ちょうど昼休みに入ったことで、時間の遠慮はなくなった。沙紀は金網が設置されている一段高い部分に腰を下ろし、風間は固い床に正座していた。
「で?」
沙紀の一言に、風間の喉が「ひゅ」と鳴った。総身は飛び跳ねるほどの震えを見せた。
いっそ大袈裟にさえ見える様子に構わず、沙紀は己の思うことをそのまま伝える。
「要はあたしをその気に乗せることが最優先で、その為の準備にあれこれ気を取られて、残りのパートは全部後回しどころかアテもない状態ってわけ?」
「……はい……」
なお、この正座は風間が自発的に組んだものであって沙紀が強要したわけではない。早速成立しつつある上下関係に「これでいいのか」と思いつつ、沙紀もまた蜘蛛の巣の張った脳味噌をどうにか回し始める。
「あたし馬鹿だから順序立てて説明してほしいんだけどさ。まずバンドを組む目的は何?」
「あああ秋の文化祭に有志発表で演奏するためです」
「別に怒ってるわけじゃないってば。……んで、あたしを勧誘したのは、そのバンドでやる曲があたしをイメージして描いたものだから。そうよね?」
「はぃ……う、うん。その曲をステージでやりたいと思って、そのために保科さんが必要だったから、こうして誘いに来た」
「それはもうわかった。ちなみに何人ぐらい必要になるわけ」
「えーと……保科さんはボーカルで、僕はギターをやるつもり。あとはベースとドラムと、できればシンセも欲しいかな」
「しんせ?」
「シンセサイザー……キーボードっていうか、電子ピアノのことだよ。だからまあ、最低あと三人、ぐらい」
「ふーん。で、どうやって集めるの?」
「それが……ええと、まず保科さんを誘うのがそもそもの大前提で、ここが失敗したら文化祭に出るのも一旦諦めようって感じで。だから正直、今日になるまでは保科さんのこと以外を気にしてても仕方がなかったっていうか……」
「考えなしってわけね。あたしの他に三人も
「すみません……」
とはいえ、考えてみれば順序は妥当のようにも思える。
風間にしてみれば最大の難関は今し方過ぎたところだったのだ。失意の保科沙紀をその気にさせられるかどうかは確かに賭けだったろう。一定の自信はあっただろうし、だからこそあんな強気な出方もできたのだろうが、それでも駄目なら全て白紙に戻すというところに覚悟が感じられる。
だから他メンバー選出は優先度が低くなった、というのも納得はできる。
一方で、
「あたしにはそこまで用意しておいて、他のメンツを探すのに何の用意もしてなかったってのは、本当なの? ちょっとでも何か考えてたりしないわけ?」
いくらなんでも無策ということはないだろう、と沙紀は思う。作詞作曲までできて、しかも相当ハイレベルなポテンシャルを持っていて、文化祭のステージに立つという目標まで決めていて、なのに最重要ファクターにばかり気を取られて他は一切考えなしというのはどうも腑に落ちない。多少なりとも目星をつけているか、少なくともどう動くかを考えられるだけの頭はあるはずだ。
前提の話をするなら、と、沙紀は思い浮かんだことを率直に聴いてみた。
「そもそも風間くんはバンド組んだことあるの?」
これに対し、風間は素直に頷いた。
「うん、……いや、正規メンバーとしてじゃないけどね。さっきちらっと言ったけど、うちの両親は音楽関係の仕事してるんだ。その都合で色んなバンドの人が顔覚えてくれてて、たまにヘルプに呼ばれるぐらい」
いやさっきは”そういう仕事”という言い方だったが、と少々面食らいつつ、なるほどそういうわけだったのかと今更のように得心がいく。サラブレッドとでもいうのか、少なくとも生まれた環境のおかげで、この歳で作詞作曲をこなせるのだ。沙紀としてはまったく羨ましい限りである。
「じゃあステージに立って演奏したことはあるんだ」
「一応、何度か。隅っこでサポートギター弾いてるだけだけどね」
「ふーん。……じゃあ、その繋がりで
「…………」
その沈黙こそが答えとばかりに固まってしまった。人にどうこう言える身分ではないが、沙紀は思わず嘆息してしまう。
実際のところ、沙紀も風間も今年入学したばかりの一年生で、やっと四ヶ月を経過したところだった。各学年にどんな人がいるのか、それどころか同じ学年の顔と名前が一致する生徒すら片手で数えられる有様で、まして人脈などこの二人の性格からして有り得ようはずもない。どこの誰が楽器経験者なのかなど、当然ながら知る由もなかった。
それにしても誘っておいていきなり手詰まりとときた。ここに来て行き当たりばったりとは、いくら何でも先が思いやられる。心配事はメンバーの他にも枚挙に暇がないというのに。
……こんなんで本当に大丈夫なのかな。
ちょっと辞めたくなってきた沙紀は、しかし小さく頭を振ることで弱気を追い出した。そのつもりなら最初からやる気になどなりはしない。どれだけ曲に感銘を受けたとしても、それ以上に沙紀自身が思うところがあったから引き受けたのだ。
まだ折れるところじゃない。こんな序盤で既に自分を励ましていかないとむしろ折れそうな現実に辟易しつつ、沙紀は話を進める努力をする。
「知り合いがいないのはわかった。でも……じゃあ、軽音部とか吹奏楽部とかはいないの? 知り合いじゃなくても、そういう部活」
「あるよ。
「なんで?」
コミュ障だから? と言いそうになった寸前にどうにか踏み止まった。流石に遠慮がなさ過ぎる。それに気付いていない様子で風間は答える。
「あの人達も文化祭でそれぞれ出し物があるからだよ。
「そういうとこは気を遣うのね。じゃあ他にやり方は?」
「うーん……ベタなところでは張り紙とかビラを書いて配るとか……? 音源を大々的に流して興味を引くっていう手もあるけど、うるさいだけの騒音って思われても逆効果だしなぁ……」
「……曲の話に戻るんだけどさ。さっきの曲」
「あ、うん」
沙紀は、自分が見た満天の星空を脳裏に幻視しつつ、その発生源でもある音源をどうにか思い出していた。正直なところ幻覚を見たというインパクトが強すぎて曲の方をあまり覚えていないのだが、それでも朧気な印象は残っている。
高校生が書いたとは思えないほどのクオリティ、と言ってしまえば簡単だ。そう感じた要素を具体的に抜き出さないと、恐らく落とし穴になる。
沙紀が感じた迫力の要因、その最たるものは。
「めっちゃ
幻覚の中で、流れていく星の一つひとつが音符だと直感的に沙紀は理解した。自分にまとわりつくように跳ねていたのがボーカルパートの音符で、その他に背景と化していた夜空を埋め尽くさんばかりの流星群もまた別パートの音符だ。
あれを譜面に書き起こしたとしたら。
”オタマジャクシ”でびっしりと埋まった五線譜を想像し、思わず背中に寒気が走った。
沙紀は器楽の心得はほとんどない。強いて挙げるなら小学校時代に触ったリコーダーや鍵盤ハーモニカぐらいのものだ。それでも当時、まだ楽譜を読めなかった子供にとっては、演奏しながら音符を追いかけるという作業がとんでもなく難しいものだったと記憶している。そのうち流れを掴んでしまえば楽譜なんか見ずに弾けるようにもなるものだが、沙紀の感覚は小学生レベルで止まっている。
作曲者本人に聴くのもどこか間抜けだが、あの曲を演奏し得る同年代が果たして存在するのか。
そんな人材が、こんなどこの馬の骨とも知れない連中のビラ配り程度で集まってくれるのか。
そして懸念点はもう一つある。
「偶然、楽器が出来る人が近くにいたとして。……文化祭って、いつだったっけ?」
「今年の行事予定表だと……九月の末だね」
風間が自分のスマホを見ながら答える。カレンダーに登録しているか写真でも撮っていたのだろう。
現在、六月の半ばである。
この時点で残り三ヶ月を切っている。
「あのレベルの曲を、あと二ヶ月半で、弾けるようになれるの? 普通のバンドってそういうもんなの?」
「う、うーん、そんなことは……どうだろう……カバーバンドだったらギリいけるのかな……?」
腕を組んだ風間は、今更のようにそんなことを言う。
「まあ、でも間に夏休みも挟むし……不可能ではないと思う。思いたい」
「……要はこの無茶ぶりにノってくれるのも条件に入ってくるわけね」
正直、楽観的すぎる気がする。そもそも楽器経験のある高校生というのがレアな存在だというのに、そんなものがこんな片田舎で偏差値の低い高校に偶然集まっている確率など如何ほどのものなのか。
どうにも、やめた方が良いような気がしてきた。熱意だけはあるのだろうが
あの曲を歌いたいと思うのなら、出来なさそうと諦めるのではなく、出来るように知恵だけでも回さなければならない。
といったところで、沙紀は今更のように思い出した。
「そういえば、あれの歌詞は? まさかハミングで乗り切るって曲じゃないでしょ?」
「う、うん、それはもちろん。……それなんだけど、保科さん、
「機械はそんなに詳しくない。スマホで見れるならそれでもいいけど」
「そうだよね。印刷はしてあるんだけど、持ってくるの忘れちゃって……とりあえず歌詞カードだけはデータにあるから、今日のところはそれでもいい?」
「うん。じゃあ、これ」
沙紀は手早く自分のスマホを操作し、久し振りにグループチャットアプリを立ち上げた。今や日本全国で使われるようになったものだが、沙紀のアカウントにはここ半年ほど新着メッセージが届いたことはない。メールの方も鬱陶しいDMかフィッシングばかりだ。それでもフレンド登録のやり方は忘れていなかったようで、自分のプロフィールを表示させるQRコードまでほとんど迷いなく辿り着く。
慌てたように風間もスマホを取り出し、同じアプリのカメラ機能でコードを読み取った。数秒と待たず“風間 純一”という何の捻りもない名前から新しいフレンド申請が届いたのでこれを承認。
「…………」
「なに」
「いっ、いやなんでもないです」
感慨深げにしみじみとスマホを眺めていた風間は、慌てていくつかの操作をして沙紀とのグループを作り、そこにテキストファイルとWAVデータを貼り付けた。
「これでよし、と。そこからも閲覧はできるけど、時間が経つと保存できなくなっちゃうらしいから、一応端末側にダウンロードしておいてもらえると助かる」
「ん。……っていうか、楽譜印刷しといて忘れたってのは何、あたしが今日の今日で乗り気になるとは思わなかったから? こんなあっさりで拍子抜けしてんの?」
「ちちちち違うよそんなことないよ! ……簡単じゃないとは思ってたけど、それでも、やると言ってくれて嬉しい。ありがとう」
「どうだか」
沙紀は早速ファイルを開いた。その途端に「うわ」と思わずいってしまいそうになって、どうにか留まった。
五線譜ですらない、ただの味気ない歌詞カードのようなものだ。大雑把に一番二番と区切られた合間に、ずらりと密度の高い文字列が並ぶ。バッキングを聴いた時点で薄ら察していたが、近年のポップスや部活でやっていた合唱曲ではそうそうお目に掛からないぐらいの文字数だ。
あの幻覚、流れ星の量はこういうことだったのだ。音数は楽器だけでなく歌唱側にも及んでいる。つまり、とんでもないペースで詞を捲し立てることになる。譜割をまだ確認していないとはいえ、恐らく息継ぎのない早口言葉のようになるのではないかと悪寒がしてくる。それとも最近はこういう曲調が流行っているのだろうか。
呂律が回るかという心配だけで既に若干疲れてきたので、テキストは一旦閉じる。今の主題はここではない。心配事は他にもある。
「……で、話戻るけど。人集めはどうするの? ほんとにアテはないの?」
そう聞くと、風間は腕を組んでまたうんうん唸り始めた。
そして、苦虫を噛み潰してへの字に曲がった口のまま、もごもごと独り言のように呟く。
「…………ベースだけなら、いないこともないけど……」
溜めた割に候補の存在があっさりと出てきた。
肩透かしを食らったように、沙紀は眉根を顰めた。
「……いるんじゃん。え、その人じゃ駄目なの?」
「面識はないんだ。噂で聞いてるだけで、上手いか下手かも定かじゃない。ただ、外でバンド組んでるらしいっていう人が、二年にいる。……んだけど、軽音の人を誘うよりも、ひょっとしたら声を掛けづらいかもしれない」
後半にいくにつれどんどんボリュームが落ちていく風間の声を苦労して聞き取りながら、どうにか相槌を打つ。
「なんで? 上級生だから?」
「それもあるんだけど、その……いい噂ばかりじゃない。むしろアレな評判の方が多いぐらいで」
「……不良ってこと?」
その核心に、風間は頷いた。
「あくまで噂だけど、とにかく女癖が悪いとか、彼女をとっかえひっかえしてて女性関係のトラブルが絶えないとか、そのせいでバンド仲も
「……派手だけど、よくいるタイプではあるんじゃない?」
「まあ大学生バンドとかで似たようなのは見ることもあるよ。それも傍から見るだけならまだ気楽なもんだけど……」
そういう人物を自らの仲間内に引き込むとなれば話は別になるだろう。そしてこの風間という男子は、いかにもそういうチャラついた人間とは正反対で、ゆえにとことんまで苦手そうなタイプではある。噂は噂でしかないが、火のない所に煙は立たないように、少なからずそれらを彷彿とさせるような言動や実績があるのだろう。何なら沙紀も別に得意ではない。
だが、それでもだ、と沙紀は思う。
「素行がよろしくないのは解ったけど、肝心のベースは? ていうか本当にベースやってる人なの?」
「それも『らしい』止まりだけど……腕は結構良いらしい。パンク系のバンドで、楽器始めて四年ぐらい経ってるらしくて、その割には上達ぶりが凄い、とかなんとか」
「ふぅん。……噂でも結構知ってるじゃん」
「え、あ、ま、まぁね。ついこの手の話題は聞き耳立てちゃうから」
でもなぁ、と風間は独り言のように呟く。
「部活じゃなくて学外を選ぶってことは、だいたいそういう素行の悪さが原因なところもあるわけで……特に人間関係ってなるとさ、バンドだって結局は人が集まってやるものだから」
「要はビビってるわけでしょ。でも性格どうこうで選り好みしてられるの?」
「それは……そうなんだけど。うーん、でもなあ、ただでさえ上級生だし誘うにしたって何て言えば……」
「ねえ、風間くん」
放っておくといつまでもそのままでいそうな姿に、沙紀は少し前のめりになった。
気持ちとしては覗き込むようにしていたつもりだが、ほとんど半目で
「許せない。そうよね?
「…………」
沙紀の物言いに、風間は今日何度目かの瞠目で返した。そうして、
「目指している理想があるのにいつまでもグジグジやってるつもりなら、あたしは辞める。偉そうに説教くれたあんたがそのザマなら、信用できないから」
冷たく突き放すつもりで言い放ったが、事実沙紀は風間の姿に多少苛ついていた。
当たって砕けろとは言わずとも、沙紀に対しては少なからずその節があったはずだ。クリアしなければならない大前提、そのひとつをクリアするために、恐らく風間の性格には似つかわしくない強引さで沙紀に声を掛けてきた。
曲の構成上、必要なパートの目星がついていて、その僅かな候補者がちかくにいるのなら、同じ勇気を沙紀以外にも向ければいいだけの話だ。
己の恥などとうに捨てたのではないのか。そんなものが邪魔だというならそもそも屋上まで来れなかったはずだ。
できることがあるのに黙って腐らせることが許せないのではなかったのか。
ほんの数分での矛盾を、言葉少なでも沙紀は突きつけた。
言われた風間は、目を丸くしながら僅かに
「…………そうだ、これじゃあ今までと変わらない。ここで終わりじゃないって、忘れちゃいけなかったのに、どうして……」
そんなようなことを独りごちていたようだが、沙紀にはあまり聞こえなかった。
やがて風間は額を抑えるようにして顔を覆い、長く細い溜息を漏らした。肺活量を思わせる空気の音が続き、それが途切れたと思えば、ぱっと表情を改めて沙紀の方を見る。
「ごめん、保科さんの言う通りだ。こんなことでグズグズやってる場合じゃない。他にアテもないんだから、出来るだけのことはしないと。ありがとう、保科さん」
「……どういたしまして」
どうやら立ち直ったらしい。この切り替えの早さは美徳と言えるのだろうか。隣で見ている分には少し不気味ですらあるのだが。
こちらも気を取り直して、沙紀は話を進めようとする。
「で、どうすんの?」
「例の二年生……
件の人物の名前をようやく知る。当然ながら沙紀にはまるで覚えのない名前だった。
「準備って、なんの? 心の?」
「それもなくはないけど。学年はともかくクラスは知らないんだ。噂通りの人物像なら毎日律儀に登校してるかも怪しいし、昼休みに本当に会えるかどうか、その辺もちょっとリサーチしてみようかと」
「ふーん。……もしかしてそれ、あたしにもやってたの?」
「…………いや、えーと」
一体誰から何がどう伝わってここに辿り着いたのか興味がないわけではないが、ここで詰めるのは自制しておく。
「……ま、いいわ。そっちは頑張って」
「うん。そうだ、ついでじゃないけど、明日の昼休みに楽譜渡すよ。その後に二年の方に行くから」
「わかった。……ひとりで行けるの?」
「そ、そりゃもちろん。僕が言い出しっぺなんだから、きちんと話つけてくるよ。断られるかもしれないけど……その時はその時だ。他の手を考える」
そう、と沙紀が応えるとほぼ同時に、チャイムが鳴った。
昼休み終了と次の授業の予鈴を兼ねる合図だ。
「あ、もうそんなじか──もうこんな時間!? うわぁ昼ごはん忘れてた、午後保つかな……」
「っていうか、午前から授業サボりすぎじゃない? さすがにヤバいんじゃないの」
「腹痛でずっと保健室で寝てたことにするよ。まあ、これっきりにすれば追求はされないと思う。……えっと、保科さんは……」
「時間潰して適当に帰るから、多分今日はもう会わないと思う」
「そ、そっか。じゃあ、また明日。楽譜渡すから、忘れないでね」
「ん」
スマートフォンをポケットに、ヘッドホンのブリッジを鷲掴みにして、風間はさっと立ち上がった。
そうして慌ただしく屋上を後にしようとする風間へ、沙紀は思い出したように声を掛けた。
「待って。風間くん、最後にもう一個」
「な、なんでしょう」
「どうやって、あたしをまた歌えるようにするのか聞かせて」
それは、沙紀にしてみれば最大の懸念点だった。
バンドメンバーの人選やら曲の難易度やらは二の次だ。結局は、あれもこれもクリアしなければ話にならない課題の中のひとつに過ぎない。
歌えないボーカルに価値はない。
それこそが、まさに沙紀がかつて心を折った絶対的な真理である。
「あたしをバンドに誘った理由。あたしの現状を知ってる上でバンドに入れるなら、あたしがまた歌えるようになるって確信があるってことでしょ? でも、これでもあたしは自分に出来ることは何でも試した。それでも駄目だった。医者でもないあんたが、どうやってあたしを治すの?」
回答如何では沙紀の今後に関わる話だ。再び脱力と虚無の日々に引き戻されるのか、それとも有り得なかったはずの別の道に踏み込むことができるのか。果たして風間は、相応に真面目な表情で応えた。
「……説明は出来る。治療だなんて立派なものじゃないけど、考えてることはある。でも、どれだけ綺麗な言葉で表現しても、きっと保科さんが感じてる不安を払拭することは出来ないと思う。だから、今はまだ言えない」
「どういうこと? 本当は何も考えてなくて運任せってわけ?」
「今はそう思ってくれても構わない。だけど、
自分が組むバンドに必要なボーカルだと口説いておきながら、この場において明確なリハビリ方法を示さない。無茶苦茶なことだったが、不思議と沙紀は大して反発する心持ちにはならなかった。
不安。敢えて明確にはしようとしなかった、暗澹とした無意識の名を言い当てられたような気がしたからだ。
「君の気持ちはわかるよとか、信じろとか任せろとか、そういう軽い言葉を使いたくないんだ。結局今は何にもならない。説明しようがしまいがどっちにしても不安な気持ちはなくならない。むしろ余計に心配することになったら悪循環だ」
「……だから、今は何も言わない?」
「うん。……だからといって、これを僕なりの誠意と思ってほしい、なんて恩着せがましいことも言わない。信用できないままでいい。僕がやろうとしていることも結局は素人考えだ。理想的な成果が出なかった時、その時は、僕を恨んでくれて構わない」
大層な結びで、風間は自身の言葉を終わらせた。
余計な釈明もなく、ただ単に『今はまだその時ではない』というわけだ。
それ以上は本当に何も出てこなさそうだと判断し、沙紀は聞こえよがしに大きくと息を吐いた。
まあいい。これまでの会話で沙紀自身の事情を解消する手段について触れようとしなかったことから、何となくこんな答えが返ってくるような気はしていた。
端から期待はしていなかった。むしろスタンスははっきりしたと言うことだ。いずれ時が来れば分かることだし、それもそう遠くはないだろう。
そのような着地点で、自分を落ち着かせようとした。
「わかった。ギブアンドテイクってやつでしょ? あたしを使えるぐらいにリハビリに付き合う、調子を戻したあたしをバンドで使う。あたしは歌えるようになる、風間くんは目的を達成する。そういうことでしょ?」
「う、うん……言い方はだいぶ悪いけど……」
「そう言ってくれた方が分かりやすいわ。綺麗事ばっかり並べられるよりもよっぽど……」
「……よっぽど?」
「なんでもない」
不意に出かけた言葉を、沙紀は呑み込んだ。これ以上を言ってやるのは癪だと感じたからだ。
とりあえず聞いておきたいことは聞いた。結局は沙紀がバンドを組む意向を固める以上の進展はなかったが、恐らく風間の口ぶりからして逸れさえ達成できれば上々といったところだろう。
「また明日。授業遅れるよ」
「えっ、あ、うん。──また明日から、よろしくね、保科さん」
「はいはい」
慣れない手振りで別れの挨拶としながら、風間は屋上を隔てる扉を開けて出て行った。×状に張られたテープの隙間を器用に縫って、リノリウムの階段を駆け下りていく音が遠のいていく。
他人の気配が完全に途絶えた頃、午後の授業開始を告げるチャイムが全校に鳴り響いた。
それを聞きながら、沙紀はいつもの定位置にふらふらと戻った。日陰の下に腰を落ち着け、金網越しに空を仰ぐ。
なんとはなしに、スマホを取り出して、チャットアプリを起動した。
久し振りに、新しく追加された連絡先の一つ。二人しかいないグループに貼られた二つのデータ。
音楽ファイルの題名には『VEGA(仮)』とあった。
あの幻覚がまるで想定通りとでも言われているような気になった。夏の星を冠す曲だったのだ。
ふう、と肺に溜まったものを吐き出すようにして、そのままぱったりと倒れた。
疲れた。久々に同世代の人間と喋って、想像以上に体力を使った。ほんの数時間で色々なことが起きすぎている。
……ああ、本当に、同級生と話すなんていつぶりのことだったろう。
頭の中に残響を思いながら、沙紀の瞼はこらえようもなく落ちていく。日陰に収まりながら、身を丸めて、眠気に流されていく。
夢の中にもあの星空が出てきたらどうしよう、などと思いながら、沙紀は昼寝に
☆☆
気付けば太陽は真上を通り過ぎ、
寝惚けた目で時計を見る。もうじき午後の授業も終わる。放課後になれば大量の人の目が解き放たれる。動きたくない気分で仕方がないが、教師などの目に見つかる方が余程面倒だと判断し、頭を乱暴に掻きながら起き上がった。
帰りたくない。だが、この場に残っても仕方がない。
何も入っていないスクールバッグをぶら下げ、鬱々としながら沙紀は屋上を後にした。
授業の只中ということもあって、廊下や昇降口に人影はなかった。目敏いクラス委員長に絡まれることもなく、幽霊のように学校を抜け出す。
西日に傾きつつある陽光が背中を焼く。蒸すような暑気が地面から立ち上る。いつもと同じ通学路を、いつもとは少し違う気分で歩いて行く。
足が重いのはいつものことだが、歩調が少しだけ早くなっていた。急ぐ帰路でもないのにこうなっているのは、やはり昨日と今日が別物になったというのが大きいのだろう。
全てが劇的に変わるわけではない。だが、ほんの少しでも差異が現れた。夢も目標も失った現実が、これまでとは違う方向性を持ちつつある。
明日から、何が変わっていくのだろう。
バンドを組む。ボーカルを務める。風間が何をどうするつもりなのかは聞き出せなかったが、彼なりに算段があって沙紀を抜擢したのだということは分かった。
──また、歌えるようになるのだろうか。
そんな
──歌えるようになることを、自分は喜んで良いのだろうか。
──自分の歌は、復活を喜ぶほどの評価に値するものなのだろうか。
下手だと言われたから絶望し、今日この日まで無気力なまま過ごしてきたというのに。
そんなものが本当に使い物になるのか。バンドのボーカルといえばステージど真ん中に構える重要な役回りなのに、自分にそれだけの価値があるのか。
手放しに前向きになれるわけではない。何かが始まるどころかようやく動き出そうとしている程度の段階だ。
それに、全てが上手く運んで終わったところで、自分は自分の成果を喜べるのだろうか。
再び歌えるようになったとして、それが何になるというのか。
ギブアンドテイク、と沙紀は言った。ほとんど口走ったようなものだった。だが風間とこれからやろうとしていることと、風間が沙紀に施そうとしていることは、果たして足し引きの釣り合う価値があるのだろうか。
沙紀は、己の実力を信じていない。
一度は明確に打ち砕かれた、青臭い過信だ。紛れもない他人から忌憚の無い評価を得て、沙紀はようやく、自分が思っているよりも自分の実力は劣っていると認識することができたのだ。その認識を持った上で他人に醜態を晒すことは恥だと恐れ、当然に口を閉じた。夢と公言するのも厚かましいことだと、沙紀なりに反省して自分の心を閉じたのだ。
もし。もしも、仮に風間の策がハマって沙紀の調子が戻り、対外的な評価も好ましいラインを越えるほどになれたとして。
そんな虫のいい話が、自分に許されるのか。今更になって────、
考えている間に、沙紀は階段を昇り終えた。
見慣れた景色だ。外に吹き抜けたマンションの渡り廊下、四階フロアにずらりと並ぶ鉄製の扉達。他人が住む部屋の集合に、一戸だけ吸い寄せられるような存在感の位置に、沙紀は気付かない間に立っていた。
表札には、”保科”とあった。
沙紀の家だ。
「…………」
風が吹く。生温い昼下がりの風が、服の裾から腹を冷やす。階下の駐車場で子供達が遊ぶ声がする。隣接する道路を車が走り抜ける音がする。
慣れ親しんだ環境音に塗れながら、沙紀はしばらく動けなかった。
五分ほど経ち、鼻を鳴らすようにして意を決し、ポケットから鍵を取り出す。差し込んで開錠。
軽い荷物を部屋の隅に放り投げ、ひとまず安堵するように息を吐く。それから心底気怠く思いつつ、制服から部屋着に着替え始める。
母に鉢合わせる前に帰宅できたのは幸いだった。毎回こうなってくれれば多少は気楽なのだが、それは母のパート後に寄る道草次第であるところに腹が立つ。
上はTシャツ、下は中学時代のジャージ。気の抜けた格好だが、年相応に可愛らしいパジャマなどの持ち合わせはない。着替えが終わったところで部屋を出る。足早にリビングへと向かう。
キッチンまで行くと、四人用のダイニングテーブルがある。クロスを敷いて見栄え良く保たれているその上に、千円札が一枚、蛙の置物の下敷きになっていた。
メモや書き置きの類いは無い。沙紀は紙幣をもぎ取りジャージのポケットにねじ込む。続く流れでキッチンに向かい、冷蔵庫の中からペットボトルの水、それからパン類をまとめて放り込まれているラックから六個入りロールパンの袋を引き抜き、両腕に抱えてまた足早に自室へと向かう。
これが今晩の夕食だ。
家族が食事をさせてくれないわけではない。単に両親と顔を突き合わせたくないから、勝手に食料をかっぱらっているのである。小食の沙紀にはこんなものでも充分だった。
沙紀の両親は、このことに対して何も言ってこない。
夢を破れさせた後の家庭とはどのようなものか。
保科家の現状は、言うなれば家庭内不和そのものである。とはいえ溝があるのは親子間だけで、当の両親は一人娘の扱いにほとほと手を焼いている、という認識らしい。
あの進路相談と決裂から以後、沙紀の反抗的態度は非常に危ういバランスの上で運営されてきた。
父は元から会社勤め、母は最近まで専業主婦だったがスーパーで働くようになった。大学に行かせる気はあると公言した以上、多少は蓄えを作っておこうという殊勝な心構えらしい。当の本人に進学する意思があるかはさておき、建前としては子供のためを思って汗水垂らしているということだ。
だが、実際の家庭内では、親子のコミュニケーションはほぼ絶無となっていた。沙紀が断じて口を開こうとしないからだ。
沙紀の一日とはつまり、鬱陶しい両親をどれだけ避けていられるかが最大の懸念事項となっていた。運が良ければこのように何事もなく自室に引き籠もることができる。間が悪ければ、主に母親から意味の分からない小言を頂戴する羽目になる。何のことを言っているのかは覚えていない。音楽とほぼ同等かそれ以上に、沙紀は両親の言葉を耳に入れることを拒んでいた。
自分がこんなザマに成り果てた直接の原因、その一端であるからして、沙紀の視点からすれば両親は敵でしかなかった。そんな連中に貸す耳などないとばかりに、如何なる声がけにも無視を決め込んでいた。
沙紀自身はこれを反抗的態度とは思わなかった。この決裂は誰であっても予見し得た未来であり、両親も相応の覚悟をもって沙紀の夢を否定したはずだ。大の大人が思い至らないはずがない。避けがたい選択だとしても、後にこのような家庭内不和が起こると予想していても、それでも親として言わなければならなかったことだからこそ、沙紀の進路を否定したのだと。
だから、当の沙紀の怒りは順当であり、反抗的態度という形容はそぐわない。沙紀は本気でそう考えていた。
小遣いは三日に一度、ダイニングテーブルに張りつけられている千円札が一枚。それ以上を寄越せと言う必要性は沙紀にはなかった。食事は家の買い置きを適当に漁るだけで事足りる。洗濯は何も言わずとも親がまとめてやる。風呂は親が不在のタイミングを狙ってシャワーだけ。とにかく両親の目を掻い潜ることに全力を注ぐ。
この生活に、両親は大して苦言を呈そうとしない。沙紀の変質に自分達が関わっていることを多少なりと申し訳なく思っているのか、この態度も
子供の夢を否定しておきながら親のような顔をしているのがあまりに気色悪い。こんな連中とあと何年も面を突き合わせていかなければならないのが苦痛で堪らない。
そんな生活を、もう半年近く続けていた。
ばり、と袋を破く。ロールパンをひとつ掴んで、
元から小食なことに加え、食欲という概念をどこかに忘れてきたようだった。喉の奥、食道と胃の境目あたりに鉛が詰まっているような圧迫感が、ずっと続いている。それでも何も食べないわけにはいかないので、こうして適当に軽いものだけを咀嚼して呑み込むだけの食事。栄養バランスなど端から気にしていない。この半年で体重は結構落ちた。それ自体は喜ばしいかもしれないが、多少の肌荒れも認められるところではある。
早いところ風呂には入っておきたいが、母がいつ帰ってくるともしれない。別にシャワー中に怒鳴りつけられるようなことはないだろうが、無防備な背中を晒すような真似はしたくないのが正直なところだった。
はたして、それが噂となったか否か。
玄関側で、小さな金属が擦れ合うような音。続いて鍵穴をガチャガチャとまさぐる音。最後に錠を落とす重い音が、沙紀の耳に届いた。
ドアが開き、僅かに外の喧噪が漏れ出すがすぐに遮られる。疲れたような溜息。土間で靴が擦れる嫌な音。廊下を無遠慮に歩く足音に、中身の詰まったビニール袋の雑音がガサガサと伴う。
やがて音の主は沙紀の部屋の前へと至り、まるで立ち止まりもせず、そのまま通り過ぎていった。
リビング側のドアが開き、閉まる。
母の帰宅を、沙紀は息を殺して聴いていた。
両親に対しては苛立っている。この怒りは正当なものだと信じている。
それでも、直接何かをされたわけでなくとも、その存在を認識するだけで身体が固くなる。
虐待を受けているわけでも、
母は行った。これから夕飯の支度に入るだろう。ここからの時間はずっとキッチンにいる。妙な間の悪さがなければ顔を合わせることもない。
だが、程なくして再びリビングのドアが開く音がした。
足音が徐々に近付き、沙紀の部屋の前で、止まる。
薄壁を挟んだそこに、いる。
意味も無くブランケットに包まり、顔を隠す。暗がりの中で息が細くなる。
そうして、母の声がした。
「……沙紀。そのままでいいから聞きなさい」
ドア越しにくぐもった母の声が聞こえてくる。面倒臭そうな、厄介なクレーム客でも相手にしているような声だった。
「学校から電話来てたわ。出席日数足りないから夏休みは補修確定だって。学校には来てるみたいだけど授業には出てない、探しても見つからないからどういうつもりなのかって」
薄々そんな気はしていた。なんなら遅いぐらいだ。学校の連中も申し訳程度の仕事はしているというアピールだろうか。名前を大声で呼ばれたり校内放送をかけられたりといった捜索は入学後一ヶ月程度でパタリと止んでいたような気もするが。
「毎朝うちから登校してるし夕方には必ず帰ってきてるから非行ではないって言っといたけど、あんたどこで時間潰してるの? 人に関わられたくないならもうちょっと上手くやりなさいよ。日中ずっと隠れてるんなら授業中でも大人しくしてられるでしょ」
やかましい。今更どの面下げて教室に戻れるものか。クラス委員長と同じことを言うな。そういうものがウザいからこうなっているのがどうして解らないんだ。
「これで試験まですっぽかしたら、すぐ退学になるよ。あんたの人生それでいいなら構わないけど、うちは無職を養ってやるほど余裕ないから。学校辞めるなら働いてもらうわ。それが嫌なら学生の間くらい勉強しなさい」
母は、聞こえよがしに溜息を吐いた。
「……文句があるなら直接顔見て言いにきなさい。父さんも母さんも待ってるから」
言いたいことは言ったとばかりに捨てるような結び方で、再び足音は遠ざかっていった。
聞きながら蹲るように身体を丸める。手繰り寄せられた毛布は渦を描き、さながらアンモナイトのようになっていた。
沙紀は必死に唇を噛んでいた。今すぐ暴れ散らかしてやりたい衝動を、口の端に滲む鉄錆のような味で抑えつけていた。
変わっていない。何も変わってなどいない。
たかが四分程度の楽曲だけで現実が変わるわけがない。今すぐに劇的な変貌を望んでいたとして、現実の歩みはまるで芋虫のように遅々としている。
それでも動き始めていると、また不貞腐れたら元の木阿弥だと、自分を律していなければならない。だが、そうは言っても実感に乏しい。カタルシスを感じるには何もかもが遅すぎる。風間の言う通りかもしれない。結局、今すぐには何も変わらない。
歯噛みするしかない。握った拳が、爪が痛いほどに食い込もうと、その痛みに紛らわせるしかない。
思い返す。虫のいい話が、今更になって許されるのか。
かつての夢を目指し直すことなど。