海沿いの別荘で(主に私の理性の)限界に挑む過酷な夏合宿をこなし、八月に入った頃。私とスカーレットはトレセン学園へと戻ってきていた。
別荘での1月弱でみっちりと基礎体力の積み増しは完了した。これ以上二人きりで籠もってメニューをこなすよりも、同学年のウマ娘たちと交流し、実戦形式の併走などを交えながらトレーニングを重ねた方が、競走馬……もとい競走ウマ娘としての闘争心が磨かれると判断したからだ。
それに、これ以上あの露出度の高い服で無防備に居られると、私の前世のおじさんが完全に成仏してしまうという切実な理由もあった。
さて、蝉時雨が降り注ぐ学園のグラウンドに顔を出すと、そこには夏の日差しにも負けず、一生懸命に自主練に励んでいる見知った一年生たちがいた。
ウオッカと、アストンマーチャンだ。
上級生や実績のあるチームの大半は、学園が主催する公式の夏合宿に行ってしまっているため、学園に残っているのは彼女たちのような一部の居残り組だけである。
ウオッカもマーチャンも、将来スカーレットが歩むであろうティアラ路線の強力なライバルだ。だからこそ、お互いの実力を測り合う併走相手としてはこれ以上ないほどちょうどいい。私はさっそくスカーレットと共に彼女たちの練習に混ぜてもらうことにした。
グラウンドを見渡すと、もう一人、小柄なウマ娘の姿があった。ドリームジャーニーだ。
彼女の姿を視界の端に捉えた瞬間、私の脳内の危険信号が激しく点滅した。
前世の記憶にあるスマートフォン向けアプリでの彼女の性格、シスコンで少し小悪魔的で計算高いが、トレーナーには一途であれば、まだ対処のしようがある。だが、もし彼女の魂が「実馬」の方のドリームジャーニーに近い性質を持っていたとしたら、冗談抜きで近寄るだけで命の危険があるヤバい奴なのだ。前世の競馬ファンの間では、あまりの気性の荒さと凶暴さで語り草になっていた。
私は「絶対に近寄らないでおこう」と固く心に誓い、視線を逸らした。
と思っていたのだが。
「な、なあトレーナー、今の俺のフォーム、どうだった?」
「マーチャンも、少しタイムが伸び悩んでいまして。アドバイスをお願いしても?」
「……ふふっ、ついでに私のデータも見ていただけますか?」
気づけば私は、ウオッカ、アストンマーチャン、そしてなぜかちゃっかり混ざってきたドリームジャーニーまで含めた、一年生居残り組の「臨時コーチ」のような立場になってしまっていた。
無理もない。大半の有能なトレーナーは公式合宿に駆り出されており、残っている数少ない教官たちも持ち回りで全体の管理をしているだけで、一人一人に細かな指導をする余裕がないのだ。
そこで自主練を見かねて、私がウオッカの踏み込みの甘さを指摘したり、マーチャンのペース配分に少しアドバイスを出したりしたところ、こうなってしまった。
結果として、スカーレットの質の高い併走相手には困らなくなったものの、私はグラウンドを走り回り、複数のストップウォッチを首から下げてタイムを測り続けるという、ひどく忙しい羽目に陥っていた。
そして何より面倒なのが。
「なぁトレーナー! 俺も担当にしてくれよ!」
「マーチャンも、あなたの胸に飛び込んでもいいですよ?」
指導の的確さに惹かれたのか、彼女たちからの『逆スカウト』が多発し始めたことだ。
「ダメっ! お兄ちゃんは私の専属トレーナーなんだから! 誰にも渡さないっ!」
これにはスカーレットが猛反発し、私の腕に両手でぎゅっと抱きついて威嚇の声を上げた。まるで自分の宝物を取られまいとする子猫のようだが、腕に押し付けられる質量は子猫のそれでは断じてないため、私は別の意味で滝のような汗を流すことになる。
そんな騒ぎの中、ドリームジャーニーが小悪魔的な笑みを浮かべて、すっと私の前に進み出てきた。
「うふふ……私も、あなたになら預けてみてもいいかもしれませんね」
ヒィッ、と私の中のおじさんが悲鳴を上げた。
実馬の凶暴さを知る私からすれば、彼女からのアプローチは恐怖以外の何物でもない。
「じ、ジャーニー。お前は私なんかじゃなく、もっとふさわしい運命の相手を探せ! 私はお前が迷子になって泣いていたところを助けた奴なんかいいんじゃないかな、たぶん!」
私は全力でフラグをへし折るべく、アプリでもあった「幼い頃の運命の出会い」というシチュエーションを口走った。
しかし、私の腕にしがみついていたスカーレットが、呆れたような冷たいジト目を私に向けて、ボソリと言い放った。
「お兄ちゃん、ずいぶん前だけど、遊園地で迷子になってたジャーニーちゃんを助けて、交番までおんぶして連れてってあげてたじゃない」
「…………え?」
完璧に忘れていた。前世から引き継いだつい困っている人を助けてしまう社畜の性(サガ)が、まさかこんな特大の運命フラグを建築していたとは。
「あら、思い出していただけましたか? あのお背中の温もり、私、ずっと忘れていませんでしたよ……?」
ねっとりとした笑みを深めるジャーニーと、私を睨みつけるスカーレットの視線。
焼け付くような八月の日差しの下で、私は一人、背筋が凍りつくのを感じていた。