「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第三章 夏だ! お盆だ! 海岸だ!「太平プロ夏合宿」
第1話 再起のお礼参り! の巻【太平プロ通常興行「ライジング雫VSガータ御子柴」】


 世界大会EQT(アース・クェイク・トーナメント)の熱狂も冷めやらぬ日々。参加した選手たちは暫しの休息を経て、太平プロレスの通常興行に臨んでいた。その会場となるいつもの関東圏の中規模イベント会場は、開場前から詰めかけた熱狂的なプロレスファンによって満員札止めとなっていた。世界舞台を戦い抜いたレスラーたちの勇姿を一目見ようと集まった観客の数は、以前の通常興行を遥かに凌駕しており、団体代表である林吾は嬉しい悲鳴を上げ、娘の美樹は次回開催の会場をどうするかで頭を悩ませることとなる。

 

 そんな観客たちによる地鳴りのような熱気と興奮が渦巻く開催会場の場内。熱狂の坩堝と化した会場の観客席最前列、鉄柵前に設えられた放送席から、実況アナウンサーの威勢の良い声が響き渡った。

『さて、世界大会EQTの為、お休みを挟んで久々の太平プロ通常興行ですが、それ以上に久々なのはライジング雫の復帰です! 一度は出向先の「オトギ・プロレスリング」でヒールターンを果たし、オディール久我として太平プロのマットを襲撃した彼女が、一体全体どうして戻って来ることになったのか! このあたり、いかがですか、解説のブライアンさん?』

 解説席に座るデビュー1年目の新人レスラー、ブライアン・ブルナイトは、派手なパワー技を好む悪役志望の若者だが、その内実は少々おバカで純朴な男だった。

『いや……オレもバカだからよく分かんねえんだけどよ……。ありのまま オレ視点で起こった事を話すぜ!』

 彼はマイクを握りしめ、自身が目の当たりにした雫の変貌への感想を思い出すように、こめかみに汗を浮かべて緊迫した表情で言葉を紡ぎ出した。

『なんかチョーシ悪そうだなって思ってたら、対抗戦でノワゲの結城に負けちまって、そしたら居なくなってて、気付いたら怖え姿になってサチ先輩を血祭にあげにきて、世界大会がおわったらすっきりした顔で戻って来た。そんなカンジなんだよ。何を言ってるのか、わからねーと思うが……オレも何が起きたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。裏切りだとか洗脳だとかそんなチャチなもんじゃあ、断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ』

 ブライアンの、奇妙な冒険でもしそうな生々しくも要領を得ないコメントに対し、実況アナウンサーはプロフェッショナルな手腕で即座にツッコミを入れ、場内の笑いを誘いつつ話を本筋へと戻す。

『ポルナレフばりの長セリフで、結局何も判明しない解説ありがとうございます。果たして久我雫に一体何が起きたのか!? 再び舞い上がったライジング雫の新コスチュームにちょっぴり黒や青の羽っぽい飾りや色が入っているのはやはり以前の彼女とは違うと言うことなのか!? 復帰戦の対戦相手は彼女のヒールターンを世話したと噂されるガータ御子柴です!』

 実況の言葉に促されるように、リング上へと視線を向けたブライアンは、入場を完了してガウンを脱ぎ捨てた雫の姿を凝視した。演出用の照明に照らされた彼女の姿をじっと見つめていたブライアンは、ようやくその変化に気づいたように、呑気な声をマイクに乗せる。

『あ、ホントだ。よく見るとコス前と違うじゃん』

 あまりにも遅すぎる解説者の気づきに、実況アナウンサーは呆れたような、しかしエンターテインメント性を忘れない楽しげなトーンで即座に言葉を打ち返した。

『今、気づいたんですか!? そういう細かい違いがわからないと女性にモテませんよ、ブライアンさん!?』

『おいやめろ』

 ブライアンは顔を真っ赤にして、思わずマイクに向かって照れ隠しの怒鳴り声をあげた。その純朴な動揺ぶりに観客席から温かい笑いが漏れる中、実況はすぐさま声のトーンを切り替え、迫り来る決戦の瞬間へと観客の意識を集中させた。

『ともあれ、まもなくゴングです! 新生ライジング雫の初陣、注目してまいりましょう!』

 

 青コーナー側に佇むのはライジング雫。出向や世界大会で僅かに肉付きがよくなり逞しさを増したように見えるその肉体を包むのは、白と青を基調とした、一見するとかつての清純な優等生時代を思わせるフリル付きのコスチュームだ。白いリングシューズがキャンバスをしっかりと踏みしめている。しかし、彼女がわずかでも動くたびに、そのフリルの裏地から深い紫色の生地が覗き、随所には彼女がかつて『オディール久我』として戦ったヒール時代の名残のような黒や青の羽のような飾りがしつらえられていた。黒髪のショートボブの間から覗く紫色の瞳は、ストイックな光を放ちながらも、どこかわくわくしているかのような楽しそうな感情を感じさせる。

 かつての彼女のヒール転向は、決定的な大一番での格下相手の敗北の絶望と、先輩レスラーである宮川三郎太への屈折した愛情が原因だった。世界大会EQTの二回戦で三郎太にすべてをぶつけて敗れ、憑き物が落ちたように出向から戻ってきた彼女だったが、その清純な仮面の裏側には、ヒール時代に培った歪んだ技術と『黒鳥』としての執念、勝敗以上に誰かに何かを焼きつける事を重視する強さ。そして、どこか邪悪で奔放な本性が、より深く根を張っていたのである。

 対する赤コーナー側で、不敵な笑みを浮かべて待ち構えるのはガータ御子柴だ。色白の肌に映える黒髪のショートボブと、燃えるような紅色の瞳が特徴の、メキシコ修行帰りの悪役レスラーである。頭には彼女のトレードマークであるネコミミを冠し、黒と赤を基調とした露出度の高い網目付きのワンピースコスチュームを身に纏っている。黒いリングシューズと指ぬきグローブをはめたその姿は、一見すると単なる無法者のサディストに見えるが、実は彼女の本質は極度のマゾヒストであり、三郎太への歪んだ慕情を、痛めつける嗜虐、あるいは自らが痛めつけられる快感によって表現するという、倒錯した精神の持ち主だった。

 世界大会EQTの準決勝では、若き女王ローラをあと一歩まで追い詰めるも失神KO負けを喫したが、その敗戦によって彼女はその悪役としての矜持をさらに強固なものにしていた。かつて雫がヒールへと転向する際に色々と世話を焼いた彼女にとって、この一戦は、自らの手で闇の手ほどきをした後輩が、どう変わったのかを肌で確かめる場でもあったのだ。

 レフェリーのマーサ茨木が両者の間に立ち、最終的なボディチェックを行う。二人が一歩ずつ下がると、リング上を爆発寸前の緊迫感が支配した。観客たちの地鳴りのような大歓声が、会場の空気を物理的に震わせるかのように押し寄せてくる。二人の視線が激しく交錯し、見えない火花が飛び散る。雫の涼し気な紫の瞳と、御子柴の好戦的な紅の瞳が真っ向からぶつかり合った。

 

 そして、運命の試合開始を告げる重々しいゴングの音が、鋭く場内に鳴り響いた。

 

 ゴングの金属音が完全に消え去るよりも早く、御子柴が動き出す。リングのキャンバスを斜めにまっすぐと駆ける黒猫。御子柴は疾走する勢いを全く殺すことなく、リングの中央付近でしなやかにその肢体を翻し、目にも留まらぬ鮮やかな側転を披露。観客席からどよめきと驚きの大歓声が上がる中、彼女は自らロープへと鋭く飛び込んでいった。背中に受けたロープが極限まで引き絞られた弓の弦のように大きくしなる。次の瞬間、ロープに蓄えられた反発エネルギーが一気に解放され、御子柴の身体を前方へと弾き出した。ルチャリブレの本場メキシコで骨の髄まで叩き込まれた、アクロバティックな跳躍。御子柴の身体は美しく宙を舞い、鋭い弾丸「ロープワーク・ジャンピングエルボー」となって雫の眼前に迫る。

 対する雫は、リング中央でどっしりと身構えていた。相手の初撃をいなしてダメージを与え、グラウンドに引き込む。その雫の計算は、御子柴の繰り出したムーブの「質」によって完全に裏切られることになる。普段の御子柴であれば、汚いラフプレイや反則、凶器攻撃、あるいはセクハラまがいの技で心理的な揺さぶりをかけてくるのが常であった。だが、彼女がこの試合の開幕一番に見せたのは、一切の淀みも、一切の不正もない、プロのレスラーとして非の打ち所がないほどに美しく、真面目なルチャリブレの空中殺法だったのだ。

「真面目なルチャムーブ……!? うぐっ!?」

 雫の美しい紫色の瞳が、驚愕によって大きく見開かれる。迎撃のために捌こうと構えたせいで、彼女は完全に後手に回ってしまう。宙を舞う御子柴の身体から放たれたジャンピングエルボーは、防御のために翳された手を容易く突破し、雫の無防備な胸元へと突き刺さる。肉と肉が激突する、鈍く重苦しい衝撃音がリング上に鳴り響いた。衝撃によって彼女の身体は文字通り吹き飛ばされ、キャンバスの上を無様にもんどりうってダウン。あまりの苦痛に、彼女は胸元を両手で強く押さえ、魚のように口を微かに開けて必死に空気を求めながら身悶えする。

「生意気な雫ちゃんにサービスしてやるニャッ!」

 着地した御子柴は、頭のネコミミを小刻みに揺らし、指ぬきグローブをはめた手を腰に当てながら、キャンバスの上で胸を押さえて悶絶する雫を見下ろした。その紅色の瞳には、真面目な後輩を痛めつけることへの純粋な愉悦と、挑発的な光が満ちている。雫の黒髪を鷲掴みにし、強引に引き剥がすようにして、キャンバスから引き起こす。髪を引っ張られる痛みに、雫の顔がさらに歪む。

「せっかく素敵なヒールになれるよう世話したってのに……オラァ!」

 御子柴は、雫を自分と同じ暗闇の世界へと引き込み、一流の悪役へと育て上げようとした過去の自らの労力と執着を、そしてそれをあっさりと捨てて何食わぬ顔でベビーフェイスのような顔で戻ってきたことへの、言葉にできない複雑な憤りと苛立ちをぶつけるように咆哮した。全身のバネを使って雫を強引に抱え上げ、勢いそのまま、ボディスラムで頭を下にした状態からキャンバスへと向かって一気に振り下ろす。重力と、御子柴の強靭な腕力および背筋から生み出される破壊力が合一し、雫の背中がキャンバスへと凄まじい勢いで叩きつけられた。強烈な破裂音に、最前列の観客たちが思わず身をすくめる。衝撃は雫の全身を電撃のように駆け抜け、脳髄を激しく揺さぶった。

「きゃあっ!?」

 背中全面を襲う猛烈な打撃痛に、雫は隠しきれない高い悲鳴をあげた。雫の身体はコーナーの前で力なく横たわり、激しいダメージによってその身を痙攣させるように硬直させる。

 ガータ御子柴はコーナー前でダウンして無防備な状態にある雫の身体を、コーナー下部へと押し付けるようにして、彼女の顔面に自らのリングシューズの底を容赦なく押し当てていく。靴底の硬い感触が鼻筋や頬骨を激しく圧迫し、雫の視界が歪む。しかし、かつて御子柴と出会った頃の雫であればただ涙を浮かべて耐え忍ぶだけだったその苦痛の中で、現在の彼女の奥底に眠る「黒鳥」の情念は、むしろ暗い炎を燃え上がらせていた。彼女は怒りでも苦しみでもなく、歪んだ笑顔をその顔面に浮かべて耐えていた。

 そこへこの凄惨な振る舞いを見逃すまいと、レフェリーのマーサ茨木が即座に両者の間へと割って入る。

「こら、御子柴! 雫はロープに触れてる、放しなさい!」

 厳格な警告の声がリング上に響く。ロープに相手が接触している状態での攻撃は、プロレスのルールにおいて明確な反則だ。しかし、御子柴はレフェリーの制止に対し、トレードマークのネコミミを揺らしながら、わざとらしくとぼけた声で応じる。

「あーん、聞こえんニャー?」

 反省の色など微塵もないそのふてぶてしい態度に、マーサ茨木は表情を険しくし、右手を鋭く振り下ろして宣告した。

「くっ……! 反則カウントだ、ワン! ツー!」

 ルール上、レフェリーの反則カウントが5に達するまでに反則攻撃を解除しなければ、その時点で反則負けが決定する。場内からは御子柴の残忍なラフプレイに対する大ブーイングが巻き起こる。そして、カウントが「フォー!」と宣告されたまさにその瞬間。御子柴は、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと雫の顔面から足を外した。ヒールとしての老獪な引き際である。

「しゃーないニャー」

 吐き捨てるようにそう言って一歩後退した御子柴。凄惨な踏みつけからようやく解放された雫は、赤く腫れ上がった頬を押さえながら、キャンバスに這いつくばって苦痛の声を漏らした。

「うぅ……」

 浅い呼吸を繰り返しながらも歪んだ笑みを浮かべている雫に気付いた御子柴が怪訝な顔をする。雫はロープを掴むこともなく、自らの脚力だけでキャンバスを蹴り、ふらつく身体を強引に垂直へと引き起こした。立ち上がりざま、彼女は完全にディフェンスの意識が薄れ、目にした雫の表情に気を取られていた御子柴へと向けて、渾身の力を込めた右腕によるエルボーを鋭く振り抜いた。

「……やってくれましたね!」

 息を荒げながらの雫の声と共に、小気味よくも恐ろしい肉を打つ音が会場に響き渡る。雫の黒い闘気をまとった肘打ちの一撃は御子柴の頬を完璧に打ち抜き、その衝撃で御子柴の膝が震え、顔が大きく横へと弾き飛ばされる。

(……ファイナル・エルボー?)

 強烈なエルボーを頬に食らった御子柴は、普通であれば激高するか痛みに悶える場面であるにもかかわらず、その紅色の瞳を妖しくトロンと潤ませた。無意識に雫の闘気を纏ったエルボーに三郎太の影を感じた彼女の倒錯した精神が、愛する男を連想した被虐心にゾクゾクと快感を覚えていたのだ。

「あうんっ♡ へへ、怒ったかニャ?」

 口元に狂気を孕んだ笑みを浮かべる御子柴。しかし、プロレスラーとしての本能が、追撃を避けるために頭を激しく振って間合いを取らせた。だが、雫の追撃は止まらない。間合いを取ろうとステップを踏んだ御子柴の動きを正確に見切った雫は、弾かれたように高く跳躍した。目標は、間合いを取った御子柴の無防備な胸元である。空中でしなやかに身体を翻し、両脚を綺麗に揃えて突き出す。雫の指導担当である三郎太から習った基本に忠実でありながら、だからこそ回避の隙を与えない、素直な弾道のドロップキックであった。

「今度はこっちの番です!」

 雫の両足の裏が、御子柴の胸板へと正面から綺麗に突き刺さる。全体重と跳躍の勢いが一点に集中したその一撃に、御子柴の身体は木の葉のように後方へと激しく吹き飛ばされた。

「おぐっ……!」

 くぐもった悲鳴を上げながら、背中からキャンバスへと激突する御子柴。肺の空気を強制的に吐き出され、激しいダメージに胸を押さえてマットの上を転げ回る。またも三郎太の姿を幻視したのだろう。その身悶えは艶めかしく、さすがに御子柴の挙動も見慣れ始めた一部の観客たちから口笛や野次が上がる。

 御子柴からダウンを奪った雫は、自らの着地の反動を利用して素早く立ち上がり、倒れ伏す御子柴の元へと静かな足取りで近寄っていった。その顔には、相手の心理や弱みすらも利用し、心の傷を容赦なく抉り出そうとする、極めて妖艶で邪悪な笑みが浮かんでいた。それもまた、彼女が悪の世界で身につけた「強さ」の一つであった。

 御子柴は四つん這いになり、必死の形相でダウンから起き上がろうともがいていた。その無防備な脳天へと向けて、雫は自らの長い右脚を、美しい軌道を描きながら天高く掲げる。そして、鋭いかかとを真っ直ぐに振り下ろす直前。会場の観客すべてに聞こえるような通る声で、雫は決定的なあてつけの言葉を口にした。

「聞きましたよ、御子柴さん。キンタロウさんの『エッフェル・ヒールキック』であっさりKOさせられたらしいですねぇ? ……ハァッ!」

 その言葉が耳に届いた瞬間、御子柴の全身が雷に打たれたようにビクンと強張った。触れられたくないトラウマをなぜ雫が知っているのか、そしてなぜこの大観衆の面前で暴露されなければならないのか。御子柴の脳内が驚愕で真っ白になる。

「て、テメ……! それは……ぎゃうっ!?」

 御子柴が狼狽の声を上げたのと同時に、雫の掲げられた右脚が、鋭い刃のように真っ直ぐ振り下ろされていた。強烈なかかと落としが、起き上がろうとしていた御子柴の脳天へと寸分の狂いもなく直撃する。脳を直接揺さぶるような凄まじい衝撃に、御子柴は短い悲鳴を上げて再びマットへと崩れ落ちた。両手で頭を強く抱え込み、苦悶のあまり身体を丸めて激しく身悶えする。

 

 この一連の劇的な攻防と、マイクを通さずとも聞こえてきた雫の爆弾発言に、実況席のアナウンサーはマイクを握りしめて絶叫した。

『あ~っと、ここでかかと落としがクリーンヒット! ガータ御子柴悲鳴をあげてダウン! 頭を押さえて身悶えております!』

 興奮冷めやらぬ実況の声の隣で、解説席に座るブライアン・ブルナイトの口から、極めて間の抜けた小さな声が漏れた。

『あっ』

 その不自然な呟きを、実況アナウンサーが聞き逃すはずがなかった。実況はすぐさまブライアンの方へと顔を向け、鋭く問い詰める。

『えっ?』

 しまった、というように手で口を覆い、ブライアンは滝のような冷や汗を流しながら慌てて取り繕おうとした。

『いや、すまねえ。何でもねえよ』

『いやいやいやいや! 「あっ」って何ですか!? めっちゃ気になるからはっきり言ってください、ブライアンさん!?』

 実況アナウンサーの執拗な追及に、ブライアンは、視線を泳がせながら、とうとう観念したように白状し始める。

『い、いや……、雫先輩に、こないだベスの姉御と御子柴の姉御、それからキンタロウさんとオレで道場でタッグ戦の練習試合した時の話を、詳しく話せって詰められてよ……』

 その言葉は、会場中のプロレスファンにとって極上の餌であった。公式戦の裏で行われた、トップレスラーたちによる非公開の練習試合。そんな面白そうな話題が今まで隠されていたと知った観客たちからは、地鳴りのようなざわめきが起こり始めた。

『なんですか、その面白そうな試合は!? なんで興行で見せてくれないんですか!? 観客の皆さんも黙ってませんよ!? 見てください、観客席からも今まさに不満たらたらブーイングがあがってますよ!』

 実況の煽りに呼応するように、客席からは抗議のブーイングが嵐のように放送席へと浴びせられる。完全に針の筵となったブライアンは、涙声になりながら必死に弁解した。

『そ、そんなことオレに言われても……』

『まぁ、その話は後で松平社長を詰めるとして……それで、その練習試合がどうしたんです?』

 実況の巧妙な誘導に、ブライアンはもはや思考を放棄し、最も触れてはいけないパンドラの箱を全開にしてしまった。

『いや、最後は御子柴の姉御がキンタロウさんの「エッフェル・ヒールキック」で昏倒してスリーカウント負けになったってハナシでよ……』

 その発言がスピーカーを通して会場中に響き渡った瞬間、実況アナウンサーは本日最大のボリュームで絶叫した。

『なんということでしょう!? あてつけ! ライジング雫の踵落としはトラウマ抉りのガータ御子柴への明らかなあてつけ攻撃だった! そして、秘密をバラしたのはなんとこのブライアンさんだぁ!』

 リング上で頭を抱えて身悶えしていたはずのガータ御子柴の動きが、その声を聞いた瞬間にピタリと止まった。ゆっくりと、地獄の底から這い上がってきた悪鬼のような形相で、御子柴の顔がリングサイドの放送席へと向けられる。その紅色の瞳に宿っていたのは、ダメージによる苦痛などではなく、自らの最大の屈辱を世界に向けて発信した愚かな後輩に対する、純度百パーセントの殺意であった。その凄まじい眼光を真正面から浴びたブライアンは、恐怖のあまり椅子から転げ落ちそうになりながら、情けない悲鳴を張り上げた。

『えっ、オレが悪いのかよ!? ちょ、待って御子柴の姉御!? オレを睨まないで下さいよ!?』

 

 かかと落としによるダメージからいまだ立ち直れていない御子柴に対し、雫はグラウンドの攻防へと持ち込もうと素早く両手を伸ばす。だが、御子柴の闘争本能は、怒りと屈辱によってむしろ恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。自らに迫る雫の影と気配を本能で察知し、掴みかかってきた雫の両手を荒々しく払いのける。勢い余って前のめりに体勢を崩した雫の片脚を捕らえ、自らの両脚を蛇のように巧みに絡ませ、インディアン・デスロックの形にがっちりと極めた。

「これ……は……ッ!?」

 さらに、その強固な下半身のロックを支点にして、自らの背筋力と腕力を総動員し、雫の上半身を背後へ向かって強引にねじり上げていく。本来はモモタロウの得意技、モモ・スペシャルのその2として知られ、三郎太が使い出した事で、意識した御子柴も最近好んで使い始めた恐るべき複合関節技。

「他人様のトラウマを踏みにじるたぁ、随分悪い子になったじゃねえか……! オシオキが必要のようだニャア? オラァ、『アグラツイスト』だニャ!」

 御子柴の紅色の瞳が、嗜虐的な愉悦とドス黒い怒りで妖しく輝く。下半身をロックされたまま上半身を捻り上げられ、膝の激痛と脇腹のひきつれる苦しみが、雫を容赦なく責め立てる。

「あぁ……ッ!? いぎぃぃぃ……!」

 先ほどから不気味に浮かべていた薄笑いが苦痛によって完全に剥がれ落ち、雫の口から悲鳴が漏れる。しかし、トラウマを躙られた御子柴はやり返さねば気が済まない。彼女は、雫が最も執着しているモノに触れることにした。

「へっへっへ、三郎太にゃ、この技かけてもらえなかったんだろ? 代わりにその分、オレが可愛がってやるニャ」

 それは、三郎太に恋慕し、目的のためには手段を選ばないほどの屈折した愛情を抱く雫にとって、何よりも精神を深く抉り取る呪いの言葉であった。自身もまた三郎太へ愛憎を抱いている御子柴だからこそとも言える。愛する人の得意技はみんな受けたかったんだろう? だがお前には代用品が相応だ。御子柴はそう挑発しているのだ。

「痛ぅ……!? い、痛いところをついて報復のつもり……ですか……っ!?」

 肉体を引き裂くような負荷と、心の最も柔い部分を土足で踏みにじられた精神的苦痛が重なり合い、雫の端正な顔が激しく歪む。責める御子柴の力は一切衰えることなく、じわじわと、そして確実に雫の体力と気力を削り取っていく。

「オラ、ギブかぁ!?」

 御子柴が傲慢な声で屈服を迫るが、三郎太への黒い執念に燃える雫が、このような屈辱的な形で諦めるはずがなかった。

「の、Noぉぉぉぉ!」

 雫は血を吐くような声で確認のために顔を覗き込んでいるレフェリー、マーサ茨木に対して拒絶を示す声を上げながら頭を振る。

 

 「アグラツイスト」の凄惨な痛みに耐えながら、脱出せんともがく雫の動きを制御下に収めるために重心を後方へ傾ける御子柴。だが、そのもがきは脱出のためのものではなかった。

「た、対策を考えてないと思ったんですか!?」

 歯を食いしばって苦悶の表情を浮かべながらも、雫は背中側にロックされている腕を、後方へ反った御子柴の顔面へと向けて、己の勘だけを頼りに伸ばした。そして、その指先を御子柴の鼻の穴へと引っ掛けると、一切の躊躇なく力任せに引っ張ったのである。そう、暴れたのは御子柴の頭部の位置を誘導するためだったのだ。

 美しいプロレスのセオリーを完全に無視した、ヒールさながらの極めてえげつない反撃、「鼻フック」であった。意表を突かれた強烈な刺激に、たまらず御子柴の顔が上を向く。

「ふがっ!? て、テメ……ッ!?」

 鼻の粘膜を引き裂かれんばかりの激痛と生理的な涙に怯み、強固だった御子柴の脚と腕のロックがわずかに緩んだ。その一瞬の隙を逃さず、雫が脱出にかかる。

「もう堪能しましたっ! 離せぇッ!」

 雫はさらに鼻を強く引き上げながら、渾身の力を振り絞って御子柴の拘束から自身の身体を乱暴に捻り、ロックされた四肢を引き抜く。

「あががが!?」

 みっともない声を上げて後ろへとひっくり返る御子柴を残し、雫はどうにかアグラツイストの地獄から脱出することに成功し、マットを転がって距離を取る。しかし、強烈な複合関節技のダメージは確実に雫の肉体を蝕んでいた 。特にインディアン・デスロックで極められていた膝には深いダメージが残り、雫は自力で立ち上がろうとするものの足元がおぼつかず、膝をさすったり叩いたりして必死に痛みを散らさなければならない状態だった。

「痛い……! 結構後に響くんだこの技……くぅっ!」

 痛む鼻を押さえながら素早く立ち上がった御子柴は、怒りに歯を食いしばりつつも冷静さを失っていない。雫を横目に、すぐさまリングのコーナー最上段へと駆け登る。そして、見事な跳躍力で宙へと舞った。

「のんびり休ませないニャ!」

 よろめく雫の身体へと向かって自らの肉体を弾丸のように浴びせる強烈なダイビング・クロスボディが、いまだ立ち上がれずにいた雫の全身を激しく押し潰した。

「ぐぅ……ッ!」

 キャンバスに叩きつけられ、全身の痛みに顔を歪めてうめき声を上げる雫。着地の勢いそのままに、御子柴は間髪入れずに次の技へと移行する。うつ伏せになって倒れ伏す雫の背中の上に馬乗りになると、雫の顎を両手でガッチリと掴み、自らの背筋力を生かして強引に背後へと引き上げる。拷問技、キャメルクラッチである。その背が異常な角度に反り返り、背筋がまるでミシミシと嫌な音を立てているかのようだ。

「オラ、どうした? ……たしかにちったぁ強くなったみたいだけど、テメーはまだまだなんだよ! 悪役の黒鳥続けてもう少しレベル上げればよかったってんだ、聞いてるか雫ぅ!」

 嘲りか、情か。御子柴は残酷なまでの余裕を見せつけるように挑発的な煽りを口にして雫を責める。頸椎をへし折られんばかりの激痛に呼吸すらままならない中、雫の口から苦しげな声が漏れる。

「あ……ぐぅ……!? ふ、フフフ……」

 しかし、その苦悶の声は、やがて不気味な笑い声へと変わっていった。耳を疑い、御子柴は怪訝な顔をする。

「あん、何笑ってんだ?」

 ギリギリと顎を引き上げられながらも、雫は紫色の瞳に邪悪な光を宿し、決定的な勘違いを正すべく、囁いた。

「……ライジング雫に戻るって言いましたけど……、私、悪役(ヒール)を辞めるとも、善玉(ベビーフェイス)に戻るとも言ってませんよ?」

 その言葉の真意を即座に理解できず、御子柴は眉をひそめて聞き返してしまう。

「なに?」

 その直後、雫は切羽詰まったような、いかにも必死な声色を作って叫んだ。

「ほら、気を取られてる間に足先がロープです……! ブレイク、放してください!」

 雫の笑みに、その言葉に気を取られ過ぎたか。御子柴は、思わず舌打ちをして力を緩めた。

「ちっ」

 レフェリーを確認しようと、御子柴の意識がわずかに逸れたその瞬間。雫の声色が、獲物を罠にかけた捕食者のような、ひどく甘く、そして邪悪なものへと変化した。

「ウソで~す♡」

 瞬間、雫は全力を振り絞り、顎先を捉える御子柴の腕を振り払い、腰を跳ね上げて背中に乗る御子柴の身体を荒々しく振りほどく。御子柴は驚愕のあまり、目を見開いた。

「なっ!?」

 バランスを崩した御子柴がキャンバスへと転がり落ちるのと同時に、雫は苦痛の檻であったキャメルクラッチからの自力脱出に見事成功したのである。

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