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保科沙紀には夢があった。
万人が一度は夢に見て、しかし大人になるにつれて誰もが諦めていく、面白みのない夢が。
歌手になりたかった。
小さい頃からの夢だった。テレビに映っているアイドルやバンドの真似をして、狭い家の中でドタバタと飛んだり跳ねたりしては親に怒られる時代があった。煌めくステージで、格好いい伴奏に合わせて声を乗せ、幾千幾万の
いつか自分もそこに並び立つのだと、そう思い始めたのは、物心がつく前後だったか。
生意気なものだと我ながら思うが、沙紀は当時から至って真面目に、歌手になるための研鑽を始めていた。流行の曲は大方網羅したし、どうすれば綺麗に歌えるかということを自分なりに調べて特訓したりもした。声が涸れた回数なんて数え切れない。喉飴を舐めながら当時ハマっていたグループの曲を繰り返し聴いた。楽譜をなんとか読めるようになったのは小学校を卒業してからだった。
平凡な家に生まれ、大した才能も無かったが、努力だけは怠らなかった。いつも歌に夢中で、ただそれだけに没頭していた。
中学校に上がってから合唱部に入った。とにかく歌唱力を伸ばす環境に身を置いていたかった。小学校の頃からその手の授業はあったし心得はあるつもりだったが、新たな環境からは急に本格的になった。今までは一人で歌うだけだったこともあって集団合唱というものに慣れるまで時間を要したが、程なくパートをいくつか使い分けられるようになった。当時の自分は同年代の子に比べれば歌の上手い部類だったと思う。
しかし、課題曲のほとんど全てが単調な繰り返しばかりで、沙紀は物足りなさを感じていた。考えてみれば今までの自分は流行りのポップスやロックばかり
継続は力なり。努力は決して裏切らない。回り道こそが近道だと。
沙紀はそれを盲目的に信じた。合唱部に入ったのもその一環だ。通常の授業と比べて多少は専門的になるし、そのための練習などもキツかったが、それがいつか実を結ぶと信じていた。
トロフィーを掴むことはついぞ無かったが、地区大会で初めてステージに立った時の緊張感と、終了した後に褒めてくれた両親の顔は今でも覚えている。
実際、コンクールや学校祭で拍手やスポットライトを浴びるのは気持ちがよかった。コーラスの美しさやリズムの取り方、合わせ方などを学べたのは大きな収穫と言えた。舞台に立ち、自分と部員達の最高傑作を披露することこそが至上命題となり、そのために全てを賭けることも厭わなかった。
ただ歌うことが楽しかった。それだけでよかったのだ。
裏を返せば、何も考えていなかった。一時的な快感の他には何も感じていなかった。もっと重要なことを見落としていた。
あるいは、見ないふりをしていたのかもしれない。
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変化が起こったのは三年生の秋だ。
高校進学を視野に入れた行動が各所で始まり、学年全体が妙にピリピリとした空気を放っていた。少しでも自分の成績を伸ばし、受験戦争を勝ち上がろうという魂胆が全員にあった。沙紀もその一人だ。とりあえず平均点以上を出しておけば成績には困らないと知っていたから、それなりに努力を続けていた。
街路樹の紅葉が深まってきた頃、三者面談があった。前もって希望する進路を書く用紙には、『将来の夢や目標』という項目があった。沙紀は少しの躊躇いもなく『歌手』と書き込んだ。進路はとりあえずどこかの音楽系大学か専門学校を目指し、高校は通学しやすい場所ならどこでもいい。それもこれも、大好きな歌と音楽を続けていくために、幼いながら精一杯考えて出した方針だ。きっと誰もが応援してくれるだろうとばかり思っていた。その上で面談に臨んだ。
同伴したのは母親だった。担任の口から自分の進路希望などが説明され、将来の夢のところまで読まれた。素晴らしい夢だ、頑張れよ、と担任は言ってくれた。何だか妙にむずがゆかった。
しかし、母は違った。
冗談じゃない、と言ったのだ。
不況渦巻くこの時世、叶うかどうかもわからない夢を目指すなどリスクばかりで将来性がない。それも歌手などと、一握りの才能を持つ人間にしか叶わない夢に投資してやるような余裕は我が家にはない。それなら少しでもまともな高校に行って勉強して、必要なら大学も出て就職する、それだけで充分だ、と言った。
驚いた。沙紀にとっては、両親は無条件に自分を応援してくれる唯一無二の味方そのものだった。コンクールへの出場も、その練習のために必要な教材や道具などの出費も、当然ながら全て親の負担だった。それだけ手間も暇も掛けてくれているのだから、沙紀の夢を認めてくれているのだと、信じて疑っていなかった。
だが、母の断言は嘘や冗談の類ではなく、本気の言葉だった。
担任も同じように困惑していて、どうもあたふたしながらその日は解散ということになった。帰りの道中は沙紀も母も無言だった。
家に着いてから気の抜けたまま過ごしていると、帰ってきた父に呼び出された。今日の進路面談のことで話があるらしい。
母を交えたその場で、改めて言われた。
歌手になる夢は考え直せ、と。
どこか給料のいい企業に就職して、その先で良い相手を見つけて結婚でもする方がよっぽど現実的だ。夢が破れて燃え尽きて、何も無くなってしまうよりは、並みの人生でも平穏に暮らしていく方がずっと良い。
父もまた、本気で言っていた。嘘偽り、誤魔化しも子供騙しもなく、彼らなりに誠実な言葉だった。
どうやら二人にとって、沙紀が幼い頃から続けていた歌は所詮『遊び』とでしかなかったらしい。歌手になるという大言壮語も子供の与太話程度にしか捉えていなかったらしい。合唱部に籍を置いているのも、多くのコンクールに出場していたことも、全て若い内の『経験』であって、本気だとは思ってもみなかったらしい。
これまでの何もかも、若者に与えられたモラトリアムにあるお遊びでしかなかったのだと。
流石にここで沙紀は立ち上がった。どうしてそんなことを言うの、と。二人がまるで沙紀の夢を最初から無理と断定しているかのような口振りだからだ。涙ながらの訴えは、しかし、無言のままに否定された。
事実、その通りだったのだ。
二人の目に映っていたのは、吐き気がするほどに濃い哀れみの色があった。
「どうせ無理なんだから諦めろ」と、言葉にせずとも態度で訴えていた。
もう何も言えなかった。言葉を発することも出来ず、ただヒステリーのように金切り声で喚き散らして、今までにない大喧嘩をした。
部屋に引きこもり、食事をとらない日が何日も続いた。それでも沙紀は、歌手になるという夢を諦めてはいなかった。かくなる上は勘当されてでもデビューすると本気で考えた。数日後、両親が心ないことを言ったと謝ってきたが、言外にまだ「諦めろ」と言っているように思えてならなかったので返事もしなかった。
亀裂が入った。それを受け入れていればまだ楽だっただろうと、今となっては思う。
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それから少し経ち、初雪が降ると予報があった日のこと。いつもの合唱部での練習中、沙紀は己の異常に気が付いた。
声が出ない。
以前まで余裕で出ていたソプラノはおろか、アルトも困難になっていた。どう頑張っても掠れ声になったり裏返ったりして、全く上手くいかなくなっていた。
ネットで治療法を調べ、出来るだけの応急処置を施した。念を押して医者に罹ったが、ただの喉風邪としか診断はされなかった。これまで異常に喉を大切にし、冬場なのでマスクの着用も続けた。薬も飲んだしできることは全てやった。
それでも歌声は戻らなかった。
乾燥した空気か、流行している風邪のせいか。或いは女子としては遅めの変声期か。
いずれにせよ、誰にでも一度はあるスランプだろう。部活のメンバーや顧問にはそう言われた。心身を休めるいい機会だ、と。
心優しい慰めだ。だが、沙紀にとっては追い討ち以上の意味はなかった。
声が出ない。歌を歌えない。
歌えなかったら、歌手になんかなれない。
焦れば焦るほど悪くなると頭では解っていても、自己嫌悪は常に付きまとった。どれほど振り払おうとしても、
タイミングが悪かった。あの三者面談から間もなかった。
そうして、急に恐ろしくなった。
親に反抗してまで進もうとした道が、他でもない自分のせいで崩れ落ちようとしていた。
両親の顔が浮かぶ。あの哀れみの目が、一体何を表していたのか。
無謀な子供が、お遊び程度の歌で叶うはずのない夢ばかりを追いかけ、きっかけ一つで破れて、何もかもを失う──そこまで見抜いていると言うような目。
当時の沙紀にはそこまで反骨心が養われていたわけではない。しかしそれでも、勝手に憐れまれていることに腹を立てるぐらいの感性は育っている。自分のプライドを傷つけられることに牙を剥こうともする。
こうなったら意地でも喉を治して、不調に罹る前よりも実力を伸ばすしかない。そうして見返してやるのだ。馬鹿にしてくる連中の鼻をまとめて明かしてやるのだ。
沙紀は療養に徹底することにした。四六時中マスクで鼻と口を覆い、喉飴を常備して一定時間ごとに必ず舐める。
合唱部での活動も自粛するようにした。自分を含む三年生の引退直前でもあったのが余計に
時間が無かった。次の大会で歌う姿を両親に見せて己の本気を示さなければならないというのに、いつまでもスランプは逃してくれなかった。
大会まで残り二週間。いよいよ追い込みの時期になっても沙紀の経過は良好とは言えなかった。
部の練習には参加できず、下手に自主練習もできない。できることと言えば楽譜を追いながらイメージトレーニングすることぐらいだった。何もできることがないというのがあまりにも歯痒く、ただストレスを溜め込むばかりで発散する場所がなかった。それでも今は療養が自分の仕事だと言い聞かせ、とにかく回復する時を待った。
こうまで練習を休んでしまっては部員にも申し訳がない。せめて顔を見せる程度はしておかないと、どこか不安な気持ちを拭えなかった。
何が不安なのか、薄々気付いてはいたが、明確な表現で形を持たせてしまうことが怖かった。
その日、いつも通りに音楽室へ向かい、防音性の分厚い扉に手をかけた。
だから、中にいた部員達も、扉が僅かに開いていることに気付く者はいなかった。扉を開けた人物がその場で静止していることにも気付かず、自分達の話を遠慮なく続けていた。
沙紀にとっては、それが
『──……てかさー、最近結構いい感じじゃない? やっとまとまり出てきたって先生も言ってたし』
『ねー。ほんと、今までの調子の悪さはなんだったのよって。一人抜けるだけで全然違うね』
『あの、先輩。そういうことってあんまり言わないほうが……』
『いいのいいの、本人いないし。あんた達もちょっとは思ってたでしょ。あの子が全体のバランス崩してたんよ』
『一生懸命なのはいいことだし、下手ってわけじゃないんだけどねー。我が強すぎるって言うの? そのせいで他が振り回されるわ立て直すのに必死だわでさ』
『ぶっちゃけ下手なだけより厄介?』
『うーわ言ったわこいつ』
『だってそうじゃん? しばらく調子悪そうだし、あの様子じゃ来週のは間に合わないっしょ。ついでに卒業まで大人しくしててくれないかなーなんて』
『引退じゃなくて? ……ああ、卒業式の合唱?』
『そうそう。他の人達はともかくウチらはさぁ、三年付き合ってやったんだから最後ぐらい勘弁しろよって感じ。思い出にまで残らないでー』
蛇口が緩んだのか、元々滑りがいいのか、ともかく留まる様子はなかった。しばらく固まっていた沙紀が脱兎の如く走り出したのは五秒後のことだった。
多感な中学生を、使命に燃える青少年を、一人の人間を折るには充分だった。
属する集団のためを思い、自分の力が必要だと信じて疑わず、そのための行動や努力の全てが無駄とわかったのだから、沙紀自身も留まる理由はなかった。
ただ、ひたすら走った。廊下に響く足音も厭わず下駄箱に直行し、乱暴にブチ撒けた外靴に履き替えて、それからは体力の続く限り走った。大事にしていた喉に血の味が滲むのも構わず、痛みと冷たさが肺を突き刺そうともそのままに、薄暗くなりつつある町を駆け続けた。
ある意味では幸運だったのかもしれない、と沙紀は思う。
自分の思い上がりに気付かせてくれたこと。知らなかったとはいえ不満を言ってくれたこと。目を背けていた事実を正面から叩きつけてくれたこと。
誰もが気遣って表には出さないようにしていたのを知ることができた。それはきっと幸運と言っていいのだろう。
全てに納得がいった。ようやく、今になって、周りの人間が妙に厳しくなった訳を理解した。
両親の意向と言動、憐憫の目、仲間だと思っていた他人からの評価。
才能と技術が問われる世界へ飛び込むことを無謀と評された根拠は何か。
簡単だ。
自分には才能も技術もない。早い話が、下手クソだと思われていたのだと。
傍から見てそう評価されるだけの実態だったのだと。
だからご丁寧にも止めてくれたのだと。
事実、合唱部は管内のコンクールでも成績が揮わなかった。伝統ある強豪校はもとより、格下と目していた団体にすら順位を抜かれる。野球やサッカーでもあるまいし、文化系の部活が競った順位にそれほどの価値がある訳でもないと現在でこそ理解はできるが、中学生の価値観にとって表彰状やトロフィーは何にも勝る勲章だった。廊下の掲示板に新聞から切り抜いた記事が載るだけで尋常ではない優越感があった。上を目指せばその機会が増えると知り、そのために努力したからこそ、形に残る痕跡こそが存在証明のようなものだった。
だが、沙紀はとうとう実績を残せなかった。
それが運否天賦のせいではなく、自分のせいだったのだと思い知った。
加えて今の自分は何だ。
歌えない。下手だの実績だの以前に、話にもならない。歌えない歌手など笑い種にもならない。
あるいは、両親はこれを見抜いていたのかもしれない。
この子に歌手など到底無理だ。どうせ傷ついて倒れてしまうなら、早いうちから他の進路に導いてやるのが親というものだ。
例え恨まれようとも、きっといつか解ってくれるだろうと。
吐き気を催す
合唱部の面々もそうだ。言葉の上では慰めてくれていた。しかしその実、彼女らの表情はどうだったか。内心ではほくそ笑んでいた。いなくなって清々したとこの耳で確かに聞き届けた。
もしかして、と前置きするまでもない。そんな余地はたった今吹き飛んだ。
人よりも優れていると信じていた自分の実力は、周りからしてみれば大したことではなく、それどころか、ただ劣っていることに気付けなかった。
それを自覚せず、そんなはずはないと思い込み、信じて疑わず奔放に振る舞った。
理解した瞬間、喉の奥に何かが詰まった。
三キロも経たず限界が来た。気付けばそこは通学路から大きく外れた住宅街で、あまり馴染みのない景色に踏み込んでいた。ぽつぽつと電信柱の街灯が点いていく。明るくなった分だけ脇の暗がりが強調され、街路灯が設置されていない公園の端などは闇の濃さが一層深くなった。
息を切らしながらそんな景色を眺めている間もなく、臓腑が絞られるような吐き気が込み上げてきた。
断腸の故事にあるように、限界を超えた激しい運動は足の筋肉よりも内臓にダメージが行く。憤怒か悲嘆かが燃料となって莫大なエネルギーをひり出そうとも、苛烈の代償は必ず我が身に返ってくる。
どこに駆け込む暇もなく、沙紀は公園の色濃い闇を湛える藪に
段々と、自分の身体の内側に染み込んでくるものがあった。
望みを絶つ、そんな字面通りの、確信めいた決意のようなものだった。
歌手になんかなれない。なっちゃいけない。
これ以上の恥曝しになんか、なりたくない。
目の前が霞む。頭がボーっとする。全身に力が入らない。かは、と呼吸する音がやけに耳に近い。
何も入っていない胃袋を締め上げて、液の一滴まで絞り尽くして、ようやく実感を得た。
声が出ない。歌えない。
自信の源は失われ、その自信さえ誰かの気遣いによって成り立っていたものだと知り、大いに迷惑をかけていたと知った。
もう、なにも、なくなった。
絶望は諦念へ変わり、失意となった。手を伸ばす気力すら手放した。掴もうと藻掻いたところで無駄だと分かった。
最後まで体内に残っていた何かが、とうとう吐き出された。
誰もいない薄闇の公園で誰かが喚いた。泣き叫びは、虚しく掠れていた。
やけに寒かった記憶があるのは、冬の底冷えのせいばかりではなかっただろう。
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もう少し根性を発揮してリハビリを続けていれば、違う結果になったかもしれない。
だが、そうはならなかった。どうしようもない、それだけが事実で、後には何も残らない現実だった。
後から聞いた話では、合唱部のコンクールは散々な結果だったという。とはいえもはや興味もなかった。三年生の引退は沙紀を除いてしめやかに行われ、めでたくもなく、全員が来たる受験シーズンへと移行していった。沙紀がそこにいた痕跡は、他と同じく至って事務的に、卒業と同時に洗い流されていった。
沙紀は燃え尽き症候群を通り越して抜け殻状態になっていた。
学生の本分たる勉強を含め、万物に対して完腑無きまでに興味を失い、その茫洋っぷりを見てさすがに危惧したのか、親の勧めで何度か心理カウンセリングを受けた。果たして効果の程は、なんとも望ましくない。
第一志望校は当然落ちていた。前もって候補に挙げていた滑り止めにはどうにか合格していたらしい。諸処の手続きをどうしたかは覚えてない。親がどうにかしたのだろう。気付けば地元で下から数えた方が早いぐらいの高校に入ることになっていた。そんなこともどうでもよかった。
かつてないほどに無気力だった。そんな調子で進学したところで、後々の生活の質はたかが知れていた。
音楽に関しては、あの日以来一度も触れていない。
部屋に何十枚とあったCDも、いつかの誕生日に買ってもらったポータブルプレーヤーも、今となっては目障りでしかないので物置に放ってある。捨てるとまでいかないのは度胸がないからだろうか。しかし、もう随分と長い間、全てを封じた箱を開けていない。
歌いもしなければ聞きもしない。沙紀は身の回りの音楽を徹底的に排斥した。
そうでもしなければ、胃酸が込み上げてくるようになってしまった。
音楽を聴いていると吐きそうになる。あの日の記憶が一瞬の内にフラッシュバックして、叩きつけられる情報と感情、苦虫と酸鼻の入り混じる吐瀉物の味を思い出す。どうしてこんなに辛いのかと直結する思考が、絶望のきっかけとなった記憶にリンクする。
そうして、止まらなくなる。
だが、日常生活を過ごしているだけでも『音』は耳に入ってくる。テレビ番組には必ず何らかのBGMが鳴り喚いているし、街を行けばどこかでプロモーションビデオが垂れ流されている。特に週末のゴールデンタイムは家も外も鬼門だ。音楽番組が特に集中している。
おかげで居場所がほぼ無くなってしまった。退屈な静寂を払うために音楽があるというのに、それがかえって邪魔だった。
トラウマを刺激されてパニックに陥る。そんな自分があまりにも無様で情けなくて、そうならないために、音楽というものから縁を切った。
もうひとつ。あの日以来、沙紀の喉はおかしくなった。
初期の頃に発覚した症状だった。日常会話に支障はないのに、いざ歌おうとすると声が出なくなるのだ。
医者には
諦めたのだ。
きっと半ば誓うように思い込んだ絶望感が身体に強いているのだろう。自分を矛盾に追い込むかもしれないことに関して、まずは一時遠ざける。そういう防衛本能が人間にはあると何かの授業で習った記憶がある。せめぎ合う己に壊されないよう、どちらも黙らせて、自分を守るのだと。
目を背けているのは解っている。逃げていることなど、誰よりも解っている。だからこそ、こうなることを選んだ。
もう、夢に触れたくなかった。”こんなはずじゃなかった”と思いたくなかった。
どうせ歌えない。薬を飲んでも保湿をしても一向に改善されず、自分の力ではどうしようもない。医者は頼りにならない。もう何をどうしても元の声には戻らず、二度と歌えはしない。
日常的に音楽の断片を聞き取る度にそう思う。思い知らされる。
私は、もう二度と、歌えない。
残虐な死刑宣告が木霊のように響き続け、もうずっと長いこと繰り返されている。何でもいいから殴りたくなる。手首を切るのも屋上から飛び降りるのも、その
実に不快な体調不良であり、一時期は部屋に籠もってその衝動を抑え込まなければならなかった。
だからすり替えた。
あたしは、もう、歌わない。
沙紀は音楽を捨てた。
もはや未練はこれっぽっちもない。あってはならない。
あの底冷えが身体の芯にこびりついて離れずとも、惨めに蹲ることこそが救いだったのだ。
☆
どれだけ怠惰で無気力な人生を送ることを選んだにしても、暦というものは容赦なく、あるいは有情だからこそ、先へ先へと進んでいく。
ある日の二時限目を、沙紀はまた誰もいない屋上で食い潰していた。
今日は青い空を薄い雲が覆っているおかげで幾分か過ごしやすい。昼過ぎまで残っていようか切に迷う。最近、校内では昼休みにBGMをかける企画が挙がっているらしく、放送委員とやらが全校生徒にリクエストを取って流行の歌やら何やらを流している。楽しい休憩時間にささやかな花を添える心遣いなのだろうが沙紀にとっては迷惑行為でしかない。流行りのJ-POPが屋上にまで響いてくるようなことはないだろうが、毎度のことながら午前十時から目的もなく長っ尻を構えていると外堀を埋められそうだ。
何より暇すぎる。
手持ちのマンガ類だけでは心許ないが、昼休みに突入してしまうと安易には動けなくなる。自分の顔を知っている同級生ならまだしも、生活指導の教師や中岡委員長に見つかるのは避けたい。その前に何とかアイディアを出す必要があった。高校入学以来、一度も出てきた試しのない暇潰しのアイディアを。
近くのゲームセンターにでも涼みに行こうか。しかし金がない。遊ぶ気も起きないし、第一あそこは騒音の溜まり場だ。電子的なゲームミュージックだけでは飽き足らず、最近は甲高く補正された人間の声までもがどこからともなく喚き散らしてくる。沙紀にとっては鬼門でしかない。
家に帰るという手もあるが、専業主婦の母にあれこれと粘着されるのがオチだ。昨日は昨日で面倒だった。靴を脱いでいるタイミングで気付かれてしまい、ねちねちくどくどと説教されが始まったのにはウンザリした。どうしてこう、大人という生き物は何につけても理由や動機を説明させようとするのだろう。毎日律儀に帰ってくるのだから家出少女よりよほどマシではないか。そういう執拗な態度がかえって反抗心を芽生えさせるのだ。その度に沙紀は「そもそも自分がこうなったのはあんたらのせいでもあるんだ」と叫びたくなる。
ごろんと寝転がり、やれやれと溜息を吐く。どうしたものか。
不良のようなレッテルを貼られて、しかし不良らしくなりきれてもいない自分は本当に中途半端だと、視界を埋める広い晴天はそんなことを思わせる。
本当に、全く。
自分は一体何がしたいのだろうか。
どうすれば、その問いの答えが出るのだろうか──。
☆
湿った土の匂いの中で、ざあ、と涼しい風が全身を通り抜けた。
沙紀は森の中にいた。
夜の森だ。暗く、しかし無明の闇ではない。風に揺れる草や枝葉の黒い影は目に見えている。
夜でありながら明かりはある。
それは空だった。
見上げれば、満天の星空が空を埋め尽くしていた。
肌を撫でる涼風は心地よく、草木の揺れる音が耳に優しい。誰もいない森の中でただ独りだというのに、寂しくはなかった。この空間が気持ちの良い場所だと本能が喜んでいる。星と風だけがあり、それだけで満ち足りていると感じる。
だが、風の奥に何かがある。何かが聞こえてくる。それは鈴のような、あるいは何かに
音が一つ弾むと、星も動いた。
音が増え、星が行く。それは流星そのものの音となっていった。
やがて風は消えた。世界の音は星だけになる。細いばかりだった流星が、次第に大きく、太くなっていく。それに連れて音も強くなる。流星は群れとなり、轟音を棚引かせて空を流れていく。爪痕のようですらあった。音が、あるいは音を鳴らす意志が、夜空をいたずらに切り刻む。それは金属を引き裂くような響きにも似て、
目を覚ました。
☆
いつの間にかうたた寝していたらしい。沙紀が身を丸めているのは初夏の日差しに焼かれる真昼の屋上で、涼風はおろか星の一つも見えやしない。爽やかさの欠片も感じられない湿った現実に、どこか安堵にも似た吐息を漏らした。
……夢、か。ずいぶん久々に見たような気がする。
スマホを持ち上げると、自動的に点灯した液晶画面に時計が浮かび上がる。寝転がってからさして時間は経っていないらしい。日陰にいるとはいえこの暑気の中でよくまあ呑気に眠れたものだ。それとも気を失っていたのだろうか。どうせだからこのまま本格的に二度寝してしまおうか……。
再び
眠りは拒絶された。
脳が状況をようやく認識したのだ。
耳に何かが聞こえている。近くで
すぐ近くに、誰かがいる。
頭上に気配を感じた。
「……ぃ」
空気とは別に急速に冷えていく臓腑と共に、今更ながら尋常ならざる危機感を沙紀は抱く。呑気だとかそんなレベルの話じゃない。例え学校内だとしても物騒なニュースが絶えない昨今、いくら何でも無防備すぎると己を戒めた。
と同時に、この時点で自分に何らかの外的干渉が施された痕跡はないようだった。着る気もない制服の崩れは元からだし、手持ちの僅かな荷物も盗まれている様子はない。
しかし人間の気配は明らかにある。
というより、先程から
「…………」
意を決し、その正体を見定めることにした。
いた。
そうと認識した瞬間に顔を引っ込めた。が、こちらが動いていることに気付いていないのか、先方が動く気配はない。
再び顔を覗かせる。
制服からして男子のようだった。白の半袖Yシャツに黒のスラックス。男のわりには伸び気味な黒髪を、冠のようなものが跨いでいる。それは耳までを覆い、聴覚を塞いでいる。
ヘッドホンだ。今時主流の無線式。
恐らく接続されているであろうスマートフォンが胸の上に横たわっている……が、沙紀の耳にはどう聞いても、そもそもの音がスマホ本体のスピーカーから鳴っているようにしか思えなかった。ヘッドホンから漏れているならもっとくぐもった音質になるはずだ。今聞こえている音は、何となれば多少クリアですらある。
無線接続のデバイスにありがちな事故だが、その持ち主はまったく意に介していないようである。だとすれば頭につけているヘッドホンがまるで無意味になるのだが、一体何のつもりで……と思い、沙紀は気付いた。
彼はわざとやっているのではない。
向こうも寝ている。気付いていないだけだ。
規則的に聞こえる呼吸、その穏やかさは安眠のそれだった。初夏とはいえ日向のど真ん中で、気温も依然として夏らしさを増す一方だというのに、よくあんなところで寝られるものだ。
しかし、それにしても、よりによって男子。
喉奥をヤスリが通り抜けるような嫌悪感にまみれる。
とりあえず、あちらに勘付かれていないうちに退散した方が良さそうだと沙紀は判断する。何を考えてこんなところで寝ているのかは皆目見当がつかないが、この期に及んで同じ空間にいても気まずいだけだ。それにこの時間帯の屋上にいるということは、彼もまたサボり魔なのだろう。絡まれても面倒だ。
出来るだけ音を立てないように立ち上がり、念のために上履きも脱いで、消音効果最大の抜き足差し足で昇降口に向かう。特に何も悪いことはしてないのに、どうしてこっちが忍ばなければならないのだろう。
が。
一体どういう因果か、白昼堂々と屋上でサボっていたのを神様に見咎められたのか。
足下にあった障害物に気付かず、蹴り飛ばしてしまった。
バケツが派手に喚きながら転がっていく。突然のことにショックで身が竦んでしまう。
流石に男子が目を開けた。
「あ」
両者合わせて、間の抜けたような声が出る。
薄い縁の眼鏡をかけた男子が、レンズ越しにこちらを見つめていた。驚いたように口も半開きで、そのまま固まっていた。
沙紀は沙紀で、何でこんなところにバケツなんかあるんだよクソッタレと誰かに向けた悪態を内心で吐きまくり、同時にこの状況をどうしようと必死に考えていた。脳の大半が思考に集中しているので身体は動かせない。
必然的に、両者は目線が交錯したまま停止していた。
しかし、沙紀の黙考が完了したのが早かった。
とりあえず逃げる。もうそれしか頭にない状態に結した。
ぐるりと顔の向きを変え、棒のようになった足を無理矢理にでも前へ出す。少し手前に靴を落とし、続く数歩で爪先を突っ込んだ。そのまま階段を転がるような勢いで駆け降りる。
「あっ、……ま、待って!」
後ろから何故か呼び止められたが、拒否の態度を身体で表しつつ沙紀は全力で逃走した。
今はただ、無性に気恥ずかしさだけが先行していた。
だから学校には来たくないんだ──そう思いながら、誰もいない廊下をひたすらに走っていった。
走って、走って、居所を探して──手近な女子トイレを見つけて、個室に飛び込むように隠れた。
荒れた息と併せて動悸が収まらない。きっと色々と奇襲だった出来事に身体が対応し切れていないのだろう。ショックで跳ね上がった心臓はしばらく落ち着きそうにない。
久々に走ったものだから足も震えてきている。カバーを上げていない洋式便座に座り、もう一度呼吸を繰り返す。
何だったんだ、さっきのアレは。
完全に油断していたとはいえ、人が寝ている空間に衒いなく侵入して事も無げにリラックスするなど、一体どういうつもりだったのだろう。
なにか目的があったから屋上に居座ったのか。
確かに学校内のあらゆる敷地はパブリックスペースだが、引くべき一線というものがあるのもまた事実だ。当の屋上が代表的な例だろう。校則に明記されていないものの、基本的には立入禁止となっている。他にも生徒がおいそれと入れない場所はいくらでもある。
常識から
さらに考えてみれば今は授業時間だ。堂々と抜け出して禁止領域でくつろぐような馬鹿者は自分ぐらいなものかと思ったが、ちらっと見た感じ、あの男子は決して授業をサボるようなタイプの人間ではないと思った。
気弱そうな目、色気のない無造作な髪、総じて評すればどこにでもいるような地味系。細いイヤホンコードがやけにマッチしていた。つまり雰囲気からして『サボる不良』とは到底考え辛い。そしてそういう人間は、真面目ゆえに、気まぐれにサボりの選択肢を選ぶことがない。
どういうつもりだったのだろう。先客がいるにもかかわらず相席し、そして最後の瞬間には何やら切羽詰まったように呼び止めていた。
そう考えると、ひょっとして自分に用があったのではないだろうか。
……何故?
ほぼ不登校にも等しい神出鬼没の不良生徒を相手に、一体どんな用件がある?
結局はそこに行き着くわけだ。とにかく動機が解らない。改めて問い詰めるような根性はないが、何も聞かず一目散に逃げてしまったのは少々悪かったかと思う。
見覚えのない顔だったし、もう二度と会うこともないだろう。お互い犬に咬まれたようなものとして忘れてしまうのがいい──そう結論付けると、ちょうど頭上からチャイムが鳴った。二時限目が終了したのだ。
ちょっとしたハプニングはあったが、さてこれからの数時間はどう過ごそうかと考えつつ、特に用は足していないのでそのまますぐ廊下に出る。
そのあたりに気を取られていて、自分の姿が他の生徒や教師たちの目に入ることなどは一切考えていなかった。
「あ」
不意に、後ろから声が挙がった。気の抜けたような、何だかおぼろげに聞き覚えのある声色だ。
思わず振り返る。
先ほどの男子がいた。
「あ」
沙紀も釣られて声を洩らす。
彼の息は上がっていた。うっすらと汗が浮かんでいる。沙紀を探して走り回っていたのだろうか。まさかの再会に、両者の視線が交わった。
そして、また
視界端の教室からは次々と生徒が溢れ出し、両者の近くにも往来が増えていく。そんな中、不自然な位置で不自然な距離を保ったまま、しかし確かに視線を交わしている二人組。
このままでは無用な注目を浴びる羽目になる。鬱陶しい状況に陥るよりも早く撤退しようと、沙紀は即座に踵を返した。
だが、
「待って! ──
突然に名前を叫ばれた。
えっ、と返事をするよりも、どうして名前を知っているのかという困惑が先に浮かび、何で大声なんか出すのかと苛立ちが付いてくる。喧噪が起こり始めているとはいえ、今のボリュームはそれを遙かに凌駕し、つまりわざわざ避けた注目が一気にこちらへ向けられた。
しかし、沙紀の方もほぼ反射的に振り返ってしまった。ただし身体の向きはどちらかといえば横。いつでも人混みに紛れてトンズラするための、これもまた反射的な措置だ。
時間に換算すれば数秒もない空白だった。無視して進むかどうかを束の間に悩んだ。
だが、沙紀はこの瞬間が、やけに流れの遅い数秒に感じた。
言葉が続く。それは、
「──僕とバンド組んでください!!」
…………は?