「……ふわぁ……ん、しょと」
二度目の『H.I.F』を前にし、決意を新たにした翌日の朝。
静かな部屋の中で目を覚ました私は、全身で思い切り大きく伸びをした。
そうして、その後に時計を見て。針が指している時刻から、どうやら私が目を覚ましたのは起きる予定だった時間よりも30分ほど早かったらしいということに気がついた。
寝直すには……少し遅いか。いや、そうでもない気もするけれど、もうなんとなく目が覚めてしまった。
おそらく、昨日いつもより早い時間に寝たからだろう。
私は、ここ半年ほど規則正しく早寝早起き生活をしているのだけれど、そんな毎日のルーティンの中で見ても、昨日の就寝時刻はやや早かった。
……窓から外を見てみると、まだ暗い。
何かできることはないかと思ってそんなことをしてみたわけだけれど、これはなんか違う気がする。
少なくとも、こうして生活リズムが乱れるのは、あまりいい影響に繋がるとは思えない。
けれど、しかし実際に早く起きてしまったものはもう仕方がない。
いつもより少しだけ早いけど、運動用のジャージに着替えて、夏の終わりから継続している日課を始めてしまうことにする。
……そうして、寮を出発して。
やり始めたことはと言えば、なんてことはない。ただの走り込みだ。
毎日継続することが大事なのだそうで、実際、今のところプロデューサーが定めた休養日などの例外的に休んで良い日を除いて、ちゃんと続けることはできている。
たしかに、これのおかげか体力がついたような気はするし、足腰も強くなったような気もするけれど……それは、単なる思い込みかも知れないという考えも同時に頭をよぎってくるような程度のものだ。
まあ、何事もやらないよりはやった方がいい。
いっそのこと、どうせなら早く起きた分今日は多めに走ってしまおうか。
なんて、そんなことを考えながら。
チラチラと腕時計に目をやりつつ一定のペースを維持して走り続けること数十分。
……後ろからタッタッタ、と、リズミカルな足音が少しずつ距離を詰めて来ているのを感じる。
日課としてこの辺りでの走り込みを毎日しているものだから、誰が走ってきているのかは、かすかに聞こえる吐息と足音のリズムでなんとなくわかる。
私は……特に理由もなく、ペースを上げてみる。
そうしたら、後ろから近づいてきている足音もまたペースを上げた。
……そして。
「おはよう!今日は早いのね。てっきり厳密に時間を決めてるのかと思ってたけど……やっぱり『H.I.F』が近づいてきたから追い込みってところかしら?」
軽快な走りで難なく後ろから追いついた彼女──花海咲季が、横に並んで元気よく声をかけてきた。
私は、しれっといつも通りのペースに戻しながら、彼女の方へと顔を向ける。
そこには、まるで疲れが見られない元気そうな顔があった。
……もちろん知ってはいたけれど、やっぱり、花海咲季を相手に純粋な体力で競うものではない。
「おはよう。……いやぁ、それがちょっと早く目が覚めちゃって。いつもの時間まで寝ようかとも思ったけど、『H.I.F』に向けて何かできることないかなって思ったら、あんまり寝る気にもなれなくて」
走りながら、話をする。
別に毎回こうやって話しているというわけではないのだけれど、たまにこうして話すこともある。
向こうが話す気がなかったり、あるいは逆に、こっちが話をする気がなかったりした場合は、彼女が早々に私のことを抜き去って次の一周に行くか、もしくは私がただ挨拶だけを返すので、今日は、なんとなく会話をすることになりそうだ。
……ここ半年の間、この日課を始めたことで、同じような時間帯に同じようなことをしている形になり、結果としてこういう形で彼女と話すような機会が増えた。
良いことか悪いことかで言えば、こうして交友関係が広まったのは、多分良いことなのだろう。
それに対して、私自身悪いように思っているわけではないのだけれど、春の頃はこんな風に何気ない会話をするようになるとは思っていなかったので、なんとなく不思議な気持ちがあったりする。
……まあ、だからどうする、ということもないのだけれど。
「ふぅん、なるほどね。そういうことなら、休む時はキッチリ休むって決めた方がいいと思うわ!睡眠も大事なレッスンって思うべきよ」
しかし、ナチュラルにこういう考え方ができる花海咲季は、改めてすごいと思う。
彼女と比べたら、私の日々の基礎レッスンを始めとする「積み重ね」というものに対する意識の低さが浮き彫りになるかのようだ。
「でも、勝負の前で不安になる気持ちはわかるわ。……そうね、これはただの興味本位で聞くけど、あなたはどうして『
タッタッタ、と足音を重ねて響かせながら、私は一人で考える。
もちろん、考えるまでもなく、その質問に対する答えは私の中で既に出ている。
ただ、それをどう言葉にして伝えるかを考えたかった。
「──私は……ずっと前から、名前もないどこかの誰か、じゃなくて『何者か』になりたかったんだ。だから、トップアイドルに……『
私の答えに、同じペースで横を走る彼女は、少しばかり考えるような様子を見せた。
「なるほどね。それならあえて聞くけど、ただアイドルになるってだけじゃダメなのかしら?」
それは……どうだろう。
気持ち的には、ダメ、と即答したいところだけれど、その理由が自分の中ではあまりうまく纏まらない。
「うーん、まぁ、ほら。やるからにはやっぱり一番目指したいかなー……みたいな?」
考えても答えが出るまでは時間がかかりそうだと判断したので、結局、それっぽい答えを口にしてこの場を誤魔化すことを選んでしまった。
自分の気持ちを聞かれているのにこんなことをすることを選んでしまった自分自身に、少しばかりの嫌悪感を抱きながら。
私は、終わったらちゃんと考えておこう、と心に決めた。
「それはすっごくわかるわ!変なことを聞いてごめんなさい、勝負だもの。勝ちに行くのは当然ね!」
しかし、そんな私の胸中など知る由もない質問者は、むしろその答えに深く共感した様子で、うんうんと頷いて、心底納得したような様子を見せた。
「強力ライバルがたくさんいて、今回の『H.I.F』も、今からとっても楽しみだわ!だってこんな中で優勝したら、最っ高に気持ちいいこと間違いなしだもの!」
私は、そんな風に力強く宣言をする横顔を、無言で見つめる。
そうしたらちょうど、その向こう側から、私たちよりも起床の遅かった朝日が昇ってきたものだから。つい眩しくて、私は視線を逸らしてしまった。
「じゃあね、桃花。今回の『H.I.F』、首を洗って待ってなさい!」
私が、横から前へと視線を向け直したそのタイミングで。並走していた花海咲季がペースを上げて、そのまま走り去っていった。
ふと時計を見れば、彼女と話していた間も、走るペースはいつものペースをしっかり維持できていたことはわかった。
……と、まあ、そんな感じの一幕もあり。
結局最終的には、いつもよりも少し長い距離をいつもよりも少し早いペースで走ってしまった私は、いつも以上に大きな疲労に襲われつつ、寮へと戻った。
そうして、寮に戻ると。
「あ、桃花じゃん。おはよー」
箒を手に持った藤田ことねが、寮の玄関を掃除していた。
思い返せば、春頃に、プロデューサーに言われて他の生徒と接点を持つためにした、寮の掃除のアルバイト。
本来苦学生救済の意味を持つそれは、今は、まさしくお金に苦しむ苦学生である彼女が担当している。
まあ、今では彼女も立派にアイドルをやっているのだから、きっとこのアルバイトをすることになった時ほど切羽詰まった状況ではないのだろうけど……私と違ってちゃんとここまで続けているのは、彼女が途中で投げ出したりしない性格だからだろうか。
それに比べて私は、このアルバイトの詳細な条件を彼女に伝えて応募するよう誘導した挙句、一人あっさり辞めた無責任系アイドルである。
……まあ、あの時は彼女自身とてもお金に困っていたみたいだから、その件については、ただ押し付けただけなのにむしろ感謝されてしまっているみたいだったりするけれど。私自身は、普通にちょっと負い目として申し訳なく感じている。
なので、せめてゴミをポイ捨てとかしないようにするのは当然として、目立つゴミがあったりしたら拾うようにしようと思っているのだけど……掃除が行き届いているようで、そういうゴミを見かけるようなことはあんまりない。
「おはよー。朝からお掃除、お疲れ様です……!」
とりあえず、挨拶に答えるために、深々と頭を下げる。
……ちなみに、これは謝罪の意や感謝の意を伝えるためにそうしているのではなく、単に走り込みで疲れたから脱力して深々と腰と首を曲げてしまっただけの、ただのだらしない姿勢である。
「おー、桃花ちゃんこそおつかれ。……ていうか、なんかあったん?疲れてるっていうか、元気なさそうだけど」
そしてやはりというか何というか、彼女の人を見る目はとても鋭い。
……そういえばこれは前世の知識からの話にはなるけれど、彼女のアイドルとして優れた能力の中には単にダンスが上手いというだけでなく、周りをよく見ているから感覚だけで完璧なファンサができてしまう、とかもあったっけ。
私には、彼女みたいに他人のことを考えて色々と気を回すような芸当は……とてもできる自信がない。私は、彼女と違って本質的なところで自己中心的な自覚がある。
私は彼女の観察眼に観念して、走り込みの時のことを掻い摘んで説明した。
「うーん、『
「そうなんだよねー……なんていうか、そもそも考えてみると、私の『何者かになりたい』っていうのも大分ふわっとしてるし、もっとエモくてキラキラした理由があった方がいいのかなーみたいな?」
よくあるのが、誰かに憧れて……みたいな。
私の場合、それに近いと言えるかも知れないものはあるといえばあるけれど、それはあくまで、液晶の向こうにある創作上のものに対してであり……なんか違う。
「そんな難しく考えなくていいんじゃねーの?あたしなんて、お金が欲しくてアイドルになろうって決めたんだし」
それは……本人はそんな風に軽く言っているけれど、それが切実なものであるということも、それだけが理由でないことも、私は知識として知っている。
だけど、だからこそ、そこに踏み込むわけにはいかない。
他人であり競争相手でもある私にはそんな資格はないし、そもそもそんな覚悟も持ち合わせてない。
「そうだねー……うぅん、やっぱり考えすぎかなあ。……ありがとね、相談に乗ってもらっちゃって」
お礼を言い、学校に行く支度を整えるため、寮の自室へと戻ることにする。
「いいのいいの。……まあ、大事なことだとは思うけど、あんまり考えすぎるなよー」
背中にかけられた言葉に、どこか暖かいものを覚えながら。私は後ろ手にひらひらと手を振って、寮の玄関を通っていった。