最近、春の長期休養から復帰したスカーレットが本気で怖い。
春先のあの恐ろしい嵐(発情期)のピーク自体は過ぎ去ったはずなのだが、彼女の中で何かのタガが外れてしまったらしい。日常会話の延長のようなテンションで、ごく自然に「お兄ちゃん、早くうまぴょいしたい」と普通に要求してくるようになったのだ。
極限まで鍛え上げられた健康で魅力的なウマ娘から、真っ直ぐにそんな風に迫られるのは、男冥利に尽きるのかもしれない。だが、相手は私が手塩にかけて育てた大切な教え子だ。前世の倫理観と擦り切れた社畜の魂を持つおじさんとしては、悩ましいどころか貞操の危機に恐怖すら感じる毎日であった。
「じゃあ、私が『秋のシニア三冠』を全部獲ったら、お兄ちゃんと絶対にうまぴょいなんだからね!」
秋の初戦を前に、私は彼女の暴力的なまでの圧に押し切られ、そんな強引な約束をさせられてしまった。
秋のシニア三冠といえば、二千メートルの『天皇賞(秋)』、二四〇〇メートルの『ジャパンカップ』、そして年末の『有馬記念』。この過酷な三連戦を全て勝ち切るなど、並大抵のウマ娘にできることではない。
だが、相手はあのダイワスカーレットだ。
(どうにかして、怪我なく安全に、しかしスカーレットには『負けて』もらわなければならない……!)
トレーナーとしての誇りと、一人の大人としての理性が激しくせめぎ合う中、秋のシニア三冠の初戦、『天皇賞(秋)』のゲートが開いた。
最大のライバルであるウオッカも当然出走している。
私は観客席の最前列で、滝のような冷や汗を流しながら、ターフを見つめて必死に祈っていた。
(頼む、ウオッカ……! この時ばかりは全力でお前を応援する! 差し切ってくれ、私の理性を守ってくれ!!)
担当トレーナーにあるまじき、魂からの裏切りである。だが背に腹は代えられないのだ。
レースは案の定、先頭をひた走るスカーレットと、後方から猛追するウオッカの一騎打ちとなった。
最終コーナーを回り、最後の長い直線。漆黒の影が、とてつもない末脚でスカーレットに迫る。私の祈りが通じたのか、ウオッカの豪脚が完全にスカーレットを捉えにかかった。
「いけえええっ! ウオッカ、そのまま差せえええっ!!」
周囲の観客たちが「えっ、あの人スカーレットのトレーナーだよね?」というドン引きの目を向けてきたが、知ったことではない。いけ、そのまま抜き去ってくれ!
しかし二人が完全に並んでゴール板を駆け抜けた直後、無情にも掲示板に表示された写真判定の結果は。
わずか数センチ差。
スカーレットがウオッカの猛追をハナ差で凌ぎ切り、見事に勝利をもぎ取ったのである。
「やった……はぁ、はぁっ……! ふふんっ! 見たでしょお兄ちゃん! これであと二つだからね!」
ウイナーズサークルで、荒い息を吐きながら私に抱きつき、耳元でねっとりと囁くスカーレット。
その顔には、絶対に獲物(私)を逃さないという、肉食獣のような恐ろしい笑みが浮かんでいた。
執念がヤバすぎるだろう。
この歴史に残るようなウオッカとの大激闘と、数センチのギリギリの勝利。その原動力のほとんどが、純粋な闘争心などではなく『お兄ちゃんへの性欲』だという事実に、私は絶望のどん底で震えるしかなかった。
秋のシニア三冠、残り二戦。
私の中のおじさんは、迫り来る「うまぴょい」の足音に怯えながら、一人静かに涙を流すのであった。