夜這う星屑、集いて統ばる   作:あるばさむ

1 / 5
1. 夏の或る日

 自然に成るものだと思っていた。

 全てを失ったのは、中学三年の夏だった。

 喜びも楽しみも、仲間との絆も、勝ち取った名誉も、スポットライトの熱も、背筋を伝う冷や汗も、鼓膜を叩く轟音も、私の喉から絞り出される声も、それらに関わる何もかも。

 全部ひっくるめて、私は駄目になった。

 私が夢を望んだ結果だ。因果の起点は私にあり、相応しい応報が下っただけのこと。誰もがこうなることを予感していた。私だけが見ないふりをしていた。

 私は、こんな結末を望んではいなかった。

 世界の中心が私じゃなかったのは解っている。私の意見や技能で周りのみんなが納得してくれるわけないってことぐらい承知している。

 だけど、あんまりだ。

 こんな対価を求められるほど、酷い有様だったのか?

 私が私である証明。それでなければ払えないものなのか?

 奪われ、その後の私には何が残っている?

 空っぽな人生を何十年も地道に消化していくことこそが、私に払える対価なのか?

 私はそこまで罪深かったのか?

 私の罪とは何だ?

 私はそんなに悪いことをしたのか?

 誰に?

 誰に謝ればいい?

 誰に赦しを請えばいい?

 誰に許しを請えば、こんな惨たらしい現実を巻き戻してくれる?

 

 私が欲しかったのはこんなものじゃない。

 こんな、

 こんなものは────。

 

 

 ☆

 

 

 カキーン、と気持ちの良い音を伸ばして、青い初夏の空を白球が飛んでいった。

 制服姿の男子達が球の行方を犬のように追いかける。レフト側にバウンドして落ちた球を控えていた一人がを素手で掴み、一塁へ慌てて送球。しかし不安定な姿勢で投げたものだからあらぬ方向にすっぽ抜けてしまい、非難轟々の声がグラウンドの各ポジションから挙がる。ヒットを打った本人は悠々と二塁まで走り、局面は1ー1の四回裏、一死二塁と、後攻側が追加点のチャンスを迎える──。

 

 眼下に広がる公立高校のグラウンドは都心から離れていることもあって無駄に広く、普段は弱小野球部が放課後に練習しているスペースで、体力を持て余した男子達が草野球に興じている。その一方で、この暑い季節でも別の場所でサッカーに汗を流す男子達にそれぞれのグループを取り巻く女子がキャーキャーと喧しく喚いていた。

 

 そんな景色を、立入禁止の校舎屋上、給水塔の日陰で眺める女子がいた。

 

 さして頓着していない性格を表すように、伸ばし放しの黒髪は少し荒れていた。学校指定の制服もだらしなく着崩している。すっきりとした目鼻立ちやスレンダーな体つきなど、素材は悪くないが手入れをしていない。しばらく鏡を見ることすらしていないのだろう。不良、と言うほどに迫力のあるものではないが、下で嬌声を上げている同性同年齢の群れとはまた異質な佇まいだった。

 

 時は昼休みのど真ん中。どこにでもある凡庸な風景を見渡しながら、紙パックの苺オレをずるずると啜るのが、彼女の日課だった。

 

 学校側の警備の怠慢なのか、屋上へ通じる鍵は何故か壊れていて普通に開く。扉に×状のテープをべったりと貼り付けるだけで立入禁止を主張するというお粗末さだが、小柄な彼女は隙間を通れば難なく侵入できた。

 今時の学校はどこの屋上も立ち入れないようになっているが、誰もがその常識を信じ切っているからこそ、鍵穴に封もされていないことを知っているのは彼女ぐらいのものだった。校舎の職員室やグラウンドからは絶妙に見えない角度なので、行き場のない彼女にはこの場所が何より有り難い。

 日差しと気温はうんざりするほどに暑苦しいものの、高所に吹く風の強さと日陰で、快適とは言わないまでも長居は出来る秘密の場所。

 

 教師たちの目を盗んで優雅に昼休みを満喫している、というわけではない。彼女は始業から一時間ほど遅れて登校し、それからずっとここで惰眠を貪っていた。

 

 家に引きこもるのを両親が許さず、居場所が無いから仕方なく外出しているというだけで、彼女は登校するものの授業に出席していない。他の生徒が真面目に授業を受けている時間、廊下に人通りが無い隙を見計らって屋上への階段を上り、コンビニで買った菓子やジュースを摘んだりスマホをいじったりで一日を費やす。保健室登校よりは居心地が良い。誰にも見つからず、金の掛からない場所を探した結果、この施錠されていない屋上に偶然行き当たったというわけだ。

 

 学校には通わなければならないとかいう固定概念はとうに打ち崩されている。SNSが普及した社会が、そこに生きる人々がわざわざ教えてくれているのだ。辛いことや嫌なことからは逃げてもいい、真面目に学校に通うだけが人生ではない、もっと気楽に生きても良い──発信している側には全くそんな意図はないだろうに、受け取る側がひねくれて曲解すれば、悪癖を肯定する後押しになってしまう。無論、彼女自身もそれが下らない屁理屈だということは理解している。だが、薄っぺらい理論武装でも有ると無いとでは大違いだ。事実、彼女はこれまでの人生で今が一番気楽であると実感している。

 

 何事にも熱心に打ち込まなければならなかった日々から解放され、あらゆる物事の意義が如何に薄っぺらなものだったと思えるようになった。なんとイノベーションに満ちたことか。時間を浪費する虚無の中で充実を感じる自分は幸せ者だと、そう思うことにしていた。

 

 所詮、意味は無いのだ。出席や試験で真面目に点数を稼ぐことも、教育を受ける権利から目を逸らすことも、何もかも、結局は死ねば無駄になる。

 

 ──あたしは死人だ。

 

 人間の存在意義に、子孫繁栄以外の何かがあるとしたら。

 何らかの記録、実績、作品……そういった、はるか昔の社会科で習ったような最低限で文化的な生活の目的、意義、理由。

 そういうものを見失ってから、もはや自分は人間ではなくなった。

 

 それをもう一度探し当てようともしない。ただ息をして、食事をして、排泄するだけの、家畜のような日々。否、生きるために藻掻くことをせず、後世に残る何かを生み出さない自分は、もはや家畜以下のモノでしかない。

 

 それでも良いと、思うことにしている。世間の水面下ではそれも好しと受け入れ、弱者を肯定する味方がいる。だったら自分もそれに(あやか)って何が悪い。悪い訳がない。

 

 そうすることでしか正気を保てる気がしないのだ。

 

 暗く濁る闇に蓋をした。それを押し上げて、隙間から誰かが囁いてくる。その度に自分を言い聞かせなければ、今すぐフェンスの向こうへ飛び出してしまいそうになる。

 意義を失った亡者でも、肉体的な死は怖い。自ら命を絶つ覚悟も度胸もなく、だからこそ死んでいないだけの日々。そこまで踏み込むことが出来ない自分が苛立たしい毎日。

 

 脳天気に遊び呆けていられる彼らが羨ましい。今更「混ぜて」と言えるような気概も性格でもないが、その一員になることがきっと、世間一般の幸福というものなのだろう。

 

 ……ああ、今すぐ世界が終わってくれればいいのに。

 そうすれば、こんな下らない苦痛に悩まされず死んでしまえるのに。

 どこからかミサイルが飛んできて、戦争でも始まってくれれば──。

 そんなことを考えるのが、保科沙紀(ほしなさき)の毎日だった。

 

 

 ☆

 

 

 憂鬱の原因は日々これといって特筆することもなく過ぎてゆく退屈の繰り返しのみではなく、ただその毎日の中であってさえ微かな変化を少しずつ遂げていく季節の巡りもまた、沙紀の気分を下げていた。

 今日はずいぶん暑い。

 世間的には初夏と呼ばれる六月だというのに、天気予報士が曰く最高気温は二十八℃。日陰と涼風が用意された立地といえども、屋外で過ごすにはこたえるものがある。干からびて死ぬのは御免だ。

 

 腕時計を見ると、十二時三十分を指している。昼休みが終わり、そろそろ次の授業が始まる頃合いだ。

 もうしばらく待っていれば人の行き来も無くなる。飲み物も尽きたことだし、そろそろ物資調達に出るタイミングだ。

 

 チャイムが鳴ったところで、沙紀は重い腰を上げた。財布の中には小銭が少々。増税できりきり喚く世間だが、自販機で買い物するぐらいには事足りる。

 薄い鉄扉を引き開けて、×印のテープを掻い潜る。音を立てないように扉を閉めて、外からの光源を失った階段をひっそり降りていく。それでもゴム製の上履きはぺたぺたと間抜けな音を響かせた。

 

 三階建ての校舎を下る間、誰にも見つかることはなかった。昇降口付近の自販機群に近づき、小銭を数枚取り出した。柑橘系の炭酸飲料でも買おう。ちびちびと飲んでいれば夕方までは持つだろう。

 

 ふと、沙紀は周りを見渡す。直射日光がないというだけで仄かに涼しくも埃っぽい空気、遠くで誰かが喋っている僅かな喧騒の他に、伽藍のようなこの場所で一人ジュースを買う自分。

 一体何のためにここにいるのかと、馬鹿らしくなる。だが、どこにいてもやることはなく、何があろうともやる気は起きない。自分で選んだ現実への苛立ちが募りつのって寂寥となる。

 

 ──どこにも居場所はない。かつてはそこにいたかもしれないが、今になって戻れるとは思わない。

 

 踵を返して、屋上へ戻ろうとした。だが、

 

「保科さん?」

 

 突然かけられた声に思わず飛び上がりそうになる。その方向へ振り向くと、見知った顔がこちらを見ていた。

 今時古風な、野暮ったいお下げの女子。制服を着崩すことなくきっちりしているところが余計に芋臭い印象を与える。戦時中かと言いたくなるようなその人物を、沙紀は不本意ながらよく知っている。

 

「…………」

 

 呼びかけに溜息で答える不遜ぶりを見せても、彼女は嫌な顔を浮かべなかった。教科書やペンケースを胸に抱いたまま、こちらに堂々と近づいてくる。

 

「こんなところで会うなんて珍しいね。どこにいたの?」

「……言う必要ある?」

「失礼しちゃう。うんざりって顔してる」

「そっちこそ、何してんの。授業中じゃないの」

「移動教室なんだけど、お腹が痛くなっちゃって。次、音楽室なの」

 

 抱かれた教科書の表紙には確かにそのためのものだった。この学年の音楽科は選択式だったはずだ。おまけに内申点にもそれほど影響しない。教科書の頼りない厚みが、高校生にもなってこんな科目を真面目に受ける生徒がいるはずもないだろうと、暗に示しているようだった。お涙頂戴な青春映画でもあるまいし。

 だが、この女子はそれでも真面目に出席するのだろう。何せこの見た目で学級委員長である。なんともステレオタイプな、一周回って狙っているのかとすら思わせる古式ゆかしい人物なのだ。

 

「こんなところで油売ってたら先生に怒られるんじゃない?」

「あの先生、まともに出席取らないもの。音楽室の後ろからこっそり入れば平気よ」

 

 少しは太々(ふてぶて)しいところもあるようだ。それこそ沙紀が苦手に感じる原因でもあった。

 学級委員長、中岡恵(なかおかめぐみ)。沙紀が在籍しているクラスの一員であり、その役職柄、教室内の風紀を取り締まるお目付け役でもある。つまりは不良の天敵であり、沙紀のような不登校生徒からすれば一番面倒な存在だった。

 

「──ね、だから、ほら、リハビリにはちょうどいいんじゃない?」

 

 彼女は決して手を引かない。暗にこちらの行動を促すだけだ。

 だが、目を付けた以上は逃がすつもりもない。とっくに授業が始まっているこの時間帯に、こんな場所にいること自体が、彼女にとっては優位なのだ。もはや出席点を考慮する必要もない以上、この委員長はきっとどこまでもついてくる。今回が初めての鉢合わせでないからこそ、そう思う根拠がある。

 目的は無論、沙紀の社会──もとい、学級復帰である。

 

 担任に押し付けられた責任感か、それとも彼女自身の矜持なのかは知らない。しかし、学級委員長というポストがまるで天職であるかのように、恵は己の仕事を全うしようとする。誠実といえば聞こえはいいが、沙紀からしてみれば丸っこい顔のくせして蛇のようだと思っている。

 出席を重視しない適当な授業から慣らさせて、沙紀を少しずつ学校に浸透させていく。最近ではその姿を目撃すると不幸が訪れる的な都市伝説扱いの沙紀も、初めの内は奇異の視線で見られるだろうが、それを日常に、習慣にさせていく。沙紀が環境に慣れていくと同時に、周りの環境も沙紀に慣れていく。そうして三年の春には全員が揃って卒業証書を手にする──大方こんな筋書きだろう。

 そうだとしても、そうでないにしても、その気遣いが沙紀を苛立たせる。

 

 まったくもって余計な世話だ。

 

 握り締めた小銭を財布にしまって、沙紀は踵を返した。屋上へ向かう階段ではなく、目の前の下駄箱に。

 

「帰るの?」

「用事思い出した」

「……何の用事?」

「あんたに探られる筋合いある?」

「……ごめん」

 

 どうせ鞄も持ってきていない。あるのは財布とスマホだけ。屋上には大したものは残っていないし、見回りで(あらた)められることもない端っこに置いてきた。そのまま外に出ても何ら問題はなかった。外靴に履き替えて、もう一言も喋ることなく、沙紀は日陰のない炎天下に焼かれることとなった。

 

 ああクソ、こんな一番暑い時間に出る羽目になるなんて。

 だけどあのままのこのこと戻ったら、あいつは間違いなく屋上までついてくる。施錠が甘いことを知ったら彼女は当然のごとく学校に報告するだろう。それこそ一巻の終わりだ。また暇潰しの場所を探さなければならなくなる。

 嫌なものに遭ったと思って、こちらが退くしかない。今のところはそれでうまくいっている。

 

 ──芸がない、性懲りもなくまだ逃げるのかと、暗い蓋の内側が囁く。

 

 やかましいと外から押さえ付け、沙紀はせめてひたすらに歩くしかなかった。

 

 今日はたまたま見つかった。だが、昨日とどれほどの差があるだろう。一日前、いや、ほんの一秒前だって、何かが違う一日を過ごしたことがあっただろうか。

 だから、きっと明日も、下手を打てばこうなってしまう。

 

 だったらどうすればいいというのか。

 それを教えてくれる恩師も憧憬も、沙紀には一欠片すら持ち合わせていなかった。全て遠ざけ、全て拒絶し、それでも離れないものには蓋をした。

 そうして得た無味乾燥の毎日こそ、自分が望んだものだった。

 

 これでいい。これでいい。

 

 無暗矢鱈と首を突っ込んでは失敗し、嘲笑を誘うよりも、こっちの方が割に合う。例え異端と(そし)られようとも、その方がいいと、望んだのは自分なのだから。

 だから、真っ昼間で人通りのない通学路を、ただ孤独に沙紀は歩いた。

 

 ────本当に? 

 

 ほくそ笑む声が聞こえないように、噛み千切るほどに歯を食いしばりながら。

 

 

 ☆

 

 

 学校から東に向けて伸びる並木通りを歩く途中で、そういえば飲み物を買っていなかったことに気付く。

 植えられているのは細く頼りない針葉樹ばかりで、大して葉も繁っていないものだから日陰としての役にも立たない。絶好調の太陽光線を全身に浴びる沙紀にとって、自転車通学でもない通学路はただの拷問だった。

 冗談抜きで倒れかねない。心なしか見える陽炎が夢か現かも判別できない。じーわじーわとどこからともなく響いてくる蝉の合唱に脳ごと茹でられているようだった。

 

 駄目だ。いくらなんでも暑すぎる。

 

 とにかく沙紀は近所のコンビニに向かった。あそこなら気休めとはいえ避難場所にはなる。登校前にも立ち寄ったし、授業中なはずの時間に制服姿なので怪しまれるかもしれないが、不毛の砂漠に現れたオアシスに惹かれるなという方が無理な話だ。脱水症状で死ぬ前に飲み物を買って、ついでに立ち読みがてらしばらく涼ませてもらおう。

 

 そんなことをぼんやりと回らない頭の片隅で考えながら、今にも行き倒れそうな浮浪者のように歩く。残り三〇〇メートル、揺らめく視界にコンビニのささやかな建物が見えた。

 

 もう少し、と思った瞬間、コンビニの自動ドアが開いた。

 

 出てきたのは三人の男子高校生だった。白のワイシャツに深い紺のスラックス。どこにでもある制服だが、見た感じで近づきたくなくなる手合いだと解る。指定された制服を着ているだけで、校則を逸脱した髪型、明らかに見え隠れするピアスの痕、そしてこの時間帯に屯しているということへの印象。最後の項目については沙紀もとやかく言えないが、彼らを視界に納めた瞬間、茹だるようだった沙紀の脳が急速に冷えた。

 同じ学校の生徒。恐らく沙紀よりも上の学年。知り合いというわけではない。だが、ああいう手合いの人間は面倒臭い。

 

「……うっわ、あっつー。ヤバすぎ。学校行くの止めようぜ」

「つーか三人そろってカンペキ遅刻とかヤバくね? 誰だよ学校行く前にコンビニ寄ろうとか言ったヤツ。なあ歩武(あゆむ)よー、立ち読み付き合わされる俺らの身にもなってくんねえかなあー」

 

 沙紀と彼らの距離は空いているが、不覚にも意識は男どもの塊に向いてしまっていた。しかも彼らの進行方向はこちら側だった。だから嫌でもその会話が聞こえてくる。世間一般よりも少しだけ鍛えられた耳が、止せばいいのに音を全て拾ってしまう。

 と、その内の一人、特に背が高くて派手な男が言った。直射日光を浴びた眼球が錯覚したのかもしれないが、そうでなければ男の髪には一房の紫が走っているように見えた。

 

「別にいいだろ、今週発売のやつ読んでなかったし。お前らだって、外クソ暑ちぃんだから休めたろ」

「そりゃそーだけどな。でもさあ、あんまサボりまくってると先公ウゼェじゃん。ただでさえブラックリストっぽいし、こーゆーの控えめにしたほうがいいんじゃねーかなあ」

「何だよ、今さら成績気にするような性格じゃねーだろ。気になるのはわかるけどな」

「そう? 俺わりとどうでもいいけど」

「でもお受験で合格したんだろ?」

「いや推薦」

「おい神様! いくら何でもこりゃ不公平だろ! 何でこんなチャラい男が推薦枠取れるんだよ!」

「謝れ! 落ちたヤツにってか頑張って一般入試でがんばった俺に謝れ!」

 

 下らない内容だけが続く会話に、沙紀は心底下らないと裁断した。ただでさえ暑苦しいのにこんなものを聞かされれば誰でも辟易とする。気にしなければいいという話ではない、保科沙紀はそれが出来ない身体だから苛立っているのだ。

 

 沙紀は本格的に各神経から送られてくる全情報を無視することに決めた。ただ正面のみを見据えて、あらゆる感覚を殺しつつ足早に擦れ違うしかない。のろのろ歩いていたって時間の無駄だ。

 顔を伏せた大股で進み、こちらに向かって楽しそうに騒ぎながら近付いてくる集団には目もくれず通り過ぎる。

 意外とすんなり行った。が、

 

「ん? あれ? ──なあ、あれってうちのガッコの女子じゃね?」

「あ、ホントだ。早退かな? つーか細っそ」

「わりとかわいくね?」

 

 あと少しというところで、後ろから聞いているだけでイライラする会話が聞こえてくる。そして聞こえているということは、完全に無視しきれていないということだ。

 

 本当に切り捨てられたらどんなに楽なことだろう。

 どれだけ虚勢を張っても、沙紀の耳は要らない情報まで拾ってしまう。

 その特技の所以を知っているだけに苛立ちは募り、自然と歩く足も速くなっていった。太陽光を浴びて汗が浮かび上がっているのにも構わず、不機嫌な表情を隠すこともせず、ただひたすらに沙紀は歩いた。せめて手頃な耳栓でも欲しいところだったが、かつて自らの判断でイヤホンを捨てたことを思い出し、また苛立ちが増した。

 

 何も聞きたくない。

 何も感じたくない。

 

 たったそれだけのことが、何故こんなにも難しいのか。

 

 競歩並みの駆け足で通りを抜け、交差点の手前まで一気に行く。それでも沙紀の足は止まらず、灼熱した思考は周囲を見渡すことすら放棄したまま、歩道と車道を隔てる縁石を越え、

 その瞬間、

 

「危なあァァ────い!」

 

 横から飛び込んできた素っ頓狂な奇声で、沙紀はようやく我に返った。

 直後、二つの動きが急速に沙紀を襲う。

 

 金属の面をゴムが摩擦する不快な音。アスファルトを滑るタイヤがブレーキによって速度を落としつつある音。二台の自転車が迫ってくる。しかし急制動をかけてもなお勢いは緩まず、すっかり油断していた沙紀の前方と後方を挟む形で自転車が通過──しなかった。

 より一層強いブレーキングでタイヤが完全に止まり、軽そうなフレームのマウンテンバイク二台が、沙紀の真横にぴたりと停止して挟む。土煙と風圧を掻き立てて、かなり危ない運転をしてくれたドライバーの一人を、沙紀は見た。

 しかしこちらから声をかけるより早く、右側が先に()くし立ててきた。

 

「──ちょっとちょっと余所見してちゃ危ないよ沙紀ちゃん! ぼくと李音(りね)じゃなかったらハネてたよ!」

 

 さらに、呼応するかのように左からも声が来た。

 

「っていうか沙紀ちゃん、学校は? 時間的にまだ昼休みとかじゃないの? サボり?」

 

 二つの声色は男女別々だと解る。が、差はほとんど無かった。何とか聞き分けられる程度の、よく似た声だった。沙紀にとっては聞き馴染みのある声だった。

 沙紀の正面、マウンテンバイクに跨っている小さな顔見知り。ざっくりと適当に切り揃えただけの短髪、爛々と輝くような目と爽やかな微笑を浮かべる少年だ。Tシャツにハーフパンツというラフな格好、自転車のハンドルにはビニール袋が垂れ下がっている。どこかで遊んで帰ってきた、という風情だった。

 スタンドを立てる音がして、すぐに横から少女がひょこっと顔を覗かせた。伸びかけのボブカットをヘアピンで留め、薄手のチュニックに七分丈のレギンスという装い。顔立ちは少年にそっくりだった。大きくつぶらな瞳、朗らかに笑む口元。細部に違いはあるが、意識しなければ見分けも付かないほど精巧な瓜二つ。

 男女の双子だ。

 

 沙紀にとっては幼馴染のようなものだった。少年少女に向けて、沙紀は呆れたように言った。

 

「……あんた達こそ何やってんのよ、玲雄(れお)、李音」

 

 麻田(あさだ)玲雄と李音。同じマンションに住んでいる二歳年下の子達だ。小さい頃から遊んでいた中で、未だに交流のある数少ない友人でもある。

 少年の方、玲雄はおどけた調子で軽く返した。

 

「ぼくも李音も今日は休みなんだよ。運動部系の中体連とかで、一般生徒はお家で自習」

「でも家にいても暇だから遊びに行こうかって。ホントは三時まで自宅待機なんだけど、今は昼ごはんの買い出しだからセーフね」

 

 矢継ぎ早に李音が続けた。正当なのか違反なのか微妙なラインの外出らしい。まあ、白昼堂々と抜け出している沙紀には咎める資格も筋合いもない。双子は双子で好きなようにやればいい。

 で、と正面の玲雄が言った。

 

「沙紀ちゃんは何やってんの? サボり?」

「体調悪そうにも見えるけど、たぶん暑いからだよね」

 

 横の李音にも言われ、まったくもってその通りである沙紀は沈黙で肯定するしかない。後ろめたさのようなものは無いが、何も言い返せないというのは妙に歯痒かった。

 すると、うんともすんとも言わなくなった沙紀を見て何を察したのか、李音が呟いた。

 

「そっか」

 

 それだけを息継ぎのように漏らし、李音は身軽な動作で沙紀の正面に立った。

 

「じゃあさ、沙紀ちゃん、お昼まだだったりする? うちで食べてかない?」

「あ、いーね。久し振りに寄っていきなよ。チャーハン作るよ! 冷凍だけど!」

 

 途端に目を輝かせた玲雄がコンビニの袋を持ち上げてくる。どうやらその中身が本日の昼食らしい。それはいいが、

 

「でも、おばさんは?」

「今日は早めに出勤だってさ。共働きは大変だよねー」

「おかげで子供は結構好き勝手やれるけどねー」

 

 抜かりない。麻田家の両親は今時珍しいほど気さくな人達だが、どうだろうか。何せ近所に住んでいる以上、こちらの母の耳にでも入ったらと思うと、程なく面倒な問答が起こるのは目に見えている。

 しばし考え、沙紀は視線を泳がせた。あちこちに目を向け、何とはなしに注目し、その際に玲雄の腰元のポーチに目が行った。

 黒のラバー地を加工したストラップだ。特徴的なフォントでアルファベットの数文字があしらわれている。見覚えがあるロゴだ。その由来を思い出し、同じ文字列が刻まれているかつての私物を思う。

 そうだ。この子達の家には、あれがある。

 

「……ごめん、今日はいいわ。また今度」

 

 口を突いて出たのは、拒絶だった。

 いくら顔見知りとはいえ、勝手に上がり込んだらいい顔はされないだろう。気は進まなかった。脳裏に高速で言い訳が整理されていき、そういうことにしておこうと咄嗟の判断が下る。

 回りくどい言い訳を用意しなければ、この子達と他愛ない世間話をすることも出来ないのか。

 頭の片隅を過ぎる苦言には、蓋をした。

 

「ありゃ、そう? 無理にとは言わないけど……」

「ってかホントに具合悪そうだね。乗ってく? 沙紀ちゃん」

「いや玲雄、ウチらの自転車で二ケツは無理だから。でも沙紀ちゃん、マンションまでは送ってこうか?」

「ううん、いい。早く帰りな。見回りの先生に見つかったら面倒臭いよ」

 

 それに、と沙紀は止めを刺す。

 

「練習の邪魔しちゃ悪いから」

 

 誰に対してでもない。あるいは自分にこそ突き立てたナイフなのかもしれない。それで終わりだ、と。

 

「そりゃまあ、うん」

「でも沙紀ちゃん、邪魔だなんて──」

「いいから」

 

 念を押すような沙紀の物言いに、玲雄と李音は少し黙った。キツい言い方だったかもしれない。だが、苛立ってもいた。仕方の無いことだと沙紀は思う。そう思ってしまう自分に腹が立つ。

 イライラを相手にぶつけることを正当化する自分に腹が立つ。それも玲雄と李音にまで、だ。

 そんな沙紀の内心を汲んだのかどうなのか、双子はどちらからともなく「そっか」とまた呟いた。

 

「じゃあ行くけど、倒れないよーにね、沙紀ちゃん」

「今度はこっちから遊びに行くよ。お土産はアイスで!」

 

 それだけ言い残して、玲雄も李音も自転車のサドルに跨り直す。瞬く間に速度を上げて離れていく様子を見て、逃げるようだと、そんなことを沙紀は思う。

 

 誰が、何から? 

 問うのも下らないことだ。

 

 ふと思い出す。玲雄の腰に下がっていたストラップは、ある有名な楽器メーカーのロゴだった。たぶん李音ともお揃いだろう。主にドラムの生産販売を取り扱っている。沙紀が双子と知り合いになったのもその辺りが関係していた。

 そういえば、今年から中学生になったのか。

 あの子達はきっと真っ直ぐに進んでいくのだろう。大なり小なり悩みはあるようだが、将来を照らす目標があるということ、あの子達の生まれ持った明るい性格があれば、特に苦にもならないはずだ。

 

 少なくとも。

 自分のように、腑抜けた結末には陥らないだろう。 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。