夜這う星屑、集いて統ばる   作:深水 月重

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10. 炎昼 Phase-5

 

 

 三上歩武は、完全に油断していた。

 

「うっしゃー昼メシだー。購買行くベ購買。メロンパン売り切れちまう」

「ねー次の英語さー絶対当ててくるじゃーん。あいつ無理なんだけどー」

「え、ジャージ? あー部室に置きっぱかも。いいよ持っていって……いやお前は貸してもらう側な?」

「やっば、今日昼当番じゃん。忘れてたー」

 

 四コマに及ぶ授業の束縛から解放され、勝手に喋りながら三々五々。生徒それぞれの雑談だけで教室の空気がいっぱいになる。やがて校舎全体が喧噪の坩堝と化し、束の間の休息を目一杯に堪能しようとする若者で溢れていく。

 

「おう歩武、俺らも購買行くけど、一緒にどうよ」

 

 そんな中で、窓際の席。

 周りと同じように誘ってくる級友に、歩武は手を振って応えた。

 

「いや、いい。買ってきてある」

「ありゃ、またか。これで五日目ぐらいか? 学校来る前にメシ買っとくようになったの」

「あの面倒臭がりが珍しいこった。その律儀さがもうちょい勉強に向けばねぇ」

「あたしは歩武といっしょの時間増えるからうれしーけどー」

 

 遊び相手の女子が飛び込んで来るままに受け入れつつ、茶化す仲間達をしっしと追い払う。机の横にかけていたビニール袋から惣菜パンをいくつか適当に取り出して封を破る。

 そこへ弁当派の級友が机を寄せ、持参した包みを開けつつ話し始めた。

 

「例の一年だろ。あれから音沙汰無しか?」

「結局は冷やかしだった、ってことだろ。ったくどいつもこいつも俺が気にしてる前提で騒ぎやがって」

「嘘だぁ、めっちゃ期待してるじゃん。土日の間もずーっとなんかソワソワしてんの、この人。まるで襲われるのを待ってるみたい」

「うるせぇよ。おい膝にパン屑(くず)こぼすなっつの」

「まあまあ。でもさ、何かアピールしてくるとしたらどう来ると思う?」

「知らね。あのなよっちいギターとボーカルしかいないんじゃどのみち派手なことはやりようがねえな。道端にいる弾き語りみたいなことならできるだろうが、そんな程度じゃ俺の心は動かねえ。ヘボいもん見せられたって余計に萎えるだけだ」

「まあ学祭で有志発表出るのが目標とか言ってたしな。……碌(ろく)に人手が集まってもない、せっかく作った音源も聞いてくれない、なのに実力を見せてみろときたもんだ。言ってること鬼じゃね?」

「妥当な要求だ。そうじゃなきゃどこで腕前を確認する? 初のスタジオ練習か? そんな博打に時間をかけてやるほど暇じゃねえんだ。実際暇はねえからよ」

 

 むしゃむしゃとパンを貪(むさぼ)る歩武の返事は、おおむね悪態で占められていた。

 三上歩武は、油断していた。

 股座(またぐら)に収まって菓子パンを囓(かじ)っていた女子が、悪気もなさそうに言う。

 

「ねぇねぇ、じゃあさ、あの子たち諦めるかな。ほんとに冷やかしだけで終わるのかな?」

「……だから知らねえって。ベースなんざ練習すりゃ誰でも弾ける。そもそも俺である必要がない。弾けそうなやつなんか探せば他にもいる。大体自分で作曲したってもどうせアニソンかぶれのロックもどきだろ。男女一人ずつしかいないならカーペンターズの真似でもしてりゃいいんだ。おっさんどもにはウケるだろうぜ」

「せめて最近の国産バンドにしてやれよ」

「でもさー、ほんとに? 女の子のほうは決めつけるにはまだ早いみたいなこと言ってなかった?」

「そんな中二病臭いこと言う奴らにつるむのは御免だね」

「まあ、今のところはあ(・)れ(・)っ(・)き(・)り(・)ってんじゃ、お前じゃなくても結局なぁ。うーん、ちょっと期待してたんだけどな」

「誰に何を期待してんだお前らはよ」

「そりゃお前と、あの一年連中だよ。そもそもって話をするなら歩武、お前だってさ──」

 

 友人が、踏み込んだ話をしようとする。それに対し、眉根を吊り上げることで話題そのものへの警戒心を露わにする。

 だが、話が続くことはなかった。

 ふと友人が窓の外に視線を落とす。すぐに戻ってくるかと思いきや、見事な二度見でその方向に身を乗り出す。

 

「おい?」

「なあ、──何だあれ?」

 

 はぐらかしている様子はない。指を差す方向に、歩武も上体を捻って顔を向ける。

 代わり映えのしない校門前、無駄に広いロータリー。夏の太陽光線に炙られてカラカラに乾き、白っぽい土気色を晒す地面。何の変哲もないいつもの景色、

 

 ──否、新緑を茂らせる一本桜の影に、何かがいる。

 絶妙に見えにくい死角、その影から、のろのろと這い出てくる軽トラックがあった。

 

 後部の荷台に積まれているもの。直射日光を浴びて光沢に照り返す黒い機械。細い脚付きのそれは、型は違えど歩武にも馴染みのあるものだった。

 わからないのは、何故そんなものを積んだ軽トラがこれ見よがしに校門前で構えているのか。その大砲の口じみたスピーカーが、何故まっすぐにこちらを照準しているのか。

 

 三上歩武は、油断していた。

 

 周囲の喧騒に紛れて聞こえなかったノイズが、確かにあの辺りから発生している。教室前方で毎度チャイムや校内放送を響かせるスピーカーは動いていない。確かに屋外から鳴っている。

 聴き慣れた音。始動前の無音を象徴する、砂を流すようなホワイトノイズ。

 

 一本桜に茂る葉の向こうに、明らかにブラウスと思しき眩(まばゆ)い白がチラついているのを、見た。

 そして、

 

 彼を含む全校生徒と教師の分け隔てなく、音が全てを叩いた。

 

 

 ☆☆

 

 

 三十五秒。

 

 最初の一音、ピアノの旋律からボーカルの歌い出しまでにかかる時間だ。それは即ち、沙紀が心と呼吸を落ち着かせるために残された最後の猶予でもある。

 

 視界の端では既に風間が動き始めている。

 イントロ早々に雄叫びを上げるエレキギター。左手首の捻り(チョーキング)によって持ち上がるギターヘッドは、跳ね馬が高らかに嘶(いなな)く様にも見えた。

 

 ボーカルとギターのパートだけを排した特殊な音源に、風間は苦もなく乗っている。自身で作曲して編曲しているのだから当然だが、その堂々たる演奏に平時の頼りなさは欠片も感じられない。顔半分をふざけたマスクで覆っていても、露出している口元には何ら力んでいる様子もない。

 この曲の生みの親であり、実際に客前で演奏した経験もあるからこその、焦りのない演奏。

 先日スタジオで通しの練習をした時にも、ギターを弾く姿は目の当たりにしている。だが練習と本番では雰囲気がまるで違う。

 この力強さ、懸命な演奏。むしろこれこそが風間純一の本性なのだろうと、沙紀は思う。

 

 では、沙紀は。

 内心は落ち着いていると自分では思っている。だが、刻一刻と歌い出しのタイミングが迫るにつれて首から下の臓器がひっくり返るような重圧を感じる。内臓が熱を帯びるほどに、水蒸気のような冷や汗が滲む。背筋に張り付く衣類の不快な感触。掌の滑りと力(りき)みが同時に強くなっていく。

 この緊張感を、沙紀は懐かしいと思う。

 

 いつからこう感じるようになったのだろう。

 いつから何も感じなくなっていたのだろう。

 

 人前で歌うことを恐れなくなったのは、いつからだったろう。

 その時の自分と今の自分は、どれほどかけ離れていることだろう。

 

 螺旋を描き昇っていくようなギターソロ。原曲と比べて数段飛ばしのそれが区切りに近付く。

 残り四拍。

 風間が顔を上げる。仮面の奥から、彼の視線が確かに沙紀を捉える。忙しなく両手をギターの弦に這わせながら、力強く頷く。

 

 二拍。

 息を吸う。

 

 一拍。

 

 沙紀は、

 恐れた。

 

『────ぁ、し』

 

 少し遅れた。掠れた。小さい。息を吐きすぎた。

 二音の時点で、失敗したと、理解した。

 

 ああ、やっぱり。

 ──などと思う間もなく、気付く。

 

 

 誰(・)か(・)が(・)歌(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。

 いや、鳴(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。

 

 

 それはヒトの声のようでいて、まったくの別物だった。女性的な響きだが淡泊な、呼吸も温度も感じられない電子音に近い何か。

 それが、ボーカルパートをなぞって、鳴っている。

 こんなものは練習の時にはなかった。だがそれ以前に、遙か昔の記憶が紐付いて呼び起こされる。

 先導するようなヒトならぬ声。初めて聞いたはずなのに覚えのある声。

 

 乗れ、と言われた気がした。

 

 そうと思う間に、喉が開き肺が動く。舌が回って、歌詞が突いて出る。

 途切れた音の続きを、沙(・)紀(・)が(・)歌(・)う(・)。

 

 たったそれだけで沙紀の実力が改善するわけではない。

 だが、沙紀の声と電子の音声が重なることで、音に厚みが生まれる。沙紀とほぼ同じ高さ(キー)の声が、沙紀の発音を影のように追従し、それ自体が二つで一個の音符として機能する。

 よくよく聞いてみれば、その電子音声自体は大した音量ではなかった。沙紀の耳が捉えられたのはほとんど偶然のようなもので、そのままであれば主張が足りておらず、消し忘れの雑音じみた存在感でしかない。だが、沙紀の歌声が主体として前に出ることで、電子音声は支えに回り、沙紀の甘い部分を補強する役割に変わる。

 真っ暗な道を、その端にあってささやかに道幅を示す非常灯のようなものだ。

 

 肝となるのは、あくまで主体として歌う者がいてこそ機能するということ。

 それは沙紀に手を差し伸べる補助役でありながら、沙紀が止まれば同時に形無(かたな)しとなる。

 歌いながら、沙紀はそう理解した。

 

 あの日、『夜空』に幻視した、踊る星たち。

 動こうとしない沙紀を焚きつけるように跳ね回っていた星を思い出す。

 

 だが、沙紀が今まさに視ている景色は、『夜』ではなかった。

 真昼の屋外、校門の外側、一本桜の影。校舎側の誰からも隠れるようにして、騒音を掻き鳴らす行為に片棒を担ぐ自分。うんざりするほどに暑く、風も吹かず、冗談みたいな量の流星群などありはしない、紛れもない現実。

 だが、おかげで余計な雑音は入らない。邪魔者はどこにもいない。沙紀自身が歌い続けるか、その選択だけが連続していく。

 最初のフレーズはしくじった。だがその次は。Aメロさえ抜け切っていない。たかが一分四十秒の半ばにすら至っていない。自分が歌えば立派な形になる補助役まで用意されている。

 諦めるのは簡単だ。力を抜き、腕を下ろし、マイクを手放せば事足りる。それで終わらせられる。その決定権を沙紀が握っている。

 

 ──勘弁しろよって感じ。このまま大人しくしてて。思い出にまで残らないで。

 

 現実。沙紀にかつて叩きつけられた陰口が微かに響く。

 対し、沙紀は歌う。他人の手を借りて、今更のように答える。

 

 

 ────「ハイそうですか」じゃないんだよ。

 

 

 今更になって、かつての自分に言ってやらなければならないことが、ようやくわかった。

 素直に身を引いてやる必要などどこにもなかった。

 きっと、こんな風に歌い続けていれば、それだけで良かったのだ。

 

 

 ☆☆

 

 

 三上歩武は、油断していた頭に金槌でも振り下ろされたような気分でいた。

 

 突如始まった爆音騒ぎ。発生源は正面玄関前のロータリーよりも外、校門に面した車道に停まる軽トラックだ。荷台に積まれた機材の山と、教室前部に設えられたスピーカーがまったく稼働していないことから、誰かが意図的に騒ぎを起こしている。

 

 実際、ベッドタウンと呼称するしかないような片田舎では騒ぎたいだけの馬鹿がよく出てくる。耳のおかしくなるような音量でカーステレオを鳴らしながら公道をチンタラ走る暴走族気取りのOB連中が代表的だ。なんとも涙ぐましいことにそういう手合いにはこんな低偏差値の高校すら卒業できておらず、それでも在校生相手に先輩面をしようと必死な奴も含まれている。

 大抵は一頻(ひとしき)り存在感をアピールして怒られる前に勝手に退散していくが、しかし歩武の目の前で起こっているのはそんな可愛らしいものではなかった。

 眼下に見える軽トラが積んだ機材類は、パッと判別できるだけでもそこらで掻き集めてきたリース品ではないとわかる。聞こえてくる音にも不快な雑音はない。きちんと管理して運用されている。つまりどこかの会社が提供している、れっきとした備品だ。

 

 次いで、大音量で響き渡るこの音楽。

 少なくとも歩武は、聞こえてくる音が精緻に組み上げられた作品であると理解していた。

 

 屋外用である為に乱暴な音質となっているが、楽器の構成は耳で捉えられる。ピアノ、ギター、ベース、ドラムといった定番のバンドサウンドだ。メロディーラインがやや性急な展開に思える。元々余裕のあった尺を無理矢理縮めたような痕跡が聴いて取れる。

 荒削りだ。だが、音は良い。低音がしっかり効いていて、高音にも吠えるような猛々しさを感じる。テンポは速いのに音数が多く、演奏には相当な技術と感覚を要することがありありと窺える。

 だが、肝心のボーカルが楽器隊(バッキング)の迫力に比べて弱々しい。歌い出しから発音が控えめになっている。聞こえないこともない、女の声。機械のような響きがあったが、それに被せるように、微かな震えを伴う肉声が来る。この二つが合わさって、音としては丁度いい感じのハモりになる。

 

 仕組みを看破し、なるほど、と思わず感嘆してしまいながら、歩武は校門前の一本桜辺りに目を凝らす。

 

 深い緑を茂らせる枝葉の隙間に、白の布らしい反射が揺れている。

 次いで軽トラ側に視線を移す。車体後部側──こっちも一本桜の末端が若干被っているせいで見えにくいが──、自分と同じ男子用の学校指定シャツが、見慣れた楽器を吊して揺れている。様子がおかしいのは、見切れている頭部と思わしき部位に紫色っぽい仮面か何かがくっついているところだ。あれはひょっとして変装のつもりなのだろうか。

 

 よくよく聴いてみれば、鳴っている音源とギター、ボーカルの音質が若干違う。

 まさか、あの場で弾いているのか。

 ギターがアレだとしたら、桜の陰にいるのがボーカルか。

 

 今し方、友人達との話題に挙がっていた一年生。

 記憶と推測が繋がる。

 奴(・)ら(・)だ(・)。

 直接正体を見たわけではなくとも確信する。こんな馬鹿な真似をする奴が、その理由を持つ連中が他にいないからだ。

 

 その機材類はどこで手に入れたのか、軽トラがあるということは少なくとも免許持ちの協力者が他にいるのか、当然に浮かぶはずの疑問は脇に追いやられていた。

 高校生離れした曲の完成度は言うに及ばず。

 陰キャとしか思っていなかった男子が恐らく生で演奏しているエレキギターの複雑な伴奏(リフ)に驚かされるのもさておき。

 よくよく聴いてみると酷いものだが、全体的としてみれば不思議と調和の取れているように聞こえるボーカルもさておき。

 

 

 ──何を見せられている。

 

 

 その景色自体には、何の変哲もない。夏の茹だるような気温、太陽光に白く焼かれたアスファルト、広いだけで何を植えているのかわからない遠大な畑。相も変わらず退屈で、少なくとも残り一年半は毎日のように眺め続けるだろう殺風景。

 強いて挙げるなら、今日は騒音をかき立てる馬鹿が追加されている。わざわざ軽トラまで引っ張り出して、機材も準備万端に整えて学校前でおっ始める馬鹿がいる。だが今日のは特別だ。一年にそう何度も出てくるような類いの連中ではない。こんなもの、年に一度でも多いぐらいだ。

 たったそれだけの違いだ。

 

 

 ──何を、見せられている?

 

 

 その景色自体には、何ら変わりはなかった。

 おかしくなっていたのは、それを見る歩武の眼のほうだった。

 思い出し、重ねて視(み)ていた。

 

 

 四年前の夏、

 海沿いの広い会場、

 延べ七万人の大観衆、

 夜闇を切り裂く人工の光、

 乱立し振り回される人の腕、

 眩しくて何もかもぼやけていた、

 初めて観に行ったロックフェスの夜。

 

 こ(・)の(・)道(・)に(・)進(・)む(・)と(・)決(・)意(・)し(・)た(・)狂(・)熱(・)の(・)思(・)い(・)出(・)。

 

 

 ────なぜ今、こんなものを思い出している!?

 

 

 それは幻覚か、或いは眩んだ脳が記憶と混同した錯視か。

 歩武の目には、いつもの生徒玄関前ロータリーを俯瞰する今の視点から、かつて訪れた巨大なステージと人の海が見えていた。

 

 あまりにも過度に飾るレーザーやスポットライト、背景に映るスクリーンの光が目を焼く夜。汗と疲労で霞む視界は雨滴を受けたカメラレンズのようなもので、ただ残像と陰影しか捉えることができなかった。

 それでも覚えているのは、そこに人が立っているということ。

 立って、例え遠くとも目の前で演奏している人がいるということ。

 その演奏によって生じた音を増幅し拡大しぶちまけるスピーカーによって聞こえてくるサウンドは、もはや鼓膜どころか脳も内臓も叩き震わせた。

 

 初めて体験する世界に、事前知識など及びもつかない刺激に全身を串刺しにされた、あの暑い熱い夜を、思い出していた。

 

 その光景――見たことのないはずの俯瞰視点で見下ろすステージが、学校前に広がっていた。

 

 人がいる。誰も彼もが叫んでいる。自分の存在を誰にアピールするためか、全身を使って躍動している。強すぎる光がそれらを照らし、輪郭を曖昧にして残像に変えている。

 

 残像の糸が交錯する中で確かなのは、やはりそこには、誰かがいるということ。

 二人、いや全(・)員(・)い(・)る(・)。何故かそう思う。

 

 フルメンバーの自分のバンドだと何故か確信している。が、それは現実に今組んでいるメンツではない。知らない顔の友人達だ。誰だかわからないが、それは間違いなく友人だった。

 明晰夢のような矛盾と、夢にしては痛いほどに震えて仕方ない鼓膜。

 

 あの曲によって何かを見せられているのだと、歩武が自発的に気付くまでにはもうしばらく時間がかかる。

 まったくそれどころではないからだ。

 

 ベースを掻き鳴らしているのは、汗みずくになりながら吠えているのは、間違いなく自分。見たことのない自分が、七万人の大観衆を前にベースを弾いている。

 その自分が、指を差す。上、夜空が広がっているはずの指先は、しかし歩武を正確に狙い定めていた。

 

 満足そうな表情で、いけ好かない面で歩武を指差している。

 不満だらけの若い自分を心底嘲笑うかのような、歩武自身が最も嫌う挑発だった。

 

 

 ☆☆

 

 

 歌は続く。

 

 本来の尺を半分以下に縮めているというのに、沙紀にとっては終わりの見えないマラソンのような長さだった。ゴールは果てしなく遠く、霞がかった彼方にある気がする。

 走り続けるのも馬鹿らしくなる距離を、それでも沙紀は行く。

 もはや余計なことを考える余裕もなくなった。細い導線から足を踏み外さないように、慎重かつ思い切りよく歌っていなければならなかった。その緊張感によって雑念を排除しているようなものだった。

 

 声を出す。

 僅かながら練習のおかげで構築した自身のイメージ、スピーカーからの返し、譜面に書かれていた高低、補助の機械音声。それらに嵌(は)まる正解の音を探りながら歌う。

 基準となる点がこんなにあるのだから音程を当てること自体は難しくもないが、風間の曲は文字数が多く息継ぎが少ない。この速度と密度の中で音程を気にかけつつ歌として成立させるのは骨の折れる仕事だ。

 

 複数の延長線が交差する点を求める、そんな数学の問題を中学時代にやった気がする。

 そんなうろ覚えのイメージをもって、外さないように気を張りながら、一音を確かに出していく。 

 そうしていると、何となく、頭蓋骨の内側に響く音が丁(・)度(・)良(・)く(・)な(・)っ(・)て(・)く(・)る(・)。

 

 無論、理想的とは言い難い。我ながら到底満足のいく出来ではない。音が合っていても声量が足りないせいで迫力が出ず、かといって下手に大きくすれば緊密にバランスを取っている音程が瓦解する。地力の部分も、小手先の技術も不足している。そのせいで結局はどっちつかずになっている。酷いものだ。わかっていたことだが、練習する時間も量も足りていなかった。

 ないない尽くしで嫌になろうというものだが、そんな感傷に浸る余裕は吹き飛んでいる。今はもう、ここに至っては、出来ることをやり切るしかない。

 

 曲の速度に食らいつこうと必死になればなるほど余裕がなくなる。

 それは、余計なものが剥がれていくということでもあった。

 そうして少しずつ、ほんの薄皮一枚ほどでも身軽になっていくごとに、音が解(わか)るようになっていく。

 

 次の音を発声する。

 その次、また次へと、薄明かりの道が続く。

 やがてその道が遠くまで伸びていることを実感する。

 

 音にさえ気を遣っていれば、何度となく反復してきた歌詞は半ば自動的に出てくるようになっていた。

 

 沙紀の国語は優秀とは言えない。歌詞のキーワードを掬って自己解釈を構築するような鍛え方はしていないし、それができるほどのボキャブラリーも持っていない。言葉の直截(ちょくせつ)的な意味以上に穿った見方をするのも慣れていない。

 

 ただわかっているのは、風間の書いた『VEGA』は、星になぞらえた歌だ。

 

 唐突に世界が終わると告げられるような理不尽、人の夢をからかうような嘲弄に、無茶苦茶な手を使ってでも意趣を返す。笑われた夢を、笑われた形のまま現実に叶えてみせる。

 星空に手が届かないのなら、星を叩き落として足(・)下(・)を(・)空(・)と(・)す(・)る(・)。

 神の意思、自然の摂理、定められた運命を壊してでも、望むものを求め続ける。

 そんなやり方が正解かは、さておくとして。

 

 言われたままを受け入れるのではなく、決めつけられた評価と伸び代を飛び越えて抗い続けるということ。

 そんな泥臭い、あるいは青臭いテーマが込められている。

 と、沙紀は思う。解釈というよりも印象として、だ。

 

 風間は、沙紀をイメージしてこの曲を書いたと言っていた。

 ならば沙紀が感じた印象は、つまり沙紀へ向けた風間からのメッセージということになるのだろうか。

 

 

 大人しく滅んでやるな。

 目にもの見せてやれ。

 

 

 流星群を歌う。まだ見ぬ明日、未来の色を湛えて、全ての人々に一つずつ。暗闇を切り裂く波濤と見紛うような流星群を歌う。掻き鳴らされる音の数だけ星が行く。

 かつて沙紀が幻視した、あの星達のように。

 昂揚、憤激、全能感。心臓に熱を齎(もたら)す種火。或いは脳と理性を錯乱させる麻薬に似た狂気。

 降って湧いてくる情熱を流星になぞらえた。

 放っておけばすぐに消えてしまう、夢幻のようだとしても。

 そこにいてくれたら、きっとどこへでも行けるのに。

 

 

 ギターの残響が消えていることに気付くまで、沙紀は顎を上げて固まっていた。

 真夏の晴天、透き通った天幕の向こうに、見えていないだけの星を探していた。

 

 

 ☆☆

 

 

 と、そのまま惚けていられれるほど、現実は夢想家に優しくはない。

 

「保科さーん!!」

「ずらかるぞ──!」 

 

 男二人分の大声が鼓膜を叩くことで、沙紀は曲が終わっていることにようやく気付いた。

 反射的に軽トラの方を見れば、既に撤収作業が始まっている。

 

 荷台に飛び乗った伊治が数分前のセッティングと逆に末端の機材から電源をばちんばちんと切っていき、図体の大きいポータブルエンジンも静かにさせられた。次いで起立していたスピーカーなどを丁寧かつ手早く横倒しにしていく。登場時に剥がされた緑の幌(ほろ)は被せるつもりはないのか、綺麗に畳んで隅に避けられていた。

 

 風間はといえば、接続されているアンプが電源を切られたのを確認してからギター側のケーブルを外し、伊治にパスした。そして沙紀に向き直り、顔の下半分を引き攣らせながら小走りに近付いてくる。

 

「はははは早く早く! も、もう来てるよ!」

「なにが──」

「生徒指導の竹中先生だ! 捕まったら生きて帰れないって噂の!」

 

 指差される方、生徒用正面玄関の脇にある職員玄関から、半ば転げるように飛び出す中年の男性教諭が顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。

 ジャージの袖も裾もまくり上げ、首に揺れるはホイッスル、刻み込まれた皺は顔面のパーツを全て歪ませ鬼のような形相と化している。

 どう見ても捕まったらヤバいし、噂は恐らく事実なのだろうと思わせる凄味があった。

 そのとんでもない剣幕に怯み、沙紀の足は一歩出遅れた。

 

「ひ」

「いい急いで急いで!」

 

 動けなくなった沙紀の手を、追いついた風間が引っ掴む。

 そこからは、引きずられるように足を回した。

 

 火事場の何とやらなのか、見かけにそぐわず力強い風間に牽引されるまま軽トラの助手席側まで走る。マイクはいつの間にかもぎ取られ、風間が荷台に放り込んだようだった。

 車内のシートは三人横並びで座れるようになっている。ほぼ同じタイミングで運転席側のドアを伊治が開け、飛び込みながら言った。

 

「おいおいアレ竹中さんじゃないか! 捕まったが最後『男子は坊主・女子は市松』で有名なクソ親父だ! まだ生きてたのかよ懐かしいなぁ!」

「言ってる場合じゃないですって! 保科さん乗った乗った!」

「うぇぇ!?」

 

 半ば尻を押し込まれるように、沙紀も車内に入った。他所の家の車に乗ることなんて久し振りだった。特有の嗅ぎ慣れない、臭くも芳しくもない匂いと埃が鼻をくすぐる。

 最後に風間が助手席に収まり、勢いよくドアをしっかり閉めて、

 

「出して!」

「そぅれ今だ──!」

 

 伊治がアクセルを蹴り飛ばすと同時、猛烈なGが車内の三人を襲い、軽トラが急発進した。

 

 後ろの固定化されていない積み荷は大丈夫なのか、などと心配する余裕もない。

 事前予告のない強烈な推進力によって内臓ごとシートに叩きつけられるような圧迫感。首が違えるかと思った。視界の端に見えたメーターは既に30km/hを指していた。サイドボードやカップホルダーに取り残されていた小物やら軽いゴミやらが一斉に車内を跳ね回る。

 特に風間の助手席にあるボックスからは、勢い余って開いた拍子に大量の紙束が滑り落ちてきた。

 

「ぶわ!? ちょ、ビラ!? いつから積んでるんですかこれ! 刷ったのだいぶ前のやつですよ!」

「あー外回りに持ってく用だね。仕舞っといておくれ。後ろ、どう?」

「さすがに諦めたみたいです。──伊治さん、あの先生のこと知ってたんですか?」

「オレもここ出身だからね。もう十年以上前だけど」

「え、そんなに長くいるの、あの先生……」

「学校職員の定年って伸びたんだっけ……あ、伊治さん次の交差点を左です」

「はいよ。あ、二人ともシートベルトしてね」

 

 勢いのまま猛然とドリフトを決めながらカーブを曲がる――ということはなく。

 荒々しい運転は学校前の直線だけで終わり、指定された交差点を曲がって以降、伊治は隠れ潜むような安全運転に終始した。

 

 この軽トラ自体が年代物なのか、車道の僅かな隆起や陥没でもがたがたと揺れる。乗り慣れない沙紀は早くも尻やら腰が痛み始めている気がしていた。

 そうしてようやく、シートに沈んで脱力している自分に、沙紀は気付いた。

 同じように、隣で風間が背凭(せもた)れにずり落ちていく。ついでに張力の緩んだ仮面が間抜けにズレていくのを見て、沙紀も着けっぱなしだったそれを思い出したように取り外した。

 

「……な、なんとかなった……」

 

 ほとんど思いつきで始めたゲリラライブが、準備を含めてようやく終わった。

 二人して長い息を吐く若者に、伊治は僅かに笑みを零しながら言った。

 

「このままぐるっと一周して、学校前のコンビニで二人を降ろす。予定通りでいいね?」

「はい。……本当に、ありがとうございます、伊治さん。車出してくれたのも、機材のセッティングとか何もかも……」

「わはは、いいんだよ純一くん! オレも面白いもん見れたからね! 話を聞いた時はどうなることかと思ったけど、たまにはこういうビックリがあるのも悪くない」

 

 それにしても、と伊治は言った。

 

「なかなか良いアイディアだったんじゃないか? 同期に入ってたあの合成音声、いわゆるガイドボーカルだろう? 今時のカラオケでもよくあるやつだ」

「…………あ」

 

 合成音声。そのキーワードを聞いて、今まで呆けていた沙紀は急に意識を取り戻したかのように風間へと向き直った。少々ホラーじみた挙動の起き上がり方に風間は「ひぇ」と驚いた。

 

「そうだ。あの声、練習してる時の音源には入ってなかった。どうして?」

「え、そうだったの? そりゃまた」

 

 伊治の同調も手伝って、風間はますます肩身が狭そうに縮んでいった。

 

 何故ああいうものを用意していたのか。どうしてそれを明かさなかったのか。

 沙紀の言わんとしていることを察してか、風間は申し訳なさそうに言った。

 

「……この短い準備期間でいきなり本番みたいなところに放り込むんだから、僕にできるアシストは全部やり尽くさないとと思って、一昨日解散してから急ピッチで作ったんだ。保科さんの力量を信じてなかったわけじゃない。余計なお世話だったかもしれないけど……一緒に歌う声っていうのは、あると無いとじゃ大違いだからさ」

 

 それに、と言いながら、風間は続ける。

 

「思い出してくれたら、と思ったんだ。歌ってる時の、誰かがハモってくるあの感じとか、流れを」

「……そういうのがあるって言ってくれなかったのは?」

「言わない方が、上手く行く気がした。ちゃんとハマるかわからなかったのもあるけど、変に期待させると逆効果かもしれないって」

 

 それが種明かしらしい。他に言うことはないのか、風間は気まずそうに身を縮こまらせた。

 

 無断でガイドボーカルを、それもサビのハモりだけでなく全編通して歌いっぱなしの機械音声を組み込んでおくというのは、ボーカルとギターしかいないバンドとしてどうなのか。他パートをあらかじめ用意しておくのは担当者がいないから仕方のないことだ。だが、既に据えられているボーカルパートにも代替品を用意するというのは、メンバーを信頼していないということの裏返しなのではないか。

 仕事を任せ切れないから保険を用意しておく。それは出し物を円滑に終わらせるための準備としては周到だろうが、当の本人の気持ちを考慮しない独断専行とも言える。

 少なくとも、メンバー同士の信用を失いかねない、危うい賭けだ。

 

 理性的にそこまで考える一方で、沙紀は自分の正直な感想というものも無視できずにいる。

 

 この、身(・)に(・)余(・)る(・)感(・)覚(・)は、嘘ではないからだ。

 

 演奏中、あのガイドが聞こえてきた時、俯きかけた気持ちが一瞬で掬(すく)い上げられた。単一では弱々しく代替品にもならないだろう機械の声──恐らく敢えてそのように調整されたボリュームだからこそ、沙紀は途切れかけた声を出し続ける決心ができた。

 自分がやらなければ音がヘボくなる、という責任感。

 恥を知らずに先導する者が前にいる、という安心感。

 沙紀からしてみればそういう効果を齎した、そんなアシストだった。

 

 業腹だが認める他にない。あれがなければ出だしで躓いたままだった。最後まで歌い切れたかも怪しいものだ。

 

「……いや、あって良かったと思う。実際あれで立て直せたようなもんだし」

 

 呻くように、沙紀は言う。

 何かを言いたそうで、或いは言われるのを待っていたような雰囲気の風間は、目を丸くして沙紀を見た。沙紀はそれを一睨みで打ち返す。

 

「なに」

「い、いや、ごめん。……うん、そう言ってくれると、有難いな」

 

 照れ臭そうにはにかむ風間は、まるで言わなければならなかったことを今思い出したかのように、

 

「でも、ちゃんと聞こえてたよ、保科さんの歌。僕の見立ては間違ってなかった」

「…………そう」

 

 沙紀はもうそっちを見ず、真正面のフロントガラスから見える景色だけを眺めながら、ただそれだけを返した。

 

 そんなやりとりを真横で聞いていた伊治が、

 

「いいねぇ。おじさんもこういう青春送りたかったなァ……」

 

 緩む口を押さえながら、ぽつりと言った。

 

 

 

 ☆☆

 

 

 嵐のような、というと大袈裟に過ぎる。

 精々が通り雨、スコールのような騒ぎが走り去ってから、その背中を追って、諦めた人影がある。

 くたびれたジャージの上下、外用ではないだろうサンダル、肩を怒らせて学校の職員玄関に引っ込んでいく中年の男性……を、その視界から隠れるように迂回してこそこそと外に出た、長髪の男子生徒だ。

 

 日に透かせばうっすらと紫紺が滲む髪を後ろで束ねた彼は、長年にわたって生徒指導担当として恐れられている教師が完全に校内へ戻ったことを確認し、急ぎ足でロータリーから校門へと駆け抜ける。

 

 当然ながら、道路に出てその方向を睨みつけても、騒動の犯人達は影も形もなくなっていた。それは彼自身も理解している。

 絶対に追いつけるわけがない、別に今ここで追いつかなくても正体が誰なのかは知っているのだから後でじっくり話を聞けばいい、急ぐ理由など一つもない。

 そこまで理解していながら、それでもここに来ずにはいられなかった。

 衝動の理由は、彼自身にも説明ができない。それほどに突発的な感情だった。

 意味もなくその場に立ち尽くし、はぁ、と嘆息する。

 

 その視界に、ひらひらと何かが一枚、まるで西部劇の丸まった枯れ草(タンブルウィード)のように転がっていく。

 

 それは、よくよく見ればA4サイズの紙だった。

 風に煽られてどこかへ飛んでいく前に、すんでの所で器用に掴み取る。多少の皺になろうと構わず広げてみると、黒が主体で様々なフォントの文字が印刷された広告が見えた。

 ビラだ。

 さっと目を通す。「400人収容」「営業時間」「ワンドリンク制」「使用料金」「アクセス」「お問い合わせはこちらから」……これらが意味するところを、彼はよく知っていた。

 

 大きな見出しに書かれている、英語なのか他の言語なのかわからない、しかし見覚えのある固有名詞が、口を突いて発音される。

 

「……ボルサネリスタ……」

 

 呟きながら、三上歩武はもう一度、軽トラの一行が消えた方向に目を向ける。

 雨風に汚れていない新品同然の紙切れがこんなところに漂っている、その意味を考えながら。

 

 

 ☆☆

 

 

 もう一人。

 この騒動を起こした中心人物達が誰なのかを看破している者がいた。

 

 彼女は四階の教室窓から事の一部始終を眺めていた。

 耳聡い者は我先にと窓辺へ駆け寄り身を乗り出している。密集状態の窓辺で、しかし彼女の周りだけは空いていた。

 避けられている、というのも間違いではないが、彼女は本来これほど露骨に敬遠されるような性格ではない。ただ、今ばかりはその華奢な背中に、常にない近寄りがたさをクラスメイトでさえ感じ取っていた。

 触らぬ神になんとやらで、むしろそこを空かせるための皺寄せで他が密集状態に陥っていると言ってもいい。

 おかげで彼女は誰に押し合い圧し合いされることもなく、一心不乱に外の景色を眺めていられた。

 

 物理的な距離感と校門裏に植わった一本桜との位置関係によって、騒動の中心にいる誰かの姿を見ることは、とうとうできなかった。

 だが、彼女は知っている。あの場でギターを掻き鳴らしているのが誰なのか。響く音源、壮麗な曲に歌を乗せているのが誰なのか。

 彼が、誰を伴って、あの場に臨んでいったのか。

 

 自分の属するクラスメイトの顔と名前を全て覚え、今日の出欠状況を把握している彼女だからこそ、この場に誰がいないのかも知っている。

 だが、理由はそれだけではない。

 

 彼(・)女(・)は(・)協(・)力(・)者(・)だ(・)っ(・)た(・)。

 恐らく近日中に起こされるだろうと目していたこの騒動の中心人物に、僅かだが不可欠な情報を流したのが彼女だった。

 

 少しばかりの条件をつけて、彼女は片棒を担ぐことに同意した。それは彼女が高校に入学して早くも直面し、今の今までなかなか片付かなかった仕事を解消し得る算段、それを手伝わせるということだった。

 彼の目論見が上手く運べば、即効性とは言わないまでも、自分の周りにある状況も連動して好転するかもしれない。もちろん、人と人との関わりが全てであるからして、狙い通りに行くとは限らない。だが劇薬としての価値はある。彼女が臨(のぞ)んだのは、そういう賭けだった。

 

 それに恐らく、まだ終わらない。今後の流れ次第では、ま(・)だ(・)噛(・)め(・)る(・)。

 自分は先読みができるほど聡明ではない。希望的観測を多く含む。だが、もしかしたら、と思う。そんな期待を込めて、彼女は眼下の景色を見つめている。

 

 傍から見ているだけなら、彼女の行いは自らの仕事を全(まっと)うした模範的な姿として認識されるだろう。仕事が片付くことで、自分の肩の荷も下りる。だがそれ自体はどうでもいいのだ。

 問題は、停滞しかけていた状況が動いたところに便乗して、自分が最後まで乗っていけるかどうか。

 状況を利用し私欲を満たそうとする極めて利己的な動機に他ならない。

 その矛盾を醜いと思い、理解していながら、自分も関わることを選ばずにはいられなかった。自分から仕掛けに行くことに臆病なままではいられなかった。そうでなければ、いつまでも停まったままの気がしたから。

 

 音が止んだ。

 生徒達の騒然は収まらない。一本桜の影から、明らかに法定速度ぎりぎりを初速の時点で叩き出している軽トラが猛然と走り去っていく。

 さしたるトラブルはなかったように思う。だから、この流れは順調だ。彼もきっと胸を撫で下ろしていることだろう。

 だというのに、彼女の内心は、どこか寂しく冷えていた。

 そうだ、事が順調だとするならば、彼女の望みに近付くと同時、また障害も増えていくということになるのだ。

 

 窓の桟(さん)にかけた手を、ぎゅっと握る。

 中岡恵の三つ編みが、彼らが去った後の風に揺れていた。

 

 

 ☆☆

 

 

 十分ほどかけて軽トラックが近所をのんびりと周遊し、やがて見覚えのある路地を進んでいく。高校最寄りの──とはいえ防風林や住宅地を挟んだ距離の──コンビニ駐車場に車を停め、伊治は手早く後部の荷台へ向かった。

 

「えー、大物はともかく慌てて放り込んだ小物類は……マイクもシールドも不足無しか、いいぞぉ。純一くん、カバーかけるの手伝ってくれるかい」

「はい」

 

 畳んで隅に追いやられていた厚手の幌を広げ、荷台を満遍なく覆い隠す。側面に垂れている紐を結んで固定し、高そうな機材たちはひとまず風雨から守られる程度に隠された。

 

「よし、と。それじゃつつがなく解散かな? こっちは倉庫に戻してくよ。純一くんは荷下ろしと片付けも手伝うの、忘れないでくれよ」

「もちろんです。ありがとう伊治さん。本当に助かりました」

「いいさ、面白かったし──そうだ、忘れものといえば、後払いの報酬もその内ね」

「は、はい。そちらも近々に」

 

 知らない話が出てきた。車から降りて二人の作業を所在なさげに眺めていた沙紀は、風間に水を向ける。

 

「報酬って……なに、お金?」

「いや、えーと」

 

 今回の功労賞は間違いなく伊治だ。言い出しっぺの風間はともかく、本当だったらここまで用意すること自体が不可能という機材の山を車で運び、セッティングも撤収も卒なくこなしていた。ここまでの労力を払って何の手間賃も無いという方が余程有り得ない。そもそもが伊治は風間の親が経営する事務所に所属しているというだけであって、たかが息子のこんな無法に付き合ってやる義理はないはずだ。

 

 そして、半分ぐらいは巻き込まれているようなものとは言え、沙紀は自分の立ち位置は風間寄りだと自覚している。つまり何らかの支払いがあるなら、沙紀もまた自腹を切らねばならないと即座に考えた。

 とはいえ元々が寂しい懐から捻り出せる小遣いなど残ってもいない。だから、こういったケースの相場はいくらなのか、自分も払うべき割合はどの程度なのか、そういったことに精神が逆毛を立てる。

 

 だが、風間は視線を明後日の方に向けてもごもごと口ごもっている。

 どういう意味かと沙紀が胸倉を掴みそうになる前に、伊治が言った。 

 

「曲の書き下ろしだよ。純一くんにお願いしてるのがあるんだ」

「え、……曲?」

 

 そうそう、と何の気なしに伊治が説明を続ける。

 

「前にも似たような手伝いを頼まれたことがあってね、その時もお礼がしたいってことになって、でも子供相手に金巻き上げるのも大人げないしどうしたもんかと思って、辿り着いた結論さ。金とか生臭いものの代わりにオリジナルの曲を書き下ろしてくれるよう頼んでるんだ。彼、いい曲作るだろう?」

「はぁ。……まあ、そうかもしれないですけど」

 

 気の抜けた生返事になってしまう。

 沙紀に書いたという『VEGA』のように、恐らくそれよりも前から、既にそういうやりとりをしていたというわけだ。作詞作曲というものの労力が大変であることは沙紀にも想像できるが、しかし、そんなもんでいいのか、という感想が正直なところである。

 疑わしいような目を向ける沙紀に、伊治は大きく破顔してみせた。

 

「そんなわけで、そこらへんの話はきっちりつけてあるからご心配なく。ちなみに今回分増えたんで貸し三つ目ね。いやーツケが溜まる一方だね? ん?」

「……は、はい、すみません、すぐに書いて録ります……」

「わはは、冗談冗談。出世払いみたいなもんだ。気長に待ってるよ」

 

 呵々(かか)と笑いながら伊治は運転席に戻った。軽トラがバックでゆっくりと駐車場を外れ、車道と向きを合わせてから、窓を開けて言う。

 

「それじゃお疲れ! またいつでも呼んでくれよなー!」

 

 そんなことを大声で、手を振りながら車を走らせる。ぶおーんと音を立てながら、白い軽トラックがさっきも行った道に再び消えていく。風間は頭を下げていたが、沙紀は直立したままそれを見送っていた。

 

 ……あの人もあの人で、どこかおかしい人なのかもしれない。

 風に髪を遊ばれながら、沙紀はそんなことを思う。

 

 ともあれ。

 こうして、今日という日に用意された異分子の全てが片付き、元の静かな空気が戻ってきた。

 

 と、風間がスマホを取り出して待受画面の時計を見る。

 

「あ……っと、もうこんな時間か。保科さん、僕そこのコンビニでお昼買っていくけど、何か欲しいものある?」

「え?」

「ささやかだけど、ひとまずのお礼。保科さんもよく頑張ってくれたから」

「…………あぁ」

 

 奢りと言うので、そういうことなら、と。

 真上からの直射日光にも耐えかねていたこともあり、二人は連れ立ってコンビニに入った。

 びょろろびょろろとサイレンじみた入店音、雑然と商品の並ぶ店内、よく効いた空調、レジ横から漂うホットスナックの匂い。それら日常的に馴染んだ五感への刺激が、一仕事を終えた後の倦怠感も手伝って何ともいえない緩さに襲われる。

 

 何を買うか物色している最中、珍しく沙紀の方から口火を切る。

 

「あの先輩、聴いてたと思う?」

「うーん……朝、ちゃんと登校してるのは見かけたよ。前みたいに教室で昼休み中だったなら、気付かないってことはないと思うけど……問題は、響いたかどうかだね」

 

 そう。これほどの労力を払って、それでも三上の琴線に触れることがなければ、結局ベース勧誘の話は破談となる。

 彼が首を縦に振ってくれるか否か。それはもう、この場の誰に知る由もないことだった。

 

「祈るしかない、かな。今回のメインは、僕らがどんな曲をやろうとしてるのかを叩きつけてやることだった。そしてできる限りのことはやった。これで駄目なら、諦めて次に行くしかない」

「次、ね。簡単に言うけど、ドラムも見つかってないのに?」

「いやまあ、今日のおかげで興味持ってくれる人が他にもいるかもしれないし。方向性をわかってもらえたら、同調してくれるのもいるんじゃないかな」

「上手い下手は別にして?」

「まあ……うん」

「というか、あたしら顔隠して演奏してたし、名乗ってもないじゃん。正体不明なままで誰がどうやって来るの?」

「う──ん…………」

 

 言い淀み、いつまでも二の句が継がれないので、現実が厳しくなるということだけは沙紀にもわかった。溜息交じりに適当な菓子パンとパックの苺牛乳を棚から摘まんで、風間に押しつける。受け取った風間は、自分用のおにぎりやお茶を確保していた。

 他に買うものもないのでとっととレジに移動する。財布を出したのは当然風間だった。

 

「袋別にして。そこで食べてくから」

「えっ、あ、うん。じゃあこれ別々にしてもらえますか……はい。あ、あと唐揚げ串をひとつ。いえお会計は僕が。はい」

 

 少々面倒な手順になり店員が真顔になったが、沙紀は気にせずその場を離れる。レジカウンターのコーヒーサーバーが置かれている更に奥、簡単なテーブルと固い椅子が置かれている空間がある。

 最近になって新しく設えられたイートインスペースだ。長居できるほど居心地のよい場所ではないため利用する機会は稀だが、軽食を取る程度なら腰を落ち着けられる。

 

 会計を終えた風間が、沙紀の分の軽い袋を渡してきた。

 

「昼休みギリギリだから、僕は戻ってるね。保科さんは食べた後どうする?」

「どうもこうも、適当に時間潰して帰る。いつも通り」

「そ、そっか。……うーん……」

「なに?」

 

 ペットボトルの口を開きかけて唸り始めた風間は、ややあってからキャップを完全に開け、二口(ふたくち)ほどのお茶を飲んで喉を潤してから、言った。

 

「あんまり言いたくはないんだけど……僕らの最終的な目標は、学校祭の有志発表だ。壇上に上がるのはその学校の生徒。まあ例年は先生達がハシャぐこともあるらしいけど」

「それが?」

「厳密なルールが設けられているのか、律儀に入場者まで監視してるかはわからないけど……少なくとも停学中だったり、ましてや退学した元生徒が、客ならともかく主役としてステージに上がれる道理はない、と思う。保科さん、出席点ヤバいんでしょ?」

 

 む、と沙紀は押し黙る。

 

「たとえ赤点でもゼロよりはプラスだ。そういう、頑張ってる学生が楽しむためのイベントとして、年に何度か祭りがある。もちろん已(や)むにやまれぬ事情もあるから、アリとキリギリスなんて一言じゃ括れないけど……どうしたって生まれる不平等感を事前に摘み取るために、実行委員会もその程度のチェックはしているはずだ。資格があると認められるか否か」

「…………それで?」

「たぶん、今のままだと二学期まで保たない。保科さんが学祭に出られない可能性が出てくる。もし三上先輩が今日を踏まえてベースをやってくれるとしても、保科さんが欠けるんじゃ意味がない。今日までの努力が本当に無駄になる」

 

 だから、と風間は言う。

 

「歌の練習もだけど、それと同じくらい、授業に出ることも大事な仕事だ。保科さんにはそれも頑張ってほしい」

「…………」

「今日みたいな簡略化したものじゃない、ちゃんとフルで演奏する大本命のために」

 

 似たようなことを、数時間前にも言われた気がする。

 学校に通うこと、授業を受けること、それそのものが何だってそんなに重要なことのように語るのか。そうしなければ即死するというわけでなし、やる気のない者に首輪をつけたところで動きはしないというのに、何故同調させたがるのか。

 沙紀は本当に、ただただやる気が湧かないだけだった。学校には来ていても授業は出ないのは、それだけが理由だ。

 だが、自分を取り巻く状況が、少しずつその言い訳を通じないものとして囲い始めている。

 

 風間の言うことは至極妥当だ。生徒一人ひとりに参加資格があるかどうかを厳正に取り締まっているかどうかはともかくとして、授業も出ず試験も受けない身勝手な奴が美味しいところだけ取っていこうとするのは筋が通らない、ということだろう。ましてや病気でも何でもない怠惰なだけの不良など、間違っても表に出ようとするべきではないし、学校祭の有志発表など以(もっ)ての外(ほか)だろう。それこそ本当にイジメられかねない。

 

 黙っていても遅かれ早かれ退学処分の沙汰を言い渡されるだけで、そうなればバンドがどうこうという問題ではなくなる。

 少なくとも風間は、そんな不義理を是とはしないのだろう。だからこそ、この話題を避けずに沙紀へぶつけたのだ。

 

 ……そういう大義名分があるということにしておけば、行く理由にはなるか。

 

 結局は沙紀も学生である以上は逃げられない。無駄な破局を迎えるのも本意ではない。そう思っておくのが落とし所かもしれない。

 そう思い、沙紀は答える。

 

「……わかった。善処する」

「────えっ」

「でも今日は無理。いくらなんでも疲れた。それにあの騒ぎの後にいきなり出てきたって怪しいでしょ。だから、早くても明日とか」

 

 観念しつつも早速逃げの口上。とはいえ本心だ。示し合わせたかのように今まで不登校だった生徒が現れても変な勘ぐりを受けるに違いない。

 それは風間も理解しているのか、ここ数日で一番の喜色を湛えながら言う。

 

「う、うん! もちろん! 今日は本当に頑張ってくれたからね! ゆっくり休んで!」

「……そのつもりだけど。何そのテンション」

「えっ。あ、いやその、うーんと、……保科さんが前向きになってくれたのが、嬉しくて?」

「なにそれ」

 

 クサいことを言ったと思ったのか、風間は曖昧に笑って誤魔化した。それから思い出したように時計を見て、身体を店の入口に向けて翻す。

 

「じゃ、じゃあ保科さん、また明日! あっ授業はいつも八時四十五分には始まってるから! 遅刻しないようにね!」

「わかってるってば」

 

 心なしかさっきの演奏後よりも興奮で顔を赤らめつつコンビニを後にした。すぐそこの信号で振り返って、彼らしくもなく手を振っているのを適当にいなす。自分で言い出した要求を承諾しただけだというのに、えらい喜びようだ。つくづくお節介を焼くのが得意な性分なのだろう。

 

 走って学校へ戻っていく後ろ姿を見送る。宅地の死角に紛れて姿が見えなくなる。

 

 そこまで時間が経って、沙紀はようやくイートインスペースの椅子に座った。

 

 そこそこ大きな物音が立った。 

 足が限界だった。

 

「────…………っく、は」

 

 ほとんど尻餅をつくような勢いで固い椅子に落下する。反動を殺しきれず倒れそうになるが、テーブルを掴むのと最後の踏ん張りでどうにか持ちこたえる。

 

 最後の緊張が解けた。脱力どころか筋肉が弛緩する。買ってもらったパンや飲み物など脇に避けて、テーブルにだらしなく突っ伏する。

 隠そうとしていたわけではないが、見られたくもない。

 

 そんな半ば液状化しているような姿勢でも、思考は沸々と緩やかながらも止まろうとはしなかった。

 

 歌った。歌えた。

 

 たったワンハーフの不完全で、下手くそで、厳密には人に見られてもいなかったものの。

 もう二度と、自分には有り得ないと思っていたことが、できてしまった。

 

 そんな実感に、今更のように震えが来る。

 膝が笑う。手が握れない。

 重い疲労、苦しい呼吸、きんと響く耳鳴り、日差しの暑さと風の感触が、全てを現実だと裏付ける。

 

 夢でなく現実に、人知れずとも、保科沙紀が歌った。

 

 言い知れぬ熱が、胃の上あたりに凝っている。

 脊髄から指先まで通る神経系の脈、その末端に至るまでがぞわぞわと蠢(うごめ)いている。

 

 久し振りの感触。

 達成感。

 

「は、は」

 

 漏れた吐息は笑みが混じっているが、意味するところは自嘲でしかなかった。

 何(・)を(・)馬(・)鹿(・)な(・)。

 浮かれるのも緩むのもまだ早い。負け惜しみの言い訳を早速忘れている。曲は不完全でフルコーラスではない。依然として実力は下手くそで、人前の緊張感をまだ思い出していない。

 本当の本番はもっと先にある。

 だというのに、ただの通過点でしかない今日、こんなに消耗している場合ではない。

 

 準備している段階でやり遂げた気になるな。

 そういう意味での嘲(あざけ)りで、戒(いまし)めだ。どうせ他に褒めてくれる人もいない。

 

 テーブルに腕を立て、麻痺でもしているような震えを抑え込み、上体に力を込めてゆっくりと起き上がる。

 背もたれに身体を預けて、重労働を終えた反動で大きな溜息をひとつ。

 上がる脈拍をひとまず無視してビニール袋に手を突っ込み、菓子パンを鷲掴む。震える指を力(りき)ませて封を破り、茶色に薄く焦げたパンを齧りつく。次いで苺牛乳のパックも取り出し、ストローを挿して強めに吸う。

 

 視線を上げて、窓の外を睨む。住宅地中の店舗なので眺めの良さなど欠片もない。十三時にもなっていない空は明るく、今日という日がようやく折り返したに過ぎないことを意味もなく思う。

 時間はまだある。学校に行く気力はまるでないにしても、やろうと思えば何かをやれる。

 反省だの自主練だの、やることは山ほどあるはずだ。それを片付けるだけの時間も、まだ残されている。

 なら、自分が今やるべき事は、何か。

 考えながら、パンの最後の一欠片を口に放り込む。 

 

 …………それでも結局。

 失った体力が災いして、寝てたら終わっているような気もするんだよなぁ、などと。

 自分で自分のことをよく理解している沙紀は、食べ終わった菓子パンの包みをぐしゃぐしゃと丸め、店内備え付けのゴミ箱に放り込んだ。

 

 

 

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