ヤンデレ彼女を曇らせるために仲間を全員売ってTS悪堕ちしてみた 作:なほやん
ミラは星を見る時だけ、顔が違った。
いつもは黒い髪の奥に表情を隠している。だが夜番で空を見上げている横顔だけは、どこか遠くて、柔らかい。
その夜は俺も眠れなくて、焚き火の向こうでミラの横顔を見ていた。
月のない夜だった。星だけが空を埋めている。
「……起きてたのか」
ミラが視線を落とさずに言った。気配で察したのだろう。
「ああ」
「見るな」
「星か、お前の顔か」
「両方」
沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜる音だけが森に響いている。
ミラは立ち上がった。
剣を抜いた。
夜の素振りが始まった。月明かりもない暗闇の中で、剣の軌道だけが空気を裂いている。右腕で振り上げ、左腕で制動をかける。二本の腕が完璧に連動して、一つの弧を描く。
速かった。正確だった。
左腕の筋肉が、右腕と完璧に連動している。振り上げる力を左で制御し、戻す力を右で加速する。しなやかに伸びた左腕の筋が、闇の中でも一本一本見えるほど正確に動いていた。
両腕で剣を振るミラの姿は、ある種の完成形だった。無駄な力がない。無駄な動きもない。筋肉と骨格と意志が、一つの目的のために過不足なく噛み合っている。
「ミラ」
「黙って見てろ」
十回。二十回。三十回。
額に汗が浮き始めても、ミラは止まらなかった。
五十回目で止まった。息が上がっている。
「……ミラ。なんで剣を振る」
聞いたことがなかった。三年も一緒にいて。
ミラが剣を振る理由を、一度も聞いたことがなかった。
ミラは剣を鞘に納めた。
焚き火の傍に座り直して、水を飲んだ。
「折れないからだ」
「……剣が?」
「人は折れる。言葉は折れる。約束も折れる。——剣だけが、振った分だけ応えてくれる」
ミラの横顔は、また星を見ていた。
あの柔らかい顔ではなかった。もっと硬い、何かを堪えている顔だった。
「入団前。妹がいた。——守れなかった。言葉が足りなくて」
初めて聞く話だった。
三年間、ミラは過去の話を一切しなかった。
「それからは——言葉を信じるのをやめた。剣だけを信じた。剣は嘘をつかない」
焚き火の音が長い沈黙を埋めた。
「お前たちの前で振っているのは——約束だ。言葉にしたら壊れるから、剣で誓っている。毎晩。五十回」
俺は何も言えなかった。
ミラが毎晩素振りをしていたのは知っていた。習慣だと思っていた。——違った。あれはミラの祈りだった。
「団長」
「ん」
「見てしまった以上、忘れるな。——お前に見せた以上、お前は覚えている義務がある」
ミラが星を見上げた。
あの柔らかい顔が、ほんの一瞬だけ戻った。
「……綺麗だな」
星のことなのか、何のことなのか。
聞けないまま、夜が更けた。
† † †
ノエルは刺繍をしていた。
休息日の午後。焚き火のそばで膝の上に布を広げて、針を動かしている。銀青の髪が俯くたびに揺れる。大きすぎる盾を脇に置いて、小柄な体を丸めている姿は、戦場の彼女とは別人だった。
黙って見ていた。
一針、また一針。速くはない。だが一つ一つの刺し方が正確で、迷いがなかった。糸を引く指の動きが、盾を構える時と同じ——無駄のない、訓練された手つきだった。
「何を縫ってるんだ」
「……星の柄です」
小さな布だった。掌に収まるくらいの。
一針ずつが正確に揃っている。右手の針を、左手の指先が迷いなく受け止めている。あの盾を振るう太い指が、こんな細かい仕事をしていたのか。——これだけ器用なら、俺の服の綻びも一生治してくれるだろう。そう思って、すぐに忘れた。
俺はノエルの隣に座った。ノエルの手元を見ていた。
時間がかかっていた。一つの星を縫うのに、何十針も使っている。光の角度まで糸の色を変えて、星の瞬きを布の上に再現しようとしていた。
「これ、いつから」
「入団の前から。村にいた頃」
「村で何を縫ってたんだ」
「……お墓の花」
手が止まらなかった。針を動かしながら、声だけが少し低くなった。
「母が死んだ時、花を買うお金がなかったの。だから——縫った。布に、花を」
それが始まりだった。
墓に供える刺繍の花。枯れない花。雨にも風にも負けない、糸の花。
「それから——村の人が死ぬたび、頼まれるようになった。葬式の花を縫ってくれって」
ノエルの指が糸を切った。新しい色を通した。銀色の糸。星の光の色。
「私の刺繍は、全部お弔いから始まってる。生きてる人のために縫ったの——入団してからが、初めて」
俺を見た。
無表情だった。だが目の奥に、微かな光があった。
「団長が、綺麗だって言ってくれたから」
あの焚き火の夜。ノエルが星の柄を縫っているのを見て、俺が「綺麗だな」と言った。それだけのことだった。
「あの一言で——初めて、弔い以外のものを縫いたいと思った」
ノエルの口元が、かすかに緩んだ。
笑ったのだと思う。ノエルの笑い方は、これだ。
「団長のために縫ってるの。これも」
掌の上の星が、焚き火の光を受けて揺れていた。
† † †
ミラが通りかかった。
ノエルの手元を見て、足を止めた。
「ノエル。星か」
「はい」
「……いい色だ」
それだけ言って、去ろうとした。
ノエルが声をかけた。
「ミラさん。夜番の時——星、見てますよね」
ミラが振り返った。黒い髪の奥で、目が細くなった。
「見てるよ。ミラさん、星見てる時だけ顔が違うんですもん」
「見るな」
ノエルが笑った。ミラは怒らなかった。
二人が並んで空を見上げていた。ミラの両腕が組まれている。右腕も左腕も、まだそこにある。完全な姿で立っている。
ノエルが盾を脇に置いて、針を握っている。右腕も左腕も、まだそこにある。両手で布を押さえて、一針ずつ縫っている。
その光景を——覚えておかなければいけない気がした。理由はわからなかった。
† † †
夕暮れの廊下で、リタと鉢合わせた。
宿の角を曲がったところで。
「あ、団長」
「ん」
「今、ミラが中庭で素振りしてる。ノエルが横で刺繍してる。エダが二人のお茶入れてる。フィーネが的当てしながら冗談言ってる」
「……俺は」
「団長は今あたしの前にいるじゃん」
リタが笑った。
いつもの笑顔だった。だが——一瞬だけ、目が翳った。
「ねえ団長。みんないい子だよね」
「ああ」
「あたしだけじゃ足りないかもしんないけどさ。五人いれば——団長のこと、守れると思ってたんだ」
守る。
リタの口から出た言葉に、少し驚いた。
「守ってもらう側なのは俺だ」
「違うよ。あたしたちが守ってるのは——団長の、ここ」
リタが自分の胸を指した。
「たまに、すっごい遠い目するでしょ。あれ見ると——あたし、怖くなる。団長がどこかに行っちゃいそうで」
笑っていなかった。
窓から差し込む夕陽がリタの横顔を橙色に染めている。焦げ茶の髪が光を透かして赤みを帯びていた。
「……どこにも行かないよ」
「嘘つき」
三つ目のばか——の手前で、リタは言葉を変えた。だが声は同じだった。あの消えかけの音程。
「——嘘でもいいから、そう言ってて」
リタが背中を向けた。
廊下を歩いていく。軽い足音。いつもの足音だ。
その背中が角を曲がる直前——リタが壁にもたれて、しゃがみ込んだ。
膝を抱えている。
暗かった。
廊下は夕陽が届かない。リタの目が闇に沈んでいた。暗がりの中で漏れた吐息が——あの三つ目の「ばか」に似た響きだった。
瞳の中に、窓の光も、壁の反射も、何も映っていなかった。光を全部飲み込んで、何も返さない。
足が止まった。
声をかけようとした。——かけられなかった。
あの目を見た瞬間、体の奥で何かが動いた。名前のないものだった。痛みでも快感でもない。ただ——目が離せなかった。
リタが顔を上げた。
一瞬で表情が戻った。
「ん? なに、団長。ついてきたの?」
「いや——何でもない」
「なにそれ。変なの」
笑って、立ち上がって、背中を向けた。
「——おやすみ」
声だけが、笑っていなかった。
部屋に戻って、寝台に座った。
ミラの剣の弧を思い出した。完全な、二本の腕で描く弧。
ノエルの針の動きを思い出した。星を縫う、器用な指。
四人の声。四人の手。四人の温度。
確かに感じている。温かいと、思っている。
なのに——全部が、指の隙間から零れていく。底に何も溜まらない。掌で水を掬っているような。
ミラの祈りも、ノエルの弔いの花も——何もかもが、胸の奥を素通りしていく。
そしてリタの、あの目。
あの目を見た瞬間だけ——何かが違った。何が違うのかわからない。ただ足が止まった。それだけのことだ。
窓の外で、星が瞬いていた。
ノエルが好きだった星。ミラが見上げていた星。
綺麗だった。綺麗だと思えた。——なのにその感想すら、胸を素通りして消えていった。