「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
宮川三郎太とガータ御子柴による死闘から一ヶ月。太平プロレスを取り巻く熱狂は冷めるどころか、むしろ新たなうねりを生み出していた。今日の会場は、普段の太平プロレスが使用する年季の入ったスポーツセンターではない。都心に位置する最新鋭のアリーナだ。高く広がる天井、眩い照明、磨き上げられた床面――そのすべてが、今日の興行が持つ特別な意味を静かに主張している。観客席の六割から七割は、いつもの太平プロレスを支える熱いファンたちが埋めている。しかし、残りの数割には、明らかに毛色の異なる層が混じっていた。都会的で洗練されているが、どこか冷ややかな視線をリングに送るその集団は、新興団体「ノワール・ゲート」の支持者たちだ。
今回の興行は、ノワール・ゲート側から持ち込まれた「若手選手の交流と育成」という名目による合同興行である。プロレス界の未来を担う新星たちに、未知の相手と戦う経験を積ませる。その建設的なビジネス提案に、太平プロレスの林吾社長も首を縦に振った。
対抗戦形式で行われるこの興行の、記念すべき先鋒戦。リング上に立つライジング雫の心臓は、これまでにないほど激しく鼓動していた。
(わたしが……先鋒……)
今回の選抜枠は四名。同期のサチや新人のブライアンといった候補は他にもいる中で自分が選ばれ、この重要な幕開けを任されたこと。それは名誉であると同時に、選ばれなかった仲間たちの想いを背負うという重さでもあった。白と青を基調としたフリル付きのリングコスチュームを纏った雫は、ショートボブの髪を揺らし、紫色の瞳を対角線のコーナーへ向けた。
(太平プロレスの代表として見られる中で、私なりにこの試合を全力で戦う。先鋒戦で黒星がつけば、後に続く先輩たちにプレッシャーをかけることになる……!)
その真面目な性格ゆえ、雫の肩にはいささか力が入っていた。ストイックに積み重ねてきた努力を信じたいが、対峙する相手――羽衣玲の余裕に満ちた笑みを見ると、胸の奥にわずかな不安が芽生え、足元がふわりと浮つくような錯覚に襲われる。
『「太平プロレス」と「ノワール・ゲート」という二大団体の合同興行がついに始まります』
場内に、独特の抑揚を持った女性の声が響き渡った。大型ビジョンの照明が一段階落ち、観客のざわめきが実況席へと吸い寄せられていく。リングサイドに設けられた放送席では、実況用のマイクが赤く点灯し、カメラが影山へと向けられた。
『対抗戦形式で執り行われる今回興行、いよいよその先鋒戦のゴングが鳴らされようとしています。実況は格闘技配信サービスより派遣されました私、影山でお送りいたしますワ。また、解説には団体「オトギプロレスリング」よりエディ・ダンテス代表をお迎えしています。エディさん、太平プロは先鋒にデビュー1年のライジング雫を選抜しましたケド、この組み合わせをどうご覧になりますかしら?』
『よろしく、エディだ。林吾のおっさんに「若手の根性を見てやってくれ」と招かれてノコノコやってきたよ』
小柄で華奢な美少女と見紛う風貌ながら、姿に似合わぬ覇気を放つ女傑――エディ・ダンテスが、不敵に口角を上げた。放送席の照明が彼女の横顔を照らし、リング上の緊張とは別種の「プロの空気」が漂う。観客席の一部からは、オトギプロのファンらしき小さな歓声も上がった。
『さて、雫のことだが、聞いている限りでは努力家のサブミッション使いだが……、相手の羽衣はアイドルレスラーとは言えキャリア3年、空中殺法の実力はなかなかのものと聞く』
『マニアのサイト等の下馬評ではライジング雫の圧倒的不利と囁かれているようですネ、やはりキャリアの差は大きいかしら?』
影山の声がマイクを通してクリアに響き、場内のざわめきがわずかに落ち着く。放送席の前にはカメラが構えられ、リング上の二人と同じくらい、実況席にも観客の視線が集まっていた。
『それもあるが、相性がキツいかもしれないな。羽衣の試合は私も見たことがあるが、そのスピードは光るものがある。関節主体の雫は、巧く捕まえられなければ一方的な展開になってしまいかねない』
エディは腕を組み、モニター越しにリングを鋭く見つめる。
『実力・実績で上回る羽衣がその空中殺法で一気に飲み込むか、あるいは雫の粘りが捕らえて地に引き倒すか。展開に注目していきたいですわネ。さぁ、ここで試合開始のゴングが鳴らされました!』
影山が声を張った瞬間、会場全体の空気が一段階引き締まる。
カーン!
乾いたゴングの音がアリーナに響く。観客席のざわめきが一瞬だけ止まり、リング上の二人へと視線が集中した。雫は低く腰を落とし、慎重に間合いを詰めようと一歩踏み出す。緊張で呼吸が浅くなるのを自覚しながらも、視線は相手から逸らさない。しかし、対峙する羽衣玲は、構えを取るどころか、ふいっと背を向けた。挑発とも油断とも取れるその動きに、観客席から小さなどよめきが漏れる。
「えっ……?」
雫が面食らった、その一瞬の隙。 羽衣がバネのように身体を捻った。背を向けた状態から、しなやかに振り抜かれた右脚。トラースキックが、無防備な雫の顎を正確に射抜いた。
「ぐっ……!」
衝撃が脳を揺らし、雫の視界が一瞬白く弾ける。背中からマットに叩きつけられた雫の耳に、観客の悲鳴混じりの声援が遠く聞こえた。だが羽衣は、倒れた雫を見下ろす暇すら惜しむように動いていた。 ロープへと走り、その反動を利用して跳躍する。低空のドロップキックが、膝立ちに身を起こしたところだった雫の顔面を真正面から捉えた。鼻腔に熱い痛みが走り、雫は再びマットに沈む。
「みんな、応援してね~♪」
羽衣はショッキングピンクのフリルを揺らし、観客席に向かって満面の笑みで手を振った。アイドルそのものの愛くるしい振る舞いに、ノワール・ゲート側のファンから黄色い声援が飛ぶ。リングサイドの照明が羽衣の動きに合わせてきらめき、まるでステージのような華やかさが広がった。しかし、その笑顔のまま雫へと向き直ると、歩み寄る足取りだけが妙に静かで、観客の熱気と対照的な冷たさを帯びていた。そして次の瞬間、羽衣は雫の黒髪を容赦なく掴み上げた。
「がんばるね!」
観客にサービスショットを見せるように雫を吊り上げると、そのまま勢いよくヘアーホイップで投げ飛ばす。
『ああーっと! 羽衣玲、試合開始からライジング雫を翻弄しています! まるで赤子をあやすかのようですわネ!』
エディは腕を組んだまま、モニターに映る雫の動きをじっと追う。
『雫は完全にペースを握られたな。緊張で動きが硬いところに、あのスピードと変則的な蹴りは効くぞ』
放送席の周囲も静まり、観客の反応だけが遠く響いた。
雫はマットに手をつき、必死に呼吸を整えながら滲む視界の中、四つ這いで体勢を立て直す。
(強い……でも、簡単に終わるわけには……!)
雫は吠え、渾身のエルボーを繰り出した。しかし、羽衣は紙一重の距離で身を傾け、それを容易にいなす。空を切った雫の腕が、空しく空気を裂いた。
「フ……無駄よ」
羽衣は微笑みを崩さない。だが、その瞳の奥には冷酷な光が宿っていた。返礼とばかりに叩き込まれたエルボーバットは、アイドルレスラーの華奢な体格からは想像もできないほど重く、芯の入った打撃だった。雫の意識が揺らぎ、膝がガクガクと震える。胸の奥に鈍い痛みが広がり、呼吸が一拍遅れる。羽衣はロープ際でフラつく雫を横目に、セカンドロープを踏み台にトップロープを蹴って跳躍した。スワンダイブ式のミサイルキックが雫の胸元を捉え、その衝撃で雫の身体はリング中央まで弾き飛ばされる。
「……っ、がはっ……!」
肺の空気をすべて吐き出し、雫は悶絶しながらマットを転がった。視界が揺れ、天井照明が滲んで見える。肌に触れるマットの無機質な冷たさだけを頼りに、かろうじて意識を繋ぎ止めていた。羽衣がゆっくりと歩み寄り、雫の髪を掴んで無理やり引き起こす。その動作には、先ほどまでのアイドル的な愛嬌は一切ない。
「……あんたの態度、ムカつくわ」
観客には聞こえないほど小さな、氷のように冷たい声。羽衣は雫の耳元に唇を寄せ、毒を吐き出した。
「他人など信じるだけ無駄、どうせお前も同じになる。裏切られて、捨てられて……惨めに終わるのよ」
雫の紫色の瞳に、怒りの火が灯った。自分のすべてを否定し、太平プロレスの仲間たちとの絆を蔑む言葉。筋合いもない侮辱を、したり顔で言わせたままにしておくことなどできはしない。胸の奥が熱くなり、呼吸が荒くなる。
「……っ!」
雫は逆上し、渾身の力でフロント・ハイキックを放った。だが、激昂による大振りな一撃は、羽衣にとって避けるのは容易い。羽衣は余裕を持って体をかわし、嘲笑を浮かべる。その表情が、雫の怒りをさらに煽った。だが、これこそが雫の狙いだった。かわされた勢いを殺さず、雫はそのままマットへとダイブする。膝と掌がマットを叩き、痛みが走るが、そんなものは必要経費と割り切っていた。地面に這いつくばりながら、羽衣の軸足へと縋り付く。
「捕まえた……っ!」
羽衣が驚愕に目を見開く。雫は捨て身の引き込みで羽衣をマットに引きずり下ろすと、その右脚を自身の身体でガッチリとロックした。アキレス腱固め。歯を食いしばり、渾身の力で相手の足首を絞め上げる。そこには、「優等生」の面影はない。泥に塗れ、痛みも体勢の不利も構わず、ただ獲物を逃すまいと食らいつく獣のような執念だけがあった。
『ああーっと! 一方的な展開が続いていましたが、ここでライジング雫、キックを避けられてもめげずに倒れ込みながら脚を掴んで絡めとる! 見事なアキレス腱固めですネ!』
実況の影山が絶叫する。放送席のマイクが震え、観客席のどよめきが一気に膨れ上がった。
『捕まえたか』
解説席のエディ・ダンテスが身を乗り出し、感心したように声を漏らす。その視線はリングから一瞬たりとも離れない。
『散々スピードに翻弄されてやられ続けたが、よく食らいついた。まさに執念の引き込みだ。あのアキレス腱固め、かなり深く入っているぞ』
雫は自分を蔑んだ羽衣の、苦痛に歪む顔を睨んで吠える。握りしめた腕に力がこもり、全身の震えがそのまま技の締め付けに変わっていく。
「わたしはそんな風にならない……絶対に!」
雫の声が、アリーナの喧騒の中、リング上に響く。その叫びに押されるように、観客席からも小さな声援がさざめき始めていた。
『ライジング雫、必死の形相で絞め上げる! 何やら叫んでいますケド、残念ながら会場の喧騒でここではよく聞こえませんわネ。羽衣玲の笑顔が苦痛に歪んでますワ!』
影山が実況でぼやく通り、声援は徐々に大きく広がっていた。リングサイドの観客が一斉に前のめりになり、視線が二人の絡み合う足元へと集中する。羽衣の完璧なアイドルの仮面には、隠しきれない苦悶の亀裂が走っていた。ピンクの衣装を躍動させていた華奢な肢体が、今はマットの上で必死に暴れ、ロープへ逃れようと足を伸ばすが、雫の腕がそれを許さない。
『お、こっちの顔の方が魅力的だな』
エディが軽口を叩く。繕った仮面の笑顔よりも苦しみに歪みながらも死力を尽くしてロープを目指す表情の方が彼女の魅力を引き出している、そう言っているのだ。
『ダメですヨ、代表! あの子アイドルなんですから、ファンに怒られても知りませんわヨ!?』
影山が慌てて制止するが、放送席の背後では観客の悲鳴と歓声が入り混じり、羽衣の苦悶がどれほど衝撃的かを物語っていた。
『だってあいつの笑顔さぁ……』
ぼやくように核心に触れかけたエディを遮るように、一切の笑みを消した実況影山の顔が迫る。影山は、羽衣の「商品価値」に関わる危険なラインを本能的に察知していた。
『それ以上いけない』
影山の表情は、触れてはならない、職業アイドルにとって「冗談で済まない」領域に入りつつあることを示していた。
『アッハイ』
エディは素直に引き下がる。活躍もファンもヒーロー寄りでアイドルの世界とはズレがあるエディにとって面倒で触りたくない部類の話であるが故に。
そんな放送席のやり取りなど、今の二人には届かない。羽衣は顔を歪めながらも、残った左足で雫を蹴りつけ、必死にロープへと手を伸ばした。蹴りは弱々しく、痛みで軌道がぶれている。それでも羽衣は、爪を立てるようにマットを掻き、わずかでも前へ進もうともがいた。逃がすまいと雫がさらに深く絞め込むが、羽衣の指先が第一ロープに触れる。その瞬間、雫の腕にこもっていた力が一段と強まり、羽衣の身体がビクリと跳ねた。
「ブレイク! ブレイク!」
レフェリーの制止により、雫は断腸の思いで技を解いた。欲を言えばもう少し足首を痛めつけて機動力を落としておきたかったのだ。自由になった羽衣は、ロープを掴んで立ち上がりながら、苛立ちを剥き出しにした。肩で荒く息をし、乱れた前髪の隙間から鋭い視線を投げつける。カメラからは巧みに隠しているが、リング上で雫へ向けられるその目には、ファン向けの愛想笑いなど微塵も残っていない。羽衣は振り返りざま、逃れようとする雫の側頭部へ痛めつけられた脚で延髄斬りを叩き込んだ。
「ぐ……っ!」
痛む脚を武器にする羽衣に不意を突かれ、雫の意識が再び暗転しかける。衝撃でマットに転がった雫だったが、その手は無意識に、コーナーへと向かう羽衣へと伸ばされた。視界が揺れ、呼吸も整わない。それでも雫の指先だけは、獲物を逃すまいと勝手に動いていた。呻き声を上げながらも、離すまいと片手で羽衣の足首を掴む。
「……行か……せない……!」
幽鬼のような執拗さに、羽衣は一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じた。アイドルレスラーとしてこれまで戦ってきたリングでは見た事がないほどの執念深さ、泥沼から引きずり込まれるような恐怖。羽衣は、怯えを隠すようにその手を乱暴に振り払った。
「っ……離しなさいよ、鬱陶しい!」
羽衣の声は怒りで震えていた。痛む足を引きずるたびに顔が歪むが、それでも背を向けることだけはしない。彼女は痛む足を引きずりながらも、コーナーへとよじ登る。倒れたままの雫を見下ろし、その忌まわしい存在そのものを抹殺しようとするかのように身体を躍らせた。フライングボディアタックにより、羽衣の身体が性懲りもなくまだ立ち上がろうとしていた雫の小さな身体を押し潰すように圧殺した。羽衣の体重が一気にのしかかり、雫の胸郭が悲鳴を上げる。肺の空気が強制的に押し出され、雫の視界が白む。そのまま羽衣が覆いかぶさり、レフェリーのカウントが始まった。
「ワン! ツー……!」
しかし、雫の肩は辛うじてマットを離れた。反射のような動きで、意識の底から残った力を絞り出しただけの、ぎりぎりの抵抗だった。驚きに眉を跳ね上げた羽衣は、雫の胸ぐらを掴んで、その耳元に冷酷な言葉を叩きつける。
「いい加減、楽になりなさいよ……勝てない試合で無駄な努力する意味がないでしょ」
羽衣の言葉は、まるで鋭い刃物のように、雫のストイックな自尊心を切り裂こうとしていた。だが、一方でまるで自分に言い聞かせるような切迫さも孕んでいるようにも思える。その声音には、勝者の余裕とは程遠い、焦りの震えがかすかに混じっていた。
意識が泥のように重い。全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界は白く霞んでいる。それでも、雫の奥底に灯る紫の光だけは、かすむことなく揺らぎ続けていた。羽衣は、そんな雫の様子に苛立ちを隠せなかった。自分の言葉が、自分が突きつけた「現実」が、なぜこの地味な小娘に届かないのか。胸の奥で苛立ちが膨れ上がり、喉の奥で舌打ちがこみ上げる。彼女は舌打ちしたい衝動をアイドルスマイルの下に押し隠すと、ぐったりとした雫の髪を掴み、無理やり引き起こした。
「終わりにしてあげる」
羽衣の瞳から、観客向けの愛嬌が消え失せる。その目は、照明の反射すら拒むように冷たかった。彼女は雫の顎を狙い澄まし、今日一番の鋭さで右脚を振り抜いた。試合開始直後以来の二度目のトラースキック。回避も防御も許さない、完璧なタイミングでの一撃だった。靴底が雫の顎を跳ね上げ、脳を激しく揺さぶる。
「がっ……あ……」
声にならない悲鳴と共に、雫は糸が切れた人形のようにマットへ崩れ落ちた。大の字になったまま、ピクリとも動かない。
『ああーっと! これは強烈! 羽衣玲、慈悲のないトラースキックがクリーンヒットです! ライジング雫、今度こそ万事休すか!?』
影山の声が放送席のマイクを震わせ、観客席のざわめきが一段と大きくなる。スロー再生のモニターには、雫の顎が跳ね上がる瞬間が鮮明に映し出されていた。
『今のは効いたな。顎の先端を完璧に撃ち抜いている。意識が飛んでいてもおかしくない』
エディ・ダンテスの冷静な分析が、雫の敗北を宣告するかのようだった。羽衣は荒い息を整えながら、倒れた雫を見下ろした。今度こそ、動かない。彼女は勝利を確信し、その表情を瞬時に「アイドルの笑顔」へと切り替えた。
「みんなー♪これで決めますね~!」
羽衣は軽やかにコーナーポストへと駆け上がり、トップロープの最上段に立った。眩いスポットライトが、彼女のピンク色のコスチュームを煌めかせる。会場中の視線が、天空に舞うアイドルに注がれた。彼女が選択したのは、自身の持つ最大最強の切り札、フェニックス・スプラッシュ。羽衣が虚空へと跳躍する。空中で身体を捻りながら回転を加えるその姿は、まさしく天から舞い降りる天女のようだった。美しい放物線を描き、重力の加速を味方につけた彼女の身体が、動かぬ雫へと落下していく。
だが、その刹那。雫の肉体を突き動かしたのは、理屈を超えた執念だった。
(まだ……終われないっ……!)
意図して待ち構えていたわけではない。ただ、混濁する意識の中で本能が危険を察知し、極限まで痛めつけられた身体を無理やり転がしたのだ。一月前に三郎太にベス、御子柴と言った強敵たちによって何度もKO寸前の朦朧状態に追い込まれる激戦を潜り抜けた経験が彼女の本能を、彼女のカンを鍛え上げていた。マットが大きく波打つような衝撃音がアリーナに響き渡る。羽衣の身体が叩きつけられたのは、雫のいない無人のキャンバスだった。自らの全体重と回転の遠心力、その全てが破壊的な衝撃となって羽衣自身に跳ね返る。
「あぁぁっ……!!」
羽衣が苦悶の声を上げてのたうち回る。その身体が跳ねるたび、マットが鈍く震えた。その光景に、アリーナは悲鳴と歓声が入り混じった異様な熱気に包まれた。
『避けたァァァ!! ライジング雫、ギリギリのところで回避! 羽衣玲、必殺のフェニックス・スプラッシュが痛恨の自爆です!』
動けるとは思っていなかったのだろう。その声は予想外の展開に興奮し、トーンが跳ね上がっていた。
『良いな! よくぞあの状態から動いた……! 良い執念だ!』
エディも光るものを見たと頷きながら推移を見守る。
チャンスは、この一瞬しかない。雫は霞む視界の中で、悶絶する羽衣の姿を捉えた。全身が鉛のように重いが、止まることは許されない。雫は這うようにして羽衣に近づくと、その身体を背後から抱え込み、強引に引きずり起こした。狙うのは、あの日、屈辱と共に味わった試合──シロオニ・ベスに叩きのめされ、その圧倒的な実力差を見せつけられた夜の記憶。雫はその悔しさを糧に、ベスの動きを脳裏に焼き付け、密かに研究を重ねてきた技。
(重心の位置、腰のひねり、足の踏ん張り……イメージ通りに……!)
雫は雄叫びを上げ、羽衣の身体を後方へと投げ捨てた。エクスプロイダー。それは単なる模倣ではない。血の滲むような努力と、敗北の味を知る者だけが持つ重みが乗った、渾身の一撃だった。
「がはっ……!?」
羽衣は受身をとることさえできず、無防備な背中からマットに叩きつけられる。自爆のダメージに加えて、脳天を揺さぶる投げの衝撃。高慢だった彼女の思考が真っ白に染まる。雫は畳みかける。バウンドした羽衣の身体をうつぶせにして伸し掛かる。狙うは首、そして視界。雫は羽衣の左腕を抱え込みながら、自身の右腕を羽衣の顔面に覆いかぶせるように回した。
「……つかまえた……離さない……絶対に……!」
雫の腕が、羽衣の視界を完全に遮断する。ティアドロップボディロック。雫が独自に改良を加えた、変形のSTFである。いつもと違い、相手の顔面を腕で覆い隠すことで視界を奪う形に変えていた。それは過去に余力の無さで破られた経験からの悪あがきでしかなかったが、今この瞬間、それは意図せず羽衣の心への特効として突き刺さる。
「んぐっ……!? な、なに……!?」
羽衣の世界が、突如として闇に閉ざされた。目を開けても何も見えない。あるのは、自分を絞め上げる雫の腕の感触と、首と腰、そして足首に走る激痛だけ。覆いを外そうと雫の腕を掴んで暴れるが、そのロックは羽衣の焦りを嘲笑うかのようにびくともしない。ならばロープブレイクを狙うしかないが……暗闇の中で、方向感覚が狂い始める。ロープはどこだ? この暗闇の出口はどこだ? あとどれだけ這えばロープに届く? 羽衣は必死に手を伸ばし、マットを掻いた。しかし、指先が触れるのは冷たいキャンバスだけ。見えない恐怖が、羽衣の呼吸を浅くし、心をじわじわと侵食していく。
(痛い、苦しい、見えない……! 誰か、助けて……!)
だが、誰も助けてはくれない。彼女自身がそう信じて生きてきたからだ。他人は裏切る。誰も信じられない。だから一人で戦ってきた。けれど、この暗闇の中で一人であるという事実は、あまりにも重く、絶望的だった。
(もう嫌……こんな苦しいのは嫌……!)
──勝てない試合で無駄な努力する意味がないでしょ──
数分前、自分が雫に吐き捨てた言葉が、呪いのように自分自身へと返ってくる。どれだけ耐えればいい? 這う方向は合っているのか? 終わりの見えない苦痛。闇。孤独。胸の奥で何かがきしむように軋み、羽衣の呼吸はさらに浅くなる。
「ギブ……! ギブアップ……!」
羽衣の手が、力なくマットを叩いた。
カン! カン! カン!
ゴングの音が、アリーナの喧騒を切り裂いて鳴り響く。
『決まったァ、ロープまであと僅かと言う所まで這った羽衣玲、目前でギブアップ宣言! ライジング雫、絶望の淵からの大逆転勝利! 誰がこの結末を予想できたかしら!?』
実況の声が遠く聞こえる中、レフェリーが駆け寄り、雫の身体を羽衣から引き剥がした。技が解かれ、羽衣の視界に光が戻る。彼女が顔を上げると、そこには信じられない光景があった。彼女が必死に伸ばしていた指先。そのわずか数ミリ先に、ロープがあったのだ。
「……ッ?」
羽衣は愕然として、そのロープを見つめた。あと少し。あとほんの少し指を伸ばしていれば。いや、あと一瞬だけ痛みに耐えていれば、ロープに手が届き、エスケープが成立していたはずだったのだ。雫は荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。汗に濡れた髪が額に張り付き、紫色の瞳が冷ややかに羽衣を見下ろしている。
「……あと数ミリ。頑張っていたら、あなたは勝てたかもしれない」
淡々とした、事実だけの言葉。しかしそれは、どんな罵倒よりも深く、鋭く、羽衣の魂を抉った。
「あ……あぁ……」
羽衣の唇がわななく。アイドルの仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、己の愚かさに絶望する一人の少女の姿があった。
放送席では、興奮冷めやらぬ様子で解説が続く。
『あとほんの僅かだけ自分を信じていれば……いや、野暮だな。羽衣は誰でもない己自身に敗れたんだ』
エディ・ダンテスの言葉には、勝者への称賛と、敗者への哀れみが入り混じっていた。
『まずは太平プロレス側が勝ち星をとった形です。勢いにのるか、はたまたノワール・ゲート側の逆襲がまっているのか! 続いての次鋒戦も期待が高まりますネ!』
リング上では、レフェリーが雫の手を高々と掲げた。観客席からは、太平プロレスファンたちの割れんばかりの大歓声が降り注ぐ。だが、雫の表情に浮ついたものはなかった。セコンドについていた練習生たちが駆け寄り、肩を貸そうとする。しかし、雫はそれを静かに手で制した。
「大丈夫……ありがとう」
短く礼を言い、雫は自身の足で一歩ずつマットを踏みしめた。体中が軋むように痛むが、その痛みこそが勝利の証だった。ロープの間を潜り、エプロンサイドへ出る。階段を降りて通路を退場しようとしたその時、雫はふと足を止めた。彼女は自身の右腕をじっと見つめていた。羽衣の顔を覆い、視界を奪い、絶望の暗闇へと沈めたその右腕。そこにはまだ、相手を屈服させた生々しい感触が残っていた。
「……勝て、ちゃった」
呟きは、誰に聞かせるものでもなかった。仲間の期待に応えられた安堵感が胸を満たす。先鋒としての責任を果たせた。これで後に続く先輩たちに良い流れを渡せる。だが、心の奥底で渦巻く感情は、それだけではなかった。暗闇の中で怯え、懇願し、心を折られていく羽衣の姿。それを支配していた瞬間の、背筋が震えるような昂り。
「……私、最後の技で……笑ってた…?」
雫は困惑したように眉を寄せ、自身の右腕を抱きしめた。
優等生で真面目な自分の中に眠っていた、冷酷で、貪欲な獣の気配。勝利の余韻と共に残ったその微かな違和感は、これからの戦いが、ただ綺麗事だけでは済まされないことを予感させていた。