「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第4話 裏切りの汗!? の巻【太平プロ、道場封鎖デスマッチ「宮川三郎太VSゾーザ・ラ・ヴィペラ(2戦目)」】

 「サザンライト・スープレックス」三郎太の編み出したオリジナル技であり、好敵手ジェニー・葛葉を打ち倒した大技である。腰から背中にかけて、キャンバスに叩きつけられたゾーザの体から鈍い音が響き渡り、早くも勝負は決したかに思われた。だが、投げきってブリッジの体勢から崩れ落ちた三郎太は、過敏になった肺で荒い酸素を貪りながら、自らの両腕に残る致命的な「違和感」に戦慄していた。

「ハァッ……! ハァッ……!」

(浅い!? そうか、前に雫ちゃんに指摘された「サザンライト・スープレックス」の弱点!)

 三郎太の脳裏に、かつて悪役レスラー「オディール久我」として立ち塞がった後輩の雫から挑発交じりに指摘された記憶が閃光のように蘇る。「サザンライト・スープレックス」は、相手の抵抗する力を利用し、その反発力を自らのバネと掛け合わせることで爆発的な威力を生み出す投げ技であった。ゆえに、相手が技に抵抗しようとせず、全身の力を抜いて素直に投げられてしまうと、十分な「タメ」を作ることができず、破壊力が半減してしまう。

 さらに言えば先に飛ばれてしまえば、てこの原理で肩から引っ張られ後頭部から自爆しかねない、という致命的な弱点があった。ゾーザは、三郎太に投げられることを無意識のうちに歓喜し、一切の抵抗を見せなかったのだ。結果として、投げの軌道は美しかったものの、決定打となるはずの推進力が完全に殺されていた。

「おっ……ぐうぅぅ。 す、スゴ……!? さ、さすがボクの王子様」

 三郎太の危惧は、最悪の形で的中した。

「はぁッ! はぁッ! 危うく意識がトぶとこだった……!」

 キャンバスに大の字になっていたゾーザが、うわ言のような甘い声を漏らしながら、ゆっくりとその身を起こし始めたのだ。背を強打したダメージと、自ら盛った毒による過敏な痛覚で、彼女の表情は激しい苦痛に歪んでいる。しかし、その若草色の瞳には、愛する男の大技を全身で受け止めたという異常なまでの陶酔と恍惚感がドロドロと渦巻いていた。

 このまま主導権を奪い返されてなるものか。三郎太は、毒によって鉛のように重くなった体を執念だけで動かし、再び攻勢に転じた。うつ伏せになっていたゾーザの腰元へ素早く回り込むと、彼女の両脚を力強く小脇に抱え込む。そのままゾーザの細い背中、腰椎の真上あたりに自らの体重をかけて後方へと負荷をかけ、ゾーザの背を反り返らさせた。プロレスの基本にして、極めて強烈な関節技――「逆エビ固め」である。

「ハァ……! ハァ……! さぁ、ギブアップして鍵を渡すんだ!」

 ゾーザの細い体躯に対し、鍛え抜かれた三郎太のウェイトが容赦なくのしかかる。ましてや今のゾーザは、痛覚が何倍にも跳ね上がる毒に侵されているのだ。

「ひぎぃ……ッ!?」

 防音の効いた地下道場に、ゾーザの絶叫が響き渡った。背骨がミシミシと軋みを上げ、腰の関節が限界を超えて逆方向へと折り曲げられる。ハイレグ・モノキニの背中側、大きく露出した白い肌に浮かぶ蔦のペイントが、筋肉の引き攣りと共に生き物のように波打った。

「じょ、冗談……! まだまだこんなモンじゃボクは……があああ!? の、Noォッ!」

 だが、彼女は屈しない。両腕でバンバンとマットを叩き、ゾーザは文字通り身悶えして苦しみながらも耐え忍ぶ。

「こ、これでもかぁ!」

 三郎太はさらに腰を落とし、絞り上げる角度をえげつないほどに深くした。ギブアップを奪い、彼女自身から鍵を差し出させ、これ以上の毒の使用をしないと約させる。それが最良の未来なのだ。三郎太の焦りが、容赦のない加重となってゾーザの背骨を砕きにかかる。だが、イタリアの毒蛇は、ただ痛みに泣き叫ぶだけの脆弱な女ではなかった。

「おおお!? ゼェ……ゼェ……ッ!」

 激痛に涙目になりながらも、ゾーザはマットに突いた両腕に渾身の力を込めて上体を支えていた。三郎太がさらに体重をかけようと前のめりになり、その一瞬、重心にブレが生じる。

「ひ、ひひ……! 足元がお留守だよ!」

 ゾーザはその隙を見逃さず、驚異的な柔軟性と腹筋の力を爆発させ、固定されていたはずの両脚を強引に振り払った。円を描くように掻き薙いだゾーザの両腕が、三郎太の足元を正確にすくい上げる。

「しまっ!?」

 全体重をかけていた支えを唐突に失い、三郎太の体が後方へ倒れ込む。そのまま崩れ、極まっていたはずの逆エビ固めは、泥臭いカウンターの脚払いによってあっけなく破られてしまった。

 マットを転がる三郎太が体勢を立て直すよりも早く、痛む腰を庇いながらも獣のような俊敏さでゾーザが飛びかかってくる。

「ふぅ……ッ! ふぅ……ッ! 今度はボクが責める番だよ、王子様」

 ゾーザは仰向けに倒れた三郎太の右腕を外側からガッチリと捕らえると、自身の左腕を三郎太の首の後ろから深く差し込んだ。そのまま自分の腕と三郎太の胴体を巻き込むようにして、強烈なクラッチを形成する。

「ほぉーら、腕が折れそうな痛みはどうだい?」

 自らの腕の力と、覆い被さるような体重のすべてを一点に集中させる極悪な絞め技、アナコンダ・バイスだ。

「ぐ……がああああッ!?」

 三郎太の分厚い胸板、肋骨、そして右腕の関節へ、万力のような圧力が一気にのしかかる。毒の影響でただでさえ呼吸が苦しいというのに、胸郭を強烈に圧迫されたことで、肺に残っていたわずかな酸素すらも無理やり絞り出されていくかのようだ。過敏化した神経が、右腕の骨が砕け、肋骨が肺に突き刺さるような錯覚を引き起こし、三郎太は口を大きく開けて声にならない悲鳴を上げた。

 もがき苦しむ三郎太を抑え込むため、ゾーザはさらに自身の体を密着させていく。その時だった。息も絶え絶えになりながら、なんとか拘束を解こうと空中で虚しく振り回されていた三郎太の左手が、覆い被さるゾーザの豊かな臀部を反射的にガシリと掴んでしまったのだ。

「あんっ♡ ハァ……! ハァ……! 積極的だね? そろそろボクに襲い掛かりたくなってきたのかい?」

 不意の接触に、ゾーザの体がビクンと跳ねる。だが、彼女は技を解くどころか、その勘違いを歪な喜びに変換し、アナコンダ・バイスの圧力を保ったまま三郎太の耳元へと顔を寄せた。

「いいんだよ、王子様? どうせ鍵がかかって誰も入って来やしない、深夜でそもそも誰も見に来ない。二人だけの秘密にだってできるさ、ひひ」

 毒と汗に塗れた冷たい頬を、三郎太の苦悶に満ちた顔にすりつける。さらに、ハイレグ・モノキニのカットアウトからこぼれんばかりの柔らかな胸を、挑発するように彼の顔面へと押し当ててきた。肉体的な激痛と、呼吸困難。そして、密室での逃げ場のない精神的な陵辱。ゾーザは甘い言葉の毒で、三郎太の理性を内側からじわじわと腐らせにかかる。

「ゼェ……ッ! ゼェ……ッ! な、何を……ッ!? ぐぅうぅ!」

 痛みに視界が白濁していく中、三郎太は必死に意識を保とうと奥歯を噛み締めた。

(違う、誘惑なんか気にしている場合じゃない。今は……!)

 三郎太の左手は、ゾーザの尻を撫で回しているわけではなかった。彼の指先は、布地の感触を頼りに、密着したゾーザのコスチュームの隙間、下腹部の奥深くへと滑り込ませた「あの鍵」の在り処を必死に探っていたのだ。関節を極められながらも、わずかに動く左手の指先が、布越しに硬い金属の感触を捉えようと微かに蠢く。

「はぁ……んっ♡ い、いよいよその気に……あっ!? こら、ダメだよ!」

 陶酔しきっていたゾーザの声が、唐突に焦りの色を帯びた。彼女は、三郎太の手が単なる欲望の発露ではなく、明確な意思を持ってコスチュームの奥、鍵の隠し場所へと侵入しようとしていることに気がついたのだ。ここで鍵を奪われてしまえば、折角作り上げた彼女の牢獄が瓦解する。我に返ったゾーザは、慌ててアナコンダ・バイスの強固なクラッチを自らパッと解いた。身を翻して後方へと飛び退きながら、自由になった三郎太の左腕を、戒めるように上から自身のブーツでガチリと強く踏みつける。

「ぐぁっ!?」

 技から解放された安堵と、腕を踏みつけられた新たな激痛。三郎太は顔を歪めながら、マットの上で再び荒い息を吐き出した。三郎太を見下ろし、イタリアの毒殺魔は妖艶に唇を舐める。蓄積したダメージと、喉の奥を焼く毒による呼吸困難。身動きすらままならない三郎太の脇腹へ、ゾーザは容赦のない蹴りを見舞った。ドスッという鈍い音と共に、三郎太の巨体が仰向けからうつ伏せへと乱暴に蹴り転がされる。

「ハァ……ッ! ハァ……ッ! 勝ったら鍵をあげるって言ったのに、悪い子だね……ボクの王子様は?」

 荒い息を吐きながら、ゾーザはうつ伏せになった三郎太の背中にまたがるように乗り、彼の片脚を自らの脚で強固にロックする。そのまま彼の顎を両手で引き上げ、ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック――いわゆるSTFの体勢へと持ち込んだ。しかし、執念深い彼女の責めはそれだけでは終わらない。強固に極めた状態から、ゾーザは自らの身体を横に捻り、ロックしたまま三郎太の体ごとマットの上でゴロンと勢いよく裏返したのだ。今度は三郎太が仰向け、ゾーザがその下に滑り込む形となり、首と脚を同時に凄絶な角度で絞め上げる関節技「ステルスバイパー」へと移行する。自らも仰向けになりながら、下から三郎太の首を腕で引き絞り、万力のような力で気道を完全に塞ぎにかかる。

「これなら手は届かないだろ。ギブしちゃいなよ、王子様、ひひ!」

 首元に食い込む腕が、ただでさえ毒のせいで浅くなっている呼吸を容赦なく奪っていく。

「ゼェ……! ゼェ……! く……そぉ……ッ!」

 肺にあるわずかな酸素すらも搾り取られ、三郎太の顔色は苦悶に満ちた紫色へと変わり始めていた。視界の端が黒く欠け、意識が遠のきそうになる絶体絶命の危機。力任せに振りほどこうにも、足と首を同時に固定された今の体勢では、力の入れようがない。

 だが、EQT覇者としての彼のプロレス脳が、極限状態の中で起死回生の策を閃かせた。三郎太は本能的に己の首をロックしているゾーザの腕へと手を伸ばし、彼女の手全体を剥がすのではなく、その端にあるたった一本の指――「小指」だけをギュッと力強く掴み取ったのだ。

「おいおい、王子様。『小指掴み』とか、らしくないね? 反則しちゃダメとは言わないケド……」

 余裕の笑みを浮かべるゾーザ。プロレスにおいて、一本の指だけを掴んで捻る行為は反則に近い反抗であり、普段は誠実で正々堂々としたファイトを信条とする三郎太が決して選ばない手だ。彼女はこれを、王者がついに手段を選ばなくなるほど追い詰められた「屈服の兆し」と捉え、勝利を確信してわずかに警戒を緩めた。だが、それこそが三郎太の仕掛けた巧妙なブラフだった。彼女の意識が掴まれた小指へと完全に向いたその一瞬の隙を突き、三郎太はもう片方の手を背後に回す。そして、鋭く立てた親指を、密着するゾーザの無防備な脇腹へ向けて、渾身の力で深く突き立てたのだ。

「グェッ!?」

 同じく痛覚が倍加しているゾーザである。肋骨の隙間、急所を的確に抉るような局所的な激痛に、その体が感電したようにビクンと跳ね上がり、鉄壁だった首元のロックがわずかに浮き上がった。

「ゼェ……ゼェ……! 今だ!」

 三郎太はその千載一遇の好機に渾身の力を込めて腕のロックを振りほどくと、地獄の絞め技から強引に脱出を果たした。

「痛ゥ、小指つかんだのは……お、囮か……!?」

 己の油断を呪い、よろめきながらもマットに手をつき、急いで膝立ちになって体勢を立て直そうとするゾーザ。しかし、三郎太の反撃の炎はすでに燃え上がっていた。毒による疲労と酸欠で足元はおぼつかなく、十分な呼吸すらできていない。それでも三郎太は、震える両足でマットを強く蹴り、己の限界を超えて低く跳躍した。

「はぁっ!」

 三郎太の体が空を舞い、鋭い低空ドロップキックとなって、起き上がりかけたゾーザの顔面を正確に捉える。

「ぶぎゃっ!?」

 クリーンヒットしたレスリングシューズの硬い靴底が、ゾーザの美しい顔を容赦なく弾き飛ばす。鈍い衝撃音と共に、彼女は悲鳴を上げてキャンバスへともんどり打って倒れ込んだ。

「はぁ……ッ! はぁ……ッ! まだ終わってないぞ!」

 三郎太は息つく暇も与えない。顔面を打たれてのたうち回るゾーザの銀髪を掴んで無理やり引き起こすと、彼女の頭部を小脇に抱え込んだ。そして、柔道の投げ技にも似た基本に忠実な首投げで、前方へと力強く投げ飛ばしたのだ。

「くぅン……ッ!?」

 派手な大技ではないが、重力と体重の乗った重い一撃は、確実にゾーザの全身にダメージを蓄積させていく。マットに叩きつけられ、仰向けにダウンしたゾーザを見下ろしながら、三郎太は荒い呼吸の中で強い決意の光を宿した。

(ここだ……ここで極める!)

 どんなに体が苦しくとも、彼の脳裏には失踪した兄貴分、モモタロウから受け継いだ数々の技術と、共に汗を流した厳しい特訓の記憶が鮮明に焼き付いている。身に沁みついた反復が、今の満身創痍の彼を突き動かしていた。三郎太は素早くダウンしたゾーザの足元へ回り込むと、彼女の細い両脚を交差させて「インディアン・デスロック」に極める。そのまま後方に倒れ込むのではなく、脚をロックした状態のままゾーザの上体を無理やり引き起こし、自らの腕で彼女の首と脇腹を捕らえて強烈に捩じ上げた。脚を極めながら上半身をコブラツイストのごとく絞め上げる複合関節技。あぐらをかいたような脚のロック形状から名付けられた、モモタロウの得意技、モモ・スペシャルその2とされる拷問技「アグラツイスト」である。

「これで……どうだぁ!」

「ふぁぁぁ!? ひひ、王子様に抱きしめられ……いだだだっ、膝痛ェ!?」

 全身の関節が同時に悲鳴を上げる拷問技に、ゾーザの口から歓喜と激痛の入り混じった異様な絶叫が響き渡る。三郎太は奥歯を噛み締め、両腕のクラッチをさらに深く絞り込んだ。毒の効果で過敏になった神経ならば、この痛みには数秒と耐えられないはずだ。

 しかし、数秒経っても、十数秒経っても、ゾーザから降参の合図であるタップは訪れない。それどころか、彼女の唇の端には、苦痛を嘲笑うかのような歪な三日月型の笑みが浮かんでいた。

「ゼェ……ッ! ゼェ……ッ! た、耐えるのか!? 毒で過敏になった状態でこの技を……!?」

 自らの息も限界に達しようとする中、三郎太は信じられない思いで声を絞り出した。

「ぐぎぎ……に、認識に誤りがあるよ、王子様」

 関節をミシミシと言わせながらも、ゾーザは妖しく囁く。

「たしかに同じ毒がボクをも蝕んでいる。ケド、ボクの身体にはそれなりに耐性ってものがあってさ……。痛みの増幅度は王子様の方が上なんだよ」

「なっ!?」

 自らの身体を実験台にしてきた「毒蛇」ならではの恐るべき事実。同じ毒を摂取しても、ゾーザが受けるペナルティは三郎太のそれよりも遥かに軽いと言うのだ。

「安心して。誓って本来の実力差を丁度埋める程度に調整してるから。ひひ、互角でないと『運命』感じないからね……」

 狂気に満ちた理屈を語るゾーザの頬は、痛みよりも別の熱によって赤く染まり始めていた。

「意識したらちょっとムラムラしてきちゃった。こんなに身体で包まれるように抱かれてるし……仕方ないよねぇ?」

 モジモジと身体を揺すりながらゾーザは三郎太の顔に自らの顔を寄せ、熱っぽく見上げる。

「こ、こら……尻をすりつけるな……ッ!?」

 アグラツイストの構造上、ゾーザの臀部は三郎太の下腹部に密着している。ゾーザは意図的に腰をくねらせ、自らの柔らかな肉体を三郎太の一部へと生々しく擦り付け始めたのだ。プロレスという神聖な競技を愚弄する恥知らずな行為に、三郎太の顔が朱に染まる。

「お? その気になってきちゃった? だんだんカタ……」

「もうっ! 離れろ!」

 極限の精神状態の中で、羞恥心と焦燥感がついに限界を突破した。三郎太は耐えきれず、自らクラッチを解き、アグラツイストの拘束からゾーザを解放して大きく距離を取ってしまう。キャンバスに倒れ込んだゾーザは、「ふうっ、ふうっ」と熱を帯びた荒い息をつきながら、ダメージと快楽が入り混じった妖艶な表情で横たわっている。一方の三郎太もまた、肩で激しく息をしていた 。

 毒による極度の疲弊と脱力感が、いつも以上にスタミナを消耗させている。毒の利き具合が同等でないと判明した以上、このまま持久戦になったら負ける。三郎太は決断した。

(……ここで終わらせる!)

 限界をとうに超えているはずの三郎太の身体が、その精神力だけを推進力にして、震える足に鞭打って再びゾーザへと歩み寄る。ダウンしている彼女の細い腕を力強く引っ掴み、無理やりその上体を引き起こす。狙うは、シロオニ・ベスをも仕留めた己の新必殺技――「M'sライトニング・スープレックス」だ 。

 三郎太は正面からゾーザの左脇へと深く自らの頭部を突っ込むと、彼女の左手首を深く回し込んだ自身の左手でガッチリと掴んで固定する。さらに、空いた右腕でゾーザの左膝裏をしかとクラッチした。相手の左半身の自由を完全に封じ込める、逃げ場のない絶対の捕獲。妨害もカウンターも一切許さない、完璧なロックの前に、相手は為す術なく脳天からマットへ突き刺さるしかない。

「こ、この技は……まず……ッ!?」

 その技の性質に気付き、恍惚としていたゾーザの若草色の瞳に初めて明確な焦燥の色が浮かんだ。

「ハァッ! ハァッ! これで決める……! 『M'sライトニング・スープレックス』……」

 咆哮と共に、三郎太は残された全身全霊の闘気を振り絞り、自身の身体ごと後方へと美しいブリッジを描いて反り投げようとした。しかし、その瞬間。

「って、滑ッ!?」

 彼自身の予測すら超えた悲劇が、リングの上で無慈悲に牙を剥いた。毒による消耗と疲労が起こした大量の発汗と、激しいグラウンドの攻防によって、二人の足元のキャンバスには大量の「汗だまり」が形成されていたのだ。極限の疲労感の中で、逃さぬクラッチに全神経を集中させていた三郎太は、その足元の危険な状態に全く気付いていなかった。後方へと全体重を乗せて踏み込んだ軸足が、汗の水溜まりで無残にもずるりと滑る。グリップから強靭なブリッジへと移行するはずだった力のベクトルが完全に崩壊し、三郎太の巨体はゾーザを抱え込んだまま、無防備な仰向けの状態ですっぽ抜けるようにキャンバスへと潰れ落ちた。

「ごふっ!?」

 そして、空中で体勢を崩したゾーザの鋭い左膝が、落下する三郎太の無防備な腹部、みぞおちのど真ん中へと、まるで槍のように深々と突き刺さったのである。

「――ッ!?」

 声にならない悲鳴。痛覚を何倍にも増幅させる毒の作用によって、腹部に受けた打撃は、内臓を直接素手で握り潰されたかのような、筆舌に尽くしがたい激痛となって三郎太の脳天を突き抜けた 。

 

 ──必殺技の失敗。そして手痛すぎる自爆。

 

 腹を両手で押さえ、言葉を発することすらできずにマットの上で海老のように丸まって悶絶する三郎太。その頭上から、悪魔のような冷たい笑い声が降ってきた。

「ひひ、惜しかったねぇ。もうダメかと思ったよ。

 ゆっくりと立ち上がったゾーザは、先ほどまでの焦りが嘘のように、底知れぬサディスティックな笑みを浮かべていた。

「王子様の汗でかつてボクの毒は流されたけど、今回の二人の愛の汗はボクに味方してくれたみたいだね」

 彼女は容赦なく、腹を抱えてうずくまる三郎太の汗に濡れた黒髪を力任せに鷲掴みにすると、悲鳴を上げる彼を強引に引きずり起こした。立った状態で背後へと回り込んだゾーザは、三郎太の右手首を捕らえると、その腕を三郎太自身の首元へと巻きつけるようにして肘越しに深く羽交い絞めにする。そして、自らの腕と三郎太の腕で、彼の頸動脈を万力のように両側から挟み込んで強烈に締め上げた。首の血流と気道を同時に断ち切る恐るべき絞め技、コブラ・クラッチである。

「ぐ……ぁ……!?」

 全身の力が抜け、酸素を求めてあえぐ三郎太の耳元で、銀髪の毒殺魔が甘く囁く。

「もう抵抗もできない? 呼吸困難で意識が朦朧としてるんだね、王子様? いいよ、じゃあ……死闘はここまでにしよっか♡」

「……ッ!?」

 それが、彼女の放つ絶望のフィニッシュ・ホールドへの死の宣告だった。ゾーザは背後から首と腕をコブラクラッチで強固に極め上げた状態のまま、三郎太の身体を大きく持ち上げ、彼女の必殺技(フェイバリット)、「コブラクラッチ・スープレックス」でそのまま後方へと勢いよく反り投げた。拘束されて受身の取れない三郎太の身体は、凄まじい速度で宙を舞う。それは、公開処刑の断頭台にも似た無慈悲な軌道に思えた。

 

 脳天から真っ逆さまにキャンバスへと激突する三郎太。重く鈍い破壊音が深夜のトレーニングルーム内に響き渡る。首の骨が砕けるような激痛と、酸素不足、そして過敏化した痛覚神経のショックが完全に許容量を超え、三郎太の屈強な肉体は、痙攣することすら忘れたようにぐったりと動かなくなった。もはや指一本、ピクリとも動かすことができない。辛うじて虫の息で肺がヒクヒクと微動しているだけの、完全な敗北の姿であった。

 その動けない三郎太の身体へと、大技を放って肩を激しく上下させているゾーザが、獣のように妖しく這い上がってくる。彼女は三郎太の腰の上へとまたがると、その豊かな胸部と、ハイレグ・モノキニから露出した柔らかな肌のすべてを、三郎太の身体へとべったりと密着させるようにしてのしかかり、フォールの体勢に入った。

「ハァ……ハァ……! さぁ、カウントだよ。ワーン! ツーゥ!」

「……ぁ……ぅ…… 」

 絶え絶えのうめき声しか出せない三郎太の顔を、至近距離から覗き込む若草色の瞳。そこには、待ち焦がれた獲物をようやく我が物とした、純度百パーセントの恍惚と狂気が──いや、彼女なりの純粋な愛が爛々と渦巻いていた。

「ひひ……ボクの勝ちだね? スリー♡」

 無観客の道場に、不在のレフェリーに代わって幻の3カウントを告げるゾーザ自身の甘い声が響いた。

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