黒神話:悟空 4章をやってて、猪八戒と紫蛛児が報われなさすぎて自分で二次創作することにしました。
舞台は現代日本です。
抵抗ない方はどうぞ。

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第1話

 

 

春の雨は、どこか懐かしい匂いがする。

 

雲野紫乃は、駅前の信号で立ち止まりながらそう思った。

 

濡れたアスファルトから立ち上る湿った空気。遠くで鳴る電車の音。傘の下で人々が行き交うざわめき。すべてがいつもの街のはずなのに、雨の日だけはなぜか胸の奥が静かに揺れる。

 

理由は分からない。

 

ただ、雨の日にはいつも同じ感覚があった。

 

——誰かを待っているような気がする。

 

紫乃は自分でも可笑しくなって、小さく笑った。

待っている相手なんていないのに。

 

信号が青に変わり、人の流れが動き出す。

 

彼女は駅前の裏通りへ曲がった。

そこには、何度も通っているのに、入ったことのない小さな古書店がある。

 

「紫苑堂」

 

古い木の看板にそう書かれていた。

 

店の前を通るたび、なぜか足が止まりそうになる。

懐かしい匂いがする場所だと思う。

 

でも、自分はここに来たことがない。

 

今日も、店の前で立ち止まった。

 

雨粒が軒から落ちる音がする。

 

紫乃はガラス越しに店内を見た。

暗い棚、紙の匂い、奥で新聞を読む白髪の店主。

 

そして——

 

棚の前に立つ、一人の男。

 

その背中を見た瞬間、胸が強く鳴った。

 

知らない人だ。

 

見たこともない。

 

それなのに。

 

どうしてだろう。

 

——振り返らない気がする。

 

理由のない確信だった。

 

彼はきっと、このまま振り返らない。

 

だから紫乃は、なぜか急に焦った。

 

何かを逃してしまう気がした。

 

自分でも理由が分からないまま、扉を押した。

 

頭上の小さなベルが鳴った。

 

店内には紙と木と、わずかに焙煎したコーヒーのような匂いがした。奥に小さなカウンターがあり、クラシックでもジャズでもない、聞いたことのない古いインストゥルメンタルが低く流れていた。

 

紫乃は傘をたたみ、入口脇の傘立てに差す。濡れた前髪を指で払って、棚の間をゆっくり歩き始めた。

 

男は本棚の上段に手を伸ばしていた。

振り返らない。

 

紫乃は、その背中をしばらく見ていた。

 

ただ本を探しているだけの、どこにでもある光景のはずだった。

それなのに、胸の奥がざわつく。

 

呼んだらどうなるだろう。

 

そんな考えがふいに浮かぶ。

 

もし今、声をかけたら。

この人は振り返るのだろうか。

 

それとも——

 

やっぱり振り返らないのだろうか。

 

紫乃は一歩だけ近づき、立ち止まった。

 

自分でもなぜそんなことを考えるのか分からない。ただ、もしこのまま通り過ぎたら、もう二度と会えないような気がした。

 

けれど結局、声は出なかった。

 

代わりに彼女は静かに棚の間を歩き、男の後ろを通り過ぎる。

 

文芸、歴史、美術、エッセイ。整然と並んでいるのに、どこか雑然としていて、けれど落ち着く。彼女は昔から、本を買うのは好きだった。読む速度はそれほど速くないくせに、紙の束を手に取ると安心した。誰かの時間や感情がきちんと綴じられているものに触れるのが好きだった。

 

店のいちばん奥、窓際に近い棚で、一冊の古い詩集に手を伸ばしたときだった。

 

「すみません」

 

すぐ後ろから声がした。

 

思っていたより低くて、やわらかい声だった。

紫乃は少し肩を跳ねさせて振り返る。

 

男が立っていた。

 

二十代後半か三十代前半くらい。身長は高めで、濃いグレーのコートを着ている。雨に濡れた前髪が少し額に落ちていて、腕にはコンビニの透明なビニール傘を抱えていた。整った顔立ちなのに、不思議と作り込みすぎた印象がない。どこにでもいそうで、どこにでもはいないような、妙に目を引く人だった。

 

「そこ、取りたい本があって」

 

「あっ、すみません」

 

紫乃はあわてて半歩下がった。

 

男は「いえ」と軽く頭を下げ、彼女の肩越しに手を伸ばす。細長い指先が、棚の端にあった分厚い本の背を引いた。だが思ったよりもきつく詰まっていたのか、少しバランスを崩しかける。

 

反射的に、紫乃はその腕を支えた。

 

ほんの一瞬、コート越しに触れただけなのに。

 

胸の奥が、ひどくざわついた。

 

手が、糸に触れたみたいにしびれる。

 

男も同じように息を止めた気がした。

彼は本を抜き取るのを忘れたまま、ゆっくりと紫乃を見た。

 

初対面のはずなのに、その目を知っている気がした。

 

どこで見たのだろう。

いつ見たのだろう。

思い出せない。なのに、ひどく懐かしい。

 

男はようやく本を腕に抱え直し、「ありがとうございます」と言った。声が少しかすれていた。

 

「……こちらこそ」

 

何に対してのこちらこそなのか、自分でも分からなかった。

 

沈黙が落ちる。

 

古書店の静けさの中で、雨音だけが遠く聞こえる。

 

「あの」

 

と、男が言った。

「前にも、会ったことありましたっけ」

 

それを聞いて、紫乃は妙にほっとした。

 

自分だけじゃなかったのだ。

 

「私も、今それを思ってました」

 

男は少し笑った。

「でも、たぶんないですよね」

 

「たぶん」

 

「ですよね」

 

なのに、ふたりともそこから動かなかった。

 

老人が新聞をめくる音。換気扇の小さな唸り。窓ガラスを流れる雨筋。時間がゆっくり粘りつくみたいに伸びていく。

 

男が手に取った本の表紙を見て、紫乃は言った。

 

「昆虫図鑑、好きなんですか」

 

「あ、これですか」

 

男は少し照れたように本を見下ろす。

「好きというか……仕事で使うことがあって」

 

「仕事?」

 

「小学校の理科教材つくってるんです。出版社で」

 

「へえ」

 

「蜘蛛のページを直してて。ちょうど資料を探してました」

 

蜘蛛。

 

なぜだか、その言葉に心が揺れた。

怖いわけではない。むしろ逆だった。糸、巣、細い脚、朝露を含んだ網。そういうもののイメージが、一瞬だけ胸の奥で光った。

 

紫乃は首を傾げる。

自分は蜘蛛が特別好きだっただろうか。

 

「苦手でした?」

 

と男が聞く。

 

「いえ、別に。なんか……懐かしい響きだなって」

 

男の表情がふっと変わる。

 

自分でも理由が分からないような顔で、彼は小さく頷いた。

 

「分かります」

 

その一言が、どうしようもなくやさしかった。

 

結局その日、ふたりは店の前で一緒に雨宿りをした。

店を出る頃には雨足が強くなっていて、ロータリーまで走るには少しきつい降りだったのだ。

 

男の名は猪瀬といった。

猪瀬 八尋。出版社勤務、三十一歳。一人暮らし。カフェインに弱いくせにコーヒーの匂いが好き。辛いものは苦手。休みの日は、特に用がなければ近所をぶらぶら歩いて本屋に入る。

 

紫乃は二十八歳。広告代理店でデザイナーをしている。締切前は生活が荒れる。昔から布や糸の質感を見るのが好きで、趣味で小さな織物教室に通っている。麺類ならだいたい好き。雨の日は少し機嫌がいい。

 

話してみると、驚くほど自然だった。

 

初対面の相手にする会話ではない。かといって、昔からの友人の会話でもない。もっと、その間のどこか。まだ名前のついていない関係の、最初の温度だった。

 

別れ際、猪瀬は傘を開きながら言った。

 

「また、あの店に行けば会えますかね」

 

紫乃は笑った。

「待ち合わせしないんですか」

 

「それもそうですね」

 

「じゃあ、連絡先交換しましょう」

 

自分からそう言ったことに、少し驚いた。

けれど後悔はなかった。

 

猪瀬も驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。

「はい。ぜひ」

 

画面を差し出す指先が、少しだけ震えていた。

 

 

それから、ふたりは何度も会った。

 

最初は古書店の帰りに夕飯を食べるくらいだった。

駅前の定食屋。路地裏の餃子屋。少し離れた川沿いのカフェ。気負わない店ばかりだったのに、どこで何を食べても不思議と楽しかった。

 

猪瀬はよく食べる人だった。がつがつしているわけではなく、きちんと味わって、きちんと「おいしい」と言う。紫乃はそれが好きだった。食べものを大事にする人には、どこか安心できる。

 

一方の猪瀬は、紫乃が糸や布を見るときの目が好きだった。

雑貨屋の棚に並ぶ手織りのコースターでも、古着屋にかかったリネンのワンピースでも、彼女はまるで誰かの心に触れるみたいに、そっと指先で確かめる。

 

「なんでそんなに布が好きなんですか」

 

ある日、川沿いを歩きながら猪瀬が聞いた。

 

夕方で、川面は薄い金色に光っていた。風が強く、紫乃のスカートの裾が揺れる。橋の下を電車が通るたび、水面に細かい波紋が広がった。

 

紫乃は少し考えてから答えた。

 

「分からないです。昔からなんですけど……糸が一本ずつ重なって布になるの、見てると落ち着くんです」

 

「織物教室、楽しいですか」

 

「楽しいです。無心になれるし」

 

「向いてそう」

 

「そうですか?」

 

「うん。丁寧だから」

 

紫乃は笑った。

「そんなことないですよ。会社では全然余裕ないし」

 

「でも、あるでしょう。紫乃さんの中に、ゆっくり糸をたぐるみたいな部分」

 

その言い方に、また胸が不意に温かくなった。

 

糸をたぐる。

 

なぜか、その表現は、彼の口から出るべきだったような気がした。

 

「猪瀬さんは」

 

紫乃は前を向いたまま聞いた。

「なんで、あんなに蜘蛛の資料探してたんですか」

 

「ああ」

 

猪瀬は困ったように笑う。

「実は、子どもの頃から蜘蛛に変な親近感があるんです」

 

「親近感」

 

「怖くはないんです。むしろ見てると落ち着くというか」

 

「分かるかも」

 

「本当ですか」

 

「ええ。私も、なんかそうです」

 

そこでふたりは顔を見合わせた。

そして、なぜか同時に笑ってしまった。

 

似ている。

 

たぶん、そういうことが多すぎた。

 

好きなものが同じ、というのとは少し違う。

もっと、輪郭の曖昧な好みや癖の部分で、ふたりは妙に重なった。

 

たとえば、猪瀬は月を見ると黙る癖があった。

紫乃もそうだった。

 

たとえば、紫乃は知らない町に行くと、まず高いところではなく水辺を探した。

猪瀬も同じだった。

 

たとえば、ふたりとも、誰かに強く引き止められるのが苦手だった。

好きな相手なら、なおさら。

 

「昔から、そうなんです」

 

猪瀬はある夜、居酒屋の帰り道に言った。

「大事な人ほど、巻き込みたくないって思う」

 

紫乃は歩みを少し緩めた。

 

商店街のアーケードを抜けた先、夜風が少し冷たかった。閉店した花屋の前にバケツが並び、排水溝の上に落ちた花びらが水を含んでいた。

 

「優しいんですね」

 

「いや、たぶん違います」

 

猪瀬は苦く笑った。

「勝手なんですよ。自分で抱え込んで、自分だけで何とかした気になる」

 

「でも、そういう人いますよね」

 

「います?」

 

「います。私もたぶん、少しそうだから」

 

猪瀬は足を止めた。

 

「紫乃さんも?」

 

「うん。好きな人ほど、ちゃんと頼れない気がする」

 

街灯の光が彼女の横顔に落ちる。

猪瀬は何か言おうとして、やめた。

 

その沈黙が、なぜか胸に残った。

 

 

ふたりが初めて手をつないだのは、六月の終わりだった。

 

梅雨の晴れ間で、空だけがやけに高い日だった。

紫乃の織物教室の帰りに待ち合わせて、少し遠い神社まで散歩した。住宅街の坂を上った先にある、小さな神社。観光地ではないから人も少なく、古い楠が一本、境内の真ん中に立っていた。

 

紫乃は楠の根元に落ちていた細い枝を拾って、意味もなく地面に線を引いていた。猪瀬は賽銭箱の前で軽く手を合わせてから、彼女のほうへ戻ってくる。

 

「何お願いしたんですか」

 

「内緒です」

 

「じゃあ私も聞かない」

 

「紫乃さんは?」

 

「お願いしてないです」

 

「しないんだ」

 

「なんか、願うより自分で何とかしたいタイプで」

 

「分かる」

 

猪瀬が笑う。

その笑い方が好きだと、紫乃はそのときはっきり思った。

 

静かな風が吹いた。

楠の葉がざわざわと鳴る。木漏れ日が揺れて、彼の肩や手の甲に斑に落ちる。

 

「……猪瀬さん」

 

「はい」

 

「前から思ってたんですけど」

 

「うん」

 

「あなたといると、懐かしいです」

 

言ってしまってから、顔が熱くなった。

重いと思われるだろうか。曖昧すぎるだろうか。

 

けれど猪瀬は、少しも笑わなかった。

 

ただ、困ったように、それでもうれしそうに目を細めた。

 

「僕もです」

 

それだけだった。

 

それだけなのに、紫乃は泣きそうになった。

 

猪瀬がそっと手を差し出す。

確かめるみたいに、ためらいながら。

 

紫乃はその手を見た。大きくて、節のある指。仕事で紙をたくさん触る人の、乾いた清潔な手。

 

どこかで何度も見た気がした。

どこかで何度も、この手を待っていた気がした。

 

彼女は自分の手を重ねた。

 

触れた瞬間、懐かしさが胸いっぱいに広がる。

 

恋に落ちる、というより、長い間迷子だったものがようやく居場所を見つける感覚に近かった。

 

「……変ですね」

 

紫乃が呟く。

 

「何がですか」

 

「初めてなのに」

 

猪瀬は彼女の指を包み、少しだけ力を込めた。

 

「初めてじゃないみたいですよね」

 

その日から、ふたりは恋人になった。

 

 

恋人になってからも、劇的なことは何も起きなかった。

 

ただ、日々が少しずつやわらかくなっていった。

 

朝、通勤途中に「眠い」とだけ送られてくるメッセージ。

昼休みに見つけた猫の写真。

夜、仕事が遅くなったときの「駅まで迎えに行くよ」。

コンビニでアイスを買って半分ずつ食べること。

休日に洗濯物を干しながら、どちらともなく鼻歌を歌うこと。

帰り道、なんでもない話をしながら遠回りをすること。

 

紫乃は、自分がこんなふうに誰かと穏やかにいられるとは思っていなかった。

 

恋愛はもう少し苦しいものだと思っていた。

気を遣って、駆け引きをして、不安になって、言えないことが増えていくものだと。

 

けれど猪瀬といると、無理がいらない。

黙っていても気まずくない。

自分を大きく見せなくていい。

一人で抱え込もうとしたときだけ、彼は静かに見抜いてしまう。

 

ある秋の日、紫乃は仕事で大きなミスをしてひどく落ち込んでいた。得意先へのデータ入稿に小さな不備があり、直接の損害はなかったものの、上司にも先方にも謝り倒して神経が擦り切れていた。

 

夜十一時を過ぎて会社を出ると、猪瀬が駅前のベンチに座っていた。

 

「なんでいるの」

 

思わず笑うと、猪瀬は立ち上がって言った。

「迎え」

 

「連絡してないのに」

 

「なんとなく」

 

紫乃はその言い方に目を細めた。

 

「なんとなく、で来たの?」

 

「うん」

 

「当たってるの怖い」

 

「外れてたらコーヒー飲んで帰るつもりでした」

 

そう言って、彼は自販機で買ったあたたかいミルクティーを差し出した。

紫乃は受け取って、缶の熱を両手で包む。

 

ふいに涙が出そうになった。

 

大丈夫、と言いかけてやめる。

そんな嘘はいらないと思った。

 

「……今日、すごく疲れた」

 

「うん」

 

「ちょっと自分のこと嫌になった」

 

「うん」

 

「なんでこうなんだろうって思った」

 

猪瀬は何も急いで励まさなかった。

ただ隣に立って、彼女が言葉を落とすのを待った。

 

「でも」

 

紫乃は鼻をすすりながら笑う。

「迎えに来てくれて、ちょっと救われました」

 

猪瀬はしばらく黙っていた。

それから、やっと言った。

 

「よかった」

 

その声はかすかに震えていた。

 

まるで、自分が救われたみたいな声だった。

 

 

冬が来る頃には、ふたりは半分同棲のような生活になっていた。

 

どちらの家に泊まるかを厳密に決めることもなく、気づけば着替えや歯ブラシが両方の家に増えていった。紫乃の家には猪瀬のマグカップがあり、猪瀬の家には紫乃のスリッパがある。

 

猪瀬は料理が意外とうまかった。

特に豚汁が得意で、冷蔵庫の残り野菜を勝手に全部刻んで、大きな鍋でどっさり作る。

 

「なんでそんなに根菜の切り方うまいの」

 

紫乃が感心すると、彼は自分でも不思議そうに首を傾げた。

 

「分からない。昔から、こういうの得意なんです」

 

「前世、農家だったのかも」

 

冗談で言うと、猪瀬はなぜか一瞬だけ黙った。

それから、肩をすくめて笑う。

 

「ありえるかもしれない」

 

紫乃は食卓の向こうで、その横顔を見つめた。

 

本当に、何度もそういう瞬間がある。

 

冗談のはずなのに、妙に冗談に聞こえない瞬間。

 

昔から知っていたような手つき。

初めて見るのに懐かしい表情。

どこにも行っていないはずなのに、ふたりで通るとなぜか胸が締めつけられる道。

 

一度だけ、紫乃は猪瀬に聞いたことがある。

 

「ねえ、私たちって前に会ってたと思う?」

 

たぶん映画を見た帰りだった。

冬の川沿いを歩きながら、吐く息が白かった。

 

猪瀬は少し考えたあとで言った。

 

「会ってた、とは思わないです」

 

「思わないんだ」

 

「でも」

 

彼は夜の水面を見たまま続けた。

 

「会うことになってた、とは思う」

 

その答えが、なぜか妙にしっくりきた。

 

 

春になる前、猪瀬の母親が倒れた。

 

命に別状はなかったが、しばらく入院とリハビリが必要になった。猪瀬は仕事の合間に実家と病院を往復するようになり、少しずつ疲れていった。

 

彼は大丈夫だと言った。

いつものように穏やかに笑って、問題ないと、ひとりで抱えようとした。

 

紫乃はそれが分かったから、あえて強くは言わなかった。

 

代わりに、彼の家の冷蔵庫に作り置きを詰めた。

洗濯物を畳んだ。

何も言わずに隣に座った。

彼が遅く帰ってきた日は、湯を張っておいた。

 

ある夜、ようやく少し時間ができて、ふたりで静かな夕飯を食べていたとき、八坂がぽつりと言った。

 

「なんでそんなに普通にいてくれるんですか」

 

紫乃は味噌汁の椀を置いた。

 

「普通?」

 

「気を遣いすぎないし、踏み込みすぎないし。でも、ちゃんといてくれる」

 

「それ、だめですか」

 

「だめじゃないです」

 

彼は笑った。けれどその笑いは少しだけ泣きそうだった。

「ありがたいです。……すごく」

 

紫乃はしばらく考えて、それから言った。

 

「たぶん私、待つの平気なんです」

 

「待つの」

 

「うん。好きな人のこと」

 

なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。

 

ただ、その言葉は自分の中の深い場所から自然に出てきた。

待つこと。帰りを待つこと。相手の気持ちが整うのを待つこと。言葉にならないものが形になるのを待つこと。

 

苦ではない。

たぶんずっと昔から、そういうふうに誰かを好きだった。

 

猪瀬は箸を置いた。

 

「……それ、反則です」

 

「なんで」

 

「そんなこと言われたら、もう何も隠せない」

 

彼は目元を押さえて、少しだけ息を整えた。

そして、静かに言った。

 

「正直、怖かったです」

 

紫乃は黙って聞く。

 

「幸せになるのが」

 

その一言に、胸が詰まった。

 

「近くにいる人ほど、いつか自分のせいで傷つく気がしてた。だから、好きになるほど、少し離れなきゃって思ってた」

 

紫乃はゆっくり首を振った。

 

「でも私は、離されたくないよ」

 

猪瀬が顔を上げる。

 

「一人で決めないで」

 

「……うん」

 

「私は、あなたのそばにいたい。面倒でも、しんどくても、ちゃんと一緒にいたい」

 

沈黙のあと、猪瀬は目を伏せて笑った。

「かなわないな」

 

「何がですか」

 

「ずっと、誰かを守る側でいたかったのに」

 

「守られてばっかりでも困る」

 

「そうですね」

 

彼は手を伸ばし、食卓の上で紫乃の指先に触れた。

その手のぬくもりは、最初に触れたあの日と同じだった。

 

懐かしくて、でも今ここにある確かな熱だった。

 

 

初めてふたりが大きく喧嘩したのは、その少しあとだった。

 

きっかけは小さなことだった。

彼がまた無理をしていたのに、それを紫乃に言わなかった。母親の退院後の手続きや実家の片付け、仕事の繁忙期が重なり、彼は明らかに限界に近かったのに、平気な顔をしていた。

 

紫乃がそれに気づいたのは、彼が台所で皿を洗いながらふいにふらついたときだった。

 

「もういいから休んで」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫じゃないでしょ」

 

「本当に平気だから」

 

「そうやって、また一人で抱えるのやめてよ」

 

声が強くなる。

猪瀬も疲れていた。

 

「抱えてない」

 

「抱えてるよ」

 

「紫乃さんにこれ以上負担かけたくないだけです」

 

「それを勝手に決めないでって言ってるの!」

 

思ったより大きな声が出た。

 

しんと静まった台所で、水道の水だけが流れ続ける。

 

猪瀬はしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。

それから蛇口を閉め、濡れた手をタオルで拭きながら言った。

 

「……ごめん」

 

その言い方が、紫乃には一番こたえた。

 

謝ってほしいわけじゃなかった。

引いてほしいわけでもない。

 

ただ、ちゃんと頼ってほしかった。

 

紫乃は唇を噛んで、コートを掴んだ。

 

「今日は帰る」

 

「送る」

 

「いい」

 

玄関まで行く。

靴を履こうとして、指先が震える。

 

背中越しに猪瀬の気配を感じる。けれど彼は何も言わなかった。

引き止めようとして、やめたのが分かる。

 

そのことがまた苦しくて、紫乃は勢いよく扉を開けた。

冷たい夜気が頬に当たる。

 

「……紫乃さん」

 

最後に呼ばれて、彼女は立ち止まった。

 

振り返ることができない。

振り返ったら、たぶん泣く。

 

彼の声は、ひどく静かだった。

 

「ちゃんと話したい」

 

それだけだった。

 

紫乃は何も言えず、そのままエレベーターに乗った。

 

帰り道、涙が止まらなかった。

 

怒っていた。

悲しかった。

でも、それ以上に、どうしてあんなにも「背中を向けられること」が怖いのか、自分でも分からなかった。

 

ただ、置いていかれるような気がした。

何か大切な瞬間に、また間に合わない気がした。

 

家に帰っても眠れず、ソファに座ったまま朝方までぼんやりしていた。

カーテンの隙間から白い光が差し始めた頃、スマホが震えた。

 

猪瀬からだった。

 

『家の前にいます』

 

紫乃は呆れて笑ってしまった。

 

インターホン越しにでもよかったのに。

連絡だけでもよかったのに。

本当にこの人は、肝心なところで不器用だ。

 

玄関を開けると、猪瀬が立っていた。

 

昨夜と同じ服で、少しだけ疲れた顔をしている。手にはコンビニの袋。中にホットサンドとカフェラテが入っているのが見えた。

 

「朝ごはん、買ってきました」

 

紫乃は泣き笑いみたいな顔になった。

「そういうとこだよ」

 

「はい」

 

「そういうとこ、ずるい」

 

「……すみません」

 

「謝らないで」

 

彼女は息を吸って、吐いた。

そして、ようやく彼の顔をちゃんと見た。

 

「入って」

 

部屋に上がると、ふたりはしばらく無言で食卓に向かい合った。

買ってきたホットサンドを半分に切り、湯を沸かし直してコーヒーを淹れる。いつもならなんでもない動作が、今日は少しぎこちない。

 

先に口を開いたのは猪瀬だった。

 

「昨日、ごめんなさい」

 

紫乃は黙って首を振る。

「私も怒鳴ってごめん」

 

「でも、怒って当然でした」

 

彼はカップを両手で包み、少し目を落とした。

 

「……僕、頼るのが下手です」

 

「知ってる」

 

「紫乃さんが近い存在になるほど、余計に」

 

「うん」

 

「本当は、しんどかった。ずっと」

 

その一言を聞いた瞬間、紫乃は肩の力が抜けるのを感じた。

やっと言ってくれた。やっと、本当にこっちを見てくれた。

 

猪瀬は苦く笑った。

 

「でも、言ったら弱くなる気がしてた」

 

「弱くなっていいじゃん」

 

「そうですよね」

 

「私の前では」

 

猪瀬はそこで顔を上げた。

紫乃はまっすぐ彼を見返す。

 

「私の前では、強くなくていい」

 

その言葉に、彼の目がわずかに揺れた。

そして本当に、小さな子どもみたいな顔で笑った。

 

「……それ、覚えておきます」

 

「忘れないで」

 

「うん」

 

紫乃は少し迷ってから、食卓の上に手を置いた。

猪瀬はその手に自分の手を重ねる。

 

指先が触れ合った瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。

 

前世の記憶なんてない。

何があったのかも知らない。

けれど今だけは、たしかに思う。

 

この人とは、ちゃんと話して、ちゃんと隣にいて、もう背中を向けたまま終わらせたくない。

 

それだけで十分だった。

 

 

その年の初夏、猪瀬は紫乃に言った。

 

「一緒に住みませんか」

 

土曜の昼、スーパーで買い物をして帰ってきたところだった。

レジ袋には豆腐、長ねぎ、豚こま、トマト、アイス、洗剤。生活感しかない中で、あまりにも自然に言われたので、紫乃は一瞬意味が入ってこなかった。

 

「……今なんて」

 

「一緒に住みませんか」

 

「もう一回言わなくていい」

 

「はい」

 

「え、ちょっと待って」

 

玄関で靴を脱ぎながら、紫乃は彼を振り返る。

猪瀬は少し緊張した顔をしていた。

 

「ちゃんと考えて言ってる?」

 

「考えてます」

 

「勢いじゃなく?」

 

「勢いならもっとかっこつけた場所で言います」

 

紫乃は笑ってしまった。

「たしかに」

 

「でも、本気です」

 

彼は袋を床に置いて、まっすぐ言った。

 

「毎日一緒にいたい。帰る場所を同じにしたい。しんどいときも、うれしいときも、ちゃんと隣にいてほしい」

 

紫乃は少し黙った。

胸の奥に、あたたかいものが満ちていく。

 

怖くないわけではない。

人生を重ねるというのは、やっぱり責任だ。きれいごとだけでは続かない。相手の生活を知り、自分の生活も晒していくことになる。

 

でも、それでも。

 

「……うん」

 

気づけばそう言っていた。

 

「住みたい」

 

猪瀬の表情がほどける。

その顔を見ているだけで、これでよかったと思えた。

 

新しい部屋は、川に近い場所にした。

二LDKの小さなマンションで、南向きのベランダがある。築年数は少し古いが、日当たりがよく、近くに商店街があり、歩いて十分のところに小さな神社もある。

 

引っ越しの日、荷ほどきをしながら紫乃はベランダに出た。

六月の風がカーテンを揺らし、遠くで子どもの声がする。

 

猪瀬が後ろから箱を抱えてやってくる。

 

「何見てるんですか」

 

「なんか」

 

紫乃は空を見上げた。

細い雲が流れていく。どこまでも普通の、ありふれた午後だった。

 

「やっと帰ってきた気がする」

 

言ったあとで、自分でも不思議だった。

ここは初めて住む部屋だ。生まれ育った町でもない。何ひとつ、帰ってくる理由なんてない。

 

でも猪瀬は、少しも笑わずに隣へ立った。

 

「僕もです」

 

その横顔に、紫乃はそっと額を寄せた。

 

 

結婚したのは、その翌年の秋だった。

 

盛大な式は挙げなかった。

親しい家族と友人だけを呼んで、小さなレストランを貸し切った。白い花を少しだけ飾り、あとはおいしい料理とワインがあれば十分だった。

 

紫乃は織物教室の先生に頼んで、受付のテーブルに敷く小さな布を自分で織った。生成りの地に、細い紫の糸を控えめに走らせた布だった。

 

「紫乃らしいね」と母が言い、

「これ売れそう」と友人が笑い、

「ずっと持ってたい」と八尋が真顔で言った。

 

披露宴というほどでもない食事会の終わり、司会役の友人に促されて、八尋が短い挨拶をした。

 

人前で話すのはあまり得意ではないくせに、彼は驚くほど落ち着いていた。

 

「紫乃さんと出会ってから、毎日が少しずつやさしくなりました」

 

その言葉に、会場のあちこちであたたかい笑いが起きる。

 

「正直、僕は長い間、誰かと一緒に生きることに向いていないと思っていました。大事な人ほど遠ざけてしまうところがあるからです。でも、紫乃さんは待ってくれました。引き止めるだけじゃなくて、ちゃんと隣で」

 

紫乃は俯いて笑った。

泣かないつもりだったのに、もう危なかった。

 

「懐かしい人だと思いました。初めて会ったときから、ずっと」

 

会場が少し静かになる。

けれど彼は照れずに続けた。

 

「その意味は、今でもよく分かりません。でも、たぶん理由なんてなくていいんだと思います。出会えたことがうれしくて、今こうして一緒にいられるなら、それで十分です」

 

それから彼は紫乃のほうを向いた。

 

「これから先も、なるべくちゃんと話します。勝手に一人で抱え込まないようにします。だから、どうかこれからも隣にいてください」

 

紫乃は涙を拭いながら笑った。

「はい」

 

たったそれだけを返すのに、声が震えた。

 

 

結婚して三年目の春、ふたりは海の近い町へ旅行に行った。

 

大きな観光地ではない。電車を何度か乗り継いで行く、静かな港町だった。駅前に古びた旅館があり、堤防では釣り人が糸を垂れ、昼過ぎになると食堂から魚を焼く匂いが流れてくる。

 

紫乃はその町が妙に気に入った。

八尋も同じだった。

 

「住めそう」

 

海辺のベンチで缶ジュースを飲みながら、八尋が言う。

 

「いきなりだね」

 

「でも、ちょっと分からない?」

 

「分かる」

 

潮風が髪を揺らす。

空は薄く霞み、水平線が白んでいる。港の向こうでは、古い漁船のロープがきしんでいた。

 

紫乃はぼんやりと海を見つめる。

その横顔を、八尋が見ていた。

 

「どうしたの」

 

「ううん」

 

彼女は笑う。

 

「ただ、こういう景色をずっと前から知ってる気がしただけ」

 

八尋はそれに頷き、何も言わず彼女の肩を抱いた。

 

どこか懐かしい景色。

どこか懐かしい人。

思い出せないのに、確かにここへ来るまでの長い道があった気がする。

 

でも、思い出さなくていいのだと紫乃は思った。

 

今こうして、ちゃんと隣にいる。

それが、もう何よりの答えだった。

 

帰り道、夕暮れの堤防をゆっくり歩いた。

空は淡い紫から群青へ移り、遠くの漁火がひとつずつ灯り始める。

 

八尋がふいに立ち止まって、海のほうを見たまま言った。

 

「来世でも、会えると思いますか」

 

紫乃は少し驚いてから、笑った。

 

「どうしたの急に」

 

「なんとなく」

 

「そういうの好きだよね」

 

「紫乃さんもでしょう」

 

たしかに、そうだった。

 

彼女は海風の中で目を細めた。

前世なんて思い出せない。来世があるのかも分からない。それでも、どうしてか、その問いは自然だった。

 

「会えると思う」

 

「根拠は」

 

「ない」

 

「僕もないです」

 

ふたりで笑う。

 

紫乃は彼の手を取った。

八尋も握り返す。

 

「でも」

 

彼女は言った。

 

「次は、もっと早く見つけてね」

 

八尋はほんの少し目を見開いて、それから、ひどくやさしい顔で笑った。

 

「うん」

 

そうして彼は、昔からずっとそうしたかったみたいに、彼女の手をしっかり握った。

 

潮の匂い。

風の音。

紫にほどける夕暮れ。

並んで歩くふたりの影。

 

忘れたままでいい過去がある。

思い出さないまま届く想いもある。

愛は、必ずしも記憶の上にだけ成り立つわけじゃない。

 

何回、何十回と生まれ変わっても、理由もなく懐かしい人がいる。

そばにいると、帰ってきたような気がする人がいる。

 

紫乃にとって八尋がそうだった。

八尋にとって紫乃がそうだった。

 

だからもう、振り返らなくてよかった。

 

ふたりは今世で、ちゃんと出会えたのだから。

 

 

海辺の町に着いた二日目の夕方、ふたりは宿を出て、防波堤の先まで歩いた。

 

昼間は観光客がちらほらいた港も、夕方になると急に静かになる。遠くで漁船のエンジンが低く響いて、潮の匂いが少し濃くなる。空はまだ明るいのに、西の端から群青がゆっくり滲み出していた。

 

紫乃は手すりに軽く手を置いて、海を見た。

細い風が頬を撫で、髪をさらっていく。

 

八尋は少し後ろで立ち止まり、そんな彼女を眺めていた。

 

「どうしました」

 

紫乃が振り返ると、八尋は少しだけ困ったように笑った。

 

「いや」

 

「また、なんか考えてたでしょ」

 

「分かります?」

 

「分かりますよ、その顔」

 

八尋は彼女の隣まで来て、同じように海を見る。

波は穏やかで、堤防の先にぶつかって小さく砕けていた。

 

しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

その沈黙が気まずくないのは、もうずっと前から知っている。

黙って隣に立っているだけで落ち着く人なんて、この先の人生でもそう多くはないだろうと、紫乃は思っていた。

 

「ねえ」

 

先に口を開いたのは紫乃だった。

 

「うん」

 

「変なこと言っていい?」

 

「紫乃さんの変なこと、だいたい好きです」

 

「なにそれ」

 

笑ってから、彼女はまた海のほうを向いた。

言うかどうか少し迷って、でも、言わないとこのままずっと胸に引っかかったままになる気がした。

 

「たまにね」

 

「うん」

 

「あなたが、どこかに行ってしまう気がするの」

 

八尋は黙った。

 

紫乃は続ける。

 

「今、何かあるとかじゃないよ。そういうことじゃなくて……なんていうか、もっと昔から、ずっと。私は呼んでるのに、あなたは前だけ向いて歩いていって、たぶん振り返らないんだろうなって、そういう変な寂しさがある」

 

自分で言っていておかしいと思う。

何の根拠もない。記憶もない。夢で見たわけでもない。なのに、その感覚だけが胸の奥に残っている。

 

八尋はすぐには答えなかった。

ただ、海風の中で目を細め、少し遠くを見るような顔をした。

 

「……それ、僕も少しある」

 

「え?」

 

「逆のほう」

 

紫乃が彼を見る。

八尋は笑わなかった。

 

「僕はたまに、誰かに振り返っちゃいけないって言われてる気がする」

 

その言葉に、紫乃の胸がどくりと鳴った。

 

冗談ではないと分かった。

この人も、自分と同じように、理由のない懐かしさや痛みを抱えている。

 

八尋は静かな声で続けた。

 

「別に、思い出があるわけじゃないんです。夢を見たこともないし、昔のことが分かるわけでもない。でも、ふとした瞬間に、振り返ったらだめだって思うことがある」

 

「なんで……?」

 

「分からない」

 

彼は苦く笑う。

 

「たぶん、振り返ったら戻れなくなるような気がしてたのかもしれないし、振り返った先に大事な人がいたら、余計に離れられなくなる気がしてたのかもしれない」

 

紫乃は息をのみ、彼の横顔を見つめた。

 

夕暮れの光の中で、その表情はひどくやさしく、ひどく寂しかった。

 

八尋は言った。

 

「だからかな。僕、昔から、好きな人ほどちゃんと見ないようにする癖があった」

 

「それ、最悪だよ」

 

思わず言うと、八尋は少し笑った。

「ですよね」

 

「見てほしい側からしたら、すごくいや」

 

「うん」

 

「ちゃんと呼んでるのに、聞こえないふりされたら悲しい」

 

その言葉を言った瞬間、紫乃は自分でも少し驚いた。

まるで、本当にそういう経験があったみたいな口ぶりだったからだ。

 

八尋も同じように、わずかに目を見開く。

 

風が吹いた。

髪が揺れ、波の音が少し強くなる。

 

「……紫乃さん」

 

「なに」

 

「それでも、呼んでくれますか」

 

紫乃はすぐには答えなかった。

少しだけ視線を落として、自分の指先を見た。海風で冷えて、わずかに白くなっている。

 

どうしてだろう。

その問いが、とても大切なものに思えた。

 

「呼ぶよ」

 

やがて彼女は言った。

 

「たぶん、何回でも」

 

八尋は何も言わなかった。

けれど、その喉がかすかに動くのが見えた。

 

紫乃は続ける。

 

「だから」

 

「うん」

 

「今世でも、来世でも、ちゃんと振り返って」

 

その瞬間、八尋の表情が止まった。

 

彼はまるで、ずっと遠くから届いた言葉をいきなり耳元で聞かされたみたいな顔をした。

知らないはずなのに、初めてのはずなのに、その一言が胸のいちばん深いところに落ちていくのが分かるようだった。

 

「……それ、ずるいです」

 

「なんで」

 

「そんなふうに言われたら」

 

彼は少しだけ俯いて、笑うような、泣きそうな顔をした。

 

「もう振り返るしかない」

 

紫乃の胸がきゅっと締まる。

 

本当は、ずっと怖かったのだ。

理由もなく、自分だけが待つ側のような気がして。呼ぶ側のような気がして。手を伸ばしても、相手はきっと苦しそうに笑って背中を向けるのだろうと思っていた。

 

でも今、彼はここにいる。

逃げずに、目を逸らさずに、ちゃんと自分のほうを見てくれている。

 

「八尋さん」

 

「はい」

 

「私ね、たぶんあなたに、ずっと振り返ってほしかったんだと思う」

 

声が少し震えた。

八尋は彼女を見つめたまま、静かに頷く。

 

「僕はたぶん」

 

彼はゆっくりと言葉を選んだ。

 

「ずっと、振り返らないことで誰かを守った気になってた」

 

紫乃は黙って聞く。

 

「でも、たぶん違ったんですね。振り返らないのは、守ることじゃなかった」

 

「うん」

 

「ただ、置いていくだけだった」

 

その一言が、潮風よりも深く胸に沁みた。

 

紫乃はそっと彼の手に触れた。

八尋も、今度はためらわず握り返す。

 

「じゃあ約束して」

 

「何を」

 

「次も」

 

八尋は少し首を傾げる。

 

「次があるなら」

 

紫乃は笑った。けれど目の奥は熱かった。

 

「私が呼んだら、ちゃんと振り返って」

 

八尋は彼女の手を強く握った。

その力は、どこか誓いに似ていた。

 

「……うん」

 

彼の声は低く、けれどはっきりしていた。

 

「来世でも、きっと振り返る」

 

その瞬間、紫乃の胸の奥にあった、名前のない寂しさが、ほんの少しだけほどけた気がした。

 

何を失ってきたのかは分からない。

何を乗り越えてここまで来たのかも思い出せない。

それでも、この約束だけはきっと本物だと思えた。

 

日はもう沈みかけていた。

空は紫から藍へ変わり、海の上に細い月が浮かんでいる。

 

紫乃は彼の肩に頭を預けた。

八尋は何も言わず、その体温を受け止めた。

 

「ねえ」

 

「うん」

 

「もう背中見送るだけで終わらないよね」

 

「終わらせません」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

「じゃあ、もし次があっても」

 

「うん」

 

「私、またちゃんと見つけるから」

 

八尋は少し笑った。

 

「見つけられますか」

 

「見つける。だって、たぶんすぐ分かるもん」

 

「どうして」

 

紫乃は少しだけ考えて、それから答えた。

 

「理由はないけど、懐かしいから」

 

八尋は目を細めた。

その笑い方は、初めて会った雨の日の古書店と同じだった。

 

「じゃあ僕も、今度はちゃんと振り返ります」

 

「うん」

 

「呼ばれる前でも」

 

紫乃は吹き出した。

「それはそれでちょっと怖い」

 

「ひどい」

 

ふたりで笑う。

波の音が、その笑い声を静かに運んでいく。

 

昔のことは分からない。

来世のことも分からない。

でも、もしまたどこかで出会うなら。

 

振り返らないで、と言い残して去るような恋ではなく。

振り返って、と願うだけの恋でもなく。

 

今度こそ、呼ばれたその瞬間に、ちゃんと振り返る恋であってほしい。

 

紫乃はそう願いながら、彼の手を握った。

八尋もまた、同じ願いを胸に抱いている気がした。

 

夜の海は深く静かで、月の光が淡く揺れていた。

その光の下で、ふたりはしばらく黙ったまま立っていた。

 

もう、振り返らないで終わるためではなく。

何度でも、互いを見つけ直すために。

 




4章のEDはいつ見ても泣きそうになりますよね。

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