ビジター 異邦の天秤 作:あー
「いかがでしょう」
「いらないわ」
「さようで」
女は肩を落として踵を返した。ハミルが憐憫の眼差しをこちらに向ける。
冗談じゃない。
「待ってくれ!」
檻が揺れる。
格子を握ったまま懇願した。
「私は天界から来た」
「……はぁ?」
女が立ち止まる。
「天の知識を授けることができる」
「狂人ね……いいわ、なにか一つ披露してみなさい」
「紙をください」
女がハミルへ顔を向ける。
ハミルが懐から紙とペンをとりだして私に寄越す。
知識を紙に記すと思っていたのだろう。
いぶかしむ視線の中、私はただ黙々と紙を折っていく。
しかし――。
「……なにをしてるのかしら」
与えられたのは羊皮紙だった。
分厚く弾力のあるそれは、うまく形にならない。
「もっと薄い紙だ。硬くて折り目がつけられる紙を」
女がハミルに顔を向け、彼は首を振った。
「何をしようとしているのかいいなさい」
「空を飛ぶ乗り物をつくる。ただの紙が風に乗って飛んでいく様子を見せてやれる」
ハミルが憐憫の眼差しを向ける。
「馬鹿ね。丸めて投げた方が遠くへ飛ぶわよ」
「――は?」
「ひらひら浮くだけなら木の葉にもできるじゃない。お猿さん並みの知性だわ」
絶句する。
「紙の矢を使った的当てですな。一部の貴族の子供たちの間で流行ったそうです」
「なるほど、贅沢な遊びね。異国の貴族かしら」
「行儀作法はそれほどとは思えません」
「貴族と交流のあった商人?」
「騙されやすく、交渉力も皆無です」
「つまり――」
「ただの無能です」
「あなたのとこの売り物よね」
「価値が曖昧でしたので生かしておきましたが、その必要もなさそうですね」
「……あらあら」
二人が私を全く見なくなった。
殺されるのか。
こんなにあっさり。
暴力と悪辣さで生きているだけのクズ共が、私の価値を論ずるのか?
――ふざけるなよ。
「インドヨーロッパ語族――ミランダル語はこれに属している」
静寂。
「私が主に知るのはゲルマン語派だが、君たちの言葉はこれに似ている。おそらく祖語が同じなのだろう。言語はたとえそのルーツが同じでも時代や環境の変化によって変容してくものだ。しかし、その中でも変わらないものがある。それは”母”と”水”だ。人間は必ず母から生まれ、水なしでは生きていけない。この原理は不変であり、言葉に変容する暇を与えない。ミランダル語が我々の世界と共通の祖語から派生していることは間違いないだろう。もし大規模の異世界転移が可能であるのなら、ヒッタイトやトカラの起源はこの世界にあるのかもしれない――いや、むしろこの世界こそが私の知る世界から生じた可能性すらある」
事実ではない。
この半年に自問自答をした結果だ。ただ、自分が知っていることをこじつけて繋ぎ合わせただけの妄言にすぎない。
「面白いな」女から、おちゃらけた口調が消えた。「ヒッタイト、トカラとはなんだ」
「古代――私の世界に突如として出現し消滅した民族だ。金属の高度な錬成技術を持ち、諸国を蹂躙した」
「今話したことを貴様の知る言語で話せ」
ネイティブではないそれを、できるだけ流暢に聞こえるように話す。
「二つの言語の相違点を答えろ」
女の声が一段と低くなった。
「ミランダル語は主語の人称や数、時制、話法によって動詞が変化している。端的に言って文法が複雑だ」
「破綻はない」断言――つまり、彼女の知性は私を採点できる立場にあるに違いなかった。「しかし、私は言語学者を買いに来たわけではないし、天使や異世界にもさほど興味はない」
「なにが望みだ」
「暗殺者だ。暴力でも計略でも手段はどうでもいい。お前は人を殺せるのか」
最悪だ。
こんな女を出し抜けるわけはないし、そんな道に進んで生き残れるわけもない。
ハミルに自分の有用性は示せたはずだ。ここは破談にして次の客を待つしかない。
「できません」
「ハミル? かしこぶってるこれと、顔のいいそれ。買うわ」
黒いベールの下で女が嗤っていた。
「話を聞けよ」
◇
女がハミルに硬貨を渡す。
「朱貨四枚に金貨一枚、確かに」
扉が開く。
それは解放を意味しない。新たな束縛の始まりだった。
私はエルアドのときのことを思い出す。膝をついて契約の誓いを立てていたはずだ。
私も同じように膝をつく。
「契約はどのように」
「お金ならいま払ったじゃない。さっさとでなさい」
どうやらエルアドは特別だったらしい。
檻から出るが特に感慨はない。
シルガも後に続く。
そして――。
「死者は捨て置き、生者は連れいく――始めなさい」