立ち去ろうとしながら、魔法の草の汁を彼女にふりかけた。
たちまちに、不吉な毒薬に触れた髪の毛が、脱け落ちた。
それとともに、鼻も、両耳も落ちる。そして、頭がたいそう小さくなる。
からだ全体も、ちっぽけなものとなった。
脇腹に、やせこけた指がついていて、脚の代りをする。
あとは、腹ばかりだが、今もその腹から糸を吐いて、むかしどおり機織りに励んでいる。
彼女は蜘蛛になったのだ。
遊びの中でも、かくれんぼが好きだった。いつも最後まで見つからずに、隠れ続けていた。
そろそろ帰る時間になった頃、いきなり「わっ」と鬼を驚かせてやるのだ。
驚かせるはずの鬼が逆に驚かされる様子を見るのが一等好きだった。
「おーい」「どこにいるんだよ〜」
捜す声が聞こえる。知っている人の声ではなかった。軽薄そうな声だった。
父と母、そして自分。いつも三人で寝ていた。寝る前に、家の何処かに身を隠した。
我が家は中々豪邸で、隠れる場所を見つけるのも容易いことだった。
子供らしく悪戯盛りだったのだ。友人のみならず、親にまでこのような行いをしていた。
この日も、そうしていた。
「おっかしぃな〜。もう一人居るはずなんだけど」
いつものように自分を探していた両親は、赤黒い塊になっていた。その様子をずっと見ていた。
どうやら確り下調べをしていたようで、犯人は隠れている獲物が居ることを知っていた。
しかしどうにも、なんというか、残念な手際だった。
「逃げちゃったかな。面倒なことにならなきゃいいんだけど」
父母を解体した手腕はあれほど滑らかで、迷いがなく、正確なものだったというのに。
「あれ───」
真正面から堂々と包丁を突き刺した自分のことは、死ぬその時すら感知出来なかったらしい。
かたん。トン。規則正しい音が聞こえる。
一定の間隔で聞こえるこの音色を、自分はかくれんぼのように気に入った。
音に合わせて夜を歩くと素晴らしい。なんとも、言葉に表せない悦楽が自分を貫いた。
一歩、二歩、大きめの三歩。身体を無駄に揺らしながら歩くのも良い。
少しばかりの夜風も相まって、吹けば飛ぶような気がした。ある種の全能感をたっぷり味わった。
少年特有の頭の足りなさも後押しして、独り好き勝手暴れ歩いた。
暴れ歩くとはいえ、周りに迷惑をかける度胸もなく、そんな発想もなかった。なにせ、独り暴れ歩くことに喜びを見出したのだ。
“歩くという静けさを暴れる”という矛盾(しかも独りきりだ!)にこそ、その幸せの源泉があるように感じた。
我ながらなんともまぁ珍妙な趣味を持ったものだ。ともすれば、今夜起こった残忍な不幸の反動なのかもしれない。
小学校を通り越して、見知らぬ夜道に自らを投じた。目の前を塞ぐ闇に恐れることなく、また音色に沿って暴れ歩いた。
ここらで「はて?」と気が付いた。「頭蓋に響くこの音色、何が元か」
家からここまで歩いて来たが、その間もずうっと響いていた。同じ音量であった。
しかしどうにも、後ろを着かれている様子もない。所謂幻聴というやつだろうか。
餓鬼というのは単純で、非日常を嗅ぎ取ると興奮状態になっていた。今までも非日常ではあったが、音色は更に随一の非日常を感じさせた。
出所を探るため、家へ帰ることにした。今度は暴れ歩かず、穏やか走りだった。
穏やか走り。思い出したように、漸く出逢えたように思えた。
無音ながら風の如き速度で家まで走った。向かい風だったが、しかし自分の方が上だと譲らなかった。
そんな時にもあの音色は脳髄で輝き続け、来た道を引き返すだけだった旅を彩った。
「あっ」という間に家に着いた。そう感じた。
数え切れないほど繰り返して来た動作を、扉に向かって行使した。普通に言えば、扉を開けた。
いつも通り靴を脱ぎ、手を洗い、そして両親にただいまを言おうとして。
「あっ」残念ながら、いつも通りにただいまを言うことは出来なかった。両親はいつも通りではなかったからだ。
赤黒く冷たいモノが3つばかり転がっていた。
この時ばかりは、非日常を楽しんでいた自分も心に悲しみを持った。
しかし悲しむだけでは終わらなかった。なにせ、「おかえりなさい」という声が出てきたのだ。
「ただいま」取り敢えず挨拶をした。挨拶はちゃんとしろと、死んだ両親に教わったからだ。
電気を消してはいたが、自分の目には相手がハッキリ見えた。結構な美人さんだった。
冬木にはあまり珍しくない外国人だったが、今まで見た中でもピカイチの姉ちゃんだった。
そんな美人の姉ちゃんは、なにやら不思議な機械を弄っていた。
軽やかな手が糸のようなものに触れたかと思えば、奇怪な装置で見事な布に変化していく。
知識も経験もない自分にはそれくらいしか理解出来なかった。
しかし、それが尋常ならざる業によるものということは分かった。
成程、美人には美しい技術が宿るのだろう。
『鶴の恩返し』の鶴も、彼女のように美しかったのだろうか。
しかし残念な、そして愚かしい事に。
そんな彼女の容姿、そして業を褒め称える語彙を自分は持ち合わせていなかった。
「………
父が時折口にした言葉を使ってみたが、合っていなかったかもしれない。そも、意味も知らない。肺が空っぽなのだろうか?
今の父は空っぽどころかバラバラだが。
どうにも立ち行かなくなって来たので、大人しく自己紹介をすることにした。
「相馬小次郎です。7才になります」「良い子ね。私は………“キャスター”。そう呼んで」
そこからは怒涛の展開、驚きの連続だった。
魔術の存在、聖杯戦争という儀式、サーヴァントなる幽霊、マスターになることの意味。
因みに我が家で起こった事件は全くもって無関係だったらしい。これが一番の驚きであった。
キャスターは前線で戦うようなことをせず、陣地で構えているのが定石だと語った。
彼女は巣を張る蜘蛛のような印象を受けるので、やはりそれが正しい戦い方なのだろう。
しかしキャスターは魔術が使えないらしい。
宝具なる神秘を持ち合わせては居るが、魔術師と言えるような存在ではないのだと言う。
申し訳無さそうに語った彼女だが、自分はあの高揚感がぶり返して来た。
争いに関係ない、言って仕舞えば無駄な技術。
しかし、それこそが自分に深く刺さった。
「がんばりましょう、キャスターさん」
彼女は少し不安そうに微笑んだ。
「しかし、困った」明日も明後日も地球は回るし学校はある。
というか、この死体はどうしよう。警察に通報すれば一発で捕まってしまうかも。
「捕まりはしないわ」今更焦り出した自分を諌めるようにキャスターは言った。
せーとーぼーえー。そんなものがあるのか。
とはいえ、この家から離れなければならない。学校にも行けないだろう。
なかなか楽しくなりそうだ。
「行こう」「行こうって、何処に?」「どこかに」あてもなくただ歩くというのも現状を打開するために必要な手順なのだ、と自分は言ってみた。
これは少しばかり建前で、自分には目的があった。彼女の業をもっと感じたいのだ。
布を作るという作業の、その音色だけで自分を魅了してみせた彼女。
その業をまだまだ愉しみたい。何者にも邪魔されたくない。
彼女が十全に業を発揮出来る場所を探すために、自分はまた歩き始めた。
結局、自分達は下水道に辿り着いた。ジメジメして閉塞した場所故に人目につかない。
張り詰めた無音が響く。ここもまた不思議な事に、鳴らずの音が鳴っていた。
「あっ」と声を出してみる。「あっ」「あっ」「あっ」声は反響し、数が増えた。
ニヤリ。やはり自分の勘は正しい道を示した。
音がある無音という矛盾。一つの声が増えるという異常。
自分の大好物がこの場所に溢れている。この好地で彼女の業を浴びる事を夢想しただけで、羽が生えて飛ぶような思いだった。
しかし。実際彼女に頼んで機織りをしてもらったところ、自分は「違う」と思った。
彼女の業は確かだった。自分はそれが好物だった。この場所の発する矛盾も、やはり好物だった。
だが合わない。それぞれの素晴らしさが打ち消しあっている。
機織りの美音は無音の矛盾を断ち切り、音が増える異常は美音の鮮明さを掻き消した。
「ラーメンとプリンだったのだ」自分はたいそう偉大な批評家にでもなったつもりで真剣に考えた。
自分はラーメンもプリンも好物だが、だからと言って二つを混ぜることはしない。
しかし自分は、どうしても、場所と業の二つを同時に平らげたかった。
「困ったなぁ」考えてもわからない。「どう思う?」分からないので、聞いてみた。
「我儘言わないの」おお、我儘と彼女は切り捨てた。
妥当である。当然である。彼女の業を浴びる幸運は世界広しといえど自分しかいない。
今後の人生にこれを超える幸運は無いだろうことを今更ながら自覚した。
「でもぉ」我儘の一つも言いたくなる。折角の至上の技、より良い舞台で味わいたいのが性だろう。
「でもじゃありません」機織りを止めず再び切り捨てられた。少しの怒りも感じられた。
「私の業というのは神々さえも感嘆し、機織りの女神すら敗北を感じるほど素晴らしいのです」
そこには傲慢さとも取れる
「ただでさえこの場所は湿気が多過ぎる。機織りの最適な環境ではありません」
執念があった。人生をこのためだけに捧げた自負が彼女を支えていた。
「私の機織りを真に愛しているならば。他の要素にうつつを抜かさないようにしなさい」
誠実さを求める声だった。理解を求める声だった。
「ごめん」彼女は自身の機織りを愛していた。唯一絶対の存在だと信仰している。
他の要素でそれを装飾しようとした自分の行いが彼女を傷つけたことに今更ながら気づいた。
「分かればよろしい」彼女は無言になった。機織りは動き続けている。
かたん。トン。規則正しい音が聞こえる。
一定の間隔で聞こえるこの音色を、やはり自分はかくれんぼのように気に入った。