夜這う星屑、集いて統ばる   作:あるばさむ

8 / 8
8. 炎昼 Phase-3

「歌い方が……合唱向きじゃ、なかった?」

「僕はそう考えてる。分析ってほど立派なものじゃないけど、考え得る可能性として、そういうことだったんじゃないかって」

 

 

 風間邸の地下にある防音スタジオ、向かい合って椅子に座る沙紀と風間は、そんな話をしていた。

 

 ここにきて驚愕の仮説である。

 中学三年間のほぼ全てを合唱部の活動に注いできた沙紀の努力が、本人の熱意のみならず実践的な領域の実力までもが、的外れだったというのだ。

 

 もし、それが本当だとしたら。

 今からでも裸足で逃げ出して今度こそ誰にも見つからないぐらい遠いところまで全速力で走ってしまえるような、とんでもない赤っ恥が沙紀の人生に加わることとなる。いや、既に人生史に記録はされていたものを遅まきながら本人が自覚するというだけのことだ。

 腹の内側が温度と内圧を高くし始める兆候を現す、それよりも早く、風間が割り込むように口を開いた。

 

「誤解してほしくないのは、僕はそれ自体がまったく悪いことじゃないと思ってるってことだ。確かに音楽にはセオリーがあって、そこから外れていると浮いて見える。けど全部が全部悪かといえばそんなこともない。プロのアーティストでも()えて外すテクニックを使うことはあるし、保科さんの場合は──半分ぐらいは、仕方のないことだったんじゃないかと思ってる」

 

 考えながら喋っているのか、「そうだなぁ」と考え込むような空白があり、頭の中で整理しているのだろう単語が口から漏れてくる。

 

「なんて言うのかな、クセというかアクというか……」

「今アクっつった?」

「えっ、あ、ちがっ違う違う違う! いい言ったけど違うんです! 失言でした!」

 

 半目で凝視する沙紀に謝り倒す風間は、やがて空気を変えようとわざとらしい咳払いを挟み、

 

「えー、そう、クセ……単純に歌っているだけのように見えて、ボーカルにも癖はある。発声、滑舌、肺活量、そんな個人単位で千差万別な、個性と呼ぶべきもの。ビブラートとかファルセットとか有名なテクニックもあるけど、要はそういう細かい個性をどれだけ曲中に織り込むかっていうのが歌のセンスで、音楽の良し悪しとはそれが曲という作品にハマっているかどうかで評価される」

「癖、ね。んであたしのそれはアクみたいなもんだったって言いたいわけ?」

「違うよ、そんなこと言ったら世のボーカリストはみんなアクの強い曲者(くせもの)ってことになっちゃう」

 

 たまに全方面に対して失礼だなこいつ、と思いながら沙紀は水を一口飲んだ。

 

「さっきも言った通り、保科さんの歌声は合唱部の中では浮いて聞こえていた。それは決して下手という意味じゃなく、むしろ保科さんに地力があったからこその目立ち方だったと思うんだ。周りの連中が文句ばかりで大したことなかったのも相まって、全体的に丸く纏まっていない印象を受けた」

「じゃあ、あたしの癖って言うのは? 何が駄目だったの?」

「それは……そうだな、保科さんは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、考えてみたことはある?」

「……はぁ?」

 

 風間はホワイトボードに丸を二つ、間を裂くように正中線を一本、大きく描いた。丸の中にカタカナの単語をそれぞれ書き込む。男子にしては綺麗な文字だった。

 

「世間にも広く馴染み深いポップスと、合唱曲も含まれるクラシック。全くの別物だってことは誰にでもわかる。じゃあ具体的に、何をもって『ポップス』『クラシック』とジャンルを分けるのか? 判断するポイントは? ってこと」

 

 出し抜けにクイズが始まった。確かに講師のような立ち振る舞いをしている風間だが、興が乗ってきているのだろうか。

 なんだか化かされているような、むず痒い気もしてきたが、ひとまずは付き合ってやることにする。とはいえ沙紀の思考回路は既に錆びつつあり、物事を深掘りして真面目に考えることなど出来やしない。

 なので沙紀は直感で言う。

 

「ポップスは最近のやつ、クラシックは古いやつ。以上」

「はは、間違いない。それも正解のひとつだね」

 

 よく解らないポイントで吹き出すように風間が笑った。そういえばこいつの笑うところは初めて見たかもしれない、と思っていると、風間はまたボードに何かを書き込んでいく。

 

「僕もそう思う。古典(クラシック)と言うからには大昔からあるのがこっち。それから時代が進み、いろんな国や世代のアレンジを経て無数に枝分かれして、その一つにポップスという帰結がある。厳密にはここからさらに細かい分岐があるわけだけど」

 

 簡単な樹形図を描きつつ、だけど、と風間は言った。

 

語弊(ごへい)を恐れずに敢えて付け加えるなら……ポップスとクラシックの違いは、()()()()()()()()()()()、だと思う」

「……気取ってる? どっちが?」

「もちろんクラシックの方。歌に限っての話をするけど──」

 

 喋りながら、風間は挙げた相違点をボードに書き加えていく。

 

「例えば、テレビやネットなんかで見るアイドルやロックバンド。

 対して、ミュージカル俳優や劇団員。日本で言えば演歌や民謡。

 この二つの(くく)り、それぞれの歌い方を真似ようとしてみればいい。その違いが明確にわかると思う。ポップスの方は、むしろ日常会話で使う発声の延長線上のようなもの。喉の負担や腹式呼吸がないわけではないけど、過敏に意識するほどのレベルでもない、僕らが日常的に最も使っている簡単な歌い方」

 

 “ポップス”と区切られた左半分に挙げ列ねた項目を○で囲い、下端のあたりに“easy”と一言を添えた。

 

「それと比べて、ミュージカルをそれっぽくやろうとすると、いつも以上に身体の使い方を気にしなければいけない。力強いブレス、胸から口にかけての空洞を使った共鳴、声帯での高低制御──こういうことを細部まで意識しなければ、それっぽくはならない。悪ふざけの物真似でさえ、それなりにコツやツボを押さえて、()()()()()()()をしないと似せることすら出来ない」

 

 言いながら自身の喉から胸部、横隔膜の辺りをなぞる。ご丁寧に呼吸による各部の膨らみまで添えて、だ。

 それぐらいは沙紀にもわかる。腹式呼吸をはじめとしたブレスの練習は初歩の初歩だ。どこで習ったかは覚えていないが、これはしつこいぐらいにやっていた。

 だが、話の流れからするに、それこそが沙紀の癖であり、部内で浮いた存在となっていた要因なのだろう。

 

「だいぶ大雑把で語弊のある言い方だけどね。でも、いわゆる”ボーカル”と”ソリスト”と呼ばれる人達の違いにはこういう要素があると僕は思う。保科さんにも少なからず覚えはあるはずだ。そして──本題に戻るけど、ここに保科さんの癖がある」

 

 で、と言いながら、ペン先の乾燥を防ぐために風間はペンのキャップを閉め、どこか難しそうな顔をした。

 

「一番わかりやすく手っ取り早いのは、当時のビデオとか音源を使ってどんなもんだったのかを聴いて反省点を洗い出すことなんだけど……さすがに関わりのない部活動の記録は持ってなくって。それでその、保科さんの家に仕舞ってあったりは……」

「辞めたときに全部捨てた。あったとしても見せない。絶対無理」

「ま、まあ、そうだよね」

 

 食い気味で拒絶する沙紀に、風間はたじろいだ。沙紀にとっては黒歴史そのものだ。あんなものを今更になって自分で見返すなど御免だし、他人に見せるなど以ての外だ。

 ただ、沙紀は思う。そこまでやるほどの記録をそもそも持っていただろうか。映像どころか録音媒体も数えられる以上に使った記憶がない。というか当時どういう練習をしていたのかも記憶が曖昧になっている。

 無理に引っ張り出そうとすると余計なおまけがくっついて酸鼻極まる惨状になりかねないが、たかだか半年程度の期間でこれほどに思い出せなくなるだろうか。塗り潰すほどの上書きがあったわけでもないというのに。

 そんな思考の傍ら、風間は喋り続けていた。

 

「──ただ、そうなると僕が口で説明するしかなくなるんだけど、上手く伝えられなかったらごめん。感覚的な話になるし、結局は実践あるのみって結論にしかならない。まあ、そんな感じで」

「うん」

「あと、しつこいようだけど、僕は保科さんの歌が間違ってるとは思ってない。クセも飼い慣らせば個性になる。だから悪癖と断じて矯正しなきゃいけないものでもないと思ってる。あくまで参考までに聞いててほしい」

「わかったってば」

 

 沙紀の相槌に、風間は困ったような笑みを浮かべながら、ホワイトボードの落書きを雑に消していった。そのあたりはもう不要といったところか、クリーナーで掠れた残滓の上から、輪郭のはっきりした字で新しく書き込んでいく。

 

「保科さんの癖は、ポップスとクラシックの特性が入り交じった歌い方になっていること。それに気付けなかったのは、恐らく媒体に記録して振り返る機会がなかったこと、そして確実なのは、指導者が不足していたことだ」

 

 沙紀が何よりも気になったのは、やはり自分自身への評価だった。

 

「……具体的には?」

「声の立ち上がり、発音の輪郭、そういうものが区別されずに歌声に含まれている……っていう印象。軽微なものとしてね」

「立ち上がり? 輪郭?」

「えーと……例えば〝か〟と発音するとき。ポップスとクラシックの違いは母音と子音の発声にもある。ポップスだと〝KA〟と力強く明確に発音するけど、クラシックでは少しゆったりと〝kkkA〟みたいに、()り上がってくるような感じになる。立ち上がりっていうのは、発音が成立するまでの速度みたいなものかな。椅子からスッと立つのとよっこらせで立つのとじゃ直立姿勢になるまでは後者の方が遅い……そんな感じ」 

 

 わかるような、わからないような。沙紀が疑問符を浮かべているのにも構わず、ホワイトボードにどんどん新しい書き込みをしながら、風間は続けた。

 

「立ち上がりの速い発音は輪郭が明朗になるからハッキリ聞こえる。逆に立ち上がりが遅ければ曖昧にぼやけるから、ゆっくり迫り上がってくるような聞こえ方になる。これはポップスがマイクに乗りやすい音を重視することと、クラシックは歌劇場のような空間に声を響かせる技術を使うこと、それぞれの用途の違いでもある」

「ふーん」

「保科さんの場合は、そういう特徴が()い交ぜになってた……と記憶してる。より細かく挙げるなら」

 

 箇条書きにするための点を打ち、その横に沙紀の特徴とやらをシンプルに書き(つら)ねていく。

 

「合唱にしては発音がパキっと立ち上がってて耳心地はいい、けど余韻というかゆとりが少ない。腹式呼吸によるブレスの安定感、咽頭腔(いんとうくう)の共鳴、ピッチの調整なんかはポップスだけやってたんじゃなかなか身につかない地力を感じた。ポップスとしての聴き易い発声、クラシック分野から吸収した根幹の技術、そういうものが身についていると……うーん、この辺は音源聴きながらじゃないとピンと来ないよなぁ……」

 

 つい先程も驚いたところだが、風間はこれらの特徴とやらを、女子のみで構成された合唱部の発表で数度聴いただけでキャッチアップしたのだという。とはいえ中学校内の催しで合唱部が出る機会は決して多くなかった。たった数回の中で気になる歌声の主が保科沙紀であると特定し、その特徴を耳で捉え、今日まで記憶していたというのだ。

 ある種の執念さえ感じるような、ともすればストーカー気質とも取れるような情熱が、沙紀当人の知らぬ間に燃え上がっていたらしい。一体いつから目を付けられていたのだろう。

 などと思う一方で、今し方に風間が挙げたいくつかの特徴は、癖というには大してそれらしい印象にならない表現に留まっているように感じた。

 

「……褒めてもらってると思っていいの? それとも、今言ったのが癖? 結局は、合唱でやるには下手だったってこと?」

「何度でも言うけど、僕はそうは思わない。周りのメンツが浅いから保科さんだけ浮いて聴こえるっていうのもあったとは思う。……でも、そうだなぁ、なんて言えばいいのか……どっちつかず、嫌な言い方だけど中途半端な習熟度とは言えるかもしれない。いや、だとしてもせいぜい中学生の実力と考えれば全部伸びしろだ。結論を出すのはあまりにも早いと思う」

「ああ、──コメントに困るってことね」

「えぇ!? そ、そうなる!?」

「顔に書いてる」

 

 実際、言葉を選んで捏ねくり回しているのだから困ってはいるのだろう。

 しかし、改めて沙紀は思う。沙紀の癖とやらは簡単に挙げ列なった。その上で風間は、悪いものではないと断言する。

 ならば何故、沙紀は部内において厭われていたのか。

 歌声が集団の中では浮いていた、という事実は然り。

 それだけが原因ではなかった、ということか。

 

「……でも、それだけ目立ってたなら、誰も指摘しないなんてあり得なくない? あの部にだって、当たり前に先輩とか、指揮者役もいた。顧問だってついてた。だけど、誰からも直接そんなこと言われた覚えは──」

 

 自分で言っていて気付く。

 そう、()()()()()。本能的に記憶の蓋が閉じている可能性もあるが、或いは極端に印象が薄い。そういった指導を受けたことがあると、断言できない。

 

「部内でどういうメニューを熟してたのか、上級生からも積極的なアドバイスをしてもらえるほどの土壌気質があったのかは、部外者の僕にはわからない。だけど、今言ってくれた通り、本来なら有り得ないことなんだ。同じ生徒同士じゃないにしても、少なくとも部の顧問から指導がなかったなんてことは、普通は有り得ない。仮にもコンクールの地区予選に出場することが毎シーズンの恒例だった団体なら多かれ少なかれ口出しは絶対にする筈なんだ」

 

 でも、と間に挟んで、風間は続ける。パイプ椅子を引き寄せて、しばらくぶりに腰を落ち着けた。

 

「保科さん、一年から顧問が誰だったか覚えてる?」

 

 言われてから思い出す。この辺りの関連に嫌な記憶はない。ないが、

 

「……入部した時は女の先生が顧問だった。でも、すぐに産休だかでいなくなった。それからしばらく色んな先生が取っ替え引っ替えみたいになって、三年に上がるあたりで若い男の先生が赴任してきた」

「そうそう、なんかやたらとバタバタしてたよね。最後の方にいた先生も教育実習から卒業したて、いわば新卒だった。メインの担当教科は社会。僕もはっきり覚えてはないけど、少なくとも音楽科を真面目に履修した感じではなかったと思う。実際、あの人は合唱部の顧問に据えられてたけど、音楽の授業自体は別の先生がやってた」

 

 印象が希薄だ。言われてみれば、指導者らしい大人がついていた時期があまりに短かったような気がする。では三年間も毎日毎日何をしていたのかと言えば、アップの準備運動や発声から始まりパートに分かれて各々が個人練習のようなことをして、後半に全員集まって一応合わせてみて……そんなことの繰り返しだった、ような気がする。あまり明確に思い出そうとすると、同時に胃から込み上げてきそうで思い切れない。

 その程度の認識であっても、やはり指導するポジションの人物が介入してきたシーンがパッと浮かんでこない。強いて挙げるなら一年次、例のすぐに産休に入った教師が比較的に熱心だったような気はするが、結局在学中に再会することもなかった教師のことなど覚えてもいられない。

 

 沙紀が、自分自身がこうなった原因は、やはり中学生として過ごした思い出に依るところが大きい。

 だというのに、敢えて思い出さないようにしていたとは言え、これほど印象が薄まるものなのか。

 三年間、正確には引退前に脱退しているので三年足らず────自分は、何をしていた?

 

「…………そんなわけ、ある?」

「学校の人事システムなんか詳しくないけどね。でも実際、授業や部活の担当を兼任するっていうのは珍しいことじゃないらしい。どこも人手不足で厳しいって理由で大学卒業したての新人がいきなり顧問をやらされる可能性も決してゼロじゃないんだってさ。その人も、ちょうど空席だったところにとりあえず置いておかれた、ってとこじゃないかな」

 

 思い出の中、直接言われたわけではないが、沙紀が不参加だった間の合唱部に恐らく様子見に来ていたのだろう若い顧問は、それを「まとまってきた」と評したらしい。

 肩書きを持つ大人にさえそう言われた、と当時は思い込んだ。それも大きな棘として刺さっていたのだ。当人の背景、キャリアを知りもせず、ただ言われたことだけを反芻して傷ついていた。

 

「部活の顧問も必ずコーチングが出来るぐらいその分野に堪能じゃなきゃいけないのかというと、そうでもないらしい。さっきも言ったように学校って現場も人手が足りないし、よほど強豪や名門でもなければ専門的な訓練を積んだ人材が都合良く配属されるわけじゃない。そういう意味では仕方ない、と僕らは思うしかない、そんな側面もある」

「……確かに、指導っていうか、練習に顔見せることはあんまりなかったかもしれない。予選出るときの引率役で移動の手配とか、そういう雑用みたいなのはしてたと思う」

 

 だとしても、机仕事だけだ。まして先人としてのアドバイスなど受けた覚えがない。

 

「……でも、ええ……? そんな、本当に?」

「ま、まあ、ここまで喋っといて何だけど、僕は当事者じゃないから、記憶を頼りに考えてみるとそういうことだったんじゃないか、と今になって思ってる。人手不足も両親の愚痴を聞いたりネットで見たりするから、どこの業界もそういうもんなのかなって」

 

 そう言って、そうして次の文句を言って、風間は己の言葉を締めた。

 

「でも、こっちはたまんないよね。そんなことで三年も潰されてさ」

「…………」

 

 聞き終えた沙紀は、怒るでも悲しむでもなく、呆けていた。

 自分が努力したつもりでいた歌には変な癖がついていると指摘され、それを指導する者がいなかったことに、今更になって気付いた。沙紀はそれでも満足していたのだ。どんな経験でも未来に活かせるかもしれないと、そもそも入部した動機もそんなものだった。合唱をやりたかったわけじゃない。ただ歌が上手くなるために、取り入れられるものがあるなら学ばせてもらおうと、その程度のことだったのだ。

 そんなことさえ忘れていた。

 

 少し、無関心に過ぎたのかもしれない。自分のことも、周りのことも。

 

「……でも、これからは、そうじゃない」

 

 僅かに下りた沈黙を、風間が打ち消した。

 

「これから僕らがやること、保科さんに渡したあの曲に、ポップスやクラシックの歌い方がどうだの癖がなんだのって指摘はさほど重要なことじゃない。反省はしても切り捨てるものじゃないし、改善の努力はしても個性を潰してはいけない。ブランクを含めた今までを全部そのまま活かせばいいんだ」

 

 椅子から立ち上がり、ホワイトボードの前に再び立つ。今や四方の隈無く書き込まれた表面を、クリーナーで丁寧に消していく。掠れた残影のような消し残しすら許さず、ボードは元の艶やかな白に戻った。

 

「僕は、保科さんが思うままに歌ってくれればそれでいい。そんな歌が()えるように、曲を書いたつもりだ」

「……思うままに、って言われても。あたしが昔言われたことを気にしなくていいってのはわかったけど、ろくな発声もしばらくしてないし、そんな思い通りになるかはわかんないよ」

「もちろん。想定外なことが起こるのがライブっていうものだよ。まあ、後になって笑い話にできるように、事前準備はしっかりやるけどね」

 

 洒落臭いようなことを言っているが、そういえば風間自身は知り合いのライブに助っ人で入ることもあったと話していた。であれば彼もまた経験者であり、経験ゆえの言葉なのだろう。沙紀が今思い出せる限りでは、いわゆるハプニングに見舞われた経験はほとんど無かった。はたしてそんな目に遭った時に笑っていられるような余裕を持てるだろうか。

 今でさえいっぱいいっぱいだというのに。

 

 

 ☆☆

 

 

「──さて、と」

 

 と風間が言いながら改めて沙紀に向き直る。

 その明らかに話の流れを変えるための一言に、沙紀は思わず身を固くしてしまった。

 なんということだ。もうその時が来てしまったというのか。つまらない話でも何でも続けてくれれば間延びしてくれたというのに、もうやるのか。

 

「前置きが長くなったけど、そろそろ練習を……あ、あれ? 保科さん? なんか、顔色が……」

 

 風間が気遣(きづか)わしげに顔を覗き込んでくる。沙紀の方は、額に滲む脂汗を隠す余裕すらなくなっている。

 仮にも合唱部出身であるからには、今更人前で歌うことに恥を感じたりはしない。そんな段階はとうの昔に過ぎ去っている。

 発声練習の重要性もよく理解している。これから本格的な練習に打ち込んでいくのならブランクで怠け切った喉を温めていかなければならないのも当然で、今日はその最も効果的なリハビリのためにここまで来たのだ。だから遅かれ早かれこの流れになることは事前に予測していたことだ。

 

 だというのに、身体の何処かが恐れている。呼吸が徐々に浅くなる。胃の下あたりが抓られるような痛みを感じる。

 今更何を恐れるというのか。本当に恥を感じてなどいないのか。

 

 否、わかりきったことだ。恐れているのは脳であり心だ。

 沙紀はまさしく人前で歌うことを恐れていた。

 

 己の努力が空回っていることを陰口で聞きつけ、だからこそ恥の上塗りを避けるために音楽から逃げた。もう少し自我が強ければ、実力を伸ばして見返してやる選択肢もあったかもしれないのに、そこから逃げた後ろめたさが虜囚のように足を絡め取る。

 

 結果論だ。今の風間の話を聞いていて、何となく空想する程度の夢だ。

 それでも立ち向かっていれば、きっとこうはならずに済んだのかもしれない、と。

 

 だが。

 

「…………いい。やろう」

 

 膝に手を置き、支えにして、沙紀は立った。

 

「え、いや、話も長くなっちゃったし、ちょっと休んでからでも全然」

「要らない。充分休んだ。おかげで時間がない」

「う、うーん……、わかった。保科さんがそう言うなら」

 

 下らない結果論だ。現実はそうはならなかった。空想はそれで終わりだ。

 だが、もう一度、沙紀は歌うことになった。沙紀自身、やると決めた。

 ならば同じだ。時間が経ち、環境は変わり、何一つ不変のものはないとしても。たとえ強がりだとしても。

 ”きっと”の続きはここなのだと、沙紀は思う。

 

 風間は部屋の一角にある電子ピアノまで近づき、丸椅子(スローン)に腰掛けて機材の電源を入れた。鍵盤と、接続されたスピーカーが息を吹き返し、うっすらとノイズが漏れてくる。

 簡単な動作確認を経て、風間は鍵盤に指を這わせた。

 

「えーと、どうだったっけ、ここがシで……? えー……ああそうだそうだ」

 

 右指三本で、白鍵を押し込む。

 今や懐かしくもあるCコードの和音が、スピーカーから響く。

 

「……ピアノも弾けるの?」

「いや、簡単なのしかできないよ。小さいころ母さんに教わったはずなんだけど長続きしなくって……ギター触るようになって、そればっかりになっちゃってさ。ピアノはコード押さえるぐらいしか」

「あ、そう。……あの曲、めっちゃピアノ入ってたと思うんだけど」

「ああ、あれは打ち込みってやつ。主線は一応がんばって弾こうとしたんだけど、大半はパソコンで地道に一音ずつ打ったりしてる」

 

 言いながら、風間はどれがどの音なのかを思い出しながらといった風情で一つずつ鍵盤を押している。やがて基点となる音を見つけ、

 

「────」

 ド・レ・ミ・ファ・ソ・ファ・ミ・レ・ド、

 

 と一息に基本的な音階を弾いてみせた。得意ではないと言いつつ、片手で滑らかな運指だった。

 同時に、(いや)が応にも鼓膜から直接脳を震わせる、馴染みのありすぎる音階。発声の基本中の基本パターンだ。

 ただそれだけで、様々な記憶の蓋が一挙に開かれるようだった。

 

「……よし、で半音上げる時は……こうか。よしよし、じゃあ保科さん、僕も簡単なのしかできないけっ……!?」

「…………なに?」

「も、もう死にそうになってる! 血の気が引いてるよ! やっぱ休憩しよう! せめて水飲もう!」

 

 要らない、と断るよりも前に風間がすっ飛んできて、沙紀の飲んでいたペットボトルをほとんど押しつけるように渡してくる。仕方ないので受け取り、蓋を開けて一口分を含み、また仕舞う。

 

「……もういいの?」

「いい。飲み過ぎると余計なものまで出てくる。いいから早くやろう」

「う、うん」

 

 まだ何か言いたげなまま、風間は電子ピアノのところまで戻っていった。椅子に座り直しながら、

 

「えーなんだったっけ。そう、僕もピアノは音階を一音ずつぐらいしか弾けないからってのもあるけど、保科さんも初心に帰ったつもりで……って言うと失礼かな。まあ、リハビリのリハビリぐらいの気持ちでいいから、ね?」

「わかったってば。大丈夫」

「うん。じゃあCのとこから」

 

 そう言って、また同じドレミを弾く。

 その後に、沙紀が続く。

 理性ではわかっている。気持ちを楽に、身体の力を抜いて。

 

 初心に帰って。

 余計なことは考えず。

 歌うことがただ楽しいだけだった時代を思い出して。

 

「おぇ」

「おわぁ──!? ほ、保科さん! ハイ! はいこれエチケット袋!」

「……いい、出るもんないから。えづいただけ」

 

 近くの戸棚から紙袋を引っこ抜いてすっ飛んできた風間を押さえ、一応渡されたものは受け取っておきながら、沙紀は意識して深呼吸を繰り返した。

 どう見ても膝が笑っているのを察してか、とうとう風間は無言のままにパイプ椅子を差し出した。せっかく上げた重い腰を再び椅子に落とす。

 沙紀の呼吸が落ち着くまで、風間はじっと様子を見ているようだった。

 

「ていうか何でこんなもの置いてあるの。スタジオってそういうもん?」

「え、あー……昔、酔っ払ったいい大人が酒の勢いでここに突撃して暴れ散らかして床にブチ撒けたことがあって。うちの親なんだけど。いやもちろん綺麗にクリーニングしたけど、その悲劇を忘れないように掃除道具とか緊急避難用具はすぐ出せるところに備えてあるんだ」

「ああ、そう」

 

 ハンカチで口元を押さえながら、そんな雑談をする。

 

 情けない。

 たかが発声練習、それどころか一音も出していない内からこのザマだ。考えないように意識していても、声帯の動きに合わせてごちゃ混ぜになった内容物が芋蔓のように内臓から引き摺り出される、そんな感覚だ。喉に連動して嗚咽が始まる。おまけに生理反応で涙目になるわ鼻が詰まるわ、抑制するのに一苦労どころの話ではない。

 まったくもって情けない。たかが半年程度のブランクでここまで錆びつくものなのか。

 

 ともあれ、練習は始まった直後に中断された。

 沙紀は風間の顔を見ることができない。一方で風間は変わらず気遣わしげな視線を沙紀に送っていたが、ふと、泳がせるように目を逸らした。

 

「……本当にそう言ったかはわかんないけど、ギターの大先輩で気に入ってる言葉があるんだ」

「……え?」

「ステージに上がったら、自分が世界一上手いと思え。ステージを下りたら自分が世界一下手だと思え」

 

 唐突な名言。

 それが果たしてこの場の状況にマッチしたものなのかと意味を図りかねていると、慌てたように風間が補足した。

 

「ええと、だから……本番と練習では気合の入れ方が違うというか、練習ってのはあくまで本番に向かうための準備なわけで、実力が足りていないと自覚してるからこそ身が入る……というか」

「…………」

「だから、なんというか……自分を責める必要はないよ。叱責するにしてもそれだけじゃなくて、どうすれば壁を破れるか試行錯誤しながら練習できれば上々。自分は世界一下手だって思ってないと、必死の練習なんてしないからね。さっきも言ったけど、今はリハビリのリハビリだからさ。最初から上手くいかなくたっていいんだよ」

 

 だから、落ち込むことはないと。

 顔色を隠す余裕もない沙紀を見て、今日の中で最も言葉を探しながら、風間は言う。

 

「確かに時間は多くないけど、焦って取り零しちゃ元も子もない。まだ慣らしのウォーミングアップだ。ちょっとずつ空気を入れ換えていこう」

「…………」

「保科さんならできるよ。大丈夫」

 

 気休めだ。簡単に言ってくれる。こっちの気を知りもしないで。

 そんなとりつく島もないヒステリックで返すこともできたが、沙紀の体力がそれを許さなかった。元よりそんな考えなしに喚いてしまえるほど楽な性格でもない。

 丁寧な言葉程度で嗚咽が止まるなら苦労はしない。

 それでも、頭の詰まりは少し和らいだ、ような気がする。

 

 つくづく余裕がないのだと、沙紀は思い知る。

 気負ったところで所詮は初歩だ。過去にどれだけの経験があったとしても今はこのザマだ。そうなることに甘んじたのは他でもない自分だ。

 だから、人前で歌うことに今更の恥を感じるのもまた必然だ。身体だけでなく感性まで錆びつかせたのは自分なのだから。

 

 過去をやり直すことはできない。そんなのはまっぴら御免だ。今から戻されたところで上手くやれる自信がない。

 だから、無意味な後悔や羨望ではなく、ここからまた始めなければならないのだ。

 

「……三年も合唱やって、それ以上に歌ってたはずなのに、またここからやる羽目になるなんてね」

 

 誰に聞かせるわけでもない小さな独り言のつもりだったが、他に雑音もなく、大した距離を取っているわけでもない風間には丸聞こえだったらしい。どこか自嘲気味な苦笑を零しながら、

 

「たぶん、誰でもそうなんだと思うよ。何かあったら基本に立ち返る。それは悪いことじゃない」

 

 ふん、と鼻を鳴らすようにして、沙紀は相槌とした。

 それを見てか、風間もやおら立ち上がり、三度電子ピアノの席へ戻っていった。

 

 そうして、思い出したかのように「そうだ」と言う。

 

「なに?」

「いや、話の脱線ついでなんだけど──さっきの、癖の話」

 

 ぽろんぽろん、と音の居場所を逐次確かめるように鍵盤を叩きながら、風間は続ける。

 

「人それぞれの癖っていうのは、置かれた環境や好みの傾向によって簡単にねじ曲がる。十代の頃は特に強いらしいんだけど、要は憧れの歌手とかハマってるバンドとか、そういうお手本と見做(みな)したものを貪欲に模倣しようとするから、癖も一緒に取り込んじゃうんだって。あれが格好いいとか可愛いとか、音楽なんてそういうものを自分でもやってみたいと思うから始めるものだし、どんな趣味でもまずは上級者の模倣からって言うしね」

 

 ふと、部屋の対角線上にある箇所へ、風間の視線が通りがかる。そこには大量のギターをまとめて立てかけるスタンドが置かれていた。

 視線が沙紀の方に戻り、風間は穏やかな調子で言った。

 

「だから、保科さんにも憧れの人っていうか、理想像があったんじゃないかなって。そういうものを思い出しながら練習するのもいいかもしれない。初期衝動は一番強い原動力だから」

「…………それも、名言?」

「えっ。……い、いや、これはそういうわけじゃ……」

 

 軽くからかうような弄り方をしてみるが、風間の反応を見たところで沙紀は別に笑みを漏らすなど可愛げのあるリアクションを返したりはしない。なんだか妙な感じになってしまった場の空気を変えるため、風間は何度目かの咳払いをしてから、居住まいを直した。

 

 沙紀も椅子から立ち上がる。数分前よりも動きがいくらかスムーズになった。自然な挙動の流れで深呼吸を自発的に始める。

 それを見て、風間は僅かに目を見張るが、すぐに元の調子に戻って言った。

 

「最初は腹式呼吸を意識するのと、単音でひとつずつ音感を確かめるところからやってみよう。ゆっくり身体を起こす感じで」

「うん」

 

 自然に相槌を返す傍ら、沙紀の頭の片隅ではぼんやりと、風間の言葉が泡のように浮かんでは消えていた。

 

 初期衝動、原動力、憧れの人、なりたかったもの。

 そういうものが自分にあったのだろうか、と。

 強烈な印象を受けた人物なりグループなりがあるなら嫌でも思い出すだろう。その存在が指標であり教師であり目的になるのだろう。たとえ心が挫けようと、その存在が支えになることもあるのだろう。

 だが、どうにも、パッと思いつくような憧憬は出てこなかった。

 テレビの向こう側でキラキラと輝く歌手やアイドルの映像、耳を揺らす音楽に憧れたから歌手を目指していたのだろうということは自分でもわかる。一方で、そんな他人行儀な俯瞰でもしなければ自分の原動力とやらに心当たりがないのも事実だった。

 

 目の前の練習に脳のリソースを多く割いているため、この疑問には大した深掘りをしようとする余裕がない。

 ただ、漠然と思うのは──自分が歌手になりたかったのは、何がきっかけだったのか。

 

 ……あたしは、何を歌いたかったんだろう?

 

 

 ☆☆

 

 

 結局、ただの発声練習だけで終わってしまった。

 厳密には沙紀の方がドレミさえ覚束ないためにまず腹式呼吸の復習、口の開閉を意識すること、現時点で出せる高低音の限界見極めという、初心者向けコースのさらに下あたりを右往左往する程度でしかなかった。というのも、たったこれだけのことでさえ、沙紀が頻繁に詰まったり嗚咽したりを繰り返すために小休止を挟むことになり、何とも遅々とした進行になってしまったということである。

 そうこうしているうちに時刻は十八時に迫ろうとしていた。あまり根を詰めるものではない、という風間の提案を受け、いよいよ体力の限界に差し掛かっていた沙紀はのろのろと帰り支度を始めた。

 

 疲れた。ここ数年で一番疲れた。昔の黒歴史を語るよりも遙かに消耗した。背中を伝う冷や汗の量が尋常ではない。人前で歌うことへの耐性がこれほど下がっているとは思わなかった。否、今日は言うほど歌ってすらいない。ただの発声練習でこの有様である。

 自己採点したとして、最も活発だった中学時代の一割ほども声が出ていない。ブランク期間やブレーキをかけてくる無意識といった事情を加味しても、とてもじゃないが元経験者などとは口が裂けても言えない。

 情けない。口には出さず、そう思う。こんな状態で本当に使い物になるのか。

 

 多くもない荷物をまとめ、地下防音スタジオから退去する。狭い穴倉を抜けて外に出ると、もう暗くなり始めていた。群青の空にぽつぽつと粒のような星が現れ、その天蓋を街灯の強い光が無粋に出しゃばって視界を遮る。

 

 帰りが遅くなることに今更慌てるほど品行方正ではないが、この時間帯まで出歩いているのは少し久し振りだ。いつもならとっくに帰宅しているはずの時間にまだ帰っていないのだから、特に母親からは余計な小言を言われるかもしれない。スマホの通知は敢えて見ないでおく。言い訳を考えておくかガン無視するか、いずれにせよ帰ってからもゆっくり休めるわけではないと思うと、別の疲れが肩にのし掛かってくる。

 

 最寄りのバス停まで行き方を知らないので、風間に案内してもらうこととなった。

 帰りは下りだ。薄暗がりの坂道を、風間と連れ立って歩く。

 疲労困憊も著しい沙紀とは対照的に、風間はずいぶん朗らかな雰囲気を醸し出していた。足取りも軽く今にもスキップし始める勢いである。

 

「……機嫌良さそうね」

「えっそうかな? うーん、そうかもしれない」

 

 僅かに恨めしげなニュアンスを含めた沙紀の言葉にも臆せず、返しもどこか鬱陶しさを感じるのは疲れのせいだろうか、と沙紀は思う。まさに明と暗、正反対の精神状態を漏れ出させて憚らない二人。すぐ横を擦れ違った散歩中の小犬がキャンキャンと主に沙紀に向けて吠え散らかし、見ず知らずの飼い主が大慌てで犬を抱えて上り坂を走っていった。

 騒がしい鳴き声が遠くなっていったところで、風間は改めて口を開いた。

 

「想像していたよりもずっと順調に進めていけそうだから、かな。ゲリラの方はともかくとして、学校祭までには何とかなりそうな気がしてきた」

 

 そんな、呑気としか言いようのない感想だった。

 

「……自分で言うのも何だけど、アレの、どこが?」

「全体的に、かな。そりゃもちろん改善点は多いけど、確信に足る収獲はあった。保科さんはやっぱり大丈夫だよ」

「どこをどう切り取ればそんな好意的になるの」

「本当に緘黙症(かんもくしょう)とかいう病気なら、ここまでできるはずがない」

 

 きっぱりと言い切った。

 かつて失意の底に至った頃、半ば義務的に受診した病院で告げられた病名。より厳密には”かもしれない”という医者すら自信なさげだった、暫定的な呼び名だ。

 少なくとも二度目の経過観察以降であれば何らかの医学的根拠をもった診断が下されるはずだったのだが、当の患者本人が初診に行ったきり足を向けなくなってしまったために、沙紀の症状に正しい名前がつくことはなかった。だから沙紀自身も、医者が不用意に発した聞き馴染みのない病名だけを覚えて帰り、ネットで検索するなどして余計に落ち込むという最悪の食い合わせをしていた。

 もう二度と人前で歌えない。かもしれない、ではなく、断定的な事実として、無学な子供の脳に強く刻み込まれることとなった。

 そういう思い込みを、風間は明確に否定した。

 

「ところどころ、ってレベルではあるけど、音程やピッチがしっかりキマる瞬間がちゃんとあったし、呼吸も身体が覚えてるんだと思う。変なしゃくれ方もしてないし、ロングトーンとかをしっかり出せるようになるのも時間の問題じゃないかな。確かにふらふらはしてるけど、絶望的と言うほどでは全然ない」

「…………」

「それにまだ初日だよ。まだ始まったばかりだ。時間がないのは現実だけど、だからって焦っちゃ駄目だ。無理して喉を壊しでもしたら、治すのに一週間じゃ利かない。元も子もなくなることを考えたら今日はこれでいいんだ。充分だよ」

 

 澱みなく、明確に、堂々と言い切ってみせる。まるで疑う余地もなく、現在地点が最善かつ最良と信じているかのような物言い。

 そうまで自信満々でいられると、沙紀としては特に言い返す気力もなくなる。これ以上突っかかっても多分無駄だ、という半ば諦めのようなものだ。

 

 そんな簡単に事が運べば苦労はしない。そもそも事が上手く運ぶかどうかは沙紀の努力次第だろうに。

 喉と心に絡みつく邪魔なもの、呪いじみた欠陥は易々と解かれるほど優しいものでもない。一番苦しむのは本人だ。どれほどの支援や補助があったとしても結局は本人が解決しなければならないことなのだ。その糸口を見つけるまでが果てしなく遠い。なにが時間の問題だ、それが一番の問題だというのだ。バンドに誘った張本人、いわば沙紀を使う側の立場である風間が、軽々しく能天気な展望を口にするものではない。

 

 そう思うと若干腹が立ってきた。こっちの気苦労も知らないで、という熾火がやがて大きく噴火する──その前に、今度は風間が言った。

 

「それに、保科さんがリハビリに前向きなこともわかった。苦しいだけなら適当に切り上げて早めに帰っても良かったんだ。けど今日は最後までがんばってた。それが嬉しいなって、ね」

「……………………」

 

 いよいよ何も言えなくなり、とうとう沙紀は憮然とした顔で押し黙るしかなくなってしまった。せめてもの文句として、聞こえよがしに負け惜しみのような溜息を吐く。

 

 暗くなった帰り道、疲労困憊、これからの進捗を思う憂鬱。それら全てが結果的に、沙紀の行動が真摯であることを示している。

 嫌なら辞めればいいだけだ。真面目に取り合わなければいいだけの話だ。嘘でも誤魔化しでも言いくるめてしまえばいい。とっとと帰って布団を被って、二度と顔を合わせなければいい。そうしないことこそが、沙紀の選択だった。

 鈍った身体を叩き起こし、付き纏う嫌な記憶に嗚咽を抑え切れず、劇的には変わってくれない現実に焦っている。

 なんだってこんなに必死になっているのか。

 バンドを組むと決めたから。やってほしいと頼まれたから。否、それだけで動いてやるほどお人好しではない。それだけでは沙紀に見返りがない。性根はもっと打算的だ。

 自分のやる気が空回りしていたことも、自分で思っていたほどの実力が伴っていなかったことも、揺るぎない現実として認識していた。その大きさと重さに気圧され、動けなくなっていた。

 早い話が、それは自責と後悔だ。もっと上手くやれたはずと未練たらたらで、しかし挽回する機会がなかった。挫けずにいれば違う道にいられたかもしれないと思うだけで身を裂くような苦痛が襲う。

 否、それも言い訳でしかない。何も出来なくなっていたのも、何もしなかったのも、紛れもない現実だ。それを嫌っている本音に、薄っぺらい虚栄で蓋をした。

 

 いい加減に認めなければならない。

 歌いたいと望んでいる、そこからさらにもう一歩。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 風間が持ち込んできた話は、沙紀の奥底の望みに活かせると直感した。

 あの曲に、あの幻想に、『夜』に踊る星達に、(おだ)てられたのだ。

 そのためには現状をどうにかしなければならない。だが、重い腰を上げるには自分一人では力が足りない。

 利用価値があると踏んだから、風間の話に乗ったのだ。風間が目的を達するついでに、沙紀自身の現状を変えられればと。

 

 沙紀が必死になる理由は、つまりは我が事のためでしかなかった。

 

 だが、それをそのまま言うのは、何となく憚られた。ひょっとしたらこの程度の打算など風間には見透かされているかもしれない。それを自分の口から正直に言うのは、何故か悔しいと思うところがあった。

 だから、妙な沈黙が下りてしまった二人の間に、言い訳じみたことを言う。

 

「……別に、一曲だけなら何とでもなると思ったから。三ヶ月ちょいでも間に合わせるなら、それなりにやらないとってだけの話よ」

 

 長い長い下り坂が終わり、ようやく平地を歩く感覚に少し安堵しながら、ふと横を見ると──誰もいなかった。反射的に後方確認すると、数歩後ろで風間が足を止めている。

 なんだ、と思っていると、風間の視線が露骨に泳ぎ始めた。沙紀の視線とかち合わない安全地帯を求めるように、要は気まずそうな顔に変わっていく。

 

「…………えー、っとぉー……」

 

 この時点で沙紀は妙な予感を覚えた。だが、近付いて詰めるでもなく、声を張って相手を萎縮させるでもなく、風間が自発的に喋り出すのを待つことにした。

 やがて観念したように、それでも目は合わせられないまま、風間はぽつりと呟いた。

 

「…………保科さん」

「なに」

「その、なんだろう。すごく言いづらいんだけど」

「なによ。変な前置きしないでよ」

「ごめん。他パートを集めるとか保科さんのリハビリとか、そういうのに気を取られてて言うのを忘れてた。いや、言ってはいなかったけど、保科さんもそのあたりはわかった上で了承してくれたもんだと、てっきり……」

「前置きしないでってば」

 

 言いながら、沙紀も思う。自分で自分が言ったことに微かな違和感が生じる。

 一曲だけ。これだけの手間をかけてメンバーを探し、学校祭のステージに上がって演奏するのが、あの一曲だけ? だから練習するのも比較的楽に済んでいいって?

 それはすぐに、悪い予感へと進化する。

 ……そんなわけがあるか?

 

「……もう一曲、あるんだ。予定では」

「…………は?」

「こっちはまだ完成してなくて、だから昨日は出さなかったんだけど……同じぐらいのBPMで……一曲だけだとつまらないと思って……」

「……………………」

 

 次から次へと、降っては湧いてくるように。

 今までの停滞した時間は何だったのかと叫びたくなるほどに。

 蜘蛛の巣を張った脳味噌が回転しすぎてオーバーヒートするほどに。

 

「え、あッ、わ──ッ!? ほ、保科さん! しっかり!」

 

 ぐらりと膝から下が頽れて、沙紀は折り畳まれるように倒れた。

 

 ──やめておいたほうがよかったかもなぁ。

 

 気の遠くなるほど(くら)く透き通った夜空に、後悔を浮かべるようにして、沙紀は思考を止めた。

 

 

 ☆☆

 

 

 家に着く頃にはとっくに十八時半を回っていた。

 どうにかこうにか教えられた路線のバスに乗り、最寄りの停留所で降車し、重い足を引きずってやっとこさ見覚えのあるマンションに辿り着く。とどめを刺すかのような階段に体力をギリギリまで削られながら、特に何を配慮することもなく鍵を回し、さっさと家に入る。

 

 早々に自分の部屋へ引っ込むため廊下を歩き、そこで何を考えていたわけでもないが、途上の部屋に記憶が引っかかる。

 気付けば沙紀は隣のドアを開け、ずいぶん久し振りに中へ踏み込んでいた。

 贅沢なことに、父母沙紀で三人暮らしの保科家は、その3LDKの間取りを一室持て余していた。一際広いベッドルームを両親が共用で使い、一部屋を沙紀に使わせ、残り一部屋は特に使い途がないので物置代わりにされている。中にあるのは特に面白みもない、父のアウトドア趣味の大道具だったり二人が結婚する前の荷物だったり、沙紀が小中学校と進学する都度に嵩を増していく古い教材類などだった。部屋の奥側に行くほど地層が古く、手前側には収納に入りきらなかった日用品のストックなどが雑に放り出されていたりする。

 

 空けた途端に若干の湿気や埃臭さが鼻をくすぐる。決していい香りなどではない。手探りで照明のスイッチを入れ、段ボールが山と積まれているその中に、沙紀は踏み込んでいった。

 

 目的の物はひとつかふたつだ。微かな記憶の中には、ここに仕舞って放置していたような気がする。比較的浅いところにあったはずだ。

 

 どたんばたんずるずるがらがらと乱暴な探窟作業をしていれば、流石に騒音を聞きつけて同居人が文句を言いに来る。

 

「──ちょっと、沙紀!? 帰ってくるなり何なの!? 何探してんのよ、あーあーもーこんな散らかして! ちょっとー! 後で片付けてくれるんでしょうねぇー!?」

 

 嫌味の色を含めた邪魔者の声が聞こえるが、当然ながら無視。手近なところから開けていった段ボール三箱目で、見覚えのあるものが詰め込まれているものに当たった。パステルカラーの文房具、無駄に装飾に凝った手帳やノート類、くたくたの古書と化した教科書。

 中学時代の遺物だ。まだこんなところに残っていた。

 ということは、とさらに深く、中身を掘ってみる。邪魔臭いだけの小物を掻き分け、指先に感じたメッシュ材の柔らかい感触を掴んで引っこ抜く。

 あった。元はピュアホワイトだったはずが経年によって若干クリーム色が差してきている塗装。律儀に縛ってまとめられたケーブル、ちょうど耳がすっぽり収まる大きさの円盤がふたつ。

 

 ヘッドホンだ。無線タイプが流行り始める前の、少し古いモデル。

 

 仕舞い込んだのは概ね半年かそこらのはずだが、その特段珍しい造形でもない機材が、異様に懐かしく見えた。かつて真面目に学生をやっていた頃は宿題や自習のお供にしていたし、合唱部から渡された課題曲を聞き込むためにも使い倒していた。

 音楽を聴くための道具。それゆえに嫌な記憶に直結しやすく、この形を視界に映すだけで吐き気を催すようになってしまった。いつ片付けたのかも覚えていないが、ともかく関連する周辺の道具もまとめて箱に詰めて仕舞い込んだ。

 今も尚、その感覚は変わっていない。正確には、多少薄まってはいるが、込み上げるものがなくなったわけではないといったところだ。

 自分が真摯に直向きに音楽と向き合っていた時代の証明でもある。だからこそ、苦い経験の象徴でもある。

 

 だが、そんなもん気にする必要はない、と数時間前に断言されてきたばかりの今、こいつとの向き合い方もまた多少は変化している。

 何より今、これが必要だと思ったから、わざわざ引っ張り出したのだ。

 

 散らかしたものをある程度は元の段ボールに収め、適当に山の中へ放り戻す。ヘッドホンのブリッジ部分を持って、沙紀は物置を出る。

 

「……沙紀、あんた……」

「どいて」

 

 近くに立って眺めていた母親が何かを言おうとするが、ドスの利いた──或いはただ掠れた低音の一言をボソッと突きつけ、早々にその場から立ち去る。

 自室に入り、聞こえよがしに音高く鍵を閉め、手早く部屋着に着替えて布団に座る。

 

 向き直るにも多少の覚悟が必要だった。布団の上に放り出されたヘッドホンと正対して、そのかたちに思いを馳せる。要は耳の周囲を密閉して効果的な音響空間を作り出し、リラックスして音楽を楽しむための構造だ。その密閉が問題だった。周囲の環境音から切り離され、一対一の勝負になる緊迫感、厭が応にも対峙せざるを得なくなる嫌なリフレイン、それらを引き起こしかねない切欠を自分の手で行うという抵抗感。全てが綯い交ぜとなってワケのわからないものに化け、吐き気となって食道を込み上げてくる。

 

 昨日までの沙紀であれば、こんなものは存在すら思い出すこともしなかった代物だ。

 だが今は、そうも言ってられなくなった。

 

 帰り際に告げられたまさかの現実。たかが発声練習で疲労困憊となり課題曲にすら辿り着けていない自分へ、追い討ちの一言。

 実はもう一曲ある。

 つまりは、仕事が増えたのだ。前の仕事が片付いておらず、ただでさえ流行るような心構えの内に、追加の発注が為されたのだ。

 

 焦らなくていい、と風間は言った。無茶が響けば元も子もないと。

 どの口が言うんだふざけんな。

 自分で立てた予定であろうにそれすら忘れ、ついうっかりといった風情で言われた側の気持ちがわかるのかあの馬鹿は。こんなペースで間に合うわけがないだろうが。そもそもバンドメンバーさえ揃っていないのに何をのんびりと構えてるんだ。どこまで楽観的なんだ。

 

 つまるところ、そういう怒りや苛立ちという焦燥感から、形振り構わぬ必要性に駆られ、この道具を求めることとなった。

 昨日の屋上以来、沙紀は例の曲を聴いていない。データはあるしスマートフォンのスピーカーで聴けはするが、全体像を細かく把握するには音質が必要だ。少なくとも現時点で完成品とされているこの曲だけでも、早めに全体の流れを把握しておいて損はないだろう。否、ボーカルとして知っておかなければならないことだ。

 

 ──大丈夫、と根拠もなく自分に言い聞かせられるほどの胆力はない。

 だが、木偶のように突っ立ったままでもいられない。沙紀に任されているのはお飾りの人形ではなく、自らの声で歌うボーカルとしての役割なのだから。

 その手伝いの果てに自らの願望に近付くこともできる。だから、半端な出来映えで終わられては沙紀も困る。風間の能天気に責任転嫁してもいられないのだ。

 

 だから、意を決す。

 大丈夫ではないかもしれないので、土産として失敬してきた未使用品のエチケット袋を傍に置いておく。後は受け取った五線譜と歌詞のファイルを広げ、いよいよヘッドホンのコードを解く。先端のジャックをスマホの端子に差し込む。

 ダウンロードしておいた楽曲データまでフォルダを開き、準備完了。曲名を冠したその一行に指先を触れれば、昨日聴いた曲がそのまま再生される。

 

 深呼吸を一往復。吸いながら腹を凹ませ、吐きながら膨らませる。

 疲れ切った横隔膜に喝を入れ、息を止めて、ヘッドホンを手に取り、冠のように頭に被る。

 完全にではないが、環境音が遠くへと離れ、まるで部屋の中で箱に籠もったような孤立感。

 余計なことを思い出す前に、逃げ出すようにスマホの画面に触れた。

 

 再生開始。

 

 耳元で音が鳴る。多少古い機材だったが接続に問題はない。まだ使える。

 ピアノの旋律、立ち上がるギター、連なって速度を増し、ドラムとベースが加わり、一気に弾ける。

 迫力のある構成だ。改まって聴いてみるとつくづく重厚で勢いの強い曲だと思う。こんなものを同い年の高校生が作曲して演奏・収録・編曲までやったというのだから恐ろしい話だ。実は結構凄い奴なのではないか、と昨日今日で長らく面を突き合わせた男子を思い浮かべる。

 だが、同時に違和感がある。

 

「──……あれ?」

 

 音は鳴っている。幸いなことに吐き気もしない。それが違和感かとも思ったが、違う。もっと他の部分だ。

 幻覚が見えない。『夜空』が、広がらない。

 帳の落ちた森、湿った土の匂い、全身を叩く風、そして満天の星が踊る夜空は、いつまでも現れなかった。視界にあるのは見飽きた自室の壁と天井、布団の模様だけで、何も変わらない。

 音は響くばかりで、気圧されるような力強さに変わりはない。曲を聴いているだけ、という条件にも変わりはないのに、ぎゅっと目を瞑ってみても、あの『夜空』は見えてこなかった。

 実際、この曲を聴く度にあんな五感全てひっくり返されるような幻覚が見えていたらいよいよ精神が持たないような気もするし、そもそも音楽で幻覚が見えていたこと自体が異常なのだと思うことにする。

 

 だが、だとしたら、アレは一体何だったのだろう。

 見えているかいないかの違いにどれだけの差があるのだろう。

 見えていないことが本当に正常な反応なのか。

 ──まだ、あの星達に加わるには足りない、ということなのか。

 そんなことを漠然と思いながら、沙紀は楽譜を手繰り寄せて、五線に点在する音符を追いかける。こんなことぐらいしか、今はやることがない。それでも、何度となく曲を繰り返しながら、いつしか楽譜を読むことにのめり込んでいった。

 

 

 ☆☆

 

 

 時は少し遡り────、

 

 力の抜けた沙紀をバスに乗せて、そのテールライトが交差点を曲がっていくまでを見送った後。

 踵を返し、風間純一は自宅へと戻った。

 

 すっかり暗くなった夕方、等間隔に並ぶ街灯を頼りにするでもなく、慣れた帰り道を辿って歩く。

 その途上で、様々なことを考える。戻ってからやるべき作業の量、保科沙紀の体調等を鑑みた練習量の調整、三上歩武に対するアプローチの決行日並びに準備の根回し、そういったものに優先順位を付け、大体どれぐらいの所要時間で片付いていくかを検討する。

 考え事しながら歩くのが、純一は好きだった。日常ではぼーっとしていることの方が多いが、こうして足を動かしながら思考を巡らせていれば、まるで物事が前進しているさまを実感できるようでいて、精神衛生上も好ましいことだった。

 今日も盛り沢山だった。何もかもが動き出したのは昨日からだったが、三上の勧誘失敗からゲリラライブの決断と練習開始があり、進行に速度がついてきたように思う。

 いい調子だ。沙紀も思ったより乗り気でいてくれるし、こちらが提案することの大抵は受けてくれそうな感じがする。見立て通り、糸の切れた人形ではない。自分で立つ足を持っている、立派な人間だ。リハビリが順調だというのも嘘ではない。体調に異変を来すほどの自信喪失、そこから立ち帰ることに使うエネルギーは尋常ではないだろう。それでも、彼女は中断しようとはしなかった。だからこそ、傍から見ている側としては、慎重さを促すぐらいが丁度いい。

 

 歩いている内に、例の長い坂道へ行き当たる。実は裏に回れば緩やかな勾配で済むルートもあるのだが、その分遠回りで時間もかかる。自分も疲れていないわけではないが、ここは奮起して近道の方を選ぶことにした。

 そうだ、明日以降の練習場所と時間も確保しておかなければならない。自宅の地下がいつでも使えればいいのだが、事務所の予約表がどれだけ埋まっていたかは覚えていない。今日を振り返ってみて、やはり長くても三時間が限界だ。放課後になってすぐ帰宅すること、沙紀の帰路も考えると長々とやっているわけにはいかない。しかしせっかくいい感じに勢いづいているところで、自分こそが焦っては事をし損じる。あくまで最終的な目標は秋の文化祭であるからして、そこでの目的を達することができず終いでは話にならないし──。

 

 考えに考えて計画を立て、それに沿って行動しているつもりが、早くも大なり小なりの調整ポイントが湧いて出てくる。まったく儘ならないことだが、それすらもどこか楽しいような気がしてくる自分は酔狂だろうか。

 ぐるぐると渦巻く思考に対して軽やかな気分でいると、坂道の半ばに至ったところで、後方から自動車が昇ってくるエンジン音が聞こえた。

 ヘッドライトが周囲を照らす、かと思いきや、パッパッと瞬くわざとらしいパッシング。

 対向車がいなくて良かったと思う間に、その車に追い越される。見覚えのあるナンバープレートを付けた黒のSUVが滑らかに坂を上っていき、視界に入っていた自宅の駐車スペースに慣れた所作で入っていく。

 それを認めて、純一は少し歩調を早めた。

 

 残りの坂を跳ねるように駆け上り、家の間近まで来たところで、車から降りてくる人影が二つあった。

 運転席側にいたスーツ姿の男性が、近付いていく純一を見て言う。

 

「おう、純一。なんだ、散歩でもしてたのか?」

「ちょっとね。お帰り、父さん」

 

 そんな会話を聞きつけて、反対側から女性がひょこっと顔を出す。がさがさとそれなりに膨らんだビニール袋を携えているのは、母だった。

 

「制服のままで? 今帰ってきたわけでもなさそうだけど」

「む、言われてみれば。むしろ学校帰りか? その割に鞄持ってないな?」

「い、いや、ただの散歩だよ。着替えるのが面倒だっただけで」

「あらそう? 暑くなってきたんだから、帰ったら先にYシャツだけでも洗濯物出しておいてね」

「うん」

 

 リモートキーで車を施錠し、両親はやれやれといった風情で我が家の玄関へ歩いて行く。追いついた純一も、父の後ろについていった。

 来客があったことは、敢えて言わなかった。ここで明かすことでもないし、わざわざ伝えるのも何だか気恥ずかしく思ったからだ。

 一足先に母が靴を脱いで家に上がっていったところで、父が言った。

 

「急に散歩なんてお前らしくもない。気分転換でもしてたんじゃないのか」

「……まあ、そんなとこ。ちょっとは進んだから、気晴らしに」

「最近ガサゴソ作ってたやつだろう? しかし曲書いて弾くまではともかく、お前はそれを表に出してこないんだよなぁ。もったいない。私の息子なら神曲の十や二十なんて楽勝だろうに」

「買い被りすぎだよ自分のこと」

「いやいやそれほどでも……自分のこと!? 私が!? おいおい言ってくれるじゃないか口ばかり達者になってコラ」

 

 父親の軽口と小突きを貰って、(にわか)に笑いが起こる。何ということはない、風間家における親子のコミュニケーションだ。

 そうして、純一は家族共通の話題として、いつものことを訊く。

 

「姉さんは、どうだった?」

 

 父は何の気なしに答える。

 

「ああ、盲腸の手術は予定通りだ。薬で散らしてるし大したことはない。退院まで一週間ぐらいだろうとさ」

 

 その声に、僅かばかりの硬さが増したことを、十六歳の長男は確と感じ取った。その原因が、近々にある手術のせいではないということも。

 

「とはいえ、何度目かの入院でお姉ちゃんもうんざりしてる。お前も見舞いに行ってやれ。今度の土曜とか一緒に行くか?」

「……うん、考えとくよ。しばらくは野暮用で手一杯だから、行けそうな時にね」

「作詞作曲なんて半日ぐらいは休んでもバチ当たらんぞ? ──さ、晩飯にしよう。帰りにデパ地下で色々買い込んできたんだ」

「うん。……そうだ、父さん、後でちょっと相談が────」

 

 夕餉(ゆうげ)に向かう足取りも、場の雰囲気も、いつの間にかこれがいつも通りになった。

 積極的に出したい話題ではない。だが、向き合わないわけにもいかない。風間純一にとってはそういう類いのものであり、目下全力を賭して対決する最重要課題でもある。

 

 今はまだ準備期間が始まっただけに過ぎない。

 成功するかどうかもわからない。望んだ通りの結果が得られるとも限らない、危険な賭けだ。

 だが、今日の成果をもって、風間はこれが必敗の無謀ではないと確信することができた。

 だからこそ、この賭けを、自らが施した仕掛けを、勝手に下りるわけにはいかない。

 起こり得る奇跡というものを信じて、か細い希望に追い縋る。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。