練習二日目。
風間は早速、例の曲の編集を済ませてきた。
「イメージ的には、アニメのオープニングとかエンディングとかでタイアップされてるTV版みたいなものかな。全体の構成を損なわない程度に削ってみた」
やや曇りがちの空、直射日光がいくらか緩むだけでも過ごしやすいとさえ感じる十二時、立入禁止となっているはずの屋上に男女が二人。日陰で何をしているかと言えば、本人達は至って真面目な打ち合わせである。
たった二人分のグループチャットに新しく貼り付けられた楽曲ファイルが、議題の中心だった。
「イントロから四小節、Aメロ七小節ぐらいを削って、Bからサビはそのまま。歌い終わりからすぐにギターソロに入って、最後は余韻を持たせず早めに切り上げる。これで大体二分ぐらい」
日付順で並ぶファイルの再生時間を見ると、大元のフルコーラス版が五分強、対して新しく追加されたショート版は二分弱となっている。容量自体も半分以下に収まっているようだ。
これに併せて、歌詞も当然短縮されることとなる。新たに渡されたコピー用紙に印刷されているのは一番のみ、それどころか一部の歌詞が削られていた。
「結構印象変わるんじゃない?」
「うん。正直だいぶ物足りなくなるけどね……どうにか短く収めるために、こういうことになった。まあ、聴き比べると受ける印象が違うって言っても、今のところ僕と保科さんしか知ってる人いないから」
それに、と風間は言う。
「僕らがやるべきは曲の良し悪しをプロモーションすることじゃない。再生ボタンを押す気がないあの先輩に、僕らの存在を知らしめることだ。あくまで僕らがどの程度できるのかを端的に知ってもらうのが目的だからね」
それもそうか、と思いつつ、沙紀は歌詞と楽譜を見比べてみる。フルコーラスに比べれば密度は薄い。だが、元の長さと密度に少しずつ耳が慣れつつあるところで、覚えなければならない曲がさらに一つ増えたようなものだ。なおかつショート版はこの短期間でしか使わないもので、最終的本番ではフルコーラス版を用いることになる。忘れなければいけないこと、覚えていなければならないことという、記憶と感覚の匙加減が難しくなるところだ。
次から次へと宿題が増えていくような気がする。まったく不愉快なことだった。
とはいえ、楽譜だけ眺めていても漠然としたイメージだけはできるものの、実際どういう流れになるのかを体感できるわけではない。
沙紀は風間の首に掛かっている
「それ、貸して」
「えっ。……あ、ああ。うん、どうぞ」
沙紀が昨日物置から掘り返したものよりも数段グレードの高いヘッドホンを外し、風間はおずおずとそれを渡してくる。
「……なに?」
「いや、その、……耳に当てるものって生理的に貸し借りするの嫌がる人もいるからさ。僕は平気なんだけど、保科さんも大丈夫な人なのかなって」
「……今更。初めて曲聴かされた時も借りてたでしょ」
「そ、それもそうだね。うん」
言われてみれば、何も意識していなかった。自分も少々無警戒だったかもしれない、とほんの少し内省しつつ、沙紀はヘッドホンを被る。潔癖だの羞恥だの言っている場合ではないのだ。
自分のスマホとヘッドホンを接続し、新しい方の楽曲ファイルを選択、再生。
昨日から聞き込んでいたイントロのピアノから始まり、ギターが加わり、ドラム、ベースが混じって、一発のキメから基本のメロディーラインが流れていく。ここまでは元のままだ。
しかし、ここでいっそ転調のようでさえあるカット。階段のように少しずつ高音になっていく小節の間を二段階ほど吹っ飛ばして、歌い出しのAメロに繋がる。
確かに違和感がある。これはフルコーラス版を聴いたことがある者のみが抱く感想であり、そんな人間は地上において沙紀と風間の他にはいない。だから気にすることはない、というのが風間の見解だった。だがそれはそれとして、まったく別のところにあるがさして重要でもなさそうな違和感が、僅かに残っている。それさえ片付ければもっとスッキリしそうな気はするが、具体的にどう言い表せばいいのかがわからない、そんな感覚だ。
とりあえず、沙紀はそのまま聴き続けた。
歌詞の一区画が丸ごと削られてサビ前へ移行し、そこからサビは手を加えられていなかった。やはり一番の見せ所はそのままにしておきたいということだろうか。
その後、ちょうど歌い終わりの長音が半ばまで伸びた辺りでアウトロのギターソロが介入してくる。八小節ばかりのフレーズを弾き終えて、楽器隊が一斉に最後の音を響かせる──かと思いきや、ここもカット。全体が萎むようにフェードアウトしていく。
どこを眺めるでもなくただ聴いていただけだが、ここでも『夜空』は見えなかった。
「ふーん」
「……ど、どうだった?」
「もう一回」
言うが早いか、沙紀は渦状のリピートボタンを押していた。今し方聴いた曲が再び冒頭から流れ始める。
今度は楽譜を持ち、曲の進行に合わせてパラパラと捲っていく。音符の全てを目で追えるわけではないが、それでも決め打ちでどの辺りが鳴っているかを追いかけていく。
昔は何となく、完璧に読譜ができなくてもこうして目を慣らすところからやっていたものだ。予備知識がなければ暗号のようにしか見えない五線譜と音符記号を、耳で聴きながら意味するところを捉えようとしていた。それが役に立ったのかどうかは、思い出そうとすると頭痛が伴う。
しかし、と楽譜を追いながら沙紀は思う。酔いそうだ。目が慣れていないのを差し置いてもテンポが早いし音符が多い。フルコーラス版の全体像を把握する努力も昨日からちびちびと始めたばかりだが、わかっていたことながら一朝一夕では済みそうにない。
ふと、視線を感じて顔を上げる。風間が物珍しそうな顔で沙紀を見ていた。
ヘッドホンの片耳側を外して怪訝に問う。
「……なに?」
「え、いや……ううん、なんでもない」
答えるか迷うような素振りを見せ、結局答えなかった。なんなんだ、と思う間もなく、今度は咄嗟に思いついたような顔で風間が言う。
「そうだ、そのショートバージョンなんだけど、一応まだ仮ってことにしてあるんだ。もう少し、良いまとめ方ができるかもしれないし……保科さんも、聴いてみて意見があったらどんどん言ってほしい。僕じゃ気付けないミスとか改善点があると思うから」
「……それはまあいいけど」
編曲など指一本も触ったことのない素人が何を意見できるわけもない。
それはそれとして、所要時間というキーワードに紐付いて気がかりだったことがある。
「軽トラだのスピーカーだの貸してもらうって話は?」
「あ、うん。昨日の内にしておいた。……説教もダメ出しも貰ったけど、とりあえずどうにかしてくれそう。後は運転手の人と予定を擦り合わせられるか、かな」
「一応社会人なんでしょ? 高校生の昼休みに都合つけてくれるの?」
「うん……あんまり深くは聞いてないんだけど、フリーターらしい。でも働いてるのが工事現場だったり農家の畑だったり、中華屋の厨房で鍋振ってたり、劇団の役者やったり大道具係してたりで、何だか手広くやってる。手を借りるのも実は駄目元だったんだけど、二つ返事でOKだった」
「……一応、所属のアーティストなのよね?」
「い、一応。まあ定職に就いてないって言えばそれまでだけど、頼りになるお兄さんだよ。
そんな調子で作戦会議は続いていく。
その日の練習メニューは腹式呼吸を意識した基本的発声練習から始まり、ロングブレス三十秒耐久を数セット、それから現時点での音域──
かつてはソプラノもアルトも必要に応じて使い分けられる程度には鍛えていたが、今となってはすっかり鈍っている。オクターブどころか半音上げ下げするだけでも一苦労だ。風間は満足げだったが、沙紀としては溜息が出るばかりの成果だった。
☆☆
練習三日目。
同じ曲を延々とリピート再生しながら楽譜と睨み合う苦行を繰り広げていくうちに、沙紀は『VEGA』において攻略すべき難所がいくつかあることに気付いた。
大きく分けて三つだ。
まずは歌詞の密度。とにかく一小節あたりの文字数が多い。
二つ目は息継ぎのタイミングが非常にシビアだということ。前述の過密気味な文字数と曲のテンポも相まって、ブレスポイントがズレるとバランスが崩壊する。ただでさえリハビリ中の腹式呼吸が崩れたら立て直しは非常に難しい。息が続かないというのは非常に無様だ。ゆえに曲中を通して自分なりのブレスを意識し、一つずつ確実にチェックポイントを通過するよう気を配らなければならない。
最後は何と言っても、キメの高音だ。ボーカルとしての腕の見せ所でもある。波打つような高低を描くメロディーの中でも特にサビ終わり、フルコーラス版では落ちサビ前のハイトーン。喉が出し切れないだけならまだしも、掠れたり詰まったり外したりしようものなら台無しだ。一番プレッシャーのかかる、しかし当然の如く突破しなければならない最難関である。
しかし、こうして考えてみると、『VEGA』の構成は沙紀の現状における弱点を敢えて要所に置くリハビリ教材として良く出来ているように思えてくる。ブランクありの歌手にとってはまさにスパルタ式で厳しいポイントが多いが、曲を通して克服していけば一段上の実力に成長できそうな、そんな気がしてくる構成だ。
さすがに作曲者が沙紀をイメージして書いたと豪語するだけのことはある。なお当の本人としては、大した交流もないのにまるっきり見透かされているような気がして実に不愉快である。
「ねえ、風間くん」
「あっはい」
「聴いてて思ったんだけどさ。これ」
放課後、風間邸の地下スタジオ。
枚数が多い。事前に貰っていたフルコーラスの方の譜面だった。白黒の五線譜の上に、新しいボールペンの細い筆跡がいくつか加えられている。沙紀が追記したものだ。
「イントロのここからここまでと、アウトロのここからここ」
「う、うん」
「昨日聴いたやつより二十秒ぐらい削れると思う。ショートの方に組み込んでもたぶん自然に繋げられる」
「えっ」
「それだけ。どうするかは好きにして」
「えっ。……あ、いや確かに……? ちょ、ちょっと」
楽譜と睨み合いつつ、自分の課題を見出すついでに思いついたことを風間に伝えて、沙紀は自分のウォーミングアップに戻っていった。
風間は風間で、まるで沙紀の方からそんな提案が出てくるなんて露ほども考えていなかったような顔で、慌てて自分用の楽譜を引っ張り出してフレーズを口ずさむなどしながら構成を練り直していった。
その日の練習メニューは相変わらず腹式呼吸の体得を促進する発声練習、
物足りなさ、というよりは歯切れの悪さを感じるが、時間切れということで解散と相成った。
☆☆
練習四日目。
土曜日に当たった。授業もないので頃良い時間に風間邸スタジオに集合となる。
なお、休日にも関わらず沙紀は常と変わらない制服姿で平然とやってきた。外行き用の私服を選ぶのが面倒になったからである。
こちらはシンプルなTシャツとカーゴパンツという軽装の風間は、何を期待していたのかほんの少し残念そうな顔をしていた。
「ていうか、今日も他に予約取ってる人いないの?」
「あー、うん。いや、いるにはいたんだけど、無理言って時間ズラしてもらったんだ。順番待ってたら夜になっちゃうし、隙間の一時間ぐらいしか取れなかったりするし。保科さんは日中に行動する方が都合良いかなと思って」
「それはまあ、ね。……家の人は? 今日もいないの?」
「うん。暦通りに行動しないっていうかできない宿命の仕事だからね。休める時に休んでるけど、このところはずっと忙しそうかな」
そういうものだろうか。今日まで連日このスタジオを使わせてもらっているが、自分達以外の大人に鉢合わせたことが一度もない。もちろんタイミングというものはあるだろう。とはいえ一応は事務所ということなら誰かしら常駐していそうなものだが。
そんなことを思いつつ、沙紀は今日もリハビリに励むこととなる。
いつも通り、腹式呼吸を意識したロングトーン、ようやく中音域あたりなら出るようになってきたドレミの発声練習といったウォーミングアップ。
そうしていよいよ、というより今更になって、音源を用いた練習に移ることとなった。
とはいえ、いきなり通しで全部歌うというわけではない。ショート版の音源をメロディーごとに切りながら音程を確認し、AメロやBメロといった区間をクリアしていく、そういう作業だ。やがてサビまで歌い切れるようになれれば上々、継ぎ接ぎのような出来上がりでも今はそれでいい、という方針だった。
沙紀の達成目標は変わらない。滑舌、ブレスポイント、音程の安定化、この難所が常に付き纏うことを意識しながら、一つひとつをクリアしていかなければならない。
なお、音源は昨日の沙紀の指摘を受けて再びの改訂を受け、ほぼ最終バージョンとして沙紀にも共有された。音源練習とは、つまり二人揃ってこれを聴くついででもある。
データが入っているノートパソコンをスタジオ備え付けのよくわからない機械に繋いで、天井の四隅に括り付けられているスピーカーからダイナミックな音質でもって曲が再生される。一通り終わった後、風間は納得しているようないないような微妙な顔になっていた。
「……これで一分四十秒。うーん、結局これが妥当かなぁ」
「色々省略しなきゃいけないのにソロ入れすぎ。元からだけどギターの主張激しいし幅取ってたし、なんか目立とうとしてない?」
「ぬっぐぅぅ!? ……な、なかなか痛いとこ突くね保科さん……」
沙紀の指摘に心当たりがあったのか、変な悲鳴を上げて
曲自体は短くなり、まとまってきた。多少の違和感は拭えないままだが、これはもう耳が馴染んでいないと割り切るべきだろうと沙紀は思う。無駄を省き要点を押さえた構成にできるなら、それに越したことはない。
二度、三度と曲が流れ、楽譜の小節を追う。完璧ではないが、やっと目が慣れてきた。
そんな微かな実感を内心に思いながら、沙紀は今日の練習開始を風間が切り出すのを待つ。
…………始まるはず、だったのだが。
発声練習からここまで付き合い続けた風間は、音源の再生と一時停止を操作するノートパソコンから唐突に手を離した。
怪訝に思う沙紀をよそに、十秒余り固まってから、風間はおもむろに立ち上がって言う。
「ごめん、ちょっと待ってて。ギター取ってくる」
「え」
言うが早いか、沙紀が文句を言う間もなく、住居側に続く防音扉を勢いよく開けて飛び出して行ってしまった。
一分後、風間はどこからか──恐らく自室から、自前のものと思しき一本のギターを携えて戻ってきた。
中心の白、太く縁取る艶の黒。細い指板と片刃の剣のような先端。まるで知識のない沙紀でもどこかで見たことのあるような、つまりスタンダードな外観のエレキギター……のはずだが、そのボディには隙間を埋め尽くさんばかりにステッカーが張られている。一番特徴的なのは、『あっかんべー』と舌を突き出す毒々しい紅の唇。それと似たような、或いはバンドの名前をあしらったロゴマークが、ベーシックなモデルのギターをべたべたと彩っている。
どう見ても悪ふざけの痕跡でしかないが、ある意味では目を引くギターではあった。
一応
「……それ、自分でやったの?」
「え? ああ、これ? いやいや、父さんのお下がりだよ。昔は何とも思ってなかったんだけど、よく考えるとストーンズならストラトよりテレキャスのイメージだよね」
「いやそれは知らないけど」
妙な
ほっと胸を撫で下ろしている間に、風間は慣れた様子でギター周辺の準備を整えていく。壁の棚から小さな箱状の機械と太いケーブルを数本取り出し、ギター、小箱、アンプと繋いでいく。スピーカーの電源を入れ、
手近なパイプ椅子に座った風間の手指が、六本ある内の一番太い弦を弾く。弦そのものの少々頼りない生音を、アンプで膨らませた迫力ある快音が間断なく呑み込む。歪みのないまっすぐな金属音。
風間は慣れた手つきでギター先端のツマミを少しずつ締め、チューニングを整えていく。
小箱は何らかのスイッチペダルのようだった。踏む度にギターの音色が変わる。
最終的な音の確認として、全弦を一斉に弾き下ろした。
「────」
エレキギター特有の金属音、高いものから低いものまでが合わさった
「よし」
その一言と共に、ギターを吊り下げるベルトのようなものを肩にかけ、風間は椅子から立ち上がった。
一連の流れをぽかんと眺めていた沙紀は、ようやくそれが、風間の準備完了であると悟った。
それの意味するところは。
「保科さん。一回通してみよう」
そう、その他にはないだろう。
音源を参照しながら少しずつ練度を積み重ねていく方針が早々に放棄され、ほぼ実地のリハーサル形式でやろうと言うのだ。
ほとんど無駄だろうと思いつつ、沙紀はささやかに抗議してみる。
「……急すぎない? あたし、まだそこまで回復してないと思うんだけど」
「うん、気持ちはわかる。でも、確かめたいことがある。ひょっとしたら、保科さんにはこっちの方が効くかもしれない」
「どういうこと?」
「まあモノは試しってことで。詰まったりえずいたりしても音は止めない。とりあえず最後まで走り切る、って感じでやってみよう」
なんとも強引に押し切られた。もはやこちらの返答は待たず、風間はノートパソコンをついついと操作する。一体その確信の材料はどこにあるのだろう。もしや根拠のない自信というやつだろうか。
駄目元で発した抗議だが、正直な感想だった。
ここまでの基礎練習もといリハビリの成果は沙紀自身が自覚できるほどに芳しくない。ただの発声ですら脳裏に嫌なノイズが走る。その度に胃液が込み上げてくる感触を思い出す。反射的に身が縮み、それが喉を閉じさせる。
息も声も続かない。なのにいきなり通しで歌うなど、できるはずがない。せめてもう少し抵抗感が減ってからにしてほしい。
そうすれば、もっとまともに歌えると思うから。
ありありと想像できる無様な姿を晒さずに済むから────と考えて、しかし思考は突っかかる。
もう少しは、いつだ?
それを待って何ヶ月経った?
間違いなく弱音だ。風間の自信が根拠のないものなら、沙紀のそれは保証のない先延ばしだ。望み通りに期限をずるずる延ばしたところで、まともな出来上がりになるとは限らない。なにしろ当人がクオリティを上げようとしていないのだから。
何のための練習だ。何のためにこんなことに付き合っているんだ。
ここはステージではない。
ならば、そこから下りている自分がどこにいるかなど決まっている。無様を恐れるなど、それこそ今更のことだ。世界中のプロアマ含めた歌手の中で今、我こそが最低なのだ。
こんな醜態に比べれば、詰まるだの吐くだののミスなど多少のものではないのか。風間が教えたあの言葉はそういう意味ではないのか。
だからこそ。
「…………わかった」
整理しきれなかった不満の残りは盛大な溜息に換えて、促されるでもなく、沙紀はマイクの前に立った。
思えば、これを使うのもいつぶりだろう。中学生時のカラオケ以来か。記憶にあるものよりも風間邸に設えられている機材は高級感がある。使い古されてはいるが手入れが行き届いているのか、電源のスイッチや先端の部品などにガタつきがない。
上部にある電源をぷつんと入れると、蛍光緑のライトが点灯し、部屋のスピーカーに新たなホワイトノイズが加わる。適正な距離がわからないが、現状の自分の声量を鑑みるにギリギリ触れない程度でいいだろう。
マイクを使うのと使わないのとでは、当然ながら発声の感覚は違う。厳密には自分の耳に返ってくる音の
それから、ただ、自分はどちらであっても、その瞬間を忘れられずにいるのだと。
溜息とは違う、力を抜くための呼吸を一つ。そうして、
「いつでも」
「うん」
そんな沙紀のわずかな葛藤を知ってか知らずか、それでも準備を整えた姿を認めて、風間もシンプルに応える。
ノートパソコンを操作し、音源が流れ始める。4カウントのクリック音、後に聞き慣れたピアノのメロディー。それは、ボーカルとギターを除いた本番用の音源だった。
間もなく風間のギターが加わり、短くなったイントロが終わり、沙紀の出番がやってくる。
☆☆
無我夢中のまま気付けば過ぎ去った一分四十秒の後、風間は言った。
「月曜日に決行しよう。やれるよ、保科さん」
☆☆
────何をどうやって消化したか記憶にない日曜日を経て、月曜日。
沙紀は通学路を歩いていた。
うんざりするほどの眩い晴天だった。予報では雨どころか雲さえ小粒のとても良い天気らしい。容赦なく背中を照りつける日射に、もはや初夏などという生易しい季語はそぐわない時節になっているのだと思い知らされる。長い長い夏が始まろうとしているのだ。
とはいえ、天候が崩れる心配がないというのは好都合だ。少なくとも風間にとってはそうだろう。
時刻は現在十時三十分。
あと一時間半で、ここ最近準備してきたゲリラライブが遂に決行されるのだという。
沙紀は思う。
……展開が早すぎやしないか。
元より期日が設けられていることもあって、いずれ来たるべき日ではあった。学校祭に向けてバンドを組むに当たって目を付けたベース候補、三上歩武へのアプローチ。彼が一週間以内に何らかの成果物を見せるよう要求してきたために、沙紀も風間も可能な範囲で最大公約数的な効果が望める準備を整えてきた。恐らく三上にとっては予想の範囲外だろうが、風間純一の手が届く範疇というのが余りにも三上の要求に嵌まる充実ぶりだった。
足下は
沙紀にとってはそれが最大の関門だった。
だが、風間はGOサインを出した。
何を見て聴いていたのか、沙紀のズタボロな練習に付き合った上でイケると判断したのだ。
土曜日、音源練習が始動するかと思いきや、一足飛びに風間がギターを持ち出し、リハーサルさながらの音合わせに発展した。
その二、三度のセッションで、どうやら風間は確信を得た。当の沙紀を置いてけぼりにして、鼻息も荒く準備を仕上げると言って沙紀を家に帰した。
当然ながら、沙紀には不安しか残らなかった。
いくら大丈夫だのやれるだのと激励の言葉が並べられようと、我が事を把握できないほど感覚神経が衰弱しているわけではない。
確かに基礎練習は焼け石に水でも重ねてきた。風間とのセッションも無我夢中だった。だが、明らかに声は出ていなかった。
音程は安定しない。リズムは滅茶苦茶。あれほど気遣っていたブレスポイントもほとんどズレて滑舌に影響が出た。満足のいく成果では決して有り得なかった。
歌えていたとは思えない。
リハビリ中という不名誉を加味しても、それが免罪符にならない程度には下手くそだった。我ながらそう思う。
とてもじゃないが、使えるレベルではないはずだ。
だというのに、風間は決断した。
……あの自信は本当にどこから湧き出てくるのだろう。何を考えているのかわからない、ともすればあれはあれで傲岸不遜と言えなくもない、その原動力はどこにあるのだろう。
何が彼をそこまで突き動かすのか。このところ、それが不思議でならない。
焦っている様子はない。彼なりに事態を俯瞰し、冷静に計画を進めようとしていることはわかる。
沙紀の実感というのもつまりは主観的感想でしかない。傍で沙紀を見てきた風間であれば──何よりあの環境に身を置いて、四六時中センスを磨いている彼が、可能と判断するのであれば、それは沙紀の感覚よりも説得力のあるものではないだろうか。
何かにつけて自信のなさを弱音として吐き出すのは、やはり負い目があるのだろうと沙紀は思う。我ながらこの半年余りのブランクがあったばかりに、こと音楽の分野において他人に判断を預ける程度には自信を失くしている。
そういう迷いや劣等感は声に出る。喉の震えが声をブレさせ、揺れた音は頼りなく耳を素通りしていく。
自分達の実力を見せつけて、バンドに加わってもらう、もしくは次の交渉の材料になるだろうというのに、それでは駄目だ。そんなことではまた頓挫してしまう。
歌える自分に戻りたいと思った。あの曲に思わされた。だからこれまで初心者レベルのリハビリにも受けて立った。
これで終わってはいけないと、確かに思う。
しかし一方で、そうは言っても肝心の自分の仕上がりがこんな程度では結局風間の顔に泥を塗るだけなのではなかろうかと不安が鎌首を擡げてくる。
…………こうなってはもう駄目だ。
何を考えても堂々巡りだ。つまりは無駄だ。
こんな焦りも、思えば懐かしい。いつからそう感じなくなったのかも覚えてはいないが、普段とは違う大きな舞台に立つ前はこんな不安に襲われていた。
今になって思い出した。そして経験則では、いくら考えたところで時計の針は止まってくれない。
泣いても笑ってもこれが本番。常々聴いてきたことか、或いは自分に言い聞かせていたことか。
実際、本当の本番はもっと先にある。今でさえそのための準備中に過ぎないのだ。ならば、これもまたリハーサルのようなものと飲み下してしまった方が気楽になるだろう。そもそも沙紀の状態を鑑みてGOサインを出したのは風間だ。失敗して
そうだ、そういうことにしよう。駄目で元々、上手く行けば御の字、失敗は風間になすりつければいい。
前向きなのかそうでないのか、そんなことを考えながら歩いている内に、一際背の高い落葉松の防風林が見えてきた。日射角度の都合であまり日陰になってくれない地帯を横切り、すぐに直立した豆腐のような校舎が見えてくる。
いつもならロータリーと駐輪場を横切り下駄箱に直行するところだが、ふと、目の端に映った景色が重要なものであることを思い出す。
校門の位置からさらに数歩、裏の畑に用事がある以外には行き止まりに等しい車道と、ぽつんと植えられている一本桜。太くねじ曲がった幹から拡散して伸びる枝には、当然ながら花ではなく青々とした葉が茂っている。ほぼ隙間なく日光を遮り、さながら影のスポットライトのようになっている辺りこそ、風間がロケーションとして選んだ位置だ。
こそこそとそこまで忍び寄り、少々遠巻きに眺められる距離で見渡してみる。
なるほどこの位置からは桜の木が邪魔で、対面に鎮座する校舎がほとんど見えなくなっている。こちらから見えないということは、あちらからもほとんど見えないはずだ。加えて周囲を見渡すまでもなく、車の往来が絶無と言っていい。軽トラ一台、五分と言わず三十分ぐらい路肩に停めていても誰にも文句は言われないだろう。迷惑な騒音を垂れ流したりしなければの話だが。
簡単な下見と同時に、緊張感もいや増してくる。
あと一、二時間ちょっとで、ここに立つのだ。
自分の実力に対する不安感は風間に転嫁すればいいとしても、臨場感に伴う緊張はまた別問題だ。
この立ち位置、そして桜の木がある以上、校舎側からは沙紀達の顔はほとんど見えない。移動の際に転けるなどのお約束をしなければ、今日ここで行われるほんの僅かなゲリラライブの主犯が誰だったかはバレないはずだ。しばらくの間は騒がれることにもなるだろうが、まさかその中心に保科沙紀がいるなどと想像する者はいないだろう。
バレる心配はないと言っていい。
だから、やるならいっそ思い切り
理性でそうとわかっているのなら、この緊張感は決して悪いものではないはずだ。そうとも、かつて中学時代にも、自分が上がるステージの広さ大きさに自分の神経を引き締めた。あの時と同じだ。
……そうとでも考えて自分を誤魔化しておかないと気が狂いそうになる。根っこはそうそう変えられないものだ。
はあ、と溜息を残し、沙紀はその場を後にする。特に
外用のスニーカーを乱暴に脱ぎ、校内用の上履きに換えて、さてと振り返る。
所定まではまだ若干の時間があることだし、どこか人気のない場所でウォーミングアップはしておかなければと思いつつ顔を上げると、
「あれ、保科さん?」
「…………」
見知った顔が、実に丁度よくそこにいた。
もそもそとした三つ編み、野暮ったい瓶底のような眼鏡。どこか垢抜けていない雰囲気の、ある意味では古風な出で立ちの女子。
クラス委員長の中岡恵と、かち合った。
「来てたんだ。おはよ……っていうか、もう三時間目始まってるけどね」
「……なんで、あんたはまたここにいんの」
「いやー、ちょっとお腹痛くなって。色々取り替えてたらこんな時間になっちゃった」
お恥ずかしいとばかりに若干明け透けなことを言う。
まったく間の悪いことだ、と沙紀は思う。用事がある時に限ってこういう巡り合わせがやってくる。
所定の時間まで幾ばくもなく、気を落ち着かせる余裕もない今、律儀に付き合ってやる暇はない。そもそもまともに取り合った
だから、沙紀はそのまま無言で通り抜けようとする。
当然ながら、中岡はそれを止めようとする。
「ちょ、待って待って。どこ行くの? せっかく来たんだから授業も出ようよ」
無遠慮にも手首を掴んでくる。反射的に振り解こうと力が入るが、相手の握力がそれを許さなかった。元が細枝のような沙紀はそれだけで取り押さえられる。
仕方なく、抵抗はしつつ口でも言い返してみる。
「どこだっていいでしょ。教室に荷物置くだけかもしれないし」
「じゃあ私もついてっていい?」
「絶対嫌」
「ほらもう嘘じゃん。次、理科室で科学だよ。教科書とか持ってきてないんだったら私の貸すから。ね?」
ええい鬱陶しい。不登校の真横に構える気か。悪目立ちという言葉を知らんのか。
「……今更、平気なふりして教室に戻ろうったって気まずいだけでしょ。あたしも他の人も、顔と名前なんて覚えてないんだから。もしかしたらイジメられるかもしれない。そういうことも考えるのよ」
心にもないことを言ってみる。否、本当はその可能性も全くのゼロではないだろうとは思うが、咄嗟に思い付いただけの適当な言い訳だ。やる気の無さはそんなことが理由ではない。
中岡は立場上と言うべきか、やはり真っ先に否定してきた。
「そ、そんなことないよ、みんな気の良い人たちだよ。そんな理由でイジメなんて……起こるかどうかはわかんないけど……そんなの私がさせない。守ってあげる、って言ったら
「一人二人が頑張って、それで丸く解決するなら誰も苦しんだりしないでしょうよ。こういう片田舎の学校って後ろ暗い話は揉み消すってよく言うし」
「で、でも! 気まずさがどうこうって言うなら、それこそ後に回しても得なんかないよ。まだ一年生だもん。いきなりなんて誰でも無理なんだから、ゆっくり学校の一員として馴染んでいけばいいのよ」
いつになく熱烈な、何が何でもこの機会を逃すまいとしているようなしつこさだ。こっちはこっちで何でそんなに仕事熱心なんだ、と沙紀は思う。中岡はたかだかクラス委員長であって、不登校気味な生徒の面倒を見るのはさして重要な仕事ではないはずだ。何なら教職員がやるべきことだろうに、何が彼女をそこまで熱心にさせるのか。
どう対処するべきかを考えている間に、中岡が口を挟んだ。
「あのね、あんまりこんなこと言いたくないけど……もう学校からお家に電話行ってるでしょ? 今のままだと本当に退学処分になっちゃうよ。出席点は補習でなんとかしてくれるかもだけど、すぐに試験もある。サボったら本当に取り返しつかなくなっちゃう。でも今だったら、まだ全然遅くないんだよ。だから──」
真摯な説得だ。洒落や冗談ではなく、状況が切羽詰まっていることを沙紀本人よりも危惧していて、なおかつ出しゃばっていることを自覚しているからこその言葉だった。
しかし当の沙紀には、まるで通信教材の謳い文句じみているといった他人事のような感想しか湧いてこない。それよりとっとと手を離してほしい。
自分の進退に関わることだということは理解している。だが、現実には優先度というものがある。成績は大事だろうが、それはそれとして、今日の沙紀には珍しく外せない用事がある。
だが、こいつにそれを打ち明けるわけにはいかない。今日の昼休みに校門前で派手に騒ぐからその準備で忙しいなどと、クソ真面目の生きたサンプルのような女に言ってしまえばどうなるものか。それはもう余計な面倒事が増えるだろう。
何とか事情を隠しつつ、この場から解放されなくてはならない。そんな考えるだけでも面倒な、次から次へと厄介ごとが積み重なっていくばかりだ。
早くも辟易としてきた脳内で、こうなったらもうやけっぱちで勢いのまま行動してやろうか、などと自爆スイッチに手がかかる直前。
中岡の言葉は終わっておらず、そのまま続いていた。
「──だから、あの時こうしておけばよかったなんて、思いたくないじゃない」
「…………」
常の少し頼りない声ではなく、芯の通った発声。
上辺だけ取り繕うのではない、真に迫った科白。
中岡の言葉に、沙紀は思わず動きを止めてしまった。
「できることを今やらないと、絶対後悔するよ。できるのにやらなかったこと、やる気がないってだけで逃げたこと、全部後になって追いついてくる。取り返しがつかなくなってから、ああすればこうすればなんて、後悔したって、そんなのどうしようもないじゃない」
いきなり何を言い出すんだ、と思わないわけではなかったが、沙紀は彼女が言わんとしていることの一端を理解した。振り返ってみてようやく理解する過去の自分、立ち位置と振る舞い。それが周囲にどう見られ評価されていたか、そうして自分がどうなっていったか。その顛末に心当たりが無いわけではなかった。
何より今の自分は、まさにその後悔を取り戻すような行動に心血を注いでいる。
あの時、もう少し器用に振る舞えていたら。ほんの少しでも自分を俯瞰できていたら。
こんな現実には陥っていなかったのかもしれない。
これからやろうとしていることで、そんな後悔が帳消しになるはずもない。
今更になって音楽と向き直ろうとしている自分を見透かされているような気さえした。
一方で、その真意は別のところにあるような気がした。額面の意味以上の何かが裏にある、そんなニュアンスを言葉の端に感じ取った。
含蓄、という単語が脳に浮かんで、沙紀はそれを振り払った。
別に学校での点数などどうでもいい。真面目に取り組むつもりはない。だからこうまで必死に引き留めようとする者の相手をする必要も別にない。他人の人生を気にかける余裕もない。
だが、自身の手を掴む彼女を無碍に振り解くのは、それよりも悪いことのような気がしていた。
だから、沙紀は言う。これ見よがしに盛大な溜息を吐きながら。
「……こんなのが長続きしないことなんて、言われなくてもわかってる」
「えっ?」
「考えとく。努力はする。でも今日は駄目。あたしにも都合とか心の準備がある」
言いつつ、掴まれたままの手首を僅かに持ち上げる。離せ、という意思表示のつもりだったが、中岡はそれよりも目を開いて顔面に喜色を湛えた。
沙紀が思うに、前向きな発言をしたのは、恐らくこれが初めてだったかもしれない。
そう思っている間に、手首の位置にあった彼女の手はもう少し先端の方に寄り、気付けば離すどころか両手で包まれていた。
「うん……! もちろん。きっとよ、保科さん。何かあっても私がフォローするから教室入るタイミングとかいつでも相談してね!」
「……はいはい」
心なしか熱気さえ放つようになった。非常に暑苦しい。失敗だったかもしれない。
それから、いい加減にしろと言わんばかりの沙紀の視線を浴びてようやく中岡は離れた。こんなことで何分費やしたのやら。
とはいえ、切り抜けられたと思っていいだろう。この会話の流れなら立ち去っても文句は言われないはずだ。
そうして背を向ける沙紀に、中岡は土産のように言ってきた。
「保科さん」
「なに」
「
息が詰まる。
ここで沈黙するのは肯定と捉えられる。直感した沙紀は努めて冷静に、振り返って言った。
「立入禁止のところに入れるわけないでしょ。鍵締まってるんだから」
「……うん、そうだよね。じゃあ、普段はどこで過ごしてるの? 全然見かけないからずっと不思議なんだけど」
「教えない」
素っ気なく返すと、中岡は苦笑を見せ、もう用はないとばかりに背を向けて歩き去って行った。
仕方のない奴、と言われたような気がした。
それにしても、何故ここで屋上が出てくる。
もしやバレているのか。だったら何故とぼけるような言葉を続けたんだ。
考えてみても答えは出ない。何となれば、知っていてもおかしくはないような気もしてくる。
だとしたら尚のこと、何故、わざわざ、あんな思わせぶりな言い方をするのか。
薄気味悪さを背中に感じながら、先も己の目指す場所へと足早に向かっていった。
☆☆
そうこうしている内に時は過ぎ、十二時二十分。
四限の終了にして昼休み開始を告げるチャイムが鳴った。
沙紀は授業中の時点で校舎から抜け出し、校門近くの人目に付きづらい日陰で待機していた。
待ち構えていた、或いは来てほしくなかった時の到来を察し、
学校の立地が原因ではあるだろうが、この休み時間中に学校を抜け出して昼食を調達しに行く生徒はほとんどいない。大抵が弁当持参ということ、一階にある購買がそれなりに充実していること、最寄りのコンビニへ行くにしても片道で十分近くかかるので面倒ということが理由に挙げられる。コンビニ利用者も登校前に買い揃えているのが基本だ。
そのため、この時間帯の校舎近辺は、人の往来がほとんどゼロに等しい。
少なくとも、これから沙紀達がしでかす騒ぎを至近距離で目撃される、などという間抜けな事態は避けられる。
チャイムが鳴ってからほんの二分程度で、正面玄関から勢いよく飛び出してくる男子生徒の姿があった。よく見るまでもなく、風間だ。
彼は片手にスマホを持ちながら、できる限りの駆け足でこちらへ向かってくる。ある程度近付いたところで、沙紀は顔を出した。
「お、おつかれ、保科さん。うちの車は……」
「まだっぽいけど」
周囲を見渡す。後ろに校舎、目前に車道。右方向に行くと舗装が剥がれて土の道に変わり、何を育てているのかさっぱりわからない畑が悠然と広がる。左には見慣れた通学路、落葉松の防風林の向こうに宅地が続いている。高い建物がないだけに空は広く、雲一つない快晴が澄み渡る。
その景色のどこにも、軽トラックの影すら見えなかった。
風間は自身のスマホを弄り、恐らく協力者とやりとりしていたであろうメッセージの履歴を遡っていた。
「うーん、この時間に準備しておけるようにってお願いしてたんだけど……近くに待機してなかったのかな」
「っていうか、よくまあこっちの我が儘に合わせてくれたもんね。ほんとに大丈夫なの?」
「ああ、うん。今日の仕事は夕方からだからいいよって。うちの親もだけど、基本的にノリと勢いで行動してる事務所だから……」
それは中小規模だとしても会社としてますます大丈夫なのだろうか。
などと沙紀が一抹の不安に駆られていると、防風林側を見渡していた風間が「あ」と声を出した。釣られてそちらを見ると、一台の白い軽トラックがこちらに向けて走行していた。
十秒足らずで沙紀達の目の前まで肉薄する。風間が先導し、車道奥側を指差しながら腕をぐるぐる回す。意図を察したのか事前に打ち合わせていたのか、運転席の主は簡単な手振りでそれに応え徐行。程よいところでバックと同時に切り返し、正面の空き地に若干乗り出しつつも流麗に一八〇度回頭。ごとごとと車体を揺らして、今度こそ沙紀達の目の前に停車した。
運転席のドアが開き、中から屈強な体つきの男性が出てきた。浅黒く日焼けした肌、短く刈り込んだ髪。首元に巻かれたタオル、ネイビーのTシャツ、泥汚れの残る軍手。どう見ても工事現場から直行してきたガテン系のお兄さんといった風貌である。
軽トラの裏から回って、その人物はまず風間に
「やあ純一くん! ちょっと遅れたかな」
「まだ大丈夫ですよ、伊治さん。時間作ってくれてありがとうございます」
「いいよいいよ、暇だしお安いご用さ。──そちらがお友達かい?」
「あ、はい。保科沙紀さん、ボーカルです。保科さん、こちらが
「と、いう触れ込みのフリーターだ。よろしく」
「は、はじめまして。よろしくお願いします」
なけなしの社交辞令を発揮するが、声が小さくなってしまった。しかし伊治と呼ばれた男は満足そうに微笑んで、それからすぐに風間へ向き直る。
「早速だけど準備するよ。荷物は朝も確認したと思うけど、後ろに全部積んである。ラインも繋ぎっぱなしだ。ボリュームは昨日実験してたセットでいいんだよね?」
「はい。何回か試して大丈夫そうだったので、ハウリングは何とか防げると思います」
二人揃って軽トラの後部に回る。
後部の荷台には、深緑色の
伊治が車体左側の紐を
荷台の上は、これ以上ないほどにぎゅうぎゅう詰めだった。
決して狭くはないスペースの大半を占めているのは、大きな箱状の機械。一目で察するに、これが独立したポータブル発電機とかいうやつだ。
その横にそっと倒されている、細い脚付きの黒い箱。これは同型を風間邸の地下スタジオでも見たことがある。スピーカーだ。これが二基。
残りのスペースをパズルゲームのように穴埋めしているのが、恐らく主に風間が使う機材類だろう。どう見てもギターがすっぽり入るサイズのソフトケースに、薄い長方形のアタッシュケース。さらには地を這う蛇のような無数の黒いケーブル。
まず、伊治が荷台に登って発電機に触る。何か複雑な操作をする──でもなく、上面のスイッチを押すだけでエンジンがぶるりと身を震わせた。次いで大きな機材から順にスピーカー、アンプと電源スイッチを入れていく。
そこで伊治が声を上げた。
「純一くん! ここ、たぶん樹が邪魔で音が遮られる! こいつのスペックと配置じゃ校舎の上まで届かないぞ!」
「やっぱりか。わかりました、ちょっとだけ前に出せますか!?」
了解の声と同時に荷台から飛び降り、素早く運転席に戻る。慎重に、牛歩のような徐行運転で、軽トラが若干前に進んだ。一本桜の影から軽トラがはみ出ていく。
「樹が邪魔って……そんなに太い樹じゃないけど、これでも影響ってするの?」
「意外とね。空気の震えっていうのは伝わりやすいけど遮られやすくもある。この桜も幹だけじゃなく葉っぱが干渉して、音が向こうまで届いてくれない可能性がある。これだからPAさんには頭が上がらないんだよね……」
油断するとすぐ蘊蓄が出てくる。ともあれ風間は停車位置を決めた伊治にサムズアップを見せ、荷台に駆け寄って自分の機材を取り出し始めた。細長いソフトケースから昨日見た白黒のギターが出てくる。アタッシュケースは上蓋を外して、これまたぎゅう詰めにされている中身のスイッチペダルにケーブルを繋いでいく。その後ろで、伊治がスピーカー二脚を立たせ、音量のノブを慎重に回している。
沙紀はこれらセッティングの風景を半ば呆然と眺めていた。なんとも手際が良い。まるでこういう現場仕事に
機材類の準備が整うまでは二分とかからなかった。
荷台から下りた風間が、何か棒状の物を持って沙紀に近づいてくる。ケーブルに繋がった、掌に収まるサイズのそれは、
「保科さん、これ。撤収のことを考えてスタンドは持ってこなかった。申し訳ないけど、今日は手持ちでお願い」
「…………」
これも風間邸のスタジオにも備え付けられていた機材だ。
マイク。言わずもがな、ボーカル担当のための無二の武器。
手渡された重みが、まるでダンベルのように手首から肘、肩を中継して全身に伝わっていく。
油断していた。そうだ、自分は今日、この場で、もう間もなく、歌うのだ。
「シールドの長さは余裕持たせてるから、多少遊ばせても大丈夫。立ち位置は一本桜の真裏、この辺り。音響自体はあっちのスピーカーから出るし、多少は樹が目隠しになってくれる。僕は音源用PCとエフェクターを弄るからトラックの荷台側に寄る。少し離れるけど、歌い出しや引きのタイミングは合図するから──保科さん?」
重みの正体は、現実感だ。自分の荷物を放り投げたこの手に、考え得る中で最も重苦しい現実感が形を為して戻ってきた。部ではまったく使ったことがなかったというのに、その象徴性は実に雄弁で確固としている。
それを握る者の肩書き。
それを使う者の役割。
それを持つということの意味。
プラスチックと電子基板の塊でしかないというのに、まるで宗教的儀式に用いる祭具のような神秘性すら沙紀には感じられた。絶対に落としたり粗末にしてはいけない貴重品を預けられている感覚だ。
この場においてこれを持つということ、それ自体が重い意味を持つ。
決して失敗できない時が来たのだ。
だというのに、自分は。昨日一昨日までの出来映えは。長過ぎた空白の影響は。
今のままじゃ、絶対に────、
「保科さん」
遠くなりかけた意識に、声が
見上げると、風間がこちらの肩に手を置いて、まっすぐに目線を合わせていた。目元を隠す前髪の奥、細剣のような鋭さを発揮する眼が、じっと沙紀を見ている。
ぼやけていた焦点が、急速に絞られていく。
そして、沙紀への呼びかけに続けて、風間は言った。
いつの間にか後ろ手に持っていた紙袋を、沙紀の目の前で開けながら。
「これ、さっき伊治さんから渡されたんだ。始める直前に着けろって」
「…………着ける?」
「ごめん。本当にごめん。でも必要なことではあるんだ」
中から取り出したるは、蝶が羽を広げたような横長のグッズだった。
紫紺の地に安っぽい金モールの縁取り、隙間を埋め尽くすかのように散りばめた膨大で下品なラメ。左右の端にゴム紐がくっついている。
マスクだ。良く言えば仮面舞踏会、直球で言うならむしろアダルトでSとMな店で御用達な、どう見ても悪ふざけの品だった。
同じものが二つ、紙袋に入っていた。その一つを、本当に申し訳なさそうに風間が差し出してくる。併せて同封されていたメモ紙を開き、中身を読み上げた。
「えーと……”時の青春、大いに結構。我が社のためにも身バレは極力避けるべし。”……父さん、っていうかうちの社長からの伝言、です。顔が割れて事務所が関わってるって知られると面倒ってことらしい」
「…………」
好意的に解釈するのであれば、今回ここに揃えられた機材は全て風間家の事業から提供されているということ、ゲリラライブは学校には無許可であること、つまり迷惑行為に片棒を担いだ事務所であると万が一にもバレないように顔を隠せ、という意図があるのだろう。
だから、これを着用して、歌えということだ。
明らかに面白がられている。顔を隠すだけならもっと地味な奴でもよかっただろうに何だこのふざけたチョイスは。しかし言外の意図を何となく察することもできるだけに、手放しに反発もしにくい。なにしろ今回の風間の計画はこの機材提供なくして実現しなかったことだ。もしやこれはレンタル料に含まれるとでもいうのだろうか。
顔も知らない風間の父に対する好感度が下がるのを感じていると、風間が顔色を窺うようにこちらを覗き込んでくる。
「あの、言い訳じゃないけど、こんなもの用意されてるなんて本当にさっきまで知らなくて……」
「いや、っていうか、バンドの勧誘ってここまでやらないと本当に集まらないのかなって」
「うん……。い、いや! まだ正気に戻っちゃ駄目だ保科さん! これも万が一を避けるためだから!」
ほぼ目撃者が生じる心配はないだろうが、念を入れるための名目でこんな物を着ける連中に正気も狂気もあるものだろうか。
急激に膨らんだかと思えば急激にガスが抜けていくような落差を味わう沙紀に対して、風間は無遠慮にも肩を掴んできた。不意の衝撃に少し身体が強張る。
まっすぐに目を見ながら、風間は言う。
「保科さん。この何日かで、僕は保科さんのリハビリをずっと見てたし、聞いてきた。その上で、今なら充分歌えると確信した。たぶん保科さんは自分でわかってないかもしれないけど、傍でずっと聞いていた僕がこんな強硬策をやるって決断できるぐらいなんだよ。だから大丈夫。やれるよ」
「……でも、ウォーミングアップもあんまりできなかったし、正直全然仕上げられなかったし。こんなの絶対ミスるよ」
「もちろん。ミスは絶対に起こる。どんなベテランでも本番では必ずどこかで失敗する。僕だって肝心なところでやらかすかもしれない。ゲリラライブなんて、僕も初めてだから」
そう言う風間の手は、確かに少し震えていた。肩に伝わるそれが、少なくとも人前で楽器を演奏する経験をしてきた人間の正直な心境なのだと、沙紀は思う。
だけど、と言う。
「持ち時間は短いし、壇上ですらないけど、ひとまずこれが僕らの初ステージだ。覚えてる? 僕らは、ステージに上がったんだ。だから、ここが、世界の中心だ」
突飛なことを言い出す。しかし本人は至って真面目に続ける。
ステージに上がったら、自分は世界一上手いと思え。ステージを下りたら、自分が世界一下手だと思え。
偉大な先人の言葉。迷う後輩に向けての導きか、酔っ払いの口八丁かは沙紀にはわからない。だがその真意は、きっと自らにも向けた喚起であったはずだ。
細かいことを気にするな。そういうことなのだろう。
「
その表情は、勇気づけるための快活な笑顔でも、重圧に負けそうな引き攣った強張りでもなく。
これから起こることへの期待、畏れ、或いはそれら全てを溶かして混ぜ込んだ、風間純一自身の緊張が現れていた。
口から出てくる科白は、常の弱気を感じさせないものではあった。だが実際のところ、沙紀に気遣っている余裕もそれほど残されていないのだと、口ほどに眼が語っていた。
彼も必死だ。だから自分に言い聞かせている言葉でもあるのだろう。
そう思うと、少し、緩んだ。
いや、
風間の目の前で、大きく息を吸う。少し顔を俯かせ、肺と腹の収縮を感じながら息を吐く。
長く、長く。ブレスは細くも十秒近く続いた。
照りつける太陽、たまに吹く風、校舎から漏れてくる喧噪、音楽機材を満載した軽トラック。自分が置かれている環境が今更のように流れ込んでくる。
肩に乗った風間の手をゆっくりと退けて、沙紀は片手にマイクを持ちながらおもむろにラバーマスクを被った。
「……
沙紀の返事に、風間はやや間を持ってから、はっきりと頷いた。
「うん。やろう、保科さん」
☆☆
準備完了。
そうして、各々が配置に着いた。
校舎側から隠れるようにして立つ沙紀。少し離れた軽トラの荷台側に風間。そのすぐ後ろでいつでも機材に飛びかかれるよう構える伊治。
じっとりと滲む手汗が、上がる体温がマイクを暖めていく。断じて平静とはいかない。そう簡単に精神が鎮まるなら人生苦労しない。だが、頭の芯に細い氷が差し込むような、熱くはあれど中心は冷ややかな、不思議な感覚だった。この場にいる三分の二が奇妙な仮面で顔を隠しているせいもあるかもしれない。
正面を見据えている必要はない。どうせ誰も見ていやしない。合図を見逃さないよう、風間の方に向き直る。エレキギターを背負い直した風間は、まるでいつもそうしているかのように弦を押さえつつ、ボーカルとギター以外のパートを再生する音源用ノートパソコンを手早く操作した。
ふと、視線がこちらを伺う。左手でOKサインを見せてくる。
沙紀が、それに頷く。
風間もそれに力強く頷き、右手が音高くエンターキーを叩く。
スピーカーから漏れるホワイトノイズが少し強まる。
風間がギターを構え直す。
沙紀は右手のマイクを口前に、左手を胃より少し下に当てた。
そして、
音が、学校を叩く。