「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
深紅の照明が会場を切り裂いた。ざわめきが一瞬で凍りつき、観客の視線が花道の一点へと吸い寄せられる。その静寂を破るように、ドヴォルザーク作曲『新世界より(第四楽章)』の金管が咆哮を始める。重厚な弦の刻みが床を震わせ、会場内の空気が一変。眩いスポットライトの光の中、ゆっくりと影が現れた。
ローラ・ザ・チャージ。白いファーが揺れる赤と金の豪奢なガウンをまとい、歩みの一歩ごとに反射光が散る。顎をわずかに上げ、観客席へは時折、流し目で軽く手をあげるサービスをするのみ。その歩みは、さながら戦場に立つ女王の行進のような絶対的な自信に満ちていた。花道の両脇で、心酔するファンたちは熱視線を送る。ローラが通るというだけで空気が歪むような熱狂。ローラは歩みを止めない。ただ前へ。ただ打ち倒し、ただ勝つために。それは誇り高い蹂躙の征進だった。
リングサイドに到達すると、彼女は軽やかにロープをくぐり、リングへと足を踏み入れる。彼女がおもむろにガウンを脱ぐと、赤・黄・白のグラデーションのワンピースコスチュームが露わになり、白く透き通るような肌がライトを反射する。その小柄な体に宿るのは、これまでに踏み越えてきた屍の山、そして叩き潰してきた幾多の想い――それらすべてを背負う者だけが放つ、目に見えぬ王者の重みだった。
ローラは胸に手を当て、英国式の気高い礼をひとつ。しかしその瞳は冷たく、ただ勝利だけを見据えていた。
「There’s no way to lose!(私が負けるわけがないわ)」
その一言が、会場の空気をさらに張り詰めさせる。ローラはコーナーに寄りかかり、静かに試合開始のゴングを待った。
続いて、暗転した会場に猫の鳴き声が落ち、続く不整脈のような低音が赤黒い照明を脈打たせる。サビ直前、三味線が弾けるように鳴り出した瞬間、花道の中央に有名パン屋のロゴが入った紙袋を頭部に被った不気味な影が立つ。黒地に赤ラインのサラペを揺らし、両手にはロックされずにガシャガシャと音を鳴らす木製の古めかしい手枷、そこから伸びる鎖が床を引きずられ、金属音を撒き散らす。影はゆっくりと前傾姿勢で歩き出し、観客のざわめきと声援、そして僅かなブーイングを浴びながら、紙袋の穴から覗く紅い瞳だけが妖しく光る。途中で立ち止まり、その両手から手枷が抜け落ちる。紙袋を掴んで一気に投げ捨てると、黒髪ショートボブと色白の肌、脇腹と胸元を網目に透かした露出度の高い黒と赤のワンピースが照らし出された。ネコミミが揺れ、サラペの裾が翻り、観客たちの混沌たる声を背に、御子柴は腰をくねらせながら残る道のりを踏破、エプロンサイドに辿り着くと、肩からサラペを滑らせるように脱ぎ落とした。ロープをくぐる瞬間にわざと腰を突き出して観客の視線を奪う。紅い瞳がリングを舐めるように見渡し、BGMの三味線演奏が最高潮に達する中、ガータ御子柴はコーナーに陣取り、準決勝の舞台に降り立った。
巨大なアリーナを埋め尽くす熱狂。世界プロレストーナメント、EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦準決勝の第二試合。この大舞台のリングに、太平プロレス随一の問題児、悪役女子レスラー、ガータ御子柴が立っていた。対峙するのは「英国マットの若き女王」ローラ・ザ・チャージ。悠然とコーナー前に立つローラは、華奢な体躯からは想像もつかない威圧感を放っている。
二人をリング中央に呼び寄せたレフェリーはお決まりのルールに関する注意を口にして、最後に余計な一言を付け加えた。
「クリーンに戦うように。特に御子柴」
御子柴の口が三日月のような邪悪な笑みの形を作り、しかしそのまま黙って反論はしない。訝し気にレフェリーが簡単なボディチェックに移る。ローラはすぐに済んだ。だが、御子柴からは早々にメリケンサックに栓抜き、拘束ワイヤーにフォークが出現し、レフェリーは眩暈を覚えて溜息をついた。
「御子柴……全部出しなさい」
「はぁい♪」
両手の上に、チェーン2本、画鋲、レゴブロック、手持ち式電動マッサージ機が乗せられ、死んだ魚の目になったレフェリーは疲弊しきった声で定型句を口にして、両者を一度自陣コーナーへと戻す。
会場は声援と笑い、怒号とブーイングでカオスの様相ながら、そのボルテージだけは最高潮に達していた。リングアナウンサーの声が、館内の空気を強制的に引き締める。
『赤コーナー、英国代表! RCWS所属! ロォーラ・ザ・チャージィ──っ!!』
コールを受けながら、ローラは鷹揚に手を挙げて観客席の民たちの声に応えた。その不敵な笑みは先ほどの凶器提出劇を経ても変化はなく、変わった野良猫が居るなという程度の感慨しか見て取る事はできない。
『──青コーナー、日本代表! 太平プロレス所属! ガァータ・御子ォ柴ァ──っ!!』
割れんばかりの大歓声の中、御子柴は力強く右拳を突き上げてファンの声援に応えた。明らかに先の試合の三郎太を意識したその動きに観客席から揶揄する声があがる。
「Come on, Laura, charge!(さあ行けローラ、突撃だ!)」「Rule the ring, Laura!(リングを支配しろ、ローラ!)」「ローラさまーっ! オレだー! 今日も美しく蹂躙してくれーっ!」
遠路イギリスから駆けつけたRCWSの熱狂的なマニアたちや、彼女の圧倒的な強さと美しさに脳を焼かれた日本のファンたちが、地を震わせるような歓声をリングへと注ぎ込む。
「なにが女王だ、邪悪な反則でそんなプライド破壊してやれーっ!」「御子柴ー! アイツのポーズ丸パクリじゃねえか!」「¡Lleva el orgullo de la lucha libre hasta el final, Gata!(ルチャ・リブレの誇りを最後まで繋いでくれ、ガータよーッ!)」
負けじと御子柴のファンとメキシコ勢を応援していた客たちも声を張り上げた。本戦に残ったルチャ勢であるリカルドとエル・アオルカドが敗退した今、その魂の伝承を受けた生き残りは数年の修行をメキシコマットで過ごした御子柴しかいない。会場内の人気は7:3でローラ優勢であったが、熱量では決して御子柴を応援する者たちも負けてはいなかった。
それら万雷の声に包まれたリングで、両者は視線を叩きつけ合う。決戦の時は間もなくだ。
会場の巨大なオーロラビジョンが、リング中央で一触即発の視線をぶつけ合う二人を映し出す中、放送席では長身男性二人に挟まれて実況アナがどこか息苦しそうにマイクへ声量を叩きつけていた。
『第一試合の熱戦の興奮はエキシビジョンマッチを経てもいまだ冷めやらず! いよいよ第二試合が幕を開けます! 圧倒的な武力で予選を蹂躙し、本戦においても赤ずきん、ボーティス神宮寺と、立ちふさがる日本勢を打ち砕きながら進撃を続ける「英国の絶対女王」ローラ・ザ・チャージ! 対するは、本戦でブラジルのディアナ、メキシコのエル・アオルカドを傷だらけで下してきた、太平プロレスが誇る「カオスの体現者」、ガータ御子柴!』
喋っている内にエンジンがかかってきたのか、響き渡る実況が徐々にテンションを上げ、それが観客席のうねりと連動していく。
『この大一番の解説には、第一試合から引き続き、EQT公式アドバイザーのサカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウさん、そして特別ゲストとして、英国の若手ナンバースリーと目される技術派、ローラ・ザ・チャージと所属を同じくする団体「RCWS」のハーレクイン・ザ・パイドパイパーさんにお越しいただきました!』
実況アナの紹介を受けてキンタロウが「どうも」と挨拶を最小限に留める一方で、反対側に座るタキシードに身を包んでフェイスペイントを施した若手男子レスラーが肩をすくめる。
『ノンノン、ボクなんかがナンバースリーだなんて、よしてくれ。他が折れたというだけでボクはただの売れない道化さ』
そう言ってハーレクインはカメラに向かってシルクハットを軽く持ち上げるような仕草を見せ、端正な顔立ちに軽妙な笑みを浮かべる。
『ハロー、日本の親愛なるプロレスマニア諸君、ご紹介に預かった安っぽい笛吹道化だ。キンタロウさんの隣で解説ができるなんて、ボクのキャリアで一番光栄な悪夢(ナイトメア)だよ』
『……英国紳士のユーモアはトゲがあるね』
キンタロウが苦笑しながら、綺麗に剃り上げた金太郎カットの頭頂部を撫でる。
『さて、この試合、ローラ・ザ・チャージ優勢で下馬評は一色のようですが、いかがですか?』
実況の言葉を受けて、ハーレクインは悪戯っぽい笑みを引っ込め、プロの職人としての鋭い視線を画面のローラへと向けた。
『彼女の強さは本物だよ。ボクはデビュー当時の彼女とタッグを組んでいたからよく知っているけれど、彼女のリングネーム「チャージ」は伊達じゃない。彼女のプロレスは「受けて返す」じゃない。「受けて潰す」だ。フライング・キラーの異名通り、空中殺法使いの天敵でもある。ルチャ使いのミコシバ嬢には苦しい闘いになるだろうね』
フェイスペイント越しでもわかるハーレクインの渋い顔には、「ただ強いだけ」という概念の厄介さを良く知る者の憂鬱が滲んでいた。
『なるほど、元タッグメイトならではの恐ろしい評価です! キンタロウさん、ガータ御子柴についてはどうでしょうか?』
実況アナが話を振ると、キンタロウは腕を組み、真剣な面持ちで頷いた。
『彼女とはEQTの一月前ほどに道場で練習試合をさせてもらった。ルチャの技術は確かで、機転も利く。その後三郎太クンから聞いた話を鑑みれば、WoS(英国式)とはまた違う、ドロドロしたインサイドワーク(関節技や心理戦)の地力もあるようだ。いかに冷静さを失わず、相手の調子を乱して、クレバーに隙を見出していけるかがカギ……かな?』
キンタロウの評価に実況アナとハーレクインは揃って感心の表情を浮かべる。だが、実況アナの懐には知人から聞き知ったある隠し玉があった。
『成程! ……ところで、キンタロウさんはかつてガータ御子柴がヒール転向する前、彼女とのデートの約束をすっぽかしたことがおありだそうですが?』
硬直するキンタロウ。ヒュウと口笛を鳴らしてニヤニヤ笑い出すハーレクイン。
『……すまない、彼女のプライバシーのためにノーコメントに……いや、当時の私がクソボケだっただけで、彼女に罪はないと弁護しておこう』
口元を覆って目を反らすキンタロウにハーレクインがおどけた様子で容赦のない追撃を浴びせる。
『な~るほどぉ。そういう態度のせいで彼女を勘違いさせたわけだね。世界屈指のテクニシャンと名高いサカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウというレジェンドにも可愛い失点があったわけだ。ボクも気を付けないとなぁ?』
やれやれとわざとらしく両手を左右に掲げて首を振るハーレクインのあてつけに、しかし言い返す言葉が見つからず、キンタロウは唸るばかりだ。
『むむむ』
すかさず実況アナがツッコミを入れつつ纏めに入る。
『なにが、むむむだ! ……さて、茶番はこの位にして、綺麗すぎる怪物と、泥を塗る天才! 伝統の王道とカオスの邪道、ファイナルの切符を手にするのはどちらか! まもなくゴングの時間です!』
世界を揺るがす世界大会の準決勝、凄まじい大歓声の地鳴りがドームから溢れんとする中、レフェリーの手がゆっくりと天へと掲げられた。両者の視線が激しく火花を散らす。静寂と熱狂が限界まで高まったその刹那、試合開始を告げる乾いたゴングの音が、館内に鳴り響いた。
カーン!
試合の立ち上がりを見逃すまいと混沌たる大歓声が、まるで一本の糸が引き絞られるような緊迫感へと一変した。緊迫のファーストアクションは技ではなく、値踏みするようなその瞳に御子柴を映すローラによって放たれた言葉であった。
「さて、貴女はどの程度かしら。 試しに受けてあげるから……かかってらっしゃい」
ローラは傲慢に言い放ち、構えすらせず手招きで、御子柴を挑発した。格下と決めつけ、最初からノーガードで攻撃を受けその程度を測ろうという心算だ。解説のハーレクインが口にした「受けて潰す」という覇道のプロレスを体現するかのようなその態度に、御子柴の紅色の瞳が苛立ちと興奮で細められる。
「へへ、言ってくれるじゃねーか。その綺麗な面、いつまで保てるかニャ?」
不敵に笑いを浮かべ、御子柴の身体のスイッチが切り替わる。キャンバスを独特のリズムで踏み鳴らし、左右へ小刻みに上体を揺らすメキシコ仕込みのルチャ・ステップ。どこから飛び込んでくるか予測させない軽快かつ変幻自在の足捌きから、御子柴の身体がバネのようにしなって前方に鋭く踏み込んだ。上体を深く倒しながら、その柔軟な股関節から放たれたのは、打点の高い強烈なフロントキックだ。まるでフェイントからいきますよとでも言いそうな動きを装いつつも、初手からまっすぐ本命の一撃を放つ御子柴。
パァンと乾いた音が重厚なアリーナに響き渡り、ローラの華奢な肢体を捉える。しかし、ローラは眉一つ動かさず、平然と胸板でその蹴りを受けた。正面からまともに衝撃を殺し、一歩。僅かに一歩だけ下がるだけで姿勢すら崩さない女王の姿に、御子柴は奥歯を噛み締める。
「……なら、コレならどうだニャッ!!」
強気な言葉とは裏腹に、御子柴の焦りは隠せなかった。すぐさま着地した軸足でキャンバスを削りながらその身を鋭く回転させ、重力から解放されたかのようなルチャドーラ特有のしなやかな跳躍へ。空中でさらに加速する、渾身の力で放つローリング・ソバット。美しい旋回軌道から繰り出された強烈な後ろ蹴りが、遠心力の乗ったハンマーのようにローラの鳩尾あたりを打ち上げるように深くめり込む。その旋風撃に、さしものローラもその身を宙に浮かされ、そのまま後方へ吹き飛ばされて、リングのロープに背中を強く打ち付けた。
だが、背に受けたロープの弾力で跳ね返るように戻って来たローラは、苦悶の表情を浮かべるどころか、上機嫌な笑みを浮かべていた。
「……悪くはないわね。いいわ、それじゃ本気で行くわよ」
空気が一変した。ローラの瞳に真剣な闘志が灯り、戦士の鋭利な殺気が溢れ出す。ローラは勢いそのまま一瞬で間合いを詰めると、ソバットから体勢を戻した御子柴に反応を許さぬ速度でエルボー・スマッシュを突き上げた。御子柴の顎が跳ね上がり、たった一発でその意識が火花を散らす。
「……ッ」
朦朧とする御子柴の襟首を捉え、コスチュームの布地を捩じり掴むようにしてローラは強引に持ち上げる。顎をカチ上げられながらも本能的に御子柴が放っていた反撃の掌打を肘でいなしつつ、ローラはその小柄な身体からは信じられない膂力で御子柴を抱え上げる。そして、そのまま自身の体重ごと浴びせかけるようにして、パワースラムでマットへと叩きつけた。これぞ彼女だと言わんばかりの感嘆と自慢げな色の混じった観客の声があがるのが苛立たしい。
(ケッ、コイツやっぱバケモノの類だわ)
ただの叩きつけじゃない。まるで倒れた柱に潰されたかの如く、腹と背中の間を反響する凄まじい衝撃に、御子柴は肺から空気が漏れる瞬間を実感していた。まともにやり合っては、この「怪物」には勝てない。メキシコ遠征で培った泥臭い生存本能が、御子柴の頭を急速に冷やしていく。
「ゲホッ……! あぁ……効いたなぁ。けど、こっちゃ正攻法で勝つなんて一言も言ってねーんでニャ!」
起き上がろうとするローラの視界を、御子柴の指先が容赦なく襲った。
「な……!?」
サミングである。なりふりなど構う気のない御子柴が瞼あたりに突き立てるように二本指を叩きつけ、反射的にローラが顔を覆って声を漏らしたのを見て、汚い手だと観客が罵声を浴びせる。だが、そんなブーイングなど御子柴にとってなんの痛痒も無い。ローラが顔を背けた隙を見逃さず、さらに今度は股間を狙った急所へのトーキックで蹴り上げを見舞った。
「……っ! この野良猫が……っ!」
女王のプライドに泥をひっかけられたローラが鷹揚さと王者の余裕を剥がされ、怒りに顔を歪める。だが、その怒りは技のキレを奪うどころか、より苛烈な破壊力へと変換された。目を細め、涙にぬれてなかば視界が塞がれた状態にもかかわらず、まるでローラは御子柴の位置を完全に把握しているかのように迷い無く組み付く。
「げっ!?」
こいつ心眼でも開いてんのかと、思わず驚きの声を漏らした御子柴の胴を力任せに抱えると、ローラはフロント・スープレックスで豪快に頭から後方に投げ飛ばした。キャンバスに頭頂から転がるように投げ捨てられて、全身を削る衝撃と痛みに御子柴の表情が歪む。
追撃の手を緩めないローラは、すぐさま御子柴の背後へ絡みついていく。脚をかけて御子柴の膝をロックして、彼女の上体を肩越しに抱え込んでいく。得意のアブドミナルストレッチががっちりと極まった。ローラの細い腕が御子柴の脇の下と首に絡みつき、身体を雑巾のように絞り上げていく。ミチミチと脇腹にねじ切られような痛みが走る。
「捕まえた。さぁ……ここで無様にギブアップなさい!」
絶望的な締め付けの中、御子柴は脳裏で団体「ノワール・ゲート」の者たちとの縁から生じた切札を確認していた。結城蓮を介してボーティス神宮寺から託されたデータ。そこには予選で結城が受けて泡を吹いて敗北し、そして神宮寺がローラに敗北した試合で試行した、当の使い手のローラも知らない脱出方法が含まれていたのだ。それは「アブドミナル・ストレッチにおける、ローラの無意識の重心移動」を利用した回避術である。
暫しの苦鳴の時を経て、互いの汗で位置が僅かにズレ始めたのを感じ、そろそろだと御子柴はあえて抵抗を止め、ただの我慢に移行した。
(ぐぇ……!? きつっ……!? クソ、ガセだったら後でぶっ殺すぞ、あの軟派野郎!?)
ミシミシと軋む全身の痛みに耐えながら、ローラが位置を調整してかかる力を一段と強めようとする瞬間を待つ。そして、ローラの重心がわずかに移動した刹那、御子柴は「全身の力を完全に抜いた」。
──ローラの脇の下から腕が抜け、御子柴が液体のようにマットに流れ落ちた。
「なに……ッ!?」
脱出不可能と言われた女王の締めから、御子柴の身体がヌルリと逃げおおせてしまったのだ。ローラは自身の腕の中にあるはずの重みが消えたことに驚愕し、目を見開いた。
「これは!? ……あの時の!? 野良猫、貴女何をしたの!?」
前日の二回戦で不審な脱出を図ったボーティス神宮寺に続き、二人目の脱出者だ。まさか、自分の得意技に欠陥でもあるのか? 白目を剥いてまで何かを計測していたあの男の影が、目の前の泥塗れの野良猫と重なり、ローラの背筋に初めて未知の恐怖が走る。信じられないといった様子のローラに、御子柴は苦痛に顔を歪めながらも、キャンバスに伏せた状態から不敵な笑みを返した。
「マジかよ、へへ、テメーの胸に聞いてみろニャ」
ワナワナと自らの手を震わし、目を見開いて御子柴を凝視するローラの姿に、場内の歓声は困惑、励まし、怒声を入り混じらせた爆発と化し、放送席で実況アナが声を張り上げる。
『脱出したぁぁぁ!? 二回戦に続き、またしてもローラ・ザ・チャージの「アブドミナル・ストレッチ」が獲物を取り逃がしてしまったぁ!?』
隣でそれを見届けていたハーレクインは、いつもの飄々とした紳士の態度を完全に崩し、驚愕の色を隠せない様子で頭を抱えた。
『バカな!? ローラのあの技には技術に優れる英国レスラーたちをもってしてもギブアップは不可避だったのに……!? 一体どんな角度とテクニックで!?』
その横で、腕を組んで試合を凝視していたキンタロウもまた、信じがたいものを見たと言わんばかりに深く唸り声をあげていた。
『一瞬すぎて良く見えなかったな。特別な切り返しや押し戻しは見えなかった。なのにまるで手から水が零れるように……』
技巧派で知られるハーレクインやキンタロウの目をもってしても、脱出の「理屈」がまるで見えない。ただ一つ確かなのは、若き女王の絶対的な牙城が、今まさに不気味に揺らいでいるという事実だけだ。
『ガータ御子柴、得意顔で笑っておりますが、腹を抱えて脂汗が浮いている! 効いています! ダメージは決して軽くはないようだ! だが、その上で若き女王の自慢の剣に呪詛で錆を塗りたくったぁ! 猫は液体というのは本当だったのか!?』
興奮冷めやらぬ実況アナはついに意味不明な理論を持ち出した。いや、イグノーベル賞の物理学賞を「猫は固体かつ液体の両方になれるのか?(Can a Cat Be Both a Solid and a Liquid?)」という研究が獲得していることを思えば意味不明は失礼かもしれないが……。
『あぁ、動画サイトで見たな、階段流れ落ちる猫可愛いよね』
落ち着きを取り戻したハーレクインが思い出し笑いを受かべる。どうやら彼は猫派であったようだ。
『関係ないだろう……いや、関係あるのか?』
大真面目な顔で考え込んでしまうキンタロウと、完全に我を忘れて絶叫を続ける実況アナウンサー。凄絶な心理戦とコミカルな放送席の対比をよそに、リング上での戦いは続く。
二回戦も今も、いずれもアブドミナルストレッチで締め上げた際に力を強めようとした瞬間の不可解極まる脱出だ。なにか穴がある。それをあの策士気取りのジャップ男が見つけ、それをこの野良猫まで使うのか? 動揺するローラの隙を突き、御子柴が動き出す。
「ボケっとしてると危ないニャ!」
マットすれすれを這うように突進した彼女はローラの両脚を刈って転がすと脇に抱えて振り回し始める。
「うっ……くぅ……ッ!?」
うつぶせ状態の両脚を抱えた「リバース・ジャイアントスイング」で御子柴は大回転を始めた。
──キミがローラに勝つために使うべき強みはいくつかある、まず三半規管の優越。
病室で撮影されたのだろう。首にカラーをつけて包帯を巻いた神宮寺がメモリに残した、データと連動するメッセージで指摘された情報を思い起こしながら、御子柴は5回転、6回転とスイングを続けていく。かつて御子柴は三郎太にエアプレーンスピンを受けた際、仕掛けた三郎太が眩暈を残しているにもかかわらず、解放直後にコーナートップから飛んで反撃を成功させた。それを知る神宮寺は自らの計測した限り、明確にこの点でローラに御子柴が優越していると断言していた。それを生かせと言うのだ。
「こ、の……いつまで回ってるつもり……ッ!?」
ローラは片腕で頭部を庇う構えをとったまま、振り回されつつ毒づく。
「じゃ、やめるニャ」
御子柴は、8回転を越え、苛立ちから無理やり状況を崩そうと動き始めるローラの気配を察してあっけなく手を離した。
「なっ……ぐぅっ!?」
慣性でロープ際へ放り出されて突っ伏すローラ。彼女はこめかみのあたりを押さえて、マットに手を突いて身を起こすが御子柴の姿が無い。揺れる視線を彷徨わせて彼女の姿を探し──気付いたローラは絶句した。
御子柴はニュートラルコーナーの最上段に立っていた。騒然となる観客席のどよめきを一身に浴びて、彼女はおもむろに、しかし、迷い無くコーナートップを蹴ってムーンサルトに宙を舞う。
(この私に……空中殺法を……!?)
フライング・キラー。それはローラを飾る数々の異名のひとつであり、時として恐怖の象徴として扱われる称号だった。空を舞うものは地に堕ちる。概念とまでよばれ、彼女のプライドの一角をなしていたその異名に従い、空舞う御子柴を捉えて対空砲火パワースラムで迎撃せんと体が勝手に動き出す。
だが、問題が二つ起きていた。
一つ、ローラは今大回転の余波を受けて三半規管を乱されていた。視界が揺れ、眩暈がおさまっていない。思い通りに身体を動かせず、精緻な位置調整ができない。
二つ、御子柴は技をしくじっていた。
この女、自信満々に跳んでおいて、しくじっていたのである。一回戦で対戦したブラジル代表の「餓えた黒豹」ディアナ・ライアルによって受けた「ダブルムーンサルト」という高度な空中殺法を真似しようとコーナーから跳んだものの、直後、御子柴は「あ、これ足りないわ」と気付いていた。ダブルと名がつく通り、「ダブルムーンサルト」は空中で二回転して相手に身体を浴びせかける技。だが、このままでは二回転は無理だ。
御子柴は途中で身体を広げるのをやめた。結果としてダブルムーンサルトは「ローリング・セントーン」と化し、御子柴は背中からローラにむかって落下する。狙いを外され、思うように動けず──ローラは確保に失敗した。
「がは……ッ!?」
回転しながら背中を叩きつける御子柴の全身を、立ち上がりかけの両手を広げた状態で、正面からまともに浴び、押しつぶされるようにマットに叩きつけられてしまう。マットと御子柴に挟まれてローラの肺から空気が押し出され、小柄な身体が重量と衝撃でさんざんに蹂躙される。ローラは実に二年ぶりに試合中に朦朧となった。
「ハァ……ハァ……ッ! ジャジャ~ン♪」
ここで御子柴はチェーンを取り出した。コスチュームの隙間から胸の下あたりに指を突っ込んで細いチェーンが引きずり出されるのを見たレフェリーが目を見開く。「あれだけの量を提出しておいて、こいつまだ……!?」何も言わずともその顔は雄弁にそう語っていたが、既に試合中。今となってはレフェリーは抗議があるまでは黙って見守る他ない。御子柴はローラの髪を掴んで引きずり、ロープ際へ──セカンドロープにもたれかけるようにセットすると、その腕とロープをつなぐように鎖を幾重にも巻き付ける。
「その綺麗なツラをぶっとばしてやるニャ……ッ!」
対角線のロープへと全力で疾走する。そしてロープの反動を受けて跳ね返り、戻ってきた勢いそのまま、御子柴はセカンドロープとサードロープを掴んで自身の体を旋回させた。二回戦で御子柴と対戦したエル・アオルカドが得意としたロープを用いた残酷技が、今、御子柴の手によって放たれたのだ。
朦朧としながらも立ち上がろうとするローラだったが、ここでようやく腕がロープに鎖でつながれて動けない事に気付く。まさにその瞬間、必殺の「619」による回転の遠心力が乗った両足の蹴りが襲いかかった。
「ぐぶっ……!?」
ロープに繋がれたローラの顔面を正確に捉えた一撃に、視界が刹那、真っ白に染まる。頬骨を砕かんばかりの衝撃と、脳を揺らす苛烈な一撃。だが、鎖がきしむような金属音をたてて、打たれたローラに吹き飛ぶことすら許さない。仰け反った末に、繋がれた腕に引かれるように崩れ落ち、再びローラはロープ際でダウンした。