夜這う星屑、集いて統ばる   作:あるばさむ

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7. 炎昼 Phase-2

 昼休みから午後を三時間ばかり過ごし、放課後。

 当然のように授業をサボった沙紀は、持て余す時間を有効活用し、普段より早めに学校を抜け出した。六限目が終わる頃には校門を抜け、防風林の境界線を越えて住宅地に入る。

 

 いつもはまっすぐに進んでいくが、今日は脇道に逸れ、少し離れたところにある児童公園に足を向ける。

 あるものと言えばブランコと砂場、後はベンチと植木。使い勝手の悪い空き地をとりあえず埋めてみましたと言わんばかりのシンプルさだ。立ち寄る人も散歩中の老人か買い物帰りの親子ぐらいなもので、それらも決して長居はしない、そんな場所だった。

 

 とりあえずベンチに腰掛け、沙紀は時間が経つのを待つ。ほんの五分程度で遠くから聞き慣れたチャイムの音が響いてくる。日中全ての授業が終わった合図だ。

 程なくして、沙紀の視点からは早々に下校に勤しむ学生の集団が見えた。喧噪そのものが形をなしているような行列が徒歩や自転車で賑やかに横断していく。この時間に外に出る生徒はほとんど例外なく帰宅部だ。この児童公園方面が通学路でない限りは、あの集団が向かっていく方向のバス停が主目的になる。他に徒歩や自転車通学の近所住まいもいるが、そういった派閥でさえも通学路はあちらの道へ行く者が多い。実際、沙紀は学生達の行列を呑気に傍観していたが、当の本人達が沙紀に気付くことはなかった。誰もこちらの方面に用事などないのだ。

 

 あと少し出遅れていたらあの集団に呑み込まれていたと考えると少々うんざりする。そういえば昼休みから着けっぱなしだったマスクを適当に弄ったりしながら、沙紀は今しばらく時間を潰す。居座ったベンチのちょうど頭上を木陰が覆い、鋭角になりつつある西日の直射日光から守ってくれていた。

 

 ぼーっとすること十五分弱。

 視界に動きがあった。誰も来ないと思っていた脇道を、見覚えのある制服姿の男子が小走りでやってくる。それを数時間ぶりに会う知人と認識するや沙紀はベンチから立ち上がった。

 公園から歩道に出るあたりで合流。

 またも息を切らしている風間純一が言った。

 

「……ご、ごめん、お待たせ保科さん」

「ん。バス停ってこっちの?」

「うん。歩いて行ったら、ちょうどいいぐらいだと思う」

 

 そうして、風間と連れ立って沙紀は歩き出す。同校の生徒達が大挙して列を為すあちらではなく、この公園側の脇道の方に、だ。

 沙紀の帰路ではない。

 

 これから向かう場所は、風間の実家だという。

 

「思ったんだけどさ」

「う、うん」

「音楽関係の仕事をしてるからって、自宅にスタジオは普通にあるもんなの?」

 

 昨日の今日で知り合ったばかりの男子の家に何をしに行くかと言えば。

 

「まあ、趣味と実益を兼ねてるって本人は言ってたよ。父さんの趣味を詰めまくったプライベートルームではあるけど、しょっちゅう仕事で使ってるのも事実だし。でも一般的かと言えばそんなことはないんじゃないかな……」

 

 無論、練習である。

 バンドを組み、近くライブをやると決めたからにはそれ以外に目的はない。

 

「僕が生まれる前に、父さんはインディーズの小さいレコード会社を立ち上げたんだ。十何年も経営して未だにドのつくマイナーだし、CDショップでもほとんど見かけないけどね。一応所属してるアーティストは何人かいる。だから家は生活スペース兼事務所みたいなもので、新築で建てる時に仕事用の名目でスタジオも作ったんだって。普段は事務所所属の人達専用で無料の練習場所として提供してるけど、録音に使うこともちょくちょくある」

「じゃあ、今も使ってる人がいるってこと?」

「いや、今日は誰も使ってない。予約表を見たけど、午後は丸ごと空いてた。所属アーティストって言っても専業じゃないから、本業の仕事で忙しい人ばっかりだし……バンド仲間同士で予定が合わないってことも、よくある話なんだ」

「……そう」

 

 馴染みのない道を進むごとにいや増していく緊張感は、異性と肩を並べていることに対してではなく、この後に行われる練習そのものに対してのことだった。

 

 来たる秋の学校祭における有志発表ステージへの出演を目指し、バンドの頭数を揃えるに当たってベース担当候補を勧誘しに行ったはずが、気付けば本番に先んじてまず一週間以内にゲリラライブを執り行う運びとなった。

 事の是非はさておいて、そのゲリラライブにおいてボーカルを担当する人間は、ここ半年ほど歌声どころかまともな発声すら控えめになっているため、早急なリハビリを要する。

 

 つまり、あの悲惨な思い出から半年以上経って初めて、人前で歌の練習をすることになったのである。

 

 制限時間が設けられ、手段の選択肢が多くないという状況である以上、出来る準備は早ければ早い方がいい。それゆえにほぼ即断即決で、風間の実家にあるという防音スタジオを借りることになった。そこまでの流れが迅速だったのは良いことだ。遅かれ早かれ、複数人で集まっての練習になる日が来ることも当然のことだ。

 しかし、それでも、やはり気が重くなるのは避けられない。

 

 人前で歌を練習するということ自体に小っ恥ずかしさを感じているわけではない。そんなものはとうの昔に通り過ぎた。懸念していることはもっと別のところにある。

 

「それにしても──」

「……なに?」

「ああいや、ゲリラライブなんて滅茶苦茶なこと、保科さんが賛成してくれたのが意外で」

「さっきも言ったけど今更。よりによってあんたに変人みたいに言われる筋合いもないから」

「そ、そんなつもりじゃ──ん? ほ、保科さん、その口ぶりだと僕を変人だと思ってるみたいな……」

「喋ったことないクラスメイトをイメージして作詞作曲したのを本人に聞かせるとか充分変人でしょ」

「申し開きのしようもございません。……いや、でも、その変人の思いつきに賛成してくれたのが、意外だって思ったんだ」

「思いつき、ね。あの場で咄嗟に考えたの?」

 

 そうは思えないけど、と言わんばかりに振る。風間はばつが悪そうに答えた。

 

「……いや、昨日の内から考えてはいた。あの三上先輩だけじゃなく、他のパートはどうやって集めるかを考えて、いちいちリサーチして個別に当たっても時間がかかりすぎると思って。一時的にでも注目を集めて、僕らのやることに反応してくれる人を探さなきゃいけない。僕らの身近で使える道具や技術で何が出来るかを考えて──一番滅茶苦茶で大変な方法が、最適かもしれないという結論に今日なった」

「使える道具って?」

「今、考えてる段階の作戦なんだけどね」

 

 そこから風間は、身振り手振りを交えながら、曰く滅茶苦茶で大変な方法の説明を始めた。

 

「使うものは中型以上のポータブル発電機、PAスピーカー二台にパワーアンプ一台、それらを乗せる軽トラ一台。僕の機材はギターと音源再生用のノートPCと──」

「ちょっと待った。トラックなんかどうすんの? 運転できるの?」

「いやいや、免許取れる歳じゃないよ。だから知人の手を借りる。……こういうところから、もう滅茶苦茶は始まってるんだけど」

 

 その時、指し示したかのように、横の車道を軽トラが通っていった。

 白い車体に黄色のナンバープレート、荷台に何も乗っていないそれを指差して、

 

「そう、ちょうどああいうのが、うちの機材運搬車になってる。父さんの会社は地元のお祭りとかイベントで使う屋外用の音響機材をレンタルしてたりするんだけど、その発電機とスピーカーを借りる。運転手は事務所の古参で普段から仲良くしてくれてる気の良いお兄さんがいるから、どうにかその人に頼み込む」

「……それ、どうなの? さすがに怒られるんじゃない?」

「多少の説教は覚悟してるよ。でも、身内だから分かるけど、可能性はゼロじゃない。そっちはどうにか説得する」

 

 実の息子とは言え、自分の会社の備品を頼み込まれた程度で貸し出してやる社長とはどんな人物だろう。それは豪気というより放埒というか無責任の次元ではないだろうか。そして了承が取れる前提で計画を立てている風間も大概ドラ息子ではないだろうか。

 そんなことを思っている間にも風間の説明は続く。

 

「当日は重いもの全部トラックに乗せて学校近くに待機。昼休みの早い時間が良い。それで──校門の前っていうかロータリーの道路側に、大きい桜の木が植えられてるのは知ってる?」

「あの太い木? あれ桜なんだ」

「うん。あの位置って、二階職員室の窓から見ると裏の辺りが死角になってるんだ。ちょうど車一台分は隠れるぐらいの」

 

 と、いかにもしたり顔といった得意げな表情を浮かべた。

 

「しかも、あの道路は農道の延長線上でたまにトラクターとかが走ってるから、一般車両のものじゃないエンジン音がひとつ増えたところで誰も気にしない。慎重かつ迅速に動けばセッティングまでは難なく持ち込める。予想というか、大雑把なシミュレーションではね」

 

 横暴、という単語が脳裏を掠めた。確かに自分の身の周りで使えそうなものを掻き集めて最大限に用途をこねくり回した上での立案ではあるが、置かれた環境が特殊すぎる。権利の濫用ということで役所に訴えたら廃業させられるような気がしてきた。

 

 と、そこまで言ったところで、風間は少しテンションの上がった声色を落とした。

 

「問題はそこからだ。電源確保して機材が問題なく使えるように準備できたところで、その後、僕らは学校に無許可で騒音を撒き散らす。一応ギリギリ敷地外とはいえ、近所迷惑としては最上級だ。まず間違いなく生徒指導の誰かが真っ先に飛んでくる。捕まったら、相当面倒臭いことになる」

「でしょうね。……職員室からその場所までって、どのぐらいかかるの?」

「測ったことはないけど、二階の職員室で事態を察知して、飛び出して階段下って玄関出て──走ってたら三分もかからないと思う。つまり、悠長に一曲演奏してる暇はない」

 

 沙紀は例の曲の再生時間を思い出す。細かいところはともかく、全体で五分ぐらいはあったはずだ。律儀にのんびり演奏していては間抜けもいいところだ。

 

「でも、フルで演奏する意味もないんじゃないの?」

「その通り。あくまでこのゲリラは三上先輩の気を引くための作戦で、僕達にどの程度の演奏が出来るかを伝えられるかどうかにかかってる。だからフルを聞かせる必要性はない。今回演奏するのは短縮バージョン。厳密にはイントロから始まって、1サビが終わったらすぐアウトロ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()音源を再構築する」

 

 だから、と風間は言った。

 いつの間にか、周囲は沙紀の知らない景色になっていた。一応は自宅の近所と呼べる距離であるはずだが、ここまで来る用事もなければ馴染みもない、見知らぬ土地のバス停前に辿り着いていた。

 

「ひとまず僕らがするべきは、いわゆるワン・ハーフ……1番までの練習だ。今日はそこまで、できるところまでやってみよう」

 

 遠く、視界の端にある交差点を、地元の路線バスがゆっくりと左折してくるのが見えた。

 

 

 ☆☆

 

 

 沙紀の通学時間は徒歩で十五分程度だが、同じ十五分でも風間の場合はバスで十五分だった。沙紀はこの路線でバスに乗ること自体が初めてで、終点の駅ターミナルにも初めて降りた。地元と呼んで括るには、自分の家からは随分離れていた。

 途中でコンビニに寄り少々の買い物をして、さらにそこから歩いて住宅街へ十分ほど。

 風間の家は、長い坂道の上にあるという。

 

 すっかり慣れているのであろう風間は少々急な勾配(こうばい)の坂でもするすると上っていくが、沙紀にとってはまったくいい運動になった。夕方の西に傾きつつある日差しが背中を焼き、衰えた体力を物語るように汗が噴き出す。頂上に着く頃には、せっかく買ったペットボトルの水を半分まで飲み干す羽目になった。

 

「ご、ごめん、そういえば言ってなかった。うちに来る人って大抵は車だし僕も友達呼ばないから……」

「……いい。いいから」

 

 今更の気遣いを撥ね除けつつ、こうして沙紀はやっと風間邸へ到着した。

 それは、坂を登り切ってすぐの場所にあった。

 

 外観は普通の一軒家。二階建て、屋根付きのガレージに物置、奥側にはガーデニングに凝った庭がある。坂道側は空き地になっていて雑草がぼうぼう生い茂っている。立地としてはこの一帯における隅というわけだ。

 見た感じは、どこにもまったく妙なところはない。不自然に巨大だったり敷地面積が広大だったりということもない。そもそも今の時代に庭付き一戸建てが生家というのも充分恵まれているというものだが。

 

 とりあえず、思ったことを口にしてみる。

 

「ここ……スタジオついてるの?」

「うん。外からじゃわかんないけどね。こっちだよ」

 

 そう言いながら、風間は自宅の玄関──ではなく、横の空き地の方へ歩き出した。

 呆気にとられながらも慌てて続く。勾配を段のように切り出して平行に(なら)した土地であるため、風間邸よりも一メートルばかり低くなっている。

 数にして五歩ばかり進むと、現代日本の住宅地ではほぼ見ないものがそこにあった。

 

 ドアだ。土壁の横っ腹、風間邸の真下に位置する箇所に一枚、アルミサッシの小さいドアが張り付いている。坂道をひいこら上ってきた時には、この目立つ位置にこんなものがあるとは気付かなかった。

 

「……え、これってもしかして」

「うん、ここが入り口。本当は家の中からも入れるんだけど、まあ、玄関通るのもなんだから」

 

 答えながら、さも当然のようにドアを引き開ける。

 安っぽいがスムーズに開く建て付けの奥には、下りの階段があった。狭い穴倉に裸電球がひとつ吊され、頼りない光源として中を照らしている。さらにその奥に、一目で重厚感を伝える物々しい鉄扉が控えていた。

 地下室だ。

 

「…………」

 

 開いた口が塞がらない沙紀をさておいて、風間がさっさと先導する。気付いて沙紀もそれに続く。内部は狭いが、沙紀の身長なら頭を少し下げる程度で難なく通れる。壁床天井それぞれ舗装はされているので土塊が落ちてくる心配もなさそうだった。

 外へ通じるドアを閉めると、風間が振り返って呼びかけてきた。

 

「あ、ドアノブにボタンみたいな鍵が付いてるから、そこ押しといて。防犯上は一応ね」

「……いくらかかってんのこれ。家建てる相場とか知らないけどさ」

「まあ、相当高かったらしい。怖いから総額は聞いたことないけど、地下室の相場は地上の三倍とか言われてるらしいね」

「小さい会社って言ってたけど、こんな家建てられるぐらい儲かってるってことじゃないの?」

「いや、建てたのは設立前だよ。その頃はまだ余裕があったらしい……というか、こんなのを建てたせいで余裕が減ったというか」

 

 言いながら最奥部の鉄扉に到達した風間は、ドアノブの近くに付いている電子ロックを解除していた。桁数の多い暗証番号と物理的に差し込む鍵を併用してようやく開く方式だ。この仕組みのドアだけで一体何十万円かかるのか、などと下世話なことを沙紀はぼんやり考えていた。

 

 ピピ、と短く開錠音が鳴り、ごとんと落ちるような重々しさの鍵が解放される。野太いレバーのようなドアノブをがっちょんと下ろし、高い気密性を嫌でも思わせる分厚い扉がゆっくりと開かれる。同時に、内部に一際明るい照明が点灯した。

 

「どうぞ。土足OKだから、そのまま入って」

 

 もう言われるがままにするしかない。沙紀がのたのた室内へ入り、風間は防音扉をしっかりと閉めた。

 

 およそ日本の一般には普及していない、地下室を利用した防音スタジオ。

 それだけでとんでもない贅沢品であり、なるほど家主である風間父の趣味というのは秘密基地感そのものを指すのだろうと沙紀は思う。室内の調度は、決して奇抜なものでもない、必要な機材だけが整然と置かれている実用的なスタジオとなっていた。

 

 広くも狭くもない、大体四人か五人ぐらいなら入れる程度のワンルーム。

 まず目に入るのは幅を取るドラムセット。

 一脚で複数本をまとめて立てかけられるスタンドと、色とりどりの各種ギター。

 鍵盤数の多い横長の電子ピアノ。

 部屋の四隅を囲うように置かれた重厚なスピーカー。壁に貼り付けられたワイドサイズの鏡。逆側の壁にホワイトボード。床を這うケーブル類。隅にまとめられた折り畳み椅子。

 

 そして、部屋のど真ん中に堂々と立つ、マイクスタンド。

 

「…………」

 

 そこが自分の立ち位置だと認識した瞬間、喉の奥が詰まるような感じがした。

 

 昨日の今日だ。よくよく考えてみなくともこんなに早くこの時が来るとは思わなかった。

 今日はまだ練習初日だとか、そんなことは関係ない。もうこの部屋の中に入ってしまった時点で、どうしようもなく動き始めている。

 いずれマイクの前に立って、歌うことになる。ここに来たということは、いよいよそのつもりでいることを覚悟しなければならないということでもある。

 

「保科さん」

「……なに」

「あ、いや、ここ来るまでに疲れてないかなって。少し落ち着けてから始めた方がいいかな、と」

 

 風間の気遣いに甘んじるか迷う。なんならもう帰りたい。帰ったところで心安まるわけではないが、とにかくこの空間から逃げ出してしまいたいと身体が拒み始めている。

 後先考えずに逃げて、束の間の安寧に溜息を吐き、都合が悪くなればまた逃げる。そんなことの繰り返しだ。せっかく聞こえなくなった自問自答の声が息を吹き返してしまう。

 またか? まだ理解していないのか? 分水嶺はとっくに過ぎたというのにまだ甘ったれるのか?

 そうだ、この後にやることは予想できる。避けては通れないことだ。

 

「……うん」

「わかった。あ、椅子出すよ」

 

 風間が広げたパイプ椅子に腰掛け、中身の減ったペットボトルを傾ける。ぬるくなった水が食道を滑り抜け、少し頭の熱が引いていくのを感じる。

 同じように自分の分の椅子に座り、炭酸飲料に口をつけていた風間は、改まったように言った。

 

「……保科さん。気を悪くしないで聞いてほしい。前にも言ったように僕は中学で同じクラスだっただけの人間で、直接の面識があったわけじゃない。だから、あの時期に何があったのかも噂程度でしか知らない。本人が語りたがらない過去を聞き出そうとするのは趣味じゃない。そんなことは本人が言いたくなったら言えばいい。だけど──昨日、僕が答えを濁したこと、覚えてる?」

「もちろん。どうやってあたしをもう一度歌えるようにするのか。あたしにとってはそれが一番重要」

「そうだ。今はまだその時じゃない、なんて言って延ばしたけど、そうのんびり構えてもいられなくなった。だけど、正直僕が考えたプランは、素人考えの上に未完成だ。さっきも言ったように噂で聞いた程度の情報から推測して組み上げたに過ぎない。だから、前提の条件に齟齬があった場合、プランそのものを修正しなきゃいけない。そのために必要なのは、事実確認だ」

 

 ボトルのキャップを閉め、滑り止めのギザギザに指紋を這わせながら、風間は言葉を慎重に選びつつ話していた。

 

「思い出したくもないことだと思う。だけど、興味本位や好奇心で聞くわけじゃない。保科さんにも、僕の目的にも、必要なことだから聞いておかなきゃいけないことだ。だから、気を悪くしないでほしい」

 

 沙紀としても、その後の言葉に何となく予想はついている。

 この場に立っているということは、大なり小なりその覚悟を持ったということだ。そう見做されても仕方のないことだし、何より自分に試練を課すということでもある。

 かつて逃げ出して放り投げた全てと、向き直る時なのだ。

 

「その上で、不躾と知った上で聞きたいのは────あの時期、誰に何を言われたのか。僕はそこに、ヒントがあると思ってる」

 

 

 ☆☆

 

 

 暫しの沈黙がスタジオを満たす。防音のスタジオに外界からの騒音は一切届かず、耳鳴りのような静寂が脳を劈く。

 黙っているだけなら簡単だ。今までと何も変わらない。だから沙紀は、努めて自分から声を出した。

 

「……別に、大したことがあったわけじゃない」

 

 言いながら、脳裏では続く言葉を文章として整理していく。

 それは過去の記憶を描写するということであり、見たくも聞きたくもないものを好き好んでリフレインさせることと同義だった。迫り上がる内容物を必死に抑えつけ、その(ざま)を隠しながら、端的に経緯をまとめる。

 

「三年の秋頃に、風邪で喉が悪くなった。歌えなくて、部活には一応顔だけ出してたけど、たまたま陰口叩かれてるのを聞いちゃって、それで……ヘコんだ。その後は、歌おうとすると詰まったり、最悪吐いたりして、使い物にならなくなってた。病院行ったりしたけど何も効かなくて、それで、あたしはもう駄目なんだと思って、……気がついたら今。それだけ」

 

 肺の空気を全て絞り出すように一息で捲し立て、細く、細く息を継ぐ。

 あからさまに心配そうな顔で風間が覗き込んでくるが、ここまで来ればもう勢いとばかりに、沙紀は言えるだけのことを詳らかにしようとする。

 

「その時かかった医者は、たぶん緘黙症(かんもくしょう)かもしれない、って言ってた。あたしの場合は、日常会話に支障はないけど、人前で歌わなくちゃいけない状況になると、発声できなくなる」

「……うん、名前だけは聞いたことがある。心因性で、特定条件の緊張感を伴う環境に置かれた時、声を出せなくなるってやつだっけ。大人数を相手にプレゼンする会議とか、学生基準だと授業中の教科書読み上げとか」

「そんなとこ。……詳しいのね」

「ま、まあそりゃ……保科さんに声かける前に、そうかもしれないって分野は浅く調べたりしてたから。だけど、()()()()()()? 診断はされてないの?」

「正式な診断書が出たわけじゃない。内科じゃ面倒見きれないからって心療内科を勧められた。それからはどこの病院も行ってない」

「な、……るほど。まあ、そういうこともある、のか。声帯結節とかの外科的な症状は?」

「そういうのはない。ストレスが溜まると喉が詰まる。極端まで行くと吐く。それで喉が嗄れることはあった」

「そっか。……そうか、それなら──筋はズレてないか。まだ……」

 

 沙紀の独白を聞いて、風間はぶつぶつと何かを呟いた。何のことを言っているのか、沙紀には正確に聞き取る余裕がなかった。

 その上で、

 

「……その、陰口は。何て言われたか……いや、辛かったら無理して言わなくていい。時間を空けて、また今度でも──」

「今度って、いつよ。それまでまたほったらかし?」

 

 精一杯の気遣いであろう風間の言葉を、沙紀は切り捨てた。

 ここまで吐いておいて最後まで行かない方が気持ち悪い。言葉として出力ができないだけであって思い出自体は頭の中にぐるぐると渦を巻いている。こんな状態で時間が経てば余計に自家中毒にもなろうというものだ。解放されるものなら早々に願いたいぐらいなのだから。

 

 正確でなくても、あるいは正確であることを避けようとしていても、沙紀はかつて己に向けられていた悪意に輪郭をつける。萎縮する肺を拡げるために深呼吸を一往復、そうして言葉として吐き出す。

 

「陰口って言っても、正当な評価よ。あたしが頑張って努力してると思ってたことがただの独り善がりだった。空回ってるのに気付いてなくて、それが周りをシラけさせてた。あたしがいない方が、まとまってるって、先生も言ってたとか。卒業までいない方が良いって、さ」

 

 改めて自分で口にしてみると、やはりキツいものがあった。

 酸鼻極まる思い出だ。それ自体はきっかけに過ぎず、その後の不調も相まって今の有様に繋がっていくわけだが、同時に思い返せば、あの時あんなことを聞いてさえいなければ別の未来もあったのだろうか、と今更に思ってみたりもする。そんなものに全く意味はないというのに。

 

 それにしても無理をした。ただの簡単な思い出話に過ぎないというのに信じられないぐらい体力を消耗した。長い坂道を上るよりも疲れたかもしれない。

 その労力が果たして報われるのか、何を以てして報いとするのか、ともかく沙紀は聴き手のリアクションを待った。

 だが、相槌や催促の声はやってこない。黙りこくっている。

 

 ふと目線を上げて、沙紀はぎょっとした。

 風間は、実に不機嫌そうな気分を隠そうともせず表情に現していた。眉間に皺が寄り、青筋が立ち、唇が切れる寸前まで噛み締め、虚空を睨みつけるような半目になっていた。

 知り合ってから間もないが、普段の良く言えば優しげ悪く言えば弱気な、とにかく大人しい顔立ちや性格からはまるで想像もつかない、そんな怒気に塗れている。

 

 あくまで沙紀の、決して楽しいとは言えない思い出語りだというのに、どこに風間の逆鱗に触れるような内容があったのか。

 少々面食らっていると、やがて少し落ち着きを取り戻した風間が、それでも額を抑えながら大きな溜息を吐いた。

 

「…………ナンセンスだ。やっぱり誰も解っちゃいなかったんだ」

「え?」

「保科さん。思い出したくもないことだろうけど、僕はこれから僕の所感を話す。中学時代、少なくとも保科さんや合唱部の発表を聴いたことのある者としての所感だ。正確ではないだろうけど、もしかしたら保科さんのわだかまりを少しは(ほぐ)してやれるかもしれない」

 

 いいかい、と風間は至って真面目な顔で言った。

 

「元合唱部、厳密には僕らが当時三年生だった頃のレギュラーメンバー、それから顧問の教師。奴らが言ったことの一切は気にかける価値のない雑音だ。保科さんの持ち味を理解せず活用もできなかった、そんな程度の奴らなんだよ」

 

 突然何を言い出すのかと思えば、風間は徐に立ち上がって壁のホワイトボードへ向かっていった。黒のペンを持ってキャップを外し、

 

「僕も声楽の分野には詳しくない。多少調べた程度の浅知恵だけど、記憶に照らして考えると……保科さんの歌は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。悪い意味じゃなくて、周囲の音と比べてって話だ。例えば、この──」

 

 言いながら白地の上に黒の波形を引いた。適当ではあるが、波は小さく細々としている。

 風間は一旦ペンを置き、次いで赤のキャップを外す。

 

「──黒の波が、合唱部全体の発声を視覚化した波形だとする。あのグループの合唱として(まと)まったひとつの形だ。これに対して、保科さんの歌声は──」

 

 赤の線が波を打って、黒の波に重なる。

 だが、わざわざ色まで変えて目立たせた赤線は、黒のそれに比べて少々大きく書かれていた。

 

「──こうだった。乱暴だけど、僕が受けた印象を波形として表すならこんな感じ。全体に対して保科さんの歌声は、少しハミ出て聞こえるぐらいに特徴的だった記憶がある」

「…………ちょっと待ってもらっていい?」

「うん」

 

 若干痛くなってきたこめかみを押さえつつ制止する沙紀と、何食わぬ顔で返事をする風間。やっぱりこいつは自分の得意分野になると口が回るようになる人種なんだろうなと思いつつ、沙紀は問う。

 

「……あたしの声って、そんなに目立ってたの?」

「なんとなく、だよ。音感が人並みにあれば違和感を覚えるけど、意識して聞かないと『なんとなく変かも?』程度で具体的な言語化は難しいってレベル。これは大袈裟に書いたけど、保科さんの歌声が特別おかしかったってわけじゃない。全体の中に紛れる僅かな突起というか……」

「いや、そうじゃなくて」

 

 沙紀も己の感じた疑問を口にする。

 

「……女子しかいない合唱で、あたしの声と他全部とを聞き分けた、ってこと?」

「うん。そんなに難しいことじゃないよ」

 

 平然と言って退ける。だが沙紀は思う。おかしいのはそこだけじゃない。

 沙紀と他全部の歌を聞き分けるだけでなく、感じた違和の発生源が保科沙紀であると特定したことだ。ぐちゃぐちゃに煮込まれたスープを一口飲んで、その隠し味から材料を当てるようなものだ。

 

 その音感は、聴覚は、人並みと言えるのか?

 という沙紀の驚愕を察してか、風間は慌てて補足する。

 

「…………あっ、えーと、比較! そう! 保科さんが来なくなった後の発表も聞いて違和感がなくなったから! 抜けたメンツが保科さんだけだったからそれで確信したというか!」

「……ああ、そう」

 

 と生返事をしてはおくが、結局はその比較の前段階で沙紀の異物感に気付いていたことは否定していない。なんだか目の前の人物が途端に常軌を逸したもののように見え始めた。

 

「と、とにかく、保科さんの歌声は、あの合唱部全体のまとまりとしてみると、主張の激しい方だった。比較的ね。それが多分、保科さん以外の部員が抱いていた違和感だったんじゃないかと思う」

「……要はあたしが悪目立ちしてたってことでしょ。ほんとに今更」

 

 自分の空回りに気付かず、周りはそれにうんざりしていた。恥の極みというものだ。

 だが、それ自体は過去にも当人達の口から聞いている。今更そんなことを再認識させて何がしたいのだろう。

 風間の意図を勘繰るより前に、本人がそれを否定した。

 

「いや、僕はそうは思わない。というより、保科さんが話してくれたことで確信した。()()()()()()()()()()

「え?」

「個人競技ならともかく集団で行うパフォーマンスの不出来さに、他人を不満の()け口として使うような奴は駄目だよ。中学生だろうと関係ない。それに──」

 

 忌々しげに、風間はペン先で波形をコツコツと叩く。

 

「この波形、小さく書いてるでしょ? 本当にこんなもんだったんだよ、あの部員たちの実力は。保科さんが抜けた後の連中は、この程度の小さな揺れにしかならない、ヘボい合唱だった」

 

 一旦ペンのキャップを閉め、その先端で頭を掻きながら、また大きな溜息を吐いた。

 

「特に他校も交えた地区コンクールでは、目に見えるぐらい酷かった。張りはないし声量は小さい、パートで分かれてるのにハモりがズレてる、伴奏もモタついてて指揮もガチガチ。やる気がないわけではないんだと思う。だけど緊張感に弱すぎる。恥を捨て切れてなかった」

「……まあ、評判は弱小だったし、大体予選止まりだったから場数は踏んでなかったかもだけど……」

「声を楽器に勝負する連中がそれじゃいけない。保科さんがいた方が絶対に良かった。いないと知ってたらそもそも行かなかったのに、あの有様で身内に噛みついてる暇があるならもっと練習しろってのにまったく」

 

 何だかやたらとキレている。当事者だった沙紀を置いてけぼりで次から次へと文句が出てくる。何故か沙紀が一応のフォローを入れてしまう奇妙な展開である。

 

「確かに統一感と表現することはできる。ヘボい連中のヘボいまとまりってわけでね。そりゃ頭一つ抜けてる人が消えてヘボいのだけが残れば統一感は出るだろうさ。でもそれは出る杭を打っただけの結果だ。棘がなければ他人には刺さらないのに出来上がったのはこれといった特徴もないつるっ禿げのピンポン球みたいな軽くて薄い頼りなさ。人の気持ちも考えずに自分らの仲間意識だけ優先させて潰して均して何が部活だ」

「ねぇ、あのさ」

 

 ぶつぶつと呪詛じみた恨み節が延々止まらないところに、沙紀が制止をかける。一体何の時間なのか解らなくなってくる。

 

「……つまり、あたしは、あの時の陰口を馬鹿正直に受け止める必要はなかったってこと? あたしに非はないっていうか、鵜呑みにする方がアホらしかったってこと?」

 

 ここまでの風間の独り言を要約するなら、恐らくそういうことになる。取るに足らない陰口にいつまでも囚われている必要はない、という、好意的な励ましという解釈もできそうではある。

 一方で、それはそれで、沙紀としては複雑な面もある。

 風間の指摘が的を射ていたとして、だとしたらこの半年は本当に何のための時間だったのか。いや、時間をドブに捨てていたことはひとまず置いていてもいい。あんな心ない陰口のために折れた自分の心は、一体何だったのだ。

 時間も、心も、何のために置いてけぼりにしていたのか、解らなくなってしまいかねない。

 だが、

 

「陰口を気にする価値はない。でも、保科さんに原因がなかったというわけでもないと思う」

 

 座りながらコケそうになった。

 褒めるのか貶すのかどっちだ。滑り落ちそうになる尻を椅子に戻して、展開に追いつけなくなりつつある内心を精いっぱいに表す一言を返す。

 

「…………はぁ?」 

「保科さんの存在を不満と捉える方がどうかしてるとは思うけど、保科さんが合唱部の中で浮いていたのは熱意や実力のギャップだけが理由じゃない。歌い方に若干の課題があった。それがささくれに化けたんじゃないか、と思ってる。だけどそれに気付けたとしても、それを指摘したり指導できる人材があの学校にはいなかった」

「どういうこと?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()。ほんの少しだけ」

 

 聞きながら、漠然と思う。これは褒めるのも貶すのも両方やっているのだ。この男には、それ以外の他意はひとつもないのだ、と。

 ふぅ、と呑気に呼吸を整えて、風間は再びペンを抜いた。

 

「ようやくここからが本題だ。保科さんの気持ちがちょっとでも軽くなればいいんだけど」

 

 

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