ヤンデレ彼女を曇らせるために仲間を全員売ってTS悪堕ちしてみた   作:なほやん

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第12話 『触れた場所から、甘い痺れが広がる』

 最初に感じたのは、草の匂いだった。

 

 頬に冷たいものが触れている。朝露を含んだ草。目を開けると、白い靄の中にぼんやりと空が見えた。

 横たわっている。地面に。

 体を起こそうとして——腕の長さが合わなかった。

 

 手が短い。指が細い。掌が小さい。爪の形が変わっている。丸くて、薄くて、指先から伸びた桜貝のような爪。知らない手だった。

 

 呼吸が浅い。肋骨の内側が狭くなっている。息を吸っても肺の底まで届かない。三年間走り回った冒険者の体ではなかった。腕を突いて上体を起こすと、重心がおかしかった。腰が低い。骨盤が広がっている。体の(じく)が、知っている場所にない。

 

 立ち上がった。膝が震えた。

 内股になる。足の置き場がわからない。男の歩幅で踏み出そうとすると、骨盤の縁が筋肉を引っ張った。小さな歩幅を、体が要求している。

 裸足の指先が朝露の草を踏んだ。かつては重いブーツで土を蹴っていた足が、今は一枚の葉の湿り気まで過敏に拾ってしまう。戦士の足裏が、削ぎ落とされていた。

 

 髪が視界に落ちた。

 純白の髪が、腰まで流れていた。朝靄の中で、自分の髪だけが白く浮いている。指で一房つまんだ。絹のような手触り。こんな髪は知らない。

 

 声を出そうとした。喉が詰まった。声帯の位置が違う。振動の仕方が違う。

 咳き込むように息を吐いて、唇が震えた。

 

「——あ」

 

 女の声がした。

 高く、澄んで、朝の空気に溶ける声。

 自分の喉から出た。

 

 鎖骨に指を当てた。細い。あの頃の鎖骨は、もっと太く、角張っていた。今は薄い皮膚の下で華奢な骨が浮いている。指先が触れた場所から、微かな熱が広がった。

 

 下を見た。

 胸がある。白い肌の上に、柔らかい曲線が二つ。重い。呼吸するたびに揺れて、自分の存在を主張する。手を添えてみた——掌に収まる重さが、じんわりと温かかった。だがそれは自分の手で、自分の胸に触れているだけだ。何の感慨もなかった。

 

 腰が括れている。(へそ)の下に、なだらかな膨らみ。太腿の内側が滑らかに閉じている。

 ——消えていた。男の名残が。

 

 だが「女になった」という実感もなかった。消えたものの代わりに、何かが満ちたわけではない。空虚そのもの。器の底が抜けたままなのは、何も変わっていない。

 

 背中に、重さがあった。

 翼だ。白い翼が、肩甲骨の間から生えている。畳もうとした。動かない。翼は自分の意志に応えなかった。だが呼吸に合わせて羽が微かに揺れている。吸うと開き、吐くと閉じる。肺と連動した翼。私の心ではなく、私の肉体に縫い付けられた装置。

 

 ——匂いが鋭くなっていた。

 

 草の匂い。土の匂い。朝靄に含まれた水の匂い。そして——遠くから、煙の匂い。焚き火の匂い。

 

 以前の鼻では感じなかった層が、何重にも重なって押し寄せてくる。あの焚き火の残り香の中に、エダの薬草の匂いが混じっている。ミラの椿油の匂いが。——あの子たちの体から移った匂いが、まだ空気の中に漂っている。

 その懐かしい匂いを吸い込むと、新しく作り替えられた私の肺が、勝手に歓喜で痙攣した。——あの子たちの死臭さえ、この体には芳香でしかないらしい。

 

 四人の全てが、この白い肌の下に焼きついている。

 だが何も感じない。触っても。なぞっても。この体は確かに美しいのだろう。だが美しさは、空っぽの器の形に過ぎなかった。

 

 †  †  †

 

 最初に見つけたのは、羊飼いの少年だった。

 

 朝靄が晴れ始めた野原に、翼を広げた女が立っている。

 足元に血まみれの女が倒れている。

 

 少年は悲鳴を上げた。

 羊杖を取り落として、裸足のまま村に走った。

 

 村人が来た。

 最初は三人。それが十人になり、三十人になった。

 兵士が来た。槍を構えて——構えたまま、立ち止まった。

 神官が来た。白い法衣の老人が、杖を突きながら靄の中を歩いてきた。

 

 全員が止まった。

 

 朝日が、翼に当たった。

 白い羽が光を受けて、金色に、橙に、白に——朝靄の中で翼だけが輝いていた。

 

 神官の杖が落ちた。

 

「——光の天使だ」

 

 老人の声が震えていた。

 この地方には伝承がある。闇の災厄(さいやく)が世界を覆う時、光の翼を持つ天使が現れ、人々を救うと。

 

 神官が跪いた。

 兵士が跪いた。

 村人が、一人、また一人と、膝を折った。

 

「光の天使様だ!」

「伝説の——!」

「我らをお救いくださるのですね!」

 

 泣いている者がいた。手を合わせている者がいた。地面に額をつけている者がいた。

 

 翼が光っている。朝日を受けて、白く、眩しく。

 四人の命で白く燃える翼が。

 

 私は何も言わなかった。

 言えなかった。

 声の出し方を、まだ掴めていなかった。

 

 村人が一人跪くたびに、翼が勝手に震えて光の粉を振り撒いた。私の意志とは無関係に。この体は、祈りを餌にして光るようにできている。

 跪く人々を見下ろしながら——何も感じなかった。いや。ほんの一滴だけ、何かがあった。こいつらは、私が仲間を殺したことなど露ほども知らず、その血肉で編まれた翼を拝んでいる。——滑稽だった。その滑稽さだけが、かすかに心地よかった。

 

 兵士の一人が立ち上がり、私の足元を見た。

 リタが倒れている。片目を失い、全身傷だらけの体が、朝露の草に沈んでいた。まだ意識がない。

 

「この方は——天使様のお連れですか」

 

「……ええ」

 

 声が出た。

 澄んだ女の声。自分のものとは思えない声。初めて発した二音節が、朝の空気に綺麗に響いた。

 

「この方を、手当てしてください」

 

 ——死なれては困る。この女が目を開けて、私を「悪魔」と罵るまで、私のこの新しい心臓は本物になれない。

 

 兵士たちがすぐに動いた。

 リタが持ち上げられる。ぐったりとした体が、兵士たちの腕に揺れた。左目から乾いた血が頬を覆っている。自分で潰した目の痕。

 

 ——目が覚めた時、リタは何を見るだろう。

 

 自分を裏切った男が、女の姿で、天使として崇められている光景を。

 

 †  †  †

 

 災厄は、もう始まっていた。

 

 あの黒い塊——仲間を呑んだ暗い力の残滓が、世界の裏側から染み出している。冥座の力が溢れたのだ。私が天使になったことで、世界の均衡が崩れたのだろう。

 

 災厄を払えるのは、天使の力だけ。

 

 自分で火を点けて、自分で消す。

 

 民衆はそれを知らない。知る必要もない。ただ天使に救われたと信じればいい。信じれば、跪く。跪けば、崇める。崇めれば——

 

 何もない。その先に、何もなかった。

 

 †  †  †

 

 最初の村は、山間にあった。

 

 私が黒い塊を放った。

 

 意志一つで——翼の付け根に手を当てるだけで——闇が指先から滲み出した。黒い霧が地面を這い、塊の形を取った。肉と骨と牙が混じり合った、あの姿。かつて仲間を呑んだものと同じ——ただし今は、私の意志の糸で繋がれた操り人形だった。

 

 塊が村の入口に現れた。

 

 悲鳴が上がった。

 畑で鍬を握っていた男が腰を抜かした。子供を背負った母親が家に走り込んだ。老人が杖を取り落として地面を這った。小柄な娘が転んだ。銀色がかった髪が泥に汚れていく。——ノエルに似ていた。かつての私なら駆け寄っていた。今は、演出の一部として眺めていた。

 牛が暴れて柵を壊し、鶏が羽を散らして逃げ惑った。

 

 黒い腕が一本伸びた。納屋の壁を砕いた。木材が弾けて、藁が宙を舞った。

 もう一本。井戸の上屋が崩れた。水が黒い飛沫を浴びて濁った。

 

 十分。

 十分だけ、待った。

 

 ——頃合いだ。

 

 空から降りた。

 

 翼を広げて。白い光を纏って。朝日を背に——いや、朝日など要らなかった。翼自体が光っている。四人の命で燃える光が、闇の中で白く輝いた。

 

 光が黒い塊を包んだ。

 塊が悲鳴を上げた。——自分で作ったものに悲鳴を上げさせている。自分の右手が左手を殴って、右手に拍手する芝居。

 

 塊が崩れた。黒い飛沫が蒸発して、清浄な空気が戻った。

 

 村人が這い出してきた。

 

 泣いていた。

 膝をついて、泣いていた。

 

「光の天使様が——」

「お救いくださった——」

「ありがとうございます。ありがとうございます——」

 

 額を地面に擦りつけている。子供が母親にしがみついたまま、私を見上げている。畏怖と歓喜が混ざった目。

 

 翼が光を増した。村人の感謝を浴びて、羽が勝手に震えた。

 

 何も感じなかった。

 あの十分間——村人が逃げ惑い、納屋が壊れ、老人が地を這っている間——私の内側には何も起きなかった。加虐の快楽も、罪悪感も、達成感も。ただ手順を踏んだだけだった。

 

 空虚だった。

 自作自演の救済は、喉の渇きを癒すことさえできなかった。

 

 †  †  †

 

 王都に招かれた。

 

 玉座の間で、王が跪いた。白髪交じりの額を床に擦りつけて、「どうかこの国を」と言った。

 王妃が涙した。騎士団長が剣を捧げた。侍従が震えながら花を差し出した。

 

 大聖堂の前に出た。

 石段の上に立つと、広場を埋め尽くした群衆の顔が見えた。万の顔。万の目。全部がこちらを見ている。

 

 光の天使。光の天使。光の天使——

 

 歓声が体を叩いた。

 風圧のように。嵐のように。

 

 何も響かなかった。

 

 万の歓声を浴びても、王の(ぬか)づきを受けても、空虚の底を素通りしていく。

 

 ——冥座。お前が言った「永遠に満たしてやる」は、これか。

 

 問いかけても返事はなかった。世界の裏側に座した影は、もう何も語らない。用済みだ。天使は完成した。

 

 民衆が歓声を上げた。花を手向けた。涙を流した。祈りを捧げた。

 

 光の天使。光の天使。光の天使。

 

 歓声が体を叩いた。

 翼が歓声に応えて光を放った。私の意志ではない。民衆が叫ぶほど明るく、祈るほど白く——この体は、他人の信仰を餌にして燃える装置だった。

 

 何も響かなかった。

 渇きは消えた。だが代わりに、何もなくなった。感情の器ごと焼き潰されたように、歓声も涙も祈りも、肌の表面を滑って落ちていく。

 

 ただ——リタが運ばれていった方角を思い出した時だけ。

 

 翼の付け根に焼きついたノエルの刺繍が、熱い鉄を押し当てられたように疼いた。

 

 かつてそこにあったはずのものは、もうない。

 だが、かつて飢えが渦巻いていた場所に、瘢痕(はんこん)が残っている。傷跡だけが、まだ覚えている。何かを感じていた頃の、残像を。

 

 朝日が高くなっていく。

 翼が光を受けて、白く、白く燃えている。

 

 花びらが風に舞った。

 村人が涙を流している。

 兵士が剣を捧げている。

 神官が聖句を唱えている。

 

 私は微笑んだ。

 光の天使の、慈悲深い微笑みを。

 

 ——この体は、祈られるためにできている。

 

 そう思った瞬間、翼が一際強く光った。

 朝靄が晴れて、世界が白く染まった。

 

 誰も気づかない。

 光の中で、私の目だけが——リタの消えた方角を、追っていた。

 

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