「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
実況アナウンサーの割れんばかりの絶叫が、どよめきに包まれた会場全体へと響き渡る。
『信じられません、あの優等生だったライジング雫がウソ!? ロープに届いたと嘯いておいてフェイク! うっかり技を緩めたガータ御子柴のキャメルクラッチから隙をついて自力で脱出だぁ!? なんという卑劣、いや、恐るべき騙し討ちです! かつての彼女とは思えません!』
かつての「ライジング雫」を知るファンであればあるほど、その巧妙極まる嘘と騙し討ちに度肝を抜かれていた。
『うわぁ……! ありゃ、イカサマの旦那の十八番(おはこ)じゃんか……』
解説席のブライアンが、信じられないものを見たというように頭を抱えて唸り声を上げた。その言葉に、実況アナウンサーも雷に打たれたように過去の記憶を呼び覚ます。
『そうだ! そうでした! たしかにかつてライジング雫は対グレート・イカサマ戦において、やれ「ロープに手が届いた」だの、嘘で「実はロープの影にとどいただけだ」だの、騙されて苦戦したことがありましたね! しかし、それをまさかライジング雫が行うとは……!?』
かつて自分が苦汁を舐めさせられた相手の盤外戦術を、自身の血肉としてここぞという瞬間で振るう。その貪欲さからくる悪辣さも、心理的かけひきもかつての彼女に無かったものだ。
『御子柴の姉御も騙されて技を解いたわけじゃねえ。……だが、あの雫先輩がそんなつまんない嘘言うわけねえって思ってたから思わず手を緩めてレフェリーの方を窺っちまったんだな。で、その隙にふりほどいたと……』
リング上の機微を読み取ったブライアンの的確な解説に、実況は感心したようにうなずきつつ、それはそれとして、すぐさま鋭いツッコミへと転じた。
『グレート・イカサマと言えばブライアンさんの指導担当と聞きますが……ブライアンさんはその手のインサイドワーク、てんでダメなの何故なんです?』
『バカで悪かったなァ!?』
解説席でのコミカルなやり取りとは裏腹に、リング上の空気は氷のように冷たく、そして業火のように熱く張り詰めていた。キャメルクラッチから強引に抜け出された御子柴は、後輩にまんまと出し抜かれた己の失態に激昂し、キャンバスにうつ伏せのまま転がっている雫を再び捕えようと獣のような勢いで飛びかかっていった。
だが、荒い息をつきつつも、迎え撃つ雫の動きは御子柴の怒りを嘲笑うかのように、しなやかでトリッキーだった。うつ伏せの状態から瞬時に両腕に力を込めてキャンバスを押し返し、自らの肉体を軽々と跳ね上げる。そのまま腕立て伏せのような体勢から一気に腕倒立へと移行し、遠心力を極限まで高めながら両脚を大車輪のごとく空中で旋回させたのだ。ストリートダンスの動きを取り入れたかのような、極めてアクロバティックで予測困難な、「ブレイクダンス・スピンキック」とでも言うべき変則的蹴り技であった。
「そら、どーん♡」
どこか甘い響きを伴った雫の宣告とともに、旋回する彼女の白いリングシューズが、突進してきた御子柴の顔面と胸元を次々に薙ぎ払った。
「がっ!?」
打撃音とともに、御子柴の身体が弾き飛ばされ、もんどりうってダウンする。自身の怒りを利用された完璧なカウンター攻撃に、御子柴が無意識に頭を冷やそうと受けの思考に移る。その千載一遇の好機を的確に捉え、雫は着地するや否や流れるような動作でグラウンドの攻防へと身を投じた。マットの上で仰向けの御子柴の頭部へ向けて、雫は自らの両脚を素早く絡みつかせる。相手の頸動脈を自身の太腿と膝裏で万力のように挟み込み、足首をしっかりと交差させて完全にロックする。
雫の得意技であり、じわじわと相手の酸素と意識を奪っていく恐るべき絞め技、「首四の字固め」ががっちりと極まった。雫の絞め上げる力の前に、御子柴の顔が瞬く間に鬱血して赤く染まっていく。
「おっ……あ♡」
喉元を強烈に圧迫され、声にならない呻きが漏れる。苦痛に顔を歪めながらも、御子柴は雫が先ほど放った「ブレイクダンス・スピンキック」の意図に思い至り、怒りと屈辱、そしてそれに伴う快感で全身を震わせた。
「……今度は『アシガラ・スピンキック』みたいな真似……ッ! テメェ、さてはわざと……!」
あの変則的な旋回蹴りは、キンタロウの得意技に酷似していた。雫は自分を指導したつもりになっていた御子柴に対する強烈な「あてつけ」を披露している。過去に闘ってきた者たちの影を背負い、それを邪悪な執念の炎で染め上げてぶつけてくる雫の所業に、御子柴の悪役としての矜持が激しく刺激された。ただ空回りし、折れて沈んでいく弱弱しい真面目な優等生はもういない。自分の想像をはるかに超える「ドス黒さ」を身につけた怪物へと変貌しているのだ。
首四の字固めによる強烈な絞め上げが続き、御子柴の脳への血流が阻害され、視界が狭まり始める。雫は冷酷な笑みを浮かべながら、さらに太腿の筋肉を収縮させて万力の威力を高めていく。観客席からは、容赦のないグラウンドの攻防に息を呑むような静寂と、時折上がる悲鳴にも似た歓声が交錯していた。
御子柴は苦痛に喘ぎ、顔面を汗で濡らし、喉からひゅーひゅーという乾いた音を立てながら、己の強靭な背筋と腹筋を総動員して身体を激しくよじる。雫の両脚によるロックは強固であったが、御子柴は自らの骨が軋むほどの力で強引に体勢を反転させ、下半身をロープの方向へと伸ばしていった。
「ゼェ……ゼェ……ッ! オラァ!」
屈辱と苦痛にまみれながらも、リングシューズの先端がなんとか一番下のサードロープへと引っかかる。レフェリーが即座にブレイクを宣言し、雫は舌打ちを一つしてゆっくりと両脚のロックを解いた。
首を開放された御子柴は、むせ返るような咳をしながらキャンバスにうずくまり、貪るように酸素を肺へと送り込んだ。しかし、その疲弊しきった様子とは裏腹に、彼女の瞳には明確な覚悟が宿っていた。彼女はゾンビのようにゆらりと立ち上がると、一瞬だけ雫に背中を見せるように冷徹なつぶやきと共に身を翻した。
「……こら、手加減いらねーな」
訝しみながらも雫が追撃のために一歩踏み出そうとしたその刹那、御子柴の身体がバネのように弾け、振り返りざまに自らの右脚を鋭い槍のごとく「スーパーキック」で振り抜く。その一撃は、美しい軌跡を描き、真っ直ぐに雫の顎先という人体の急所を完璧に打ち抜いた。
「が……ッ!?」
蹴りの威力を顎の先端にまともに受けた雫の身体は、一瞬硬直した後、支えを失ったかのようにぐらりと揺らいだ。脳髄を直接激しく揺さぶられたことによる、強烈な脳震盪。雫の紫色の瞳が焦点を失い、その足取りは酩酊者のようにたたらを踏む。雫の意識は深く霧に沈むような朦朧状態へと陥ってしまった。
御子柴は足元がおぼつかない雫の髪を鷲掴みにすると、抵抗できない彼女をリングのコーナーへと乱暴に連行して行く。コーナーポストに叩きつけるようにして押し込むと、御子柴は自ら素早くセカンドロープへと飛び乗り、朦朧とする雫の身体を強引に引きずり上げて、コーナーの最上段のターンバックルへと跨らせるように座らせた。観客席から、これから訪れる悲劇を予感した悲鳴と大歓声が沸き起こる。
「今回もこれで終わりにしてやんよ……♡」
御子柴はトップロープの上でぐったりと座り込む雫の真正面に立ち、彼女に正面から組み付くようにして深く抱え込んだ。そして、自らの身体ごと宙へとその身を躍らせ水平旋回。世界大会EQT(アース・クェイク・トーナメント)の舞台でも華国代表のシャオやブラジル代表のディアナのような強豪たちを沈めてきた、御子柴の代名詞のようなフェイバリット。雪崩式の変形スパインバスターの始動態勢だ。はるか高所からリングの硬いマットへと相手の脳天から背中にかけてを叩きつける、文字通りの必殺技である。
御子柴は、完全に意識を飛ばしているように見える後輩の耳元へ向けて、サディスティックな歓喜に満ちた声で最後の死刑宣告を放った。
「……アビスキャットドライバー!」
その絶叫とともに、空中へと引き出して旋回、真っ逆さまに落下。重力と御子柴の体重、そして高低差が合わさった破壊のエネルギーが、リングの中央に向けて雫の背を叩きつけるべく一気に振り下ろされた。
リングそのものを物理的に震わせたかと思うほどの凄まじい着弾音が轟く。脳天から背中にかけてと両腕全体が、真っ逆さまに硬いマットへと叩きつけられた雫の身体が、衝撃の余波でバウンドし、一瞬だけ無惨に宙へと跳ね上がった。観客の誰もが息を呑み、実況席すら一瞬の静寂に包まれる。
先の強烈なスーパーキックによる脳震盪で完全に意識を失っていた後輩に対し、一切の手心を加えないフィニッシュ・ホールド。これを受けて立ち上がれるとは思えない。
「あ……ぁ……」
ピクピクと痙攣するように、目を閉じて虚ろな声を漏らす雫。完全に脱力して投げ出された四肢は、彼女が完全に戦闘不能に陥ったことを如実に物語っているように見えた。
「まぁ、あの時に比べりゃ随分マシになったニャ」
御子柴は、初の対戦となったタッグマッチを思い起こしながら、荒い息を吐きながらも嗜虐的な笑みを浮かべる。自らの肉体を覆い被せるようにして雫の身体を仰向けにひっくり返し、両脚を抱え込むようにしてがっちりとホールド。エビ固めの体勢だ。
レフェリーのマーサ茨木がキャンバスを叩くために、鋭い動きで二人の傍らへと滑り込んでくる。
「ワン!」
しかし、御子柴が自らの全体重を預け、試合を決めようとしたその瞬間、死体のように力なく横たわっていたはずの雫の身体が、まるで獲物を狙う大蛇のように滑らかに、そして力強く蠢いたのである。
「ツッ!?」
レフェリーの声が驚愕で引きつり、カウントが止まる。
「ハァッ……! ハァッ……! ふ、ふ……耐えましたよ、御子柴さん」
カッと目を開いた雫は、跳ね除けるのでも、突き放してエスケープするのでもなく、フォールしている御子柴の身体の隙間へぬるりと入り込むように、自らの手足を妖しく絡みつかせていく。
「なっ!?」
己の下で完全に沈黙しているはずの相手から発せられた声と、身体に巻き付いてくる不気味な力強さに、御子柴が驚愕に目を見開いたときには、既に全てが手遅れであった。雫はグラウンドの攻防において研ぎ澄まされた技術を遺憾なく発揮し、自らに被さっていた御子柴のバランスを瞬時に崩す。そのまま流れるような動作で御子柴の右脚を自らの両脚で絡め取り、強引にうつ伏せの体勢へと反転させた。
雫はコーナーに担ぎ上げられるあたりから、意識を飛ばしたふりをしつつ、その内側で恐ろしいほどの集中力を研ぎ澄ませていた。「アビスキャットドライバー」によって空中で真っ逆さまに落下していくその刹那、彼女は全神経を「着弾の瞬間にできうる限りの完璧な受け身を取ること」ただ一点にのみ注ぎ込んでいたのである。顎を限界まで引き、首の筋肉を固め、背中を正確な角度で丸めてキャンバスとの接地面を調整して力強く両腕でマットを叩いて衝撃を分散させる。これまで培ってきたプロレスラーとしての技術のすべてを防御へと回すことで、必殺技の威力とダメージを、ギリギリのラインで軽減したのだ。
密着した至近距離で、雫は甘く、しかし底知れぬ狂気と執念を孕んだ声で囁いた。
「捕まえた……!」
うつ伏せになった御子柴の背中へ、雫は自らの体重を預けるようにして重くのしかかる。そして、御子柴の脚を完全にロックしたまま、背後から彼女の首元へと腕を回し、顔面を捕えて強烈に絞め上げた。雫の得意技である変形STF、「ティアドロップ・ボディロック」が、ここに来て会心の形で極まったのである。
「あぁぁ♡ ……ギ、ギブなんてするかぁ……! ま、まだぁ……!」
背骨が軋み、首の関節が悲鳴を上げる激痛。だが、生粋のマゾヒストである御子柴は、頬を食い込む雫の上腕で圧迫されながらも、恍惚の表情を浮かべ、決してタップアウトの意思を見せない。苦痛を快楽へと変換する彼女の異常な精神力が、ギブアップへの強固な防波堤となっていた。
御子柴とて見事とは感嘆していた。だが、まだだ。雫にはスタミナという弱点があり、この「ティアドロップ・ボディロック」は時間をかけてスタミナを奪う技であり、極めて即激痛でギブアップやKOを強いる類の技ではない。「オディール久我」となって編み出した新技「ブラックアウト・フェザードロップ」の方なら危なかったかもしれないが、つい手慣れた技を咄嗟に出したのだろう。
(テメーのそういうトコがまだ甘いってんだよ……!)
まだ、勝ち目は十分にある。そう考えて御子柴はロープまでの距離を目で測っていた。
しかし、雫の狙いは最初から「この技でギブアップを奪うこと」ではなかった。
抵抗と支配、力の拮抗によって息を荒くしながらも、雫はひどく落ち着いた声で、背後にのしかかったまま、まるで世間話でもするかのように問いかけた。
「ふぅ……ふぅ……! ……御子柴さん、今日まだ使ってないから、ここにいつものチェーン隠してますよね?」
その異常な言葉の意味を理解した瞬間、御子柴の背筋に、関節を極められる痛みとは全く質の異なる、本能的な悪寒が走る。
「うぇ……ッ!?」
雫の腕の一方が顔面のロックから離れる。技が緩まり、面喰う御子柴をよそに彼女の指先が、御子柴のリングコスチュームへと真っ直ぐに伸びた。御子柴の衣装は所々がカットアウトされ、網目越しに色白の素肌が覗く露出度の高いデザインとなっている。雫はその左脇腹の隙間から、ためらうことなく冷たい指を差し込み、豊かな乳房の下に仕込まれた隠しポケットへと的確に手を忍ばせた。
──ジャラッ……。
鈍く、危険な金属音がリング上に響き渡る。雫の手によって引きずり出されたのは、御子柴がここぞという場面で反則攻撃に使用するための、細く頑丈なスチール製のチェーンであった。それを、雫が愉悦の笑みの表情で握りしめている。
「ほぉーら、お礼参り、間もなく完了です。動けないように、しっかり鎖(チェーン)で繋いであげますね?」
狂気をはらんだ微笑みを浮かべたまま、雫は奪い取ったチェーンを御子柴の首元へと容赦なく回す。そして、ただ首を絞めるだけでなく、御子柴の左手をも巻き込む形で鎖を交差させ、己の両腕の力を使って一気に背後から引き絞ったのだ。本来であれば両腕で顔面をロックすべき部分を、凶器であるチェーンでの首絞めに置換した、明らかに反則の新技、「ティアドロップ・チェーンバインド」である。
「グぇ……ケケ! いいじゃねーか雫、そのドス黒い感謝……オレは嫌いじゃねーぜ……ッ♡」
冷たい金属が首に食い込み、呼吸を完全に遮断されるのを必死に同時に絡められた腕ともう一方の掴んだ手で防ぎながらも、御子柴は血走った紅い瞳を歓喜に潤ませ、喉の奥から狂ったような笑い声を漏らした。
「おい離せ、雫! 反則だぞ!」
事態の異常さに気づいたレフェリー、マーサ茨木が、血相を変えて二人の間に割って入る。必死に雫の腕を掴み、チェーンを引き剥がそうと試みるが、雫の強固なロックは微動だにしない。彼女の紫色の瞳は完全に据わっており、レフェリーの存在など視界に入っていないかのようだった。
「……ワン! ツー! スリー!」
やむを得ないと反則カウントを始めるレフェリー。
「ぐぎ……し、雫、抗議があるまで反則やり放題のEQTじゃねえんだ。そろそろ解かねーとお前……」
引き絞られるチェーンがいよいよ食い込んで、焦りながらも、御子柴は絞り出すような声で忠告した。ここはあの世界大会ではない。太平プロレスの公式戦であり、抗議など待たずに行われるレフェリー判断の反則カウントを無視して凶器攻撃を続ければ、容赦なく反則負けの裁定が下されるのだ。
しかし、雫はその忠告を待っていたかのように、顔を伏せた御子柴の耳元で、甘く残酷な真実を囁いた。
「これは感謝の印ですよ、御子柴さん。どん底から救い上げてくれた事と、先輩を動揺させるために利用してくれた事の……。だから、一度だけ輝かしい勝利をプレゼントしてあげますね♪」
その言葉に込められた恐るべき真意を理解した瞬間、御子柴の表情から恍惚が完全に消え失せ、純粋な驚愕と屈辱が顔面に張り付いた。
「なっ!? テメェ、まさかわざと反則負けに……!?」
憤怒すら滲ませて御子柴が叫ぶ。
「フォー! ……雫、お前……。……ファイブ! 試合終了、ゴングを鳴らせ!」
止める気が無い雫の魂胆を察したレフェリーの悲痛な叫び声が響く。それでも雫は一切鎖を緩めることなく、ただ恍惚とした表情を浮かべたまま、かつての恩人であり仇敵である御子柴の首を強く絞め続けた。
カンカンカンカンカンカンッ!!
異常な事態を告げる無情なゴングが、どよめきと混乱に包まれた会場に幾度も打ち鳴らされる中、実況席のアナウンサーがマイクを握りしめ、喉が裂けんばかりの絶叫を響かせた。
『決着のゴング!? なんということでしょう! レフェリーのカウントを無視し、笑顔でチェーンによるチョーク技を続けたライジング雫、まさかの反則負けです! 勝者はガータ御子柴……!?』
観客たちも事態がすぐには呑み込めず、どよめきとざわめきが波のように広がっていく。雫が、反則行為で自ら試合をぶち壊し、反則負けという裁定を嬉々として受け入れたのだ。だが、リング上に横たわる「勝者」の姿に、勝利の栄光など微塵も存在しなかった。自らの凶器で首を絞め上げられ、後輩のドス黒い執念によって完全に手玉に取られたという事実だけが、この凄惨な結末の証として残酷に提示されていたのである。
解説のブライアンは、普段の鈍さを微塵も感じさせない、本能的な恐怖に裏打ちされた鋭い考察を震える声で口にした。
『ちょっとオレ、馬鹿なんで自信ねぇんだけどよ……、御子柴の姉御の凶器の隠し場所把握してて、それを逆利用しつつ反則でレフェリー無視してこの結末だろ。これ姉御から見たら、お株を奪われた挙句に勝利を無理やり押し付けられてメンツ丸つぶれだったりしねえか……?』
その言葉に、実況アナウンサーも戦慄を覚えたように大きく頷く。
『ご安心ください、正しい見方かと思われます。まさにお礼参り! 前代未聞の復帰戦! 新生ライジング雫、とんでもない爆弾を太平プロレスに投下していきました!』
勝敗という形に固執していたかつての雫はもういない。世界大会という死闘の果てに、彼女は「自分を焼き付けんとする強さ」を掴み取った。御子柴に対する最高の恩返しであり、最大の復讐。それは、彼女の得意とするヒールの土俵に上がり、自慢の凶器を奪い、相手のプライドを打ち砕いた上で、自分から「反則負け」という名の最も不名誉な勝利を押し付けることだったのだ。
『悪役(ヒール)を辞めたと言ったそばから、反則負け覚悟に、思うさまやりたい放題とか……! 恐すぎんだろあの人……逆らわんとこ……』
すっかり縮み上がってしまったブライアンの視線の先、リング上では、レフェリーのマーサ茨木が必死の形相で両者の間に割って入り、ついに雫の腕を引き剥がすことに成功していた。
解放されたガータ御子柴は、激しく咳き込みながらキャンバスにうずくまった。彼女の色白の首元には、無惨にも冷たいスチールチェーンの赤い痕がくっきりと刻み込まれている。その傍らで、雫は乱れた呼吸とリングコスチュームをゆっくりと整え、何事もなかったかのようにすっと立ち上がった。そして、呆然とする御子柴の腕を強引に掴んで引き起こすと、まるで激闘を讃え合うベビーフェイスのように、その腕を高々と天に向けて掲げたのだ。
「御子柴さんの勝利ですね、おめでとうございます♪」
「アビスキャットドライバー」で打ち付けた痛みが残っているのか、首の後ろあたりを可愛らしくさすりながら、悪びれる様子もなく雫は満面の笑みで言い放った。そのあんまりな振る舞いに、御子柴の怒りが爆発する。
「……な、何が勝ちだ! ふざけんな!」
喉のダメージを押さえ、血を吐くような声で激怒する御子柴。激昂して飛びかかろうとする彼女を、レフェリーが慌てて制止する。普段は突き飛ばされたり殴られたりでひどい目に遭いがちで御子柴に冷たい視線を送りがちのマーサ茨木であったが、今日この時ばかりは幾分、御子柴に同情的な仕草に見える。
「お、おちつけ御子柴! 試合はもう終わりだ!」
激しく息をつきながら雫を睨みつける御子柴。しかし、その紅色の瞳の奥底で燃え盛る怒りの炎の中には、彼女自身も予期していなかった奇妙な安堵感が入り混じっていた。
(……やりたい放題やりやがって。もういい、以降貸し借りなしの関係にしといてやらぁ)
世界大会での経験を得て、今の雫はもう勝ち負けという矮小な枠組みに囚われていない。さも清純なベビーフェイスであるかのような顔をして、その内側にはいかなる手段を使ってでも自らの目的を達成しようとする、底知れぬ「黒鳥」の執念を宿している。御子柴の歪んだ庇護欲は、この瞬間をもって完全に精算された。
──これだけ図太く生きられるのであれば、もう自分が手を引いてやる必要などどこにもない。
悪役としてのメンツは丸潰れになったが、彼女は「かつての御子柴とは違う道を自ら選んだ」のだ。心の中で区切りをつけた御子柴は、表面上の怒りを保ったまま、猫のように威嚇の声を上げて見せた。
「ふしゃーっ! ……フン。そのうち実力であらためて分からせたるニャ。覚悟しとけ」
だがこの後輩の可愛げのなさは留まるところを知らない。
「あら、次は私が勝っちゃうかもしれませんよ? 恥をかかせるのは気が引けるかなぁ」
挑発に対してどこまでも涼しい顔でウインクを返してくる雫の態度に、御子柴はさらに苛立ちを募らせる。
「こいつ……ッ!」
「み、御子柴! 雫も煽るなっ!」
遮るレフェリーの悲鳴にも似た叫び声が響く中、前代未聞の結末を迎えた復帰戦は、太平プロレスの歴史に深い爪痕を残して幕を閉じたのであった。
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激闘の熱気と興奮が嘘のように引き、興行裏の控室には、片付け作業の合間にくつろぐレスラーたちの姿があった。試合着からラフな格好へと着替えた面々が雑談を交わす中、部屋の片隅に置かれたパイプ椅子には、むすーっと不貞腐れた表情で腕を組み、誰とも口を利こうとしない御子柴が座り込んでいた。試合の結末に対する苛立ちが、未だに尾を引いていたのである。
そこへ、太平プロレスの若きエース、宮川三郎太が歩み寄る。今日の試合では前座でバッカスらベテラン選手たちと5人バトルロイヤルという建前の「優勝おめでとう集団リンチ試合」に参加し、バッカス、疾風仮面、桑飯、帝都ら、4人がかりの胴上げで祝われながらオーバー・ザ・トップロープで真っ先に脱落するという愉快で不愉快な結末に追い込まれた彼だが、そのやっかみの裏の先輩たちの優しさや、観客たちの爆笑と声援を受けて、落ち着いた笑顔を浮かべていた。
そんな三郎太は不機嫌な御子柴の肩をぽんとひとつ叩いて優しく宥めると、すぐそばで荷物をまとめていた雫へと振り返った。
「雫ちゃん、とりあえず復帰戦お疲れ様。なんだか様子がおかしかったけど、もう大丈夫なのかい?」
彼の目には、先ほどのリング上での狂気すら、ただの「少しおかしな様子」程度にしか映っていないようだ。御子柴の中で呆れが憤懣を追いやり、少し気分が安らいだ。
一方、心配そうに声をかけてくる愛しの先輩を見つめ、雫の紫色の瞳が妖しく細められた。世界大会の二回戦で彼に全力でぶつかり、敗北したことで、彼女の内にあった重苦しい恋愛感情の憑き物は落ちた。だがそれは、決して彼への執着を捨てたという意味ではない。恋という純粋な枠組みを放棄したからこそ、彼女の愛情はより邪悪で、奔放なものへと変異していた。
彼女は失恋した。だがそれは「もう相手への配慮をする必要はなくなったと言う事だ」という恐るべき解釈をしていたのだ。
「はい、心配いりません! ……あ、そうだ。先輩、恋は諦めたのでセフレになりませんか?」
ちょっと遊びに行こうよ、みたいなノリでおもむろに雫はその場にあまりに危険な爆弾を無造作に放り出す。誰もが硬直し、耳を疑う。控室の空気が、文字通り完全に凍りついた。
「えっ」
三郎太の口から、間の抜けた声が漏れる。あまりにも唐突で意味不明な流れで生じた発言を前に、彼の純朴な脳髄は完全に思考を停止してしまった。次の瞬間、少し離れた場所で美樹と談笑していたシロオニ・ベスが、神速とも呼べる、恐るべきスピードで振り返った。今日の試合ではタッグ戦のお勉強とばかりに美樹と組んで、太平プロにおけるタッグ屋のベテラン悪役、ザ・ヒネクレマンズ1号2号と戦っていた彼女だが、今や感想戦をしている場合ではない。
EQTの準決勝で三郎太と死闘を繰り広げ、ついに彼から好意らしき言葉を引き出したことで、絶賛恋の暴走中である鬼の末裔にとって、その発言は自身の恋路を脅かす最上級の宣戦布告に他ならない。
「は?」
地の底から響くような低い声が漏れ出た。しかし、ベスから放たれる凄まじい殺気を意に介することもなく、声をスルーした雫は三郎太の胸元へとすり寄り、甘ったるい声で追撃を仕掛けていく。
「『遊び』でいいですよ? 私も『遊び』のつもりでシますから♡」
「なななな何を言い出すんだ!?」
顔を真っ赤にして後ずさって恐るべき後輩から身を離し、両手を激しく振ってパニックに陥る三郎太。背後から、完全に目のハイライトが消え失せ、鬼の闘気を全身から立ち上らせたベスが、ずしり、ずしりと重い足取りで歩み寄ってくる。
「雫ゥ? ……どうやら死にたいらしいわね?」
怒りと嫉妬で声すら震わせているベスに対し、雫はまるで世間話でもするかのように、あっけらかんと言い放った。
「いやですけど?」
逃げる気も、取り消す気もないようだ。三郎太が困惑し、ベスが激怒し、この空間のすべてが自分という存在を中心に大きく掻き乱されている。それこそが、彼女が手に入れた「三郎太の心に自分を焼き付ける」ための、最も手っ取り早く、最も歪んだ手段だったのだ。
「ちょ、待って!? ベス、こんなとこで暴れないで!? ここレンタル会場だから! 壊すと弁償だから!?」
ついに実力行使に出ようと飛びかかったベスを、間一髪、三郎太が背後から必死に羽交い締めにして止める。
「放してください、三郎太! こ、ころすっ!」
借りものの控室を戦場にするつもりか!? と必死に留める三郎太に抑えられながらベスは怒りのあまり言語野を幼稚化させて叫ぶ。
「やーん、こわいー♪」
だが、雫は嬉々としてそれを煽り立てた。こいつ無敵か? ベテランレスラー達があっけにとられ、もうダメだと練習生たちが逃げ惑う。美樹が顔面を手で覆って天を仰いだ。
控室は一瞬にして、リング上も同然の修羅場と化していた。
その「清純派」の欠片も残さぬ雫の清々しいほどの暴れぶりを呆けるように眺めていた御子柴の中で、もう先ほどまでの不機嫌さなど嘘のように消え去っていた。三郎太だけは分かって気遣ってくれたという事実に癒されたのはもちろんある。だが、それだけではない。自分の苛立ちがあまりにも馬鹿馬鹿しく思えてきて、なんだか御子柴は全てがどうでもよくなってきた。
「……ニャハハハハハ! こいつらアホだニャ! いや、お腹苦し……ッ!」
こみ上げてくる爆笑を抑えきれなくなった御子柴は、腹を抱えたままパイプ椅子から床へと転げ落ち、そのまま声を上げて笑い転げ始めた。自分が操るまでもなく、このトンチキな後輩は、これからの太平プロレスのマットを、そして三郎太の周囲を、存分に掻き回して生きていくに違いない。
一方、巻き込まれまいと距離をとるかのようにして、部屋の隅で乱闘を震えながら見つめるブライアンは、同じく側へ避難してきていた自らの指導担当であるベテラン悪役レスラーにすがるように声をかけた。
「なぁ、イカサマの旦那。雫先輩って……」
嘘をギミックとする自称変態紳士、グレート・イカサマは、変わり果てた雫の姿に、こめかみに冷や汗を流しながらカイゼル髭をいじった。
「わ、私のせいではないぞ……。……たぶん……」
波乱に満ちた夏の興行は、こうして誰も予想だにしなかった奇妙な熱気と、恐るべき黒い嵐の予感を残したまま、騒がしく幕を閉じていくのであった。
「3章本編の範囲内(番外話は除く)に登場しないキャラクター」で、あらためての活躍を見たい推しキャラクターは?
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国内男子選手キャラクター
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国内女子選手キャラクター
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海外男子選手キャラクター
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海外女子選手キャラクター
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その他、選手でないキャラクター