「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
『太平プロレス興行、本日のメインイベント! 因縁のリベンジマッチが始まろうとしております! かたや、先の対決で反則負け裁定の御子柴に記録上は勝利しつつも、あまりにも無残な蹂躙を受けてしまった宮川三郎太! 対するは、メキシコの闇から舞い戻った深淵の雌猫、ガータ御子柴! 本日は当事者同士の合意により、一切の反則が禁じられた「ルール厳守デスマッチ」! 解説には、太平プロレスの信頼と伝統の噛ませ役、頼れるベテラン──ラスカル石井さんをお招きしております』
会場を揺らす実況アナウンサーの絶叫が、熱気となってリング上に降り注ぐ。色とりどりの紙テープが宙を舞い、スポットライトが赤いプロレスパンツに身を包んだ宮川三郎太を照らし出す。その表情は、いつになく険しい。黒髪の短髪から覗く瞳は、向かい側に立つ因縁の相手を真っ向から見据えていた。
『ラスカルさん? ……解説なので恐れ入りますが、なにか喋って頂けたらなーって……』
実況が隣に振るが、返ってくるのは重苦しい沈黙だけだ。
『……』
『なんということでしょう、これは人選ミスだ!? 果たして実況アナは最後まで実況を全うできるのか!? ええ、私です!? ちくしょう!!』
そんなコミカルな実況の嘆きを切り裂くように、対角線からガータ御子柴が歩み出る。ネコミミをあしらい、黒と赤を基調とした露出度の高い網目付きのリングコスチュームは、彼女の透き通るような色白の肌と、不気味なほど鮮やかな紅色の瞳を際立たせていた。
『……動いたな』
ようやく重い口を開いたラスカル石井の呟きと同時に、二人がリング中央で対峙する。三郎太は無言で右手を差し出した。クリーンな試合を、正々堂々とした再戦を誓うための握手だ。『喋れるんじゃないですか!?』という実況のツッコミを背景に、観客席からも、この因縁に決着をつけようとする若きエースへ期待の拍手が送られる。
御子柴は薄笑いを浮かべ、その小さな手を三郎太の手へと伸ばした。だが、指先が触れ合う寸前、彼女の瞳に加虐的な光が宿る。三郎太が反応する間もなかった。御子柴は差し出された手を取る代わりに、三郎太の首筋に両腕を絡ませ、その勢いのまま彼の唇を奪った。
「……ッ!?」
三郎太の目が見開かれる。ウブで真面目な彼にとって、それはあまりに過剰で、あまりに破廉恥な奇襲だった。脳が真っ白になり、全身の力が抜けていく。唇に伝わる柔らかな感触と、悪役(ヒール)特有の甘い香水の匂い。
「ケケケ、反則無しの試合って約束は破ってないぜ。試合のゴング、まだ鳴ってないからニャ」
御子柴は唇を引き剥がすと、真っ赤になって立ち尽くす三郎太を見上げ、勝ち誇ったように舌を出した。その内面では、一連の事件を引き起こした末の自らの計画のクライマックス──そのリング上へ、ついに三郎太を引きずり込めた悦びにうち震えていた。もうすぐだ。もうすぐ。
『リップロックぅ…ッ!? なんということだーっ! ゴング前の奇襲は、なんと熱烈なディープキス! 三郎太、あまりの衝撃に膝から崩れ落ちそうだーっ! ラスカルさん、ルール厳守デスマッチですよね? 今のはどう見ても反則と思われますが!?』
『……ゴングが鳴っていないので、そのデスマッチがまだ始まっていない』
『たしかにそうですが、だからといってなんたる暴挙! 現に観客席後方ではライジング雫がパイプ椅子片手に乱入しようとして、シロオニ・ベスに羽交い絞めにされて止められております! こんな風紀を乱す行いを許していいのか!?』
会場の騒然とした空気、そして放送席や関係者たちの混乱。それらすべてを置き去りにするように、乾いた金属音が響き渡った。
カーン!
『あっ、今ゴングが鳴りました、試合開始です!』
『……ウス』
試合開始の合図とともに、三郎太の表情が瞬時に切り替わった。先ほどまでの狼狽を力ずくで押し込み、獲物を狙う猛牛のような踏み込みを見せる。対する御子柴も低い構えで応戦するが、三郎太の熱視線を孕んだ圧力は、彼女の予想を上回っていた。がっちりと組んで間もなく、御子柴のかけていた力が巧みにコントロールされ、体勢を崩されてしまう。つんのめって重心が泳いだ瞬間、三郎太の太い腕が御子柴の首をヘッドロックに捕らえた。
「なんでなんだ、紅子ちゃん……いや、御子柴紅子!」
三郎太の声は、怒りよりも悲痛な問いかけに近かった。
「なんでも何もないニャ! 三郎太は善玉(ベビーフェイス)で、オレは悪役(ヒール)ってだけの話じゃねーか!」
御子柴は三郎太の脇腹に拳を叩き込み、一瞬の隙を突いてヘッドロックを強引に振り払う。そのままロープへ飛び、跳ね返る勢いを利用して空中で身を翻した。鮮やかなフォームのドロップキック。三郎太の顎を的確に撃ち抜き、その脳を揺さぶる。だが、三郎太は倒れない。ふらつく足取りのまま、倒れ際の勢いを利用して御子柴の頭部を抱え、キャンバスへ投げ落とすように叩きつけた。マットに沈んだ彼女の背後に回り込み、太い腕を首元へ深く、深く滑り込ませる。
「そうじゃない! なんであんな小細工をしたかって聞いてるんだ!」
三郎太のスリーパーホールドは、単なる肉体への攻撃だけではなかった。なぜ、それほどの実力を持ちながら、反則や挑発といった「濁り」で自分を塗りつぶそうとするのか──そう問いかけるような、あまりにも純粋な声だった。その真っ直ぐすぎる疑問が、御子柴の胸を締め付ける。
「大事な女をダシにされて怒ったかよ、三郎太ァ!?」
御子柴は苦悶の表情を浮かべながらも、わざとらしく卑俗な言葉を吐き捨てる。締め上げられたまま、逆に三郎太の顔へ自分のつま先を叩き込むという、泥臭いグラウンドトーキックで窮地を脱した。驚異的な柔軟性と、恐るべき脚の可動範囲だった。
「違う!」
三郎太は叫んだ。立ち上がろうとする彼に対し、御子柴は追撃のローリングソバットを放つ。鋭い回転から繰り出される蹴り。しかし、三郎太はそれを読み切っていた。空中でその足を両手でがっしりとキャッチし、捕らえた両脚を小脇に抱え込んだまま、彼女の体を力任せに裏返す。
「ぎぃっ!?」
三郎太の得意技の一つ、逆エビ固めが炸裂する。体重を乗せた、一切の慈悲もない腰への圧迫。御子柴の背骨が悲鳴を上げ、彼女の顔が苦痛に歪む。
「ぐ……だ、大事じゃないとかひどいニャア?」
「茶化すな! 普通に挑んでくれればよかったって言ってるんだ!」
三郎太の言葉は、御子柴が最も触れられたくない核心を突き刺していた。善玉として芽が出ず、逃げるようにメキシコへ渡ったあの日々。自分を否定して作り上げた「ガータ御子柴」という鎧。それを、目の前の男は、たった数分の攻防で剥がそうとしている。
「へっ……予想はしてたけど……まともにヤりあうとエラい強さだニャ……!」
御子柴は震える腕でマットを掻いた。三郎太のパワーは、かつての同期時代とは比べ物にならないほどに磨かれている。必死に指を伸ばし、あと数センチのところにある赤いロープを掴もうと、泥臭くマットを這い続けた。その指先がロープに触れた瞬間、彼女の瞳には、三郎太への期待と不安、そしてどうしようもないほどの歓喜が混濁していた。レフェリーの制止により、三郎太は名残惜しそうにその足を放す。御子柴は荒い息をつきながら、自身の腰を叩いて痺れを散らす。三郎太は攻撃の手を緩めない。決着をつけるべく、ロープ際で立ち上がろうとする御子柴に向かって猛然と走り出した。対角線からの勢いを乗せ、高く跳躍する。空中で身体を反転させ、その両足に全体重を乗せた追撃のドロップキックを放つ。
だが、御子柴の紅色の瞳が怪しく光った。直撃の瞬間、彼女はマットを滑るようなスライディングでその場を離脱した。目標を失った三郎太の足は虚空を蹴り、勢い余った彼はそのままキャンバスへと落下し、自爆してしまう。
「ようやく反撃のチャンスだニャ」
御子柴は不敵に笑う。悶絶しながら起き上がろうとする三郎太の背後から、しなやかな豹のような動きで飛びついた。その細いながらも鍛え上げられた両脚が、三郎太の頭部をがっちりと挟み込む。自身の身体を螺旋状に回転させ、遠心力を乗せて三郎太をマットへ叩きつけた。ヘッドシザースドロップだ。
「ぐぅっ!?」
三郎太が後頭部を強打し、大の字になる。御子柴は立ち止まらない。流れるような動作でコーナーポストへと駆け上がる。普段の反則三昧なファイトスタイルで見落とされがちだが、彼女の身のこなしはメキシコで培われた一級品の「空中殺法」のそれだった。コーナーの頂点に立った彼女は、あおむけで苦しむ三郎太を見下ろし、妖艶に微笑む。
「そらいくニャ、その胸に飛び込ませて〜ん♡」
重力を味方につけ、御子柴の身体が宙を舞う。空中で体を反転させ、背中から三郎太の胸板へと落下する圧殺技──セントーンが完璧に決まった。
「ごふっ!?」
肺の中の空気をすべて吐き出させるような衝撃。三郎太が苦悶に顔を歪めた瞬間、御子柴はその巨体をジャックナイフホールドで丸め込んだ。橋のようにしなる彼女の身体が、三郎太の肩をマットに縫い付ける。
「ほら、レフェリー、はよ数えるニャ! どぉした三郎太ァ? 決まっちゃうのかニャ?」
御子柴の挑発的な声が響き、レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー!」
「……まだだぁっ!!」
三郎太は渾身の力でその身体を跳ね除けた。カウント2でのキックアウト。期待通りの粘りに舌打ちしつつも、内心ではほくそ笑む御子柴は、強引に三郎太を立たせようとその黒髪を掴み上げる。しかし、それこそが三郎太の狙いだった。立ち上がる勢いを利用し、三郎太は御子柴の脇に自身の腕を潜り込ませ、瞬時に彼女の背後へと回り込む。複雑に腕を絡ませ、自らの身体を彼女の四肢に巻き付けた。
「ぐ……っ!」
コブラツイスト。伝統的な拷問技が、御子柴の華奢な身体を容赦なく捻り上げる。三郎太の剛腕が彼女の脇腹を圧迫し、首を強引に横へと曲げさせた。
「んぁっ♡ はぁ~んっ♡ 三郎太ぁ、もっとぉ♡」
だが返ってきたのは悲鳴ではなく、甘く、ねっとりとした嬌声だった。苦痛の中に悦びを見出す彼女の特異な性質が、この極限状態で色濃く溢れ出す。頬を紅潮させ、紅色の瞳を潤ませながら、御子柴は身悶えた。前回の試合の彼だったなら、ここで技を緩めてしまったかもしれない。
だが今日の三郎太は、まったく動揺しなかった。
「ああ、存分に味わってくれ! うらぁ!」
御子柴の瞳が驚きに見開かれ、予期せぬ強烈な痛みに演技でない素の声が漏れ出てしまう。
「あっあっ♡ ちょっ……そんな激し……あがっ!?」
一方で実況席からは困惑の叫びが上がっていた。
『がっちり極まったーっ! 三郎太、逃がさない! しかし、これだけ絞め上げられながら、御子柴選手の口からは苦悶というにはあまりに不穏な、甘い声が漏れ続けております! ラスカルさん! これ、放送して大丈夫なやつですか!? おかずとして録音してる観客とか出そうで心配なんですが!?』
隣で無言を貫いていたラスカル石井が目を見開き、ようやく、絞り出すように呟いた。
『……そうか、三郎太だけは本当の彼女を見ていたのか』
『え……?』
リング上、三郎太は御子柴の耳元で、静かに、しかし鋼のような硬さを持った声で囁き始めた。
「……白状すると、実のところ君が反則するのは別に構わないんだ」
その言葉に、悶絶していた御子柴の身体が一瞬、凍りついたように動揺を見せた。何を言っているのか理解できなかった。反則が嫌いだからこそのルール厳守デスマッチではないのか?
「けど、前の試合。君は試合運びのための反則ではなく、試合を壊すために反則をしていた」
三郎太の言葉は、御子柴の「悪役のガータ」という防壁を一枚ずつ剥がしていく。猛烈にこみ上げる嫌な予感に、御子柴は戦慄していた。
「な、にを……!?」
「君は反則無しでもこんなに強いじゃないか! なら、何を恐れてるんだ! 何を気にしているって言うんだ!?」
それは、かつて挫折し、自分を偽る道を選んだ彼女への、最も残酷で、最も慈愛に満ちた弾劾だった。三郎太は、彼女が自分自身の価値を信じられず、安易な悪に逃げ込んでいることを、その肌を通じて見抜いていたのだ。
「ぁ……」
御子柴は反論の言葉を失った。剥き出しにされたのは、見透かされることへの恐怖と、ようやく理解されたことへの、震えるような歓喜だった。その一瞬の空白を、三郎太は見逃さなかった。コブラツイストのクラッチを解くと同時に、正面から御子柴の腰に深く腕を回し、彼女の脇に自らの頭を滑り込ませる。
「誤魔化さないで全力でぶつかってこい、御子柴紅子!!」
必殺のノーザンライトスープレックス。三郎太の鍛え上げられた背筋が、美しい弧を描く。動揺のあまり抵抗を忘れた御子柴の身体は、三郎太の気迫と共に、リングのキャンバスへと突き刺さるように投げ飛ばされた。三郎太は、あえてホールドによるピンフォールを狙わなかった。投げっ放された勢いのまま、御子柴の体はマットの上を転がり、苦悶の呻き声を漏らす。
「……ぐ、うぅ……っ!」
肩で息をしながら、三郎太は倒れ伏したまま呻く彼女に歩み寄る。勝負を決めるためではない。彼女の真意を、その歪んだ仮面の下にある素顔を、さらに引きずり出すために引き起こそうとしていた。だが、その手が彼女の肩に触れようとした瞬間だった。
「……なんだそれ、何言ってるのかわかんねえよ!!」
御子柴が跳ね起きた。いや、それは起き上がりというよりも、獣が罠から逃れようと暴れる動作に近かった。手加減はしていなかった。三郎太が試合で数々の相手を葬った必殺技を受けて、彼女は地力だけで耐えきったのだ。やはり、と三郎太の中で得心がいく。しかし、その内心の納得の代償は苛烈だった。引き起こそうとした三郎太の頭を、御子柴は両手でがっしりと鷲掴みにすると、そのまま懐へと強引に引き寄せた。
「がっ!? ぐぉっ!?」
膝地獄の鈍い打撃音が連続して響く。御子柴の鋭角的な膝が、無防備な三郎太の鳩尾へと次々に突き刺さる。一発、二発、三発……それは技術や呼吸を無視した、ただひたすらに感情を叩きつけるような乱打だった。腹の底から空気を絞り出され、三郎太の意識が白濁していく。御子柴の瞳もまた焦点が定まっていなかった。見透かされたことへの恐怖、図星を突かれた恥辱、そして封じ込めてきた“紅子”としての感情が奔流となって溢れ出し、彼女自身を混乱の渦に突き落としていた。決してノーザンライトスープレックスのダメージが軽いわけではないことを思えば、これは感嘆に値するタフネスだった。
「ハァ、ハァ……!」
十発近い膝蹴りを叩き込まれ、三郎太が前のめりに崩れ落ちかける。御子柴はその頭を離さず、朦朧とする彼の体を引きずるようにしてコーナーポストへと向かった。三郎太をトップロープに座らせると、自らもふらつく足取りでコーナーを登っていく。その背中は、観客が見慣れたヒールの不敵なものではなく、追い詰められた少女のそれだった。
「あー、全力でヤられるつもりだったのにニャー……。……もういい。……終わらせてやんよ」
コーナー最上段。御子柴は三郎太の首を捕らえ、自身の体を密着させる。彼女の必殺技、アビスキャットドライバーの体勢だ。コーナー上という高高度から二人分の荷重で相手をマットに叩きつける、危険極まりない雪崩式のフィニッシャー。だが、技に入ろうとする彼女の叫びは、勝利への渇望ではなかった。
「オレを……オレを見透かすなぁぁあああああ!!!」
悲鳴にも似た絶叫とともに、御子柴が宙を舞う。三郎太の体を道連れに、重力に身を任せて落下していく。前回試合においてこの技は一発で三郎太の意識を刈り取った。このまま決まれば、三郎太のKOは必至。そうすれば試合は終わる。彼女の計画とは正反対に、「悪役」としての勝ち逃げで幕を閉じてしまう。正義の善玉たる三郎太と互角の戦いの中で悪として散る、そのための布石も何もかもお終いだ。だが、それでも御子柴の荒れ狂う感情は、もう抑えが利かなかった。
だが、三郎太の瞳から光は消えていない。落下の刹那、彼は残された力を振り絞り、自身の脚を伸ばしてコーナーマットを蹴りつけた。
ドンッ! とリング上に蹴打音が響くほどの渾身の一発。
「偽るなぁ!」
三郎太の魂の叫びが響く。コーナーを蹴った反作用で、二人の落下軌道が大きく乱れた。垂直に突き刺さるはずだったエネルギーは横方向へと分散し、必殺のドライバーは不完全な形で崩れ去る。
「!?」
リングが悲鳴を上げ、二人の体が同体となってマットに叩きつけられた。受け身も取れない無防備な落下。両者ともに大ダメージを受け、コーナー下のマットに転がり動かなくなる。
会場が静まり返る。レフェリーが慌てて駆け寄り、二人の様子を覗き込む。ダブルノックダウンか。そう思われた次の瞬間、ゆらりと影が動いた。
三郎太だ。全身を襲う激痛に顔を歪めながらも、彼はロープを掴み、震える膝に力を込めて立ち上がろうとしていた。そして、その対面では御子柴もまた、手負いの獣のようにゆらゆらと上体を起こしていた。だがその目はギラギラと輝きながらも焦点を正しく結んでおらず、本能だけで体を動かしているようだった。
「ハァ…ハァ…誰が何と言おうと、僕は僕である事を諦めない!」
三郎太は叫んだ。それは自分自身への誓いであり、目の前の迷える「同期」へのメッセージでもあった。彼は最後の力を振り絞り、ふらつく御子柴の懐へと飛び込む。三郎太の右肘が、かすかに青白い光を帯びたかのように見える鋭さで御子柴の胸板を貫いた。
「ご……ふ…」
渾身のファイナルエルボー。技術も派手さも置き去りに、ただひたすらに練り上げられた気迫の打撃。その一撃は、御子柴の肉体だけでなく、彼女が纏っていた虚飾の鎧をも粉砕したようだった。御子柴の膝が折れる。だが、三郎太は彼女を倒れさせない。崩れ落ちようとする彼女の背中に回り込み、その腰を両腕で抱え込んだ。その体勢に、薄れゆく意識の中で御子柴は既視感を覚えた。あれは、いつだったか。まだ「ガータ御子柴」になる前。純粋にプロレスに憧れ、善玉としてリングに立っていたデビュー戦。あの時、彼女が必殺技として選び、そして仕留めきれずに敗北のきっかけとなった技。
「君も諦めないで……欲しい……」
三郎太の囁きが、優しく耳元を掠める。次の瞬間、世界が反転した。三郎太はブリッジを描きながら、御子柴の体を後方へと投げ捨てた。派手な装飾も、複雑な回転もない。ただのバックドロップ。プロレスラーが最初に覚え、そして最後に帰ってくる、最もシンプルで、最も誤魔化しのきかない技。御子柴の背中が、後頭部が、マットに打ち付けられる。その衝撃の中で、彼女は見たかもしれない。かつて自分が夢見た、真っ直ぐで、泥臭くて、けれど輝いていた自分自身の姿を。三郎太のブリッジは崩れない。美しいアーチを描いたまま、彼は御子柴の体をホールドし続ける。御子柴の意識は完全に闇へと落ち、返事をする力も残されてはいなかった。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
ゴングの音が、会場の空気を震わせた。
『決まったぁ! 御子柴、完全沈黙! なんと決着技はただのバックドロップ! 数ある技から敢えてこれをチョイスした三郎太には、なにやら考えがありそうですが……なんということでしょう、解説席が空です! 男ラスカル石井は後輩を介抱するため、リング上へ駆け出してしまっております……! よってこの事情を私が聞き出す術はございません! 放送をご覧の方々には申し訳ない気持ちでいっぱいであります! ねぇ、プロデューサー! あの人もう二度と解説に呼ばないで下さい!?』
実況の絶叫に対し、放送席に近い観客席からは容赦のない声が飛ぶ。
「実況泣くなー!」「お前は頑張った……さぁ、放送局へお帰り……」「いいぞもっとやれ!」「いや草w」
画面の向こう側の視聴者と、目の前の観客。その双方から弄られながらも、彼は涙目で職務を全うしようとマイクを握りしめていた。
そんな喧噪が遠くに聞こえる中、三郎太はゆっくりと体を起こした。勝利を誇示するように拳を突き上げることも、観客にアピールすることもしない。彼はただ、マットに沈んだま ま動かない御子柴の姿を静かに見下ろしていた。その表情は、激闘を制した勝者のものではなく、長い対話を経てようやく想いを伝え終えた友人のように静謐だった。
「……」
やがて、ラスカル石井がリングに駆け込み、倒れている御子柴を抱き起こす。自分の仕事を忘れたわけではない。それでも彼はリングへ走るしかなかった。かつて御子柴紅子が空回りの末に絶望の迷路に落ちた時、彼は彼女を救えなかった。指導担当でありながら。やがて彼女は逃げるようにメキシコ修行の話に飛びつき、日本を離れてしまう。団体の決定に異を唱えることはできなかったし、止めたところで対案などありはしなかった。その果ての試合がこれだ。こんなことが償いになるなどとは思わないが、それでもラスカルはこの場に駆けつけなければ自分を許せなかったのだ。
「……御子柴! ……御子柴紅子!」
リングドクターも慌ただしく入ってくる。気つけの処置を受け、しばらくして御子柴の瞼が微かに震えた。
「う……ん……」
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと周囲を彷徨い、バツが悪そうにラスカルから目をそらし……そして目の前に立つ男の姿を捉える。三郎太は、逃げずに彼女を見つめ返していた。御子柴の脳裏に、試合中の言葉が蘇る。
「君は反則無しでもこんなに強いじゃないか」
「誤魔化さないで全力でぶつかってこい」
彼女は、ラスカル石井の腕に支えられながら、震える唇を開いた。そこにはもう、ヒールとしての毒気も、虚勢もなかった。ただ、一人のプロレスラーとしての、あるいは一人の少女としての不安だけがあった。
「……また……まだ、オレと試合(ヤ)ってくれる?」
意識はまだ朦朧としている。それでも彼女は、怯えるような目で、答えを求めていた。もし拒絶されれば、今度こそ自分は立ち上がれないかもしれない。そんな恐怖が見え隠れしていた。
三郎太は、汗に濡れた顔を少しだけ綻ばせた。それは、彼女の不安を解きほぐすような、穏やかで真っ直ぐな表情だった。だがその表情はすぐに、口をまっすぐに引き締めた厳しいものへと戻る。
「……小細工なしの、まっとうな試合なら、いつでもお相手するよ」
その一言を残し、三郎太は踵を返した。背中を向けてロープを潜り、静かにリングを降りていく。花道を歩き去る彼の背中は、以前よりも少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。
御子柴は、ズキズキと痛む体の感覚と、心の奥底に灯った温かな残り火を噛みしめながら、いつまでもその背中を目で追っていた。屈辱的な敗北のはずなのに、彼女の頬を伝う涙は、どこか清々しかった。