「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
リング上には、強烈な圧殺攻撃の余波によって三つの肉体が重いダメージを負い、キャンバスに這いつくばっていた。混迷のトリプルダウン、レフェリーがダウンカウントをとるか迷う中、最初に立ち直ったのはリカルドだった。若きメキシコ代表は、持ち前の驚異的なバネとルチャドールとしての本能で、いち早くその身を翻して立ち上がった。褐色の肌に汗を光らせながら、彼はまだ膝をついて頭を振っているクロエ・スネグーラチカの背後へと俊敏に忍び寄る。腹に受けた衝撃から立ち直れず、いまだ咳き込み、口の端から涎を零して悶えるクロエの腕を掴んで無理やり引き起こすとロシアの戦闘マシーンが完全に体勢を立て直すよりも早く、リカルドはその細い首を自らの肩口へと強引に抱え込んだ。そのまま彼女の腕を掴み、相手の身体を半ば引きずるような恐るべきスピードで、最寄りのコーナーポストへと向かって猛然とダッシュする。
「ボクだってヤられっぱなしじゃないヨ!」
リカルドは八重歯を覗かせて叫ぶと同時に、セカンドロープ、そしてサードロープへと軽やかなステップで駆け上がった。コーナーポストを蹴り上げる反動を利用し、空中で美しく弧を描きながら自身の身体を後方へと宙返りさせる。その遠心力と落下の重力加速度のすべてが、首を固定されたクロエの肉体へと伝達された。
「くっ……これは……」
精緻にして豪快な「不知火」が、完璧な軌道を描いて炸裂。鈍く重い音がリングに響き渡る。クロエの後頭部から首すじにかけてが、キャンバスへと無慈悲に叩きつけられたのだ。
「ぐはッ!?」
冷徹な計算とプログラムで制御されているはずのクロエの脳髄が、激しい脳震盪によって大きく揺らぎ、悲鳴のような声が漏れる。強烈な一撃を受けた彼女の身体は、受け身をとることもできずに跳ね返り、そのままマットの上へと力なく崩れ落ちた。
最大の脅威であったクロエを沈めたリカルドは、休む間もなく、すぐさま次なる標的へと振り返った。そこには、全身──とりわけ四肢に大ダメージを受けてしまいダウンしたまま、うつ伏せで荒い息を吐いている赤ずきんの姿があった。
リカルドは疲労の滲んだ吐息を荒くつきながらも赤ずきんの元へと近づくと、うつぶせの彼女を跨ぐようにして、その両足のつま先を、自らの両脇の下へと深く潜り込ませてガッチリと挟み込んだ。さらに、倒れている彼女の両腕の手首を、力強く掴み取る。メキシコの伝統的な複合関節技の始動体勢だ。リカルドは自らの背筋と脚力を一気に解放し、うつ伏せの赤ずきんの身体ごと、力任せに立ち上がった。
「あぐっ!?」
赤ずきんの肉体が、キャンバスから完全に宙へと吊り上げられる。両足と両腕を上方へと引っ張られ、腹部だけが下を向いた状態で、背骨が限界まで弓なりに反らされる。恐るべきジャベ、「カンパーナ(釣鐘固め)」が完成した瞬間だった。リカルドは腰を落とし、吊り上げた赤ずきんの身体を、まるで本物の釣鐘を鳴らすかのように、前後に大きく揺さぶり始める。
「いっぱいヤられたお返しするヨ! ホラホラ、こうして揺らすとお姉サンのおっぱい揺れてみんな喜ぶヨ!」
悪意のない、しかし品も無い無邪気な少年の残酷さが、ドーム全体に響き渡る。大きく前後に揺さぶられるたび、赤ずきんの背骨はメキメキと悲鳴を上げ、肩の関節が外れんばかりに引き伸ばされる。それは先ほどの「エンドレス・ウィンター」で責め立てられた部位に他ならない。威力自体はそれに及ばないが、じわじわと痛めた部分に負荷をかけられ、赤ずきんの表情が歪む。……そしてついでに、リカルドの言葉通り、重力と遠心力に翻弄される赤ずきんの豊満な胸元は、衣装に抑えられてなお、激しく波打っていた。
観客たちから「おぉ……!」と感嘆の色が混じる声がどよめき、怒声と口笛がそこに僅かに混じる。
「ひーん!? く、屈辱……ッ!? いたたた!?」
肉体を軋ませる激痛と、大観衆の面前に揺れる胸を晒されている恥辱に、赤ずきんはその顔を真っ赤に染めて涙目状態だ。暴れて脱出しようにも、手足の自由を完全に奪われ、宙に浮いた状態ではどうすることもできない。息も絶え絶えの状態で、エスケープのロープも遠く、彼女はただ耐えるしかなかった。
しかし、この変則的な戦場において、一対一の拷問に酔いしれることは致命的な隙を生じる。彼らの背後でマットに倒れ伏していたはずのクロエが、ふらつきながらも身を起こしていた。「不知火」による深刻なダメージは彼女の肉体に確実に蓄積していたが、自ら凍てつかんとする彼女の激情は、その苦痛すら凍り付かせて、彼女を再び戦闘マシーンとして再起動させていたのだ。青銀色の瞳が、カンパーナの維持に夢中になっているリカルドの無防備な背中を冷酷に捕捉する。クロエは這うようなダッシュで手近なロープへと向かう。サードロープを強く蹴り込み反転、その反発力を利用して一気にトップスピードへと加速する。十分な助走を得たクロエは、リカルドに向けて低空で鋭く跳躍した。空中で自らの両腕を頭の先で真っ直ぐに揃え、全身をきりもみ回転させる。さながら人間ドリルと化したその突撃は、彼女が新たに編み出した恐るべき突進技だった。
「新アーツテスト、ターゲット補足……! 食らえ!『グレイシア・ブレーカー』!」
クロエの放ったその身を氷河割り砕く衝角と為す新技、「グレイシア・ブレーカー」が、カンパーナで赤ずきんを吊り下げていたリカルドの背中へと、スピン気味に直撃した。
「ガは……ッ!?」
背中をらせん状に力の乗った両拳で打ち据えられ、まるで巨大なハンマーで叩き割られたかのような絶大な衝撃が、リカルドの小さな身体を貫いた。肺の中の空気が一瞬にして弾け飛び、彼の腕と脇から完全に力が抜け落ちる。カンパーナの拘束が解け、赤ずきんはドサリとキャンバスへと落下して咳き込んだ。一方、背後から急襲を受けたリカルドの身体は前方へと無様に吹っ飛び、顔面からマットへと激突した。
「ちょ……痛すぎるヨ……!? あがが……!?」
先ほどまでの生意気な態度は見る影もなく、リカルドはキャンバスに突っ伏したまま、砕けそうな背中の激痛に涙を流してのたうち回る。カンパーナの拷問は解除されたが、リング上の混沌はさらに深まるばかりだった。
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包まれる東京ドームのリングと客席を包む熱気と喧騒から離れ、静寂に包まれた大会大医務室。そこには、激闘の裏側で流れるもう一つの時間が存在していた。真っ白な壁と消毒液の匂いが漂う部屋の中央で、大会主任医師の一人である女医が、手際よく治療を終えたところだった。ベッドに腰掛ける患者の頭部に巻かれた包帯の具合を最終確認する。
「ほい、これでOK」
女医が軽く肩を叩いて処置の完了を告げると、ベッドに座っていたシロオニ・ベスは静かに頭を下げた。準決勝で愛する三郎太との決戦で死闘を繰り広げた末に、全力を出し尽くして見事敗れた彼女だったが、その瞳の奥にはまだ消えぬ炎が宿っている。「君となら何度でも戦いたい」と言われた時の彼の僅かに頬を染めた顔を思い出すと今でもベスは胸の奥が熱くなる。これまで一方的に思いを告げるばかりだった心がついに通じ合った気がした。
次はどんな手で裏をかこう。次こそは必殺技(フェイバリット)の際にちゃんと周囲を見て位置を確認して繰り出そう。いや、新技を模索すべきか? 脳裏に次々に戦闘シミュレートが浮かび、彼女の頬が熱く上気する。って、お前さぁ……。それでいいのか? いいのか……いいならいいんだ。
「ありがとうございます。あの……三郎太の所へは?」
自分を打ち破った三郎太の決勝戦。その大舞台の結末をせめて近くで見届けたいという彼女の切実な願いだった。しかし、女医は白衣のポケットからココアシガレットを取り出して咥えながら、冷淡に首を横に振った。
「だーめ、上のエライさん方から『準決勝敗者は決勝のリングに近づけるな』って言われてるんでね。それにキミはかなり激しく頭を打ったんだ。診た所、大したことはなさそうだが、決勝戦終わりまでは此処で安静にしてなさい」
敗者がリングサイドで不測の事態を起こすことを警戒する、大会運営側の厳格なルール。プロレスという巨大な興行を守るための冷徹な判断だった。理不尽ではあるが、医師の指示と大会の決定には逆らえない。だが、一方で決勝戦終わりまでと暗に表彰式以降なら行ってもいいよと示している女医の言葉に、配慮も感じる。ベスは膝の上で拳を強く握りしめ、悔しさを押し殺してうつむいた。理解はできる。
「……仕方ありませんね」
割り当てられたベッドに引き下がりつつも、モニターの映像に気を取られているベスを見て、女医は即座に大医務室に備え付けられた壁面モニターの音量をオンにした。静かな医務室に、突如としてリング上のエキシビジョンマッチの歓声と実況が鳴り響く。女医は咥えたココアシガレットを揺らしながら、画面の中で繰り広げられる3wayマッチの攻防を食い入るように眺め始めた。その隣でカルテを整理していたもう一人の主任医師、永久寸(とわすん)は、サボり癖のある同僚の様子に呆れたように苦笑しながら呟いた。
「これで残るは今やってるのを含めて4試合か」
女医は、モニターから目を離さないまま面倒くさそうに訂正を入れる。
「最終日のファン感謝祭もあるから残り4試合というのは正確ではないね。主任サマ」
自分と同じ役職を持つ彼女の軽口に、永久寸は肩をすくめた。
「確かに……って、おいおい。君も主任だろう」
「ん? ……ああ、そういえばそうだったな」
自分が医療チームの責任者の一人であることすら忘れていたかのような飄々とした態度に、永久寸はため息をつく。自身が巻き込まれることになったイタリア代表が引き起こした毒の騒動など、予選リーグからこちら激務が続く大会の中で、彼女のこのマイペースさはある意味で頼もしくもあった。
「全く。しかし、君がそんなにプロレス好きとは知らなかったぞ」
「まぁ、興味のない奴に趣味の話をしてもいい事は何一つないからねぇ」
女医はあっけらかんと答えた。まぁ、確かにそれもそうかと、内心で一人ごちる。永久寸はプロレスというジャンルには全く疎い。モニターの中で倒れ伏す三人のレスラーを見つめながら、彼は素朴な疑問を口にした。
「この3WAYマッチというのはどう勝ち負けを決めるものなんだ?」
「ん-、誰か一人が勝利条件を満たせば勝ち、だね」
女医の簡潔な説明に、永久寸は顎を撫でながら納得したように頷く。
「なるほど、それでさっきまで二人がかりで攻めていたのに、今はフォールを妨害しあっているのか……」
医学の論理とは全く異なる、しかし確かな計算と駆け引きが存在するリング上の戦い。モニター越しに映し出されるクロエ、赤ずきん、リカルドの三つ巴の死闘は、門外漢の永久寸の目から見ても、全く先の読めない混沌の領域へと突入しつつある。無意識ながら、少しだけプロレスというエンターテインメントの魅力を理解しようという姿勢を見せ始めている永久寸を横目に見て、女医は意外そうに目を細めた。
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リング上を包み込む熱気と大歓衆の絶叫が空気を激しく震わせていた。リカルドによる猛攻の余波から完全に立ち直り、冷徹な仁王立ちで戦況を支配するクロエ・スネグーラチカの姿、その圧倒的な佇まいに、実況アナウンサーの声がいっそう熱を帯びる。
『ここでクロエ・スネグーラチカが試合の主導権を完全に握った!』
解説のキンタロウが落ち着いたトーンのまま、しかし鋭いプロの視線で言葉を重ねた。
『リカルド君もルチャのジャベや空中殺法の思い切りの良さは大したものだが、地力ではやはり他の二人と比べると一枚落ちる所があるね』
その冷静な分析の通り、リング中央でのリカルドの消耗は深刻だった。クロエが放った急襲の新技――グレイシア・ブレーカーによって背骨へとダイレクトに叩き込まれた絶大な衝撃は、いまだ彼の小さな身体を苛み続けている。天性の敏捷性と高い技量でここまで渡り合ってきたリカルドだったが、強豪ひしめく過酷なリングにおいて、純粋な肉体の耐久力の差が、ここへきて残酷なまでの溝となって現れ始めていた。
クロエは荒い息をついて身じろぐばかりで起き上がれないらしいリカルドを一瞥したあと、ゆっくりと視線を巡らせる。その先には、激しい呼吸のままキャンバスに膝をついている赤ずきんの姿があった。赤ずきんもまた、これまでの目まぐるしい三つ巴の乱戦によって、体力の大部分を激しく削り取られているのは明白だった。「エンドレス・ウィンター」と「カンパーナ」によって彼女は四肢を痛めている。この状態なら邪魔はできまい。クロエは試合を決める好機と判断した。
『赤ずきん選手もかなり消耗しています! おおっと、ここで「アイシクル・パイルドライバー」の構えだ、これはクロエ・スネグーラチカが決めるか!?』
クロエの狙いを推し量るような実況アナとキンタロウの会話がドーム内に流れる。
『赤ずきん君はあれでかなり頑丈のようだが……さて、どうなるか』
クロエは引き起こしたリカルドの細い両腕を強引に背中の後ろで捉え、リバースフルネルソンの体勢へと完全にロックした。逃げ道を完全に塞がれたリカルドの身体が、クロエの強靭な背筋によって、軽々と垂直に宙へと抱え上げられる。
「貴方を放置したのはミスでした。ここで沈めます」
冷徹な戦いへの意志が、感情を排した平坦なトーンのままリカルドの耳元へと届けられる。逆さに吊るされ、自らの血が頭頭へと上っていく恐怖の中で、リカルドは必死に細い手足をばたつかせたが、クロエの冷酷な鉄のホールドは微塵も揺るがない。
「ちょっ……待っ……ぐぎゃ!?」
命乞いのような叫びは、無慈悲な重力の落下衝撃にかき消された。クロエは自らの腰を深く落とし、大きく開いた両脚の間へと、リカルドの脳天を垂直に、最大質量をもって突き刺したのだ。すさまじい着弾音が響き渡る。クロエの体重とリカルドの自重のすべてが、一点の淀みもなくリカルドの頸椎へと集中した。氷の柱が脳頭を貫くかのような絶望的な一撃――「アイシクル・パイルドライバー」が、完璧な形で炸裂した瞬間だった。
リカルドの身体は、衝撃でビクンと大きく震えたあと、糸の切れた人形のようにキャンバスへと崩れ落ちた。その目は完全に焦点を失い、白目を剥いて微かに痙攣している。脳震盪の度合いは深刻であり、もはや自力で立ち上がることはおろか、指一本動かすことすら不可能なほどの朦朧状態、事実上の完全な戦闘不能へと追い込まれていた。だが、クロエの手綱が緩むことはない。彼女はマットに沈んだリカルドの横に素早く膝をつくと、その動かない右腕を自らの両脚で挟み込み、コマンド・サンボを思わせる動きで洗練された腕十字固めのクラッチを極めにかかった。しかし、それはギブアップを奪うためのものではない。そのままリカルドの細い両肩をキャンバスへと完璧に縫い付け、自らの身体で覆いかぶさるようにしてフォールを奪う、極めて実戦的な「腕十字式体固め」への移行だった。
「ターゲット戦闘不能。これで終わりです」
勝利のプログラムの完了を告げるかのように、クロエの冷たい声がリング上に響く。レフェリーが猛然とスライディングし、白いマットを激しく叩き始めた。
「ワン!!」
ドーム中を埋め尽くす大観衆の悲鳴が上がる。このままリカルドがスリーカウントを奪われれば、エキシビジョンマッチの勝者はクロエで決着となる。
「ツー!!」
非情なカウントを刻むレフェリ―の腕が勝利を決める三度目へと振り下ろされようとした、そのまさに刹那だった。
「お、終わらせません!」
その絶叫とともに、一筋の赤い影が、文字通り「這うようにして」激闘の渦中へと飛び込んできた。四肢を痛め、体力を消耗し尽くし、満身創痍のはずの赤ずきんだった。彼女は自身の限界を、プロレスラーとしての不屈の執念によって強制的に突破していた。赤ずきんは、フォールに集中しているクロエの無防備な側面に向け、倒れ込むような凄まじい勢いのまま、自らの硬い額を弾丸のように突き出した。計算を凌駕した彼女の底力を目にして、クロエの瞳が驚愕に見開かれる。
肉と骨が激突する、生々しく凄惨な衝撃音がリング中央にこだまする。赤ずきんが放った、起死回生の「赤ずきんヘッドバッド」が、クロエの完全無欠の頭脳が収まる頭部へと側面から容赦なく叩きつけられたのだ。
「痛ゥ……ッ!?」
痛覚を凍らせようと、脳髄を直接揺さぶる頭突きの衝撃までは無効化できない。クロエの青銀色の瞳がぐらつき、その美貌が激痛によって激しく歪む。側頭部を痛打された衝撃で、クロエの身体はリカルドのフォールを維持できなくなり、横へと力なく転がってダウンした。
カウント2.5。レフェリーの手が大きく広げられ、間一髪でのカットが宣告された。ドームを揺るがすような安堵と興奮の歓声が、スタンド席から爆発するように湧き上がる。しかし、赤ずきんには歓声に浸る余裕など一瞬たりともなかった。彼女の呼吸は完全に乱れ、肩は激しく上下し、額からはぶつかり合った衝撃で赤くにじむ汗が流れ落ちている。それでも、ここで攻勢を緩めれば、再びあの氷のマシーンが起動し、すべてを喰らい尽くしてしまうことを彼女自身が一番理解していた。
赤ずきんはふらつく足取りで、頭部を押さえて苦悶しているクロエの元へと力強く歩み寄った。クロエの長い髪とコスチュームを掴み、無理やりその身体を引き起こす。クロエの戦闘脳はいまだヘッドバッドのダメージから100%の回復を遂げておらず、視界が二重にブレる中で、自身の身体が上方へと強引に抱え上げられるのを感じていた。赤ずきんは、自身の全体重としなやかな筋力のすべてをその両腕に込め、クロエの身体を自らの右肩の上へと真っ直ぐに担ぎ上げる。凄まじい怪力、そして何よりも勝利への強烈な飢えが、その肉体を動かしていた。
優しく「負けても良いぞ」と言われて奮起し、優勝候補ローラに食らいつき必死に戦った。それでもなお届かず、涙に濡れながら動かぬ身体でスリーカウントを耳にしたあの戦いの余韻はいまだ赤ずきんの中に残っている。それはこれまでの彼女になかった紅蓮の炎。
(ごめんなさい狼さん、今の私、なんだか滅茶苦茶勝ちたい気分なので……ッ!)
赤ずきんは、背後に控えるトップロープのさらに向こう側、遥か下の場外マットを見据えた。
「こ、根性ぉ~~!」
そして、自らの身体ごと後ろへ倒れ込むようにして、担ぎ上げたクロエの肉体をオーバー・ザ・トップロープの軌道でリング外へと投げ飛ばす、ブレーンバスターを敢行した。それはクロエの強さを信じるが故のあまりに大胆で危険な技だった。
「何……ッ!?」
驚愕に染まるクロエの視界の中で、リングの風景が高速で反転し、ドームのまばゆい照明が遠ざかっていく。このままダイレクトに、何の遮蔽物もなく数メートル下の場外の床へと叩きつけられれば、いかに鍛え上げられた肉体といえど、さらなる致命的なダメージを負うことは火を見るより明らかだ。その絶対絶命の空中落下の最中、クロエの卓越した戦闘頭脳が、超人的な自己防衛システムを火花が散るような速度で即座に算出、稼働させた。
(ダイレクト落下は危険度、高! セカンドロープ ナラ ギリギリ 片手ガ届ク……!)
落下の中で、クロエは驚異的な反射神経で右手を伸ばした。彼女の手が、リングの周囲を囲む頑強なセカンドロープをガッチリと掴み取る。凄まじい握力でロープを保持して場外への完全な真っ逆さまの転落を、間一髪のところで阻止したのだ。しかし――神懸かり的な回避行動の代償は、あまりにも手痛い、そして些か格好のつかない形で彼女に支払われることとなった。
ロープを咄嗟に掴んだことで、クロエの身体の落下の軌道が不自然に歪み、横方向へと激しくブレた。その結果、彼女の無防備な臀部が、リングのエプロンサイドの縁、最も硬く尖ったカドの部分に、凄まじい勢いで激突してしまったのだ。
「きゃん!? し、しまった……ロープを掴んだせいで尻がカドに……うぅ……」
いつもは氷のように冷徹で、感情を一切表に出さないロシアの戦闘マシーンから、およそ試合中とは思えないような、可憐で情けない悲鳴が上がった。お尻を容赦なく襲った尋常ならざる激痛に、クロエの青銀色の瞳からは、一瞬にして大粒の涙がポロポロと溢れ出す。ロープを掴んでいた右手からも完全に力が抜けてしまい、彼女は両手でお尻をしっかりと押さえたまま、涙目でずるずるとエプロンからリング下へと滑り落ちていった。場外のマットに不格好に転がったクロエは、体を丸めて、ただただお尻の激痛に悶絶し、完全に動きを止められてしまう。
氷の戦闘妖精をリング下へと排除することに成功した赤ずきんは、荒い呼吸を繰り返しながら、リングの中央へと視線を戻した。そこには、先ほどのアイシクル・パイルドライバーの絶大な破壊力によって、未だ意識が混濁したまま、呻いたままダウンしているリカルドの姿がある。彼女はふらつくリカルドの元へと素早く駆け寄ると、その腕を掴んで無理やり引き起こし、対角線のロープへと力任せに投げ飛ばした。背中の痛みに耐えながらロープへと激突したリカルドの身体が、その反動によって、赤ずきんの待つリング中央へと力なく跳ね返ってくる。
赤ずきんは残された全ての力を足へと込めた。迫り来るリカルドの肉体を見据え、赤ずきんはキャンバスを強く蹴り上げた。赤と黒に彩られたコスチュームに包まれた彼女のシルエットが、天井照明のまばゆい光を浴びて鮮やかに翻る。宙へと高く舞い上がった彼女の身体は、美しい放物線を描きながら、空中で躍動した。それは、彼女がその血と汗で磨き上げてきた、必殺技(フェイバリット)だった。
「いきますよぉぉ……赤く、染まれぇぇぇっっっ!」
満身創痍の赤ずきんの口から、魂を振り絞るような絶叫がドーム全体へと響き渡る。最高高度に達した彼女の右脚が、真紅の闘気のオーラを纏った獰猛な刃と化して空間を切り裂いた。ロープの反動で戻ってきたリカルドの、完全に無防備な肩口から胴へ、袈裟斬りにするように赤ずきんの渾身の力を乗せたフライングニールキック――「クリムゾン・ニールキック」が、完璧なタイミングで一閃、直撃した。
「ふぎゃー!?」
骨を軋ませるような凄まじい打撃音が、ドームの天井へと突き抜ける。強烈な踵を叩き込まれたリカルドは、空中で身体をねじらせながら、後方へと凄まじい勢いで吹き飛んだ。そのままキャンバスへと激しく叩きつけられて、二度、三度と激しくバウンドしたあと、大の字になって完全に沈黙する。
その凄まじい一撃の破壊力は、観客席のどよめきが証明していた。リカルドは仰向けのまま、ピクリとも動かない。しかし、その必殺技を放った側の赤ずきんもまた、無傷ではいられなかった。痛めた四肢に無理をさせた反動で両脚ともに震えが収まらない。
這うようにしてリカルドの傍らにたどり着いた赤ずきんは、そのぐったりとした右脚を両腕でしっかりと抱え込み、自身の全体重をかけて背中を彼の胸元へと強く押しつけて片エビ固めで抑え込む。その極限の疲労と緊迫感の中にありながらも、彼女はオトギプロレスのレスラーとしての、そして「赤ずきん」としてのアイデンティティを、その乾いた声に込めてドームの空間へと響かせた。
「ハァッ……ハァッ……! こ、こうして狼さんはあかずきんに討伐されてしまいました、めでたしめでたし♪」
滑り込んだレフェリーの手が力強くキャンバスへと振り下ろされる。
「ワン!」
リング下でカウントの声を聴いたクロエは涙で潤んだ瞳をキリリと引き締めると、お尻を襲うジンジンとした激痛を奥歯を噛み締めて堪え、リングのエプロンサイドへと必死に這い上がった。ドームを埋め尽くす全観客が、レフェリーの動きに合わせて地鳴りのような声を上げる。
「ツー!」
クロエはリング内に滑り込んだ。視界の先には、リカルドをがっちりと片エビ固めで抑え込んでいる赤ずきんの姿がある。彼女は必死に右腕を前へと伸ばした。その白い指先が、赤ずきんのもとへ、あと数十センチ、あと数センチというところまで迫る。だが、肉体の損傷による遅延という物理的な壁が、彼女の前に絶望となって立ちはだかる。
「くっ……間に合わない……!?」
彼女の口から漏れた、初めて見せるような焦りと絶望に満ちた叫びが、ドームの歓声にかき消される。レフェリーの手が、無慈悲に三度目の打突をマットへと刻みつけた。
「……スリー!!」
カン、カン、カン、カーン!
終わりを告げるゴングの音が、東京ドームの広大な空間に高らかに鳴り響いた。その瞬間、会場を包み込んでいた爆発寸前の緊張感が一気に解放され、スタンドの地響きのような大歓声がドーム全体を揺るがす。
『入った! スリーカウント入りました! クロエ・スネグーラチカのカットは間に合わず! 3WAYマッチを制したのは赤ずきん選手だぁ!』
実況アナウンサーがマイクにしがみつくような大声で絶叫していた。赤ずきんは勝利のゴングが鳴った瞬間にホールドを解き、そのまま転がってキャンバスへと仰向けにひっくり返る。
『実力ではクロエ君が一番、だが、赤ずきん君のタフネス、リカルド君の爆発力も決して侮れるものではなかった。勝利を掴んだのは赤ずきん君だったが、最後まで誰が勝ってもおかしくない戦いだったね』
解説のキンタロウがふう、と深く息を吐き出し、興奮冷めやらぬ表情でマイクに向かって語る。冷静かつ的確なその分析の通り、この混沌とした3WAYマッチの結末は、実力差を覆すプロレスの奥深さと、それぞれの執念がもたらしたものだった。
勝者となった赤ずきんは、マットに両腕両脚を大文字に広げたまま、ドームの眩しい照明を見上げていた。激しく胸を上下させ、呼吸を整えることすらままならない状態だったが、その濡れた顔には、この上ない充実感の笑みが浮かんでいた。
『クロエ・スネグーラチカ、戦闘マシンの異名の元となる無表情も崩して悔しさを露わにしています! リカルドは……完全に目を回していますね。ともあれ、一回戦敗退の三名によるエキシビジョンマッチ、素晴らしい闘いでした!』
実況が叫んだ通り、クロエの青銀色の瞳には、先ほどのお尻の痛みの涙とは異なる、明確な「敗北の悔し涙」の残滓がにじんでいた。彼女は小さな拳を、悔しそうに何度も何度もキャンバスへと叩きつけた。美しい眉根はきつく寄せられ、唇は血がにじむほどに噛み締められている。鉄壁の無表情は完全に崩れ去り、そこには一人の少女としての、生々しく激しい情念が剥き出しになっていた。ジェニーと戦った時とは違い、計算通りにいかなかった悔しさを素直に発露する姿。それは彼女の中で激情がさらに成長を遂げた証でもある。
そして、その二人の傍らで、完全にノックアウトされたリカルドは、未だ意識を彼方の世界へと飛ばしたままだった。
『なんというか……3WAYマッチらしい面白い結末だった。健闘を讃えよう』
キンタロウが優しく、しかし確かな敬意を込めてそう締めくくると、放送席の音声はドーム内を包み込む万雷の拍手と大歓声の渦へと静かに溶け込んでいった。一回戦敗退という苦杯をなめ、このエキシビジョンマッチに機会を得て、再び戦いに挑んだ三人の若きレスラーたち。彼らの純粋なファイト精神と、最後まで諦めない泥臭い闘いは、ドームに集まったすべての観客の心を激しく揺さぶっていた。
リング上を照らす無数のスポットライトが、三者三様のリング上の選手たちの姿を、どこまでも眩しく、そして鮮やかに照らし出していた。混沌と熱狂の特別試合は、最高の熱量を残したまま静かに幕を閉じ、そして準決勝第二試合の開始の時が迫る。