夏の函館。爽やかな潮風が吹き抜けるターフで、いよいよ我がチームの二人が『メイクデビュー』を迎えた。
先陣を切って出走したのは、ドリームジャーニーだ。
結果から言えば『楽勝』だった。
地獄のスタート特訓の成果で無難にゲートを出た彼女は、道中は最後方でじっと息を潜め、勝負所で一気に大外からライバルたちを撫で斬りにした。その小柄な身体からは想像もつかない、鋭く残酷なまでの切れ味。後続に差をつけてゴール板を駆け抜けた彼女の姿は、見ているこちらが少し『慢心』を心配してしまうほどの圧倒的なパフォーマンスだった。
そして、その翌日。いよいよ、大本命であるスカーレットの出走日である。
「ねえ、お兄ちゃん」
出走を控えた控え室。勝負服である真新しい体操服に身を包んだスカーレットが、上目遣いで私の袖をツンツンと引っ張った。
「なんだ? 緊張してるのか?」
「ううん、全然! あのね……今日、私が誰よりも速く走って、一番でゴールしたらさ。私の言うこと、なんでも一つ聞いてくれる?」
少し頬を赤く染めながらの、可愛らしいおねだり。
私は内心で、そもそもお前の言うことを拒否したことなんて、今まで一度もないんだがとおもいつつ、深く頷いた。
「当然だ。ケーキでも、買い物でも、なんでも好きなものをねだっていいぞ」
「ほんと!? やったぁ! えへへ……じゃあ、期待して待っててね!」
パァッと顔を輝かせてターフへと向かう緋色の背中を見送りながら、私は少しだけドキドキ、そしてワクワクしていた。
あんなに嬉しそうに、一体何をねだるつもりなのだろう。中等部二年の女の子が欲しがるものなんて、たかが知れている。どんなワガママでも、思い切り甘やかして叶えてやろうじゃないか。
しかし、そんな呑気な兄心は、レースが始まった瞬間に吹き飛んだ。
ゲートが開いた瞬間、スカーレットは弾丸のように飛び出した。
他を圧倒するスピードでハナを奪い、そのまま息の入らないハイペースで集団を牽引し始める。いつも以上に実力を発揮しているというか、気合が入りすぎて暴走気味だった。
「馬鹿っ、飛ばしすぎだ! スカーレット、少しペースを落とせ!!」
彼女の繊細な脚部に負担がかかりすぎないよう、私は観客席の最前列で身を乗り出し、喉が張り裂けんばかりの大声で叫び続けた。
ライバルの動向を見る余裕などない。ひたすら彼女にセーブするよう指示を出し続けるだけで、こちらの寿命が縮む思いだった。
結果として、私の声が届いたのか直線で少し息を入れたスカーレットは、最初から最後まで一度も先頭を譲ることなく、圧倒的な差で一番にゴール板を駆け抜けたのだった。
「はぁ……はぁ……心臓が止まるかと思ったぞ……」
安堵で膝から崩れ落ちそうになる私に、学園のスタッフから「ウイニングサークルへどうぞ」と声がかかる。
勝利の喜びに沸く観客の歓声と、無数のカメラのフラッシュが光るウイニングサークル。
そこで待っていたスカーレットは、駆け寄ってきた私を見るなり、満面の笑みで飛びついてきた。
「お兄ちゃん、勝ったよ! 私が一番でしょ!」
「ああ、よくやった! すごいぞ、スカーレ――」
私がその頭を撫でて労おうとした、次の瞬間だった。
スカーレットは私の首に両手を回してぐっと引き寄せると、そのまま背伸びをして、私の唇に自分の唇を押し当てたのだ。
「――――ッ!?」
ぶちゅー、という音が聞こえそうなほどの、情熱的な、そしてあまりにも堂々とした『公開キス』。
唇から伝わる柔らかな感触と、汗と混じった彼女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
数秒のフリーズの後、周囲の観客と記者たちから「おおおぉっ!?」というどよめきが上がり、先ほど以上の猛烈なフラッシュが私たちを包み込んだ。
「んっ……えへへ。これが私のお願い。お兄ちゃんの『初めての勝利のキス』は、私がもらうって決めてたんだから!」
顔を真っ赤にしながら、だけど信じられないくらい誇らしげに笑うスカーレット。
パニックに陥った私の中のおじさんが、真っ白になった頭で周囲を見渡すと。
サークルの少し離れた場所で、ドリームジャーニーが後ろ手を組みながら、ニヤニヤと楽しそうにこちらを見てほくそ笑んでいた。
あの策士……! 絶対にアイツがけしかけたな!!
なんでも言うことを聞くという約束を盾に、大観衆の前で既成事実を作らせるという恐ろしい悪知恵。間違いない、あの小悪魔の入れ知恵だ。
おのれ、ジャーニー……!!
私はカメラの砲列と妹分の極上の笑顔の前で、為す術もなく立ち尽くすのであった。
「トレーナーとスカーレットさんの関係はどういうものなのでしょうか?」
「お兄ちゃんは幼馴染で許嫁です」
「ちょ!?スカーレット!?」