「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
特設放送席のモニターにかじりつくようにして、実況アナが叫ぶ。
『「ティアドロップボディロック」をロープエスケープで凌いだシロオニ・ベスへ電光石火の「ノーザンライト・スープレックス」を仕掛けた宮川三郎太でしたが、これは失敗か!? 両者もつれあうようにマットに転がった!』
その一瞬の攻防をプロの目線で読み解き、キンタロウが冷静な声音で解説を加える。
『足で膝を刈ってブリッジを潰そうとしたんだ。だが、片脚のグリップが崩れてなお、三郎太クンはそのまま体幹で無理やり安定させて投げ切った。それでも威力は大分減じただろうから……ウーム、これは互いの企図としては痛み分けと言ったところか』
隣で腕を組んでいたアカオニ・トムもまた、深く唸るように言葉を継いだ。妹の地道な努力と、それを上回った三郎太の伸びしろに、感心を隠し切れない。
『まさか、片脚になっても崩れ切らないたぁ、やるじゃねえか。ベスの返し技のムーブにゃ十分に検証し、研究した迷いの無さを感じた。アイツ的にゃ完全にノーザンを挫けるつもりでいたんだろう。だが、実際は中途半端に崩すのが精一杯。つまり、あの小僧……三郎太の成長度が予想以上だったんだ』
『な、成程……! たったひとつの投げ技の攻防の中にそれほどのかけひきが……! すごい! まさに知り尽くした仲ゆえの激闘であります!』
解説陣の重厚な分析に、実況アナが感嘆の声を上げる。
『おおっと、ここで両者がっちりとリング中央で組み合った! 力強いロックアップだ!』
リング上では互いの実力と執念を確かめ合うようにして立ち上がった二人が、間合いを詰め、バチンと肉の弾ける激しい音を鳴らして正面から組み合っていた。
『審判のロックアップってぇ奴だな』
『漫画が違うだろ、それじゃ』
トムの軽いボケに対し、いつから鬼族は完璧超人になったんだ、とツッコミを入れるキンタロウに、特設ブース内、そして会場の一部からドッと笑いが起きた。張り詰めた緊張感の中にも、プロレスならではの極上のエンターテインメントの空気が確かな熱を帯びて充満していく。
組み合いはベスが優勢だった。同身長、ウェイト差は鬼の怪力で埋まっており、後は純粋な技量のかけひき。互いを相手とするスパーリングに慣れている二人だからこそ、ベスは三郎太の癖を読み切っている。パワー差で一瞬押し切ったベスが三郎太を抱えて投げようと密着した、その瞬間だった。三郎太の腕がベスの首に絡みついてフロントネックロックに力強く極める。
「ぐぅ……ッ!?」
それでも投げ切ろうと腰を落として、正面から胴をクラッチするベスの肩を、次いで三郎太のもう一方の腕が絡めとるようにロックした。フロントネックロックとショルダーロックの同時極め。ベスは即座に彼の意図に勘付いた。
(サザンライト・スープレックスの始動体勢!?)
それは三郎太がジェニー・葛葉にリベンジを果たす際に編み出した必殺技(フェイバリット)。投げられまいと抵抗すれば肩を脱臼し、首が締まるという不可避のスープレックス。
「うおぉぉぉ!!」
三郎太の怒号が上がるのと、腰を落としていたベスが脚のばねを全開にしてマットを蹴り、跳躍するのはほぼ同時だった。いや、僅かに……ほんの僅かにベスが跳ぶ方が早かった。三郎太のパワーが乗り切る前に白鬼の肢体は自ら宙を舞い、三郎太の頭上を越えてマットに脚と尻をぶつけるようにして着地する。
(凌いだ!)
尻を打つ痛みだけで済んだベスは確信した。
(凌がれた!?)
三郎太の心中で、驚愕と同時に心のどこかでやはりという納得があった。サザンライト・スープレックスは二回戦でオディール久我──久我雫によってその弱点を暴かれていた。ベスがそれをチェックしていないと言う可能性は低いだろうと思っていた。しかし、一度破るのを見ただけで咄嗟に反応できるとは。三郎太は敬意と悔しさを同時に噛み締める。またも不発となったスープレックスで互いに倒れ込んだ姿勢から立ち上がろうと二人は動き出す。しかし、ベスの意図は三郎太とは違っていた。立ち上がる途中でマットに手を突いた状態からクラウチングスタートのように三郎太めがけて突進し、その顔面へ掌を叩きつけてアイアンクローばりに鷲掴みにする。
「……ッ!?」
「調子に……乗るなァ……ッ!」
ベスが叫び、三郎太の頭蓋を軋ませながら、顔面と腰を捉えてその身体を強引に抱え上げる。肩の上にあおむけに担ぎ上げられると同時に三郎太もまた彼女の狙いを瞬時に理解する。アルゼンチンバックブリーカーの体勢からシットダウンして脳天を砕く「白鬼金棒落とし」に行くつもりだ。
三郎太の首と太腿がロックされ、その背が弓なりに反り返らされる。
だが――掛かりが浅い。
(極めが緩い……? 腰のダメージで踏ん張りが効かないのか?)
三郎太はベスの力が万全でないと直感した。これなら抜け出せる。三郎太は身体を捻ってバックブリーカーを振りほどき、ベスの背後へと滑り落ちるようにして着地した。相手の死角という圧倒的有利なポジション。
(行ける!)
バックドロップか、ジャーマンか。三郎太が追撃の体勢に入ろうとした、その時だった。
「……つかまえた♪」
背を向けているはずのベスの声が、耳元で甘く、そして冷酷に囁かれた。ゾクリと三郎太の背筋が凍りつく。ベスの両腕が、背を向けたまま頭越しに絡みつき、三郎太の首に巻き付いていた。柔道の袖車絞めのように自らの前腕をフックにして、三郎太の頚動脈と後頭部を万力のごとく完全にロックする。
「……まさか、囮にっ!?」
三郎太が気づいた時にはもう遅い。担ぎ上げのロックが甘かったのは、腰のダメージのせいではない。三郎太を「背後に誘い込む」ための撒き餌だったのだ。ベスは三郎太を巻き込む動きで、その場に勢いよく座り込むように倒れ込んだ。袖車式ネックブリーカードロップ。ベスが磨き上げた技術の極致とも言えるカウンター技。喉元を強烈に絞め上げられたまま、三郎太の頭部がマットに強く打ち付けられた。
「がはっ……!!」
呼吸を奪われ、脳を揺らされ、視界が明滅する。だが、白鬼の攻勢はここで終わらない。ベスは三郎太が悶絶する隙を見逃さず、すぐにその身体を引き起こした。
「逃がしません……絶対に!」
三郎太の首と片足を抱え込むと、身体を半回転させながら後方へ投げ飛ばす。ベスの得意技、エクスプロイダーだ。しかも、狙った先はキャンバスではなかった。彼女は抱え上げた三郎太をニュートラルコーナーめがけて放っていた。上下逆さの状態で宙を舞う三郎太に為す術はない。その背中がコーナーパッドごしにコーナーポストに激突する。マットへの落下とは異なる、硬質で重い衝撃が脊髄を走った。
「ぐ……あぁ……ッ!?」
容赦のない残酷な落下軌道に、客席から悲鳴にも似たどよめきが沸き起こる。ずるずるとコーナーポスト沿いにマットへ崩れ落ちる三郎太。そのダメージは深刻だ。立ち上がろうと腕に力を入れるが、足元がおぼつかない。ベスは息を整えながらコーナー際でうずくまる三郎太に歩み寄るとその髪を掴み、無理やりに引きずり起こす。その瞳は、もはや獲物を狩る捕食者のもの。
愛するがゆえに壊したい。壊れるほどに愛したい。矛盾した狂気が、彼女の闘争本能を極限まで高めている。
「あら、もう息切れですか? 私はまだまだ……イけるわよ?」
半分以上強がりの言葉を吐きながら、ベスが三郎太の頭を自らの股下へ押し込み、背から腰へと腕を回してガッチリとクラッチする。そのまま高々とリフトアップされた三郎太の視界には天井照明の光と、自分を爛々と見つめるベスの恍惚とした表情だけが映っていた。
シットダウン式パワーボム。ベスの全体重と落下のエネルギーが、三郎太の背中と後頭部に一点集中する。リング全体が悲鳴を上げるような轟音。
「……ッ!?」
三郎太の身体がマットにめり込み、バウンドする。すかさずレフェリーが滑り込んだ。
「ワン! ツー!」
観客の誰もが決着を確信した。それほどの威力、それほどの破壊力。
「ス……ッ!」
いや、三度目のマットは叩かれていない。レフェリーの手がマットの寸前で止まっている。カウント2.9。
三郎太の右肩が、本能だけの力でわずかに跳ね上げられていた。直後、張り詰めていたアリーナが爆発する。信じられないものを目の当たりにした観衆から、地鳴りのような大歓声が沸き上がった。
「ふっ……フフフッ……!!」
ベスが目を見開き、壮絶な狂喜の笑みを浮かべた。今のパワーボムは、完璧だったはずだ。タイミング、威力、角度、すべてにおいて文句のつけようがない一撃。それを、彼は返した。朦朧とする意識の中で、三郎太は荒い呼吸を繰り返している。瞳の焦点は定まらず、視界は揺れている。だが、その瞳の奥にある炎は、消えるどころか、より一層激しく燃え上がろうとしていた。
(まだだ……まだ、終われない……!)
ベスは陶酔するように笑みを深め、頬を上気させてゆっくりと立ち上がった。
「しぶとい……。でも、そういうところも……そういうところが、好きです!」
愛おしそうに、けれど慈悲なく、ベスはトドメの準備に入る。今のパワーボムですら沈まないなら、彼女の持つ最大の武器、彼女の全てを込めた必殺技で葬るしかない。いいや、心のどこかではきっとこうなるだろうと期待していたのだ。そのための技。白鬼金棒落としを超える新たなる必殺技(フェイバリット)。彼を討ち取り、完全に我がモノとするための切札。本懐の瞬間はもうすぐそこに迫っている。
三郎太もまた、ふらつく足取りで立ち上がる。極限状態。肉体の限界はとっくに超えた。ここから先は、魂の領域。二人の視線が交差する。言葉はいらない。館内を震わせる狂熱のうねりすら、今の二人には遠い世界のBGMに過ぎない。残る体力気力はごくわずか、まもなく全ての決着がつくだろう事を、互いが理解していた。
周囲を歓声に包囲された放送席では、実況アナが酸欠になりそうなほどの絶叫をマイクにぶつけていた。
『返したァーーーッ! 決まったかと思われた戦慄のパワーボムに対し、宮川三郎太、執念の、まさに魂のキックアウトォォッ! しかしもう両者の体力は限界に近い! まさに死闘! だのに笑っている! 二人の顔に張り付いているのは壮絶な笑顔であります!』
大興奮の実況の隣で、アカオニ・トムは腕を組み、どこか満足げに深く頷いた。
『返したのは大したモンだが……この辺が限界だろ。こらぁ、決まりかな』
余裕たっぷりに妹の勝利を確信するトム。だが、その横顔を見たキンタロウは不思議そうな顔で口を開く。
『随分、落ち着いているな。そんなに三郎太クンを気に入っていたとは……失礼かもしれないが、少し意外だよ』
『あん、どういう意味だ?』
怪訝な顔で振り向くトムに、キンタロウは淡々と、しかし決定的な事実を口にした。
『だってそうだろう? ベス嬢が勝利するという事は三郎太クンは彼女の軍門に下る……つまり戦利品にされると言う事だ。旦那様候補の話が冗談でないなら、それってつまり、アカオニ・トム。お前の弟になるって事じゃないのか?』
ピタリ……と、トムの動きが完全に停止した。
『…………』
先ほどまでの余裕の表情が綺麗に剥がれ落ち、全米で五指に数えられる猛者の巨漢が文字通り石像のように固まっている。
『あの……凍り付いてどうしました、トムさん? 大丈夫ですか?』
実況アナが心配そうに顔を覗き込んだ、次の瞬間だった。
『……ハッ!? い、いかん! いかんぞ! そ、そうだ! 三郎太ァ、頑張れェ! ベスなんぞ返り討ちにしてしまえ!』
トムは弾かれたように身を乗り出すと、ヘッドセットのマイクを握りしめ、かつてないほどの必死な形相でリング上の青年に大声援を送り始めた。身内であるはずの妹への土壇場での裏切り、見事なまでの手のひら返しである。
『えぇ……』
いくらなんでもそれはないだろう。ドン引きする実況アナと周辺の観客たち。
『……おいおい』
これには話を振ったキンタロウも、呆れたように深々とため息をつくしかなかった。ベスにこのやりとりが聞こえてなかったのがせめてもの不幸中の幸いであろうか。
限界を超えた肉体が悲鳴を上げている。だが、三郎太の瞳は、これまでのどの瞬間よりも澄み渡っていた。意識の深淵で、何かが弾ける音がした気がする。迷い、恐れ、自信のなさ。それら全てが削ぎ落とされ、ただ純粋な「強さ」への渇望だけが残る。
(今なら……打てる!)
ベスとの視線が絡み合う。彼女もまた、満身創痍でありながら、その闘志は衰えていない。三郎太は、震える足で大地を噛み締めると、最後の力を振り絞って踏み込んだ。右肘を大きく振りかぶり、全身のバネを一点に収束させる。
「これが……本物のファイナルエルボーだッ!!」
空気を切り裂く轟音と共に、淡く光る気を纏った三郎太の肘が繰り出され、迎撃に放たれたベスの全体重と踏み込みを乗せたビッグブーツと衝突する。
「……く……そぉ……ッ!?」
弾き飛ばされたのはベスだった。これまでのエルボーとは次元の違う、重く、鋭い一撃。それは、元祖であるモモタロウのくりだすファイナルエルボーとなんら遜色のない輝きを──威力を伴っていた。渾身の蹴りを正面から跳ね返されたベスの声には心底からの悔しさが滲んでいた。強力なのは知っていた。だが全力を乗せてなお一方的に打ち負けるとまでは思っていなかったのだ。
「ぐっ……ぅぅぅ! まだよ!」
体勢を崩したベスがマットを転がる。しかし、彼女は倒れない。後転から勢いそのまま立ち上がり、よろめきながらも踏みとどまるその原動力は、もはや戦士としての闘志ではない。目の前の男を手に入れたいという、狂おしいほどの情念だ。三郎太の肘が振り抜かれた直後の硬直。その一瞬の隙を、ベスは見逃さなかった。背後のコーナーポストを蹴って加速、その懐へ一気に飛び込んだ。
「三郎太ぁっ、私のすべて、受け取って!!」
叫びと共に、ベスが三郎太の懐に飛び込む。その呼び名から敬称が消えていた。それは、今この瞬間をもって彼女の中で三郎太が「憧れの対象」から「対等の男」、そして「共に歩むべき愛しい存在」へと変わった事の証左。ベスは三郎太の掴み止めようとする両手を恋人繋ぎに捕らえて封じると、額めがけて正面からなりふり構わぬヘッドバットを叩き込んだ。
「ぐあ……ッ!?」
仰け反る三郎太から汗が飛び散る。目から火花が出そうな衝撃を噛み殺し、ベスは三郎太の頭部を掴んで押し下げる。その腹の前で三郎太の両腕を交差させ、がっちりと手首をそれぞれ自らの手で掴んでロックする。逃げ場はない、抜けるだけの体力気力もないだろう。決められる、ベスは確信の元に三郎太を抱え上げる。フル分泌されたアドレナリンが蓄積した腰の痛みすら一瞬だけ凌駕させてくれた。
「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)!!!」
十字に腕を拘束された三郎太の身体が宙に舞いあがる。通常のパワーボムではない。腕を交差させて固定する事で受身を封じ、落下の衝撃を五臓六腑にまで響かせる、ベスの開発した最凶の必殺技だ。自ら跳んでインパクトをずらすという三郎太の防御法も、中空高くからそのまま叩きつけるこの技の前にはどうしようもない。
「……ッ」
リングが砕けんばかりの衝撃音が会場を揺らす。三郎太の背中がマットに叩きつけられ、肺の中の空気が全て強制排出される。視界が白く染まり、痛みさえも認識できないほどの衝撃が全身を駆け巡った。ベスがそのまま覆いかぶさる。
レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー!」
終わった。誰もがそう思った。三郎太の意識は闇に沈みかけている。だが、身体は生きていた。
(まだ……ここで終わるわけには……!)
本能が身体を動かそうとする。両手は捕まっている。動かない。腰は押さえ込まれていた。右脚のつま先がマットの感触を捉えている。その感触を頼りに右脚が彷徨う。何かないか。その「何か」を探してマットを這いまわり――そして、硬い感触に触れた。
それはコーナー脇のサードロープだった。
三つ目のカウントが叩かれるコンマ数秒前、三郎太の右脚のつま先がかろうじてサードロープにかかっていた。
「ブレイク! ロープブレイク!」
レフェリーの声が、ベスにとっての絶望の宣告として響く。
「なッ!? ……そんなバカな……?」
慌てて視線を横へ向ける。三郎太の右脚がひっかかったロープが視界に入る。二回戦の前に控室で話した美樹の言葉が脳裏に蘇る。
──だってベスって、集中すると極端に視野が狭くなるし……
迂闊。もう一歩。もう一歩だけ「W.O.X.B」を放つ際に前へ進んでいたらこのロープブレイクは無かったのだ。ひとえに頭に血が上り、周囲の観察を怠ったが故の失態。結果として、三郎太に必殺のW.O.X.Bすら耐え抜かれてしまった。信じられないという表情で、ベスは三郎太から離れる。
三郎太はロープを掴んだまま、荒い息を繰り返している。だが、その目は死んでいない。その事実自体は素晴らしい事だ。ベスの胸を打ち、高鳴る鼓動と背筋をゾクゾクと駆けのぼる快感を覚える。だが……。
ベスは再び三郎太に向かおうとするが、その足取りは重い。これまでに受けてきた腰への集中砲火のダメージが、ここに来て彼女の機動力を奪っていた。そして初めてベスは気付く。三郎太は彼女の腰という攻防の要を徹底して狙っていたのだと。
先ほどのアドレナリンの加護も一瞬で消え、激しい痛みがベスの動きを束縛する。三郎太はその一瞬の淀みを見逃さない。ふらつきながらも立ち上がり、向かってくるベスの足元へ低空タックルを仕掛けた。
「しまっ……!?」
ベスがバランスを崩してうつ伏せに倒れる。三郎太は素早くその両足を抱え込むと、自らの身体を反転させた。単純にして王道。そして、宮川三郎太というレスラーの原点。逆エビ固め。かつてデビュー戦で、格上のバッカス木桜から金星をもぎ取ったあの技だ。
「あああぁぁぁぁッ!!!」
ベスの悲鳴が響き渡る。ただでさえダメージの蓄積した腰に、全体重を乗せた強烈な反り上げが襲いかかる。背骨が軋み、筋肉が断裂寸前まで引き伸ばされる激痛。
「ギブアップか!? ギブアップしろ、ベス!」
三郎太が叫ぶ。しかし、ベスはマットを叩かない。脂汗を流し、苦痛に顔を歪ませながらも、彼女は歯を食いしばって耐えている。
(ギブなんて……しな……い……!)
その瞳にあるのは、意地とプライド。そして何より、愛する男に屈服したくない、いや、この痛みを共有し続けたいという歪んだ愛の形。
────────────────────
その頃、ガータ御子柴の控え室にノックもなく押し入る不埒者が居た。
「御子柴さ~ん♪」
マナーもクソもない、社会人にあるまじき闖入に対し、ドン引きするセコンド係の練習生二名など、まるで居ないかのようにスルーする雫。太平プロレスのダサいトレーナーとジャージズボン姿の久我雫による急襲に御子柴の眉根が寄せられる。
「……なんだ、急に。つか、今三郎太の試合がいいところで見るのに忙しいんだけども?」
三郎太が生意気な鬼娘をついにシメんとする瞬間なのだ。逆エビ固めで泡吹いて負けるとかもいいなぁ、オレもヤられたいなぁ。などとちょっと人には言えないきわめて少数派の性癖塗れの妄想にふけりながら、真面目に試合を見守っていたというのに一体何事なのか。猫口調すら忘れて胡乱げに御子柴が塩対応で応じるが、雫はニコニコ……いや、ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべて動じない。
ここで御子柴は違和感に気付いた。雫はオトギプロに出向中の身のはず。昨日の二回戦で三郎太その人を相手に敗退していたから、今うろついているのは百歩譲っておかしくないとしても、なぜ太平プロの装備で固めているのか。そして、自分を「さん」付けで呼んでおり、黒鳥オディールのロールプレイの気配がゼロである。
(なにがあったニャ、こいつ?)
険しい表情で疑いの眼差しを自分に向ける御子柴を前に久我雫は悪い子の顔で言った。
「おい、イソノ~♪ 恋路の邪魔しに行こうぜ~♪」
御子柴は硬直した。誰テメェ? 内心で疑問符が溢れかえる。
だが──
だが、その申し出自体は最高に興味深く、最悪に魅力的だった。
「うん、行く行く~♪」
ノリノリで立ち上がって雫の後に続いて控室を出ていく御子柴を、いや、二人を、セコンド係の練習生たちは、信じられない怪異を見るような顔で見送るしかなかった。
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3分近く責め苦に苛まれながら、いまだベスはギブアップを拒絶し続けていた。ロープへ這う体力はもう無い。力任せに振りほどく事もかなわない。腰が既に限界を超えており、ただ責められて喘ぎ声をあげるしか今の彼女に出来る事は無かった。それでも、彼女の辞書に降参の文字はない。普段宣言している通り、たとえ背骨をへし折られても屈服を口にする事はない。そんな強い決意がその全身から溢れ出していた。
三郎太は悟った。彼女はタップしない。肉体が壊れようとも、心が折れるまでは決して諦めないだろう。
(……わかった。君の覚悟、受け取ったよ)
三郎太は、自ら技を解いた。拘束から解放されたベスが、力なくマットに突っ伏す。なぜ解いたのかと問うような視線を向ける余裕すらない。三郎太は一瞬たりとも動きを止めなかった。情けで解いたのではない。確実に勝つために、次なる一手へと移行したのだ。動けないベスの背後に回り、その身体を引き起こす。ベスの右脇下へ頭を突っ込むと、その右腕を自らの首に巻き付け彼女の背中側へと回す。そのまま彼女の左腕ごと腰をがっちりとホールドし、右腕で抱え込むようにしてベスの右手首を掴んだ。さらに残る左手でベスの右膝裏を取って封じる。
「あ……ぁ……!」
両腕がロックされた。右脚も膝裏の辺りで深く抱え込まれている。
(この始動体勢は……二回戦で雫を仕留めた三郎太の新技……!?)
「これで……終わりだぁっ!!」
三郎太が後方へ美しく弧を描いて反り投げる。「M's(エムズ)ライトニングスープレックス」──稲妻のような速さと鋭さで、ベスの脳天と背中がマットに突き刺さる。ブリッジを描いたまま、三郎太は微動だにしない。レフェリーがマットを叩く。
「ワン! ツー!」
ベスもまた、押し出されるような呼気をひとつ吐いた後、凍り付いたかのように身じろぎ一つしなかった。
「……スリー!」
カン! カン! カン! カン!
ゴングが鳴り響き、試合終了が告げられた。会場からの万雷の拍手の中、三郎太はブリッジを解き、大の字になった。ベスは動かない。完全に意識を飛ばしていた。
天井の照明が眩しい。出し切った。全てを、出し尽くした。
大歓声に揺れる特設放送席では、実況アナが今日一番の絶叫で試合の終わりを告げていた。
『決まったァァーーーッ! スリーカウントォォッ! 勝者、宮川三郎太ぁぁっ! 決勝進出決定だぁぁ!!』
『……むむむ』
実況の隣で、アカオニ・トムが実に複雑な表情で唸り声を上げる。妹が敗れたのは心底腹立たしい。だが、三郎太をオニガシマ・ブラザーズに迎え入れずに済んで安堵する気持ちもまた、限りなく大きいのだ。なにせ「トム義兄さん?」などと三郎太に呼ばれる情景を脳裏に浮かべただけで、思わず「怒涛のトムさんラリアット」を放ちそうになっていたのだから。
『何がむむむ、ですか』
アホみたいな百面相をしている巨漢に実況アナが呆れ気味に茶々を入れる。そんな漫才のようなやり取りをよそに、キンタロウはリング上で大の字になっている三郎太を見つめ、静かに、だが熱を帯びた声で語り出した。
『素晴らしい成長だ、三郎太クン。意地を張り合う展開から一転、相手の覚悟を読み取り、情けではなく確実に仕留めるための最適解を選択した。あの極限状態での冷徹なまでの判断力……宮川三郎太、君は底知れない男になったぞ。そして、そのポテンシャルを極限まで引き出したベス嬢の狂気的な……いや、情熱的な攻めも称賛されるべきだろうね』
ベテラン解説者としてのキンタロウの熱弁を聞き、トムとじゃれ合っている場合ではないと気づいた実況アナが、ハッと我に返って慌てて職務に戻る。
『おっしゃる通りです! 放送席も、そしてこのアリーナ全体が、死闘を繰り広げた両者に万雷の拍手を送っています! 敗れたベスはいまだ立ち上がれませんが、間違いなく彼女の全ては三郎太選手に届いたはずです! 素晴らしい、本当に素晴らしい試合でありました!』
熱狂に包まれるリングを見下ろしながら、トムは腕を組み、やれやれと深くため息をついた。
『……どーせ、ベスも諦めねえだろうし、次あたりは観念して義理の弟を迎える覚悟しておくか』
『おいおい』
なんだかんだで妹の執念深さを一番よく理解している兄の呟きに、キンタロウは肩をすくめて苦笑するしかなかった。
────────────────────
試合後、控室へと続く廊下。熱闘の余韻を冷ますように、三郎太とベスは並んで歩いていた。
お互いにボロボロで、足取りもおぼつかない。だが、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。三郎太が足を止め、隣を歩くベスに向き直る。
「その……良い試合だった、と思う。また君と……いや、君となら何度でも試合したいと……そう思った」
頬を染めて気恥ずかしげにそう呟く三郎太の言葉は、偽りのない本心だった。突然の襲撃、突然の旦那様候補指名。そこからストーカーまがいの行為に困惑していた日々を超え、今、目の前にいるのは一人の尊敬すべき……いや、認めよう。好ましく思っている最高の好敵手(ライバル)だ。
ベスは驚いたように目を瞬かせ、やがて頬を朱に染めて、満開の花が咲くような笑顔を見せた。
「…………はいッ!! また…戦(や)りましょう!」
その声は弾み、以前のような一方的な執着ではなく、互いを認め合う喜びが溢れていた。
と、そんな感動的な空気が流れる二人のすぐ横に、気付かれぬよう接近している者たちが居た。壁に寄りかかっていた雫が、わざとらしい仕草で隣の御子柴の顎を指ですくい上げた。
「君となら、何度でもヤりたいと思った」
三郎太のセリフをそのままなぞりつつ、ちょっと声真似交じりに、決定的なニュアンスを変えた爆弾発言。対する御子柴も、待ってましたとばかりに身をくねらせ、頬を染める演技に入る。
「……やん、大胆♪ はいッ!! また…ヤりましょう♪」
凍り付く二人。
「ちょっ……!?」
せっかくの余韻をぶち壊されたベスが、顔を真っ赤にして二人に掴みかかる。
「ななななに変な真似やってるの、こここ殺すっ!!」
殺気立つ白鬼と、ケラケラと笑いながら逃げる雫と御子柴。三郎太は、やれやれと肩をすくめてその騒ぎを見つめた。
「あー。……ったく、また茶化してもうー……!」
呆れつつも、その口元には自然と笑みがこぼれていた。
激闘の果てに得た勝利と、少し騒がしい仲間たち。宮川三郎太のEQT準決勝は、確かな成長と、小さな絆を刻んで幕を閉じた。