「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
巨大なアリーナを埋め尽くした観衆の怒号のような歓声が、コンクリートの壁を震わせている。行われるのは世界プロレス大会としての一大イベント、EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦決勝戦。
『さぁ、この大会の覇者をひと目見んものと、東京ドームの観客席には各界の著名人の顔があちこちに見えます! 熱気はすでに最高潮!』
実況の第一声に呼応するように、天井の大型スクリーンにVIP席の様子が次々と映し出され、ドームのボルテージが一段と跳ね上がる。その熱気を引き取るように、中央の照明がカッと切り替わり、リングアナウンサーがマイクを握った。
『それではお待たせしました。――レディス&ジェントルメン! これよりアース・クェイク・トーナメント東京大会! 決勝戦を行います!!』
地鳴りのような拍手が巻き起こる中、会場のスピーカーから聞き馴染んだ軽快なドラムのイントロが鳴り響く。太平プロレスのエース、宮川三郎太の入場曲だ。
『それでは青コーナーより、宮川三郎太選手の入場です!』
アナウンスと同時に、観客たちの視線は一斉に入場ゲートへと惹きつけられる。
『おおっと~~! ごらん下さい! 一塁側に設置してあるゲートからいっせいにスモークがふき出し~~! 宮川三郎太のテーマ曲と七色のレーザー光線が所せましとドーム内をかけめぐる!』
鮮やかなサックスが弾けた。静けさを切り裂く鋭い音色が、会場の空気を一気に張り詰めさせる。そして、カクテル光線の渦が乱舞するその中心、スモークの霧を割って一人の男が踏み出した。
『ああ~っと、そして今、ゲートから姿が見えたー!』
銀の団体公式ジャンパーをカスタムしたものに腕を通した三郎太は、自らの両頬を強くパンと叩いて気合を入れる。
『さあここで、この東京ドーム~、期せずして三郎太コールだぁ~!!』
つめかける観衆が一斉にその名を叫び、ドーム全体が物理的に揺れるのではないかと思うほどの空気の震えが花道を包み込んでいく。
『さあ、ようやくカメラがとらえましたー! 宮川三郎太、花道を入場です! セコンドが脇を固める中、堂々とした歩みだぁ!』
三郎太は一歩一歩、大舞台の床を確かめるように進む。周囲から突き出される無数の手に呼応するかのように、右拳を何度も頭上へ突き上げながら花道を踏破。団体の看板を背負う男の風格でリングのエプロンへと昇る。
『太平プロの若手エースはここまで来た! 日本の三郎太! 今、エプロンからロープをくぐり、決勝戦のリングに立ちます!』
ロープをくぐり、リング中央へ。羽織っていたジャンパーを荒々しく脱ぎ捨ててセコンドへ放ると、いつものシンプルな試合衣装姿となり、地響きのような咆哮とともに、最後にもう一度、拳を天高く突き上げた。そのまま自らのコーナーへ下がり、深く息を吐きながら対角線を見据える。
次の瞬間、場内のライトが鮮烈な深紅へと塗り替えられた。ざわめきが一瞬で凍りつき、ドーム全体に張り詰めた静寂が広がる。それを破るように、重厚な金管楽器の旋律が響き渡った。
『あ~っと、続いてこのテーマ曲はドヴォルザークの「新世界より」だぁ!』
第四楽章の金管による重低音の刻みが、会場の空気を一変させ、観客の視線が再びゲートへと釘付けになる。
『出たぁ~! この東京ドームの観客たちよ、すべてひれ伏せと言わんばかりに英国の若き女王の姿が今、ゲートから現れました!』
まばゆいスポットライトの光輪の中に、ローラ・ザ・チャージが悠然と立っていた。赤と金をあしらった高貴なガウンをまとい、覇王の如き佇まいから滲み出すオーラで、この巨大な空間すべてを支配する。
『従者のようにセコンドを引き連れ、優雅にガウンを翻しながら花道を征進するその姿は、まさに突撃の覇者(ザ・チャージ)!』
白いファーを揺らしながら、一歩一歩、確かな威圧感を伴って花道を進むローラ。時折、流し目で観客席へ軽く手を掲げるだけの傲然たる足取りに、周囲のファンたちが熱狂した。
『観客席から忠実なる女王の臣下──彼女のファン達が、独特のイントネーションをつけたコールで唱和! その進撃を讃えております!』
ドームを包む熱狂的なコールの嵐を、涼しい顔のまま受け流し、一切の迷いなくエプロンへ。しなやかな動作でロープをくぐり、リングへとその足を踏み入れた。
『団体「RCWS」が誇る最強の女傑! ローラ・ザ・チャージが今、軽やかにロープをくぐり、リングイン!』
彼女は、おもむろに重厚なガウンを脱ぎ捨てる。鮮烈な色彩の戦闘服コスチュームと、ライトを浴びて眩しく輝く肢体が露わになった。小柄な体躯でありながら、常に強者との戦いを求める圧倒的な存在感がそこにある。ローラは胸に手を当て、英国式の気高い一礼をひとつ。しかしその瞳は冷徹に、正面の三郎太だけを真っ直ぐに射抜いていた。
「There’s no way to lose!(私が負けるわけがないわ)」
準決勝を経ても彼女の宣言は変わらない。できるものなら力づくで変えさせてみろとでも言うかのようだ。不敵な笑みを浮かべて自らのコーナーへと寄りかかるローラ。
こうして、世界を賭けた決勝戦のリングに、二人の主役が揃い踏みした。
宮川三郎太は応援席から上がる声に、わざわざ来てくれたことへの感謝を示そうとロープ際から顔を向け、そして後悔した。
「せんぱーい! 応援してますよー! 悔いが無いよう全力出し尽くしてください! もし優勝できなくてもイロイロ慰めてあげますからね!」
応援席の最前列には昨日の本戦二回戦で三郎太と激戦を繰り広げ、戦いの中で想いを告げて試合に敗れ、同時に恋にも破れたはずの久我雫の姿があった。試合後、既に欲する所を為したとしてオトギプロへの出向を終え、オディールの悪役(ヒール)ギミックを返上し、太平プロに戻ったとは既に聞いていた。だが今日の彼女はその身を太平プロのトレーナーとジャージズボンに包み、あまりに清々しい顔で、あまりにギリギリな表現を口にしている。
「三郎太さーん! 王子に許可もらって応援に来ましたーっ! がんばってーっ!」
隣で自作と思しき手持ちの小さな応援旗を振っているのはムー帝国のタイ子である。ムームーダンサーズの一員として王子、ウラシマまりんの従者を務めていたはずの彼女はこの数年、密かに戦士としてトレーニングを受け、今大会にムー帝国──ウラシマの後押しを受けて、覆面を被って新衣装で新人覆面レスラー「レッドブリム・マーメイド」として参加していた。予選リーグでマイルズ・リードとカレンに勝利したものの、三郎太と戦い敗れ、突破は叶わなかったが淡い好意を向けている三郎太に名乗ってもいないのに正体を看破されて後、彼女はだいぶご機嫌である。タイ子は今、元通りムームー・ダンサーズの衣装姿で応援席に座っていた。
「うぅ、なんだか視線が集まってる気がしてお腹痛い……。もし勝ち上がってたらこんな恐ろしい舞台に上がる事になってたかと思うと……。でも、我慢だよ、私。英雄の後継同士、『一緒に未来を見よう』って約束したあの人の雄姿をしっかり見届けないと……! 宮川三郎太さん、しっかり見てますから!」
お腹をさすりながらも視線はリング上から外さず、じっとりとした情念を向けているのはスイス代表選手にして、本戦一回戦で三郎太に敗れたサイドポニーの金髪長身巨乳美女、ポモナ・ウィリアムスである。彼女は試合中と試合後の三郎太との会話を完全にプロポーズの類するものと誤認しており、再戦の約束と勘違いした三郎太に「待っている」と言われた事でもはや取り返しのつかないレベルでアンジャッシュを拗らせていた。
応援席最前列の三人はふと横で声を上げる女の声に混じる想いを互いに感じ取り、無言で視線を交差させ合う。
(タイ子さん、先輩のこと気になってるの? え? いつの間に? 三年前とかそんな素振りなかったはず……わたしが見落としてただけ? それにあのスイス女の目……あれは本気の目?)
雫は疑いのまなざしを浮かべて横目で二人を見やり、危険性(なんのだ)を察知して牽制の為、その身に邪悪なオーラを纏う。
(三郎太さんの後輩の子、なんか距離感おかしくないかしら? というか試合中に失恋してたよね? どういう感性してるの? そしてウィリアムスさんの姪だって言うけどこのポモナって子……で、デカい! タッパも! おムネも!)
タイ子は困惑していた。雫の立ち位置が分からず、ポモナの恵まれた身体の優位への危機感を隠せない。
(横の人たち誰だろう。黒髪の日本人の子からは悪い子の気配がする……三郎太さんのこと先輩呼びしてるけど、これ私が注意しないと駄目な奴かな? それと頭に魚の飾りのせてるこの人は一体……? 名札のムー帝国来賓って……ムー帝国!? 海底王国とかリアルの話だったの!?)
ポモナは迷っていた。あまりに黒く禍々しい闘気を放つ雫に対し、三郎太の「愛の同志」として注意すべきかどうか。そして常識を簡単に蹴飛ばすタイ子の出自がとんでもニュースの話ではなく現実に厳然と在るのだという事実へ戸惑う。
(((なんだこいつ)))
「……なんで私はここに座ってしまったかなー?」
牽制し合う女たちの隣で居心地悪そうに呟くのは、三郎太の所属する団体「太平プロレス」の団体社長、松平林吾である。雫が出向を途中で放り出して帰って来たのは別にいい。そもそも精神的にどん底に落ちてレスラー人生すら終えかねない危険な状態にあった彼女の再起のための措置だったのだ。メンタルを持ち直し、元気になった今、あえて友好団体に預けて悪役を続けさせる必要もない。ただ、戻ってからの雫が以前と同じようでいて、明らかになにか決定的に変わってしまったような気がして不安がぬぐえない。元気にはなったが、かつての優等生の善玉ライジング雫は永遠に失われたのではなかろうか。そしてその隣の二人……。
(三郎太クン……罪というものは放置すると、積み上がっていつか雪崩打つように襲ってくるものだぞ……)
林吾は未来の地獄を思い、宮川三郎太という団体若手エースの将来を憂いた。この場に居ないシロオニ・ベスや御子柴紅子とて黙ってはいまい。修羅地獄だな、と端的に結論づけた彼は、何とも言えないあいまいな笑みを浮かべてこちらへ視線を向けたものの、見るんじゃなかったという表情を浮かべている三郎太へ手を振る。
「……頑張れ三郎太クン。私に言える事はそれしかない」
林吾は色々考えるのをやめた。
「……『ノワール・ゲート』の僕が、ここに混ぜて貰って本当にいいんですかね?」
「気にすんな、心の友よ。いっしょにあの女王に予選で蹴散らされた仲じゃねえか! 松平社長も相談したらいい機会だし、構わないよって言ってくれたしな!」
応援席の二列目で敏感に雰囲気を感じ取り苦笑いしている結城の肩を叩いて親しみを溢れさせているのはブライアンだ。キャリアが近いのもあって、二日前の予選Jブロックサバイバルマッチにて即席同盟を組んで、ローラに叩き潰されて以降、彼は大分結城と気安い仲になっていた。それを考慮し、なおかつ知らぬところで小さな借りができていたという「ノワール・ゲート」の門脇取締役へのちょっとした嫌がらせの意味もかねて、林吾は鷹揚に同席を許可したのである。
「ねぇ、おじさん。サチたちここに座ったの失敗じゃね? ぶっちゃけ、美樹ちゃんみたいに一般観客席行った方がよかった気がしてならない!」
「サチもそう思うか? オレもそう思う」
その隣でぼそぼそ顔つき合わせて失敗を噛み締めているのはデンジャー・サチとバッカス木桜の師弟コンビである。三郎太のデビュー戦の相手を務めて以来の仲として、この大舞台を見届けてやろうと、ワンカップ片手に志願したバッカスと、予選での毒事件のこともあり、大会を最後まできちっと見届けたかったサチ。いずれもその気持ちはまっとうなものだが……主に最前列の三人のせいで空気が最悪です。本当にありがとうございました。
そんな応援席の状況を目の当たりにしてしまった、三郎太は笑顔をひきつらせて蚊の鳴くような声で「応援ありがとう……」とだけ呟くと、静かにリング上に視線を戻した。対戦相手のローラよりも、ある意味でこの応援席の方が面倒くさい気配がする。
三郎太はロープの張りを確かめるように軽くストレッチしながら、試合開始の時を待つ。はやく戦争(しあい)になーれ。
一方、対角線反対側のコーナーであるローラ陣営。当のローラは、傍らのトップロープに両腕を預けてリングサイドの応援席を見下ろす。そこに、見知った顔ぶれを見つけたからだ。
「応援しにきてくれなんて頼んでいないわよ、ハーレクイン?」
揶揄うような笑みを浮かべるローラの視線の先にはプロレス会場にはおよそ不釣り合いなフォーマルなタキシードに身を包み、そのくせ道化染みたフェイスペイントはそのままの男子プロレスラーの姿がある。英国マットのトリッキー職人――ハーレクイン・ザ・パイドパイパーだ。若き女王の言葉を受けた彼は、飄々とした態度を崩さず、いかにも紳士然とした仕草で肩をすくめてみせた。
「誰も居ないとキミが友達いないみたいじゃないか」
「はっ倒すわよ」
無礼ながら、どこか親しみの籠っている揶揄に対し、ピシャリと言い放つローラ。だが、ハーレクインはいつものことだと軽妙に笑うだけだ。焼け野原と化した英国マット界で、ローラの規格外の強さを知りながらも飄々としていられる数少ない男である。ローラの方もそれを承知の上であり、実際に彼を殴り倒そうなどと思っているわけではない。そのやりとりには数年来の同期に対する親しみが感じられた。
次いで、ローラの鋭い視線は、その隣に座る小柄な影へと移った。黒髪に青いメッシュの入ったツインテール。白とブルーで飾られたドレスを着ているにも関わらず、パイプ椅子に膝を組んで腰かけ、不満げに口を尖らせている女子プロレスラー。若手ながら英国マットのナンバーツーである実力者、エルザ・ファフニールだ。ドレス自体は仕立てのいいそこそこ高価な代物だが、その大胆に開いた胸元デザインのせいで彼女の薄い胸がどうにも強調されてしまい、悲しい程似合っていない。
「ハーレクインはいつものことだけど、まさか邪竜(ファフニール)……貴女まで応援席に座ってるとは思わなかったわ。どういう風の吹き回しかしら?」
予選で日本のジェニーに敗れ、本戦進出を逃したと聞く。かつて王座を争い、そしてローラの圧倒的な才能の前に歪んだプライドを抱えて若手を蹂躙していた彼女の性格を思えば、業腹だとこんな場は避けそうなものだが。
エルザはぷいっと顔を背け、噛みつくように言った。
「う、うるさい! アタシは見届けにきただけだ! お前がトロフィー持ち帰ったら試合を申し込むからな! 覚悟しとけ!」
かつての冷酷な瞳とは違う、どこか吹っ切れたような、隠しきれない熱血さを孕んだエルザの言葉に、ローラはわずかに目を細める。
「……ここ半年は挑戦すらしてこなかったのに、本当にどういう風の吹き回し?」
笑みを消して素で訝し気な表情でみやるローラ。だが、エルザは腕組みしながら頬を染めて顔を背け、答えない。
「刺激されるものがあったということさ」
二人の間に割って入るように、ハーレクインが楽しげに口を開いた。
「決勝戦、相手の宮川三郎太はなかなかの実力者だが、それでもボクの見た所、君がほぼ全てで上回っている。ただ――」
ハーレクインはちらりと相手方の応援席へ視線をやってから、わざとらしく人差し指を立て、クスクスと笑う。
「友達の数と身長では勝ち目がないがね」
「はっ倒すわよ」
またもピシャリと言い放つローラだったが、今度は口の端がひきつっていた。成長期前に筋トレに明け暮れたせいで身長が伸び悩んだ彼女にとってそれは禁句だ。
「フ、勝ちたまえよ」
涼しい顔でローラの殺視線を受け流し、ハーレクインが締める。
「当然」
不機嫌そうにしつつも応援席から退こうとはしないエルザと、缶飲料のミルクティーに口をつけるハーレクインを背に、ローラは楽しそうに、そして不敵な笑みを浮かべて試合開始を待った。
場内の照明が一段と落とされ、アナウンサーの厳かな声が響き渡る。
『これより、決勝戦を執り行うにあたり、セレモニーとして国歌吹奏を行います。皆様、ご起立ください』
かつて開催された世界大会「ECT(アース・クラッシュ・トーナメント)」の日本大会決勝では、イワン・シュテンドルフの妖術によって日本国旗が燃やされ、この儀式は無残に破壊されたという。だが、今ここで、決勝のリングに立つ両雄の間には、純然たる世界の壁と、それに挑む意地だけが厳然と存在していた。ドーム天井付近にEQTマークの旗を挟み、日本と英国の国旗が翻る。
観客も一斉に起立し、まずはイギリス国歌『神よ国王を護り賜え』の荘厳な旋律が会場のスピーカーから流れ始める。ローラは胸に手を当て、凛とした表情でその音に耳を傾けていた。普段の傲慢な態度は消え失せ、今この瞬間だけは、英国最古の団体「RCWS」の若き女王としての圧倒的な気高さが、その華奢な体躯から立ち上っていた。英国応援席ではタキシード姿のハーレクインが、フェイスペイントのまま、紳士の顔で静かに佇んでいる。
――だが、その隣だけは少し違った。
「~~♪」
エルザ・ファフニールは、背筋をこれでもかと伸ばし、似合わないドレスの胸を張って、大真面目に国歌を歌い上げていた……歌い上げてしまっていた。それは英国マットのナンバーツーとして、ローラの背中に負けぬ誇りを示そうという、彼女なりの熱血さの表れだったが──
この手のスポーツセレモニーにおいて、国歌は「静かに聴き入る」のが通例。周囲の観客も、ハーレクインも、誰も声を出してはいない。
「……ん?」
自分の歌声だけが静かなリングサイドに妙に響いていることに気づき、エルザの歌がピタッと止まる。ちらりと横目で見下ろしてきたハーレクインのあまりにも優しい、生暖かい視線に気づいた瞬間、彼女の顔はドレスのブルーとは対極の、茹で上がったタコのように真っ赤に染まった。
「う、うるさいわね! 歌ったっていいじゃないのよっ……!」
誰一人口を開いていないのに、一人で勝手に逆ギレして腕組みをし、ぷいっと顔を背けるエルザ。そんな彼女の不器用な空回りを見届けてから、ハーレクインは小さく肩をすくめ、ローラは口元に微かな笑みを浮かべた。
続いて流れる、日本国歌『君が代』。三郎太は静かに目を閉じ、その厳かな旋律を全身で受け止めていた。背負っているのは、日本の看板だけではない。なんだか以前と違う邪悪なオーラを纏いながらも、かつて以上の元気な姿を見せ、一瞬だけかつての真面目な瞳に戻って自分を見つめる雫。手持ちの旗を握りしめ、健気に祈るような視線を送るタイ子。共に大きな期待というプレッシャーを受ける者同士、熱い再戦への決意と強い意志を感じさせる目で見つめ、応援にかけつけてくれたポモナ。そして、何も言わずにただ「行ってこい」と手を振ってくれた林吾社長。
宮川三郎太の一人の戦士としての覚悟が、その横顔に刻まれていく。
――そして、国歌の余韻が静かに消えていく中、場内の照明が再びリングへと集束していく。リング中央で向かい合う二人の戦士を照らすライトが、静かに、しかし確実に決戦の幕開けを告げている。放送席にも、緊張と興奮が入り混じった独特の空気が流れ込んでいる。
『さあ、ついにこの瞬間がやってまいりました! EQT東京大会・決勝戦! リング上、いずれも譲らぬ両雄が対峙し、今まさに試合開始の時を待っております! 解説には大会公式アドバイザー、サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウさんをお迎えしています。キンタロウさん、ついにここまで来ましたね!』
カメラが放送席へ切り替わると、キンタロウはゆったりと脚を組み、涼しげな目元にわずかな笑みを浮かべた。カッパ頭というあまりにも個性的すぎる髪型をしていながら、そのハンサムな顔立ちと鈴を転がすような涼やかな声音だけで、どこまでも気障(きざ)に、そしてゴージャスに空気を支配してみせる。
『ああ、まさに「未来の世界一を目指す若者」たちの先頭走者を決める戦いに相応しい。世界各地のマットを転戦してきた私の目から見ても、どちらも「世界級」の猛者だ。勝者は将来の世界プロレスマットを左右する存在になるのは間違いないだろう』
その言葉に、実況席の空気がさらに引き締まる。キンタロウの声には、軽薄さと気障さの奥に、確かな「本物の経験」が宿っていた。
『有識者の間でも予想が真っ二つに割れているこの一戦ですが、ズバリ、キンタロウさんはこの試合のポイントをどこに見ますか?』
実況の問いかけに応じるように、キンタロウはリング上の二人へ、鋭く、しかし楽しげな視線を走らせた。まるで「最高の素材を前にした職人」のように。
『前知識なしでビジュアルを見れば、小柄なローラ嬢がスピードとテクニックで翻弄し、大柄な三郎太クンがパワーで迎撃する……という構図に見えるだろうね。しかし、ここまでの試合を見てきた皆さんにはご存知の通り、その構図は逆だ』
観客席のざわめきが、まるでキンタロウの言葉に呼応するように波打つ。
『と、言いますと……!?』
身を乗り出す実況アナ。モニターには、オーロラビジョンと連動してローラと三郎太の試合ダイジェストが流れ始める。それを流し見るように、キンタロウが流暢に言葉を紡いだ。
『ローラ・ザ・チャージの恐ろしさは、見た目と裏腹の「絶対的な破壊力(パワー)」にある。彼女は進撃し、蹂躙し、ねじ伏せていく常勝にして覇道のプロレス。対する宮川三郎太は、太平プロレスの若手エースと呼ばれるようになるまで、決して最強ではなかった。時に勝ち、時に負け、憧れた先達や、目前の対戦相手からあらゆるものを地道に吸収し続けてきた、泥臭い地に足がついた王道のプロレス。極めて緻密な「積み重ねた経験と技巧」の持ち主だ』
『成程、パワーの女王に対し、テクニックのエースがどう立ち向かうか。そういう戦いになりそうですね!』
熱を帯びていく実況の声。しかし、その興奮の渦中でキンタロウはふと、遠い記憶を見つめるように目を細めた。モニターの向こうで覚悟を決め、低く構えた三郎太の横顔に――かつて自らを破った「あの男」の面影を重ねるように。
端整な顔から一瞬だけアドバイザーの仮面が剥がれ、一人の執念深い「エンドレスファイター」としての私情が、消え入るような呟きとなって漏れ出す。
『……モモタロウ。三郎太クンはここまで来たぞ。お前は今どこでどうしているんだ……』
『キンタロウさん?』
一瞬の沈黙を不審に思った実況が声をかける。キンタロウははっと我に返ると、長い指先で前髪をさっと払って、小さく笑い、首を振った。
『フ……失礼、気にしないでくれ。さぁ、決勝戦を見届けよう』
ゴングを待ち望む東京ドームの空気が、張り詰めた弦のように震える。
――そんな熱狂と緊張が極限まで高まる会場の喧騒から離れた、バックステージの医務室。静まり返った部屋の壁に掛けられたテレビモニターには、国歌吹奏を終えてレフェリーを中心にリング中央へ歩み寄る三郎太とローラの姿が映し出されていた。見守るのは共に準決勝で敗れた二名。
頭部に包帯を巻いて、黙って医務室のベッドに腰かけ、モニターで決勝戦前のセレモニーを見つめるベス。そして、首にカラーを巻いて全身湿布だらけながら、リクライニングされたベッドに上体を預けてモニターを見るのだけはやめない御子柴。普段なら口喧嘩のひとつでも始まり、主任医師の永久寸に怒声を浴びそうな二人だが、今は黙って状況を見守っていた。
「……決勝でアイツとやりたかったニャ」
ぽつり、とモニターを見つめたまま呟いたのは御子柴だった。メキシコ時代の同門を破り、執念でここまで上がってきた。叶うならローラを破って、三郎太の同期として、あの決勝リングで戦いたかったという本音が、湿った声になって溢れる。
「試合前に私たちを茶化しに来たりするからよ」
ベスが淡々とした口調で、しかしどこか呆れたように、視線を画面に向けたまま返した。準決勝第一戦と第二戦の間、雫に唆されて共に現れ、ベスと三郎太とのやり取りを「やん大胆♡」などと散々からかい、ベスに追い回されてゲラゲラ笑うような真似をするからだ。この凄惨な敗北(グラウンド・アブドミナルストレッチでの失神KO)はそのツケだろうと彼女は言っている。
「ごめん」
リクライニングベッドの上で、御子柴がバツが悪そうに、ポツリと素直に謝罪を口にした。
「えっ? あ……いえ、気にしてないわ。雫がああなるとは私も思ってなかったし」
普段は唯我独尊な悪役(ヒール)の御子柴が急に素直に謝ってきたため、ベスは思わずグレイッシュブルーの瞳を丸くして、丁寧な女学生の口調に戻ってうろたえた。オディールを返上して太平プロに戻ってきたはずの久我雫が、吹っ切れた結果として、とんでもない方向へ突っ走る怪物に進化しているとは、さすがの二人でも予測不可能だった。
「三郎太勝てるかな」
気まずい空気を払うように、御子柴が色の白い首のカラーを少し揺らし、画面の中の、あの赤いパンツ姿の背中に視線を戻す。
「……私が認めた男だもの」
ベスは包帯の巻かれた頭を小さく振り、不敵に、どこか誇らしげに目を細めた。準決勝で「M'sライトニングスープレックス」で自分を完璧に叩き潰した男だ。たとえ怪物ローラが相手だとしても、その信頼は揺るがない。
「……」
御子柴は何も言わずモニターに集中した。二人の敗者の情念と、言葉にしない熱い期待が、静かな医務室の空気を満たしていく。画面の向こう、数万人の歓声が渦巻くリングの上で、ついにレフェリーの手が鋭く振り下ろされた。