☆
うっかり足を止めてしまったのが失敗だった。地味系男子が発した突然の叫びと宣言は周囲の注目を否応なしに集め、その中心に出没率の低い人物であるところの沙紀が据えられてしまったものだから、驚きの視線はやがて好奇の色へとグラデーションを変えていき、居たたまれなさが高まっていくのにそう時間は掛からなかった。
ところ変わって、また屋上。
なんでまた揃ってここに戻ってきたのかと言えば、なるべく二人だけで話が出来る場所、という要望があり、沙紀はつい今しがたまでくつろいでいたお気に入りの場所へ蜻蛉返りすることになったのだ。
……にしても何やってるんだろう、自分。
思わず仰いだ空は、嫌味たらしいほどの青に塗り潰されていた。
三限の授業開始を告げるチャイムが鳴ったが、連れ立って辿り着いた青天井のもとで、沙紀は昇降口付近に腰を落とした。
「で、あんた誰」
「えっ、あ、えーと……お、覚えてない、ですか……?」
据わった目で疑問符をそのまま口にすると、向かいで正座の男子は解りやすく萎縮した。見た目そのままというか、気の強い性根では無いようだ。沙紀にとってみれば、これも面倒に思う部類の人間である。
だが、刺すような視線を浴びながらも、男子は言った。
「……えっと……か、
「クラスが?」
「うん。中学も同じだったんだけど……覚えてない?」
まるで覚えていない、というのが率直な答えだった。
沙紀にとっては中学生時代のことなど思い出したくもない黒歴史でしかない。実際に悪いことが起こったのは三年目の後半だったわけだが、直近の記憶が最悪なので全て消去してしまっていた。だから覚えているはずも無い。
「ごめん」
「あ、ううん、気にしないで。保科さん、あんまり学校来てないみたいだし、僕も影薄いってよく言われるし……」
聞いている方に気を遣わせるようなことをボソボソと呟く風間という男子。自嘲気味に歪む口元を見て、沙紀は改めて目の前の人物が面倒臭い奴だと認識した。
伸びた黒髪は瞼を覆うほどで、清潔感がないではないにしても野暮ったくはある。加えて数回にも満たない会話で判断出来るほどの、人と接するのが苦手な性格。かと思いきや突拍子もないことを人目のある場所で恥ずかしげも無く叫んでしまう節操の無さ。ここまで揃えば、沙紀でなくとも面倒だと思うだろう。
だが、放っておいたらいつまでもブツクサ言ってそうな奴に付き合ってもいられない。だから口火は沙紀から切る。
「何の用? バンドとか何とか言ってたけど」
呆れたような溜息を交えた言葉の裏で、沙紀は彼の用件を多少察していた。あんな大声で聞いていればそうそう忘れもしない。
彼は中学校の同級らしい。ということは、かつての沙紀を──まだ歌えていた頃の沙紀を知っているということだ。
であれば、その後の顛末を知らないということはないだろう。あるいは本当に知らないで言っているのか。
他ならぬ沙紀に対して、バンドを組めなどと。
「そう、そうなんだ。次の学祭で有志発表に出ようって思ってるんだけど、保科さんにボーカルやってほしいなって思ってて……」
「他あたってくんないかな」
もはや相手の言葉を待たずに沙紀は言った。
冷やかしも二度聞けば充分だ。誰かに命令されて喧嘩を売ってきたとしか思えない。それが被害妄想だとしても、沙紀には到底、本気にする意味がなかった。
風間は目を丸くして固まった。片手はポケットに突っ込まれ、何かを取り出そうとしていた。その姿勢のまま、沙紀の言葉を聞いていた。
「何をどこまで知ってるのかは知らないけど、あたしはもう音楽はやらない。バンドなんて興味もない。誰に言われたって協力はしない」
正直な本音だった。
同級生というからには、沙紀が元合唱部であることは知っているのだろう。それこそ学校祭のプログラムでは全校生徒を前に歌ったりしていた。他の文化系に比べれば目立つ部活だ、クラスメイトを覚えていても不思議ではない。
だが、今の自分の何を見て、何を思ってあんなことを言ってきたのか。
授業にも出ず、立入禁止の屋上で高いびきを掻く自分に、何を期待しているのか。
「あたしより歌える人の方が多いでしょ。この学校でも探せばいるよ。手伝いはしないけど、応援はしてる」
「え……、ま、待って待って。僕の話を……」
「聞く気はない」
据わった目で、風間を直視した。
「いい? ──あたしは、もう終わったの」
何の理由もなく、ただ過去の自分を知っているだけだというなら、それはただの妄言だ。こちらの都合を考えていない勝手な勧誘だ。そんなものに付き合う義理も人情も、沙紀は端から持ち合わせていない。
風間は、黙った。その様子を見て、沙紀はとっとと腰を上げた。せっかく場所を移したが、あの場で断ってやってもよかったかもしれない。無駄な時間を食ったばかりか、秘密の隠れ家まで暴かれてしまった。またちょうどいいスポットを探さなくてはならない。まったく頭が痛くなるような現実だクソッタレ。
思いつく限りの候補地を検討しながら、沙紀は踵を返して屋上を出ていく。その一歩を踏み、
「知ってるよ」
ようやく風間が声を上げた。
怪訝に振り返る沙紀に対して、風間は立て続けに喋り始める。
「中学三年ぐらいからか、合唱部の出し物にも出なくなったよね。進路相談の時に色々あったとか、噂だけは聞いてる。本当は何があったのかは解らないけど……その時期にきっかけがあったってことだけは、知ってる」
「…………」
「そうでなくたって、学祭やコンクールで誰よりも張り切ってた人がさ、明らかに落ち込んで俯いてるんだから。誰だって解るよ、何かあったんだって」
コンクールにまで顔を出していたのか。自分と関係のない部活まで見に行くとはずいぶん異端のように思える。それとも部内に知り合いでもいたのだろうか。そのついでで沙紀のことを知っていたのか。
いずれにせよ、どういう神経をしているのか理解できない。
だったら何故。何のために。
焼けつくような苛立ちが背骨を這い上がる。脳髄が麻痺するような拒否反応に、目の前が揺れる。
「なんで今更」
何もなくなった自分を呼び止めたのか。
無神経な台詞に対して、しかし風間はまっすぐこちらを見ていた。長い前髪に見え隠れする両目は、確かに沙紀を見ていた。
それが余計に神経を逆撫でする。惨めな現実を言い当てておきながら、何故。
「そこまで知ってるなら解るでしょ。あたしはもう終わったの。歌なんて辞めた。音楽なんて聴かない。バンドなんてやるわけない。他をあたってよ。あたしじゃなきゃ駄目な理由なんてないでしょ」
「いいや、保科さんじゃなきゃ駄目なんだ。……その理由があれば、話を聞いてくれるってこと?」
「屁理屈で誤魔化そうとする奴なんてこっちから願い下げだわ」
「じゃあ、理由は聞いてくれるんだね」
さっきまでの気弱さはどこへ行ったのか、妙な押しの姿勢に沙紀は少なからず戸惑い始めていた。その場限りの出任せや口八丁ではなく、こちらをまっすぐ見て対話しようとしている。
なんだ。何なんだ、何をやらせようとしているんだ。
「今だからさ。僕も、保科さんも、その他大勢の有象無象だって、今だからやれることがある。今じゃなきゃ駄目な理由がある」
ポケットに突っ込んでいた手を出し、そこに仕舞われていた物を取り出して見せる。硬質なベイビーブルーのそれは、何世代か前のポータブルプレーヤーだった。今時はスマートフォンとサブスクリプションが主流となっているために、音楽を聴くためだけの機械というのは少し珍しい印象を受ける。長く使い込んでいるのか塗装が所々剥げているが、まだ現役と誇示するかのように液晶画面は煌々と光を放っている。
音楽を聴くための道具。
そうと認識した瞬間、現金にも、背筋を伝う熱がさっと引いた。臓腑がひっくり返り吐き気が込み上げ、思わず口元を手で隠す。
しかし風間は、あろうことか沙紀にそれを差し出した。
「聴いてみてほしい。保科さんが気に入らなかったら、その時はすっぱり諦める。二度と保科さんには近付かない。こんな話もしない」
ただ、と風間は続けた。
「これは、保科さんをイメージして作った曲なんだ」
「……は?」
それを境に、眼つきが変わった──気がする。前髪に隠れている三白眼気味の視線が、咎めるような鋭さを含んだ。
「一度でいい。聞いてみてほしい。この曲は、保科さんに歌ってほしい。そう思って書いた」
口調は穏やかだが、差し出される丸っこいポータブルプレーヤーにまで、何だか解らない剣呑さを放っていた。まるで剣を突きつける闘士だ。いつの間にか足を崩して胡座で下から見上げているくせに、その目つきはこちらに挑戦するような、凄味すら伴っている。
まさしく喧嘩を売られている気分になった沙紀は、臆する自分を隠して言い返した。
「あたしの、何を知ってるっての?」
それにも風間は答えた。
「知らないよ。僕は、保科さんのことを何も知らない。だからこの曲は偏見の塊だ。保科さんを傍から見た、僕の解釈だ。それが失礼なことなのはわかる。気持ち悪いことなのもわかる。でも、この歌を保科さんに歌ってほしい。保科さんなら歌えるように作ってある」
気持ち悪いだろう、と、当の本人よりも早く言われた。どの口がほざくか。見知らぬ他人にぴったりの靴を用意されたところで、シンデレラでもない限りはまず訝しむだろう。どこで知った、他に何を知っている。いいや、他には何も知らない──そう言われて納得できる現代人がいるものか。
言えば言うほどボロが出てくる。私であれば、保科沙紀であれば歌えるように? 一体いつの話だ。歌うことを拒絶して半年以上も経っている。喉を閉じて久しい沙紀には、今や童謡であっても音を拾えるかわからない。そんな人間の何に合わせて作ったというのだ。
「……あんた、本当に何なの? なんであたしに
もはや歯に衣着せず、互いの記憶に残らないよう気を遣う素振りもしなくなった。訳を聞いたところで印象が変わるわけでもない。だが、放っておいたら余計に調子づくかもしれない。だから釘を差して、はっきりと拒絶しようと決めた。
「あたしのイメージで曲を作ったところで、それであたしが絶対必要になるわけじゃないでしょ。そこまで想像力豊かなら、他の人のイメージでも作曲できるでしょうよ。元々の曲を弄って、その人に合わせてアレンジし直すことだってできるんじゃない?」
大して交流もない沙紀をイメージできるなら。彼の手に握られたポータブルプレーヤーの中身が本物なのだとしたら、恐らく風間にとっての作曲とは、それほど難しいものでもないのだろうと、沙紀は考えながら言った。少なくともゼロからモノをつくる技能はあるのだろう。実際、そこまでの執念があれば何だってできるような気がする。羨ましいことだ。
沙紀にとって、作曲の経緯は説得材料にはならない。一方的な贈り物など、受け取らずとも勝手にどこかへ流れていく。
「あたしに拘る理由は、なに?」
ここまで聞いてやるのもむしろ親切すぎるぐらいだ。何を言われようと全て無視して、学校を出て行ってしまっても沙紀としては一向に構わない。この上さらに、相手の言い分を聞き出そうとまでしている。我ながら、とんだお人好しだ。
そうして、罵声混じりの沙紀の言を黙って聞いていた風間が、自分の番だと口を開く。
「許せないからだよ」
☆
三時限目終了のチャイムが鳴る。いつもよりやけに腹の底を揺らすような鐘の音を、沙紀は呆けて聞いていた。
風間の一言に、二の句を告げずにいる。何を言い返すべきかが思いつかない。それは体裁としても、風間に怯ませられたようなものだった。この気弱そうな男子に、敵意とも取れるような言葉を突きつけられ、その落ち着き払った鋭さに、沙紀の勢いが抑え込まれた。
風間のそれは、出任せの類いではなく、まっすぐに沙紀に向けられている。こちらの事情は何も知らないと言ったばかりだというのに、その上で、沙紀を許せないと断言した。確信を持った上での対立だった。
次第に、苛立ちが再燃してくる。一瞬だとしても黙らされたということが、自分でもよくわからない苛立ちが燃料となる。
「……許さないも、何も。あんたはあたしの友達でも何でもないでしょうが」
「そうだね」
頷きながら、風間は伸ばした手を下ろさない。
「僕は保科さんのことを何も知らないのかもしれない。でも、似たような人達は嫌ってほど見てきた。そういう人達がどうなっていったのかも」
訥々とした語りは止まらない。沙紀も思わず傾聴し始めていた。
「両親が
それは、間違いではない。むしろ限りなく真理に近いことだ。
気の遠くなるような努力の果てに、栄光ある未来が用意されているとは限らない。誰に保証されているわけでもない。そんな現実に、仕方ないと、折り合いをつけて生きている人間の方が多い。
だからこそ社会は正常に回っている。夢追い人だらけではコンビニすら破綻してしまう。誰かが自分達を少しずつ背負ってくれているおかげで、ようやく世界は今の形に収まっている。
志半ばに断ち折れて、別の道を探すことは、決して悪いことではない。
実力が足りなかった。チャンスを逃した。運が味方しなかった。
どんな理由でも、それはもうどうしようもなかったことだから。
──そんなもの。
同情に見せかけて、自分を慰めているだけだ。
閉ざした蓋の隙間から、『何か』が囁く。
やめろ、と思っても、『何か』は薄暗い底から朗々と嘲っている。沙紀の思想を、現実を、笑い種そのものだと高らかに嗤っている。
──違うだろう。
そうは思っていない。下らない一般論に
でなければ、夢が破れた程度で絶望したりはしない。
──そうだ。あたしは御免だ。嫌だ。型に
自分のために生きることの何が悪い。
勝手にやっていろ。何が幸福で何が不幸だと、そんなものを押し付けるな。
私は、誰かの手駒じゃない。誰かの人形じゃない。
──お前に言えたことか?
何者でもない、何者かになろうともしていないお前に。
誰かを見下せるような資格があるのか?
粘つく涎の音すら聞こえてきそうな厭らしい嘲笑が、鼓膜の内側を離れない。それは紛れもなく、沙紀そのものの自問自答であるが故に、己の主張を反面的な己が即座に否定する。
意地汚くも未来を期待する自分をねじ伏せるために、いつからか身の
一瞬の間にぐるぐると同じ
僅かな沈黙で
「もったいないんだよ。君のような人を見ていると、すごくもったいないと思う」
いつの間にか視線が下に傾いていた。目を上げると、やや眉尻を下げたような風間の顔が見える。真剣な眼差しは少し陰り、それは沙紀と言うよりは、その背後に誰かを透かして見ているようだった。
「その道を選ぶことは間違いじゃないのかもしれない。やむを得ず、他にやりようもなくて、何より、もう気持ちが着いていけなくなって──それは、何にも悪いことじゃない。その選択で助かったり安心したりする人もいるだろうから」
けど、と風間は言う。
同時に沙紀も、思う。
音楽をプロとして生業にする道は諦めた。結果的には親の思い通りになった。だが、父や母は、こんな不登校気味の不良少女をつくることが望みだったのか? こんな未来を思い描いた通りに運んできたのか? こんな有様のどこに安堵しているというのか?
結局、沙紀は、普遍という枠組みからは大きく外れているというのに。
「──冗談じゃない。そんな気休めで何が癒やされるんだ。飢えるほどに求めても届かなくなった人を差し置いて、五体満足で健康な奴が何を言ってるんだ」
風間の語気が強まった。初対面の態度と比べれば、それは乱暴と言ってもいいぐらいだった。
プレーヤーを差し出す手を下げた、かと思えば、逆の手を床についてやおら立ち上がる。流石に年頃の男子だからか、身長は沙紀よりも目線一つ分ほど上だ。ほとんど同じ高さに戻ったところで、風間はまだ続ける。
「ましてや
突き刺すような視線に居たたまれなくなるが、沙紀は逃げだそうとはしなかった。足が竦んで動けないのか、それともそんな気も失せているのか。或いは、何か言い返してやらないと気が済まないから機会を窺っているのか。
いずれにしても、沙紀に踵を返すつもりはなかった。この場から逃げ出そうという気は、何故か湧いてこなかった。ここを退いてはいけないと、全身が自らを縛りつけているようだった。まるでこの瞬間こそが瀬戸際だとでも言いたげに。ここまで強気に言って退ける彼であれば、と。
だから、沙紀は叫ぶ。これだけは誰にも言うまいと戒めていたこと。ともすれば今までに何度も口が滑りそうになったこと。
「──あんたに何がわかるってのよ」
思わず、風間の胸倉を掴んでいた。プレーヤーを差し出す手を押し退け、綺麗にアイロンをかけられたシャツにありったけの力を込めて皺を刻んでやった。所詮非力な女子でしかない沙紀の腕力などたかが知れているが、
痩せぎすな風間はよろめいたが、崩れず踏み止まった。この乱暴なリアクションも想定内とでも言うように。
だったら言ってやる。積みに積まれた鬱憤の全て、売られた喧嘩への応酬として。
「あんたが言ってんのは温室育ちの寝言だよ。挫折も絶望も知らないお坊ちゃんの恥も外聞もない小便臭い世迷い言だよ。自分の全部を賭けて努力して仕上げたものがいきなり使い物にならなくなってどうしようもなくなって全部全部台無しになって、周りの連中に憐れまれて可哀相って言われて、見返してやることもできなくなって──」
薄暗い冬の夕方、凍えるような公園の茂みに響く嗚咽。思い出すだけで今でも震えが止まらなくなる。
だが、何もできなかった。どんな嘲笑も憐憫も甘んじる他になかった。突っぱねるための武器が壊れたばかりで、代わりになるものなんて探す余裕もなかった。結果的に、そんなものはどこにもなかった。
「だって、それが、それがあたしの……!」
武器であり、誇りであり、絶対的な、この世でただ一つの宝物だった。
充分ではないか。そういうものが壊れたのだ。腐るにも、塞ぎ込むにも、諦めるにも、理由として充分すぎるではないか。
救い上げてくれる人も物もなかった。導きの師も羅針盤もなく、向かうべき方角どころか自分の立ち位置すら見失うのは当然だった。
生半可な慰めなど逆効果でしかない。ましてや自分と同じではない人間の言葉など、何の力もありはしない。
「……同じ気持ちを知りもしないあんたに、どんな煽られ方をしたところで、あたしの性根は変わらない。何も響かないように努力してんの。もういいの。もう何も聞きたくないの」
激昂もすぐに熱を失う。この持久力の無さが今の沙紀だ。怒りでさえ長くは保たない。ただ陰湿に己を苛む憂鬱こそ、いつまでも付きまとう。
こんな人間に何ができるだろう。何を歌えるものだろう。
だから、吐き捨てるように沙紀は言った。
「もう、あたしは終わってるの。──誰も聞いちゃいないんだから」
言いたいことを言い切って、胸倉を掴んでいた手を、ほとんど滑り落ちるように、離した。
これ以上はない。僅かな沈黙がその場に降りる。間隙を縫って、沙紀は立ち去ろうとする。
だが、この期に及んで風間は行く手を阻んだ。
「だったら証明すればいい。聞かせてやればいいんだ」
何を、と返す前に、風間の表情が目に入る。視線がまっすぐに沙紀を射貫く。
その強気で、大袈裟で、ともすれば尊大な物言いは、──その自信の源は、どこから湧いてくるものだろうか。
「保科さん。これが最後。一回聞いてもらうだけでいい。合わなかったらそれで終わり。金輪際、二度と関わらないって約束する。その時は保科さんに頼る以外の方法を考える。けど、何度でも言うけど」
風間は、ただひたすらに、一つの望みだけを掲げて言った。
「僕は、この曲を、保科さんに歌ってほしい。それだけなんだ」
☆
晴天の空。初夏の太陽がじりじりと焼きつける学校の屋上。
爽やかな昼日中にあって、沙紀は渡されたヘッドホンを被り、プレーヤーのボタンを押す直前で固まっていた。
「……なんなのよ。音楽で人は変われるとか言うつもり?」
「変わるよ。別に音楽じゃなくても何でもいい。切っ掛けひとつで人は変わる。音楽ならそれがわかりやすい。──それを証明する」
そんなやりとりがあって、沙紀はこれらの機器を半ば押しつけられることになった。
根負けさせられたと言ってもいい。拒んでも、うんざりしてみせても、風間は退こうとしなかった。もはや沙紀以外の選択肢などないかのように。ここで断ったところで地の果てまで追いかけられそうだ。
だったらこの場で、彼が作ったという曲を聴き、品評した上で断念させるしかない。こちらも頑とした説得力を持たせるにはそれしかないと、沙紀は考えた。
余程の自信作のようだが、どれだけ感動的なメロディーやリリックが流れたところで、今の沙紀には響きはしないという確信がある。日常の中で音楽を聴けなくなった弊害は大きく、また容易に癒えるようなものではないことは本人が一番よくわかっていた。まして自ら作曲したと言っても所詮は高校生のレベルだ。半端な出来であれば尚のことというものだ。
だが、脳の端の辺りに何かが引っかかっている感覚が拭えない。自分では知覚できない無意識、あるいは予感じみた、妙な気分だ。まるで今まさに誰かの掌の上で転がされているような、それを嫌と思っていないような、奇妙な感じだ。
沙紀は思う。
何も変わらない。たかが音楽一つで人生が変わることなど有り得ない。今まで通りに忌避し、嫌悪し、拒絶していく。生きる目標も展望もない人生に変わりはない。そんな熱に焦がされなくなって、そんな日常に清々しているではないか。それでいいと、そうすることでしか心を保てないと、決めたばかりではないか。
そう思うにつけ、思うほどに、閉じた蓋の内側が騒がしくなっていく。
これが最後と、彼は言った。だから沙紀は渋々ながらも応じた。
何も変わりはしないと諦めながら、その行動の矛盾に気付くこともないまま、ふと、視線を上げる。お忙しいことで、ある種の冷静な自信に満ちていた筈の風間は、また一転して緊張の面持ちに戻っていた。
ああ、もういい。考えるのも面倒になってきた。とっとと聞いて、素直な気持ちのままに
「言っとくけど。あたし、最近音楽聞くと吐くようになったから、そのつもりでね」
「えっ、あ、うん。……えっ」
返答を聞く隙もなく、沙紀は再生ボタンを押した。液晶画面に映る時間が『00:01』と変化する。
晴天の空。初夏の太陽。爽やかな昼日中。
音が、流れていく。