「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
眩いスポットライトが照らし出すリングの中央で、宮川三郎太は対峙する「女王」の威圧感に、全身が総毛立つような感覚を覚えていた。
黒髪を短く刈り込み、レスラーとしては細身の引き締まった筋肉に包まれた肉体を赤で揃えたプロレスパンツとリングシューズに包んだ三郎太の視線の先には、決勝戦の対戦相手であるローラ・ザ・チャージが立っている。金髪をシャギーショート気味に切り揃え、赤、黄、白のグラデーションが鮮やかな首まで覆うワンピースタイプのリングコスチュームを纏った彼女は、その小柄で華奢な体躯からは想像もつかないほど濃厚な「強者の色香」を放っていた。
三郎太は、これまでずっと行方不明となった兄貴分──モモタロウの背中を追い続けるかのようにプロレスのリングで戦い続けてきた。その道中で出会い、魂をぶつけあうように戦ってきたベスや雫、御子柴、ジェニーといったライバルたち。彼ら一人一人との死闘が、今の三郎太の血肉となっている。だが、対するローラもまた、予選で5人を同時に撃破し、本戦でも赤ずきんや神宮寺、御子柴といった手練れを圧倒的な実力で叩き伏せてきた覇者だ。
相手にとって不足はない。いや、相手がどうかなどは関係ない。不器用な自分にはどんな相手であっても、今の自分の全てをぶつけて勝利のために尽くす事しかできないのだ。
「……行くぞっ!」
試合開始のゴングが鳴り響くと同時に、低く短い咆哮を上げて三郎太はマットを蹴った。心に一点の曇りも無い。優勝候補筆頭とされ警戒の限りを尽くされてきた女王を相手にして、あまりにも三郎太の踏み込みには躊躇がない。その鋭さに、観客席がどよめきに沸く。三郎太の右腕が唸りを上げ、込められた闘気が青く光るオーラとなって肘を包む。
「初手から全力!?」
応援席の最前列で、雫が目を見開く。軽い牽制などではない、全力全開の「ファイナル・エルボー」だ。渾身の肘打ちがローラの胸元に叩きつけられた。肉と肉がぶつかり合う鈍い音が響き、その衝撃と痛みを受けてローラの眉根が寄せられ、口元が歪み……直後、顔面が喜色に輝く。
「……ッ!」
だが、コーナーまで吹き飛びそうなその威力をその身に受けて、ローラはそれをマットに叩きつけるリングシューズの靴裏ひとつで殺しきった。硬質なゴムがキャンバスを強烈に削る音が響く。三郎太がすぐさま追撃に移ろうとしたその刹那。マットに突き立てるような蹴りつけで堪えきったローラの体が、その足を軸として鋭く回転した。受けた威力の一部さえ回転エネルギーに変換し、空気を切り裂く鋭い旋回から放たれる「ローリング・ソバット」。その重い衝撃が、踏み込もうとしていた三郎太の腹部にカウンター気味にめり込む。
「ぐはっ……!」
内腑に染みわたるような重たい蹴りを受け、胃液が逆流するかのような吐き気がせり上がる。呼吸にすらダメージは及び、三郎太はマットに膝をつき、激しく咳き込んだ。ソバットから着地したローラは、冷徹な眼差しを三郎太に向ける。肘打ちを受けた胸元を細い指先で軽く撫で擦って、楽し気に笑いながら、悠然と前進。膝をついた三郎太の肩口へ、容赦のないフロントキックを叩き込んだ。不安定な体勢に横ベクトルの一撃を受けて、三郎太の身体がロープ際までマットを転がっていく。
「さすがに決勝、有象無象のジャップ男……というわけではないわね。いいわ、立ちなさい。そして早く本気を出しなさい」
三郎太はロープを掴んで立ち上がりながら僅かに苦笑した。
(最初から本気だってのに、言ってくれるよ)
『おおっと~~! まずは立ち上がりの攻防! 初手から「ファイナル・エルボー」で強襲する宮川三郎太に対し、ローラ・ザ・チャージの強烈なカウンターが唸る! 痛みに耐えて即座に「ローリング・ソバット」での反撃! 宮川三郎太たまらず膝をついたぁ!』
実況の声が跳ね上がる。キンタロウは、腕を組んだまま涼しい顔で頷いた。
『フム……これまでの試合でも見せてきたローラ嬢得意の「受けて潰す」ムーブだね。衝撃をただ殺すのではなく武器に変える。「フライング・キラー」の異名もそうだが……あれは天性のバランス感覚と、怪物じみた体幹がなければできない芸当だ』
実況アナは手元の資料に鋭い視線を落としながら、さらにマイクを強く握りしめた。
『なるほど、ただのパワーファイターではない! ローラ・ザ・チャージ、まさに「戦場の女王」の佇まいであります!』
観客席で沸き立つローラのファン達。英国式の声を揃えた唱和の声援が盛り上がる一方で、応援席では邪竜エルザが唸り声をあげていた。
「おい、ハーレクイン、見たか? ローラが……蹴り一発返すだけで、ろくに追撃できなかったぞ?」
ドレス姿で腕組みしながら、食い入るようにリングを見つめ、緊張した声で確認を求めるエルザ。その問いに、ハーレクインは視線をリングから一切外さず、小さく、しかし確かに頷いた。
「大分効いたんだね、あのエルボー。カウンターするために後退を嫌がって踏みとどまった。そのせいで威力が芯に浸透してしまったんだ」
道化のフェイスペイントのせいで遠目には笑っているように見えるハーレクインは、化粧の下で完全に真顔で分析していた。ただのエルボースマッシュとは思えない。事実、その肘を纏った闘気が青く輝くオーラとして見えるほどの一撃。笑えなかった。
「……ジェニーはあれに勝ったことあるのか、そうか……」
予選で自分を破った日本人ハーフの女子レスラーの、あのライラックアイの眼光を脳裏に過らせ、エルザは複雑な表情を浮かべていた。
ローラの挑発を受けて、三郎太はロープを背に受けて反動を味方にする。
「……これならどうだっ!」
その身の加速を火薬代わりとして、高く、高く跳躍する。空中で身体を翻し、高高度から放つ捻り込むような渾身のドロップキック。だが、ローラはまるで見透かしていたかのように、その場から一歩も動かない。
──いや、一歩踏み込んだ。
「甘いわね」
その程度の小細工など問題にならないとでも言うかのように、ドロップキックの軌道をいなし、空中に無防備に身を投げ出した三郎太の腰を、ローラが強引に捕獲する。「フライング・キラー」の異名は伊達ではない。重力と加速をそのまま利用し、自らの体重を乗せて、キャンバスに叩きつける――対空砲火パワースラムが唸る。凄まじい衝撃が三郎太の背中を襲った。マットが爆発したかのような錯覚。視界が白く明滅する。
「ぐあっ……! はぁ、はぁ……やはり飛び技は、ダメか……なんて精度だ……!」
受け身を辛うじて取ったものの、ダメージは軽くない。「飛ぶものは須らく落ちる」などという概念染みた彼女の対空砲火パワースラム評を耳にした時はさすがに過言だろうと思ったが、実際に受けてみるとその恐ろしさは決して掲げた看板に劣るものではなかった。まさか、体格で勝る三郎太の跳び蹴りを完全にコントロールして撃墜する程だとは。試さずにおれなかった自分の業に苦笑を禁じ得ないが、代わりに納得という対価は得た。
引き起こしにかかるローラの指先が見える。三郎太はぐらつく意識の中で、死に物狂いで腕を伸ばした。掴もうとするローラの手を払いのけ、そのまま足元に滑り込み、下から脚をとって絡みつく。
「ならこうだ……アグラツイスト!」
かつてモモタロウが「モモ・スペシャル、その2」に数え、憧れから密かに三郎太が身に着けた技。そしてこれまでの数々の激闘で振るい、さらに磨き上げてきた技だ。インディアン・デスロックでローラの脚をあぐらをかかせるような形にロックする、変形コブラツイスト。三郎太は全神経を集中させ、ローラの身体を絡め取り、彼女の上体を捩じり上げるように締め上げていく。
「くぅぅ……ッ!」
だが、悲鳴を漏らしながらローラの口角がわずかに上がったのを、三郎太は見逃さなかった。
「こ、この技、ミコシバとの試合で既に見たわ」
ローラはその腕にくっきりと筋肉の盛り上がりが見える程に力を籠め、見た目と釣り合わない超パワーで締め上げに抵抗、いや押し返していく。その光景に三郎太は既視感があった。かつて太平プロの友好団体である「オトギプロレスリング」との合同興行において、かの団体の代表社長にして世界女子チャンプのベルトホルダーであるエディ・ダンテスと戦った際に彼女が力任せにこの技を脱しようとした時の記憶。あの時は体格差でなんとかパワーを凌ぎ切り、彼女はロープエスケープに途中で切り替えた。
しかし、今ローラは力づくで無理やり隙間をこじあけ、三郎太のロックをすり抜けていた。
(そんな!? パワーではエディさん程ではないはずなのに!?)
それは重心制御の差だった。「コブラツイスト(海外的にはアブドミナル・ストレッチ)」はローラの得意技だ。であるが故に、彼女はどうしくじると逃がしてしまうのかを熟知していた。裏返せば「どうすれば逃げられるのか」も熟知しているということ。技の構造を実感で理解している者だけが持つ、理不尽なまでの脱出精度だ。「関節技はもっと得意でね」などとエディ当人はうそぶいているが、エディ・ダンテスはやはり空中殺法と投げ技を主体に戦うレスラー。そこに二人の差が表れていた。
あっさり逃れさせてしまい、驚愕を顔に浮かべる三郎太。それを笑い、ローラは脱出と同時に彼の腕を捉え、背後に回り込む。
彼女は上機嫌だ。なぜならかつて彼女は新人時代にモモタロウの活躍をTVで目にしていた側の人間。アグラツイストはいつか戦いたいと願っていた彼の技のひとつ。それを受けて、駆け引きに勝利して脱出してみせたのはモモタロウ本人相手ではないにせよ、いい気分であった。
「お返しよ。サービスしてあげるから、とくと味わいなさい!」
ローラの得意技、「アブドミナル・ストレッチ」が完成した。三郎太の脇腹にローラの脇が食い込み、強靭な腕が三郎太の肩を、そして脚が腿を完璧にロックする。先ほどもそうだが、華奢なはずの彼女のどこにこれほどの力が潜んでいるのか。三郎太の身体がミシミシと悲鳴を上げ、脊椎が軋み、脇腹が限界まで引き絞られる。
「が、あああああ……っ!」
今度は三郎太が悲鳴を上げる番だ。逃げ場はない。力で抗おうとすればするほど、女王の締めは深まっていく。意識が遠のき、暗闇が視界を侵食し始めたその時、三郎太の脳裏に、控室のモニターで見た御子柴の試合の情景が思い起こされる。神宮寺が残したデータを元にローラに挑み、自らの身体を張ってそれを実証した御子柴の闘い。
試合後、医務室に見舞いにきた三郎太に彼女は語った。技を極める瞬間、ローラは最高のトルクを得るために、一瞬だけ右に全重心を預ける。そこに綻びがある。無意識の癖であるが故の抜け道があるのだ、と。
(今だ……!)
三郎太はあえて身体の力を完全に抜く。プロレスラーとしての本能が拒む「完全な脱力」。絞め技や関節技に対して抵抗を捨てることは、本来あまりに危険な行為だ。だが、三郎太は仲間を、その決死の奮闘を信じた。彼女があると言ったのならきっと抜け道は「ある」。
「……!?」
ローラの顔に動揺が走る。三郎太の筋肉による抵抗という反動を失ったローラの技から「完璧」が失われる。三郎太の身体がローラの脇の下から「ずるり」と、まるで水が溢れるように抜け出したのだ。脱出不可能と言われた女王の締めからの、あまりにも不可解な三例目の脱出。
三郎太が「脱力」によって、絶対の拘束から逃れたその瞬間。ドームの観客席を支配していた熱狂が一瞬だけ、静まり返った。ローラは、自分の腕の中に残った虚無感に凍りつく。完璧に極めていたはずだ。逃げ場などどこにもなかったはずだ。それなのに、三郎太の肉体は物理法則を無視したかのように滑り出し、彼女の技から抜け出していた。
「こいつまで……! 認めろというの、私の技に脱出法(スキ)があると!?」
ローラの脳裏に、同様の不可解な脱出を見せたボーティス神宮寺戦とガータ御子柴戦の記憶がよみがえる。命を削り、情報を残した策士気取りの不快な男。自分に一矢報いようとして沈んでいった女。そして今、そのバトンを引き継ぐように目の前に立つ三郎太。
何も考えずに決勝戦を迎えたわけではない。彼女とて二度の脱出を見て思う所はあった。一人控室で思索を巡らし、鏡を見ながらセコンド係の練習生に付き合わせて欠陥がないかを検証した。
──だが、欠陥などどこにも見つからなかった
欠陥を探したからこそ、ローラ・ザ・チャージはこの逃げ道に辿り着けなかった。彼女の「アブドミナル・ストレッチ」の強さは相手の抵抗を完全に制御下に押し込め、パワーの支配下に置くからこそ成立していた。そしてその強さ故に彼女は自信を持ち、その自信が真実の分析を妨げる。
締め技や関節技を受けたレスラーはダメージを抑えるために、そして脱出するために抵抗する。抵抗して当然である。神宮寺はその前提を崩したのだ。なら、抵抗を一切しなかったら彼女の重心にどう影響が出るか。数多くのシミュレートを経て実戦で確かめ、そしてかの軍師はそこに一抹の毒を仕込んだ。
──わずかだがつけ入る隙はある
わざと彼女の耳に入るように発せられた言葉。それが彼女の思考を誘導した。技に欠陥があるのだと誤認させたのだ。その上で御子柴に策を託し、再び脱出されるローラ。なんとか御子柴を仕留めたものの、彼女の中で毒は思考を蝕み続けていた。欠陥は見つからない。なぜならそれは欠陥のひとつでもあれば成り立たない脱出法だから。だから女王は気付けない、気付かない。
彼女の完璧さが彼女の完璧さを崩す邪悪な罠。それが神宮寺が我が身を捧げて仕掛けた軍策「化血陣」の正体。ローラ・ザ・チャージの誇りに、初めて明確な「亀裂」が走った。
その隙を、三郎太は見逃さなかった。
「スピニング・ジョイント・キック・裏技バージョン!」
マットに両手をついての、さながらブレイクダンスのような、低空で身体を水平回転させるスピンキックが背後からローラの膝裏を叩く。
「あっ!?」
いわゆる膝カックンを受けたかのようにがくりと膝を折って体勢を崩し、思わず驚きの声を漏らしながら、マットに背中から倒れ込むローラ。そのしなやかな両脚を力強く掴み取って両脇に抱え込み、三郎太はそのまま彼女の身体をステップオーバーさせる。
「さぁ……どうだぁッ!!」
逆エビ固めに極めたローラの背の上に陣取り、三郎太はうつ伏せになったローラの腰に、自らの深く腰を落とした。デビュー戦から磨き続けてきた、基本にして至高の関節技。三郎太の体重が支点となるローラの腰を圧迫し、強靭な背筋が彼女の背を弓なりに反らして脊椎を引き絞る。
「あ、あああああっ……!?」
ローラの口から、ついに覇者の威厳をかなぐり捨てた生の悲鳴が漏れた。苦痛を堪え、マットを叩く彼女の指先が、屈辱に震えている。英国マット界の若き女王が、これほどまでに無様な姿勢でマットに這いつくばる姿を、誰が予想しただろうか。三郎太は歯を食いしばり、さらに体重を乗せて彼女を反らしていく。滴る汗がローラの首裏に落ちる。熱を帯びた全身の筋肉が悲鳴を上げている。
信じたくない光景だと言わんばかりに会場のざわめきが一段と大きくなる中、リング上の攻防を振り返るように、放送席の実況アナがどこか戦慄を孕んだ声で興奮気味に語り上げる。
『なんという攻防でありましょうか! 対空砲火にもめげずに「アグラツイスト」にもっていった宮川三郎太! しかし、それを鮮やかに切り返し、「アブドミナル・ストレッチ」で逆襲するローラ・ザ・チャージ! だがここで宮川三郎太が謎の脱出!? ボーティス神宮寺、ガータ御子柴に続いて三人目の脱出者が出現! 動揺するローラ・ザ・チャージを「スピニング・ジョイント・キック」で転がし、逆エビ固めに捕らえました! たしかこの「スピニング・ジョイント・キック」はキンタロウさんが最初に披露した技でしたよね?』
ヘッドセット越しに、キンタロウがわずかに肩をすくめ、気障な笑みを浮かべる。
『私の技と言ってしまっていいかは分からないが、元はカポエイラ式の回転蹴りで膝に痛打を浴びせる技だ。だがあの膝裏打ち、おそらくECT(アース・クラッシュ・トーナメント)東京大会の決勝でシュテンドルフ相手にモモタロウが放ったバージョンのコンセプトを彼なりに反映したのだろうね』
かつての盟友にして最大のライバルであった「モモタロウ」の名を挙げたキンタロウの声音には、特有の軽妙さの裏に、深い情感と若きレスラーの成長に対する密かな賛辞が滲んでいた。実況アナはその言葉が持つ歴史的な重みに一瞬だけ圧倒されながらも、プロとしての機転で即座に言葉を紡ぎ出す。
『なるほど、裏を蹴るだけに裏技バージョンというわけですね。しかし、この三試合連続での脱出、女王の「アブドミナル・ストレッチ」には攻略法でもあったのでしょうか?』
キンタロウは安易な肯定を避けた。短く息を吐き、言葉を選ぶように続ける。技巧派としての矜持が、軽々しく断じることを良しとしない。
『いや……見る限り欠陥があるようには思えない。これはひょっとすると……いや、しかしそれはあまりに危険すぎる手法だ。だが……そうだね、あるいは彼女の技が完璧であるからこそ成立している脱出法である可能性があるな』
女王の技の不可解な脱出劇については観客たちも気になっていたのだろう。キンタロウの所見を耳にして放送席の背後で、ざわめきが低くうねる。
『完璧だからこその隙……ですか? ともあれ、「逆エビ固め」に囚われてローラ・ザ・チャージ、苦悶の表情! 額に脂汗が浮いております! これは効いているぞ!』
実況アナの声がわずかに震える。キンタロウは静かに頷き、そのまま淡々と分析を重ねた。実況の興奮とは対照的に、その声はあくまで冷静に、リング上の真実を暴きたてようとしていた。
『彼女の背筋と体幹は強力だが、三郎太クンはしっかり芯を捉えている。体の柔らかい女性であってもあそこまで反り返ってしまえばキツいだろうね。脱出は容易くはないぞ』
観客の視線はリング上に釘付けになっている。誰もが次の瞬間を固唾を呑んで待っていた。
その頃、医務室では、ベスが腕を組んだままモニターを睨みつけていた。緊迫した画面から一瞬たりとも目を離すまいとするその横顔は硬く強張っている。ふと、ベッド上の御子柴がニヤついているのが視界に入り、彼女は思わずジト目を向けた。
「ニヤニヤして………。……クソ猫、あれどういう仕組みなの?」
ご機嫌であるらしい御子柴は、首のカラーを気にしながらも気の抜けた声を返す。その浮ついた表情には自分の言葉を三郎太が無駄にしなかったという悦びが滲んでいるかのようだ。
「べっつに~? ……大した話じゃないニャ。相手の抵抗まで計算に入れて完璧であろうとしたせいで、脱力しきった相手を抱え直すのしくじるってだけ。同じ事をヘタクソがやみくもに絞めるだけのコブラツイスト相手に試したら、ただ痛い思いするだけのそれこそ欠陥脱出法だニャ」
ベスはその説明を飲み込みきれず、眉をひそめる。脱出させているのはローラの方? ――試合中、御子柴がローラに「自分の胸に聞いてみろ」と返した意味が、ベスの脳内でようやく繋がる。
「なっ!? ……完全に脱力って……技を極められている最中に、肉体の防御を完全に捨てるというの? 三郎太はそれを貴女に聞いて、一切疑わずに実行したってこと……!?」
驚愕を露わにするベスに対し、御子柴は肩をすくめるように、当然のように言い放つ。
「……そういう奴だニャ。バカ鬼も知ってるだろ?」
ベスは返す言葉を失い、ただ小さく息を吐いた。彼女も自身が愛するその男の不器用で真摯な態度については確かに良く知っていた。言われるまでもなく。
「…………。そうね」
ベスの口元には苦笑が浮かんでいた。呆れ果てたような、しかし同時に、そんな無茶を厭わぬ男にどうしようもなく惚れ込んでいる自分を認めるような、温かい余韻が医務室の空気に溶けていった。
リング上ではいまだローラが逆エビ固めの責め苦に苛まれていた。遺憾ながら力任せに破るのは無理だ。あまりに深く極まりすぎている。マットを掻くようにしてにじり、這い、藻掻きながら対応を三郎太に強いる中で動ける余白を作り出そうと彼女は全身に汗を浮かべて、なおも断続的に抵抗を続ける。
「ア……ハァ……♡ やって……くれるわね。いいわ、面白くなってきた。貴方は有象無象ではない……! この私に敵する資格ありと……認めてあげる……!」
レフェリーのギブアップの意思確認にただ首を振って拒絶しながら、ローラは苦痛に喘ぎながらも楽しそうな笑みでその表情を彩る。その瞳には、痛みと昂揚がないまぜになった光が宿っていた。
「それだ。それがひっかかっていた」
三郎太の反応はローラの予想の外にあった。意味を測りかねて訝し気に背後の彼へ視線を向けるローラの身体を反らしながら、三郎太は続ける。凄まじい力で技を極め続けている男の声は、驚くほど静かで、どこまでも真摯だった。
「……貴女は強い! だけど、なぜ周りを遠ざけているんだ?」
「なに?」
急に胸の奥に沸き立つ嫌な予感。ローラは思わず聞き返したが、彼女の本能はそれ以上しゃべらせるなと警鐘を鳴らしていた。そして続く言葉がその予感を証明する。三郎太の言葉は、技の痛みとは全く違うベクトルの鋭さで、彼女の心の防壁を侵食し始めていた。
「時として『強さ』が誰かを遠ざける事は……あるだろう。それは僕にも分かる。けど、貴女のその態度はそれだけが理由じゃないように見える」
共感を得て、認められたような仄かな快感と、それを塗りつぶしてなお足りない焦燥がローラの胸に溢れ出す。何だ、こいつは何を言おうとしている? 言葉を失った彼女は技の苦痛に耐えながらも、その耳をそばだてる事をやめられない。心の奥で、触れられたくない部分に近づかれているのではないかという恐怖があった。
そして、決定的な言葉が紡がれた。
「貴女は自分から他者を侮蔑し、遠ざけているように見える! 貴女はずっと……ただ待っているだけだ! 自分から誰かに手を伸ばすのを、諦めてしまっているんじゃないのか!?」
三郎太の叫びは、技の痛み以上に深くローラの心に突き刺さった。女王として君臨し、誰も寄せ付けない高みに居続けること。それは同時に、誰とも魂を触れ合わせないという「拒絶」でもあった。ローラ・ザ・チャージは敢えて蔑称を用いて他者を挑発し、軽んじ、見下ろし、壁をつくって距離をとっている。それを三郎太は無神経に、無慈悲に、無配慮に──そしてとてつもなく純粋な誠実さでもって、ただ指摘してみせたのである。
「……なっ!?」
ローラの身体が激しく震えた。それは痛みのせいだけではない。かつて「ジャップ」と見下していた東洋の若造に、自分の心の奥底に築いていた分厚い防壁――「孤高」という名の孤独を、土足で踏み荒らされた衝撃だった。三郎太の誠実さが正面から破城槌のようにローラの防壁に叩きつけられている。胸の奥が焼けるように熱く、凍えるように冷たい。歓喜と嫌悪、鉄壁の結界の内側で涙を流すナニカがどうしようもなく揺さぶられていた。
「黙りなさい……貴方なんかに、私の何がわかるというの……!」
ローラの声は自分で思った以上に激しい叫びとなっていた。余裕を完全に失ったその顔は、激情に赤く染まっている。
「わかるはずがない! だから、こうして戦っているんだ! 僕は、強い貴女と戦うのが楽しい! そして、この戦いの中で貴女と本当の意味で向き合いたいんだ!」
会場のボルテージが最高潮に達する。三郎太の無自覚な「人たらし」とも言えるまっすぐな言葉が、ローラの硬く閉ざされた心を溶かしていく。だが、それは同時に、彼女の中のプロレスラーとしての闘争本能に火をつけた。
「……言ったわね、ミヤカワ」
ローラの口から、初めて三郎太の名が紡がれた。「ジャップ」という蔑称ではない。「日本人」という種別呼称でもない。対等な、超えるべき一個人。全力を尽くしてねじ伏せるべき好敵手としての認識。そこには、怒りと同じだけの期待が滲んでいた。
「貴方、とてもイイわ……。でも、人の内面に土足で踏み込んだ、今の言葉は万死に値する!」
怒りと、認めざるを得ない高揚。相反する感情を爆発させ、ローラは今まで以上のパワーを発揮し、三郎太ごと引きずる勢いでマットを這い、最下段のロープをしかとその手で掴み取った。キャンバスに爪を立てて強引に前進するその姿は、王座を死守するためではなく、眼前の男を跡形もなく圧殺するための執念に満ちていた。
「ロープブレイク! 離せ、三郎太!」
三郎太はまだ何か言いたそうな表情を浮かべていたが、レフェリーの制止に従い、無念そうに技を解く。
ガッチリと噛み合っていた二人の肉体と魂が離れ、ドームの熱気がその隙間に滑り込んできた。