夜這う星屑、集いて統ばる   作:あるばさむ

4 / 5
4. 幻夜

 ☆

 

 

 まず最初に聞こえたのはピアノだった。

 少し割れた感じの、小気味良い調律だ。テンポは少し早い。

 その直後、異質なものが介入してきた。

 引き裂くような重金属のがなり声。エレキギターの高音弦だ。まるで馬の(いなな)きのように猛々しく立ち上がる。

 さらに続いて腹底に響くバスドラム。ハイハットシンバルの軽やかにスキップするような開閉音、スネアの軽い打音。

 三種の楽器が絡み合う。一定のリズムを取りながら、それぞれが自分をアピールし、また調和を持って立ち回る。

 

 導入、と書けば陳腐だが、しかし沙紀はたったこれだけの音に、いとも簡単に取り込まれた。

 指向性をもって進む音を(しるべ)に、脳がその向こうを期待している。鼓膜の震えに不快感はなく、視界が狭まることもなかった。緊張していない。恐れていない。音楽を聴いているのに、平静を保っていられる。たった十秒程度のイントロダクションだが、こんな感覚で聞いていられること自体、沙紀にとってはずいぶん久しぶりのことだった。

 

 その過程で、沙紀は曲全体の特徴を察した。元合唱部に歌わせようというのだから堅苦しいゴスペル的なものでも書いてきたのかと思ったが、そうではない。

 これはロックだ。それもハード寄りの、一般に広く受け入れられているジャンル。しかし日常で耳にする流行歌とはどこか種類が違うような気がする。具体的な違和感がどこにあるのかはわからない。だからこそ、異質なものとして、妙な引力を感じているのかもしれない。こんな感覚をつい最近にも味わったような気がするが、思い出せない。きっとその時も不快ではなかったのだろうと、何となく沙紀は思う。

 

 本当に久しぶりのことだった。音を聞いて気持ち悪くならないことも、内心がワクワクすることも。

 曲の展開が進む。ギターが尾を引くように音を伸ばし、スネアドラムの連打(ロール)が伴う。初めは弱く。徐々に抑制を振り解き、音そのものが奔流となって沙紀を連れていく。呑み込まれていく。

 ギターが雄叫びを上げる。ドラムのパターンが変わる。重々しい低音のベースが加わる。

 

 そうして、弾けた。

 泡のように、或いは閃光のように。

 

 

 夜空が、広がった。

 

 

「────ぁ」

 

 そこは、真昼の屋上だったはずだ。未だ太陽は頭上に君臨し、熱は背中を焼き、嫌になるほどの快晴が空を染めている。

 だから見えているものは錯覚だ。幻だ。

 だが、沙紀には確かに見えていた。

 

 蝉の声も、車の騒音も、眩しい日差しも、暑苦しい気温も、緊張した面持ちの風間純一も、知覚の全てから消え失せた。

 

 代わりに目の前に広がったのは、紛れもない『夜空』だった。

 

 満天に溢れんばかりの星空。幾条もの尾を引いて流れていく無数の星。周囲には余計な光源も無く、やけにくっきりと星の一つ一つが見て取れる。まるで群青のカーペットに白い絵の具を撒き散らしているように、埋め尽くしては流れていく。

 

 相変わらず音は耳に響いてくる。テンポが速い。音と共に星が飛ぶ。一音に合わせて流星が煌めく。星は遠く細くあるのに、轟々と空間ごと抉り裂く風音が全身を叩く。

 

 やがて、色の違う小さな流れ星が瞬いているのを見つける。それは沙紀の後ろから追い抜き、どこかからかうような挙動で沙紀の身近を跳ね回る。頭の片隅で、それを音符だと理解した。周りを跳ねる小さな星達こそが、沙紀に用意された(音符)なのだと。

 

 小さな星達は沙紀に纏わり付くようでいて、かと思えばすぐに離れて行ってしまう。群青の夜空に大きく棚引く流星と、同じところへ飛んでいく。次から次へと星が来ては追い越されていく。しかし沙紀の身体は動かない。星達の動きは、まるで子供が手を引いて、それでも付いてこない大人を見限るような、そんな切り替え方にも見えた。

 

 置いていかれているのだ。音そのものが推進力になり、全身を持ち上げる力を感じていながら、その場に留まるだけの沙紀を、何もかもが追い越していく。

 行こう、行こうよと、楽しげに誘われているのに、沙紀は動こうとしない。仕方ない、と星達は目的地へ急ぐ。どこへ行くのかもわからないのに、空と地平の境目へ消えるまで、尾を引いて飛んでいく。

 冷酷なのではない。消えていく星が少し寂しげに見えたのは、沙紀の都合のいい感傷でしかないのかもしれない。

 

 星の勢いは衰えることなく、物量はむしろ増していくばかりで、いよいよ空を埋め尽くさんばかりに音の流星が奔っていく。

 

 曲を聴いているという自覚は、とうに消えていた。

 

 掻き鳴らされるギターの音色がどこか寂しげで、どこか全体が淡くぼやけている印象を受けるのかもしれない。専門家でもない沙紀にはよくわからなかった。

 どうでもよかった。今だけは何もかもを忘れ、やかましいぐらいに流れていく音に、どこまでも眩い星空に身を任せていたかった。

 

 いつの間にか2番のサビが終わっていた。ギターの主張が一際強くなる。

 複雑な音の連なり、見せ場のソロパート。イントロの進行をアレンジしつつ手数を膨大に増やし、音符が乱高下しては砕けた星屑のように飛び散っていく。即興と言われても納得する複雑さだった。無茶苦茶だが、しかし微かに譜面を感じる部分もありはする。

 やがてピアノも似た旋律を辿った。どちらの楽器もどのように弾くか多少は知っている沙紀には、この音ひとつひとつを弾き出している指の軌道を追い切れずにいた。素人の想像を絶する、相当の技術がないと弾くことは出来ないだろうことは容易に推し量れる。

 だからこそ、それを聞く者に熱が伝播(うつ)る。思わず鼻息を荒くさせる。興奮し、盛り上がっていく。

 ギターとピアノが絡み合い、螺旋のように昇ってゆく。どこまでも、どこまでも高く、星空の彼方まで。

 

 静止。上昇も何もかもが一時収まる。再開の合図はハイハットシンバルの開閉。

 

 これまで以上の着飾りをして、全パートが一斉に吠える。

 

 集大成の3番も一気呵成に、決して勢いを殺さず、期待を裏切らず。最後の最後まで一音たりとも気を抜かずに展開されていく流れは、音の派手さに対して実に丁寧ですらあった。

 

 結局、小さな星達は皆、行ってしまった。身動きの取れない沙紀だけが置いていかれ、果ての空に流星だけがか細い尾を残していく。

 

 それでも、それでも、音は響いていた。

 

 鳥肌が立つ。涙が滲む。

 あの日から今日まで、音楽を聴く度にこんな感覚に支配された。逃げ出したくなる拒絶があった。

 

 でも、違う。今だけは違う。

 不思議だ。今は吐き気すらも心地良い。

 

 ああ、そうだ。久しく距離を取り続け、もはや味も忘れてかけてしまった、これ。

 長年親しんできた。何にも代え難いはずだった。

 

 それは、その『音』は。

 懐かしい脈動の音だった。

 

 

 ☆

 

 

 ギターの一番高い音を残響として、最後の流星が行った。

 

 はたと気付くと、『夜空』は霧散していた。目の前は相変わらず昼日中であり、じりじりと背中を焼く太陽光も、気怠くまとわりつく湿気も、当たり前のようにそのままだった。

 そうして、目の前でこちらをまっすぐ見つめる風間もまた、固まったままだった。

 興奮で赤熱しているやら緊張で青ざめているやらで何とも面白い顔色になっている。そのまま放っておいてもいいような気がするが、それはそれとして、沙紀もまた放心状態だった。

 

 なんだったんだ、今のは。

 

「…………ど、どうだった?」

 

 吃音じみた調子の外れ方で風間が問う。沙紀は返答に窮した。ただでさえ鈍重な思考回路が過剰な負荷によって煙を上げているのだから、しばらくは人間らしい言語の応酬も難しいような気さえしていた。

 

 ただ、漠然と思う。

 

 無防備のまま音楽を聴く、という行為自体が既に半年以上のブランクを空けている。寒々しい思い出になったあの日以来、そうするだけで吐き気や眩暈に見舞われてきた自分が、ほとんど抵抗もなく、一曲を通しで聴き終わってしまった。

 幻覚を見ていたのはこの際置いておいてもいい。どういう絡繰なのかを問い質すのも馬鹿馬鹿しい。最大の問題は、忌避さえしていた音楽への抵抗感をこうも容易く擦り抜けられたことだった。

 ただ一瞬の引っかかりさえなく、すとん、と胸の真ん中に滑り落ちてきた。

 インスト音源で「捕まえられた」のは、本当に久し振りのことだった。

 聞き入っていた。呑み込まれていた。魅入られていた。

 目の前を覆う『夜空』を疑いもせず受け入れていた。それが幻覚であると考えることを放棄した。理性が少しでも現実へ引き戻そうとする切欠を一つ残らず拒絶していた。

 夢中になっていた。

 それを、沙紀は、喜んでいなかった。

 

 だって。

 今も聞こえてくる、腹と胸の底にある、これは。

 どれだけ蓋をしても漏れてくる、ほくそ笑むようなあの声は。

 

 夢を諦め、好きなことを諦め、進学を諦め、日常を諦めた。

 何もかもを手放して身一つになり、空虚で何一つ実入りのない人生に、それで良いと思っていた。これから死ぬまでそうなのだとしたら、いっそ死んでしまっても良いとさえ思っていた。

 どうせこの屋上から飛び降りる度胸もない。だから死んでしまおうと思ったところで、すぐに死ねるわけではない。

 だが。無為に過ごすことに舵を切った自分に、こんな光明を与えられたら。光明と思わされるものを与えられてしまったら。

 

 声が聞こえる。こうなることを望んだ沙紀を、嘲笑う誰かの声が。

 

 

 ────ざまァない。

 

 

 お前の絶望などこの程度だ。

 切欠一つで塗り変わる、吹き飛ばされてしまうような、その程度のことだったのだ。

 まったく無様なことだ。

 戻りたくて堪らなかったくせに、勝手に限界を設けて悲劇のヒロイン気取りだ。

 不貞腐れている間にどれだけの時間が経っただろう。ほんの半年、されど半年。気付けば高校生になっていた。それだけの時間があれば何ができただろう。もっと違う道に、未来に行けたかもしれないのに。

 内から響くこの声に、今すぐ応えられない。それほどのブランクがあり、足は鈍重になった。

 

 引っかかりはここにあった。ここが分水嶺なのだと、本能的に予感していた。

 真の決別は、ここにある。

 

 ほとんど面識のない人物から、自分をイメージした曲を書いたと言われた。それを聴かされた。まず認めなければならないのは、率直な感想として、決して嫌いじゃない部類だったということだ。抵抗感を覚えなかったばかりか、既に受け入れかけているほどの好みだということだ。

 この曲を歌ってほしいと言われた。

 こんな都合の良いことが、人生でそう何度も起こるものだろうか。

 降って湧いたようなイベントだ。それはきっと泡銭(あぶくぜに)のようなものだ。逃せば夢のように消える。きっと、今までの比にならないぐらいの後悔が残る。

 

 それでも尚つまらない意地を張るのなら、今日を惜しむ資格すら失う。

 自ら手放しておきながら後ろ髪を引かれるなど、自分勝手にも程があるではないか。今まさに自分がそのようなものだというのに。

 

 そうだ。このザマだ。こんな有様だ。

 こんなもので何もかもが吹っ飛んでしまいそうになる人間なのだと、自分を認めなければならないのだ。

 

 無駄な時間を過ごしていることなど最初から解っていたじゃないか。だから虚しいと感じていたんじゃないか。

 今更他人にどうこう言われて向かっ腹を立てている場合じゃない。

 後悔し続けているから、そんな事実を認めたくないから、蓋なんかを被せたのだ。

 

 でも、でも。

 それでも、誰も保証なんてしてくれない。

 

 歌えなくなった自分が再び歌えるようになったとして、それが他人に聞かせられるほどの出来栄えになるかは誰にもわからない。

 また独り善がりになるかもしれない。楽しいのは自分だけになってしまうかもしれない。

 そうなってしまった時、そうと自覚した瞬間、それはその時こそ、もう二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。

 あんな絶望を人生で二度も味わって、まともでいられる自信がない。

 

 そうだ、恐ろしいのはここまでの浪費した時間を思い知ることではない。その結果に生まれる愚にもつかない成果物を衆目に晒すこと。

 そうして、何も無くなった自分を、笑われること。

 自信過剰で無鉄砲で、向かうところ敵無しと思っていた自分にスランプが訪れ、一番自慢できることを封じられた。そうして、他には何も持っていないのだと、今更に自覚した。

 だから笑われた。そんなタイミングだったから、親や周囲の無自覚な言葉が棘になった。自分一人の力では抜けないほど深く刺さった。

 恥を、恐れるようになったのだ。

 ところが現実はどうだ。これ以上の恥曝しもないというのに、進んでこのザマに成り果てた。自分が最も望んでいない現実に茫洋と踏み込んでいた。

 明かりのない獣道に、それでもこの瞬間、僅かに閃くだけの光が差した。

 それは縋るようなものではなく、ただそれを導とするか自分で選び、進むか逸れるかを選ぶ最後の分かれ道。

 腹と胸の底から響く熱を、引き返せないほどに裏切るのか、否か。

 

 すう、と鼻から息を吸う。肺が痛いほどに膨らむ。丸まっていた背中を押し上げ、長く忘れていた呼吸が背筋を伸ばす。

 余韻に震える背筋はふわふわと浮いているのに、いつもよりも地面を確かに感じられている。初夏の暑さを鮮烈に感じられている。

 

 ただの一曲でこうなった。

 疑いようのない自分の変化に、そうと認める他なかった。

 

 それを作った張本人が、目の前で固唾を呑んでいる。

 どうしてこうなったのかを今更のように思い返す。そう、この曲は沙紀をイメージして作ったと言っていて、この曲をバンドで演奏するために、彼は沙紀を誘いに来たのだった。

 音の奔流の中に歌声はなかった。だが導は用意されていた。後は沙紀がそれに乗るだけだ。

 この曲を歌う。それは、あの流星の中に身を投げるということだ。

 恐れも拒絶も全く無いわけではない。だが、当初と比べればそれはずいぶん矮小に思えた。

 忘れかけていた脈動が、そう思わせているのだ。

 

 だから沙紀は、口を開いた。

 ほとんど突き動かされるように、滑るように喉が唸った。

 

 

「あたしに、──あたしに、できると、思う?」

 

 

 聞いた風間は、一瞬だけ驚いたように瞠目(どうもく)し、表情を引き締めた。

 彼もまた覚悟を決めたと、そんな顔に見えた。

 

 

「だからこそ、だよ。保科さんにこそ歌ってほしい。僕の頼みはそれだけだ」

 

 

 ☆☆

 

 

 さて。

 ここにめでたく新生バンドの結成が決まったところで、それから先の状況が何もかも順調に好転していくと決まったわけではない。

 

「……そういえば」 

 

 沙紀が独りごちる。風間が素早く振り返る。

 

「は、はい」

「……そんなビクつかれても困るんだけど。タメなんでしょ? さっきまでの威勢はどこ行ったわけ?」

「うぐ、す、すみません……ご、ごめん。な、なんだろう、保科さん」

 

 いっそ卑屈のようにすら見えてくるが、恐らく彼も同年代の友達が少ないのかもしれない、と沙紀は思うことにした。人が変わったようなあの切り替わりに動揺しない人間はどれだけいるだろう。自分の得意分野の話題が出た時だけ早口になる人種というやつだ。

 それはさておき、沙紀は話を進めようとする。

 

「やると決まったのはいいけどさ。あたしの他のパートは誰がいるの? バンド組むって言うからには目星ぐらい付いてるの?」

 

 乏しい知識しかない沙紀でもある程度のことは解る。

 世間一般のバンド、それも学生がやるレベルならば、構成人数は最低でも三人(スリーピース)が基本だろう。ボーカルとギターは確定した。残るはリズム隊と呼ばれるベースとドラムス。楽曲の根幹に関わる部分であり、ここがしっかりしていなければ曲自体が崩壊する。中学合唱部でもソプラノやテノールばかりが張り切ったところで芳しい結果は得られなかった。

 ここに誰が据えられるかで、沙紀の居心地というものも変わってくる。

 バンドといえど所詮は単位の付いたコミュニティだ。それはつまるところ人間関係であり、この半年と少々で他人と関わることを徹底的に避けてきた沙紀にとっては、初対面の人間というのはどこまでも恐ろしいもののように思えた。

 どんな人格者が潜り込んでくるかで沙紀のモチベーションを左右することにもなりかねない。我ながら昔よりも対人能力が落ちているという自覚はあるが、切実な問題には違いなかった。

 釣られて昔の苦い思い出までも呼び起こしてしまう前に、風間が答えた。

 

「…………いない……っす」

 

「……は?」

「だから、その、今のところは僕と保科さんだけ……で、他はこれから……追々と思ってて……」

 

 風間の声が消え入るほど小さくなるにつれ、その肩幅もどんどん縮こまっていくようだった。

 

 そう。

 数ある問題のうち、”そこを解決しないと話にならない”大前提の部分をようやくクリアしただけに過ぎないのであった。

 

 オチでもつけるかのように、間抜けなチャイムが学校に鳴り響いた。

 

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