「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
準決勝第一試合が終了したばかりの東京ドームは、いまだ興奮のるつぼの中にあった。超満員の観客が放つ熱気とどよめくような歓声が、巨大なドームの空気を揺らしているようだ。リング上に注目を集めようときらびやかな照明が交錯し、その試みは成功を収めた。ドームの中心にある特設リングへと場内すべての視線が集まる。準決勝から決勝と短いスパンで試合が行われる選手たちを考慮し、その合間のエキシビジョンマッチの舞台が用意されていたのだ。リング上空に吊るされた巨大なオーロラビジョンに鮮やかな文字が躍る。変則3WAYマッチの開催を告げるアナウンスが響き渡ると、実況アナウンスがその興奮をそのまま電波に乗せて叫び始めた。
『準決勝第一試合、素晴らしい闘いでした。さて、第二試合の前にここでエキシビジョンマッチです! 対戦カードは本戦一回戦で惜しくも敗退となった選手たち! 「クロエ・スネグーラチカ VS 赤ずきん VS リカルド」による変則3WAYマッチが執り行われます!』
実況アナウンサーの張りのある語りがドーム内に響き渡り、観客からは期待の声が上がる。
『3WAYマッチとは珍しい。シングルなら実力で頭一つ抜けているクロエ君が有利だが、この形式だとどう転ぶかわからないぞ』
一回戦で敗れたとはいえ、いずれも強烈な個性を放ち、観客の心に深い印象を残した実力者たちだ。その三人が同時にリングに上がるという対戦形式に、解説席のキンタロウも興味深げに深く頷いた。
『まさに混戦必至というわけですね!』
『集中攻撃が有り得るからね。とは言え、三人は初対面、そんなに急に連携するような間柄とも思えないが……』
補足しつつ、口にした可能性を薄いと自ら否定し、首を振って苦笑するキンタロウ。
『果たして勝利を掴むのは誰なのか、注目してまいりましょう!』
実況と解説の言葉が交わされる中、それぞれの花道から選手たちが姿を現した。
まず、ゲートから軽快なステップを踏みつつ入場してきたのは、メキシコ代表のリカルドだ。少年同然の若さでありながら、独自のセンスと天賦の才を持つルチャドール。褐色の肌をきらめかせ、ツンツンとした黒髪を揺らし、白いショートパンツに黄色のジグザグ模様が施された黒のロングタイツという派手な衣装を纏っている。その顔は生意気そうな少年その物、八重歯が覗く笑顔を浮かべていた。
続いて入場したのは、赤ずきんだ。まるでおとぎ話の世界からそのまま飛び出してきたかのような愛らしい衣装に身を包んでいるが、その実、レスラーとしての鍛え上げられた肉体と、何よりも豊かな、目を引くほどの豊満な胸元を有している。観客へのアピールを忘れないその姿には、華やかさと同時に、対ローラ戦で見せた一筋縄ではいかないレスラーとしてのタフさが隠されていた。
そして最後に、花道から静然と姿を現したのが、ロシア代表のクロエ・スネグーラチカである。透き通るような長い銀髪を背中へと流し、額には鮮やかなターコイズブルーのレース編みヘッドドレスを戴いている。その瞳は、すべてを見透かすかのように鋭く冷徹な青銀色。肌は雪のように白く、無駄な脂肪の一切を削ぎ落とした、しなやかで引き締まったアスリートの体躯を誇っていた。胸元に雫型のカッティングを施したハイネックのホルターネック・クロップトップを着用し、フロントには大輪の雪の結晶が青く煌びやかに描かれている。まさに氷の国から来た戦闘マシーンそのものの佇まいに、場内からはため息のような歓声が漏れた。
三者がリング上に揃い、中央でレフェリーが厳格な表情でルールを説明する。通常のシングルマッチやタッグマッチとは異なり、三人が同時に戦い、誰であれ最初にピンフォール、またはギブアップを奪った者が勝者となるという変則的なルール。互いの動向を窺いながら、リングの三隅へと分かれるレスラーたち。張り詰めた緊張感が満ちる中、試合開始のゴングが重々しく打ち鳴らされた。
カーン!
ゴングの音が静寂を破ると同時に、会場は割れんばかりの歓声へと塗り替えられた。真っ先に動いたのは、リカルドだった。しかし、その動きは格闘家としての合理的な間合いの詰め方ではなかった。リカルドの大きな瞳は、対峙する二人の女性レスラーへと向けられ、無邪気で悪意のない、しかし救いようのない彼のオープンスケベな本性が一瞬で露わになったのである。
リカルドの視線は、まずクロエの胸元へと注がれた。大輪の雪の結晶が描かれたその衣装の下にあるのは、無駄な脂肪を極限まで削ぎ落とした、洗練されたスレンダー体型。その胸は平坦であった。少年の目が深い悲しみに陰る。続いてリカルドは、赤ずきんへと視線を転じた。そこには、衣装の布地を限界まで押し上げるような、見事なまでに豊満な双丘が、彼女の呼吸に合わせて豊かな弾力を誇っていた。リカルドの頭の中で、瞬時に結論が出る。
「……ぺったんこ、ぼぼーん。これはコッチしかないよネ!」
呆れるほどに堂々とした声で、思ったことをそのまま口に出しながら、リカルドは抜群の瞬発力でキャンバスを蹴った。標的は、もちろん赤ずきんである。一瞬にして距離を詰めたリカルドは、低い姿勢からのタックルで赤ずきんの腰へと飛びついた。しかし、それは相手を倒すための低空タックルなどでは決してなかった。おもむろに赤ずきんの胴体を両腕で抱え込むと、自らの顔をその豊かな胸元へと容赦なく押し付け、あろうことか大真面目に頬ずりを始めたのである。
突然の破廉恥な暴挙に、赤ずきんは目を見開いて硬直した。
「ぐぅっ!? って、ちょ……どこ触って!? きゃあ!?」
驚きと困惑、羞恥心が入り混じった高い悲鳴が赤ずきんの口から飛び出す。少年レスラーの頭が、自らの最も柔らかな肉壁を容赦なく圧迫し、不躾な温もりが伝わってくる。その光景を、リングの反対側から冷ややかに見つめていたクロエの青銀色の瞳に、瞬時に危険な火花が散った。リカルドが放った言葉、品定めをするような露骨な視線の動き、そして自分を一瞥した後に彼の瞳を彩った深い悲しみの陰。結果、自分を避けたその不躾極まる態度。それらすべてが、完璧な戦闘マシーンとして育てられつつも、対ジェニー戦でその本性を暴かれた今の彼女の激情に、明確な亀裂を入れた。
「……カチンと来ました」
──ナサケムヨウ、ヤッチマエ。
クロエの口の端が持ち上がり、危険なスマイルが浮かぶ。笑うという行為は本来攻撃的なものであり獣が牙をむく行為が原点である、とも言われる。感情の発達が未熟なだけで、その奥底に幼さと激しい情熱を秘めているクロエの情緒に、本能的な怒りのプログラムが起動した瞬間だった。
一方で、自らの胸に抱きついたまま、なおも幸せそうな笑顔を浮かべている褐色肌の少年に、赤ずきんは静かに笑みを浮かべる。それはどこまでも冷たく、底知れない怒りに満ちた笑みだった。
「おしおきが必要なようですね。……お腹、ドスドス♪」
可愛らしい口調をわざと維持しながらも、その声のトーンは底冷えがするほどに低い。赤ずきんは、自らの胸に顔を埋めているリカルドの短いツンツン頭を、両手でガッチリと挟み込んで固定した。レスラーとしての強力な指の力が、リカルドの頭皮に食い込む。そのまま自らの豊かな上半身を支えにしていたリカルドの身体を、力任せに引き剥がすようにして肩口に抱え込む。結果、無防備に剥き出しになったリカルドの腹部に向けて、赤ずきんは自らの右膝を、下から突き上げるようにして強烈に叩き込んだ。いつも以上に容赦のないキッチンシンクである。
ドスッ、という、肉体と肉体が激突したとは思えないほどの重苦しい打撃音がリングに響き渡る。
「ぐへっ!?」
カエルの潰れたような声がリカルドの口から漏れる。しかし、怒れる赤ずきんの制裁は、一発だけでは到底収まらなかった。頭部を掴んだ手をさらに引き込み、自らの身体を反転させるような勢いを乗せて、二発目、そして三発目の膝蹴りを、リカルドの鳩尾の奥深くめがけてめり込ませた。
「おごっ!? あぐぅ!?」
胃袋をぺちゃんこにされるような凄まじい衝撃。リカルドの身体は完全にくの字に折れ曲がり、先ほどまでの至福の笑顔は一瞬にして消え去り、苦痛に顔を歪ませてよろめいた。しかし、少年にとっての地獄は、まだ幕を開けたばかりだった。
三発目の膝蹴りでようやく解放され、衝撃で意識を朦朧とさせながら、身体を折ったまま立ち尽くすリカルドに、音もなく、しかし圧倒的な威圧感を伴った影が近づいていた。純白の編み上げロングブーツを響かせ、氷の精霊のごとき冷徹な殺気を全身から放つクロエである。クロエは右手に嵌めた黒のオープンフィンガーグローブを、骨が鳴るほどに固く握りしめた。その青銀色の瞳には、一切の慈悲など存在しない。
「……!」
言葉を発することなく、クロエは電光石火の踏み込みから、リカルドの顔面に向けて鋭い左ジャブ……もとい、ナックルパートを放った。パシィンと軽い音が響いた直後、間髪入れずに右のストレートがリカルドの顎を跳ね上げる。目にも留まらぬ速さで繰り出された高速のワンツーパンチ。リカルドの頭部が左右に激しく揺れ動く。
格闘マシーンとしての冷徹なコンビネーションアタックは、ここで終わりではなかった。クロエは一度、自らの右拳を顔の横へと引き、ドームを埋め尽くす観客たちに見せつけるように、拳を細かく振るアピールを行った。プロレスラーとしての見せ場を作りつつも、その本質は自らの怒りを拳へと収束させるための、絶対的な溜めの時間であった。
全体の体重を完璧な軌道で右拳へと乗せ、満を持して放たれた決定的な右ストレートが、リカルドの頬の肉を激しく歪ませながら撃ち抜いた。
乾いた、そして強烈な衝撃音が弾け飛び、リカルドの小さな身体はまるで木の葉のように宙を舞った。そのままキャンバスの上へと、無様に転がりながら殴り飛ばされていく。
「……!」
無言のまま、ゆっくりと拳を下ろすクロエ。その立ち姿はどこまでも冷艶で、非情だった。一方、マットの上へと激しく叩きつけられ、這いつくばったリカルドは、急速に腫れ上がり始めた自らの頬を両手で押さえながら、涙目で必死の抗議の声を上げた。
「無言で殴ってきて怖いよ、お姉サン!?」
だが、怒れる女性レスラーたちは、リカルドに弁明の余地はおろか、息を整える時間すら与えるつもりがなかった。再び楽しげな、しかし狂気を孕んだ鼻歌を響かせながら、赤ずきんが素早い動きで追撃へと移る。マットの上で悶絶し、這いつくばっているリカルドの髪を、その細い指先で容赦なく掴み上げると、強引にその身体をキャンバスから引き剥がすようにして引き起こした。赤ずきんは自らの右腕をリカルドの股下へと深く差し込み、左腕で彼の背中をガッチリとホールドした。十七歳とはいえ、軽量で引き締まったリカルドの身体は、プロレスラーとして日々過酷な鍛錬を積んでいる赤ずきんの怪力の前には、羽毛ほどの軽さでしかなかった。赤ずきんは足元を踏ん張り、全身の筋力を爆発させて、リカルドの身体を自らの肩口へと一気に担ぎ上げた。天地が逆転し、リカルドの視界が激しく揺れる。
「そら、どーん♪」
次の瞬間、赤ずきんは前方へと力強く一歩を踏み出すと同時に、自らの全体重を乗せるようにして、リカルドの背面をキャンバスへと全力で叩きつけた。プロレスの基本、堅実で確実なダメージを刻むボディスラムである。キャンバスが激しく波打ち、鈍く重い低音が東京ドームの巨大な空間へと響き渡る。
「オウ……ッ!?」
背中を強打したリカルドは、白目を剥きかけながら、キャンバスの上で力なく跳ね、そのまま身悶える。そこへ、逃れられぬ破滅の影が、さらにもう一つ重なるようにして落ちてきた。純白のロングブーツでキャンバスを踏み締め、倒れるリカルドを見下ろすクロエである。その美しい顔には、少年の無様な姿を憐れむような色は一切なく、ただ冷酷な処理を行うだけの機械的な光が宿っていた。
「制裁」
短く、鋭利な氷の刃のような言葉を吐き捨てると同時に、クロエはそのしなやかな跳躍力を生かして、垂直に宙へと舞い上がった。滞空時間の中で、クロエは自らの右脚を水平に美しく突き出し、さながらギロチンの刃のごとき鋭さで振り下ろす。ターゲットは、先ほどのボディスラムのダメージによって完全に動きを止め、マットの上で仰向けに突っ伏しているリカルドの、完全に無防備な首元であった。クロエの引き締まったふくらはぎが、凄まじい重力加速度を伴って、リカルドの喉元へと炸裂した。強烈無比なレッグドロップ。
「ギャー!?」
首をへし折られるかのようなあまりの激痛に、リカルドは文字通り絶叫し、身体をエビのように弓なりに反らせて悶絶した。その顔は涙でぐしゃぐしゃになり、先ほどのつかの間の天国のようなひと時は蜃気楼のように消え失せ、地獄の苦しみだけが残る。
リング上で行われた、開始早々の目まぐるしくも凄惨な二人がかりの集中攻撃に、ドームを埋め尽くした観客の興奮は最高潮に達し、割れんばかりの歓声と笑い声が飛び交っていた。実況席のアナウンサーもまた、その圧倒的な展開に興奮を抑えきれず、マイクに向かって絶叫を続ける。
『なんということでしょう!? リカルド選手、開始早々に二人まとめて敵に回してしまったようです!』
アナウンサーの声には少々の戸惑いと戦慄が混じっていた。その隣で、解説のキンタロウは、呆れたように苦笑を浮かべながらも、冷静に評した。
『いや、まぁ……自業自得だろう。むしろ直接抱き着いた赤ずきん君だけでなく、視線でクロエ君も怒らせているのは芸術的ですらある。意図してではないようだが』
試合開始早々、あっという間にボロボロになったリカルドに実況も苦笑を隠せない。
『赤ずきんのボディスラムから、流れるようにクロエ・スネグーラチカのレッグドロップが決まりました! 見事な連携でしたね!』
初対面。急に連携するような間柄とは思えないと言ったそばからこの始末。さしものキンタロウもフォローの言葉が思いつかない。
『女性を怒らせると怖いねぇ』
キンタロウのしみじみとした言葉が響く中、リング中央では、朦朧としているリカルドを足元に転がしたまま、二人の怒れる女が、次なる標的を定めるようにして、その視線を静かに交錯させ始めていた。
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東京ドームの巨大な空間を埋め尽くす超満員の観衆が放つ熱気は、天井を焦がさんばかりに燃え上がっていた。しかし、その外周観客席の一角で敢えて喧騒を隠れ蓑にするように、周囲の興奮と明らかに一線を画する、張り詰めた緊迫感を纏う三人の影があった。室町時代に端を発し、連綿と現代へその技術を伝える戦闘集団の一派『黒武術』の総帥である影幻春架、その公私にわたるパートナーであり副官的存在の黒木麗羅、そして太平プロレスの社長令嬢であり女子レスラーでもある松平美樹が、並んで座り、リング上へ視線をやりながら話をしている。
まずは先の試合で決勝戦への進出を決めた男の戦いぶりに、影幻がニヒルな笑みを唇の端に浮かべ、低く響く声で口を開いた。
「フッ、三郎太クンが決勝進出か。数年前とは貫禄が違うな」
かつて太平プロレスとの抗争戦では、黒いマスクを被ってブラック・モモタロウを名乗っていた影幻は、その試合の中での動きと技、なにより佇まいを見てそう評した。その隣で、美樹はリングを見つめたまま、誇らしさとどこか割り切れない複雑な想いを滲ませて応じた。
「はい、お蔭様で……」
三郎太がここまで勝ち上がったことは喜ばしい。太平プロの若手から2名、居候的存在を含めれば3名がベスト4入りしているという事実も団体の将来を思えば誇れる実績だ。しかし、今の彼女の胸中を占めているのは、ある失踪した男の存在だった。影幻は美樹を横目で窺うと、静かに本題を切り出した。
「……商談の件は本当にいいんだな?」
サチがゾーザの毒に侵された際、黒武術の伝承知識と影幻の技術による解毒への協力を得るため、美樹が提示した商談。それは、彼女の想い人の去就に関わる内容だった。美樹は毅然とした態度で頷く。
「ええ、悪いのはモモタロウですから。ここらできっちり責任をとってもらいたいなって」
恋い焦がれているのを承知のはずにも関わらず、一試合のみの復帰だけで自らの前から理由も告げずに消え去り、再び行方知れずとなったあの男。ザ・モモタロウ。不在のまま周囲を翻弄し続ける彼への怒りと、その裏の想い、そして経営者としての冷徹な判断が彼女の声に宿っていた。
影幻は腕を組み、ふむと鼻を鳴らす。
「利害は確かに一致する。こちらとしては文句はないが、お前の親父さんは承知してるのか?」
太平プロレスの現社長である松平林吾はモモタロウの密かな復帰試合の裏に関わっていたはず。ならば彼なりに思う所あって協力したのだろう。彼のあずかり知らぬ所でこの商談が進んでいるとなれば思惑とのズレが生じておかしくない。だが、美樹の決意は揺るがなかった。
「させます」
自らにモモタロウの事を隠匿した父親の考えを自らの判断で押しつぶす事すら厭わないという時期経営者の決意と覚悟が、その短い言葉に凝縮されていた。それを見た影幻は、フッと短く笑う。
(こりゃ、社長交代劇に一波乱あるかもしれんな)
その様子を横でハラハラしながら見守っていた麗羅が、影幻の袖を軽く引き、周囲に聞こえないよう小声で耳打ちした。
「……リーダー、本当に構わないのかい?」
黒武術としても、太平プロレスと今後深く関わることになる決断にはそれなりにリスクが伴う。麗羅の当然の懸念に対し、影幻は麗羅にだけ聞こえるような低い小声で囁き返した。
「麗羅ちゃ……麗羅。ああ、問題ない。こっちとしても太平プロには──あちらさんのご存知ない借りがある、それを返したと思えばな」
ブラック・モモタロウというギミックを他ならぬ影幻に一言の断わりもなく使っての一戦のみの復帰戦。そして再失踪。あまりにも水臭いその挙動は個人として友人として思う所はある。だが、そんな私人としての判断だけではない。現在進行形で影幻が進めているプロジェクトで黙って太平プロレスを利用しているという事実と今後の事を見据えた判断がそこにはあった。麗羅はその言葉の真意を察し、何とも言えない表情で視線を落とす。
「あぁ……あの子の……」
しかし、美樹の関心はすでに別件へと向けられていた。この商談を機に行った情報交換で発覚した無視できぬ違和感。彼女は影幻を真っ直ぐに見つめ、声を落として尋ねた。
「それよりあの話、本当なんですね?」
影幻の顔から笑みが消え、どこか陰のある憂いの表情へと変わる。
「ああ、納豆丸のヤツは急に姿を見せなくなった。ある時からぱったりと……不自然にな。そっちの……」
黒武術の創始者であり、普段は鬱陶しいほどにまとわりついていた幽霊の少年が、忽然と気配を消したという事実。美樹は己の胸元を強く掴み、恐怖を堪えるように応じた。
「はい、ご先祖ちゃんもここ数年現れてません。最初はモモタロウが居なくなったせいかと思ってましたが……」
太平プロレスに当然のように居着いていた初代桃太郎の幽霊。現世に留まる理由を失ったのか、モモタロウに着いて行ったせいで太平プロに姿を見せぬだけか。当初はそう思おうとしていたが、影幻の話を聞いた今、それが単なる偶然ではない可能性が高まった。
「時期が一致する以上、無関係とも思えん。俺たちの知らん所で何かが起きている」
影幻の言葉には、いまだ姿の見えない脅威に対する警戒感が満ちていた。麗羅も腕を組み、険しい表情で同意する。
「こりゃ、情報交換は密にした方がよさそうだね……」
霊的な存在でありながら、両団体の精神的支柱でもあった二つの魂が、同時に姿を消した謎。美樹は再び、眩い照明に照らされた遥か遠くのリングを見つめた。
「一体何が起きてるって言うの……このこと、モモタロウは知ってるの……?」
その問いに答えられる者は、この場には居ない。不気味な余韻を残したまま、三人の会話は途切れ、再び視線はエキシビジョンマッチの戦場へと戻された。
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リング上では、いまだリカルドが、先ほどの攻防による大ダメージによってキャンバスに這いつくばったまま、辛うじて呼吸を整えている状態だ。試合の構図は一時的に、残された二人の女性レスラーによる一対一の全面対決へと移行していた。
純白のロングブーツでキャンバスを踏み締め、冷徹な殺気を発するクロエ・スネグーラチカ。その対面に立つのは、荒い息を吐きながらも闘志を燃やす赤ずきんだ。ロシアと日本、両国の若手トップ同士のプロレスラーとしてのプライドと意地が火花を散らす。クロエの青銀色の瞳に、機械的な攻撃プログラムが冷酷に起動した。無駄な動きを一切排除した踏み込みから、クロエは自らの右腕を鋭く振るう。
「……ッ」
言葉を排し、ただ破壊の意志だけを乗せたクロエのエルボーラッシュが開始された。一発、二発、正確に刻まれる三発の衝撃。クロエの鋭角な肘が、赤ずきんの最も肉感的な胸元へと連続して正確に叩き込まれた。肉体が激しく衝突する鈍い打撃音がドームに響き渡る。鍛え上げられたアスリートの筋力から放たれる肘打ちは、岩を砕くような重さを持っていた。赤ずきんの顔が苦悶に歪む。
「ぐっ!? うぅ……!? あぁっ!?」
あまりの痛みに赤ずきんの口から悲鳴が漏れ、その豊かな双丘が衝撃波で大きく波打った。普通であればそのままキャンバスへと崩れ落ちるほどの激痛に、しかし、赤ずきんは奥歯を噛み締め、踏みとどまる。
「が、我慢!」
赤ずきんは叫んだ。打たれた肘打ちの衝撃をその肉体に受け止めたまま、一歩も退かずに踏み止まる。それどころか、追撃を加えようとしたクロエの細い腰を、両腕で強引に抱え上げたのだ。これほどの打撃を受けてなお動く赤ずきんの超人的な打たれ強さに、完璧な戦闘プログラムを自負していたクロエの表情が一瞬だけ凍りついた。
「……ッ!?」
驚愕に目を見開くクロエの身体を、赤ずきんは自身の肩口へと一気に担ぎ上げる。
「よいしょお!」
そして、自らの全体重を後方へと投げ出すようにして、担ぎ上げたクロエを下敷きにキャンバスへと激しく倒れ込んだ。肉体の質量がダイレクトに路面へ衝突する、豪快なサモアンドロップである。重苦しい音が響き、クロエの無駄な脂肪のない背中がキャンバスへと強烈に叩きつけられた。受け身を完璧に取ったはずのクロエだったが、二人分の体重の落下から成る内臓を揺さぶる衝撃に、思わずその薄い胸を波立たせて苦悶の表情を浮かべた。
クロエがダウンして咳き込むこの決定的な好機を、赤ずきんが見逃すはずもない。我慢しただけの痛みに顔を顰め、荒く呼吸を乱しながらも、彼女はすぐさま最寄りのコーナーポストへと向かった。一歩、また一歩と、コーナーのセカンドロープ、そして最上段のサードロープへと、驚くべき軽さで駆け上がっていく。超満員の観衆が、何が起きるかを察知して一斉に地鳴りのような大歓声を上げた。コーナーの頂点、ドームの眩い照明を背に受けながら、赤ずきんは両腕を大きく広げた。その豊満な身体が、まるで大空を舞う鳥のように、ダウンするクロエの真上へと向かって放たれた。
「いっくぞぉー!」
満を持して放たれた必殺のスーパーフライ。赤ずきんの全体重と、重力加速度のすべてが一点に集中し、キャンバスに倒れ伏すクロエの腹部へとダイレクトに落下した。衝撃がキャンバスを揺らし、二人の肉体が激しくぶつかり合う。
「ぐっ……!」
クロエの口から、苦痛に満ちた掠れた呻き声が漏れた。これだけの直撃を受ければ、いかなる強者であっても肋骨を軋ませ、しばらくは動くことすら叶わないはずだった。しかし、戦闘マシーンの異名を持つ雪の妖精の真の恐ろしさは、ここからだった。スーパーフライという絶大な肉弾攻撃をその身にまともに受けながらも、クロエの美しい顔には、次の瞬間にはもう、痛みを感じている様子など微塵もない、完全な無表情が戻っていた。彼女の冷徹な脳は、肉体が受けたダメージを即座に計算し、それを精神力で完全に遮断していたのだ。
クロエは赤ずきんを跳ねのけるようにして転がして身を起こすと、その長い両脚でうつぶせの赤ずきんの膝裏を踏みつけるようにして両脚を固定。そしてそのまま、蛇のようなしなやかさでガッチリと絡め取った。
「うぇっ!? 効いてないの!?」
至近距離でその無機質な瞳を見た赤ずきんの顔が、驚愕と恐怖に染まる。クロエは赤ずきんの動揺を冷酷に突き放すように、その細くも強靭な両腕を、赤ずきんの上半身へと滑り込ませた。
「いいえ、先ほどの貴女と同じ。耐えただけです。──完全に捕獲、逃がしません!」
クロエの声には、一切の感情の揺らぎがなかった。彼女はうつ伏せの赤ずきんの背後から、その片腕と首をチキンウイングフェイスロックの体勢で完璧に捕らえ、力任せに引き絞った。そして、後方へ腰を下ろして寝転がるようにして、赤ずきんの肉体を弓なりに反らせながら、リング上へと高く掲げ上げた。クロエ・スネグーラチカの必殺技(フェイバリット)──高度な技量を要する変形ロメロ・スペシャルである『エンドレス・ウィンター』が、完全に極まった瞬間だった。
『出たァー! クロエ・スネグーラチカ、赤ずきんの「スーパーフライ」を耐え抜き、そのまま絡めとるようにして、彼女の必殺技(フェイバリット)「エンドレス・ウィンター」へ移行したぁー!』
実況の絶叫がスピーカーを通じてドーム内に響き渡る。
『下半身の自由を完全に奪い、上半身を極限まで引き絞る地獄の関節技! リング中央で捕まってしまった赤ずきん選手、逃げ場がありません!』
キンタロウもその技の残酷なまでの完成度に、声を厳しくして解説する。
『ロメロスペシャル系の技は重心が崩れやすく維持が難しい、ともすれば芸術的な複合間接技だが……彼女は逃れようと言う藻掻きに完全に対応して重心を制御し、カウンターし続けている。これは完全に極まっているね。じわじわと背骨と肩関節に尋常ではない負荷がかかり続けている。よほどの鍛錬を重ねてきたのだろう。クロエ君がその身体で覚え込んだ確かな技量が現れている』
肉体と骨が悲鳴を上げるような感覚が赤ずきんの肢体を響き渡る。プロレスにおける関節技や絞め技は、必ずしもかければすぐに決着がつくというわけではない。それは、時に秒単位で相手の体力を削り取り、精神を絶望へと追い詰めていく、じわじわとした残酷な攻防なのだ。クロエは無表情のまま、機械的に、一ミリの緩みもなくその締め上げをさらに強めていった。彼女の脳裏にあるのは、ただ完璧な『マシーン』であろうとしてジェニーに敗北した過去を乗り越え、自らの意志として勝利のプログラムを氷雪に刻み、遂行することで自らのコーチの正しさを世界に証明するという、新たに結晶化した切なる願いだけだった。
(命令通りに固定するネジではなく、己の意志で氷河を割り砕く衝角になる……これはその第一歩……!)
極限まで身体を反らされた赤ずきんの顔は、みるみるうちに激痛で真っ赤に染まり、その大きな瞳からは、耐えかねた涙がポロポロとキャンバスへと零れ落ちた。片腕をがっちり極められ、胴をねじれ引き裂かれ、背骨をへし折られるかのような地獄の苦しみ。呼吸をすることすら困難な絶望的な状況の中、赤ずきんの意識は急速に混濁していく。
「いぎぎぎぎ……!? くっそぉ……も、もう……ギ……」
限界だった。赤ずきんの唇から、ついにギブアップ宣言が漏れかけ、レフェリーが慌てて二人の元へと駆け寄って確認しようとした、まさにその刹那。
──誰もが忘れていた人物が宙を舞っていた。
「ボクも混ざるヨ!」
場内の緊迫した空気を完全にぶち壊すような、極めて調子の良い、無邪気な叫び声がリング上の空から響き渡った。先ほどまでグロッキー状態でダウンし、完全に戦線離脱したと思われていたリカルドである。彼は二人の攻防に周囲の注意が完全に逸れていた隙を見逃さず、よろめきつつも素早い動きでコーナートップへと駆け上がっていたのだ。「エンドレス・ウィンター」による地獄の封鎖に全神経を集中させていたクロエも、極限の苦痛の中にいた赤ずきんも、完全に彼の存在を失念していた。
そして、そんな二人にその不意打ちを防ぐ余地などありはしない。リカルドの褐色の身体が、眩い照明の中、空中で美しく後方へと一回転。彼が誇る天賦の必殺技(フェイバリット)――「ムーンサルトプレス」が、複合間接技で繋がった二人の肉体を目掛けて、真っ直ぐに舞い降りる。
凄まじい衝突音と共に、リカルドの全体重が、重力に引かれて二人の上へと容赦なく落下し、押しつぶした。
「ギャー!?」
「何ッ……ごふッ!?」
「アイタッ!?」
あまりの衝撃に、クロエが完璧に維持していたエンドレス・ウィンターのロックが強制的に引き剥がされた。変形ロメロスペシャルで掲げ上げられたところに体当たりを受けた赤ずきんは瞬間増大した四肢の激痛に本能そのままの無様な悲鳴をあげる。技が崩れた事でリカルドと赤ずきん、二人分の体重を腹に受けることになったクロエもまた、目を白黒させてダメージと呼吸困難に咽返ってのたうち回ることになった。技を繰り出したリカルドすら無事ではない。落下の衝撃が赤ずきんやクロエと複雑に衝突しあったことで、もつれあってマットに落下する。その途中で赤ずきんの石頭と頭部が衝突してしまい、真っ赤になったおでこを押さえて涙を流して身悶える。
三人の肉体はキャンバスの上を無様に転がり、それぞれが強烈なダメージに体や頭を押さえて悶絶した。決着寸前だった状況は一転して混沌の渦へと投げ返され、観客たちからも声援と怒号と笑い声の混じったカオスが広がる。