「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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番外話 その手に掴んだものは?(その1) の巻【エキシビジョンマッチ「フェルナンド&アーデルハイトVSビアンカ&エリオット」】

 EQT(アース・クェイク・トーナメント)の準決勝二試合が終わり、決戦の舞台である東京ドームは独特の熱気と喧騒に包まれていた。激闘の余韻が冷めやらぬ中、エキシビジョンマッチと休憩を経て、いよいよ次が大会の頂点を決する決勝戦という段階である。巨大なすり鉢状の観客席には、さまざまな思惑を持った観衆の動きが見られた。足早に出店や物販の特設ブースへと向かい列を作る者、トイレの混み具合を確認するために席を立つ者、あるいは、これから始まるエキシビジョンマッチもしっかり堪能しようと腰を据えたままリング周りを凝視する者など、数万人の観衆が作り出すざわめきは、巨大な海鳴りのようなうねりとなってドーム全体を絶え間なく震わせていた。

 そんな中、ドーム内の天井に吊るされた巨大なスピーカーから、実況アナウンサーの熱を帯びた声が響き渡る。

『準決勝第二試合、優勝候補のローラに最後まで食らいついた黒猫の執念、凄まじいものでありました。さて、残るは休憩時間を経て、決勝戦となりますが、その前にエキシビジョンマッチです! 対戦カードは本戦進出選手たちに予選敗退となった選手たちが挑む特別タッグマッチです!』

 リングサイドに設けられた放送席でマイクに向かっている解説のキンタロウは、表面上は穏やかな笑みを浮かべつつも、内心では重いため息をついていた。

(……イタリアとアメリカの大会委員たちのごり押しだったな……)

 キンタロウは視線を落とし、手元の進行表に目を走らせる。本来の予定と参加選手を異にするこのカードの裏には、複雑な事情があった。

(特にアメリカはプロレス隆盛三大国家のひとつとしてメンツを気にしているんだろうが、厄介な事だ……)

 プロレス三大隆盛国として知られる、アメリカ、メキシコ、日本の内、アメリカだけが正規代表選手を本戦へ送り出せなかった。そんな大国のプライド、そして組織間の政治的な思惑が強引に絡み合った結果のカードであることを、キンタロウは大会運営に近い立場としては痛いほど理解している。しかし、プロのレスラーとして、解説を担当する者としてはそんな生臭い内情を視聴者や純粋に試合を楽しむ観客に悟らせるわけにはいかない。彼は努めて明るいトーンで語る事を意識する。

 リング上を照らす色とりどりの照明が切り替わり、華やかで力強い入場曲と共に赤コーナーの選手たちが姿を現した。

『一回戦で敗れたものの、記憶に残る鮮烈な戦いを繰り広げたスペイン貴族とドイツ貴族が迎え撃つ! スペインの闘牛士「フェルナンド・デ・レオン」ア~~ンド、ドイツの白亜の城塞「アーデルハイト・フォン・シュタール」!』

 ドームを揺るがす大歓声の中、赤コーナーに立つ二人は観客に向かって優雅に手を上げながらも、互いに苦笑じみた視線を交わしていた。フェルナンド・デ・レオンはスペインにおける若手エースである。紫の深い瞳にダークブラウンのくせっ毛、口まわりと顎を覆うように整えられた髭が、彼の端正な顔立ちに大人の色気と威厳を添えている。無駄な肉の一切ない、引き締まった筋肉質の肉体は、まさに鍛え抜かれた芸術品であった。左腕には肘から手首までを覆う、闘牛士のマントを思わせるフリル飾りのついた赤いアームガードを装着しており、白地に赤のラインと金の刺繍が入ったショートタイツと闘牛士風のロングブーツが、彼の闘牛士としての美学と優雅さを一層際立たせている。

 その隣に立つアーデルハイト・フォン・シュタール、通称ハイジは、身長190センチという女子プロレスラーとしては規格外の圧倒的な体躯を持つドイツ人選手である。首のラインで綺麗に切り揃えられた金髪のボブカットと、他者を見下すような鋭く高慢な碧眼が特徴的な絶世の美女であり、その豊満な肉体はまさに「白亜の不落城塞」の名に相応しい威圧感を放っている。貴族主義を地で行く傲慢なエリートである彼女は、自らの鍛え抜かれた肉体に絶対の自信を持っていた。

「やれやれ、面倒事をおしつけられたかな?」

 フェルナンドが肩をすくめながら、いつもの冷笑的な態度を崩さずに呟く。

「フッ、貴族の度量を示すと思えば良いわ」

 ハイジは高慢な眼差しをそのままに豊かな胸を張ったが、ふと微かに顔をしかめ、不満げに口元を歪めた。

「……本心を言えば日本滞在中のオフは我が軍師のスカウトの為に使いたかったのだが」

 本戦一回戦において自分を攻略し、陥落せしめたボーティス神宮寺の知略にすっかり惚れ込み、「軍師として召し抱える」という名目でコミカルなストーカーへと変貌している彼女の執念深い言葉に、フェルナンドは呆れたように長く息を吐き出す。

「あぁ……まだ追い回しているのか……」

「失礼な。三顧の礼という言葉もあろう」

 ハイジは悪びれる様子もなく堂々と仁王立ちで言い放つ。無敵か。

 

 続いて、ドームの反対側、青コーナーの入場ゲートから対戦相手の二人が姿を現す。

『挑む予選敗退者はこの二人! 全勝突破のクロエ・スネグーラチカに道を譲った勝ち点二位、アメリカ代表選手で元レスキュー隊員という異色の経歴のハンサムガイ、「エル・ザ・スターセイバー」! そして、スイスとスコットランドの英雄の末裔という代表選手同士の激突の大渦で貪欲に経験を求めた新人、イタリア代表選手、あらゆる技を映し出す白き氷雪の鏡姫「ビアンカ・ディ・スペッキオ」だぁ!』

 青コーナーに到着した二人の間に流れる空気は、赤コーナーの堂々としたそれとは全く異なっていた。星の王子様をコマーシャルモチーフにしたアメリカの大手団体所属の若手エース、本名エリオット・サンダースことエルは、レスキュー隊員時代に培われた逞しい肉体派のハンサムガイである。プロレスの試合で魅せる事で人々の心を救うことをキャッチフレーズに戦う熱血漢だが、今は観客の大歓声に手を振りつつも、どこか居心地悪そうに身を捩っていた。

 その横に立つイタリア人女子レスラー、ビアンカ・ディ・スペッキオは、可憐な容姿でありながら、驚くほど主体性に欠けた無表情でただ立ち尽くしている。対戦相手の技を一目で完璧に模倣し、精度を上げて繰り出すという恐るべき天才でありながら、自分というものを一切持たない彼女の瞳は、まるで磨き上げられた冷たい鏡のように、ただ目の前の光景を反射しているだけだった。

「なんだか、えらい事になってしまったね」

 エルが困惑気味に頭を掻きながら隣の少女に話しかけると、ビアンカは抑揚のない声で淡々と答えた。

「別に……。マエストラ(導き手)のご指示ですから、私は戦うだけです」

 彼女の言うマエストラとは、イタリアのプロレス団体協会「F.I.L.P.(フィルプ、Federazione Italiana Lotta Professionistica)」の代表にしてEQT大会委員の一人。彼女の師でもあるレジーナのことである。

「う、う~ん、なんだかやり難いな……」

 自分の意志ではなく、ただ命令に従う機械のような彼女の態度に、熱血漢であるエルはどう接していいのか分からず戸惑いを見せる。素直すぎる彼を見つめ返し、ビアンカは少しだけ首を傾げた。

「?」

 流される方が楽だと考え、英雄の後継者という重圧に苦しむポモナの気持ちすら理解できなかった彼女には、エルの戸惑う理由が根本的にわからなかったのだ。

 

 両チームの選手がリングに出揃い、レフェリーが最終的なボディチェックとルール確認を行っている中、放送席のキンタロウが冷静な声で戦力分析を始める。

『フェルナンド君は技術によるカウンタータイプ、アーデルハイト嬢は飛び抜けた防御力とパワーで戦うタイプだ。それに対してビアンカ嬢は模倣によるカウンタータイプ、エル君はレスキュー隊員経験によるパワーとスタミナで戦うタイプ。奇しくも似たような構成のタッグチームによる対決になったね』

 楽し気なキンタロウの解説に、実況アナウンサーが大きく頷くように声を張り上げた。

『そうなるとそれぞれの得意分野の競い合いと、相手方の長所を挫く戦術が大事になりそうですね!』

『一方でフェルナンド君のスタミナ不足と、ビアンカ嬢のウェイトの軽さは両チームにとってのウィークポイントだ。そこをパートナーがいかにフォローするかも重要になるだろう』

 フェルナンドは赤いフリル飾りを闘牛士のマントのように振るうパフォーマンスと優雅な技術で、パワー自慢の相手を手玉に取ることを得意とするが、消耗戦になると打たれ弱さが露呈するという明確な弱点を持っていた。一方のビアンカも、技の模倣という恐るべき武器を持ちながらも、ウェイトの軽さからくる絶対的なパワー不足は否めない。

 リング上では、いよいよ迫る試合開始の気配に、緊迫した空気が張り詰め始める。

『なるほど、なかなか興味深い闘いになりそうです! さぁ、間もなくゴングの時間です!』

 

 カーン!

 

 喧騒を鋭く切り裂くように、試合開始を告げる甲高いゴングの音が鳴り響いた。特別タッグマッチという本戦とは異なる変則的な舞台、さらには急遽組まれたカードであるにもかかわらず、リング上に立つ四人のプロレスラーから放たれる闘気は、本戦に勝るとも劣らない確かな鋭さを持っていた。

 青コーナーでは、星の意匠があしらわれたコスチュームに身を包んだエル・ザ・スターセイバーが、ロープを力強く掴みながら一歩前へと歩み出た。

「まずはボクが出よう」

 彼から発せられたその言葉には、いかなる時でも他者を先んじて守ろうとする、生来の真っ直ぐな気質が表れていた。

「わかりました」

 エルの背後に立ち、トップロープ越しにリングを見つめるビアンカ・ディ・スペッキオは、感情の起伏を一切感じさせない平坦な声で短く応じた。その瞳は磨き上げられた鏡のように冷たく、ただ目の前で展開されるであろう事象を正確に反射する準備だけを整えていた。

 一方、赤コーナーでは、スペインの闘牛士フェルナンド・デ・レオンが、闘牛士特有の赤いフリル飾りのついたアームガードを軽く撫でながら、対角線上のエルを紫の瞳で静かに見据えていた。

「ふむ、男子が先手なら、受けねばなるまい」

 相手が男性から出てきた以上、パートナーである女性を先に出すという選択肢は、スペイン貴族の末裔としての矜持を持つ彼の中には存在しなかった。彼は優雅な所作で自らの出陣を宣言する。

「フン……まぁ、よかろう」

 フェルナンドの背後に控える「白亜の城塞」アーデルハイト・フォン・シュタール、通称ハイジは、その豊満な胸の前で腕を組み、高慢な笑みを浮かべたまま先陣を譲る。彼女からすれば、戦功を焦る必要もないという余裕の表れであり、貴族としてのメンツへの理解あっての配慮でもあった。

 

 リング中央へと歩み出た両者。フェルナンドは、先の本戦一回戦でのベスとの試合で自身の底力とスタミナに難があるという弱点を露呈し、思い知っていた。であるがゆえに、不用意な力比べを避けるべく半身に構え、相手の出方を冷静に窺う体勢をとる。しかし、それを見たエルは、レスキュー隊員時代に鍛え抜かれた分厚い大胸筋と丸太のような両腕を大きく広げ、あえて正面からの力比べ――手四つの攻防へと力強く誘い込んだ。

「さぁ、勝負だ!」

 エルが熱のこもった声で叫び、両手を前に突き出す。フェルナンドは一瞬、その場に立ち止まり躊躇した。

(あからさまだが初手から逃げたと見られるのは癪だ。……そこまで計算してのことか、意外と食えんなこの男)

 脳裏で冷静に分析しつつも、相手の土俵から露骨に逃げるような振る舞いは、彼の美学が許さなかった。観客の期待の視線が集中する中、フェルナンドはやむなく半身の構えを解き、エルの誘いに応じて両手を差し出す。

 案の定、エルは手四つの状態から一気に深く組みつき、力任せのロックアップへと移行した。肉と肉が激突する鈍い音が、ドームのリングに響き渡る。

「むぅん!」

 エルが腹の底から気合いの声を上げ、強靭な脚力と背筋力を一気に爆発させる。パワーで勝るエルの圧力は凄まじく、組み合った状態のまま、まるでブルドーザーのようにフェルナンドを赤コーナー側のロープ際まで強引に押し込んでいった。

「……ちっ!」

 背中をロープに激しく押し付けられ、フェルナンドの端正な顔が微かに歪む。しかし、ロープを背負わされながらも、スペインの闘牛士は冷静を崩さない。エルがさらに力でねじ伏せようと押し込んできたその刹那、フェルナンドは相手の力のベクトルを巧みに利用する。

「力に秀でているのは認めるが、タダの力押しなど、優雅な技術の餌食だ。……さあ、膝をつけ!」

 フェルナンドはエルの力を柔らかくいなすと同時に、その腕を絡め取るようにしてリストロックに捕らえた。手首の関節を鋭くねじり上げながら、自らは素早く回り込んで体勢を入れ替える。手首を極められた激痛と、不意に力の逃げ場を失わされたことで、エルはたまらずマットへ膝をつかされた。

「ぐっ……!」

 関節が軋む痛みに、エルの精悍な顔が苦痛に歪む。フェルナンドの繰り出す関節技は、その優雅な所作とは裏腹に、的確に急所を捉える冷酷さと正確さを持っていた。だが、アメリカの若き英雄もここで簡単に膝を屈する男ではない。エルはリストロックの痛みに耐えながら、奥歯を強く噛み締めてグッと堪え、強靭な下半身のバネを使って強引に立ち上がる。

「むっ!?」

 フェルナンドが予想外の抵抗に驚きの声を上げた直後、エルは手首を極められた状態のまま、空いているもう片方の太い腕でフェルナンドの胸板を力任せに突き飛ばした。力技による強烈な突きによってフェルナンドのクラッチが弾け飛び、両者は再び大きく距離を取る。

「くっ、さすがに上手いな……!」

 荒い息を吐きながら痛む手首をさすり、エルはフェルナンドの高度な技巧を素直な言葉で称賛した。

 

 仕切り直したリング上。エルは軽く頭を振って気合いを入れ直すと、再びフェルナンドに向かって熱い闘志を剥き出しにした。

(ビアンカの為にも返し技は一度は見ておくべきだ。ならボクが……)

 青コーナーで静かに戦況を見つめるビアンカの最大の武器は、相手の技を一目で完璧に模倣することだ。そのためには、フェルナンドの隠し持つ技術やカウンターのタイミングを一つでも多く引き出し、彼女の目に焼き付けさせる必要がある。エルは自らが身を呈して囮となる覚悟を決め、力強くマットを踏み込んだ。

「うおおっ!」

 一直線にフェルナンドへ向かって突進する、重戦車のようなショルダータックル。

「突っ込んでくるだと!?」

 フェルナンドは驚愕した。先ほどのリストロックの攻防で、単調な突進がカウンターの餌食になることは思い知ったはずである。さらに言えば事前に自分のEQTにおける試合を全く見ていないわけでもないだろう。にもかかわらず、再び直線的な攻撃を仕掛けてきたエルの真意を図りかねたのだ。しかし、思考の遅れを闘牛士の反射神経が補う。猛牛の如きエルの突進に対し、フェルナンドはひらりと闘牛士のマントを翻すような最小限の歩法で、その軌道から紙一重で身をかわした。

 勢い余って空を切るエル。その無防備になった首元へ、フェルナンドの両腕が蛇のように巻き付く。そのまま己の体を回転させる勢いを利用し、エルの脳天をマットへ垂直に突き刺すフェルナンドの必殺のカウンターDDT、「カポーテ・ピルエット」が炸裂した。強烈な衝撃音が観客席まで響き渡る。

「ぐおっ!?」

 脳を激しく揺らされ、うつ伏せに倒れ込むエル。その無様な姿を見下ろしながら、フェルナンドは闘牛士が牛をあしらうように、倒れたエルの尻をピシャリと叩いて挑発した。

「オーレ! ……てっきり闘牛士としての私の戦いぶりをご存知なのかと思ったが、熱血しすぎてお忘れかな?」

 観客席からは、フェルナンドの華麗な立ち回りと憎たらしいほどに決まったパフォーマンスに、割れんばかりの大歓声が沸き起こる。だが、エルの闘志は全く折れていなかった。脳天への深刻なダメージで視界を揺らしながらも、エルはマットを泥臭く這いずり、フェルナンドの足元へ執念の組み付きにいく。

「ぐぅぅ!」

「無駄だっ!」

 その痛々しいほどの執念すら、フェルナンドは冷徹に切り捨てた。立ち上がろうとするエルの無防備な喉元へ、手刀の先端を鋭く突き刺す地獄突きを一閃。

「がはっ!?」

 気管を的確に潰されかけ、エルはたまらず咽せ返り、完全に動きを止めた。

「はぁっ!」

 フェルナンドは間髪入れず、自身の体を独楽のように鋭く回転させ、遠心力を極限まで乗せた強烈なバックスピンキックをエルの側頭部へ叩き込んだ。

「ぐああっ……!」

 骨と肉がぶつかり合う鋭い打撃音と共に、エルの体が宙を舞い、吹き飛ばされる。マットを無様に何度も転がりながら、エルはどうにか自陣である青コーナーの下でマットに手をついて身を起こす。

 青コーナーのトップロープ越しに、相変わらず無表情なビアンカがエルの満身創痍の姿を見下ろし、その手を差し出していた。

「ちゃんと見ました。代わりましょう」

 彼女の声には、傷ついた味方への同情も、強敵に対する焦りもない。ただ、エルが自らの身を呈して引き出したフェルナンドの動きのデータを、その氷雪の如き瞳の奥に完全に記録し終えたという事実だけが、機械的に告げられていた。

「ゼェ……ゼェ……。すまない、よろしく!」

 激しいダメージと疲労で息も絶え絶えになりながら、エルは力なく右手を伸ばし、ビアンカの白い手とタッチを交わした。一方、赤コーナー。華麗な技の連続でエルを圧倒し、観客を魅了したフェルナンドだったが、彼の胸元は激しく上下していた。エルの規格外のパワーを正面から受け止め、全力のカウンターと重い打撃を連続で放つには集中力と瞬間的なパワーの発揮が不可欠、やむを得ない代償と言える。

「出よう」

 背後から、ハイジが尊大な声で有無を言わさぬタッチを要求する。

「フゥ……フゥ……。武運を」

 荒い呼吸を整えきれないまま、フェルナンドもまた、背後のハイジの手に自らの手を合わせ、リングの主役を交代した。

 

 両陣営の女子、ハイジとビアンカ。この二人がリング中央で相対すると、まるで大人と子供のような残酷なまでの体格差が観衆の目に焼き付けられた。ハイジは自らの豊満な胸の前で腕を組み、見下ろすような高慢な視線をビアンカへと投げかける。

「さて次は我々ね。来い小娘」

 貴族としての絶対的な優位性を疑わないその声には、自らの防御力への厚い信頼と、自分から動くまでもないという傲慢さが満ちていた。しかし、対峙するビアンカの表情には、巨大な壁を前にした恐怖も、威圧感に怯む様子も一切浮かんでいない。ただ磨き抜かれた鏡のように、感情の抜け落ちた双眸で巨大なドイツ人レスラーを見つめ返した。

「待ち受けないと怖いですか?」

 抑揚のない、平坦な声だった。それゆえに、その言葉は純粋な事実の指摘であるかのようにハイジのプライドを鋭く逆撫でした。

「……ほざいたわね。よかろう!」

 ハイジの端正な顔に明らかな怒気が走る。彼女のプライドが退くことを許さない。あえて挑発に乗り、彼女は腕組みを解いて、地響きを立てるような力強い足取りで一気にビアンカとの距離を詰めた。

「受けよ、騎士の一撃!」

 ハイジが気合いと共に、丸太のような太い右腕を豪快に振るう。豊かな胸部を大きく揺らしながら放たれた「アックスボンバー」は、まともに受ければ首の骨をへし折られかねないような凄まじい圧を伴っていた。しかし、暴風のようなその一撃がビアンカの細い首を捉える直前。

「やです」

 まるで散歩の途中で小石を避けるかのような、あまりにも無造作で短い拒絶の言葉と共に、ビアンカはふわりと身を屈めた。最小限のステップで「アックスボンバー」の軌道の下をくぐり抜けるその動きは、先ほどフェルナンドがエルのショルダータックルをかわした際の歩法とそっくりだった。

「なんだと……ッ!?」

 渾身の一撃が空を切り、前のめりに体勢を崩したハイジの背後へ、ビアンカが滑り込む。フェルナンドの「カポーテ・ピルエット」であれば、ここで首を捉えてDDTへと持ち込むことだろう。しかし、ビアンカは突進する勢いを殺さず、そのまま彼女の太い胴回りに腕を回した。相手の進行方向への推進力と、自身の重心移動を完璧に噛み合わせた「サイドスープレックス」により、100キロ近いハイジの体が、わずかな力で宙に浮き、豪快な音を立てて背中からマットへと叩きつけられた。

 衝撃音がドームを揺らす中、仰向けに倒れ込んだハイジの額を、ビアンカはその掌でぺちりと軽く叩いて挑発した。

「おーれっ。……『ダンツァ・デッラ・カッパ(マント翻る舞踏)』、こんなものでしょうか」

 自陣のコーナーポストで荒い息を整えながらその光景を見ていたフェルナンドは、紫の瞳を限界まで見開いて驚愕の声を上げた。

「バカな!? 僅かに観察しただけで、俺の技術を模倣……いや、『応用』しているだと!?」

 ただ見たものを真似るだけではない。ビアンカは、自らの体格と相手の重量という変数を瞬時に計算し、フェルナンドの「カポーテ・ピルエット」の基本原理である「相手の勢いの利用」をサイドスープレックスへと見事に変換してのけたのだ。

 マットに叩き伏せられた屈辱に、ハイジは顔を真っ赤にして起き上がろうとする。

「えい」

 だが、ハイジが膝立ちになった瞬間、ビアンカの細い脚が鋭く空を切った。フェルナンドがエルに放ったものと全く同じ軌道、同じく遠心力を用いた完璧なバックスピンキックが、ハイジの美しい顔面を的確に捉える。

「ぶっ!?」

 重い打撃音と共にバランスを崩し、ハイジは再び背後へと無様に転がっていった。赤コーナーのフェルナンドは、信じられないものを見るかのようにリング上の少女を凝視し、わななく唇から声を漏らす。

「技のフォロースルー姿勢まで同じ……だと……!?」

 蹴りを放った後の腕の残し方、重心の沈め方、体軸のブレのなさ。それは数え切れないほどの反復練習の末にフェルナンドが到達した芸術的な領域の型であった。それを、たった一度見ただけで完全に再現する天才的な才能に、スペインの闘牛士は底知れぬ戦慄を覚えていた。

「おのれ、貴族の顔面に蹴りを……!」

 泥に塗れた騎士のように、ハイジは苛立ちを露わにしてマットを叩き、強引に身を起こそうとする。その無防備な立ち上がり際を、ビアンカは見逃さなかった。静かな足取りで歩み寄り、ハイジが上体を起こすタイミングと完璧に同調する。

「はぁッ!」

 気合いの呼気と共に、上から下への逆ベクトルを利用した地獄突きの一閃。またもフェルナンドの技を完全にコピーした指先が、ハイジの喉元へ向けて容赦なく突き刺さった。

「がっ!?」

 気管を直撃する危険な一撃。並のレスラーであれば呼吸困難に陥り、悶絶して立ち上がれなくなるほどの急所攻撃である。ハイジの喉の奥から苦悶の破裂音が漏れ、その巨体がビクリと痙攣したように見えた。

 さしものハイジとてこれなら……。誰もがそう思った次の瞬間であった。

「……フッ」

 喉を深く突かれたはずのハイジが、何事もなかったかのように平然と立ち上がり、ビアンカを見下ろして不敵な笑みを浮かべたのである。咳き込む様子も、苦痛に顔を歪める様子もない。地獄突きはわずかに捻って受けた彼女の首筋の筋肉によってしかと阻まれていたのだ。まるで巨大な大理石の彫刻に指を突き立ててしまったかのような感触に、ビアンカの表情が曇る。

「!?」

 常に無表情で機械的に技を繰り出してきたビアンカの顔に、初めて明確な驚愕とたじろぎの色が浮かんだ。物理的な法則を無視したかのようなハイジの異常な防御力は、彼女の計算を完全に狂わせていた。

 ビアンカが思わず手を引き、後退しようとしたその一瞬の動揺を、白亜の城塞は逃さなかった。ハイジの太く長い腕が蛇のように伸び、逃げようとするビアンカの右上腕をガッチリと掴み取る。

「効かないわ、この鍛え抜かれた『白亜の不落城塞』にそんな攻撃、無駄! 無効! 無力!」

 ハイジは自身のパワーに任せてビアンカの細い体を強引に引き寄せると、己の分厚い肩をビアンカの柔らかいみぞおちへ向けて、トラックの衝突のような勢いで強烈に叩き込んだ。

「くぁっ……ぁぐ……ぅ!?」

 肺の中の空気を根こそぎ吐き出させられ、ビアンカの口から苦悶の喘ぎが漏れる。だが、ハイジの攻撃はそれだけでは終わらない。みぞおちへの肩の叩き込みから流れるように両腕を回し、ビアンカの華奢な胴体を万力のような力で締め上げるベアハッグ、彼女の得意技「リッター・シルト(騎士の盾)」へと移行した。

「さぁ、どうした小娘! 先ほどの勢いはどうした!」

 ハイジが背筋に力を込めるたび、ビアンカの細い肋骨がミシミシと嫌な音を立てて軋む。逃げ道など一切ない、純粋な暴力による圧殺。ビアンカは抵抗しようと藻掻くが、足は完全にマットから浮き上がり、宙吊りの状態でただ圧倒的な膂力によって内臓を押し潰されていく。

「あ……がっ……は……!」

 酸素を絶たれ、苦痛に顔を歪めるビアンカ。彼女のコピー能力がいかに優れていようとも、この絶対的なパワーの差、強固な拘束の中では如何なる技も繰り出すことは不可能だった。ハイジは観客に見せつけるようにじわじわと万力の圧力を強めていく。ビアンカの意識が遠のき、その白い手が力なく垂れ下がろうとした、まさにその時である。

「投げられ、顔面と喉を打たれて平然と……なんて女性(ひと)だ! 今助けるぞ、ビアンカ!」

 青コーナーから弾かれたように飛び出してきたのは、エル・ザ・スターセイバーだった。救出カットのためのリングイン。パートナーが完全に絞め落とされるのを黙って見ていることなど、彼の魂が許さなかった。ロープの間を素早く潜り抜けたエルは、ビアンカを締め上げているハイジの背後へと猛然と駆け寄る。そのまま跳躍し、ハイジの後頭部を自らの肩口にガッチリと捉え込んだ。

「ぬぐっ……!?」

 不意の死角からの接触にハイジが戸惑う暇も与えず、エルは自らの体重をかけて勢いよく腰をマットへ落とした。エルの巨体とハイジ自身の体重が合わさった強烈な衝撃が、ハイジの後頭部に加わり、脳が揺れる。エルの放ったリバース・スタナーの痛烈な衝撃により、さしもの不落城塞もその腕のロックを解かざるを得なかった。

 拘束から解放され、マットに崩れ落ちるように倒れ込んだビアンカは、激しく咽せ返りながら新鮮な空気を肺へと送り込む。

「……助かりました」

 朦朧とする意識の中で、這いずるようにして自陣へと戻り、差し出されたエルの太い手になんとか自らの白い手を重ね合わせる。

「どういたしまして!」

 力強くタッチを受けたエルは、熱い闘志を再びその瞳に宿し、再びリングの主役として不落の城塞へと向き直った。

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