魈視点→白視点で切り替わります!
✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
「彼女の意識が、花天の記憶と共鳴しているのだろう」
往生堂の空き部屋の寝台に横たわり、土気色の顔で苦しげに呻く白を見下ろして、鍾離様が低く静かな声で告げた。
「白!しっかりして!」
彼女に呼びかける旅人とパイモンの後ろでは、甘雨が心配そうに見ているのだろう。
膝をついて握った彼女の手に力はなく、体温を分けて与えようとしても氷のように冷たい。
「……白は、"飛べなくてもいい"と」
彼女の様子がおかしくなる前の最後の言葉を告げると、鍾離様は言葉を飲みこんだように、一拍黙したあと、重々しい声で言った。
「……それは、花天の最期の選択と同じだ」
「……」
「同時に自らの本質への反逆でもある。意識が共鳴し、身体が拒絶しても何らおかしくない」
鍾離様はそこで一度、言葉を切った。
「そして、この共鳴は封印にも影響があるはずだ」
思わず握りしめた手は握り返されない。思えば手を握るのは、いつだって彼女からだった。
「……白殿は、思い出しても、出せなくても、自分は自分だと言い切った。今は彼女を信じるほかないだろう」
その言葉に唇を噛み締めた。その時だった。
「……うぅ」
彼女の声が少し変わったように思えて顔を挙げた。脂汗に塗れた顔のなかで、白い睫毛が僅かに震えた。薄青の瞳がゆらゆらと揺れながら、緩慢に我らを順に見やる。白と名前を呼ぼうとした瞬間、
「……しょう?……かんう?……もらくす?」
空気が凍りついた。誰も動けず、何も言えない。呼吸の音だけがやけに大きい。薄青の視線が鍾離様で止まった。
「なんてかおしてるの……」
横たわったまま、微かに持ち上がった唇と吐息が笑みを形づくった。あの日の再演のような声音に、鍾離様の喉が鳴った。
「……花天?」
甘雨の震える声に困惑と微かな歓喜が混ざった。けれど、次の瞬間、薄青の瞳が苦悶に歪んだ。
「……ち、がう……わたし、は」
零れ落ちる涙を見て、反射的に叫んだ。
「白!!!」
ハッとしたように甘雨が息を呑んだ。
旅人とパイモンは必死に彼女を呼ぶ
「白!戻ってきて!」
「かて……じゃなくて、白!しっかりするんだ!」
鍾離様が小さく息を吸って吐いた。
「……花天は他者の人格を消して生きようなどという真似はしない。それはただの記憶だ」
そして、彼は一歩寝台の方に歩み寄った。
「彼女は自ら終わりを選んだ。彼女は過去だ。今ではない」
伸びた手が丁寧な手つきで、彼女の頬に張り付いた髪を優しく払う。
「今は貴殿だ。白殿」
穏やかでいながら、宣告にも似た声だった。
甘雨が涙を零しながら、白の傍らに崩れ落ちた。
「……白さん……ごめんなさいっ……」
薄青色は定まらない。ただその瞳から、流れる雫が敷き布に染みを作る。
「う、うぁ……わたしは……」
苦痛に喘ぐ彼女の手を握りしめる。今だけは、それが痛みであろうとも彼女をこの世に繋ぎ止めておけるなら何でも良かった。
「……白、お前は白だ」
呼べと言ったのはお前だろう。あれほど花天と重ねられることに傷ついていただろう。
「……戻ってこい、白」
いまだ微かに揺れる青空の瞳が我を捉えた。彼女の喉が震え、小さな声が搾り出された。
「わたしは、しろ」
色を失った小さな唇が、微笑みを浮かべる。指がほんのわずかに曲がり、手が握り返された。
「……ああ」
白は安堵したように吐息を零して、再び目を閉じた。
「……しろ?……白!」
応えない彼女に呼びかけていると、鍾離様に制止された。
「気を失っただけだ……今は寝かせてやるといい」
その言葉に、力が抜け、今更身体が震えた。
何が、唯一にしてしまえば失ったときに立てないだ。
目を背けても、言葉にせずとも、
⸺⸺とうの昔に、唯一だった。
✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
「……っ」
喉が、身体の節々が痛い。目を開けると、映る全てがぼんやりとしている。ピクリと動いた手を、誰かに握られているのがわかった。
「……しろ?」
魈さんの声が聞こえて、ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、目に映るものが次第にはっきりと輪郭を得ていく。
「……しょう、さん」
彼の唇から吐息が零れた。その奥では鍾離さんと甘雨さん、旅人さんとパイモンさんがこちらを見ている。
「目が覚めたか」
鍾離さんが落ち着いた声で言った。身体を起こそうとすると、制止される。
「今は、安静にするべきだ」
その言葉に甘えて、横たわったまま魈さんたちを見つめる。空気が重い。
「…ごめ……なさ……しんぱ、い……かけ……」
声は掠れてまともに紡げない。もどかしさに眉が寄ると、旅人さんによって水を含ませた布が口元に当てられたので、少し吸う。
「ありがとう、ございます」
少し出しやすくなった声にホッと息を吐く。すると、目を赤くした甘雨さんが近づいてきて寝台のそばにしゃがみこんだ。
「……ごめんなさい」
魈さんが握ってくれているのとは反対の手を包み込むように握られる。
「……あの方を、貴女に重ねてしまいました」
花天の名を出すことなく、泣くのを堪えるように唇を噛んだ彼女に、微笑む。花天の記憶の断片の中でも、彼女はこうして泣いていた。
「……なまえ、よんで」
「……白さん」
その音がひどく重く胸に落ちた。
つけられたときは羽のように軽く無垢な音だと思っていたのに。
「……だいじょうぶ、です」
光る台座の刻印。
粒子になっていく翼と身体。
こちらに向かって叫ぶ、魈さんの声。
花天の記憶は、否応なく心を揺らすけれど、
「わたしは、わたしだから」
甘雨さんが瞳を揺らして頷いた。鍾離さんの顔はどこか満足げというか、晴れやかだ。旅人さんとパイモンさんは胸をなでおろしている。そして、魈さんは、真っ直ぐにこちらを見た。
「……ああ、お前はお前だ」
嬉しくて、また笑みが浮かんだ。けれど、意識して表情を引き締める。一度目を閉じて、旅人さんたちと出会ったあの小島で起こった別れの光景を思い浮かべてから、石珀色に視線を向けた。
「……鍾離さん」
「どうした」
「花天は、封印の楔だったんですね」
手を握る二人の身体が強張った。旅人さんとパイモンさんは心配そうな目をしている。鍾離さんの表情は読めないが、一度噛みしめるように目を閉じた。
「……そうだ」
記憶を追体験しても、花天がなぜ笑えたのかはわからない。私だったら、きっと怖い。それでも、翼と記憶を失くして空っぽになった身体に芽生えた心が私なら、器が同じであるのなら。
「私も、ですか」
誰もが言葉を選ぼうとした一拍、その沈黙が、答えだった。