳴が漏れる。
「そ、の技……ッ!?」
苦悶の表情で痛みに耐えてマットを這おうとしたベスの手が、キャンバスを殴りつける。痛みだけではない。彼女のプライドを逆撫でする何かが、その技にはあった。
「ぐぅ……あの女の……『雫の技』……! 嫌な、真似を……っ!!」
そう、これは三郎太の後輩であり、ベスにとっては恋敵のひとりとも言える久我雫が得意とする変形STF、拷問技「ティアドロップボディロック」だ。雫は悪役(ヒール)転向した姿であるオディール久我として、二回戦で三郎太相手に戦って玉砕。恋破れて大会本戦を敗退していたため、ベスはいくばくの同情心すらもっていた。だが、それは恋路のレースから脱落した女として見ていたからだ。
それが三郎太に技を選ばれたというのか。そして、それを三郎太は自らの技術体系に組み込み、あろうことかベスに対して放ったのだ。
会場の巨大なオーロラビジョンいっぱいに映し出されるグラウンドの攻防に、実況アナが机に身を乗り出し、ヘッドセットのマイクへ声を張り上げる。
『あ~っと! 驚く技の選択です! 宮川三郎太、「ロータリー・デスロック」のセットアップを断固として拒むシロオニ・ベスの動きを利用し、うつ伏せにひっくり返してSTF……いや、これは「ティアドロップボディロック」だぁーっ!? まさかの「ライジング雫の技」をここで投入! シロオニ・ベスの表情が苦渋に歪むぅ!』
本戦二回戦でオディール久我が三郎太を締め上げた、そして三郎太が予選でゾーザ・ラ・ヴィペラを絞め上げた因縁の拷問技。その予期せぬ再演に場内が色めき立つ中、隣でキンタロウが目を見開き、思わず身を乗り出した。
『これはまた……大胆なチョイスだね。恋敵の技で意中の男に責められる……三郎太クンの事だから意図してやってるわけではないだろうが、なかなか酷な心理攻撃だ』
キンタロウが苦笑交じりに唸る一方で、頭を抱えるようにしてモニターに顔を近づけるのはアカオニ・トムだ。その極太の眉が中央に深く寄せられる。
『いや、問題はそっちじゃねえだろ! 今のベスの嫌がり方は尋常じゃなかったぞ! 「ロータリー・デスロック」に入りかけた瞬間、アイツ、本気でパニックを起こしてやがった……! アイツ、もしかしてモモタロウと戦った事があんのか!?』
バン、と頑丈な解説席のテーブルを容赦なく叩き、トムが焦燥を隠しきれずに地響きのような声を荒らげる。実の妹であり、その圧倒的な強気とプライドを知る兄だからこそ、先ほどベスが見せた「無様とも言える必死の抵抗」に紛れもない恐怖の色を読み取っていた。
『資料によればシロオニ・ベスが過去に「ロータリー・デスロック」を受けたのはオトギプロとの合同興行におけるタッグマッチでブラック・モモタロウによってという事ですが……』
あまりの剣幕に一瞬気圧されながらも、実況アナは手元のデータを必死にめくり、マイクに補足情報を滑り込ませる。
『ブラック? 影幻がロータリー・デスロックを使うとは思えないが……あっ!』
実況の補足情報を聞き、キンタロウは一瞬だけ複雑な表情を浮かべて視線を彷徨わせる。だが、観客席で不機嫌そうな表情を浮かべている影幻を発見すると同時に、何かに気付いたようにポンと膝を叩いた。あの合同興行の裏で、誰が黒いマスクを被ってリングに上がっていたのか。点と点が、最高最悪の形で結びついたのだ。
『……成程、中身が違ってたって事かい……! モモタロウめぇ~~~! よくも俺らに黙って……!』
ガタリとパイプ椅子を派手に跳ね上げ、立ち上がったトムが巨躯を震わせる。怒気によってその極太の腕の血管が浮き上がり、肉厚な拳がミチミチと音を立てて握りしめられた。
『お、落ち着いてください、トムさん! 腕に闘気こめてパンプアップするの怖いんでやめてもらえると……!?』
『私とて一言も無かった事に思う所はある。気持ちは分かるが落ち着けトム! 今は解説中だ』
かつての同期の「水臭い隠し事」への憤りは同じなのだろう、キンタロウもまた不機嫌そうに腕を組みながらも、理性を保って巨漢を宥める。
『ぬぅ……そうだな、すまねえ』
荒い鼻息と共にパイプ椅子を引き戻し、トムは画面の中で必死にもがく妹を見つめ、低く唸る。その間にも、リング上の残酷な砂時計は進み続けていた。
『さあ、リング上ではベスが必死の抵抗! 腕を掴み、足を引きずり、なんとかロープへ逃れようとしています! しかし三郎太も締めを緩めない! これはどうなるッ!?』
実況が煽り立てると同時に、映像が再びリング中央へとダイナミックに切り替わり、二人の肉体が織り成す駆け引きが画面いっぱいにクローズアップされた。
ベスの背後で、三郎太は冷静に、しかし熱を帯びた声で告げる。
「この技だけじゃない、僕が受けてきた技の返し方を研究した結果だ。……これも含めて、僕なんだ!」
理解はできる。三郎太の言葉に、一片の悪意もない。あるのは純粋な強さへの渇望と、受けたすべてを糧にする貪欲なまでの向上心。だが納得できるかは別問題だ。嫉妬と屈辱……彼が「自分以外の誰かから吸収した成果」を真っ直ぐに誇ってみせたという事実が、ベスの胸を業火のように焦がす。
「……フフ……これ以上なく、熱くなってきたわ…ッ!」
ベスは腰と首の激痛に耐えながら、背に覆いかぶさる三郎太ごと引きずるように力任せにマットを掻いた。技術的な脱出ではない。鬼の意地とも言える強引さで、にじり寄るようにロープを目指す。だが、ベスならばそうなるだろうと織り込み済みの三郎太は焦らない。可能な限り彼女のスタミナを削り、腰へのダメージを蓄積させる事を狙ってのこの技だ。無理に力を込めるのではなく、彼女の手がロープへ届くぎりぎりまで負荷をかけ続ける。
やがて、ベスの白魚のような細い指がサードロープをしかと掴んだ。それを確認したレフェリーによってブレイクの指示が下り、三郎太は潔く技を解いて立ち上がると、静かに距離を取った。
ロープ際で荒い息を吐きながら立ち上がるベス。その瞳は、先ほどまでの優雅さとどこか浮かれた空気の一切が消え失せ、怒りと、そしてより深く濃い「執着」の炎で燃え上がっていた。三郎太は構えを解かない。確かな「芯」が今の彼にはある。かつての試合の頃の、女性だ後輩だ同期だと理由を見付けては遠慮し、翻弄されるだけのウブな三郎太はもういない。
ここからが、本当の真剣勝負だ。
ベスは、荒い息を吐いて腰をさすり、苦痛に顔を歪めながらも、すぐにファイティングポーズを取り直した。三郎太もまた、攻撃の手を緩めるつもりはない。彼女が体勢を立て直す間に、すでに彼は間合いを詰めていた。
(この技で、今の君を……今の僕たちを測らせてもらう!)
三郎太が狙うのは、かつてベスとの初対戦で決着打となった技。組み付こうとするベスの右腕を掻い潜り、その脇の下に自らの頭を滑り込ませる。瞬時に両腕を回し、傷ついたベスの腰を強固にクラッチした。
「! させるか……っ!」
ベスは瞬時に腰を落とそうとするが、蓄積されたダメージによる鈍い痛みが、その初動をわずかに遅らせた。三郎太の踏み込みの方が速い。一切の淀みない動作で、三郎太は後方へと身体を反らせた。ベスの身体が引き抜かれマットからその足が離れる。そのまま、美しいブリッジが……描かれなかった。
ベスは投げ飛ばされる瞬間、優雅さなどかなぐり捨てた必死の形相で、かろうじて片脚だけを三郎太の右膝に絡みつける事に成功していた。それは新興団体「ノワール・ゲート」のブレイン、ボーティス神宮寺が解析し、エースであるジェニー・葛葉に授けた策。対抗戦の映像を穴の開くほど研究し尽くした末の、「ノーザンライト・スープレックス」対策の模倣である。本来は両脚をからめつけて投げを完全に封殺する技術だが、見様見真似のベスには再現しきれず、片脚をひっかけて強引に軌道を崩し、威力を減じるのが精一杯であった。
だが、それだけでも十分だ。三郎太の「ノーザンライト・スープレックス」はかつてよりさらに洗練された技術で放たれている。とは言え、これでは十全の威力を発揮できない。弧を描ききれず、中途半端な角度で背中からマットに叩きつけられたベスは、それでも鈍い衝撃に低く呻いた。
「くっ……!」
三郎太は威力を殺された事を察し、ホールドで固めてフォールに入るのを中止し、素早くベスから身を離した。
会場からどよめきが漏れる。かつての決着技をもってしても、今のベスは仕留められない。三郎太は膝立ち状態で身を起こすベスを見つめる。その表情には無意識に心からの笑顔が浮かんでいた。
「さすがだね……!」
立ち上がった三郎太に対し、ベスもふらつきながら立ち上がる。
「……他ならぬ貴方を仕留めるためだもの、手段など選んでいては失礼でしょう? そちらこそ……かつてより技の鋭さが増しているわね。憎らしい……!」
その表情は心底楽しそうでもあり、悔しさに歪んでいるようでもあった。