「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第3話 彼方からの襲来者! の巻【太平プロ、道場封鎖デスマッチ「宮川三郎太VSゾーザ・ラ・ヴィペラ(2戦目)」】

 深夜の太平プロレス団体ビルの道場リングを備えるトレーニングルーム。まもなく日付が変わろうかというこの時刻、ビル内の廊下は静まり返り、他の選手たちはすでにそれぞれの自室に戻っている。しかし、地下にあるこの空間だけは、僅かな熱気と、キャンバスと汗の入り交じった特有の匂いに満たされていた。室内には無骨なウェイトトレーニング用の器具が並び、静寂の中でエアコンの低い駆動音だけが単調に響き続けている。

 その道場トレーニングルームの中央にある練習用リングの上で、深く息を吐きながら一人立ち尽くしているのは、宮川三郎太であった。若手限定とはいえ世界規模のプロレス大会であるEQT(アース・クェイク・トーナメント)を制し、激闘の末にチャンピオンの座を掴み取った太平プロレスの若きエース。しかし、彼の表情に王者としての驕りや慢心は一切なく、むしろ己の未熟さを痛感し、それを克服しようと足掻く誠実で一本気な眼差しが、リングロープ上を鋭く見据えていた。時折、黒髪の短髪から滴り落ちる大粒の汗が、日々の厳しい鍛錬によって彫刻のように鍛え抜かれた筋肉を纏った肉体を滑り落ちる。赤いプロレスパンツの生地はすでに汗を吸って黒ずみ、リングシューズの中まで湿るほどの運動量であった。

 彼は昨日の興行で行われた、バトルロイヤルマッチという名目の、実質的な「優勝おめでとうお祝い集団リンチ試合」の感触を、全身の筋肉の疲労と共に反芻していた。バッカス木桜ら、太平プロレスのベテラン選手たちが寄ってたかっての、若き覇者へのやっかみと優しさを入り混じらせた手荒い祝福。結果的に四人がかりで胴上げされるように高々と抱え上げられ、そのままオーバー・ザ・トップロープのルールに則って真っ先に場外へ放り出されたあの瞬間が脳裏に浮かぶ。複数人がかり、そして完全に宙に浮いた状態では、いかにベテラン選手をも凌駕し、シングルで勝利できる実力があろうとも、さすがにもがくだけで為す術がなかった。それは仕方のない事ではあるが、それでもなにかできることがあったのではないか、そんな不完全燃焼感が三郎太を夜間の自主練に残らせていたのだ。

「うーん、以前、エディさんに食らったロープ越えの空中からの位置交換……あれが僕にもできれば……」

 誰もいないはずの静寂な道場に、三郎太の悔しさに満ちた独り言が空しく響く。空中で腕を掴んだ相手と自分の体勢を入れ替え、投げ出そうとする者を逆に空中へ追いやるという、一見すると物理法則を無視したかのような離れ業。ただの腕力だけで強引に覆せるものではない。重心の移動、相手の力の利用、そして何より決定的な身体の使い方のコツがあるはずだと、三郎太は己の記憶の中にある強敵、オトギプロレスリングの社長にして、世界女子チャンピオンたるベルトホルダー、巌窟王エディ・ダンテスの滑らかな動きを、自身の肉体でトレースしようと何度もイメージを試みる。

 再びリングのトップロープを掴み、仮想の敵に担ぎ上げられた状況を想定して身を翻そうとした、その時、不意に背後から声がかけられた。

「空中で位置交換? いやぁ、そんなの物理的に無理だろ」

「そうなんだけど、実際やられたんだよ。腕力だけでやったとは思えないから、なにかコツがあるんだろうけど……って、誰だ!?」

 あまりに自然な声かけについつい応じて話してしまってから、漸く三郎太は我に返った。それは道場にいるはずのない、そして決してここにあってはならない、氷のように冷たくも、甘い毒のように艶やかな響きを持った声だった。驚愕と共にバッと振り返った三郎太の視界に飛び込んできたのは、若草色の瞳を怪しく、そして艶めかしく光らせた銀髪の影。

「事実だとしても、掛け手がよほど軽量級でなきゃ無理だね」

 銀髪のショートボブに、緑のメッシュ。白い頬から首筋にかけて刻まれた、生き物のように這い回る美しい蔦のペイント。黒地に蛍光グリーンの幾何学模様が入った、腹部が大胆に開き、腰骨の高さまで切れ込んだハイレグ・モノキニという、刺激的なリングコスチューム。

 そこには過日の世界大会EQTの予選で戦ったイタリア代表選手であり、かつて三郎太を絶体絶命の淵へと追いやった毒蛇、ゾーザ・ラ・ヴィペラが、まるで最初からそこにいたかのように音もなく立っていた。

 彼女の背後、廊下へとつながる唯一の扉には、彼女の手によって密かに追加の頑丈な錠がかけられており、固くその往来を封じられている。

「来たよ、ボクの運命の王子様……」

 だが、三郎太がその異常事態を認識するよりも早く、彼女はごく自然にするりと間合いに踏み込んできた。

「き、君はイタリアのゾーザ……!? むぐっ!?」

 振り返りざまの無防備な顔面を、ゾーザの両手が、万力のようにがっちりと固定する。逃げ場を失い、目を見開いた三郎太の唇に、ゾーザの柔らかい唇が強引に押し当てられた。それは恋人たちの甘い口づけなどでは決してなく、リング上における明確で致命的な『攻撃』であった。

 「ポイズン・リップロック」とでも言おうか、ゾーザの口内から三郎太の口内へと、舌を絡ませるようにして、即効性の劇薬が無理やり流し込まれる。粘り気のある、ひどく苦く、そして焼け付くような液体が舌の上を蹂躙し、反射的に飲み込んでしまった喉の奥から胃の腑にかけて、灼熱の炎となって一気に浸透していく。

「げほっ……!? こ、これは……!? まさかまた毒か!?」

 粘膜から直接吸収された毒素は、またたく間に三郎太の血流に乗り、全身の神経へと到達する。激しくむせ返りながら、三郎太は渾身の力でゾーザの肩を突き飛ばした。突き放されたゾーザはよろめきながらも、楽しげに自らの口元を手の甲で拭っている。

 三郎太の身体には早くも異変が起きていた。視界がぐにゃりと歪み、リングのロープが二重にも三重にもブレて見える。激しい目眩が脳を揺らした。鉛のように身体が重くなり、ただ立っていることすら困難なほどの気怠さが、鍛え抜かれた全身の筋肉の自由を急速に奪い始めていた。そして何より恐ろしいのは、皮膚の表面を撫でるわずかな空気の流れや、自らの流す汗の一滴すらもが、ヒリヒリとした痛みに変換されるような、異常な痛覚の過敏化であった。指先を軽く握り込むだけで、関節にガラス片が食い込むような鋭い痛みが走る気がする。三郎太の脳裏にあの日の毒で倒れ、彼女に甚振られた恐怖が蘇る。まさか、再びあの時のように全身不随状態に追い込んで一方的に嬲るつもりなのか? だが、ゾーザはその三郎太の疑いの視線を受けて首を振った。

「ひひ、そう……また毒だ。でも安心して。別に命に係わるもんじゃないし、全身不随になったりもしない。ただ、一時間ほどニブくなってフラフラして呼吸がしんどくて痛みが倍加するってだけの……可愛い毒さ」

 不敵な笑みを浮かべながら、ゾーザは自らの仕込んだ毒の恐るべき効果を、まるで愛の告白でもするかのようにゆっくりと語り聞かせる。

「ふぅ……ふぅ……、そして口移しにした以上、この毒はボク自身も蝕んでいる」

 彼女の言葉通り、ゾーザ自身の呼吸もまたひどく荒く、若草色の瞳は熱を帯びて潤み、白い肌にはうっすらと脂汗が浮かんでいた。

「なんだって……!? はぁ……はぁ……、そんなものをどうして!?」

 呼吸がままならず、思うように酸素を取り込めない。膝に手をつき、荒い息を吐きながら三郎太はゾーザを睨みつける。自身の力は完全に削がれ、残されたのは過敏になった神経と、底なしの疲労感。だが、彼女はそれを自分も甘受していると言った。

 どういうことだ? 三郎太には狙いが分からない。

「受けてもらうよ、二人だけのリベンジマッチ。ふぅ……ふぅ……、このトレーニングルームは地下にあって窓はないし、追加で入り口には特製の錠をかけた」

 言われて三郎太もようやく入り口のドアの異常に気が付いた。見慣れない重厚な金属製の錠がぶら下がっている。一体いつの間に? いや、自分が自主練に集中していた時に決まっている。彼女は静かにトレーニングルームに忍び込み、その入り口を封鎖していたのだろう。

「んっ……ふぅっ……ふぅ……、そのカギはこれだ。王子様がボクに勝ったらカギをあげるよ、ひひ……」

 息を荒げながら、ゾーザは左手に掲げていた空の小さな毒ビンを見せつけ、同時に右手で銀色に光る特殊なディンプルキーをチャラチャラと揺らして見せた。この密室から脱出し、狂気の夜から逃れるための唯一の希望。だが、彼女はそっと微笑むと、その鍵を自らの衣装――腹部が大きく開いたハイレグ・モノキニのカットアウトから、直接肌を這わせるようにして、下腹部のコスチュームの内側、もっとも深く隠された場所へとゆっくりと滑り込ませた。鍵の冷たい金属が肌に触れる感覚を楽しむかのように、彼女は挑発的な視線を三郎太に送り続ける。

「……ッ!?」

 彼女に勝利し、そしてそのコスチュームの中に直接手を入れて奪い取る。あるいは彼女自身にそれを差し出させる以外に、鍵を手にする術はない。

「ふぅ……ふぅ……、そして王子様が負けたら、追加の毒をプレゼント。一発で理性がぶっとび、目の前の異性を襲わずにおれないとっときのヤツだ。ボクを貪ってもらう、ひひ……」

 毒による息苦しさと、常軌を逸した彼女の要求に、三郎太の全身から冷たい脂汗が噴き出す。

「なっ!? なんでそんなことを!? 卑怯な真似はやめて鍵を返すんだ! はぁ……はぁ……、リベンジマッチなら普通に挑んでくれれば……」

 リング上での正々堂々とした戦いを信条とする彼にとって、毒という卑劣な手段で逃げ道を塞ぎ、あまつさえ神聖なリング上で既成事実を作ろうとする彼女の執念は、到底理解できるものではなかった。

「ダメだよ」

 だが、返って来たのは明確な、そして絶対の拒絶。

「なぜ!?」

 ゾーザの瞳に宿る光は、純粋な狂気と、歪みきった身勝手な愛情に満ちていた。

「ふぅ……ふぅ……、ボクは毒すら凌駕してみせたキミを運命の王子様と決めた」

 そっと三郎太を指さしていっそ愛らしささえ感じる純粋な笑顔でゾーザは続ける。

「ボクはね……王子様と互角の死闘を繰り広げたリングの上で結ばれるのが夢なんだ……!」

「な……ッ!?」

 そのためにどちらにも毒を盛ったと言うのか。三郎太はもはやなんと声をかけていいか分からなかった。彼女は完全に自分の世界を作り、そこに浸りきっている。常識や道理をいくら説いた所でおそらく微塵も響くことは無いだろう。

「なんならギブアップの代わりにそのまま襲い掛かって貪ってくれてもいいよ? 話が早いからね。ふぅ……ふぅ……、とにかく、いずれにせよ、ボクを拒絶するならボクに勝利するしかない。その時はこれ以上毒は盛らないって約束してあげるよ、ひひ」

 全身の毛穴から吹き出す汗が、肌を這い落ちるだけで、はっきりとその箇所を認識できるほど過敏になっている感覚。視界は頼りなく、ただ立って彼女と対峙しているだけでも、じわじわと体力が削られていくような感覚があった。はっきり言って、まともな試合ができる状態ではない。だが、逃げ場はない。入り口の扉は固く閉ざされ、助けを呼ぶ声は地下の防音壁に吸い込まれるだけだ。

 毒に関しては彼女はスペシャリストだ。嘘はつかないだろう。となればもし負ければ理性を奪われ、彼女の歪んだ欲望の餌食となる。勝って、彼女から鍵を奪うしかないのだ。己の内に渦巻く恐怖、そしてプロレスという競技を冒涜するような理不尽に対する怒り。しかし、それらを無理やり飲み込み、三郎太はふらつく両足に渾身の力を込めて、キャンバスをしっかりと踏みしめた。

 男として、そしてプロレスラーとして、ここで屈するわけにはいかない。震える両腕をゆっくりと構え、苦痛に歪む顔を上げ、燃えるような眼差しで目の前の毒蛇を見据える。

「くっ……やるしか、ないのか……!」

 

 三郎太の悲壮な決意の言葉を聞き届けると、ゾーザは満足げに目を細めた。

「小瓶が落ちたら試合開始、いいよね?」

 挑発するように首を傾げ、毒蛇が妖しく微笑む。その若草色の瞳は毒と欲望によって潤み、獲物をいたぶる捕食者の光を帯びていた。

「仕方ない……勝って見せる!」

 三郎太は血の滲むような声で応え、奥歯を強く噛み締めた。

「ひひ」

 ゾーザの手から無造作に放たれた小さな空のガラス瓶が、放物線を描いてリングの外へと落下していく。深夜の地下道場に、硬質なガラスがコンクリートの床に叩きつけられ、粉々に砕け散るパリンという甲高い音が響き渡る。それが、この狂気に満ちた密室デスマッチの始まりを告げる、あまりにも冷酷なゴングだった。

 血管を駆け巡る即効性の毒が、すでに彼の身体から本来の俊敏さとスタミナを奪い去っている。立っているだけで息が上がり、皮膚の表面を流れる己の汗さえもが、過敏になった神経をチクチクと苛立たせていた。だが、おそらく彼女もそれは同じ事。歪んだ笑みを浮かべて構えるイタリアの毒蛇に向かって、三郎太は気力を振り絞り、分厚い胸板を押し出すようにして突進した。

「いくぞっ……!」

 狙うはシンプルな低空タックル。毒で身体能力が低下している今、小細工は通用しない。ウェイト差を生かし、一気に組み付いてマットにねじ伏せる。その一点に勝機を見出そうと、三郎太は太い腕を伸ばし、極端に姿勢を低くしてゾーザの細い腰元へと飛び込んだ。だが、その決死の踏み込みも、毒に侵された今の彼ではあまりにも遅すぎた。

「おっと、呼吸が乱れてるのにそんな派手に動いていいのカナ?」

 迫りくる三郎太の巨体を前にしても、ゾーザは全く慌てる素振りを見せなかった。彼女は三郎太の沈み込んだ肩に、まるで跳び箱を飛ぶ時のように両手をトンと軽くつくと、しなやかな身のこなしでふわりと宙を舞った。黒地に蛍光グリーンの模様が這うハイレグ・モノキニに包まれた引き締まった肉体が、三郎太の頭上を鮮やかに通り過ぎていく。虚しく空を切った三郎太の腕が空気を掴み、勢い余った身体はつんのめるように前へと泳いだ。

 ハッとして体勢を立て直そうとするが、足腰に力が入らず、ワンテンポ動きが遅れる。着地と同時に反転した銀髪の魔女はすかさず反撃に移った。

「痛みの倍化の意味ってさ、こういうことだよ」

 耳元で甘く冷酷な声が囁くのと同時に、息を切らせ、ふらつきながら振り返ろうとした三郎太の無防備な喉笛に、ゾーザの指先が容赦なく突き立てられた。瞬間的に指を食いこませ、気道を攻める彼女の得意技、コブラクロー。だが、今の三郎太にとって、それは単なる牽制技では済まなかった。毒によって異常なまでに過敏化した痛覚神経が、皮膚に食い込むゾーザの指先の感触を、まるで真っ赤に焼けた鉄の鉤爪で肉を抉り取られるかのような、筆舌に尽くしがたい激痛へと変換して脳天に叩き込んだのだ。

「ハァッ……ハァッ……、がっ!? おぐっ……ぐぅぅぅ!?」

 声にならない悲鳴が漏れる。気道を塞がれた窒息の苦しみと、首の骨まで砕けそうな激しい痛みに、三郎太の強靭な肉体は為す術もなくマットへと引き倒された。喉から染みわたる激痛の前に、三郎太は這いつくばるようにして四つん這いになるのが精一杯だ。右手で喉を押さえながら、マットに左手を突いて激しく咳き込む。鍛え抜かれた肉体から、滝のような汗が止めどなく溢れ出し、マットに滴り落ちる。肺が酸素を求めて悲鳴を上げているのに、喉の痛みと毒による気道の狭窄が、まともな呼吸を許さない。

 そんな絶望的な苦痛の底で喘ぐ三郎太の背中に、ねっとりとした不快な熱が覆い被さってきた。

「はぁ……はぁ……、汗ばんだ逞しい背中。相変わらず素敵だね、ボクの王子様?」

 息を荒げたゾーザが、背後から三郎太の身体に密着し、まるで愛しい恋人を抱きしめるかのように腕と足を絡め取ってきた。口移しで毒を盛った代償として、彼女自身もまた毒の作用に蝕まれている。白い頬は異常な熱を帯びて赤く染まり、その息遣いもひどく荒かった。

「……っと、我慢我慢、お楽しみは決着後までおあずけだ。そら、『グラウンド・コブラツイスト』だよ」

 だが、自らも苦痛を味わいながら、それ以上に愛する者を蹂躙するサディスティックな喜悦が、彼女の腕の力を限界まで引き上げていた。ゾーザは三郎太の手足を固くロックしたまま、獲物に巻き付く大蛇のごとくゴロンとマットの上を横転した。寝転がった状態のまま、三郎太の巨体を自らの細い身体に固定し、脇腹と背筋を雑巾のように容赦なく絞り上げる。通常の「コブラツイスト」をグラウンド状態で極める、逃げ場のない残酷な拷問技だ。

「どう? 苦しい? ギブ? ギブしちゃう?」

 本来であれば、力と体重差で強引に跳ね除けられるはずの極め技。だが、今の三郎太の身体は、いつも通りではない。肋骨がミシミシと嫌な音を立てて軋み、背骨が限界を超えて反り返される。

「ぐあぁぁぁぁ……ッ!?」

 倍化された苦痛は想像以上だった。三郎太の口から絶叫が迸る。あまりの痛みに視界が白く明滅する。

「ハァッ! ハァッ! ま、まだ……!」

 ギブアップ。その言葉を口にしてしまえば、この地獄のような苦痛からは解放される。だが、敗北の先にあるのは、理性を奪う追加の毒と、目の前の狂った女の欲望の捌け口にされるという最悪の結末だ。EQT覇者としてのプライド、そして何よりプロレスラーとしての矜持が、三郎太の心をギリギリのところで支えていた。

「うぅっ……ハァッ! ハァッ! くそぉぉぉ!」

 全身から噴き出す汗でキャンバスを濡らしながら、三郎太は空いた右手を力強くマットに叩きつけた。それは降参の合図ではなく、己の魂を鼓舞するための咆哮の代わりだった。彼は極限の苦痛の中で奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、背中にゾーザをピタリと張り付かせたまま、そして強固なロックに全身の骨を軋ませながらも、執念だけでゆっくりと立ち上がり始めた。筋肉の繊維一本一本が断裂しそうな悲鳴を上げているように思える。膝がガクガクと震える。それでも、彼は重力に逆らって両足でしっかりとマットを踏みしめ、ついに直立の姿勢へと持ち込んだ。

「おっ……おお!? ふぅっ! ふぅっ! スゴいね、王子様。でも逃がさない、グラウンドコブラが普通のコブラツイストになるだけだぜ? ひひ」

 立ち上がられたことに一瞬驚きの声を上げたゾーザだったが、すぐに妖艶な笑みを浮かべてクラッチをさらに深く絞り直した。グラウンド状態からスタンディング状態へ移行しただけで、技から逃れた事にはならない。ゾーザの全体重をかけた絞め上げが三郎太のスタミナを削っていく。

 だが、立ち上がったことには明確な意味があった。寝技の体勢では動かせなかった可動域の確保。それが三郎太の狙いだった。

「ゼェ……ゼェ……! オラァ!」

 三郎太は痛みの中でなんとか集中し、すべての闘気を右腕に集中させた。彼の代名詞とも言える重い肘打ちを放つ準備だ。振りかぶった腕の周囲に、青く輝く淡い闘気のオーラが立ち昇る。そして、彼は背後にへばりつくゾーザの無防備な脇腹へ向けて、渾身の力を込めた「ファイナルエルボー」をバックエルボー気味に容赦なく叩き込んだ。

 重く鈍い打撃音が、地下道場に響き渡る。それは、毒でボロボロになった身体から放たれたとは思えないほどの、強烈極まりない一撃だった。腹部を深くえぐるような重い衝撃が、ゾーザの細い身体を貫く。

「おウッ……♡ あっあっ……!? ヤベ、キッツい……ッ♡」

 毒の影響で痛覚が過敏になっているのは、ゾーザも同じだ。脇腹を粉砕されんばかりの強烈な痛みに、ゾーザの顔から余裕が消し飛び、苦悶と甘い喘ぎが入り混じった異様な声が漏れる。その衝撃で彼女の強固なロックが明らかに緩む。三郎太は雄叫びと共に力任せに体をよじり、強引に腕と足の拘束を弾き飛ばして脱出を果たす。振りほどかれたゾーザは、打たれた脇腹を両手で押さえ、痛みに耐えかねて膝をガクガクと震わせながら前傾姿勢で悶絶していた。全身から汗が滴り落ち、マットにポタポタと黒い染みを作っている。

「ハァッ……! ハァ……ッ! こ、今度はこっちの番だ! くらえ、『サザンライト・スープレックス!』」

 荒い息を吐きながら、三郎太は前かがみで隙だらけになったゾーザの頭を左脇に深く抱え込んだ。そのままフロントネックロックの要領で首をガッチリと締め上げ、同時にゾーザの左腕に自らの右腕を深く絡め取ってショルダーロックに極める。

「ぐげっ……!?」

 首と腕を同時に極められ、逃げ場を失ったゾーザが掠れるような呼吸音を上げて苦しむ。痛みにゾーザが顔を歪めたその瞬間、三郎太は強靭な下半身のバネを使い、自らの身体ごと後方へと勢いよく反り投げた。三郎太のブリッジが美しい弧を描き、ゾーザの身体が宙を舞う。地響きのような轟音と共に、ゾーザの腰から背中にかけてが容赦なくキャンバスに叩きつけられた。強烈な落下の衝撃と、極められた関節へのダメージ。

「あっ……ひぁああああン♡」

 強烈なスープレックスの威力に、ゾーザの口から悲鳴とも歓喜ともつかない、歪に甘い絶叫が道場に響き渡った。

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