ヤンデレ彼女を曇らせるために仲間を全員売ってTS悪堕ちしてみた 作:なほやん
三日目の朝、街道沿いの森がおかしかった。
鳥の声がない。獣の気配もない。木々は立っているが、葉が全て裏返っている。風はないのに。
「止まれ」
ミラが剣を抜いた。
「魔力の残滓がある。濃い。——こんな濃度は初めてだ」
地面が震えた。
森の奥から、何かが来る。木を薙ぎ倒す音。地を踏み砕く重さ。
そしてあの匂い——魔獣の血と腐肉の混じった、甘い腐臭。
現れたのは、獣の形をしていなかった。
黒い塊だった。
肉と骨と牙が混じり合って、一つの形を成している。目が十個ある。腕が六本ある。足は——数えられなかった。
上位魔獣。いや、それ以上だ。
「——全員、構え」
俺の声は震えていなかった。
震えていたのは、手だった。
リタが安物の剣を抜いた。
ミラが両手で構えた。
エダが術式を編み始めた。
フィーネが矢をつがえた。
ノエルが——片腕で曲がった盾を構えて、俺の前に立った。
もう万全じゃない。ノエルの右腕はもうない。盾を支える左腕が震えている。それでも退かない。
「団長。後ろに」
「ノエル、お前——」
「約束しましたから。団長は後ろにいてください」
約束。ミラと同じ言葉。
この団の人間は、どうしてこう——
黒い塊が咆哮した。音ではなかった。空気ごと内臓を揺さぶる振動。
フィーネが矢を放った。矢は黒い肉に突き刺さり、呑み込まれて消えた。
十個の目が、俺たちを見た。——いや、見定めていた。どの一人を壊せば、この団長が一番喜ぶか。そう選別しているかのように、目が一つずつ仲間の上を移っていった。
† † †
いつもの布陣。いつも通りに、やるだけだ。
いつも通りには、いかなかった。
黒い塊が吠えた。
音じゃなかった。空気が震えたのだ。衝撃波が五人を吹き飛ばした。
フィーネの矢が弾かれた。
エダの術式が霧散した。
リタの剣が——刃が、触れた瞬間に罅割れた。
「嘘——」
リタの声が凍った。
ミラの剣が黒い腕を斬りつけた。肉を裂いた。だが断面から新しい腕が生えた。裂けた肉の奥に、虚ろな目が覗いていた。人の目だ。再生するたびに、喰われた者たちの顔が表面に浮かんでは沈む。殺せない。
「退却——」
叫んだ瞬間、黒い塊の目が光った。
十個の目が、一斉に俺たちを見た。
体が動かなかった。
金縛りだ。全員が立ったまま、動けない。
黒い腕が伸びた。
エダに向かって。
「——エダ!」
ノエルが動いた。
金縛りの中で、唯一。残った片腕で盾を構えて、エダの前に立った。
腕が盾を叩いた。盾が曲がった。ノエルの体が吹き飛んだ。
木に叩きつけられて、地面に落ちた。
動かない。
「ノエル!!」
金縛りが緩んだのは一瞬だった。
ミラが跳んだ。残った剣で黒い塊の目を一つ潰した。
悲鳴が上がった。塊のものか、ミラのものか、わからなかった。
ミラの左腕が、黒い飛沫を浴びて焼けていた。
リタが折れた剣を投げ捨て、腰の短剣を抜いた。
フィーネが至近距離から矢を射込んだ。目を三つ潰した。
エダが最大出力の術式を叩き込んだ。
白い光が黒い塊を包んだ。肉が焼ける音。腐臭が倍増した。
だが、止まらない。
腕が振られた。
エダが飛ばされた。
地面を転がって、木の根に叩きつけられた。
口から血を吐いた。
フィーネが駆け寄った。
その背中に、黒い腕が振り下ろされた。
リタが割り込んだ。短剣で腕を逸らした。だが衝撃で膝をついた。
目が六つ残っている。腕がまだ四本動いている。
俺たちは死ぬ。
このままでは、全員死ぬ。
その時——ミラが動いた。
焼けた左腕を庇いもせず、黒い塊の腹の下に潜り込んでいた。
右手の剣を腹の底に突き立てた。
「——紋様が、ある」
ミラの声が聞こえた。かすれて、血混じりの声。
「腹の奥に。核みたいなものが——ここを壊せば——」
黒い腕がミラを掴んだ。
握り潰すように。
「ミラ!!」
リタが跳んだ。短剣を逆手に持ち、黒い塊の腹に突き刺した。ミラが示した場所に。
何かが割れる音がした。
黒い塊が痙攣した。目が消え、腕が萎え、肉が崩れ始めた。
ミラを掴んでいた腕が力を失い、ミラが地面に落ちた。
崩れていく黒い肉の中から、何かが転がり出た。
小さな杯だった。
掌に収まるほどの、黒い杯。縁に赤い紋様が刻まれている。
あの紋様だった。魔獣の腹、洞窟の壁、エルフェンの石壁——全部、同じ形。
杯が、脈打っていた。心臓のように。
俺はそれを拾い上げた。
温かかった。
空の杯なのに、掌の中で鼓動が伝わってくる。
その瞬間——杯の底から声が聞こえた。
声ではなかった。意志だった。
言葉にならない意志が、杯から胸に流れ込んできた。
——お前の渇きを、知っている。
杯を握る手に、力がこもった。
手放せなかった。
「団長」
リタの声で我に返った。
「ミラが——ノエルが——」
杯をそっと懐にしまった。
誰も見ていないはずだった。全員が、倒れた仲間を見ていた。
——だがリタだけが、一瞬こちらを見ていた気がした。杯ではなく、俺の口元に浮かんだ何かを。弔いの場で堪えきれずに溢れた、生理的な微笑みを。リタの片目が凍りついていた。
ノエルが動かない。木に叩きつけられた傷口から、黒い筋が広がっていた。
ミラの左腕は、肘から先がなかった。黒い飛沫に焼かれて、炭のようになっている。
「エダはノエルを!」
エダが這いずってノエルに駆け寄った。口元の血を拭きもせず、震える手で術式を唱えた。
光が弾かれた。もう一度。また弾かれた。
「なんで——なんで効かないの」
エダの声が裏返った。
その横で、ミラが自分の左腕を見下ろしていた。
「……壊死してる。切るしかないな」
ミラが言った。
ノエルを見た。ノエルの右腕がない方を。
「——これでノエルと同じだな」
ノエルの目が見開かれた。
何か言おうとして、言葉にならなかった。
リタがミラの腕を切った。泣きながら。
エダはノエルから手を離さなかった。
光が弾かれても、何度でも術式を重ねた。
「私が治す。絶対に治す。ノエルは死なせない」
エダの手が、ノエルの傷口の上で青白く光っていた。
冷たい指が、震えていた。
† † †
ノエルが死んだ。
エダは三日間、眠らなかった。
術式を重ねた。何度も。何度も。手が凍えるまで。指先が紫になるまで。
効かなかった。
三日目の朝、ノエルが目を開けた。
「団長」
「ここにいる」
「……すみません」
「何がだ」
「盾、壊れちゃいました」
あの黒い塊の一撃で、ノエルの盾は曲がっていた。使い物にならない。
「盾なんかいくらでも——」
「左腕ももうないし。盾がなくて、腕もなくて。団長の前に立てないですね」
「立てる。治ったら——」
「団長」
ノエルが、かすかに首を振った。
「私、わかってます」
黒い筋が首まで登っていた。肌の下を、血管に沿って何かが侵食している。
「エダの顔を見ればわかります。治せない顔をしてる」
エダが声を殺した。
「……ごめん。ごめんね、ノエル。私が——もっと早く——」
「エダのせいじゃないです」
ノエルが空を見上げた。
木々の隙間から、朝の光が差し込んでいる。
「星が見たかったな。夜まで、もつかな」
「もつ。もたせる」
「……嘘ですね」
ノエルが笑った。
「団長」
「ん」
「一つだけ。聞いていいですか」
「なんでも聞け」
「私のこと、覚えていてくれますか」
声が出なかった。
「盾しか取り柄がなくて、話もつまらなくて、星が好きで、刺繍が好きなだけの——こんな私のこと」
「——忘れるわけないだろ」
「そうですか」
目を閉じた。
「じゃあ、いいです。それだけで」
——そう言って、目を閉じかけて。
ノエルの手が動いた。残った左手が、ポケットを探っている。
「……団長。もう一つだけ」
「なんだ」
取り出したのは、針と糸だった。
小さな刺繍針。ノエルの指に馴染んだ、使い込まれた針。
「これ——エダに。お願いします」
「エダに?」
「縫うの上手でしょって、言ってくれたの。入団した日に。エダだけ」
エダの顔が歪んだ。
「私の盾は団長を守れなかった。でも、この針は——エダの手なら、まだ誰かを縫える。団長のことも、縫ってあげてね」
ノエルは最後まで泣かなかった。
昼過ぎに、黒い筋が心臓に届いた。
息が浅くなり、指先が冷たくなった。
俺はノエルの左手を握っていた。
残った手が、俺の手を握り返した。
弱く。でも、確かに。
「団長」
「ああ」
「……前に、立てました」
手から力が抜けた。
ノエルの顔は、穏やかだった。
目を閉じて、口元にかすかな笑みを残して。
空を見ていなかった。
最後に見ていたのは、俺の顔だった。
ポケットに手を入れた。
あの刺繍がまだある。星の柄の、小さな布。
隣に、ノエルの針がある。
握り締めた。
† † †
墓は、丘の上に作った。
星がよく見える場所を、フィーネが選んだ。
ミラが片腕で穴を掘った。手伝おうとしたら「触るな」と言われた。
ミラの右手が何度も止まった。土に刺さったスコップを握り直すたびに、ない左腕の方を見た。あの言葉——「これでノエルと同じだな」。ノエルが聞いて、どんな顔をしたか。ミラはきっと、一生忘れない。
リタがノエルの体を拭いた。
丁寧に。傷の一つ一つを、布で拭った。
声をかけながら。誰にも聞こえないくらい小さな声で。
エダは座り込んだまま動かなかった。
両手を見つめていた。何も治せなかった手を。
膝の上に、ノエルの針が置かれていた。
フィーネが野花を摘んできた。白い小さな花だった。
ノエルの胸の上に、そっと置いた。
ハイレム団の旗をかけた。——埋める前に、引き戻した。
ノエルの腕から移った赤と、魔獣の黒が混ざり合い、もとの紋章を塗り潰している。——美しかった。そう思った自分の目を、閉じることができなかった。
埋めた。
五人の杯が、四つになった。
誰も泣いていなかった。
日が暮れた。
四人が丘の上に座ったまま動かなかった。
星が出た。
満天の星だった。ノエルが好きだった星。
ミラが空を見上げていた。片腕で膝を抱えて。
その口元が、かすかに動いた。
「……綺麗だな」
ノエルが言ったのと、同じ言葉だった。
俺は丘の上に立って、仲間の顔を見た。
リタ。剣が折れた女。
ミラ。左腕を失った女。
エダ。何も治せなかった女。
フィーネ。冗談を言わなくなった女。
四人。
まだ四人いる。
懐の杯が脈打っていた。
ノエルが死んでから、鼓動が速くなっている。杯を握った瞬間、ノエルの最期の顔が脳裏に蘇った。穏やかな笑み。「前に、立てました」。——その記憶が、脳を焼くほど濃密だった。
——お前の渇きを、知っている。
杯が囁いたのではない。俺の中の何かが、杯に触れたことで声になっただけだ。
仲間の愛では埋まらなかった。
屈辱で、一瞬だけ埋まった。
仲間の死で——。
俺は自分の胸に手を当てた。
そこには確かに穴があった。
だが——その淵を、熱い質量が満たしていた。
胃の底が裏返った。酸が喉を灼いた。
ノエルが死んで、胸の底が温かい。
あってはならない。
なのに——温かかった。ノエルを土に埋めた時の重み、エダの涙、ミラの片腕——その全部が、みぞおちに流れ込んで質量に変わっていく。
悲しいはずだ。泣くべきだ。——なのに脳が「もっとだ」と命じている。
俺は、ノエルの死を食べている。
杯が懐で鳴っていた。
俺はそれを握りしめた。
割れるほど強く。
割れなかった。
代わりに、杯が俺の手に馴染んだ。
まるで最初から、俺の体の一部だったかのように。