ヤンデレ彼女を曇らせるために仲間を全員売ってTS悪堕ちしてみた   作:なほやん

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第9話 『前に、立てました』

 三日目の朝、街道沿いの森がおかしかった。

 

 鳥の声がない。獣の気配もない。木々は立っているが、葉が全て裏返っている。風はないのに。

 

「止まれ」

 

 ミラが剣を抜いた。

 

「魔力の残滓がある。濃い。——こんな濃度は初めてだ」

 

 地面が震えた。

 

 森の奥から、何かが来る。木を薙ぎ倒す音。地を踏み砕く重さ。

 そしてあの匂い——魔獣の血と腐肉の混じった、甘い腐臭。

 

 現れたのは、獣の形をしていなかった。

 

 黒い塊だった。

 肉と骨と牙が混じり合って、一つの形を成している。目が十個ある。腕が六本ある。足は——数えられなかった。

 

 上位魔獣。いや、それ以上だ。

 

「——全員、構え」

 

 俺の声は震えていなかった。

 震えていたのは、手だった。

 

 リタが安物の剣を抜いた。

 ミラが両手で構えた。

 エダが術式を編み始めた。

 フィーネが矢をつがえた。

 

 ノエルが——片腕で曲がった盾を構えて、俺の前に立った。

 

 もう万全じゃない。ノエルの右腕はもうない。盾を支える左腕が震えている。それでも退かない。

 

「団長。後ろに」

「ノエル、お前——」

「約束しましたから。団長は後ろにいてください」

 

 約束。ミラと同じ言葉。

 この団の人間は、どうしてこう——

 

 黒い塊が咆哮した。音ではなかった。空気ごと内臓を揺さぶる振動。

 フィーネが矢を放った。矢は黒い肉に突き刺さり、呑み込まれて消えた。

 

 十個の目が、俺たちを見た。——いや、見定めていた。どの一人を壊せば、この団長が一番喜ぶか。そう選別しているかのように、目が一つずつ仲間の上を移っていった。

 

  †  †  †

 

 いつもの布陣。いつも通りに、やるだけだ。

 

 いつも通りには、いかなかった。

 

 黒い塊が吠えた。

 音じゃなかった。空気が震えたのだ。衝撃波が五人を吹き飛ばした。

 

 フィーネの矢が弾かれた。

 エダの術式が霧散した。

 リタの剣が——刃が、触れた瞬間に罅割れた。

 

「嘘——」

 

 リタの声が凍った。

 

 ミラの剣が黒い腕を斬りつけた。肉を裂いた。だが断面から新しい腕が生えた。裂けた肉の奥に、虚ろな目が覗いていた。人の目だ。再生するたびに、喰われた者たちの顔が表面に浮かんでは沈む。殺せない。

 

「退却——」

 

 叫んだ瞬間、黒い塊の目が光った。

 十個の目が、一斉に俺たちを見た。

 

 体が動かなかった。

 金縛りだ。全員が立ったまま、動けない。

 

 黒い腕が伸びた。

 エダに向かって。

 

「——エダ!」

 

 ノエルが動いた。

 金縛りの中で、唯一。残った片腕で盾を構えて、エダの前に立った。

 

 腕が盾を叩いた。盾が曲がった。ノエルの体が吹き飛んだ。

 木に叩きつけられて、地面に落ちた。

 

 動かない。

 

「ノエル!!」

 

 金縛りが緩んだのは一瞬だった。

 ミラが跳んだ。残った剣で黒い塊の目を一つ潰した。

 

 悲鳴が上がった。塊のものか、ミラのものか、わからなかった。

 ミラの左腕が、黒い飛沫を浴びて焼けていた。

 

 リタが折れた剣を投げ捨て、腰の短剣を抜いた。

 フィーネが至近距離から矢を射込んだ。目を三つ潰した。

 

 エダが最大出力の術式を叩き込んだ。

 白い光が黒い塊を包んだ。肉が焼ける音。腐臭が倍増した。

 

 だが、止まらない。

 腕が振られた。

 

 エダが飛ばされた。

 地面を転がって、木の根に叩きつけられた。

 口から血を吐いた。

 

 フィーネが駆け寄った。

 その背中に、黒い腕が振り下ろされた。

 

 リタが割り込んだ。短剣で腕を逸らした。だが衝撃で膝をついた。

 

 目が六つ残っている。腕がまだ四本動いている。

 

 俺たちは死ぬ。

 このままでは、全員死ぬ。

 

 その時——ミラが動いた。

 

 焼けた左腕を庇いもせず、黒い塊の腹の下に潜り込んでいた。

 右手の剣を腹の底に突き立てた。

 

「——紋様が、ある」

 

 ミラの声が聞こえた。かすれて、血混じりの声。

 

「腹の奥に。核みたいなものが——ここを壊せば——」

 

 黒い腕がミラを掴んだ。

 握り潰すように。

 

「ミラ!!」

 

 リタが跳んだ。短剣を逆手に持ち、黒い塊の腹に突き刺した。ミラが示した場所に。

 

 何かが割れる音がした。

 

 黒い塊が痙攣した。目が消え、腕が萎え、肉が崩れ始めた。

 ミラを掴んでいた腕が力を失い、ミラが地面に落ちた。

 

 崩れていく黒い肉の中から、何かが転がり出た。

 

 小さな杯だった。

 掌に収まるほどの、黒い杯。縁に赤い紋様が刻まれている。

 

 あの紋様だった。魔獣の腹、洞窟の壁、エルフェンの石壁——全部、同じ形。

 

 杯が、脈打っていた。心臓のように。

 

 俺はそれを拾い上げた。

 

 温かかった。

 空の杯なのに、掌の中で鼓動が伝わってくる。

 

 その瞬間——杯の底から声が聞こえた。

 

 声ではなかった。意志だった。

 言葉にならない意志が、杯から胸に流れ込んできた。

 

 ——お前の渇きを、知っている。

 

 杯を握る手に、力がこもった。

 

 手放せなかった。

 

「団長」

 

 リタの声で我に返った。

 

「ミラが——ノエルが——」

 

 杯をそっと懐にしまった。

 誰も見ていないはずだった。全員が、倒れた仲間を見ていた。

 ——だがリタだけが、一瞬こちらを見ていた気がした。杯ではなく、俺の口元に浮かんだ何かを。弔いの場で堪えきれずに溢れた、生理的な微笑みを。リタの片目が凍りついていた。

 

 ノエルが動かない。木に叩きつけられた傷口から、黒い筋が広がっていた。

 ミラの左腕は、肘から先がなかった。黒い飛沫に焼かれて、炭のようになっている。

 

「エダはノエルを!」

 

 エダが這いずってノエルに駆け寄った。口元の血を拭きもせず、震える手で術式を唱えた。

 光が弾かれた。もう一度。また弾かれた。

 

「なんで——なんで効かないの」

 

 エダの声が裏返った。

 

 その横で、ミラが自分の左腕を見下ろしていた。

 

「……壊死してる。切るしかないな」

 

 ミラが言った。

 ノエルを見た。ノエルの右腕がない方を。

 

「——これでノエルと同じだな」

 

 ノエルの目が見開かれた。

 何か言おうとして、言葉にならなかった。

 

 リタがミラの腕を切った。泣きながら。

 

 エダはノエルから手を離さなかった。

 光が弾かれても、何度でも術式を重ねた。

 

「私が治す。絶対に治す。ノエルは死なせない」

 

 エダの手が、ノエルの傷口の上で青白く光っていた。

 冷たい指が、震えていた。

 

  †  †  †

 

 ノエルが死んだ。

 

 エダは三日間、眠らなかった。

 術式を重ねた。何度も。何度も。手が凍えるまで。指先が紫になるまで。

 

 効かなかった。

 

 三日目の朝、ノエルが目を開けた。

 

「団長」

「ここにいる」

「……すみません」

「何がだ」

「盾、壊れちゃいました」

 

 あの黒い塊の一撃で、ノエルの盾は曲がっていた。使い物にならない。

 

「盾なんかいくらでも——」

「左腕ももうないし。盾がなくて、腕もなくて。団長の前に立てないですね」

「立てる。治ったら——」

「団長」

 

 ノエルが、かすかに首を振った。

 

「私、わかってます」

 

 黒い筋が首まで登っていた。肌の下を、血管に沿って何かが侵食している。

 

「エダの顔を見ればわかります。治せない顔をしてる」

 

 エダが声を殺した。

 

「……ごめん。ごめんね、ノエル。私が——もっと早く——」

「エダのせいじゃないです」

 

 ノエルが空を見上げた。

 木々の隙間から、朝の光が差し込んでいる。

 

「星が見たかったな。夜まで、もつかな」

「もつ。もたせる」

「……嘘ですね」

 

 ノエルが笑った。

 

「団長」

「ん」

「一つだけ。聞いていいですか」

「なんでも聞け」

「私のこと、覚えていてくれますか」

 

 声が出なかった。

 

「盾しか取り柄がなくて、話もつまらなくて、星が好きで、刺繍が好きなだけの——こんな私のこと」

「——忘れるわけないだろ」

「そうですか」

 

 目を閉じた。

 

「じゃあ、いいです。それだけで」

 

 ——そう言って、目を閉じかけて。

 ノエルの手が動いた。残った左手が、ポケットを探っている。

 

「……団長。もう一つだけ」

「なんだ」

 

 取り出したのは、針と糸だった。

 小さな刺繍針。ノエルの指に馴染んだ、使い込まれた針。

 

「これ——エダに。お願いします」

「エダに?」

「縫うの上手でしょって、言ってくれたの。入団した日に。エダだけ」

 

 エダの顔が歪んだ。

 

「私の盾は団長を守れなかった。でも、この針は——エダの手なら、まだ誰かを縫える。団長のことも、縫ってあげてね」

 

 ノエルは最後まで泣かなかった。

 

 昼過ぎに、黒い筋が心臓に届いた。

 息が浅くなり、指先が冷たくなった。

 

 俺はノエルの左手を握っていた。

 

 残った手が、俺の手を握り返した。

 弱く。でも、確かに。

 

「団長」

「ああ」

「……前に、立てました」

 

 手から力が抜けた。

 

 ノエルの顔は、穏やかだった。

 目を閉じて、口元にかすかな笑みを残して。

 

 空を見ていなかった。

 最後に見ていたのは、俺の顔だった。

 

 ポケットに手を入れた。

 あの刺繍がまだある。星の柄の、小さな布。

 隣に、ノエルの針がある。

 

 握り締めた。

 

  †  †  †

 

 墓は、丘の上に作った。

 星がよく見える場所を、フィーネが選んだ。

 

 ミラが片腕で穴を掘った。手伝おうとしたら「触るな」と言われた。

 ミラの右手が何度も止まった。土に刺さったスコップを握り直すたびに、ない左腕の方を見た。あの言葉——「これでノエルと同じだな」。ノエルが聞いて、どんな顔をしたか。ミラはきっと、一生忘れない。

 

 リタがノエルの体を拭いた。

 丁寧に。傷の一つ一つを、布で拭った。

 声をかけながら。誰にも聞こえないくらい小さな声で。

 

 エダは座り込んだまま動かなかった。

 両手を見つめていた。何も治せなかった手を。

 膝の上に、ノエルの針が置かれていた。

 

 フィーネが野花を摘んできた。白い小さな花だった。

 ノエルの胸の上に、そっと置いた。

 

 ハイレム団の旗をかけた。——埋める前に、引き戻した。

 ノエルの腕から移った赤と、魔獣の黒が混ざり合い、もとの紋章を塗り潰している。——美しかった。そう思った自分の目を、閉じることができなかった。

 

 埋めた。

 

 五人の杯が、四つになった。

 

 誰も泣いていなかった。

 

 日が暮れた。

 四人が丘の上に座ったまま動かなかった。

 

 星が出た。

 満天の星だった。ノエルが好きだった星。

 

 ミラが空を見上げていた。片腕で膝を抱えて。

 その口元が、かすかに動いた。

 

「……綺麗だな」

 

 ノエルが言ったのと、同じ言葉だった。

 

 俺は丘の上に立って、仲間の顔を見た。

 

 リタ。剣が折れた女。

 ミラ。左腕を失った女。

 エダ。何も治せなかった女。

 フィーネ。冗談を言わなくなった女。

 

 四人。

 まだ四人いる。

 

 懐の杯が脈打っていた。

 ノエルが死んでから、鼓動が速くなっている。杯を握った瞬間、ノエルの最期の顔が脳裏に蘇った。穏やかな笑み。「前に、立てました」。——その記憶が、脳を焼くほど濃密だった。

 

 ——お前の渇きを、知っている。

 

 杯が囁いたのではない。俺の中の何かが、杯に触れたことで声になっただけだ。

 

 仲間の愛では埋まらなかった。

 屈辱で、一瞬だけ埋まった。

 仲間の死で——。

 

 俺は自分の胸に手を当てた。

 

 そこには確かに穴があった。

 だが——その淵を、熱い質量が満たしていた。

 

 胃の底が裏返った。酸が喉を灼いた。

 

 ノエルが死んで、胸の底が温かい。

 あってはならない。

 なのに——温かかった。ノエルを土に埋めた時の重み、エダの涙、ミラの片腕——その全部が、みぞおちに流れ込んで質量に変わっていく。

 悲しいはずだ。泣くべきだ。——なのに脳が「もっとだ」と命じている。

 俺は、ノエルの死を食べている。

 

 杯が懐で鳴っていた。

 

 俺はそれを握りしめた。

 割れるほど強く。

 

 割れなかった。

 代わりに、杯が俺の手に馴染んだ。

 まるで最初から、俺の体の一部だったかのように。

 

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