ビジター 異邦の天秤 作:あー
”空想の果実を描くな”
エルアドが林檎泥棒を諭していた。
おせっかいなトカゲさん。
けれど、彼の言葉は素晴らしい。
正しさとか、タメになるとか、そんなことはわからない。
ただ、耳を傾けると希望が湧いてくる。
生きるとはつまり、生き方を選ぶことなんだ。
そして、その選択肢は自分で作らないといけない。与えられたものを選択しても、それは何も選んでいないのと同じ。
膝を抱えるだけじゃだめなんだ――。
”おはよう”
”おはよう”
林檎泥棒に挨拶を返す。
”名前は?”
”シルガ”
”私は――”
なんという名前だったかな、この人。
◇
「シルガ――?」
男の背中に柔らかな感触が伝わり、女の匂いが鼻孔をくすぐった。
女の脚は男の胴体を挟み込み、腕が男の首に絡みつく。
男は必死になって指を食い込ませるが、固く絞まったそれはびくともしない。
大きな音を立てて檻が揺れた。
背中を激しく打った女が悶える。
二度三度と檻が揺れ、ようやく女は腕を解いた。
膝を折り、むせる男のあばらに容赦なく蹴りを入れる。もう一度足をあげた時、男が女を突き飛ばした。女が転がり、男が馬乗りになる。
「やめるんだ! シルガ!」
喚きながら両腕を抑え込もうとする男の顔を女はひっかいた。
男は怯まずに両腕を掴んだ。
女が腕を引き寄せ、男の腰が浮く。すかさず女の膝が滑り込み、無防備なそれに直撃した。
悶絶。
女は立ち上がりざま男の顔を狙って踏みつける。男は転がるように避け、檻がまた揺れる。
地面には脱ぎ捨てられた衣服。
男はそれを突進してくる女に投げつけた。咄嗟に払いのけ女の視界が晴れると喉元には男の手。
壁に押し付けられ、つま先が宙を浮く。
爪を立て、男の手首から血が流れる。やがて女はぐったりと動かなくなった。
うめき声すら聞こえない。男はまだ首を絞めている。
女の筋肉が弛緩し、床が濡れる。
男はようやく手を離すと、それは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
裸の男は息を荒げながらも黒いベールの女を睨みつける。しかし、勢い任せに飛びかかって勝てる相手ではない。
今すべきことは――服従。
殺意の波が引き、男は床に落ちた衣服を拾い上げようと前かがみになった。そのとき、ぼんやりと落ちる自分の影が別れ、腕が伸びた。
振り返る。
シルガ――ふりあげられた手には固く握られた万年筆――金属製の先端が鈍く光った。
◇
男の首から鮮血が吹く。
無価値な男が死に、無価値な女が生き延びた。
見慣れた光景。罪悪もなければ感慨もない。
それなのに――。
「シルガ――?」
女の脚は男の胴体を挟み込み、腕は男の首に絡みつく。
男は女の腕に指を食い込ませる。
大きな音を立てて檻が揺れた。
背中を激しく打った女が悶える。
二度三度と叩きつけられ、女が腕を解いた。
膝を折り、むせる男のあばらに蹴りを入れる。もう一度足をあげた時、男が女を突き飛ばす。女は転がり、男は馬乗りになる。
「やめるんだ! シルガ!」
――目を見開くと、どういうわけか二人の奴隷が争っていた。いや、自分がそう仕向けたのだが。
喚きながら両腕を抑え込もうとする男の顔を女がひっかく。
男は怯まずに両腕を掴んだ。
女が腕を引き寄せ、男の腰が浮く。すかさず女の膝が滑り込み、無防備なそれに直撃。
悶絶。
――白昼夢ではない。
女は立ち上がりざま男の顔を狙って踏みつける。男は転がるように避け、檻がまた揺れる。
地面には脱ぎ捨てられた衣服。
男はそれを突進してくる女に投げつけた。咄嗟に払いのけ女の視界が晴れると喉元には男の手。
偶然か、男の指は頸動脈をとらえ、女は全く間に気絶した。
女の首が絞まっていく。
うめき声すら聞こえない。
ぐったりとした女を見て、ようやく男は手を離した。糸の切れた人形のように崩れ落ちる女。
男は檻の中に戻り、それを拾い上げた。
倒れた女のこめかみに当てられた金属製の先端が淡く光った。
男はすべての力をそれに叩き込むべく腕をふりあげ――。
「そこまで」
主人の声に男の動きが止まった。
◇
ハミルと黒いベールの女が何かを話している。
楽しくはなさそうだ。互いに向き合いもせず、ただ横並びになっていた。
女がハミルに硬貨を渡した。
二人がこちらへ歩いてくる。
「ハミル、ランタンを彼に」
「はい」
意図がよくわからないが、私はハミルからランタンを受け取り、辺りを照らせるように胸の高さで掲げた。ハミルが燭台の灯を消しにいく。すぐに光源は私のもつランタンだけになるだろう。そして、これが消えれば地下空間は暗闇に覆われる。
――逃げられるのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。ランタンを捨て、女を突き飛ばし全力で走れば逃げ出せるのかもしれない。
女を見る。細い体つきだ。病的ではないにせよ鍛えているようにはあまり見えない。しかし、いまの私は体力的に大きな不安がある。はたして、あの長く暗い階段を駆け上がれるのだろか。
燭台の灯が消える。ハミルはシルガを背負っている。女は私の近くにいるがそっぽを向いている。やるなら今しかない――。
「手が震えているわよ」
女の声にはっとする。そして、私は動揺のあまりランタンを手から滑り落としてしまった。
しかし、暗闇が訪れることはなかった。そっぽを向いていた女がこちらを見もせずに落下しつつあるランタンの柄を握ったからだ。彼女が持つランタンの位置は私の鳩尾の高さとほぼ同じ。つまり、それはほとんど落下していないのだ。いったいどんな反射神経をしているのか。私は途端に女が恐ろしくなった。恐ろしさは感じていたのだ。その言動からまともではないと。しかし、それは彼女の精神性に由来する話で物理的な恐怖ではなかった。その認識がいま変わった。
女の顔がこちらを向く。
「あなたは先頭を行きなさい。ハミルはその後ろ」
私はランタンを受け取り、指示に従うべく震える足で一歩を踏み出した。
階段を上る。広くはない道幅だ。一人が転倒すれば後続の者も巻き込まれるだろう。逃げようと思えば逃げられる状況――そう思わされているに違いなかった。私は先頭にいる。しかしそこに優位性を感じることはできなかった。プレッシャーを感じるのだ。私はいま背中を見せている。自らよりも圧倒的に強者である彼女に。猛獣に背後をとられているとしか思えなかった。彼女は獅子で私は衰弱した兎でしかなかったのだ。
階段をのぼりきる。私の息はすでに上がっていた。
扉を開けると男が立っていた。後ろがつかえるので前に進み部屋に入る。
「ご苦労」
ハミルが男を労う。それは酒場の店員だった。男は部屋の灯りを消して次の扉を開ける。万が一に備えて出入り口を見張っていたようだ。私が逃走をはかっていればどうなっていたのだろうか。あまり想像したくはなかった。
私たちは備蓄室を抜け酒場に入った。客はいない。そのまま無言で進み、店の入り口で足を止める。
ハミルが扉を開けて先に出る。私もすぐに外に出た。何日ぶりの地上だろうか。地下とは空気がまるで違っていた。
ハミルがシルガの体を私に預けてきた。
生きているのか?
「道中お気をつけて。それではまた」
そういってハミルは会釈する。
今後、彼に会うことはあるのだろうか。私はランタンを返すついでに問う。
「あなたはこことは異なる世界を知っているのか」
ハミルが答えることはなかった。
「少し歩くわよ」
微かな光の中、何者かわからない女が前を歩き、ぼろきれをまとった男が女を引きずっている。
空を見上げると満月が浮かんでいた。
「おひさしぶり」
◇
月下――。
ハミルは、黒いベールの女との会話を反芻する――。
「どう思う」
「……あなたが止めなければ確実に殺していたでしょう。どうやら一皮むけたようです」
「そうではない――ハミル、お前には見えたか?」
ハミルの目に、逡巡の色が浮かぶ。
「既視感――いえ、予見に近いものでしょうか」
「あぁ、予知だ。勝手に見せられた」
「確かに、その言葉の方がしっくりきます。空想のような朧げなものではなく経験――そう感じました」
「しかし」
「はい。結果は異なりました。占いなら的外れもよいところです」
「だが、当たりだ。おそらくアレは――」
「ビジター」
女はハミルに金貨を渡す。
「支払いは終えていますが」
「言ったではないか、跳ね上がると。天使とやらは」