「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
赤い閃光のような影がエルの脇をすり抜けた。飛び込んできたのは、フェルナンドであった。エルは慌ててそれを阻止しようと腕を伸ばしたが、フェルナンドは闘牛士が猛牛の角を捌くように、流麗な身のこなしでエルの太い腕を振り払い、一切の減速なしでビアンカの横手へと到達する。
「ツー!」
「させん……!」
冷酷な声と共に、フェルナンドの右脚が鋭くしなり、フォールに入って無防備になっているビアンカの柔らかい脇腹へ、容赦のないサッカーボールキックを情け容赦なく蹴り込んだ。
「……スッ!?」
レフェリーの三度目の掌がマットを叩く直前、スリーカウントまで、あとわずか数ミリ。白亜の城塞が陥落する瞬間が訪れるかに見えたその時、骨に響く鈍い打撃音と共に、ビアンカの小さな体はボールのように弾き飛ばされ、ハイジへのフォールは間一髪のところで阻止されたのである。
「あぐっ!?」
そのカウントは2.9であった。
『カバーにいくビアンカ! ……あっとフェルナンド・デ・レオンが非情なキックでカット! 間一髪阻止!』
実況アナの叫びを耳にしながら、荒い息を吐くフェルナンドは、ツープラトン攻撃を食らってマットに横たわり、苦悶に顔を歪めているハイジを見下ろした。
「無事か、シュタール卿? かわるぞ」
気遣うような、しかしどこか冷ややかな響きを持つフェルナンドの問いかけに、プライドの高い白亜の城塞はギリッと奥歯を噛み締め、屈辱に塗れた呻き声を上げる。
「ぐ……不覚!」
ハイジの手がフェルナンドの手に触れ、正式な権利がスペインの闘牛士へと移行した。フェルナンドはリング中央で脇腹を蹴られた痛みにうずくまるビアンカの艶やかな漆黒の髪を無造作に掴み、強引に引き起こした。そのまま彼女の細い首に自らの腕を深く回し、万力のような力で締め上げるヘッドロックへと捕らえ、その頭蓋をじわじわと圧迫していく。ビアンカの顔が苦痛に歪み、喉の奥から空気が漏れるような音が鳴った。
「やってくれる、覇気が無さそうに見えたが見間違えだったか」
フェルナンドは耳元で冷ややかに囁いた。機械のようにただ相手の技を模倣するだけの人形だと思っていた少女が、圧倒的な体格差を覆してハイジを担ぎ上げた執念。そこには戦士としての確かな炎があるはずだ。しかし、頭部を締め上げられながらも、ビアンカの瞳に浮かんだのは熱い闘志ではなく、純粋な疑問符であった。
「ぐ……覇気とは? マエストラ(導き手)のご指示ですから、私は戦うだけです」
痛みに喘ぎながらも、その言葉には一切の感情が籠もっていなかった。ただイタリアのプロレス団体協会代表である師、レジーナの命令を理由とする中身のない答え。
「何? ……自身の意志ではないと言うのか?」
フェルナンドの紫の瞳が微かに見開かれ、腕の力をさらに強める。
「あぐ……ぅ……! マ、マエストラ(導き手)のお言葉は全てに優先する……!」
顔を蒼白にしながらも、ビアンカは自らの唯一の真実を絞り出すように答えた。
その言葉を聞いた瞬間、フェルナンドの脳裏に、自分や親、周囲の意向に反発し続けて同じ団体で女子プロレスラーとして針の筵にいた実の妹、ヒメナの顔が鮮明にフラッシュバックした。
(……これが「将来を思うからと何でも良かれと命じた結果、いいなりになり続けた女子」の姿か……)
フェルナンドは彼なりに妹を深く愛していた。血生臭いプロレスラーなど辞めて、スペイン貴族の子女として良い家に嫁いで平穏で幸せな人生を送ってほしい。その願いを押し付けてきたのは間違いない。親も団体も彼女の意志を尊重しなかった。実力ではなく華を期待され、女子だからと軽んじられ、兄と比較され……。
結果、妹は猛反発し、つい二日前、この世界大会EQTの予選での敗退を機に、何を思ったか突然家も団体も飛び出して、メキシコの零細ルチャ団体へ移籍すると言い残し、悪役レスラーの弟子入りをしてしまった。なにを考えているのか理解不能、フェルナンドは平静を装いつつも胸の奥で激しく動揺したものだ。
フェルナンドとて、あくまで彼女の為を思っていたつもりだった。しかし今、目の前で「マエストラ(導き手)の言葉が全て」と語り、自身の意志を完全に放棄してしまっているビアンカの姿を見た時、フェルナンドの胸中に渦巻いたのは、強烈な違和感と嫌悪感であった。もし妹がこの少女のように、空っぽの人形になっていたとしたら。それは決して、彼の望んだ幸せの形などではない。自身の過去の傲慢さを突きつけられたような錯覚に陥り、フェルナンドは彼女の顔から視線を外す事ができない。
その刹那、青コーナーから弾かれたように飛び出してきた巨体が宙を舞った。
「放せっ!」
救出のためにリングインしたエル・ザ・スターセイバーの、高打点のドロップキックにより、揃えられた分厚い両足の裏が、フェルナンドの背中を情け容赦なく打ち抜いた。
「ぬぅ……ッ!」
フェルナンドの身体が前方へ吹き飛ばされ、強固なヘッドロックが完全に砕け散る。解放されたビアンカは激しく咽せ返りながら、這うようにして自陣のコーナーへと逃れる。
「かわろうビアンカ」
「はい」
タッチ紐を握って逃れてきたビアンカの白い肩を叩くことでタッチを交わし、エルは正式な権利を得てリングへと躍り出る。ドロップキックの衝撃から顔をしかめて起き上がりかけたフェルナンドの視界に、エルが迫る。
「うおおお!」
重心を低く落とし、猛牛のように真っ直ぐに突進してくる低空タックル。
(芸の無い……ッ!)
フェルナンドは冷笑した。直線的なパワー攻撃など、闘牛士の技術の前では赤子の手をひねるより容易い。フェルナンドはエルの突進の勢いを最大限に利用し、頭部をマットへ突き刺す必殺のカウンタームーブ、「カポーテ・ピルエット」で対抗すべく、最小限の歩法で身をかわそうとする。しかし、フェルナンドがサイドステップを踏んだその瞬間。リングシューズがキャンバスを強く摩擦する鋭い音が鳴り響いた。エルの体が、フェルナンドに接触する直前で急ブレーキをかけて完全に停止したのだ。
「フェイントだと!?」
「かかった!」
相手の勢いを利用するはずが、対象が突如として目の前から消え去ったことで、フェルナンドは無駄なサイドステップを踏まされ、体勢を崩した。エルの「突進力」というわかりやすい武器を逆手に取った、見事な頭脳戦であった。重心を乱したフェルナンドの懐へと、エルが鋭く踏み込む。レスキュー隊員時代、数多の要救助者を炎や瓦礫の中から運び出してきた、熟練の動き。エルはフェルナンドの身体を瞬時に自らの肩の上へと担ぎ上げた。
「さぁ、ボクの得意技、受けて貰おう! 『スターセイブ・ドロップ』!」
エルの叫びと共に、変形のファイヤーマンズキャリー・ドロップが火を噴く。通常であれば後頭部から落とす技だが、エルは大きく跳躍し、敢えてフェルナンドを背中からマットへ水平に落下させた。それと同時に、自らの全体重を乗せた鋭い肘を、落下していくフェルナンドの鳩尾へ向けて正確に振り下ろす。
「な、何……ごほっ!?」
背中を打つ衝撃と同時に、横隔膜を肘で無慈悲に押し潰される二重の苦痛。肺の中の空気を根こそぎ絞り出され、フェルナンドの端正な顔が激痛と酸欠で無様に歪む。だが、エルの攻撃はそこで終わらない。スタミナと打たれ強さに難があるスペイン貴族に対し、その呼吸を狙い、徹底的に破壊しにかかる。
「貴方の技術は脅威だ、油断はしない!」
ダウンして鳩尾を押さえ、酸素を求めて喘ぐフェルナンドの胸板へ向け、エルは自らの太い脚を高く跳ね上げ、全体重を乗せた容赦のないレッグドロップを冷酷に投下した。
「ガハ……ッ!?」
喉元から横隔膜にかけての呼吸器を無慈悲に押し潰されたダメージは深く、スペイン貴族の端正な顔は苦痛にひどく歪んでいた。だが、彼は激しく咳き込みながらも、自身の首と胸をさすり、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って立ち上がる。荒い呼吸を繰り返しながら、フェルナンドの紫の瞳は、目の前で警戒の構えをとるアメリカの若き英雄、エル・ザ・スターセイバーを真っ直ぐに射抜いていた。その瞳に宿っていたのは、それまでの冷笑的な色ではなく、どこか自嘲めいた、静かな諦念と悟りのような光だった。
「ゼェ……ゼェ……ッ! 救えばいい、守ればいい。ゲホッ……、弱きものはただ守られて居れば幸せ。そう思っていたが……ハァ……ハァ……ッ、どうやら俺は間違っていたらしい」
ドームの喧騒の中でも不思議と通る静かな声で、フェルナンドは語りかける。彼の脳裏には、良かれと思ってプロレスから遠ざけようとし、結果として反発して家を飛び出してしまった妹、ヒメナの姿がこびりついて離れない。そして、この急きょ決まったエキシビジョンマッチという舞台で邂逅した者たちに皮肉な縁を感じずにおれない。自らの意志を持たず指導者の言いなりになっているビアンカ、ただ盲目的に「救う」ことを正義と信じて疑わないエル、そしてなによりこの自分自身。
「ゼェ……ゼェ……、スターセイバー、か。貴様は……間違えてはいないか?」
「な、なんだと!?」
フェルナンドのその静かな問いかけは、エルの心の最も脆い部分を鋭利な刃のように抉り取った。エルの脳裏に、予選で敗北を喫した相手、戦闘マシーンを自称するロシア代表選手のクロエ・スネグーラチカの冷ややかな視線と声が鮮明にフラッシュバックする。
『救いなど求めていない。そもそも勝てる実力を得てから言うべき事では?』
己をネジと呼び、他者を拒絶する少女に実力でねじ伏せられ、己の「救う」という信念が単なる強者の傲慢、あるいは力なき者の自己満足に過ぎないのではないかと突きつけられた、あの日の屈辱と動揺。それが黒い染みのようにエルの胸中に広がり、彼の太い腕から微かに力を奪った。
「間違っているはずが……!」
エルは自らの内に芽生えた迷いを物理的な暴力で振り切るように、雄叫びを上げて突進した。そして、フェルナンドの顔面めがけて、分厚い筋肉に覆われた重いエルボースマッシュを力任せに打ち下ろす。だが、その一撃には、レスキュー隊員として極限の現場で培ってきた冷静な判断力も、他者を守り抜くという確固たる揺るぎない意志も欠けていた。ただ迷いを振り切りたいというだけの感情に任せた大振り。そんな直線的な打撃など、スペイン代表選手の中でもそのテクニックでトップエースの座にいるフェルナンドの前では、あまりにも容易い獲物であった。
「遺憾だがな。……どうやら正しいと信じた時に、人は間違うらしくてな!」
フェルナンドはエルの豪腕を最小限の動きで紙一重でかわすと、そのままエルの太い腕を絡め取り、素早く背後へと回り込む。そして、闘牛士の細く引き締まった筋肉が一気に爆発した。エルの百キロ近い巨体が、裏投げの要領で軽々と宙に浮き上がる。だが、フェルナンドの狙いは単なる投げ技ではなかった。空中で自身もエルに重なるように跳躍すると、両膝を鋭く折り曲げる。そして、背中からマットへ叩きつけられるエルの無防備な腹部へ向けて、自身の右膝を剣のように突き立てたのである。カウンターの裏投げとニー・ドロップを複合させた、フェルナンドの恐るべき必殺技「エストカ・デ・フエゴ(炎の致死剣)」が炸裂した。
「ぐは……ッ!?」
投げの衝撃と、腹部を鋭い膝で完全に貫かれた二重の破壊力に、エルの目が見開き、口からは肺の中の空気が絶望的な破裂音と共に吐き出された。完全に朦朧状態になり、荒い息をつくばかりで動くこともままならないエルの体。フェルナンドは自らの膝をエルの腹に突き刺した体勢から、流れるようにエルの片脚を抱え込み、片エビ固めの体勢へと移行した。
「偉そうに言う。我ながら度し難いな……」
他者の生き方に説教じみた事を口にしながら、その実、その言葉が叩きつけられるべきは自分自身であるべきという矛盾。フェルナンドは自嘲の笑みを浮かべながら、エルの巨体を押さえ込む。レフェリーがマットに滑り込み、キャンバスを強く叩く。
「ワン! ツー!」
スリーカウントまで、あとわずか。
「……ッ!?」
だが、三度目の掌が振り下ろされる直前、青コーナーから白い閃光が飛び込んできた。ビアンカ・ディ・スペッキオが、一切の躊躇なく跳躍し、空中で美しく揃えられた両脚を、フォールの体勢に入って無防備になっているフェルナンドの側頭部へ向けて鋭く突き刺した。
「ダメです」
感情の全くこもっていない、しかし絶対的な拒絶の言葉と共に放たれた完璧なドロップキック。
「がッ……!?」
脳を激しく揺らされ、フェルナンドの身体は弾き飛ばされるように自陣コーナー近くまで転がっていった。間一髪のところでスリーカウントは阻止されたのである。
赤コーナー付近で視界を揺らし、立ち上がれずにいるフェルナンドに対し、ロープ越しに力強く腕が差し出された。
「レオン卿、後は任せよ」
フェルナンドは荒い息を吐きながら、差し出されたハイジの手に自らの手を重ね、タッチを成立させた。
「……済まない」
リングの主役は再び、「白亜の不落城塞」へと移る。ハイジはロープの間を潜ってリングインするや否や駆け出し、フェルナンドのカットに入って着地したばかりのビアンカへと突進した。しなやかな脚線美を誇る肉感的な長い脚が、突き出すビッグブーツとなってビアンカの小さな身体を捉える。
「下がれ小娘!」
「きゃっ……!?」
まともに蹴り飛ばされたビアンカは、エプロンサイドの外側へと無様に転がり落ちていった。邪魔者を排除したハイジは、マットで腹を押さえてうずくまっているエルを見下ろす。
「いつまで寝ているの、立て、下郎」
ハイジはエルの金色の髪を容赦なく掴むと、その体を無理やり引き起こした。髪の毛を引きちぎられんばかりの痛みに、エルの口からうめき声が漏れる。
「うぅ……」
だが、引き起こされたエルの瞳には、まだ闘志の炎が消えてはいなかった。呼吸も絶え絶えになりながら、彼は最後の力を振り絞ってハイジの太い胴回りにしがみついた。
「ま、まだボクは折れていない!」
エルはレスキュー隊員時代に幾多の命を運び出したその強靭な両腕に、全身の筋肉の残りすべてを注ぎ込む。ハイジの女子レスラーとしては規格外の質量を、気合いとパワー任せに「お姫様抱っこ」の体勢で強引に抱え上げた。
「何ッ!? こ、これは……!?」
突然自身の体が宙に浮いたこと、そしてなによりその自分がされることなど夢想すれど有り得ないと思っていた抱き上げ方に、ハイジの高慢な顔が崩れ、頬に朱が差して驚愕が走る。エルは抱え上げたハイジの巨体を、自らの立てた片膝へと向けて勢いよく落とし、背中から激しく叩きつけた。シュミット式バックブリーカーによる強烈な衝撃。
「ぐぅっ……」
ハイジの肺から空気が漏れる。だが、エルの必殺技はこれだけでは終わらない。背中が膝に激突した反動を利用し、エルは膝でハイジの身体をサッカーのリフティングのように再び上方向へと跳ね上げた。空中にわずかに浮き上がったハイジをガッチリと抱え直すと、自身の身体を後方へと大きく反らせ、美しいブリッジを描く。そのまま相手をうつ伏せの姿勢でマットに深々と叩きつける、二段構えの凄絶なフィニッシャー。
「がふっ!?」
エルの誇る必殺技、「Ro.H.S(ローゼス・ハリケーン・スープレックス)」が、ついに白亜の城塞を捉えた。ドームのキャンバスが爆発したかのように跳ね上がり、激しい轟音が鳴り響く。エルはブリッジの体勢から崩れ落ちるように倒れ込み、荒い息を吐きながら仰向けになったハイジへとフォールに行こうと這いずる。これほどの技を完璧に決めたのだ。いかなる怪物であっても、立ち上がることは不可能なはずだった。
しかし。
「なっ、このボクの『薔薇』を受けて……!?」
エルの目前で、信じがたい光景が繰り広げられていた。マットに顔面を……全身を正面から叩きつけられたはずのハイジが、フォールに来ようとするエルを片手で鬱陶しそうに突き飛ばし、ケロッとした顔で、何事もなかったかのように平然と立ち上がったのである。ダメージの蓄積も、苦痛の表情も一切見られない。まるでそよ風を受けたかのように服の埃を払うハイジは、這いつくばるエルを冷酷に見下ろした。
「無駄とは言わん。効いたわ。……だが、この白亜城塞はこの程度では落ちん!」
誇り高きドイツ貴族のその宣言は、五万人の観衆と、限界を迎えていたエルの心に、絶望という名の分厚い壁を打ち立てたのであった。
リング上に落ちた静寂は、まるで巨大な真空地帯が生み出されたかのような錯覚さえ抱かせた。数秒の完全な沈黙の後、観客たちから地鳴りのような驚愕のどよめきが沸き起こり、東京ドーム全体を大きく揺さぶった。
『な、なんということでしょう!? エル・ザ・スターセイバーの必殺技(フェイバリット)である「Ro.H.S(ローゼス・ハリケーン・スープレックス)」を受けてアーデルハイト・フォン・シュタール、平然と起き上がったぁ!?』
実況アナウンサーの動揺を隠せぬ絶叫が、スピーカーの限界を超えて割れんばかりに響き渡る。隣に座る解説のキンタロウは、腕を深く組んだまま、信じられないものを見るような目でリング上の光景を凝視し、呆れたように低く乾いた笑いを漏らすしかなかった。
『ハハ……とんでもないな。さしもの私もどうコメントしていいかわからない』
数々の死闘を見届けてきたキンタロウをして、完全に言葉を失う異常事態である。エルの技は、タイミング、角度、威力のすべてにおいて文句のつけようがない完璧なものだった。あれを食らって何事もなかったかのように平然と立ち上がるなど、キンタロウの知り合いの中でも同じ事ができそうなのはザ・グレート・ベンケーかイワン・シュテンドルフくらいしか思いつかない。
『貴族の矜持か、はたまた騎士の鉄の誓いか! 「白亜の不落城塞」の名は伊達ではない!』
実況アナウンサーは興奮のあまり前のめりになり、マイクに飛沫を飛ばさんばかりの勢いで叫び続ける。
『なんで一回戦負けしているんだ、アーデルハイト・フォン・シュタール!? そういう観客たちの心の声が聞こえるかのようです! ええ、乙女の秘密ですね』
観衆の脳裏に、乙女のあられもない嬌声が再びフラッシュバックしそうになるのを感じ取り、キンタロウは冷や汗を流しながら、低く凄みのある声で実況の暴走を強制的に制止した。
『だから、やめてさしあげろ』
その声は僅かに震えていた。
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汗と熱気と咆哮が渦巻くリングサイドとは対照的に、東京ドーム三階に設けられたVIPスイートは、俗世から切り離されたかのような静寂と豪奢に満ちていた。厚いガラスの向こうでは数万人の観衆が総立ちとなって熱狂しているというのに、その喧騒は遠い世界の出来事のようにくぐもって聞こえるのみ。広々とした室内の中央、最高級の革張りソファに悠然と腰を預け、アールグレイの香り立つティーカップを優雅に傾けているのは、一人の老婦人であった。
銀色の髪を夜会巻きのように高く結い上げ、一糸の乱れもなく美しく整えられた彼女の名は、レジーナ・アルティエリ。イタリアのプロレス団体のトップたちで構成される巨大協会「F.I.L.P.」の代表であり、今大会の運営委員の一人として大きな権力を持つ女傑である。御年七十歳。その肌には歳月の刻んだ皺がある。しかし、その皺さえも長年にわたって培われた権威と凄みの一部であるかのように、見る者を圧倒する堂々たる美しさを放っていた。かつてヨーロッパの女子プロレス界において「最も美しく、最も強い女」と称され、一世を風靡した伝説の美女レスラー。その全盛期の栄光の面影は今なお色褪せることなく、背筋の伸びた姿勢と、氷のように冷たくも艶やかな瞳の奥に色濃く残っている。
彼女の右手には、漆黒の和柄扇子が握られていた。パチン、と扇子を閉じる乾いた音が、広いVIPルームの静寂を切り裂く。その小さな音にビクンと肩を震わせたのは、レジーナの傍らに直立不動で控えている、サングラスをかけた黒服の側近の男であった。空調の効いた快適な室内であるにもかかわらず、その額には薄く汗がにじんでいる。
「……結局、白墨は切り捨てましたか」
紅茶のカップをソーサーに静かに置きながら、レジーナは抑揚のない声で問いかけた。
「は、つながるラインは全て処理済みです」
側近は深く頭を下げ、声を震わせながら報告する。レジーナが手を引くと決めた後もターゲット暗殺に拘り、結局キンタロウとその友人の手によって実行役の「ルーポ・ディ・ジェッソ(チョークをかじった狼)」を捕縛されてしまった。不始末としか言いようがない。もっとも、こちらに辿り着けぬよう手は打ってあることだけが救いと言えようか。
「メンツにこだわって勝手に動いた挙句のこの始末……如何様にも仕置き下さい」
恐怖に縮み上がり、自らの失態も重ねて詫びる側近に対し、レジーナは視線を向けることすらなく、ただ冷淡に言い放った。
「構いません」
それは慈悲などではない。彼女の描く壮大な盤面において、その程度のコマの損失など、怒りを覚えるほどの価値すらないという残酷な事実の表れであった。
「寛大に感謝を……」
安堵の息を漏らす側近は、恐る恐るレジーナの横顔を窺い、分厚い防音ガラスの向こう、リング上で展開されている戦況へと目を向けた。
「……ビアンカ嬢のチームは劣勢のようですが、その割にどうやらご機嫌よろしいようで?」
側近の言う通り、眼下のリングでは、ビアンカのタッグパートナーであるエルが必殺技(フェイバリット)すら通用せず、完全に力尽きてしまい、いよいよ無敵の耐久力を見せつけるハイジの前に、ビアンカ一人が圧倒的な窮地に立たされようとしていた。レジーナが目をかけ、手塩にかけて指導してきたビアンカの敗色が濃厚であるにもかかわらず、レジーナの唇には薄く満足げな弧が描かれていたのである。
「我儘なアメリカのヤンキーどもを利用して、うまくビアンカに見せ場と経験値を与えられました」
同じ大会委員を蔑称で切って捨てながら、レジーナは和柄扇子を開き、口元を隠しながら優雅に微笑んだ。アメリカ人の大会委員のプライドはアメリカ人レスラーの本戦進出者がフリーランスのシロオニ・ベスのみという事実に耐えられず、影響力の誇示の機会を強烈に求めていた。そこにレジーナはほんの少しその背を押して応援し、ビアンカをその相方としてこのエキシビジョンマッチへ参加させたのだ。
「ビアンカもそうですが……負けから学びなさい。私も若手・新人の頃はよく負けたものです。負けても決定的な問題にならない機会の貴重さは、なかなかその時には分からないものよ」
かつて頂点を極めた彼女の言葉には、揺るぎない説得力があった。天才的な模倣能力を持つビアンカにとって、今必要なのは目先の勝利という薄っぺらい結果ではない。世界中から集まった規格外の強者たちが放つ本気の技や技術を、その身に受けて「鏡」のように正確に映し取ることこそが最大の目的。そして、致命的な大怪我を負うことなくそれを成し遂げるために、エルのような頑強で自己犠牲を厭わない盾役が共にリングに立つこのエキシビジョンマッチは、これ以上ないほど理想的な実験場であった。
「成程……」
レジーナの底知れぬ深謀遠慮に、側近は背筋を凍らせながら感嘆の声を漏らす。彼女は最初から、この特別タッグマッチの勝敗など微塵も気にかけてはいなかったのだ。そして、自分もまた、失敗の機会を与えられた事に気付く。マフィア付きの裏稼業の人間であった自分たちをもっと高度な集団になれと成長を促されている。側近の男はマフィア時代の癖が抜けずにつまらぬメンツに拘っていた自身の幼さに羞恥し、レジーナへの忠誠を一層深めた。
「今回はこれで十分。来年……次回のEQTこそがビアンカの本番です」
レジーナの鋭い眼光が、ガラス越しに孤軍奮闘するビアンカの小さな背中を射抜く。
「それなりにコストはかかりましたが……決定的な失敗はしていません。経費と割り切るべきでしょう。土台ができれば後は私の技を全て身につけさせるだけ……」
自らの意志を持たず、何でも完璧に答えてくれる美しく純粋な鏡。伝説は蘇る。蘇らせて見せる。レジーナの飽くなき野望は、今、自らの全盛期の栄光とすべての技術を、愛弟子たる娘の若き肉体を通して完全にこの世に蘇らせるという、ある種の狂気を帯びた執念へと向かっていた。
ふと視線を落とし、レジーナはテーブルの上に置かれていた一枚のメモ用紙を、指先で滑らせるようにして側近へと差し出した。
「ああ、そうそう。大会終了後、この者たちの情報は集めて置いて頂戴」
側近は恭しくメモを受け取り、そこに記された名前の羅列に目を走らせる。
「ワン・ナイト・シンデレラにポモナ・ウィリアムス、それにサブロウタ・ミヤガワですか。……お気に召しましたか?」
無名の身から勝ち上がってきた未知数の強豪シンデレラ、ビアンカと直接対峙し、その在り方に一石を投じたスイスの英雄の後継ポモナ、そして今大会の台風の目となっている日本の中心選手、三郎太。いずれも今大会で特異な輝きを放った者たちである。側近の問いに対し、レジーナは冷たくも艶やかな笑みを深くした。
「ええ、気になる子たちだわ」
再びティーカップを手に取り、優雅に紅茶を嗜む老婦人の瞳には、次なる戦いの火種を品定めするような、底知れぬ野心と暗い策略の光が揺らめいていた。彼女の思考はすでに、眼下で繰り広げられているリングの決着など遥かに越え、次なる巨大な盤上へと飛翔していたのである。