翌日。
風間の開口一番は次のようなものだった。
「……やっぱり一緒に行きませんか、保科さん……」
☆☆
そうしたわけで、沙紀と風間は現在校舎の三階フロア、二年生の教室が連なる廊下を進んでいる。
事のあらましはこうだ。
沙紀はいつも通りに登校し、前日に起こった警告など意に介さず屋上へ直行した。昼休みのチャイムが鳴って五分も経たずに風間が飛び込んできた。授業終了と同時にダッシュを決め込んでいないと有り得ないタイムだった。
肩で息をしながら沙紀の姿を見つけ、片手に持っていたクリアファイルを差し出してくる。中には例の楽譜数枚と、別で歌詞のみ印刷した一枚も含まれていた。データでも見れるというのに律儀なことだ。
ファイルの前面に出ている楽譜、その一小節目から数行を何となく目で追う。音符の高低と密度を眺めていると、昨日聴いたメロディーが微かに蘇ってくる。それと同時に、こめかみの上を拳骨で躙るような鈍痛も併せてやってくる。
いけない、と咄嗟に思考を止めた。一度は乗り越えられたにしても、我が事ながらトラウマは甘くない。だとしても、意思に反して身体は覚えていることを忠実に再現しようとする。新しい譜面を渡された時の言い知れぬ高揚感といち早く全体像を把握しようとする癖は、今はまだ出番ではない。意識的に抑制しなければきっと悲惨なことになる。
なんとか楽譜から目を逸らし、視界から外すように右手に提げる。
そこでようやく、風間が未だに息を切らしていることに気付いた。
「……大丈夫?」
聞いてはみるが、物も言えない風間は片手の平をこちらに見せて“あいやしばらく”とやりながら呼吸を整えている。いくらなんでも全力ダッシュ過ぎではないか。あまり目立つ挙動で屋上まで来られると教師どもにバレそうで嫌だ。
おおよそ二分ほどで、顔を上げられるぐらいには回復した。そうしてそこに至って、ようやく口を開く。
「……やっぱり一緒に行きませんか、保科さん……」
当然、沙紀は嫌な顔をした。
昨日と言っていることが違う。自分が話をつけてくると確かに宣言したのではなかったのか。
しかし風間が言うには、
「もちろんメインの話は僕がやる。それを保科さんに任せるわけにはいかない。ただ後ろについててもらうだけでいい。どうして気が変わったのかと言えば、まあ心細いのも一端にはあるが、昨日あれこれと考えている内に早速別行動というのは違うのではないかと思ったからだ。同じバンドメンバーなのにこれでは蚊帳の外に置くようではないかと思った。決して同調しろというわけではないが足並みを揃えていきたい。繰り返すようだが話し合い自体は僕が何とかするから保科さんは後ろに控えていてもらうだけでいい」
息切れしながらつらつらと並べられる文章を簡易にまとめると、おおよそこんなことを言っていた。
そう聞いた上で、沙紀の
たとえ他学年といえど、階下の騒音のど真ん中に切り込んでいくのが嫌だった。生徒達の目に触れるということは、保科沙紀の存在が目撃されるということである。教師の目に入ったり、生徒伝いに目撃情報が流布されたりと、単なる姿を晒すだけ行為が後になってどれほど面倒を引き起こすか。考えるだけで居心地が最悪になる。
面倒は風間が引き受けるという。そんなことは当たり前だ。しかし行動を共にすると沙紀なりの面倒が発生する。
目立ちたくない。どう考えても嫌な噂が立つ。それがあの委員長の耳に入った日にはもっと面倒臭くなるに決まってる。
だが、蚊帳の外、という言葉が引っかかるのもまた正直なところだ。
言われてみればそうなのかもしれない。言い出しっぺの風間が総合的に仕切るポジションであることは疑いようもないが、バンドの一員として組む以上、事の成り行きに任せるというのも据わりが悪い気がしてくる。責任だの体裁だのは知ったことではないが、無知のまま流されていくのは気楽なだけじゃない。
自分だけが何も知らず、解っていないまま、気付いた時には疎外されていた。
そういう苦みを、ふと思い出した。
それにそもそも、
その時、相手から見た沙紀への印象はどうなるのか。
……こういうことを考えるようになったあたり、我ながら根が暗くなったような気がする。
ともあれ、ほんのりと後ろめたさが滲んできたこともあり、葛藤の天秤は最終的に右へ傾いた。ついていくことに決めたのである。
なけなしの対策として、薄いスクールバッグの中をひっくり返すように漁ると、個包装のマスクが一枚だけ出てきた。いつ何に使ったやつの余りかも覚えていないが、とりあえずこれを装着して顔を隠すことにする。
こうしておけばパッと見で顔を知られることはないだろう。長居しなければ良いだけの話だ。暑苦しいのは我慢だ。
かくして、沙紀はとても久し振りに、同年代の生徒で犇めく時間帯の校舎内へと降りていった。
☆☆
沙紀達の通う高校校舎は実にシンプルな造りをしている。
片田舎、かつ偏差値は下から数えた方が早いという低いブランドの特徴に恥じず、学校敷地は広大な畑と住宅街の境目にひっそりと建てられている。中途半端に舗装された農道が校舎の目の前に走っているが、交通量は多くない。地域住民にとってもここは僻地だ。認知しうる土地勘の中で辛うじて記憶される端っことでも言おうか。畑の真横ということもあって並び立つ防風林が隔絶感をいや増している。
受験戦争に負けた、或いは初めから闘う気のない子供達を収容するにはうってつけのロケーションとも言える。
無駄に広いロータリーのような土地を跨いで一階の生徒玄関を抜けると、まず購買や自販機の列が目に入る。左右に伸びる廊下の延長線上には理科室や音楽室、技術家庭科室等があり、端まで進むと体育館がある。
生徒達にとってメインとなる教室は二階よりも上だ。不思議なことに昇順となっている。つまり一年生は四階、二年生は三階、三年生は二階に己のホームルームを配置されているのだ。新入生諸君は入学早々に三フロア分の階段を上り下りする生活を強いられるわけである。何故こんな構造になっているのか、歴史を知る者は最早残っていないらしい。
閑話休題。
そういうわけで、沙紀と風間は二年生達の階層、三階の廊下を連れ立って歩いていた。
道行く生徒達は当然ながら制服を装っているが、学年を見分けるポイントはいくつかある。最たるものは上履きの色だ。学校指定ブランドの安いスニーカーというベースは共通しているが、サイドに入っているエナメル材質のラインが学年によって異なる。一年生は緑、二年生は赤、三年生は青。なおこのカラーリングは学校指定ジャージにも及び、かつ卒業まで変わることはない。沙紀達は卒業まで緑の世代といった具合だ。
当然ながら、三階にいる生徒は赤の二年生ばかりである。沙紀と風間の上履きは否応なく目立っていた。
心なしか周りからじろじろと眺められている気がする。物珍しさか、あるいは部外者への警戒か。用事も無いのに他学年の領域へ踏み込むことなどそうそうありはしない。であるならば、何の用があってここにいるのかそんな好奇とも言える視線が注がれている、そんな気がする。
マスクがあってよかった。その存在を思い出せて本当によかった。こんな紙切れ一枚でずいぶん心理的に助かっている自覚がある。
なるべくテキパキと歩きながら、内心は恐る恐るといった心情で歩いていると、先導していた風間が立ち止まった。見上げると【2-8】という札が掲げられている。
二年八組。ここに目的の人物がいるらしい。
まず風間が教室入り口からそっと中を覗き込む。昼休み中の学校はどこもかしこも騒がしいが、ここの組は
やがて顔を戻した風間は、果たして非常に渋い表情をしていた。
「ううーん……予想通りというか……」
「……なに?」
「姿は見えないけど、まあ、アレかなーっていうのはあった。たぶんいると思う」
「どういうこと?」
「人に囲まれてて見えないんだよね……」
次いで沙紀も立ち位置を替え、二年八組教室内を見渡してみる。
騒ぐ声が馬鹿みたいに大きいというところを除けば、昼休みの風景としては何の変哲もなかった。机を突き合わせて弁当を囲む少人数が点在していたり、端の方で大きな一塊になっていたりする。窓際の日当たりと風通しが良いポジションはカースト上位が独占するというのもお約束だ。それらしい見た目の連中がびっしりと、仲間内で固まってランチタイムを謳歌している。
その中で、一際大きな人垣がある。
曲がりなりにも沙紀とて花の高校生、自分のクラスにはほぼ全く顔を出していないが、中学時代を経て年頃の青少年の生態というものに多少の理解はある。集団形成の真理とは単純だ。強い群れに数が集まる。群れをなして社会を作る猿の子孫らしい、ある意味では野性的な本能の現れでもある。
つまりあの人垣に囲われている人物こそが、この猿山のボスというわけだ。
乗り出していた身体を引っ込めて、風間に向き直る。
「……あそこに入っていくわけ?」
「う、うん。まあ、こうなるだろうなって予想はしてた。……わかってたけど、あれ割って入るの嫌だなぁ……」
「一応聞くんだけど、あたしは突っ立ってるだけでいいのね? 求められても手助けとかできないけど」
「……うん。保科さんは後ろにいてくれればいい。それだけで心強いよ」
「あっそ。じゃあ早く行こうよ。昼休み終わるし」
二年の教室の出入り口で一年生がいつまでもウジウジしていたら余計に目立つ。現に注がれる視線の量が増えてきた気がする。
催促のようでいて、本音はこの好奇心の注目を切りたいだけだった。そんな心情を知ってか知らずか、風間は自分の呼吸を落ち着けようとしている。
「ふー…………よし、やるだけやってみよう。案ずるより産むが易し、だ」
両掌で顔の半分を覆いながら、そんなことをもごもごと言っている。
やがてその手を離すと、眼鏡の奥にある気弱そうな目尻を決意に尖らせた。
ひと思いに振り返り、改めて教室の入り口近くに立つ。上半身だけを覗き込ませるように傾けて、その場から一番近い座席に座っている男子へ声をかけた。
「……あのー、すみません、人を……」
しかし、談笑中の男子は風間の声に気付かない。自身の声と、教室中に溢れ返る嬌声や笑い声が、細い声質の風間を容易に掻き消してしまう。
普通に気まずいところだが、風間は挫けなかった。
「あ、あの! お話中すみません! 呼び出してほしい人がいるんですが!」
やや張った風間の声に、ようやく近くの男子が驚いた。間の抜けた顔で振り返り、風間の姿を見る。
「あ? え、俺? 何か用?」
「す、すみません。三上先輩って、いらっしゃいますか」
「三上? ああ、歩武? たぶんいるよあそこ。──おぉーい、歩武!」
風間の三倍は通る声量が迸る。その途端、目星を付けていた人垣の外側にいる男女が一斉に振り返った。特徴として共通しているのは、どいつもこいつも校則を微妙に逸脱していそうなラインで制服を着崩しているところだ。スカートがやけに短かったり、シャツの下のTシャツが派手な柄だったり、
その集団を指して、声を上げてくれた男子が言う。
「なんか一年が用あるってさ! ──あの窓際ンとこ座ってるから。行ってみ」
「あっ、ありがとうございます」
礼を言いつつ、こうまでされては最早立ち止まることも引き下がることもできないと改めて意を決し、風間が二年生の教室に踏み込んでいく。ここまでの流れを一通り見ていた沙紀も、黙ってそれに続く。
異なる学年の教室というのは、ほとんど異世界のように感じられた。
沙紀はそもそもが授業に出席していないので、高校進学後の教室の空気というものにまるで馴染みがない、という事情はある。だがそれを差し引いても、とんでもない違和感が肌を刺し、内臓にまで染みこんでくる。
ここにいるべきではない、自分こそが異物なのだと思わせる、そういう緊張感だ。
大なり小なり風間も同じだろう。こちらも本来の性格であれば、赤の他人に話しかけることは苦手とする人種のはずだ。ましてや自分のバンドへの勧誘など、有り得ないことだろう。
それでも「やる」と本人が言った。半分ぐらいは沙紀が言わせたようなものだが、言ったことに変わりはない。
沙紀に目を付け、曲を書き、他のパートも探して勧誘に出るなど、一体何が彼をそこまで駆り立てるのだろう。単なる学生バンド、目的は学校祭での一度限りのステージ演奏、そんなものにそこまで熱を入れるモチベーションがどこから湧いてくるのか。
そのあたりの心境は語らなかったな、と、今更のように沙紀は思う。
そんなことを思っている内に。
余りにも広いような気がしていた教室の横幅をあっという間に踏破し、沙紀と風間は、窓際まで辿り着いていた。
人垣とはいえ五、六人の集団だったが、その外側が割れる。取り巻きにしていた数人の視線は、当然ながら沙紀達に注がれる。何をしでかすのか期待している、不愉快な好奇の目だ。
そうして、目的の人物が現れる。
その姿を見た時、先頭の風間はぐっと息を呑み込んだ。
続く沙紀も、前もって想像していたイメージとは当たらずも遠からず、そんな印象を受けた。
せいぜいが一つ年上、差などあってないようなものだろうに、その人物はある意味では高校生離れした雰囲気を放っていた。
仄かに紫がかった長髪。後頭部の上あたりでポニーテールのようにしているが、長さは沙紀のそれを上回る。隠そうともしないピアス穴、ゴールドチェーン、指をギラつかせるリング。極めつけは、大きく開いた
事前情報の噂全てを裏付けて体現する姿。「こういう感じなのかなぁ」という想像をそのまま肯定してくれるような、まさしく不良の出で立ち。
──これが、高校生。
ついこの間まで中学生だった身としては、ある意味でカルチャーショックだった。
こんな絵に描いた不良が今の時代にも生きているのかと、感動すら覚えている。同時に、こんな身なりでいても即座に集団から排斥されることなく、あくまで指導の範囲内に収まっているあたりに、この学校の懐具合というものが察せられるような気がした。
そんなところで思いがけず呆けてしまうこと数秒、その注目の的である男──三上歩武は、右手に掴んでいたメロンパンを無造作に持ち上げ、大きな一口を
そうして、風間に向けて声を発する。
「……何だよ、用があるんじゃねえのかよ」
呆れているような苛立っているような、無礼な客を咎める声音だった。
それにようやく我に返り、風間は背筋を正してから頭を下げた。
「すすすみませんお食事中失礼します! 一年の風間と言います! 今日は、先輩に折り入ってご相談がありお邪魔しました!」
なんだか変な感じの日本語になっているが、とりあえずそこまでは言い切った。それを聞いた三上の取り巻きであるひとりの男子が、感心したように呟く。
「おお、なんかスゲえしっかりしてそうな奴が来たぞ。つか歩武はなに、知り合いなん?」
「知らねえよ。一年の男に絡みなんてねえし。相談って何だよ、なんで俺なの?」
「いやいや、下級生が二年の教室に来てまで歩武に相談ってことはさ、そんなもんアレしかねえだろ」
別の取り巻きが言葉を継いだ。
あくまでも勝手知ったるような顔で、まるで全てお見通しとでも言うような表情で、その場の全員から期待の眼差しを一身に浴びながら、堂々と言った。
「──女を紹介してくれってことだろ?」
空気が凍った。
いや、固まっているのは沙紀と風間だけだった。この二人以外は別に意外でも何でもなさそうな顔で、「ああ、ね」などと言いながら勝手に話を進めていく。
「なるほど、ここんところはなかったけど、そういえば春先にもそういうのいたな。一年生のくせに早速遊ぼうとしてる奴」
「歩武ってなんかモテるしそういうの頼られるよねー。こんなあからさまにヤバい格好だし乱暴者なのに。ふしぎだねー」
「そんなとこに座ってるあんたがそれ言う? つーか歩武まだ女の紹介とかしてんの? いい加減刺されるよ?」
「まあヒマしてそうなのは何人か知ってるし声かけるだけならいいけど。でもなぁ、えーと……風間だっけ? そんな背伸びしてまでさっさと卒業しようとするもんでもないぞ。あと俺の知り合いって結構辛口だから下手すっとトラウマになるかもしれん。今後のために遊ぶ相手は選んだ方がいいぞ?」
「ちちちちち違います! そんな相談じゃないです! そちらのご心配は無用です!」
「あ、そうなんだ。意外……ああいやそうか、後ろの子がそういうことか。いっけね、悪りぃ。勘違いしてた」
「ほらー、変な話するからすっごい目でニラんでるじゃーん。謝んなよー」
「違います! こちらの人はそういうアレじゃありません! というか男女の相談をしに来たんじゃないです!」
「んじゃ何? こいつに女以外で頼れるところなんかなくない?」
「ぶっ飛ばすぞコラ。つーかマジメに何の用?」
あの、と区切るようにして風間は言った。
「三上先輩がバンド活動をされてると聞きました。そのご相談です。ベースを探してるんです」
それを聞いて、再び取り巻き達が「ああー」と思い出したかのように声を漏らす。
「あ、そっちなんだ。え、もしかしてバンドやるからってこと?」
「へー。意外。まあ今時珍しくもないのかな? っていうか歩武、──紹介してほしいのはベースだってさ」
「っても知り合いのベースなんておっさんしかいねえぞ。どこで演るつもりか知らねえけど学生に紛れられる奴なんかそれこそいねえって」
「違います! 伝手を当たってほしいとかでもないです!」
遊ばれてるなぁ、と沙紀は呑気に思う。実際、周りの取り巻きたちは風間の反応を見て面白がっているようだった。こういう人種の慌てふためく様が好物なのだろう。沙紀も概ね同意するところではあるが、その哄笑の何割かが自分にも向いていると思うと愉快には思えなくなる。
とはいえ、そろそろ本題だ。
「あの、三上先輩はバンドでベースを担当されてるんですよね!?」
「おう、そうだよ。つーか一応学外のことだからデカい声で言うなよな。先公にバレると面倒なんだよ」
「三上先輩に、僕たちのバンドでベースやってほしいんです! 今日はそのお願いに──」
「いや無理」
本題が、終わった。
☆☆
教室内の喧噪は相変わらずだったが、沙紀達の周囲だけが切り取られたかのように沈黙した。
沙紀の立ち位置から風間の表情は見えない。だが姿勢が半端な礼の状態で動かなくなり、言葉の続きが出なくなったあたり、きっと妙な顔で固まっていることだろう。
三上は、何の感慨も思惑もない、ただ率直な事実確認を述べただけという、実に淡泊な表情をしていた。周囲の取り巻きも、三上の回答に何ら驚いている様子はない。むしろ想定していた通りだと言わんばかりに平然としている。
そうして全員が動かなくなった。誰かが動くのを待っているのか、それすら倦んでいるのか。奇妙な緊張感が場を支配していた。
……助け船を出すべきなのだろうか、と沙紀は思う。本来の約束とは違うが、風間が固まってしまった以上、誰かが何かを言わなければ無駄な時間が過ぎていくだけだ。
しかし今の自分に何が言えるだろう。目の前の人物、三上歩武に何を言えば、この場を打開できるだろう。
と、逡巡している間に。
取り巻きの内、傍らにいた男子のひとりが溜息交じりに言った。
「まあ待てよ歩武。ちょっとは考えるふりぐらいしてやれって。そんな初手で切り捨てるから、見ろ、びっくりしちゃってるじゃんか」
「いや、普通に考えて無理だろ。もう
「まあまあ。だから話も全部聞いたわけじゃないやん? せっかくご指名なんだし、こういうの久々じゃん。お前の地道な課外活動がようやく世間を動かしてきてるってことだよ。聞くだけならタダじゃね?」
ずいぶん親切な心遣いだった。見た目は例にもれずチャラついている印象だが、根の性格は悪くないのかもしれない。三上とも深い親交があることが伺えた。
一方で当の本人は嫌そうに眉間を寄せていたが、数秒黙った後に露骨な溜息を吐いた。
「……せっかく、ねぇ。メシ食ってる最中なんだけどな」
言いつつ右手に持っていたメロンパンを三口程度で平らげた。脇の机に置いてあった紙パックの紅茶をストローで啜り、口の中を片付けてから、再び沙紀達に向き直る。
「手ぇ見せな」
「え、手?」
「おう。定番だろ?」
そこでやっと再起動した風間が、恐る恐る一歩前に踏み込み、両の手の皺を見せつけるように差し出した。
股座に女が居座っている三上はその場で身動ぎもせず、その女を
それから、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「それなりにはやってるみてえだな。客前に出たことは? どこで
「え、えと……知り合いのバンドにヘルプで呼ばれることがあるので、サポートギターでたまに。街中の【ボルサネリスタ】ってところです」
「へぇ、知ってるハコだ。俺もよく行くぜ。……の割に見覚えはねえな。月に何回出てる?」
「そんなには、出てません。二ヶ月に一回あるかないかで」
「ふぅん? じゃあほとんど家で籠もって練習してるだけってか。動画撮って投稿とかしてねえの?」
「そういうのは、あまり……意欲がないというか」
「なんで
放り捨てるように、観察していたはずの風間の右手を撥ね除ける。それはどう見ても拒絶のポーズだった。
改めて、三上は風間を睨みつけるようにして言う。
「知っての通りさ。俺は学外でバンドやってる。それなりに真剣に活動してる。だからまあまあ忙しい。俺にとっての優先事項のひとつだ。学校なんか放り出したいぐらいにな。だからよ、噂で聞いたか何だか知らねえが、そもそもはこっちが先、お前らは後出し、この構図に変わりはねえ。分かるか?」
優先順位はあくまでも元から所属している自分のバンドの方である。そんな当然の大前提をわざわざ強調した上で、三上は続ける。
「だとしたら、ただでさえ忙しい俺に追加でベース弾けって言うなら、それは依頼ってことになるよな? 報酬を伴う
「……お金、ってことですか?」
「そういう解釈をするならそれでもいいさ。むしろバイト代以外の何を差し出せるのか聞かせてほしいもんだね。青春の思い出なら間に合ってるぜ。今の生活はなかなか充実してる」
遠慮のないことだ、と思うが口には出さない。
こう返されるパターンは風間も予測していたはずだ。というより、これが普通の反応である。現に沙紀も最初は強めに反発していた。
既に所属している団体があるのなら、そちらの予定が優先される。それを承知の上で自分の側と協力するというのは、引き抜きか掛け持ちのいずれかを提案するということだ。最初に反発が起こるのは当たり前だ。それでも必要だというのなら、全ての事情を併せ呑み、上回る提案をしなければならない。
たとえ振る舞いに過ぎなくてもここは気丈にならなければいけない。風間もそれを分かっているはずだ。
問題は、頭でそうと理解していても、相手の気迫や勢いに圧されていないか。
ややあって、風間はまず自分が言えることを返す。
「……そういう意味では、僕から差し出せるものはありません。自由に使えるお金は多くないので。仰る通り、これは僕からの一方的なお願いです。三上先輩が学外のバンドで活動されていると噂を聞いて、実力のある人にお願いしたいと思ったので、今回お願いに来ました」
「実力だぁ? 俺の演ってるとこを観たことあんのか?」
「失礼ながら、ありません」
「そら見ろ。もうこれで終わりだろ。どの程度の腕前かもわからない奴に何を頼む? そもそもどこで何を演るつもりなんだ?」
「学祭の、有志発表に出たいと思っています」
「やる曲は。どっかのコピーか?」
「いえ、僕が書きました。音源は出来上がってます。僕がギターで、彼女がボーカルの予定です」
そこで取り巻きの何人かがどよめきを起こした。
「えっ作詞作曲してんの!? しかもギターやってんの!? すごくね!? おい歩武、お前アレじゃん、上手いギター探してるとか言ってたじゃん」
「黙ってろ。こいつの上手い下手は関係ねえよ。……学祭で一丁派手に思い出作りってか。そういうのって同学年同士でやるもんじゃねえの? 一年同士で組めばいいじゃん。年上の俺を呼んだってやり
「恥ずかしながら、僕たち以外のメンバーはまだ決まってません。でもオリジナルの曲をやるとなると、ハードルはぐんと上がります。自分で書いた曲ですが、伴奏は正直簡単じゃありません。時間もあまり多くはありません。だからこそ、リズム隊は慣れている人が必要なんです」
作り手としての風間の意見を初めて聞いたような気がした。今更のように、そういえばこいつは口で言える程度には経験値があるらしいということを思い出す。
「三上先輩はもう二年ほど、そのバンドを続けられていると聞きました。それだけの年数があるなら、短期間で曲の構成を把握して本番に臨む機会も珍しくないはずです。音源ならすぐに出せます。スコアも……」
「要らん要らん。聴かねえって。やらねえっつってんだから。今お前が言ったのも、俺の実力を知りもしない奴が泣きついてくる理由にはならねえよ」
あのなぁ、と三上は溜息交じりに、少し大袈裟な調子で言った。
「作詞作曲ができるってのは大したもんだ。でもな、お前がどんな名曲を書いたのか、俺は知らねえし興味もねえ。俺はお前らにこれっぽっちも興味が湧かねえ。高校生が書いたレベルの曲なんざ聴いてやる価値も無い。第一、手伝ってやったところで俺に得がねえ。バイト代が出るわけでもないのに時間を割いてやるほど俺はヒマじゃねえ。無い無い尽くしでこの話は終わりだ」
今までに風間がどうにか紡いできた言葉の全てを否定する。即座に反論が出てこないあたり、彼も窮しているのだろう。
実際その通りなのだ。見た目と態度で混乱しそうになるが、言っていることは一般常識の範疇である。
ここまでで十分も経っていない内に顔を合わせただけの初対面で、ただ楽器をやっているらしいという噂だけを聞いて、腕前は知りもしないが元の所属バンドと掛け持ちで学校祭にも出てくれと言っているわけである。頼んでいる側の沙紀達が非常識なのは傍目にも明らかだ。怒鳴り返されないだけ真摯な対応と思うべきだろう。
なよっちい見た目の割に、風間の頼み方は強引に過ぎるきらいがある。
「そういうもんを越えて、俺がやる気を出す何か。それをお前はまだ出していない。それを出して初めて、お前らを手伝うかどうかの話が始まる。何にもないなら財布と相談でもしてみな。出せる額で納得するかどうかの話に変わるだけだがな」
早い話が、風間の交渉がお粗末だということだ。
昨日、沙紀と退治していた時と明らかにキレが違う。ボーカルの存在が重要なファクターである故に気合いが入っていたというのはあるだろうが、他のパートだって無くてはならないもののはずだ。ステージに上がって生バンドとして演奏するつもりなのだから、楽器を演奏するメンツは一通り揃ってなければ迫力が出ない。同じぐらいの気合いを以て臨まなければならないはずだ。
だというのに、この流れはまずい。
簡単にはいかないだろうと予感はしていたが、これでは本当に交渉決裂で終わってしまう。
当の交渉相手から既にNOと突きつけられている以上、もう七割方は試合終了しているような気もするが、風間が何を考えているのかが分からなかった。諦めて他の候補を探してみるか、それでも食い下がるか。そのあたりの検算でもしているのか。
ひょっとしたら頭が真っ白になっているだけなのかもしれない。だとしたらもう駄目だ。交渉役がそのザマでは本当に終わりだ。
そして、そうなると、今度は沙紀の方に矛先を向けられる。
“こっち黙っちゃったけど、何か……助けてあげないの? ”
そんな視線が、控えめに沙紀へと突き刺さる。
来ると思っていたが、本当に嫌な流れだ。マスクの内側が苦々しく歪んでいくのが分かる。
正直、心情としてはどちらでもよかった。一応は進んで交渉役を買って出た風間がどう立ち回るのかを期待していた部分はあるが、破談になるならそれはそれで次を考えるだけとも言っていた。
ここで三上の勧誘が失敗したとして、その後の影響を考えるにつけ。
対応が後手に回り、結局ベースの他パートを勧誘することにも失敗して、ステージに上がる頭数を揃えられないまま、
あの曲に幻視した『夜』がただの幻に成り下がるとして、そもそもが昨日の今日に降って湧いた突然の珍事であることに変わりはない。風間は迷惑な人騒がせとして記憶の隅に追いやられるだけだ。
そうして、今までと変わらない日常が帰ってくる。何をするでもなく屋上で暇を潰し、家では家族と顔を合わせないように引きこもり、いつまでもいつまでも、実りも捻りもない退屈で緩やかな日常に身を任せるだけだ。
結局人生なんてのはこんなものだと。
何かを変えようとするのも、変わってほしいと望むことも、無意味でしかないのだと。
一般大衆の真理に立ち戻るだけだ。
まったくもって、腹立たしいことに。
後ろ手に忍ばせているクリアファイルが不愉快な熱を持っていた。
「…………もったいないですよ、それ」
よせばいいのに、気付いた時には口から漏れていた。
沙紀の口から、そんな言葉が出た。
「先輩の言ってること、あたしも正直そう思います。こんな奴の言うことに付き合う方がどうかしてる。っていうか、あたしも何でこんなとこまで付いてきてるのかわかってないし」
喧噪は変わらない。鼓膜を叩く騒音に、沙紀の細い声など簡単に掻き消されてしまいそうになる。
だが、少なくとも三上と取り巻き、風間の視線が、沙紀へと集中した。
「でも、聴いたこともない曲を頭ごなしに価値がないって言うのは、こいつと大して違わないと思います。先輩の腕前がどれぐらいなのか知りもしないのに頼みに来たこいつと」
改めてそう言われた風間が情けない顔になるが、無視して沙紀は言い続ける。
沙紀は、聴いたことがある者だからだ。風間の曲を聴き、その結果で幻覚まで見てしまった者だからだ。その立場から言えることは、
「興味がない、で切り捨てるのは、ちょっともったいないかもしれないです。こいつが書いた曲」
三上は表情を崩さない。むしろ沙紀が喋り出したことで、嘗めたような態度に拍車が掛かってきた雰囲気さえある。
「身内を
傍らに置いていた紙パックの紅茶を手に取り、ストローに口をつける。最後の一滴まで啜る音が途絶え、飲み干したパックをひと思いに握り潰した。
「本当に難しいのはな、再生ボタンを押させることだ」
股座に座っている女子がいつの間にかビニール袋を広げ、潰されたパックを中に回収する。流れるような手際の片付けを意に介さず、三上は話し続ける。
「超絶技巧を修得するだの、センス溢れる作詞作曲だの、そんなもんは時間をかければ誰でもできる。そんな漠然としたことじゃない。流れてくる音を曲として認識させること。それを聴きたいと思わせて、興味を持ったまま最後まで聴かせること。でなきゃ
何か思うところでもあるのか、早口のような速度で捲し立てる。
独り善がりに価値はない。観客に聴かれ、曲として認識され、そうして初めて存在価値が生まれる。それがなければただの自己満足に過ぎない。
血の滲むような努力も成果が出なければ意味がない。どれだけ頑張っても、観る者の琴線に響かなければ価値は出ない。
まったくその通りだ。沙紀としても反論の余地のない真理だった。
だからこそ引っかかることがある。
昨日の自分は、どこかに価値を感じていたのか、と。
風間がバンドを組む理由を聞き、彼の曲を初めて聴いて、沙紀はその誘いに乗ることにした。保科沙紀をイメージして作られたという曲を歌ってほしいと言われ、自分でも歌ってみたいと感じた。ただ率直に歌いたいと思った。
そこに金の臭いを感じていたわけではない。見返りを期待したわけでもない。では、あの時の自分を突き動かしたものは何だったのか。
やる気のない人間を叩き起こす原動力とでもいうべきもの。現実的な成果報酬や人脈形成などのメリット、そういうものが期待できないと分かった上で、利益を越えて人間が動く理由とは何か。
何を与えれば、人は動くのか。
その答えを、沙紀も知りたくなった。
「なら、どうする? ここまで言った上で、俺は別にお前らに同情はしない。興味が無いのも変わらない。それでどうやって興味を持たせる? 無価値なお前らの音楽をどうやって俺に聴かせるんだ?」
具体的な方策は沙紀には思いつかない。持っている手札があまりにも少ない。
だが、ちらりと風間に目配せをすると、その表情は驚きが大半を占めているものの、怯えや焦りは含まれていないように見えた。昇っていた血は下がったようだ。
ならば、頭を悩ませる役は引き続き任せていいだろう。
沙紀は思ったことをそのままに言ってみる。
「先輩は、学校には真面目に来てますか?」
「は? いや、俺こう見えても優等生だから。寝坊以外はちゃんと出席してるっつの」
「その寝坊がめっちゃ多いんだけどねー」
三上は、股座にいる女子の軽口を小突いて黙らせた。
「──それがどうした?」
「じゃあ、近いうちに先輩に興味を持たせられればいいんですよね。それで先輩がちょっとでも得だと感じたら、こっちのことも手伝ってくれますか?」
「へぇ? 何かやらかそうってわけか?」
ほとんど勢いのままに言う沙紀を見て、風間が目を丸くした。同時に三上も意を得たりと、僅かに口の端を吊り上げる。
沙紀達の方から差し出せるものは何も無い。わざわざ懐を痛めて金を払ってやるつもりもない。
だから代わりに、三上の言うように、金や思い出に依らない何かを用意して、三上をバンドに入れさせる。
挑発に対する応戦だった。他にこの場を収める言葉が出ない、というのもあるが。
しかし、沙紀がそういうことを言うのなら、もはや売り言葉に買い言葉だった。
「いいぜ。一週間以内だ。ダラダラしてたって時間の無駄だろ。それが出来なきゃいよいよお前らの勧誘なんか受けねえ。それでいいな?」
あくまでも偉そうな態度は崩さず、しかしそれは譲歩の言葉だった。猶予と条件が付くならば、可能性は潰えていない。
試しているのだ。
そうと分かれば、沙紀にはもう長居する理由もなかった。
「はい。お昼休み中にすいませんでした。失礼します」
一礼し、適当にその場を切り上げる。さっと踵を返して、沙紀は二年の教室を出て行った。
その後を風間が慌てて追いかける。続けて教室を出て行く時に、取って付けたように頭を下げた。
二年生の教室が並ぶ廊下を外れ、ひとまず他人の目から逃れられる場所を求めて屋上に戻ることとする。階段に差し掛かってようやく後ろに追いついてきた風間が、沙紀に言った。
「……保科さん。ごめん、ありがとう」
「なにが?」
「覚悟はしてたつもりだったけど、途中で頭が真っ白になってた。あんな程度でビビるなんて情けない。アドリブなんてやらせてごめん。本当に助かった。保科さんがいてくれてよかったよ」
やはり脳がフリーズしていたらしい。助けるつもりで口を挟んだわけはないが、まあ怪我の功名とも言えるだろう。
「別に。ああでも言わなきゃずっとあのまんまだったでしょ。それに助かってもない。結局は問題を先送りにしただけだし」
「そうだね。……ちなみに、保科さんも何か考えがあって、あんな風に言ったとかでは……?」
「ない。あたしは別に頭脳派でも何でもないから。その辺は風間くんが何とかして」
「ま、まあ、そうだよね。うん、さっきの分はそっちで、頑張ります」
「そう。……で、なんか考えてることはあるの?」
沙紀の問いに、風間は答える。屋上への出入り口、大雑把な×を描く立入禁止のテープが張られた鉄扉の前で、二人は立ち止まった。
「……いくつか考えてたプランの中で、一番実現性が低くて無茶苦茶だけど、あの先輩の言っていることに対する答えとしては最適解かもしれないっていうのがある。根回しや機材の準備はもちろん僕が請け負う。だけどこれは、保科さんにも相当がんばってもらうことになる。それを覚悟してくれるなら、やってみたいことがある」
「何を今更。無茶苦茶なんて最初からでしょ」
風間はまた苦笑した。そうして、表情を引き締めてから、はっきりと答える。
「