「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第37話 決着! B.C.S(ボルトチャージ・スープレックス)!! の巻【本戦決勝戦「宮川三郎太VSローラ・ザ・チャージ」】

 ロープを頼りに腰を押さえつつ、よろめきながら立ち上がったローラは、もはや先ほどの冷徹な女王ではなかった。

 

 乱れた金髪から滴る汗、紅潮した頬、そして獲物を喰らわんとギラつく瞳。

「後悔させてあげるわ、ミヤカワ。その無礼を!」

 三郎太が間を詰めようとした瞬間、ローラの右足が電光石火の速さでしなった。

「はぁっ!」

 強烈なミドルキックが、三郎太の脇腹を直撃した。肉が弾けるような衝撃音がリング上に響き渡り、うめき声と共に三郎太の身体が大きく揺らぐ。だが、その足は止まらない。

「ぐぅ……後悔なんか……ッ!」

 肉を切らせて骨を断つと言わんばかりに、三郎太はさらに間合いを詰めていた。ローラの脇の下に自らの頭を滑り込ませながら、両腕で抱き着くようにして彼女の腕ごと腰をしっかりとクラッチする。「ノーザンライト・スープレックス」の構えだ。だが、その目論見は果たされない。瞬時にローラの腕が三郎太の首をロックして絞め上げ、腰を落として投げさせない。フロントネックロックに捕まった三郎太が息を呑んだ次の瞬間、ローラは後方に尻もちをつくように倒れ込み、「DDT」で脇の下に捉えて引き込んだ三郎太の頭部をキャンバスに突き刺していた。

「がっ!?」

 視界に星が散る。頭部と首に走った衝撃と痛みにマットの上でのたうつ三郎太。だが、ローラは止まらない。溜まった感情をすべて乗せるように、ダウンした三郎太の背中に荒々しいストンピングを叩き込む。

「立て! 立ちなさいミヤカワ! 私の孤独を笑うなら、その命で償ってもらうわ!」

 ローラは荒い息をついて身悶える三郎太の髪を掴んで、無理やりに引き起こす。同時に回り込み、バックを取ってその腰をがっしりと抱え込んでクラッチした。間違いなく彼女の必殺技(フェイバリット)である「トリコロール・スープレックス」の予兆だ。

「くっ……ッ!?」

 応援席の最前列で林吾が眉を顰め、雫が思わず立ち上がった。

「不味い、先輩! 逃げて!?」

 

 一発目。まずは「ジャーマン・スープレックス」。ローラのブリッジがリング上に虹を描き、三郎太の身体が美しい放物線で宙を舞う。極限まで反った女王の肉体から放たれた衝撃が、凄まじい重低音となってドームの床を震わせた。両腕を広げて受け身をとってなお、その威力は熾烈の一言。三郎太の視界が揺れる。ローラはその腕を解かない。すぐさま三郎太を引き起こし、今度は脇の下に腕を差し込んでフルネルソンに固めてクラッチした。

「さ、三郎太さーん!?」

 応援席でタイ子が悲痛な声を上げる。その手から小さな手作りの応援旗がこぼれ落ちても気が付かない。彼女のまだ乏しい試合経験による感覚的には、これはもう絶体絶命の危機にしか見えなかった。絶望が脳裏をよぎる。

 

 二発目。「ドラゴン・スープレックス」が唸りを上げる。両腕を囚われ、受け身は許されない。完全に無防備な状態で猛烈な衝撃が三郎太の後頭部を襲う。あやうく三郎太の意識が飛びかけ、言葉にならない呻きがその口から漏れ出す。それでも女王の猛攻は終わらない。観衆の絶叫が渦巻く中、ローラはさらに三郎太を強引に引きずり上げる。

「……まだです」

 ポモナは応援席のパイプ椅子に座ったまま、鋭く状況を見極めていた。彼女の見る限り、三郎太はローラが投げる瞬間に自ら跳躍して都度ダメージを軽減している。ローラが投げを中止できないギリギリまで待ってからの跳躍。だがそれゆえに見込めるダメージ軽減効果は最低限。いかにタフネスに優れる三郎太と言えど、果たして凌ぎ切れるのか?

 ポモナの両拳が膝の上で握りしめられていた。

 

 ──そして、三発目。ローラは両腕を背面で絡めて三郎太をダブルチキンウイングに固め、一切の逃げ道を封じる。脳天直下の「タイガー・スープレックス」の始動体勢。

「これで終わりよ!」

 三連発の猛爆――トリコロール・スープレックス。受け身すら許さぬ女王の怒りが、三郎太をマットの深淵へと叩き落とした。ブリッジが弧を描き、凄絶な破壊の余韻だけが四角いリングを支配する。ローラはそのままフォールには入らず、荒い呼吸を繰り返しながら、瀕死の三郎太を見下ろした。その視線には、殺意と期待、そして言葉にできない混沌が渦巻いていた。

 さながらトドメを刺したか確認する猟師のようであり──同時に、要救助者の安否を確認するレスキューのようでもあった。

「ぐ……ぁ……ッ!」

 目を閉じて、眉を歪め、荒い息をつきながらも身じろいでいる三郎太を目にして、ローラの目が見開かれる。耐えている。KOに至っていない。自分の必殺技(フェイバリット)をまともに喰らってなお、男の魂はまだ潰えていない。それを確信した瞬間、彼女の口元は三日月のように裂けた笑みで彩られた。

 

 マットに沈んだ三郎太の意識は、薄暗い霧の中にあった。全身の骨が砕けたような劇痛。だが、その耳には、遠く離れた医務室で叫んでいるはずの、大切な戦友の声が届いていた。

『三郎太、私に勝ったんですから……負けるなんて許しません!』

 涙を浮かべて訴える白き鬼の姫の姿が脳裏をよぎった。ピクリと三郎太の指先が動く。

(そうか……そうだ、ベスに勝ったのにこのくらいで折れるわけにはいかないな……)

 ベスの、恋を超えた執念の気迫。それが、三郎太の潰えかけた魂を再び強く突き動かしていた。死に体だった満身創痍の戦士がマットに手をつき、動き出す。

「まだだ……まだ、終わって……ないっ!」

 勝ち負け以前に彼には責任がある。ここまで勝利してきた責任が。宮川三郎太にはトーナメントで蹴り落とし、上へ向かう機会を奪った者たちの分も、力を尽くす義務があるのだ。

 

 今の自分は全力を尽くしきったか? ──否。

 既に自分は万策尽きてしまったか? ──否。

 

 ならば今はまだ途中だ。終わるべき時ではない。

 三郎太が、泥まみれの騎士のようによろめきつつも、力強く立ち上がる。身体は限界ギリギリだ。だが、まだ戦える。その瞳には、未だ衰えぬ黄金の闘志が宿っていた。

 

 言葉も無く、雫が呆けたようにすとんとパイプ椅子に腰を落とし、ポモナは安堵の溜息をついた。タイ子はぽかーんとリング上を見つめている。観客席からは歓声が止まっていた。あまりの事態に絶句した観客たちがリング上をまじまじと凝視している。その静寂は、嵐の前の一瞬の凪のようだった。そんな中、響き渡る放送席の実況アナの声はいっそ悲鳴のようですらあった。

『た、立ったァ~~~~!? 宮川三郎太、女王の奥義「トリコロール・スープレックス」を受けてなお、ゆっくりと立ち上がるゥゥゥ~~!? さしものローラ・ザ・チャージも驚きを隠せない!』

 キンタロウは口元を抑えたまま、ただ眼を丸くしていた。

『あの三連発を受けて……! 三郎太クン……キミと言う奴は……ッ!?』

 英国側応援席で邪竜ファフニールは自らを掻き抱くようにして震えていた。

「な、なんだよアイツ……!? なんなんだよアイツ……ッ!? ば、ばけものか!?」

 彼女が幾度かローラに挑んだ過去、一度たりとも「トリコロール・スープレックス」を凌げたことは無い。彼女にとってそれはまさに試合の終わりを告げる「必殺技」のはずだったのだ。

「……今回ばかりは同感だ」

 その隣でハーレクインも腰を浮かせてリング上に見入っていた。彼が驚いているのは三郎太のタフネスにではない。三度のスープレックス、それらすべてをギリギリのタイミングで自ら跳ぶことで、被弾時のインパクトを僅かにずらし、ローラのパワーの全力が乗りきらぬように調整しきったのだ。ダメージで朦朧とする感覚の中で、だ。

(アレは技量と執念と本能のバケモノだ……ッ!)

 ハーレクインは己の拳が固く握りしめられている事にようやく今になって気が付いた。その拳は、恐怖と興奮の入り混じった震えを隠せていなかった。

 

 ただ、息を整えて次の激突に備え、立ち上がる三郎太を待つローラ。

「……信じられない。あのアサルトを受けて、立ち上がれる者が居るとは思わなかったわ」

 ローラは正直な感想を吐露する。仮に自分が自分に仕掛けたとしてもおそらく耐えられないだろう。そう思っていた必殺技(フェイバリット)を「受けて、耐えた」三郎太に対して、今や彼女は純粋な敬意を抱いていた。

「孤独を……」

 朦朧とする意識を呼び覚ますために頭を振りながら、三郎太が口にした言葉はローラへの答えではなかった。いや、違う。投げる前のローラの発言に対する言葉だった。

「笑ってやしないさ、ローラさん……。僕は、ずっとモモタロウさんの後を追ってきた。その背中に、ずっと憧れてきたんだ……!」

 どちらともなく間合いをつめた二人はリング中央でがっちりと組みあう。

「だから……何だと?」

 モモタロウの失踪のことはローラも知っている。

 

 ──ザ・モモタロウ、そして、イワン・シュテンドルフ。

 

 彼女が一時期荒れたのはいつか戦いたいと憧れた最強のレジェンド二人が姿を消したからでもあったのだから。「憧れの人を失って孤独だった」とでも言うつもりか? ローラは意図を探りつつ、三郎太との組み合いを制してその懐に入り込む。だが、胴を抱きしめるようにしてローラが「フロント・スープレックス」を狙ったその時、三郎太の右腕が彼女の首に巻き付いた。

「ぐっ……!?」

 フロントネックロックががっちりと極まっている。振りほどこうとローラが三郎太の腕を掴もうとし──今度は彼女の右肩がショルダーロックに囚われた。首と肩が絞め上げられ、苦悶の声が口の端から漏れる。次の瞬間。

 

 ローラの身体は宙を舞っていた。

「……ッ!?」

 

 三郎太が反り投げたのだ。低空から突き上げるようなブリッジ。その動きで首が締まり、肩が脱臼しかかると見るや、ローラは不味いと判断し、即座に抵抗を止めて投げられるに任せて、身に意識を回す。リング上にキャンバスを波立たせるような強烈な炸裂音が響き渡る。三郎太のオリジナル技、「サザンライト・スープレックス」が決まったのだ。背中からしたたかにマットに叩きつけられたローラが呻き声を漏らすが、三郎太は攻撃の手を緩めない。腕をとって即座に彼女を引き起こしにかかる。

「……ローラさん、貴女に憧れた人が、誰も居なかったはずがない! そんな人たちに……貴女は、ちゃんと向き合ってきたのか!?」

 

 その三郎太の叫びがビクリとローラの全身を硬直させた。

 

 その硬直は致命的だった。その隙に三郎太はローラの右脇下へ頭を突っ込む。右腕の肘裏でローラの左腕を抱え込み、腰へ深く回し込むと、背中側へ回されたローラの右手首をがっちりと掴み取った。さらに、空いた左腕でローラの右脚の膝裏を深くすくい取る。上半身の自由も、下半身の踏ん張りも、すべてを一本の鎖のように数珠繋ぎにして完全封殺する驚異の三点固定。右脇の下に突っ込んだ首を軸に、三郎太はローラの身体を強引に持ち上げる。彼がこれまでの死闘の中で練り上げてきた、最強独自の必殺軌道。

「M'sライトニングスープレックス!!」

 爆発的な速度で放たれた強化版「ノーザンライト・スープレックス」とでも言うべきオリジナル技が、ローラをマットに深く叩きつけ、沈めた。三郎太はそのまま身体を預け、全体重でフォールに抑え込む。

 すかさず、滑り込んでマットを打つレフェリー。

「ワン! ツー!」

 だが、レフェリーの手が三度目のマットを叩こうとした、その刹那。

「……ハァーッ!」

 ローラが、死力を尽くして右肩を上げた。カウント2.9。会場中が溜息と驚鳴に包まれる。ローラの胸が激しく上下し、荒い息をつく。その呼吸は乱れながらも、闘志の火だけは決して消えていなかった。

 

「はぁ、はぁ……ッ! わ、私は誰であろうと、正面から受けて立ってき……。受ける? ……待っていた……だけ?」

 三郎太の問いかけが、ダメージで意識の混濁するローラの脳裏でリフレインする。自分が守ってきたのは「誇り」だったのか、それとも「拒絶」だったのか。その迷いを振り払うように、立ち上がりかけのローラの脚が本能的に跳ね上がった。

「黙りなさいッ!」

 同じく立ち上がろうとした三郎太の側頭部を、ローラのハイキックが正確に打ち抜いた。

「あぐっ……ッ!?」

 意識が真っ白に染まり、三郎太の膝が折れる。ローラはそのチャンスを見逃さず、背後から三郎太の首に片腕を巻き付け、もう片方の腕を脇の下から差し入れて彼の左腕を固くロックした。

「認めない……認められるものか! 堕ちなさい、ミヤカワ!!」

 首と左腕を極限まで引き絞られ、胴に回された両脚が腰を絞める「ハーフネルソン・ストレッチ」に、三郎太の腕と腰がミシミシと悲鳴を上げる。酸素が遮断され、視界が急速に端から闇に飲み込まれていく。

(ああ……もう、ダメなのか……?)

 弱気が心を支配しようとしたその時、三郎太の脳裏に、予選での凄惨な光景が蘇った。イタリア代表選手であるゾーザの卑劣な毒針によって全身を毒で冒され、五感が麻痺し、神経過敏状態に追い込まれた中で関節技やエルボーのラッシュで甚振られた、あの時の絶望。

(まだ、視界はある。手足も苦しいけど……反応する、動く! あの時の、毒の苦しさに比べれば……こんなものッ!)

 セコンド係の練習生が届けてくれた解毒剤、そしてサチの利己的な理由ながらも力強い激励。あの地獄を乗り越えた経験が、今の三郎太の根性(バックボーン)となっていた。三郎太は地獄の底から這い上がるような執念で、一歩、また一歩と足を動かした。

「こ、こいつ……ッ!?」

 ローラの声が震える。首を絞められ、顔面を鬱血させながらも、這い進むのをやめない三郎太の指先がついにロープに触れる。

「ブレイクだ! 離せ!」

 レフェリーの声が響くが、ローラは狂気すら孕んだ表情で三郎太を絞め続ける。

「ふふ……黙れ黙れ黙れェ~ッ! はははっ!」

 その哄笑にレフェリーが気圧される。

「がはっ……はな、せぇっ!」

 三郎太は、拘束を免れている右腕を、密着するローラの身体を強引に押し開くようにして後方へと振り抜いた。

「ファイナルエルボーッ!!」

 纏った闘気こそ不十分だが、至近距離から放たれた渾身の肘が、鋭い弧を描いてバックエルボー気味にローラの顎を掠めた。顎を跳ね上げられたローラの身体が一瞬ふわりと浮き、脳を揺らされた衝撃で、ローラはかくんと膝から崩れ、ハーフネルソンの拘束が強引に引き剥がされる。

 

 リング上の攻防の前に観客席のざわめきは、興奮を通り越し、もはや恐怖に近い静寂へと変わりつつある。誰もが息を呑み、目の前の光景を「現実」として受け止めきれずにいた。そんな異様な空気の中、放送席の実況アナが震える声で叫んだ。

『そ、壮絶な戦いになってまいりました! 宮川三郎太が「M'sライトニングスープレックス」でカウント2.9に追い込み、そしてローラ・ザ・チャージが「ハーフネルソン・ストレッチ」で宮川三郎太を責め立てる! 両者一歩も譲らぬ張り詰めた応酬ですが、これは……? ローラ・ザ・チャージの様子がどこかおかしいように感じられます! レフェリーの制止も聞かずに哄笑を上げる姿は我々のイメージする「英国マットの若き女王」の姿とは程遠い……! 一体何が起きているのか!?』

 モニターに映るローラの表情は、もはや「優雅な女王」のそれではなかった。理性の光が消え、闘争本能だけが剥き出しになった獣のような眼。その眼差しは、勝利ではなく「破壊」そのものを求めている狂戦士のようだった。その異様さに、解説席のキンタロウも思わず息を呑む。

『むぅ……どちらも限界を超えたな。技術でも体力でもない。「意地」と「執念」だけで動き、戦っているんだ』

 ローラの狂気じみた笑みがアップで映し出され、放送席に戦慄が走る。

『なんと……まさに歴史に残る死闘であります……! リングの上で、二つの魂が削り合っているッ!!』

 実況の声が震える。観客たちも声を失い、ただ固唾を飲んで見守るしかない。

『だが、ローラ嬢のあの鬼気迫る顔……そうか、三郎太クンめ、また無遠慮に内心をつついたな……? 悪い癖だぞ……』

 キンタロウの呟きは、半ば呆れ、半ば感嘆だった。おおかた、三郎太の「人の心に踏み込む言葉」が、ローラの奥底に眠る何かを揺さぶったのだ。

『観客たちすら言葉を失っております! 限界突破のギリギリバトル、最後に勝利の女神はどちらに微笑むのか!?』

 放送席の声すら、今の二人の戦いの前では小さく感じられるほどだった。

 

 よろめく二人の間には、もはや言葉はいらない。三郎太は荒い呼吸の中で、視界を覆う汗と血を拭った。その指先は震えていたが、握りしめた拳だけは決して開かれなかった。リング上の熱気は最高潮に達し、観客は言葉を忘れ、ただひたすらに試合に魅入っている。だが、三郎太の耳奥には、その喧騒を突き抜けて届く声があった。

 それは、この決勝の舞台に至るまでにリング上で肌を合わせ、想いを通じ合ってきた戦友たちの魂の叫びだった。

 

 大会医務室。モニターに映る血塗れの三郎太を、ベスは身を乗り出すようにして凝視していた。準決勝で三郎太に全てをぶつけ、そして敗れた彼女は、今や一人のライバルとして、あるいはそれ以上の感情を込めて喉を震わせる。

「三郎太……もう何も言いません。……勝利をその手に!」

 その隣のベッドの上で、ベッドに横たわる御子柴は、カラーが巻かれた自身の首筋を呪わしげに擦りながら、自嘲気味に笑った。

「あーあ、オレにあれができりゃ、今頃三郎太と楽しく決勝戦だったのにニャア……」

 会場を離れ、検査入院中の病室のベッドの上で、データの端末を手にした神宮寺が、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせていた。

「三郎太君に協力する気など微塵もなかったんだが……これも巡りあわせか。僕のデータが、あの女王様に通用すると証明してくれるなら、まあいいさ。……ここまで来たら勝ってくれよ」

 そしてその隣でパイプ椅子を蹴倒し、松葉杖を放り捨てながら、捻挫している脚の事も気にせず、ジェニーがモニターの前で子供のように片脚で跳ね回っていた。神宮寺の眉間に皺が寄る。

「いいな! いいなぁ! ボクもあんな熱い試合やりたいなぁ!! 三郎太、いっけぇーっ!」

 応援席で雫は祈るように小さく、しかし固く手を組んでいた。モニターの光に照らされた彼女の瞳は一瞬も逸らされることなく、ただ静かに、誰よりも強く、三郎太が最後の一歩を踏み出す瞬間を信じて注視し続けていた。ポモナも、タイ子もまた、ただ黙って三郎太の姿を瞳に映し続ける。

 

 リング上の三郎太には、そのすべてが見えているわけではない。だが、ローラの首筋にいまだ残る御子柴が残したチェーンの痕が、魂には神宮寺がジェニーの為に刻んだ呪いがいまだ残っている。そして三郎太自身の身体にも、仲間たちの軌跡が刻まれていた。首筋にはベスに叩き込まれた重い一撃の感触が、腕には雫の関節技でねじられた余韻が、今も芯にひびくように残っている気がする。

 彼らが残した傷跡が、そして身体の奥底から湧き上がる熱が、彼が一人で戦っているのではないことを教えていた。戦い、語り、ここまで押し上げてくれた人たちあっての今の自分だ。

 三郎太は、虚空を掴むようにして、フラつくローラの手を掴んだ。ローラの身体はすでに限界を迎え、意識は混濁の極みにある。しかし、その高潔なプライドだけが彼女の身体を辛うじて支えていた。逆に三郎太の手を逃すまいと指を組み合わせるようにして掌が合わされ、互いに掴みあう。その手の温度は、戦いの中でしか触れられない「真実」のように熱い。それはまるで恋人同士がつないだ手のようだった。

(今の僕なら、クロスライダー・スープレックスだって……!)

 三郎太の脳裏に、かつて夢見た兄貴分の必殺技がよぎる。全神経を研ぎ澄まし、ローラの重心を捉え、最大火力のブリッジへと移行する軌道を思い描く。だが、三郎太の肉体もまた、悲鳴を上げていた。足元に溜まった疲労とダメージが、踏み込みの瞬間、残酷なまでにその平衡感覚を奪う。捕らえた腕をローラの胴にまきつけるようにして組み付いてしまってから気づく。

 

 ──組み方が逆だ。

 

 モモ・スペシャルその4である「クロスライダー・スープレックス」は、相手と向かいあうようにして、組んで仕掛ける始動技なのに今自分は彼女のバックを取る形で組んでいる。

(……しまった、向きが……!)

 だが、三郎太の瞳は絶望に染まってはいなかった。

「いや、構うかぁ!! いっけぇ!!」

 全霊の咆哮。予期せぬ体勢からの、無理やりな始動。最早モモ・スペシャルの「クロスライダー・スープレックス」ではない。洗練された技の形をかなぐり捨て、ただ「相手を叩き潰す」という一点のみに特化した、執念の暴走。バックを取った状態で強引に放たれたこのスープレックスは、ローラの身体を回転しながら打ち出す、さながらスピンしながらクロスボウから放たれる矢(ボルト)のように加速させた。

 宙に舞ったローラの視界が、ゆっくりと、しかし抗いようのない力で反転していく。

 

(……!? ……天井照明が? 観客席が見える……私が飛んで……? ミヤカワの顔が見え……)

 

 空中での自由自在な姿勢制御を誇り、「フライング・キラー」の異名を取った若き女王が宙を舞っていた。

 

 だが、両腕を極限まで左右に引かれた今の彼女には、今この瞬間、重力に抗う術など残されていない。三郎太の放出する熱量が、彼女の培ってきた技術を、誇りを、その周囲に建てた見えない壁をすべて焼き尽くしていく。翻弄されるローラの身体。制御不能の衝撃が、彼女の脳天を無慈悲に、そして深くマットへ突き刺した。ドーム内を震わせるような轟音。

「……がはぁっ!?」

 ローラの身体から、すべての力が抜け落ちた。マットに投げ出された彼女の瞳は、もはや何も映してはいない。三郎太はそのまま、震える身体でローラの肩を抑え込んだ。

 

 レフェリーが駆け寄る。マットを叩く音が、静まり返った会場に響く。

 

「ワン!」

 

 雫が涙を浮かべて立ちあがり、医務室のベスが目を見開き、ベッド上で御子柴はぽかんと口を開く。

 ぺたんと病室の床にへたりこんだジェニーが笑顔を浮かべ、神宮寺が静かに眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

 

「ツー!」

 

 タイ子が手旗を掴んだ腕を振り上げ、林吾の胸倉をつかんで揺らし、ポモナが頬を染めてリング上をうっとりと見つめる。

 その後ろでブライアンと結城とサチが埴輪のようにオーの字に口を開き、バッカスが震える手からスキットルを滑り落した。

 ハーレクインが目を伏せ、エルザが頬をおさえて絶叫する。

 

 ローラの肩は動かない。

 

「……スリー!」

 

 乾いたゴングの音が、永遠のようにも感じられた沈黙を切り裂いた。

 

 その瞬間、世界が爆ぜた。

 ダムが決壊したかのような怒号の絶唱が、ビッグエッグを震わせた。一人の若き日本人レスラーが、英国の誇り高き若き女王を打ち破り、世界規模のトーナメント「EQT(アース・クェイク・トーナメント)」の頂点に立ったのだ。

 

『勝者、宮川三郎太ぁぁぁぁ!!』

 リングアナの絶叫が響く。三郎太はローラの身体から離れると、そのまま大の字になってマットに沈んだ。天井から降り注ぐ眩いスポットライトが、彼の勝利を祝福するように包み込む。

 観客席の最前列付近。帽子を深く被り、腕を組んでその結末を見届けていた影幻が、軽く拍手する麗羅の隣で、小さく鼻で笑い、そして満足げに目を細めた。

「……立派になったもんだ。あいつも」

 そのもう一方の隣で、美樹は溢れる涙を拭おうともせず、一心不乱に拍手を送っていた。

「おめでとう、三郎太クン……! 本当に、本当におめでとう……!」

 

 そして、東京ドーム内の熱気など届くはずもない、田舎町の寂れたラーメン屋。カウンターに置かれた古いテレビの中で、三郎太の勝ち名乗りが上がっていた。

 湯気の向こう側、カウンター越しにその画面を凝視していた一人の男――モモタロウが、最後の一口を啜り、静かに丼を置いた。

「やったな、三郎太!」

 かつての王者は、その背中をがむしゃらに追い続けてきた弟分の成長を心の底から喜ぶように、誇らしげに笑った。その笑みには、長い空白を埋めるような温かさが宿っていた。

 

 リング上には、今も降り注ぐ無数の紙吹雪。三郎太は重い身体を引きずり、ようやく上半身を起こした。目の前には、同じく意識を取り戻し、茫然とした表情で天井を見上げるローラの姿がある。孤独を背負い、誰にも頼らずに戦ってきた女王。だが、今の彼女を包んでいるのは、冷たい孤独ではなく、全力を出し切った者だけが共有できる、熱く清々しい空気だった。

 三郎太が手を差し出す。ローラはその手を一瞬、忌々しげに睨みつけ、そして力なく笑った。

「……最悪だわ。こんな泥臭い男に、私のすべてを壊されるなんて」

 吐き捨てられた言葉とは裏腹に、彼女は震える指先でその掌を、逃がさないと言わんばかりに力強く握り返した。その握手は、勝敗の確認ではなく、互いが互いを認め合ったという確かな証だった。

 その瞬間、アリーナを包んだのは、勝者への称賛だけではない。死闘を演じた二人の戦士への、最大級の敬意を込めた万雷の拍手だった。

 

 ──世界大会EQT(アース・クェイク・トーナメント)、閉幕。

 

 宮川三郎太。

 

 かつて兄貴分の背中を追うだけだった一人の若者は、この日、多くの仲間の想いをその背に宿し、真の「プロレスラー」へと羽ばたいた。だが、彼の旅路はここで終わりではない。この勝利という名の新たなスタートラインから、三郎太の物語は、さらなる高みへと続いていくのである。

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