「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
太平プロレスの団体ビルの地下階に位置する道場兼トレーニングルームには、外のむせ返るような初夏の熱気も届かない。エアコン空調によって整えられた温度の中、その日のルーム内には、どこか落ち着かないざわめきが満ちていた。練習用リングや床に染み付いてしまったかすかな汗の匂いと、キャンバスの独特なゴムの香りが、ここが血の滲むような鍛錬の場であることを物語っている。視線を向ければ、先日蹴破られたまま、いまだ修理業者の手も入らず風通しのよくなった入り口から廊下が目に入る状態だ。
タンクトップにジャージのズボン姿でリングのそばに立つ宮川三郎太は、首にかけたタオルの端で汗を拭いながら密かに深く溜息をついた。真面目にプロレスを愛するこの好青年は、珍しい事だが、現在ほんの少しだけご機嫌が斜めである。理由は単純、先日の深夜道場での非公式戦――といえば聞こえがいいが、イタリアマット界から追放されてはるばる日本へやってきたゾーザ・ラ・ヴィペラの夜襲を受けたせいである。毒によってお互いにデバフを受けての密室デスマッチという不測の事態に見舞われ、死闘の末に無観客ながらスリーカウントを奪われ敗北したという事実。それが、地味に、しかし確実に彼のレスラーとしての矜持を苛んでいたからである。その上、この事件を重く見た上層部によって「深夜の道場リング兼トレーニングルームの使用は三名以上での事前申請を要する」という厳格な新ルールが制定されてしまったのだ。
これまでのように、衝動的に誰もいない深夜のリングで静かに己の肉体と向き合い、好き勝手に限界まで追い込んだり、閃きを元に新技のイメージを確認するのに道場リングを利用したりできなくなった。それは、少しプロレス脳が行き過ぎのきらいのある三郎太にとって何よりの痛手だった。そして二人ならともかく、三名でというのは地味に難しい。それもこれも二人っきりで道場リングでイケない事をしようとした、そして今後も隙あらば仕掛けかねないゾーザのせいである。
そんな鬱屈とした想いを抱えて珍しく刺々しいオーラを放っている三郎太のすぐ隣には、彼を気遣いつつも護るように適切な間合いを測って寄り添うように立つシロオニ・ベスの姿がある。鬼の末裔を名乗る彼女は、世界大会EQT(アーク・クェイク・トーナメント)が終わってからずっとどこか浮かれたような雰囲気を纏っていたが、さすがに今の彼女には凛とした美しさの陰に僅かな疲労の色が滲んでいる。いや、僅かとは言えないかもしれない。ベスの目元には薄っすらと隈すら見えていた。
だがそれも無理もない。あの夜襲騒動の際、鬼の第六感で現場に駆けつけ、ギリギリで三郎太を救出したものの、紆余曲折の末、襲来者ゾーザが、なんと彼女と同室の居候になってしまったのだ。三郎太に対する異常な偏愛を隠そうともしないゾーザの予測不能……いや、容易く予想できる露骨な毎夜の行動の対処に、毎晩のように睡眠時間を無駄に削られ、最近のベスはペースを乱して、少々寝不足気味なのである。
さすがに機嫌の悪さを察したのか、当のゾーザはトレーニングマシンのひとつに腰かけて、今は静かに三郎太の方を窺うに留めている。それをどう扱ったものか、雫は御子柴とひそひそとなにやら話し込んでいた。
そんな情景広がるトレーニングルームには団体トレーナーにズボン姿とリングコスチューム姿が入り混じっていた。トレーニングを中断した所属レスラーや練習生たちが雑談を交わしながら、集合をかけた人物を待っていると、コンコンと入り口わきの壁を拳で軽く叩いて三人の男女が現れた。入ってきたのは、現役レスラーながら引退を視野に入れて準備をしている太平プロレスの現団体代表の松平林吾と、その一人娘である松平美樹、そしてブロンドの女子レスラーが一人。その姿を目にしてルーム内のざわめきが一際大きくなる。
最近腰痛気味で寄る年波に勝てない林吾は、ゆっくりとした足取りで壁際の長椅子へと向かい、そこにどっしりと腰を下ろして腕を組み、一同を見守る構えをとった。かつての威厳はそのままに、次世代の台頭を静かに見守ろうというのだろう。
将来の引継ぎを見据え、最近は団体経営側の仕事にも深く携わるようになった女子大生レスラーの美樹が、メインで話をするべく一同の前に進み出た。
「とゆーわけで! 本日より英国団体『RCWS(The Royal Chartered Wrestling Society)』から太平プロに出向となったローラさんです。みんなよろしくするように!」
美樹の明るくよく通る声によるふわっとした紹介を受け、彼女の後ろから件のブロンド女性が優雅な足取りで歩み出た。金髪のショートヘアに、華奢ながらも一切の無駄を削ぎ落とした均整の取れた肉体。赤、黄、白のグラデーションカラーが鮮やかなワンピースタイプの試合用リングコスチュームの上に太平プロの公式ジャケットを羽織っている。それは勝気で高潔な瞳を持つ誇り高き英国マットの若き女王、ローラ・ザ・チャージその人であった。
「ハーイ、よろしくね。特にミヤカワ」
悪戯っぽい、しかし確かな熱を帯びた笑みを浮かべ、名指しで鋭い視線を送ってきたローラに対し、三郎太は目を丸くして驚愕の声を上げた。
「ローラさんが……出向!?」
まさか彼女が海を渡って、太平プロの道場に姿を現すなど夢にも思っていなかったのだ。しかも出向という事はこれからしばらく太平プロの興行に出ると言う事か。
その横で、御子柴が信じられないものを見るような顔で顔を引きつらせる。
「げぇっ……マジかよ!?」
好かない神宮寺のデータの力まで借りて準決勝で彼女に挑み、全霊を尽くしてなお一歩届かず無念のKO負けを喫したのは記憶に新しい。大胆不敵を絵にかいたような振る舞いの御子柴と言えど、戦慄せずにおれない事態と言えた。
「相変わらずみたいね、野良猫?」
叫び声を聞いて視線を向け──御子柴の事を覚えているのだろう、涼しい顔で言い放つローラ。その力量をベースにしたマウントとすら受け取れる余裕に、御子柴は顔をひきつらせ、まだ認めたわけではないと、毛を逆立てるように全身で唸る。
「ふしゃーっ!」
威嚇する御子柴をよそに、ベテランレスラーのバッカスが頭をバリバリ掻いて、深く長いため息を吐き出した。
「英国の『RCWS』と言や、王室勅許状を受けて十九世紀末に設立された、英国最古にして最大のプロレス団体だろ。英国スポーツ文化の一部として扱われ、伝統・格式・技術を重んじる『英国マットの本丸』。男子女子の区別なく、英国中のレスラーがそこを目指すっつー……老舗中の老舗じゃねえか。なんでまたこんな東の果ての島国に……」
バッカスの言う通り、彼女が本国で手にした女王としての王座や地位は、プロレスラーであれば誰もが羨む輝かしいものばかりだったはずだ。日本人と日本のプロレスを見下していたはずの彼女が、格式高いリングで浴びる大歓声を捨て、極東の小さな島国の団体にわざわざ出向してきたという行動力に、実態を知る一同は戦慄と驚愕を隠せない。
「詳しいのね? 理由はもちろん、面白そうだから、よ。ミヤカワとも再戦したいしね」
ローラは事も無げに言ってのけた。EQT決勝での三郎太の泥臭い執念の前に敗北し、築き上げてきたプライドを砕かれつつも、つまらない孤独なトップという壁を壊してくれた三郎太に対して、彼女は強烈な固執を抱いていたのである。
しかし、その真っ直ぐな執着の視線を、三郎太を愛する「鬼姫」が警戒しないはずがなかった。ベスは一歩前に踏み出し、ローラを射抜くような鋭い視線で睨みつける。
「は? 三郎太に変な視線を送るの、やめてもらおうかしら? 再戦? その前に私が叩き潰してあげるわ、Posh Little Queen!」
売り言葉に買い言葉。ローラもまた、不敵な笑みを浮かべて一歩も引かずに応じた。
「いいわね、じゃあ貴女から黙らせて、リベンジマッチに誰も文句を言えなくしてからやりましょうか、Jealous Yankee Ogre?」
火花を散らす女と女の睨み合い。今にも掴みかからんとする一触即発の空気に、三郎太は不機嫌も忘れて慌てて二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと! まだ話の途中だよ。二人とも落ち着いて!」
他の者たちはどうしていいか分からず遠巻きに見守るだけだ。いや、いがみあう当事者たちの戦闘力が高すぎて三郎太くらいしか割って入れないとも言う。
「……三郎太ぁ、苦労がまーた増えるなァ……」
バッカスの声には心の底からの同情がこもっていた。
「勘弁してください……」
三郎太は完全に肩を落として情けない声を漏らす。ただでさえゾーザの事があるのに、この上ローラまで三郎太が担当ですと言われかねない事態に、三郎太はどっと疲労感がのしかかったように感じた。
騒がしい道場トレーニングルームの空気が再び混沌の渦に呑まれようとする中、そんな険悪な空気を気にもせず、視線を巡らせていた雫が美樹の手元にある書類の束に気づく。びくりと肩を震わせ、己の悪い予想を信じたくないとでもいうかのような表情で雫はおそるおそる声を上げた。
「あの……ところで、美樹さん。その手にもってるのはまさか……?」
その言葉を聞き、美樹の手元の書類を見た瞬間、サチの顔からもスッと血の気が引いた。
「うげっ!?」
皆の視線が集まる中、美樹は手にした書類を掲げ、満面の笑みで高らかに宣言した。
「ええ、そうよ。今年も夏合宿の日程が決まりました! 場所は今回も鹿児島、輪輪寺! 『海岸』で、『砂浜』よ!」
その瞬間、道場内の空気が、明確に二つの色に分かれた。
「へぇ、夏合宿ですか」
純粋な興味を惹かれた様子のベス。
「海……海岸で王子様と……うへへ……って、なんかみんなのノリおかしくね?」
美樹の指揮下に入って客員枠という居場所を得たゾーザが、水着姿の三郎太を妄想してだらしない笑みを浮かべるが、すぐに周囲の異様な空気に気づいて首を傾げる。そう、太平プロレスの純所属者たちの反応は、明らかに異常だったのだ。
「なん……だと……!?」
ブライアンが絶望を表情に滲ませ、霊圧の消えた誰かを想うかのようなポーズで驚愕に震えていた。
「や、やっぱり……!」
恐怖に顔を歪めて両手で顔を覆う雫。新生ライジング雫となってもう無敵かこいつと思われていたのに、まさかの反応である。
「ついに……来たか……!」
三郎太が悲痛な覚悟を決めるかのように拳を強く握りしめた。もはや不機嫌の事など完全に忘れ去っており、それどころではないという三郎太の中の優先順位が察せられる。
「うぅ……」
サチが泣き声を漏らし、御子柴が天井を仰ぐ。
「やれやれだぜ……」
バッカスは自らの頭をぽんぽんと叩きながらため息をついた。彼らの脳裏に去来しているのは、波と戯れる楽しい海辺のバカンスなどでは断じてない。もっと恐ろしいナニカ。体験した彼らにしか分からない地獄を思い浮かべているのは明白だった。今年もまたあの悪夢がやってくるのかと、太平プロレス純所属者たちは全身を震わせて戦慄していたのである。
新参者であるベスは、歴戦の猛者たちが一様に顔を引きつらせて絶望の底に沈んでいるこの光景が信じられず、深い戸惑いの声を上げた。
「な、なんですかこの空気? まるで嫌がってるみたいな……?」
ベスの疑問に答えるように、宮川三郎太はどこか遠い所を見る目でぽつりと呟いた 。
「嫌がってるわけじゃないけど……その、なんだ。いろいろキツいんだよね、毎年」
普段のウブで真面目な彼らしからぬ、どこか哀愁を帯びた声。道場リングの周辺に集まった所属レスラーや練習生たちの間にも、一瞬にして言い知れぬ緊張感が伝播している。
「端的に言って地獄の猛特訓だと思った方がいいです」
三郎太の言葉を引き継ぐように、目を伏せて雫が極めて冷静な、しかし一切の冗談を排したトーンで告げた。その憂鬱そうな態度は、単なる脅しではなく、過去にその『地獄』を文字通り肌で味わってきた者だけが持つ、本物の警告の重みを孕んでいる。彼女の真剣な横顔に、周囲の空気はさらに一段と冷え込んでいった。
「サチはわりと嫌がってるんですけど?」
間髪入れずに、サチが心底から嫌悪感を露わにした声を漏らした。普段のマイペースでどこか脱力した雰囲気は完全に鳴りを潜め、両肩をすくめながら、本気でその場から逃げ出したいと言わんばかりの表情を浮かべている。彼女にとって、これから始まるであろう過酷な日々は、思い出すだけでも身の毛がよだつものらしかった。
「なんと……!?」
その尋常ではない周囲の怯えぶりに、さすがのベスも、端正な顔を驚愕に歪めて声を上げるしかない。太平プロレスの生え抜きたちがここまで露骨に嫌がる対象が何なのか、すぐには理解が追いつかない。不穏な気配を感じざるを得なかった。
「マジか……」
ベスの隣で、ゾーザ・ラ・ヴィペラもまた、蛇のように細い目を柄にもなく可愛らしく見開いて呆然と呟いていた 。イタリアマット界を追放され、紆余曲折の末に美樹の指揮下でこの太平プロレスに居候することになったばかりの邪悪な襲来者は 、密かに三郎太との甘い海岸での時間を妄想していたのだが 、周囲のあまりの引き気味なノリに、己の目算が大きく狂い始めていることを察したようだった 。
そんな太平プロレス生え抜き組の戦慄と、新参組の戸惑いが交錯する空間の中で、ただ一人、凛とした涼やかな声を響かせる者がいた。
「面白いじゃない。その『地獄』とやらがどの程度のハードトレーニングなのか楽しみね!」
ローラ・ザ・チャージである。彼女は 、不敵な笑みを浮かべて言い放った。ローラにとって特訓など、自らの壁を乗り越えるための格好のステップに過ぎない。新鮮な体験への期待と戦意が、恐れるものなど持たない彼女をただ燃え上がらせていた。
だが、その敢然たる態度に対して、道場の隅から粘りつくような、胡散臭い声が割り込んできた。
「ところがそうはいかんのだ。ローラ君」
声の主は、グレート・イカサマ。角刈りにカイゼル髭、そして顔面には道化師のような奇妙な白塗りのフェイスペイントを施した、太平プロレスのベテラン悪役レスラーである。筋肉の裏打ちがあるがっちりと引き締まったレスラー体型を持ちながらも、その佇まいはどこか紳士の風格を漂わせている。
「what? どういうことかしら?」
いいところで水を注されたローラは不快そうに眉をひそめ、英語交じりに問い返す。突然目の前に現れた、胡散臭さが服を着て歩いているような男の言葉に、警戒を強める。
「フフフ、『新入りは所属者一人に練習試合で勝利しなければ夏合宿に参加できない』のがここの流儀なのだよ。……よければ私が相手をして差し上げるが、どうかね、英国の女王よ?」
イカサマは、貴族風のデザインが施された黒のフルレングスタイツの胸元にある、小さな偽ポケットに指をかけながら 、さも厳かな伝統であるかのようにごく自然に大嘘を吐いた。その表情は真剣そのものであり、道化のペイントの奥にある瞳は、いかにももっともらしい光を湛えている。悪役としての年季が成せる技か、看破されようがされまいがかまわないというマイペースさ故か、その言葉には妙な説得力が宿っていた。
「ハァン、挑発のつもり? いいわ、折角だし太平プロレスの練習用リングで軽い運動でもさせてもらおうじゃない」
ローラはフッと鼻で笑うと、イカサマの言葉を真っ向から受け止めた。この胡散臭い男が何者かよく知らないが、これから身を置く太平プロレスのリングがどのようなものかを知るには、絶好の機会だ。彼女は腰に手を当て、自信に満ちた足取りで道場の中央に鎮座する練習用リングへと歩みを進めた。
「さすがの度量だ。では、EQT(アース・クェイク・トーナメント)『準』優勝者の胸をお借りするとしよう。なに、軽い運動で終わるだろう 。レフェリーは要らんよ。ブライアン君、ゴングを頼む」
イカサマは芝居がかった仕草で一礼すると、ローラの後に続いて軽やかにリングインする。彼のタイツに走る一本の白い縦ストライプが、視覚的な欺瞞を生み出し、その動きを一瞬捉えにくくさせる。彼は近くにいたブライアンに対して、事も無げに指示を出した 。
「……言うじゃない?」
不敵に笑うローラ。準優勝であり優勝でない事をことさらに強調した上で、「軽い運動で終わるだろう」などと結論付ける。それはつまり自分を一蹴するということか。そう捉えたローラは覿面にプライドを刺激されていた。まさか激しい運動になる前にイカサマが負けるに決まってるから「軽い運動で終わるだろう」と発言したなどとは思いもよらない。ついでに言えばレフェリーが要らないというのも「居ると止められるような事をしたいので居ないと助かるのでよろしく頼む」という意味で言ってるなどとローラに分かろうはずもなかった。「胸を借りる」の比喩については……言うのも野暮だろう。このままご覧いただければ分かることだ。
ローラはジャケットを脱ぎ捨て、リング上でグレート・イカサマと対峙する。そして、天下のローラ・ザ・チャージを前にして、余裕綽々というその不気味な笑みの男を睨みつけた。見た所、彼女が新人時代に指導を受けた欧州レスリング界の元チャンプらのような絶大な覇気は感じられない。むしろその飄々とした捉えどころのなさは英国のナンバースリーであり、ローラの新人時代のタッグメイトであった男、ハーレクイン・ザ・パイドパイパーに近い。どちらも道化じみたフェイスペイントをしていることもあり、どうしても連想してしまう。
ハーレクインと比べると確かにこのイカサマとやらはガタイも良く、筋肉もがっちりとついているようだ。となれば見た目以上に強いのか? 手加減するつもりではあったが 、英国の若き女王としての誇りが、この胡散臭い男を完膚なきまでに叩き潰せと囁いている。ローラはそんな風に考えていた。
インサイドワークと軽妙なトークで大人気を得ているとは言え、プロレスの実力では下手をすればサチにも負けることがあるという万年中堅悪役レスラーがグレート・イカサマの正体だなどとは分かろうはずも……さすがにこのパターンも飽きたろうからこの辺にして先に進めよう。
「あーあ……どうなっても知りませんぜ、旦那」
リング下で手持ち式の簡易ゴングを抱えたブライアンが、深くため息をつきながら、哀れみの視線をイカサマに向けた。胡散臭い変態紳士だが、イカサマはあれでブライアンの指導担当である。EQTの予選で結城と二人がかりでローラに蹴散らされたブライアンにしてみれば、これからイカサマがたどる運命は容易に想像が可能だ。ローラの規格外の強さと、イカサマの戦力的な実力を思えば 、この無謀な挑戦がどのような結末を迎えるかは火を見るより明らかである。
「あ、あの……」
見かねた三郎太が、流石に一言かけるべきかと口を挟もうとした。生真面目な彼にとって、ローラが騙されたまま試合が始まるというのは少々、寝覚めが悪い。
「三郎太クン。ここは黙って見守りましょう」
しかし、その言葉は美樹によって遮られた。失踪中のモモタロウのマスクを預かり、経営側としても団体に関わり始めた彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて三郎太の肩を叩く。イカサマが何を企んでいるのか察し、これがローラを太平プロレスの空気に馴染ませるための 、彼なりの奇妙な『歓迎の儀式』になるだろうことを、美樹は見抜いていたのだ。
カン、と頼りない音が道場に響き渡った。
ブライアンが鳴らした簡易ゴングの音が、非公式の練習試合の開始を告げる。ローラはすっと腰に手を当てて仁王立ちしている。その引き締まった肢体から放たれるオーラは、まさに強者そのものである。彼女は挑発するように、右手の白リストバンドが巻かれた手首を返し、人差し指だけをクイ、クイと曲げてイカサマを手招きした。
「ベテランらしいけど……あまり手ごわそうには見えないわね? まぁ、いいわ。挨拶代わりよ、かかってらっしゃい」
ローラの声には、明確な侮蔑と、それを裏付ける圧倒的な自信が含まれていた。覆せるものなら覆してくれ。そうすれば楽しい試合ができる。そんな傲慢がにじみ出ている。対するイカサマは、ローラの挑発に対しても欠片も動じる風はなく、むしろ楽しげにカイゼル髭を指先で弄んだ。
だが、彼は突如としてその顔に驚愕の色を浮かべた。
「おや、リングに上がって……君も参加するのかね、三郎太クン? いやいや、後ろから奇襲は不味かろう?」
イカサマの声は、驚きと焦燥に見事に彩られていた。彼の目は自分ではなく、肩越しに背後のなにかを見ている? しかも三郎太が背後から奇襲? まさか? さしものローラも自らに一度勝利した程の男に背後から不意打ちを受けるのは危険すぎる。咄嗟に振り返ってしまうのも無理のない事であった。
「えっ、ミヤカワが!?」
冷静さを失い 、ただ宮川三郎太の姿を追い求めるように、その視線を背後へと巡らせる。だが、ローラの背後、リング上には誰も居なかった。見えたのはロープ越しにリング下から気まずそうな表情で苦笑いを浮かべ、困ったようにこちらを見上げている三郎太の姿だけだった。
「?」
誰もリングに上がってきてなどいない。その厳然たる事実に、ローラの思考が一瞬フリーズした。聞き間違えたか? 自分が何を言われたのか、なぜ三郎太がそんな顔をしているのか、彼女の聡明な頭脳が状況を処理するまでに、わずかな空白が生まれる。その刹那の空白こそが、老獪な悪役レスラーが待ち望んでいた唯一の勝機だった。
いつの間にか、イカサマの巨体が足音もなく、まるで滑るような滑らかな動きでローラの懐深くへと滑り込んでいた。タイツの白いストライプが、彼の接近を視覚的に曖昧にし、ローラの警戒をすり抜けさせたのだ。
ローラがハッと気づき、視線を正面へと戻したまさにその瞬間。イカサマの手が、電光石火の速さで伸びた。彼の細長く、しかし鍛えられた指先が、虚を突いてローラのまぶたあたりを、容赦なくパチンと叩いた。プロレスにおける古典的でありながらも最も効果的な反則技、サミングである。
「遺憾だが、ウソでね」
イカサマは、悪びれる様子もなく、むしろ紳士的な笑みさえ浮かべながら、軽妙な口調で言い放った。その指先がもたらした鋭い痛みが、ローラの視界を瞬時に奪い去る。瞬く間に涙が溢れ出す。
「You cheeky fraud…!(この卑怯者……ッ!?)」
激痛と、あまりにも見事な騙し討ちに対する怒りで、ローラの美しい顔が激しく歪む。彼女は思わず両手で目を覆い、視界を塞がれた暗闇の中で、叫ぶように英国の言葉でエセ紳士を罵倒する言葉を放ち、天井に虚しく響く。だがそこには何の意味もない。人間を指して「この人間め」と罵っても罵倒にはならないのだ。ローラの前に居るのはベテラン悪役レスラー「グレート・イカサマ」なのだから。
「英国マットの若き女王は、このエセ紳士の剛力ベアハッグに耐えられるかな!? いくぞ!」
いつの間にか、足音もなく滑るように近づいていた彼の引き締まった肉体は、視界を奪われて無防備になったローラの懐へと、まるで獲物を狙う猛禽類のように深く、迅速に飛び込んできた。その太い両腕がローラの細い腰回りにがっしりと回される。正面から対戦相手の身体を完全に抱きかかえ、力任せにその胴体を締め上げる古典的な肉体破壊技――「ベアハッグ(鯖折り)」の体勢である。
「くっ、上等……!」
ローラは視界の効かない暗闇の中で、強く奥歯を噛み締める。強烈な激痛が自らの身体を襲うことを覚悟し、肺の空気を固定して防御の体勢を取った。じわじわと肉体を追い詰められるプロレスの攻防特有の緊張感が、リング上の空気を重く支配する。
──かに見えた。
だが、数秒、十数秒が経過しても、彼女が予期していたような、骨がきしむほどの破壊的な圧力は一向にやってこなかった。確かに、胴体を両腕で強くホールドされている感覚はある。しかし、それは相手の全体重をかけて肉体を粉砕しようとするプロレス技のそれとは、明らかに異質だった。締め上げるというよりは、まるで壊れやすい宝物を大切に抱きしめているかのような、奇妙な密着感とうっとりとした熱量だけが、ローラの肌を通じて伝わってくるのだ。
(剛力……? 全然効かないのだけどどういう……)
あまりの拍子抜けに、ローラは困惑のあまり無意識に首を傾げ、彼女はまだチカチカと痛む涙目を両手の指先で強くこすり、どうにかして失われた視界を急速に回復させようと試みた。涙を拭い、ようやく視覚が世界の形を取り戻したとき、ローラの目に飛び込んできた光景。
それは、ローラの身体をしかと抱きしめたまま、その豊かな胸元に己の顔面をうずめ、恍惚の表情で左右に擦りつけているグレート・イカサマの姿であった。角刈りにカイゼル髭、そしておどろおどろしい道化のペイントを施した男の顔面が、彼女の赤、黄、白の鮮やかなグラデーションカラーのワンピースコスチューム越しに、完全に密着している。
「…………」
ローラは絶句した。その美しい顔面が、怒りを通り越して、絶対零度の氷のように冷たく凍りつく。戦士としてのプライド、女性としての尊厳、保持してきたプロレスという競技への敬意が、目の前の変態紳士の行動によって木っ端微塵に打ち砕かれた瞬間だった。
そんなローラの猛烈な殺気など意にも介さず、イカサマは至福の境地に浸りきった声を漏らした。
「ムフー」
そのブタのような鼻息が胸元にかかった瞬間、ローラの脳内で、何かが決定的に、そして派手に弾け飛んだ。手加減などという言葉は、彼女の辞書から完全に消滅した。この男には、言葉による抗議も、ルールによる裁きも生ぬるい。ただ純粋な、圧倒的な物理破壊による制裁のみが相応しいと、彼女の肉体は本能的に理解していた。
ローラは、胸にほおずりするイカサマの脳天に向けて、自らの右腕を高く掲げた。鍛え上げられた彼女の肘が、美しい弧を描きながら、重力と怒りのすべてを乗せて強烈なエルボー・スタンプとなってイカサマの無防備な脳天へ真っ直ぐに振り下ろされた。
「おぐっ!?」
鈍い衝撃音が道場に響き渡る。あまりの衝撃に、イカサマはカエルが潰されたような情けない声を上げ、それまでローラの胸に執着していた両腕のクラッチをたまらず解除した。頭を両手で抱え込むようにして、その場に深く前傾姿勢のままガクリと膝を折りかける。だが、ローラの怒りが、こんなもので終わるはずがない。むしろ、これは地獄の処刑の序章に過ぎない。頭を抱えて前傾したイカサマを、ローラは上から押さえつけるようにして容赦なく伸しかかった 。その強靭な両腕で彼の胴体をガッチリとロックすると、見た目と噛み合わない怪力でイカサマの巨体が、まるで軽い荷物のように、一瞬にして上下逆さまの状態で空中へと引き上げられる。ローラは道場の天井を見上げるように背筋を伸ばすと、そのまま渾身の力で、イカサマの身体を「パワーボム」によって硬いマットへと叩き潰した。
「ぐはぁっ!?」
習用リング全体が壊れるかと思うほどの轟音が鳴り響き、キャンバスが激しく波打つ。背中と後頭部を強烈に打ち付けられたイカサマは、肺の中の空気をすべて強制的に吐き出され、白目を剥きながら大の字になってキャンバスへ転がった。しかし、ローラはまだその手を止めない。大の字のイカサマを強引に引き起こし、電光石火の速さで彼の背後へと回り込むと、その太い腰回りを自らの両腕で完璧にクラッチする。そして、自らの引き締まった肉体を極限まで反らせ、完璧なブリッジの弧を描いた。相手をホールドしたまま固定してピンフォールを奪うのではなく、ただただ破壊するためだけに後方へと投げ捨てる、無慈悲な「投げっぱなし・ジャーマンスープレックス」である。イカサマの身体は放物線を描いて宙を舞い、頭部から容赦なくロープ際のマットへと突き刺さった 。
「ぐわああああッ!!」
本日一番の悲鳴が道場に木霊する。イカサマの身体はキャンバスに激突した反動でねじれ、そのまま無残な形でエプロンサイドへはみ出すように崩れ落ちた。ローラによる無言の三連撃の前に、イカサマはロープ際にダウンし、ピクピクと痙攣するばかりで最早動くこともできない様子だった。技を放ち終えたローラは、ゆっくりと立ち上がると、乱れた金髪のショートヘアを軽く手で払い、自身のコスチュームを整えた。彼女は、そんな無残な姿でマットに沈むベテラン悪役レスラーを見下ろし、冷徹な視線を向けたまま、鼻で短く息を吐いた。
「……フン!」
その吐息には、怒りと呆れと失望が凝縮されていた。リング下から間近でその猛威を改めて目にした美樹は、ローラの圧倒的な強さに目を丸くしていたが、すぐに我に返ると、隣にいるブライアンへと視線で合図を送る。美樹の意図を察し、戦闘不能と見てその眉をハの字にしたブライアンが、手持ち式の簡易ゴングを激しく打ち鳴らし、試合終了を告げた。
カン、カン、カン、カン!
リングの上には、無残な姿で練習用リングのエプロンサイドから両腕を垂らして力尽きているイカサマの姿があった。その様子を見て、リング下にいた宮川三郎太は、頭を抱えながら大声で叫ぶ。
「もー、何やってんですかグレートさん!」
真面目な三郎太からすれば、新参のローラに対してあまりにも失礼極まりないセクハラ行為であり、自業自得とはいえ、ここまでボコボコにされた先輩の姿には呆れるしかなかった。だが、エプロンから腕を垂らしていたイカサマは、血と汗に塗れた顔をのそりと持ち上げ、達成感と、一滴の悔いもないくもりなきまなこを覗かせる。彼は途切れ途切れの声で、しかし確かな恍惚を込めて呟いた。
「ふ……ふふ、英国の至宝たる美乳にほおずりできたのだ、私は本望だよ……ぐふっ」
言い残すと同時に、イカサマは再びガクリと首を落とし、ピクリとも動かなくなる。その徹底した変態紳士ぶりに、三郎太は「あちゃあ……」と額を押さえて深い溜め息をつくしかなかった。
一方、リングから降りてきたローラは、未だに怒りの残滓を漂わせながら、腕を組んで美樹の前に立った。そこで彼女は、美樹からイカサマが語った嘘の真相を聞かされることになった。
「はぁ!? ウソですってぇ?」
ローラは思わず声を裏返らせ、綺麗な青い目を見開いた。嘘で試合に及び、嘘で実力者を装い、嘘で隙を作り、嘘でたった一つの報酬を対価にマットに沈んだと言うのか。何のために? もちろんおっぱいのためだとも。イカサマはそう断言することだろう。
美樹はそんなローラの様子を見て、困ったように、しかしどこか楽しげに首を傾げながら、悪戯が成功したような笑みを浮かべた 。
「ふふ、あの人は嘘つきがギミックのレスラーなんですよ」
「ギミックって……はぁ……」
ローラは深く、深く溜め息をつき、自らの額を手で押さえた。プロレスにおける「キャラクター性」や「役割」を意味するギミックが大事なのは分かる。しかし、まさか私生活や道場でのやり取りにまでその嘘のギミックを全力で持ち込み、命がけでセクハラを働きにくるような狂人がいるとは、英国マットの厳格な環境では想像すらできなかったのだ。日本のプロレス界、特にこの太平プロレスという団体の底知れない混沌ぶりに、彼女は早くも頭が痛くなるのを感じていた。 その時、ローラと美樹の背後で、ガタガタと派手な音が鳴り響いた。それはイカサマがリング上から蹴り落された音であった。「ふぎゅ」などと落下時に声を漏らしたところを見るとやはり力尽きたのもウソか、この男。まーだ余裕あるな。
そうしてイカサマが文字通りリングから排除され、場所が空いたとばかりに、リング下のやりとりなど一切耳に入っていない様子で、リング上に嫌がる紫髪の練習生を引きずりあげる女が一人。それは嘘のルールに従って合宿参加の権利を得るために練習試合を始めようとするゾーザ・ラ・ヴィペラの姿であった。ゾーザにとって、合宿という魅力的なイベントに参加し、大好きな三郎太(王子様)と海岸──ロマンチックな夕日の砂浜? で甘い時間を過ごすためには、イカサマの言っていた「所属者を一人倒す」という条件をクリアすることは今の最優先事項だ。そのためには、目の前にいる大人しそうな練習生など、格好の獲物でしかない。
「ボクの夏合宿参加のために生贄になってもらうよ、ひひ」
ゾーザは蛇のように細い目を怪しく光らせ、不気味な笑い声を上げながら、抵抗する練習生を力任せに引っ張る。
「ええっ!? いやいやいやいや、ちょっ……待っ……!? ええーーーっ!?」
突如として凶悪な外人レスラーに捕まった紫髪の練習生は、完全にパニックに陥り、涙目で足をバタつかせながら必死に逃げようと抵抗する。EQTの舞台で三郎太を救うために解毒剤を届けたときの勇敢さはどこへやら、今の彼女はただの、理不尽な災難に巻き込まれた可哀想な被害者そのものだった。その様子を見かねて、呆れたような声を上げたのが、シロオニ・ベスだった。彼女は後を追ってリングに上がると、ゾーザに冷ややかな視線を注いだ。
「おやめなさい。ウソらしいわよ」
ベスのその一言に、今まさに紫髪の練習生をコブラツイストに極めようとしていたゾーザの手が、ピタリと止まった。
「えー?」
ゾーザは心底つまらなさそうな声を漏らし、掴んでいた練習生の腕を放した。解放された練習生は、命拾いしたと言わんばかりにベスに会釈して慌ててリング下へと転がり落ち、手近に居た三郎太の背後へと滑り込んで隠れて震える。それを見た雫の瞳から温度が5度ほど低下したのに気づき、咄嗟に肩を掴んで動きを封じる御子柴。そしてそれらをウンウンと頷きながら壁際の長椅子に座って温かく見守っている松平林吾。
ローラは、目の前で繰り広げられるその一連の騒動を、ただ呆然と見つめていた。気絶した(フリの)まま放置されている変態ベテラン悪役レスラー、それを「もうバレてますよ!」と叱りつけている生真面目な若手エース。周囲でとりまき爆笑している所属ベテランレスラー達、すべてを面白がっている経営者の娘、勘違いから暴走を始める邪悪なイタリア人、どこまでも我が道を行く鬼を名乗るアメリカ人。英国の団体『RCWS』では絶対に見れなかった光景がそこにあった。
かつて、彼女は常に古き伝統の格式と、そこで勝利し続ける若き天才としての敬意を一身に浴びていた。その反面、周囲のレスラーたちはハーレクインのような一部の例外を除き、誰もが彼女に遠慮し、一定の距離を保ち、腫れ物に触るかのように接してきた。あまりに強いと分かるとベテランたちは彼女との試合を嫌がるようになり、引退間近の元チャンプをはじめとするトップレスラーたちも晩節を汚すまいと引退を早めたり移籍してしまったりして彼女と距離をとっていた。自分に挑戦してくる若手は邪竜に蹴散らされ、恐れて萎縮して愛想笑いを向けるのみ。新人たちも寄り付かない。
しかし、この太平プロレスという場所はどうだろう。誰も彼女の肩書きに遠慮などしていない。それどころか、初日から大嘘にハメられ、命がけの悪ふざけのターゲットにされ、今も目の前で信じられないようなドタバタ劇が日常として流れている。災難だったわねとローラを慰めようとしているベテラン女子レスラーすらいるではないか。あまりにも騒がしく、あまりにも規格外で、そして、あまりにも自由な空間。気づけば、ローラの胸の内にあった、英国マットを背負う者としての張り詰めた緊張感や、プライドゆえの毒気は、この呆れるほど賑やかな太平プロレスの日常に巻き込まれ、いつの間にか綺麗に抜かれつつあった。
(……本当に、なんて場所かしら)
ローラは小さく溜め息をついたが、その表情から険しさは完全に消えていた。彼女は組んでいた腕をほどき、誰も自分を特別な存在として遠慮せず、しかし一人のレスラーとして当たり前のようにこの輪に巻き込んでくる空気の心地よさに、胸の奥が微かに温かくなるのを感じていた。
ローラの美しい唇の端が、ほんの少しだけ上を向く。彼女は、自身の新しい居場所となるであろうこの騒がしい道場を見渡しながら、誰にも気づかれないほど微かに、クスリと笑った。それは、英国の若き孤高の女王が初めて見せた、一人の少女としての、等身大の柔らかな微笑みだった。
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