ビジター 異邦の天秤 作:あー
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暗闇の中、そっと木箱の蓋をあけると、甘酸っぱい腐臭が鼻を刺した。
商店街の路地裏――。
売り物にならなくなった林檎が木箱に詰められ、捨てられていた。
夜明け間には回収されるだろう。
それまでが私にとっての猶予だった。
耳を澄ます。
人の気配は――ない。
箱いっぱいの林檎の中から、まだ固いものを一つ拾いあげる。
今日は良い品が多い。だが欲張ってはいけない。籠が重くなれば足が鈍る。
ふいに背筋が強張り、全身に悪寒が走った。
反射的に振り返る――。
誰もいない。
呼吸を止めて耳を澄ませる。
脈打つ心臓。
全身の肌が裏返り、両脚に力がこもる。
――何も起きない。
逃げ出すべきか。
冷たい夜風が頬にあたる。
雲が流れ、月明りが私を照らし、石畳に影をのばした。
乱雑に切られた髪。麻でできた質素な衣服。
見るからに貧しそうな姿だが薄汚れているつもりはない。そう思うことにしていた。
私は一瞬の不安に目をつむり、静かにその場を離れた。
この町に外壁や門はない。
穏やかな世情なのか、治安は良い。兵士や自警団の存在がそれを支えているのだろう。以前、街中で野宿を試みたら追い出されてしまった。良くも悪くもこの町の秩序は保たれている。
馬車道から外れて、細道に入る。所々で茂った木々が月光を遮るが、ここは私が歩き、草を踏み、枝を払って拓いた道だ。迷うことはない。
時折、鳥獣たちの不気味鳴き声が聞こえてくる。怯えて足をとめても良いことなどなにもないのだから。
かくして、一軒の山小屋にたどり着いた。
四方と天井を木の板で囲っただけの掘っ立て小屋だ。それでも、私にとっては十分なので勝手に住み着いている。
籠を置き、天窓から射し込む月光を頼りに、仰向けになる。起きていても孤独に蝕まれるだけだ。
明日を生きるためには、眠るしかない。
「おやすみ」
夜空は何も答えない。
◇
肌寒い隙間風が体をなでる。
「おはよう」
濁った声。重い頭。目の下に隈ができているかも知れない。
藁の温もりを惜しみつつ、寝床から這い出す。
辺りは薄暗いがそれは夜明けの前兆だ。一日の活動時間は限られる。二度寝するわけにはいかない。
昨夜収穫した果物をカゴから出して積み上げる。それを一つ一つ手に取り、痛んだ部分をナイフで削ぎおとして、食べられる部分だけを葉につつんだ。大した量ではないが今日を生きるためには必要なことだ。
一仕事を終えて、水場へと向かう。岩場の合間からシダや
冷たい川底から仕掛けを引き上げるが、今日も成果はない。
桶いっぱいに水をすくっていま来た道を戻る。
やはり、不気味な世界だ。
まるで違和感のない風景や動植物。当然のように人間がいて中世ヨーロッパのような街に住んでいる。太陽と月があり、およそ二十四時間であろう一日を繰り返す。それなのに、この世界の住人は聞いたことのない言葉を話し、夜空に見知った星座はひとつもない。北斗七星もオリオン座も存在しなかった。
◇
「……ただいま」
返事はない。
あるはずもない。
汲んできた水を降ろし、取って返すように町へと向かった。
ゴミ漁りではない。
勉強だ。
商店街は賑わっていた。食料、衣服、陶器等、様々な品を扱う露天商たちが広場や街路に集まり市場を形成している。香ばしく焼けた串焼きを手に走る子供。酒を片手にわめく老人、楽しげに言葉を交わす若者たち。私がそこに溶け込むことはない。
物陰に身をひそめ、商人たちの会話に聞き耳を立てた。
「グウェリアとセレインが近々ウェルアをするらしい」「本当か?」「ああ、間違いない。グウェリアの知人が言うにはメルスが複数の商人からソルを買い上げたって話だ」
知らない単語が混じる。
だが、文脈は読める。
国と国。
戦争。
資源。
私は黙って覚える。聞き返す勇気はない。よそ者が口を挟めば、どうなるかを知っていた。
半年だ。
この世界に来てから、半年が経つ。
未知の言語、その全容がようやく見え始めていた。
やはり、酷似している――。
……本当にここは異世界なのだろうか。
文明水準は低いかもしれないが、それがなんの根拠になるというのか。どこかの片田舎を彷徨っているだけなのではないか。あるいは周りの人間は演者で、町ひとつそのものが舞台なのでは? 荒唐無稽な話だが、異世界の存在に比べればよほど現実的ではないか。でなければ、すべてが私の—―……。
私の奥底から何かがこみあげる
世界がおかしいのではない。
「ここは……――」
やるせない苛立ち。
不安が喉を震わせる。
私一人がイカれているだけなのではないか――。
「ここはどこなんだ――」
涙が堰《せき》を切ったように溢れ出す。
嗚咽。
慟哭。
この心情を表す言葉は、私の知るどの言語にもない。
すれ違う人々が怪訝そうにこちらを見る。
私は慌てて顔をふせ、路地裏に逃げ込んだ。
壁に背をあずけ呼吸を整える。
動悸が収まらない。
空を見上げる。
「帰りたい」
誰も慰めてはくれない。