「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
異国の風は、どこか乾いた匂いがした。
カナダの地方都市、その大通りを一本外れた路地裏を、シャオ・ロンメイは当てもなく歩いていた。先の世界プロレス大会「EQT(アース・クェイク・トーナメント」の予選におけるあの敗北は、未だ彼女の心に暗い影を落としている。暗殺組織の道具として育てられた自分が、後に師となる武侠、マスター・盤古に救われ、プロレスという「光」を知った。
リング上から凶器を排除し、ルールという聖域を守る「ヒールキラー」。いつしか観客たちにそう呼ばれるようになり、それが自分の役割だと信じてもいた。だが、あの女子レスラー、ガータ御子柴との戦いはどうだ。御子柴が自身のダメージを甘受してまで拘った意地。
──シャオの必殺技を受けての衝突によって引きはがし、披露されたコーナーマットの下のターンバックルの金具と言う「排除不能の凶器」。
傷ついた看板、そしてプロレスのリングという存在が隠し持っていた混沌(カオス)の前に己は動揺し、凶器排除の悪役狩りとしても、かつての暗器使いとしてもプライドを傷つけられた。あまつさえその果てに敗北──プロレスという世界が持つ、底知れない深淵に触れた気がした。
凶器なき清浄な試合こそ至高の修練の場、それこそがプロレスではなかったか。それともそれはただの自分の思い込みでしかなかったのだろうか?
「未熟! 未熟! だから貴様はガキなのだァ!」
師の叱咤が脳裏に蘇る。禿げ頭を輝かせ、蓄えた髭を震わせながら、マスター盤古は言ったのだ。
「……儂もマスターと冠され華山不敗と称される身、なればこのくらいサービスすれば十分かな? ……などとメタい話はさておき、シャオよ。貴様のその迷い、宿したままでは到底『人を導く灯火たる力』など望めはせぬ」
誰にともなくお茶目なウインクをして場を和ませつつ、盤古は本題に入った。心の迷いを看破されたシャオに返す言葉は無い。平身低頭して受け入れるのみだ。
「貴様には試練を課す必要があると儂は判断した。……カナダ行きの手配を秘書君にさせておる。そなたはそこで招待選手としてリングに上がるが良い。あるいはそれで、さらに迷いは強くなるかもしれぬ。しかし、その先にこそ……そなたにとっての『己を導く灯火』の火種は散らばっている」
無論とっくに手配は終わっていますとばかりに、涼しい顔で盤古の秘書を務める美女が飛行機のチケットとカナダの団体に関する資料をシャオに手渡す。
そうして放り出されたこの北米の地で、現在シャオは空腹を覚えていた。そう言えば空港でも飛行機でも水以外口にしていない。思考の迷路に入り込むと、カロリーの消費が激しくなる。何か腹に入れないと、思考すらまとまらない。そんな風に視線を道沿いに彷徨わせていたその時。
ふと、鼻先を微かな違和感が掠めた。ごくわずかな……微かな「血の臭い」だ。かつて「暗器使い」として闇に生きた頃の嗅覚が、敏感にその匂いを捉える。鉄錆と、生温かい有機物の匂い。シャオの身体に緊張が走る。念のため警戒レベルを上げ、シャオは匂いの元を探り、そっと視線を向けた。
そこにあったのは、古ぼけたピザ屋だった。
「……気のせい、ですか?」
改めて嗅げば、それはトマトソースの酸味と、焦げた小麦、そして熟成した肉(サラミ)の香りのように思える。だが、確かにどこか「現場」の匂いに似ていたような、そうでいて決定的に違うような……。
その奇妙な感覚に誘われるように、シャオは重い木製のドアを押し開けた。
「いらっしゃい! おや、お嬢さん一人かい?」
カウンターの向こうから声をかけてきたのは、白いエプロン姿の店員だった。無精髭にぺたりとなでつけられた癖のある金髪。腹回りはたっぷりと肉がつき、見るからに人の良さそうな「おじさん」だ。その歓迎の笑顔に殺気など欠片もない。どこからどう見ても、ただの善良な一市民の顔だった。
「……一人です。おすすめ、頼むです」
「あいよ! うちの特製メープル・ベーコン・ピザはどうだい? カナダの味がするぜぇ」
男は陽気に答え、厨房の中で動き出した。
(カナダの味がするってどういう表現ですか)
シャオはカウンター席に座り、男の背中をぼんやりと眺める。手際は悪くない。生地を回し、具材を散らす動作には淀みがない。だが、隠し持った武器を見逃さぬシャオの目はある一点に釘付けになった。窯に押し込む作業で彼の姿勢が前傾し そのズボンのポケットから銀色に光る円盤状の道具が僅かに覗く。
ピザカッターだ。だが、ただの調理器具ではない。グリップは黒く塗装され、刃の部分には奇妙な装飾が施されている。何より、それから僅かな血の残り香が感じられるような……。
「……店員。それ、何です?」
反射的に問いかけていた。男は「え?」と目を丸くし、シャオの視線の先をたどって自らのズボンのポケットから覗くカッターに気付く。
「ああ、これですか? すまないね、驚かせちまって」
男は照れくさそうに頭をかき、そのカッターをポケットから取り出すと、ごとりとカウンターの上に置いた。
「実はこれ、副業の商売道具でしてね。間違って持って来ちまったんだが、店の食器と変に混ざらないようにポケットに入れてたんだ」
ピザが焼き上がる間にと、副菜のフライドポテトをフライヤーの油に沈めながら男は笑う。
「副業……ピザ屋のお前が副業で、やっぱりピザカッターを使うですか?」
シャオは首をかしげた。長めの前髪が揺れてその陰に隠れがちな瞳が隙間から覗く。
「ははは、確かに変な話だよなァ? それ、刃を潰してあるんです」
シャオは一言断って手に取って確認するが、確かにそこに鋭利さは微塵もない。指が切れることはおろか、紙一枚切るのも難しそうなほど丸められている。しかし、一方でシャオはそのグリップに違和感を持った。回転刃を引く力の掛け方ではつかない痕があるように思える。なんだ、これは?
「だから、そいつじゃピザは切れない。あくまで演出用さ」
暫し夢中になって眺めている内にピザが焼けたらしい。そう言って男は別の、業務用の清潔なカッターを取り出し、焼き上がったピザを切り分けていく。どうにも気にかかる違和感の正体を見出せぬまま、シャオはピザカッターを男に返した。
「はい、お待ちどうさん!」
目の前に置かれたピザからは、食欲をそそる湯気が立ち上っている。シャオは狐につままれたような気分で、ピザを口に運んだ。
「……美味しいです」
生地はもちもちとしていて、メープルの甘みとベーコンの塩気が絶妙に絡み合っている。シャオはもぐもぐと無心にピザを頬張っていった。
殺意の残滓が一切ない、血の残り香。店に入る前に感じたあの匂いの正体は、結局分からずじまいだった。あるいは、ただのトマトソースの匂いを勘違いしたのだろうか。
「ごちそうさまです。……お前、いい人です」
「へへ、よしてくださいや。また来なよ、お嬢ちゃん」
男の屈託のない笑顔に見送られ、シャオは店を後にした。腹は満たされたが、胸の奥のモヤモヤは晴れないままだった。
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数日後。 シャオは、現地のプロレス団体が主催する興行のリングに立っていた。会場は、故国とも先日のEQTの開催地である東京とも、また違う熱気に包まれている。観客たちの野太い声援、飛び交う罵声、そして期待に満ちた視線。チャイナドレスを模した黒と深緑のリングコスチュームに身を包み、シャオは静かに呼吸を整える。今日の対戦相手は、地元でも悪名高いヒールレスラーである。そして、それはアースクェイクトーナメントの予選であの白鬼と対戦し、敗退した選手であるとも聞いている。
「夜の回転刃(ナイト・サーキュラー)」というおどろおどろしい二つ名を持つその男は、残虐な凶器攻撃で対戦相手を血祭りにあげることで知られていた。
「ヒハハハッ! 今宵も新鮮な生贄を血祭りにあげてやるぜぇッ!」
場内の照明が落ち、不協和音のような入場曲が鳴り響く。花道から現れたのは、ボロボロのロングタイツを履き、顔を歪ませた巨漢だった。カナダ国旗を血糊で汚したようなデザインのコスチューム。乱れた金髪に、無精髭。その手には、不気味に光る凶器が握られているという前評判だったが、今はまだ徒手空拳のようだ。
(……悪役。凶器……排除すべき、リングのケガレ)
シャオの瞳に、冷徹な光が宿る。 相手がどんな悪党であろうと関係ない。ワタシはワタシの仕事をするだけ。隠しても無駄だ。凶器を見つけ次第奪い取り、清浄な修練の場としてのリングを取り戻す。それが今のワタシに残された唯一の道しるべだ。……そのはずだ。
ガータ御子柴との試合以降、揺らいでいる信念に喝を入れるように自らを叱咤してシャオはリングに向かう。
『シャオ・ロンメイ選手、入場!』
リングアナウンサーのコールと共に、シャオは華国楽器の奏でるBGMを背負って花道を歩み、リングインする。対角線のコーナーには、不敵な笑みを浮かべる巨漢、リック・ザ・ナイトサーキュラーの姿があった。
(体格差は技量と速さで埋めるです)
シャオは華国拳法の構えをとりつつ、試合開始の合図を待つ。
そしてゴングが鳴らされた。
試合開始直後、二人はリング中央で対峙する。まずは力比べ。ロックアップの体勢に入る。
「ふんっ!」
組み合った瞬間、岩のような重圧がシャオを襲った。リックの体重は108キロ。対するシャオは小柄な軽量級。物理的な質量差はいかんともしがたい。ズルズルと足がマットを滑り、シャオはロープ際まで押し込まれる。
「軽い、軽いぜぇお嬢ちゃん!」
リックは圧倒的なパワーを見せつけながら、しかしそのまま組み伏せるでもなく、クリーンにパッと体を離した。その顔には、相手を小馬鹿にしたような嘲笑が張り付いている。
「……ナメるないです!」
離れ際、シャオは一瞬の隙を突いて華麗に跳躍、傍らのロープに飛び乗った。ロープを蹴った反動を利用したスワンダイブ式のドロップキック。軽量級ならではのスピードに体重が乗った一撃が、リックの胸板を捉える。バチンと景気の良い快音が響くが、リックの巨体は数歩よろめいただけで倒れない。その分厚い脂肪と筋肉の複合装甲は、打撃の衝撃を吸収するクッションの役割も果たしているようだ。
「っとと、蚊に刺されたほどにも効かねえなぁ、そんな軽い蹴りじゃよぉ!」
リックもまたロープに自ら体を預け、その反動で弾丸のように飛び出した。ショルダータックル、100キロ超の肉塊が、トップスピードで激突してくる。
「くっ……!」
シャオは防御姿勢を取るが、軽量級の悲しさか。まるでトラックに撥ねられたかのような衝撃に為す術も無く吹き飛ばされた。マットに背中を打ち付け、そのままごろごろと転がってしまう。
「ギャハハ! 我慢するこたねぇ! 思うさま悲鳴をあげてくれよォ! 本当のパーティーはこれからだぜぇ……」
リックは倒れたシャオを見下ろし、おもむろにタイツのポケットへと手を伸ばした。観客席から期待と悲鳴が入り混じった声が上がる。
「出るぞ!」「やっちまえリック!」「オイオイ、相手は可愛い女の子だぞ!?」「だがそれがいい」
銀色の輝き、凶器だ。 シャオの身体が、思考よりも先に反応する。
(させない……です!)
痛む体を叱咤して、バネのように跳ね起きたシャオは、リックの懐へと飛び込む。暗器使いとしての練達の指先が導く神速の武装解除(ディスアーム)。リックが何かを振りかざそうとしたその刹那、シャオの手はその凶器を正確に掠め取っていた。
「……確保、完了で……えっ?」
奪い取った凶器に視線を向けた瞬間、シャオは動きを止めた。凶器としては軽め、黒く塗装されたグリップ、奇妙な装飾が施された刃。そして……鉄錆のような鼻を突く匂い。それは「殺意の残滓が一切ない血の残り香」だ。
──そこにあったのは、刃が丁寧に潰された、ピザカッターだった。
この模様、このサイズ。間違いない。これは数日前、あのピザ屋で、あの優しい店員のおじさんが「副業の商売道具だ」と言って見せてくれたモノ、それそのものではないか。
「……は?」
シャオはゆっくりと顔を上げる。目の前には、悪意に満ちた凶相を浮かべ、残虐な笑い声を上げているリック・ザ・ナイトサーキュラーがいる。乱れた金髪。無精髭。突き出た腹。パズルのピースが、静かに噛み合わさっていく。あの優しいピザ屋の店員が……目の前の残虐非道な悪役レスラーなのか。
信じられぬ思いで、シャオは手元の凶器を、そして、リックの顔を二度、三度と見返した。
(お前……あのおっさんですか!?)
あまりの衝撃に絶句し、シャオの思考は完全にフリーズした。戦うべき「悪」が、あの「善意の塊」のような店員と同一人物? 混乱するシャオの手の中で、役立たずのピザカッターだけが、間の抜けた銀色の光を放っていた。
思考の空白。その刹那の隙を、百戦錬磨の悪役が見逃すはずもなかった。シャオの身体が、強烈な力で捕らわれ、ねじ伏せられる。太い腕が蛇のように巻き付き、シャオの細い首を締め上げた。ヘッドロックだ。
「がっ……!?」
思考が追いつかない。先日見たピザを焼いていた優しげなおっさんの手と、今自分の頚動脈を圧迫している剛腕が繋がらない。だが、その腕力は紛れもなく現実の脅威だ。リックはヘッドロックでシャオの動きを完全に封じると、彼女の手首を万力のように締め上げ、奪われていたピザカッターを強引にもぎ取った。
「ヒハハハッ! 他人のモンを奪うような悪い子にはお仕置きが必要だなぁ!」
耳元で響く、鼓膜を劈くような嘲笑。リックはシャオの頭部を小脇に抱え込んだまま、奪い返したカッターを振りかざした。銀色の円盤が、照明を弾いて鈍く光る。
「や、やめろです……それは……!」
それは、人を傷つけるものではないはずだ。ピザを切り分ける、平和な道具のはずだ。しかも刃を潰してそれすらも……刃を、潰す?
──わざわざ刃を潰す理由は何だ?
シャオはさらなる疑問に襲われる。だが、リックに躊躇はない。ガリッと、硬質な感触が額を走る。刃は潰されている。切れるはずがない。しかし、リックは巧みな手首の返しと、髪の生え際という皮膚の薄い一点を狙い澄まし、摩擦と圧力で皮膚を破裂させた。
熱い液体が、ドロリと視界を覆った。
赤。鮮血の赤。
「あ……ああ……」
流血。その事実が、シャオの混乱に拍車をかける。
(あの優しいおじさんが、ワタシを切った? なぜ?)
流れ落ちる血で片目が塞がり、世界が赤く染まる中、シャオは呻くように問いかけた。
「……殺気皆無の闘気、お前……一体何者です!?」
問いに対する答えは、残酷なほどシンプルだった。
「ギャハハ! 決まってんだろぉ? か弱いお嬢ちゃんを血祭りにあげる、極悪非道な悪党様だァ!」
リックは拘束を解くと同時に、よろめくシャオをロープへと突き飛ばした。混乱と体格差で何をすることもかなわず、ただロープの反動で戻ってくるシャオ。視界は血で曇り、平衡感覚も定かではない。
そこに待ち構えていたのは、巨大な肉の壁だった。
「ブラッディ・ミートプレスッ!」
鈍い音がリングに響く。108キロの脂肪と筋肉の塊が、ボウリングのピンのようにシャオを弾き飛ばした。マットに叩きつけられ無様に転がる衝撃。肺から空気が絞り出される。 痛い。苦しい。だが、それ以上に心が軋む。
シャオは震える足で立ち上がろうとする。目の前には、腹を揺らして笑う醜悪な悪役がいる。だが、その輪郭はあの善良な市民と重なって離れない。
「……ふざける、ないです!」
シャオは本能的に腕を振るった。水平チョップ。彼女の得意技であり、幾多の敵を薙ぎ払ってきた一撃。だが、その掌がリックの胸板を叩いた音は、あまりにも軽かった。
ペチッ。乾いた、力のない音。
「……え?」
迷い。困惑。相手を「悪」と認識できない心が、無意識にブレーキをかけていた。人を傷つけてはいけない。特に、あの優しい人を。そんな甘さが、プロレスラーとしての牙を抜いていた。
「なんだぁ? 蚊が止まったのかと思ったぜぇ!」
リックは不敵に笑うと、無防備なシャオの脇腹に手を伸ばした。その手には、ピザカッターが握られている。
「今度はこっちだ! 可愛い鳴き声をお客様がたに聞かせてくれよ!」
あまり可愛くない悲鳴が会場に木霊した。
「ぎゃあああああっ!?」
リックはカッターの刃ではなく、硬質プラスチックの柄の先端を、肋骨の間の神経が密集するツボへと正確にねじ込んでいた。切断されるような鋭い痛みではない。内臓を直接鷲掴みにされるような、脂汗が吹き出る鈍痛。グリグリと、容赦なく抉られる痛点。
「ちょいと予想と違ったが……まぁ、アレだ! いい声だ! その悲鳴が聞きたかったんだよォ!」
リックはシャオの身体が痛みで「くの字」に折れ曲がった瞬間を見逃さなかった。巨体が沈み込み、シャオの顎をクラッチする。そのまま強引に持ち上げ、自らの頭頂部にシャオの背中を固定した。
「メイプルリーフ・バックブリーカーッ!」
カナダの象徴である楓の名を冠した、変形の背骨折り(カナディアンバックブリーカー)。リックの頭上でシャオの身体が弓なりに反り返る。
「ぐ、うぅぅ……ッ!」
背骨がミシミシと悲鳴を上げる。逆さになった視界の中で、観客たちが熱狂しているのが見えた。彼らは喜んでいる。シャオが痛めつけられ、血を流し、苦しむ姿を見て、歓声を上げている。
これがプロレス? わけがわからない。意識が遠のきかけたその時、耳元で低い声が聞こえた。
「……なぁ、嬢ちゃん」
それは、リングに響く悪役のダミ声ではなかった。 あのピザ屋で聞いた、少し疲れた、けれど芯のある大人の男の声。
「あんたに戦う理由はねえのかい? どんな相手だろうと全力を尽くす覚悟は?」
極限状態の攻防の中、リックはシャオにだけ聞こえる音量で囁いていた。
「どっちもねえなら、俺はあんたを無残にリングに沈めるしかない。そうでなけりゃ……客の納得いくサービスにゃならねえ。わかるか?」
──客への、サービス。
その言葉が、雷光のようにシャオの脳髄を貫いた。それはプロの理屈だ。シャオにとっての「正義」や「悪」とはまた違う次元にある、職業人としての矜持。あの店員リックは、美味しいピザを作ることで客を笑顔にしていた。この悪役リックは、徹底的に暴れ、そして時には散ることで、客を熱狂させている。リングは調理台、レスラーは食材なのだろう。手段は全然違うものだが、その根底にある「客を満足させる」という目的において、そこに違いはない。
シャオの心中でようやく二人のシルエットが完全に同一人物として一致を見た。
(……そう、ですか)
ようやく、腑に落ちた。彼には彼の理屈がある。譲れないプロとしての流儀がある。
(ならば、ワタシは? ワタシはなんのために、ここに立っている? 「清浄なリング」を守るため? 師匠の言いつけだから? 違う。 ワタシは、ワタシの誇りのために戦うです。目の前の男が「プロの理屈」を押し付けてくるなら、ワタシもまた、ワタシだけの「元暗器使いの若きプロレスラーとしての理屈」をリングに叩きつけるまで)
理屈と理屈のぶつかり合い。それもまたプロレスだというのなら、受けて立つしかない。シャオの瞳から、迷いの色が消え失せた。 代わりに宿ったのは、かつて闇の世界で磨き上げた、冷たく燃える闘志の灯火。
「……ふっ! ぎぃっ……ぐぅぅっ!!」
シャオは全身のバネを使い、強引に身体を捻った。リックの肩を足場にして蹴り上げ、空中へ身を躍らせての無理やりの脱出。両手両足をついての無様な着地の衝撃が、痛めつけられた腰に走る。だが、その痛みこそが、今のシャオには戦うための燃料だった。
「ハァッ……! アタァ!」
反撃開始だ、拳法仕込みのコンビネーション蹴打を浴びせていく。予備動作ゼロ、暗殺拳の理合を応用した不可視とも疑う連撃の前にリックの反応は追いつかない。乾いた破裂音が連続して響く。これまでの迷いが嘘のように、鋭く、重い蹴りがリックの巨体を揺らす。
「……意味わかんねーです。でも、ワタシもワタシの理屈を押し通すです!」
血と汗に塗れた笑顔で、シャオは叫んだ。
「ハッ! マシな顔になったじゃねえか!」
リックもまた笑う。その笑顔は、ヒールの嘲笑か、それとも心配なお嬢ちゃんへのそれか。彼は再び懐からピザカッターを取り出し、逆転の一撃を狙った。だが、もう遅い。シャオの集中力が極限まで研ぎ澄まされている今、カッターが振るわれる軌道、筋肉の動き、呼吸。
すべてが見える。
「ふふん、させねーです!」
疾風のような動きでリックの手首を制し、凶器攻撃を未然に封じる。そして、その勢いのままロープへと走り、容赦なくリング外へピザカッターを投げ捨てつつ、背に受けたロープの反動を最大限に利用して舞い戻っての跳躍。 重力を無視したかのような高さで、シャオの身体が宙を舞う。
「レッグラリアート……ホアタァッ!」
額から流れる血が、その飛沫が空中に鮮やかな弧を描く。その向こうで、シャオは獰猛に、しかし美しく笑っていた。
鮮血を散らしながら放たれたシャオのレッグラリアート。その強靭な脚がリックの首筋に深々と食い込み、リング上に破裂音が轟いた。観客席からどよめきが上がるほどのクリーンヒット。巨木のようなリックの体が大きく傾く。
(決まった……!)
シャオは確信し、着地の体勢に入ろうとした。 だが、その瞬間だった。
「ヒハッ! 軽い、軽いぜぇぇッ!」
傾いたはずのリックの巨体が、不自然なほどの復元力で押し戻ってきた。ホラー映画の怪人は会心の一撃だろうと立ち直る。
「なっ!?」
シャオの足首を、リックの太い指先が万力のように掴んでいる。打撃の衝撃を、その分厚い首の筋肉と脂肪で受け止め、あろうことかシャオの蹴り足を掴んだまま、強引に抱え込んだのだ。 質量差という名の絶望。シャオの体が宙に浮く。
「お返しだァ!」
そのままリックがブリッジの体勢に反り投げた。シャオの視界が天と地をひっくり返す。逃げ場のない空中で、カナダの重力が牙を剥いた。背中からマットに叩きつけられる「ベリー・トゥ・ベリー」の強烈な一撃。
「がはっ……!」
肺の中の酸素が強制的に排出され、視界が明滅する。脊椎を走る衝撃が、手足の自由を一瞬にして奪い去った。
「まだだ! まだ終わらねえよなぁ!?」
追撃の手は緩まない。 リックは倒れたシャオを見下ろし、ロープに飛んで勢いをつけた。 地響きと共に戻ってきたのは肉弾戦車。
「潰れちまいなッ!」
跳躍。 重力加速度を加えた肘鉄が、無防備なシャオの胸元へと落下してくる。避けることは不可能。シャオは歯を食いしばり、全身の筋肉を硬直させて「フライング・エルボードロップ」のインパクトに備えた。
「あぐぅッ……!!」
重い。あまりにも重い。肋骨が悲鳴を上げ、意識が飛びそうになる。だが、シャオの瞳の光は消えていなかった。痛みはある。しかし、今の彼女にはそれ以上に鮮明な「感覚」があった。
(……見える)
苦痛の向こう側で、リックの重心、筋肉の動き、そして「次の攻撃」への予備動作が、スローモーションのように感じ取れる。
リックは勝利を確信したように、ゆっくりと立ち上がった。
「ヒハハハ! これで終わりだ、お嬢ちゃん!」
再びシャオの髪を掴み、引きずり起こそうとする。その隙だらけの動作こそが、シャオが待ち望んでいた瞬間だった。
「……終わり、なのは……」
シャオの呼吸が変わる。プロレスラーの呼吸から、一撃必殺を狙う武術家の呼吸へ。リックの手が伸びてきたその刹那、シャオは両脚をキャンバスに突き立て、腰を落として自身の重心を極限まで低く沈み込ませた。
「お前の方、ですッ!」
踏み込み。マットを蹴る震脚の音と共に、シャオの背中がリックの懐へと滑り込む。八極拳の絶招。
「鉄山靠(てつざんこう)ッ!!」
鈍く、重い衝撃音が響いた。全体重と背面の筋肉を一点に集中させた体当たりが、リックの巨体を根こそぎ弾き飛ばす。
「ぐおっ!?」
さしものリックも、下方からのカウンターには耐えきれなかった。巨体が紙屑のように吹き飛び、背中からコーナーへと激突する。たまらずそのままコーナーにもたれかかり、苦悶の表情を浮かべるリック。
その隙を見逃すシャオではない。
「逃がさないです!」
一息つく間もなく、シャオは対角線のコーナーから疾走した。助走をつけて加速、さらに加速。その姿は、獲物を貫く緑の矢。コーナーで身動きの取れないリックの腹部に、シャオの「串刺しショルダータックル」が深々と突き刺さる。
「がっ……は……ッ!」
リックの口から苦悶の声が漏れる。だが、シャオの攻撃はそこで終わらない。勢いそのままロープを掴み前転跳躍。リックの頭部をコーナーマットと自らの腿、そして股間で前後左右に完全包囲するように飛びつき、執念で固定した。
「テメッ…顔に股間とか……ぶっ!?」
頬を染めたリックが思わず上げようとした抗議の声は圧迫に押しつぶされて途切れた。
「サービスです、とっときやがれです!」
羞恥を捨て、勝利への執念に燃えるシャオ。シャオは密着した状態でリックの逃げ場を完全に奪う。だが、108キロの巨体をゼロ距離から回すには、あまりにも動力が足りない。 シャオは、リックの肩越しに片足を、迷わず背後のコーナーポストへと向ける。重ねた記憶と技術の錬磨が必殺の為の最短のベクトルを導き出す。シャオは鉄の支柱を、全霊の力で蹴り飛ばした。ボンッ、と火花が散るような衝撃音が響く。
支柱を蹴った反動がシャオの身体を爆発的な初速へと変え、固定されたリックの首を強引に旋回へと巻き込んでいく。シャオはリックの首を両脚で捕らえたまま、独楽のように旋回していく。急加速と不規則な旋回の負荷が、朦朧とするリックの意識と肉体を、否応なく遠心力の渦に飲み込んだ。
「奥義! 『宝蓮灯火柱(ほうれんとうかちゅう)』ッ!!」
灯火が揺らめくような変幻自在の予備動作。絡みついた脚を支点に、シャオ自身の体が描く旋回が奇妙な揺らぎを見せる。まるで風に煽られる灯火のように。予測不能な重心移動。リックはどちらに踏ん張ればいいのか分からず、平衡感覚を失っていく。
リックは一瞬、近くのロープを掴んで耐えようか刹那に逡巡し、しかし、最高潮に興奮して歓声を上げる観客たちが視界の端に映るのを目にし……敢えて、ロープは掴まず、遠心力と、崩れた体勢への加重に身を任せた。
(いいだろう、今日のメニューは怪人退治の華人少女ヒーロー譚だ)
リックの巨体が、見えない渦に巻き込まれたようにきりもみ回転しながら舞った。
「ぬ、おおおおおッ!?」
受け身を取ることすら許されぬ、制御不能状態。脳天と背中をマットに叩きつける轟音。リックは大の字に伸び、その上にシャオがガッチリと覆い被さり、体固めに抑え込む。
レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
カンカンカンカンッ!
試合終了を告げるゴングが鳴り響いた。
『勝者、シャオ・ロンメイ!!』
一瞬の静寂の後、会場が揺れるほどの大歓声が爆発した。
「すげぇぇ! あの巨体を回したぞ!」「ベストバウトだ!」「シャオ! シャオ!」「リックも最高だったぞー!」
観客たちは口々に喝采を叫んでいた。どうやらカナダの怪人と華人少女によってリング上から供された今宵のメニューは彼らの舌と胃を十分以上に満足させたらしい。
血と汗に塗れたシャオは、荒い息を吐きながら立ち上がる。流血で片目は塞がり、体中が軋むように痛い。だが、胸の中には、かつてないほどの清々しさがあった。
────────────────────
後日。あのピザ屋のドアベルが、カランコロンと鳴った。
「いらっしゃい! おや……」
カウンターの中で生地を叩いていたリックが、客の顔を見て目を丸くする。入ってきたのは、額に痛々しく包帯を巻き、どこか不機嫌そうなオーラを纏ったシャオだった。生え際に包帯が巻かれたせいでその前髪が左右に流れ、隠れがちだった両目が今ははっきりと覗いている。
リックはすぐに表情を崩し、心配そうにカウンターから身を乗り出した。
「おいおい、大丈夫かい? 結構派手に切れてたからなぁ。でもそんなに深くはなかったから傷跡が残るような事は無いでしょう、安心してください」
その声色は、完全に「街の優しいピザ屋さん」のそれだ。だが、シャオは誤魔化されなかった。ズカズカとカウンターまで歩み寄ると、身を乗り出してリックに詰め寄った。
「……お前。あの時、まだ返す余力あったです。なぜか?」
あまりにも単刀直入なシャオの問いに、リックの動きが止まる。
「なんのことでしょう?」
そっと視線を反らし、すました顔でとぼけるリック。神経を逆撫でにされたも同然、もちろんシャオは収まらない。収まるはずがない。
「とぼけるなです! ワタシ、試合終わってからよく考えたです。最後の回転、あの位置の始動ならば、お前、ロープ掴めたはず。……なぜ黙って技を受けたですか?」
シャオの目は真剣そのものだった。リックは心底困ったようで、ハの字に眉を下げ、視線を泳がせる。店内には他の客もいるし、奥では店長が伝票の整理をしているのだ。どうしたものか。
「……お客様、注文が決まってからでも」
「誤魔化すないです!」
シャオがカウンターをバンと叩く。周囲の客がギョッとしてこちらを見た。店長も怪訝そうに顔を上げてこちらを見ている。
リックは慌てて「シーッ!」と唇に指を当て、声を潜めてシャオに顔を寄せる。
「声がデカいよ! ……まったく、しつこいお嬢さんだね」
リックはため息をつき、叩いていた手元の生地に布を被せて作業を中断する。そして、手を叩いて粉を払うと、カウンターに身を寄せてシャオにだけ聞こえる小声で早口にまくしたてた。
「いいかい? 俺の仕事は客を満足させることだ。あの場面、俺がロープに逃げて粘るより、お嬢ちゃんの必殺技で劇的に決着がついた方が、客のボルテージは最高潮になる。だからあれでいいんだよ」
シャオはぽかーんと口を開けて動きをとめた。リックの言葉を咀嚼して飲み込み、理解するのに僅かに時を要したのである。
「……」
それをどう受け取ったのか、リックは面倒くさそうに続け……そして纏めに入った。
「どうでもいいじゃないですか、勝ち負けなんて。客が喜んで、アンタが勝った。それだけでしょう?」
シャオは暫し呆然とした後、彼の言っていることを深く理解に至り──結果、じわじわと怒りが込み上げてくるのを感じた。
「……つまり、なんですか? お前ワタシとの勝負より、お前の中の理屈においての勝負を優先した、いうことですか?」
その声は震えていた。ただならぬ気配を感じて気圧されたリックがそっとカウンターから身を離す。
「いや……ま、そういうことになる……のかな?」
頬を指先で掻きながら、恐る恐る肯定したリックに対するシャオの反応は苛烈そのものだった。
「ふざけるなです!」
シャオは再びカウンターをバンと叩こうとして、咄嗟にリックが間に滑り込ませた掌によって阻止された。
「だ、だから静かにって!?」
シャオはギリギリと歯噛みしながら、怒りに頬を染めてリックを睨みつける。
(この男にとって、ワタシとの死闘すらも、ただの「ピザの調理工程」の如き商品提供過程の一つに過ぎないというですか。ワタシは必死だったのに。プライドを賭けて挑んだというのに)
シャオはリックの掌の上から握り拳をそっとどけると、今度はその人差し指をビシリと彼の眼前につきつけた。
「……リベンジマッチを要求するです」
キッと睨みつけながらシャオが放ったのは再戦要求だった。
「はあ?」
思わず間の抜けた声をあげてしまうリック。ピザ屋の店頭で何を言っているんだお前は。その表情はそう叫んでいた。だが、シャオは空気を読まない。
「お前、今度こそ『ワタシと勝負する』です。客とかどうでもいい、なんなら無観客試合でもいいです」
シャオの剣幕、そしてその発言内容に、リックはげんなりとした顔をした。
「い、嫌ですよ、そんなの」
両の手のひらで遮るような仕草で拒否を示すリックに対し、シャオは一歩も退かない。
「逃げるなです!」
もう大分言い訳の利かない状況になりつつある店内を察してリックが情けない顔をする。常連客達は事態に気付いてニヤニヤ見守っているし、そうでない客たちはすわ痴話喧嘩かと白い目を向けている。店長の胡乱げな視線はもはや針のようにリックの背に突き刺さっていた。
「そもそも、リベンジマッチってのは、負けた方が勝った方に挑むもんでしょう? あんた勝ったじゃないか」
リックはもっともらしい理屈で逃げようとする。 だが、シャオはその言葉尻を捕らえて、不敵に笑った。
「ふふん。お前の理屈の中でお前が勝ってるなら、お前は勝者です。だったら、ワタシが勝者に挑んで何が悪いですか?」
「……むむむ」
リックは言葉に詰まった。自分の理屈を逆手に取られた形だ。
「なにがむむむだ! 見ろ、完全論破です。さあ、受けるです!」
勝ち誇るように宣言するシャオ。うろたえるリックはもはやこれまでと所属団体に責任をぶん投げた。
「だ、団体に聞いてください! 俺は知りません!」
リックはたまらず、カウンターでそれ以上シャオが侵入できないのを盾にとって厨房の奥へと逃げ込んだ。店長のジト目が痛い。
「あ、逃げた! 卑怯者! 出てこい店員!」
シャオはカウンターに身を乗り出し、厨房に向かって叫ぶ。
「ホラ、ピザの注文です! スイマセン、メープルベーコンピザイチマーイ! ほら、観念してとっとと出てくるです!」
騒がしいカウンターの様子を、少し離れたテーブル席から眺めている二人組がいた。観光客らしき帽子を被った老人と、カジュアルなパンツスーツ姿の美女だ。老人は、片手に持った焼きたてのピザの端を頬張りながら、事態の推移を眺めてニヤニヤと笑う。
距離で言えばカウンターで怒鳴るシャオのすぐ背後、わずか数歩の位置。本来なら、かつての暗殺者としての本能が警鐘を鳴らすはずの距離だ。しかし、老人の放つ気配は完全に周囲の雑踏に溶け込み、そこには「空気を揺らす質量」すら存在しない。
世界屈指の達人による完璧な気配偽装──プロレスのリングでも、暗殺の現場でも、そしてこのピザ屋ですら、彼が「ただの胡散臭い観光客」であろうとすれば、誰もその正体に触れることはできないのだ。
「甘い、甘いのう」
老人は上機嫌だ。シャオの成長を感じ、采配のもたらした効果をしかと確認し、満足そうに笑っている。だが、その様子を見て、美女は無表情でテーブルの上の瓶を手に取った。そして、容赦なく老人の元の皿に残ったピザに、真っ赤なタバスコをドボドボと振りかける。
「これは気が利きませんで」
メープルベーコンピザが鮮烈な真紅に彩られる。やだ……辛そう……。
「……ッ!!」
老人――変装したマスター盤古は笑顔を凍り付かせて固まる。密かに辛い物が苦手な彼は咎めるような視線で美女――変装した彼の秘書を見つめるが、彼女は涼しい顔でコーラを呷るばかりだ。
食べ物を粗末にすることはできない。これから口に運ぶピザの凶悪な姿を目にして、盤古は深い悲しみに包まれた。
カナダの夜、乾いた風の中に、香ばしいピザの香りが溶けていった。シャオのプロレス道は、まだ始まったばかりだ。